岬の食事処は肉が美味い
「いつもだけど……後悔するのはやっちまった後なんだよなぁ」
冬の北陸の寒さは僕の予想を簡単に超えてしまった。激しく吹き付ける風は、足元から体の芯を徐々に凍らせているようだ。曇天の下で海は荒々しくうねり、岩礁に波が打ち付けられる音が響いている。 そんな中で僕は、絶壁に立って地平線の彼方を見ている。
「スーツなんかで来るんじゃなかったなぁ」
激しい海風が鼓膜を通り抜け離れてくれない。ずっとだ。
「飛び込んだら、すぐに心臓が冷却爆発してしまうだろうな。 やったら後悔すんだろうなあ……あら? 温かいご飯が食べたい」
岬の方に数件の建造物が見える。そこに食事処があるなんて確証もないが、別になくたって良い。ご飯を食べたいのかも分からない。ここにいたくないだけだ。
ふと右胸のポケットに違和感を感じる。あれが動いたのだろうか。
「我慢しろよ。もうちょっとだから」
ザクッザクッザクッザクッ……霜柱を踏みつける音と言っても変わらない凍った砂の音。吹き荒む風の音、雲の切れ間から僅かな陽射し差し込む。まるで同情されてるみたいだな、という惨めな気持ちを抱えながら岬へと向かう
※ ※ ※
カウンター席が五席、二人がけのテーブル席が二席のみの薄暗い店内。 2人ぐらいで経営できそうな店だな。 厨房に立っている老婆が手慣れた手付きでフライパンを回し、湯気が立つ小鍋に鋭い視線を送っている。
「兄ちゃん、お茶は自分で作ってよ」
老婆は僕に目を合わせることなく入り口を指差す。出入り口の横にある自動給水器の脇に、お盆に乗せられた茶碗と茶筒がある。
わかったことが2つある。そして、言いたいことが1つ。
まずだ、風をしのげるだけで随分と違うということだ。
宛もなく訪れた岬の集落には食事処があった。そこの店主である老婆が、僕のご飯を拵えてくれている。彼女は暖簾を下ろそうとしているタイミングでたどり着いたのは僥倖そのものだったな。命の場所を自覚させるような非情な風は、小さな定食屋に遮られただけで収まった。時折隙間風が入り込んで「忘れるな」と言わんばかりに脅してくるけど。
ふたつ目は、中途半端に体を温めると余計に寒くなるってことだ。
建物はすごいと言っていたのに、数分後には隙間風が入ってきてやっぱり寒いと言い出す。人間とはわがままなもんだ。
最後に老婆に言いたいことを1つ。
お茶がセルフなら先に言ってくれ。寒くてしょうがないんだから。寡黙にも程があるだろ。
心の中で悪態をつきながら、温かいお茶を求めて席を立つ。茶筒の中には、粉末の抹茶。それを一さじ茶碗にとりわけて湯を注ぐ。茶碗に入ったお茶が、じんわり手のかじかみを解していく。熱いというか温かい。その場で一口飲んで、一息吐き出す。息が湯気と同じくらい白い。
席に戻って窓の外を眺める。行き交う人もおらず、対面にある造り酒屋のポスター広告は煤けている。 古い壁掛け時計が時を刻む音。 それに混じって汽笛が聞こえる。
「兄ちゃん、どこから来たの?」
料理を盛り付けながら老婆が尋ねてくる。僕は東京からと答えるだけにしておく。本当のことなんて言ってもしょうがないだろう。
「何しに来たの? こんなとこ何もないでしょうに」
「さぁ、何ででしょうね。 僕も分からないんです」
「……そうかい」
老婆がお盆に料理を乗せる。 隙間なく埋めていく様を見て唖然とする。 どこまで大盛りなんだ。
「最近ね、いい肉が入ったんだよ」
「海が近いのに魚じゃないんですか?」
「……ここいらは肉が美味いのさ。 魚なんて食えないよ 」
置かれた盆を見る。大振りな揚げ物に、野菜をふんだんに使った炒め物に、味が染みてそうな大根の煮物。全てに充分な大きさの肉がある。それにこんもり盛られた白米と、具沢山の味噌汁。いや、これは多すぎる。
「おばあさん、こんなに食べられないよ」
「若いんだから食わないと。 余らせて腐らせるくらいだったら、手伝ってくれると助かるんだ」
そう言われれば断る術はない。僕は揚げ物に箸を伸ばす。黄金色に 揚げられた大ぶりの肉。一噛みすると、口の中にじゅわっと豚の油が広がる。柔らか過ぎず固くない。スジを切るという手仕事が憎い。
赤ワインを煮詰めたような色合いをしている煮付けはどうだ? 大根と豚のばら肉だろうか。固いであろう具材も、箸ですんなりと分けられる。これをあてに日本酒を飲んだらさぞかし美味いだろう。だけど塩辛そうだな。器になすりつけた和辛子を豚バラに乗せて一口。意外なことに、塩辛くもなんともない。それどころか豚の脂の甘みと、隠し味に入れられている山椒の風味が舌と鼻を楽しませてくれる。
この店は当たりだと確信した。その証拠に、副えものである葉物野菜でさえ、しっかりと冷水で引き締めて水気を飛ばし、繊維に沿って切るという仕込みをしている。 ここまでやる食事処なんてない。
最初は多いと思っていた料理は、みるみる内に減っていく。 そして、最終的には完食していた。
「美味かったかい?」
「とんでもなく美味しかったです。久しぶりに美味しい料理に出会えました」
「……魚を使えたころは、もっと美味しかったんだけどね」
その言い方に引っかかった。老婆は何かに後ろ髪を引かれている、そんな気がしたのだ。そして、その何かは、僕が抱えている問題に大いに関わりそうだと思ったのだ。
「あの……出来れば魚を使えなくなった理由を教えてくれませんか?」
「……世情だよ」
そう言って、洗い物を始めてしまう。触れてはいけないところに触れてしまった。 気まずい空気の中、僕が出来ることと言ったら立ち去るのみである。 お茶を飲み干し、食器くらいは下げようとする。
「……世情だよ。 みんな幸せになりたかっただけなんだよ」
「どういうことですか?」
「欲しいものを手に入れ続けているときは……何かがこぼれ落ちているって気が付かないもんなんだよ」
話したいけど、話したくないって雰囲気だ。 居心地の悪さを感じて、僕はもう一杯のお茶を汲みに行こうかと給湯器を向く。 奥座敷に据えられた石油ストーブの上にやかんが置かれている。 注ぎ口から漏れ出す湯気を見て、温かそうだと思った。
「兄ちゃん、塩島って知ってるかい? 」
「いや、知らないですけど」
唐突に老婆が塩島という単語を尋ねてきた。 なんのことだ? 困惑する僕を見て、彼女は「そうかい」と頷いて話を続ける。
「他所の人にとっては昔のことなんだね……ここじゃ未だにあるのにね」
「良かったら教えてくれませんか?」
「葉島って言えば分かるかい?」
「……知ってます」
もちろん知っている。 ここから20海里ほど北に行ったところにある小さな島。 そうか、葉島は塩島だったのか。 やっと見つかった。 老婆は苦々しい表情を浮かべて言葉を紡いでいく。
「私が娘のころはね、塩島はこの国のものだったんだよ」
「知ってます。 あの国から公式資料が出てきて、70年前に割譲したんですよね」
「……ここは港町だったからね、 私のダンナも父さんも漁師さ。 でも漁に出てもボウズの日が多くなった。 そりゃそうさ、漁ができる範囲が縮まっちまったんだから。 そんな目に合っても、街にはまだ活気があった。 男衆が漁に出て、女衆も働けば何とか生活出来てたんだ」
そこから老婆は押し黙ってしまった。 彼女は葉島で起こった何かを知っているのだろう。 言葉を探している、そんな風に見えた。
「……新しい土地を得たあの国は、先に住んでた人を追い出してな、自分たちの街を築こうとしたのよ。 住みやすくするために開発してたら、海底から石油もガスも出ちまってな。 くたびれた畑と海小屋しかない島だったのにね。 聞いた時はビックリしたもんだ。 それは彼らも一緒だったんだよ。 天の恵みだって喜んで、どんどんと開発を進めた」
漏れ出した言葉は留まることをしらない。老婆は、まるで別人のように感情豊かに、饒舌になってしまった。 隙間風を抑えていた新聞紙が剥がれ、風にたなびいているのが見える。
「東京の会社も一儲けを狙って来てね。 あの島から一番近いここは、買い出しや息抜きに来たあの国の人間と、この国の商売人で溢れかえったもんさ。 それに呼ばれたように、どっかから商売女がやってきて、店を構えて……その頃が一番景気が良かったよ」
「それが今、どうしてこんなことに?」
聞かれたくなかったのだろう。 饒舌だった老婆は鳴りを潜めた。 静寂が店の中を包む。 ストーブの上のやかんに水が無くなったのだろう。 ふたがカラカラとなっている。
「……みんなが良くなりたかっただけだったんだよ。 ただそれだけだったんだ」
そう告げると完全に黙ってしまった。 けれど僕は聞かなければならない。 やっと知ってそうな人を見つけたんだ。 ここで引き下がることは出来ない。
「おばあさん、葉島の扱いを知っているでしょう? 歴史の教科書には、あの国に割譲したとしか書かれてないし、 世界ではあの国のひとつで、何ごともなくそこにあるとされている。 だけども、この国でも、あの国でも……葉島については完璧にタブーで行くことすら出来ない。 その理由すら明かされてないんだ。 おばあさん、何か知っていたら教えて下さい。 あそこで何があったかを」
「兄ちゃん、おらが思わせぶりなことを言っちまってゴメンな。 でも、塩島の話は終わりだ。 知らないほうがいいこともある」
「おばあさん、僕は知る必要があるんです……権利もね」
そう言って、右胸に忍ばせていたものを取り出す。 黒壇で出来た位牌。 中に記された戒名は、かすれて解読し辛くなっている。微かに「山川美彩」と「塩島」と残っている。
「これ、祖母の位牌です。 塩島ってなんだろうって思いながら、祖母が育ったという新潟中を探してたんです。 でも、やっと分かりました。 葉島のことだったんですね」
「……見せておくれ」
老婆に位牌を渡すと、老婆は少し撫でて、やがて静かに涙を流した。耐え忍ぶ涙は、徐々に嗚咽へと変わって。
「みっちゃん……帰りたかったろうね」
「おばあさん、祖母をご存知なんですか?」
「同級生さ。 高等学校のときのね。 卒業前に東京へ転校したけど……そう……塩島のことは黙っててくれたんだね」
「おばあさん、教えて下さい。 葉島……塩島で何があったんですか?」
※ ※ ※
船は闇夜の海を走る。 海原は岸から見たときよりも穏やかで静かだ。 デッキの上にいる僕は、船が進む方向を見ている。 寒さで手の感覚がなくなり、吐息を吹きかけた時のみ温かさを感じる。 月は雲で隠され、時折点くカンテラが照らすところのみが安全圏だ。
今の僕は葉島……塩島に向かっている。あの国とこの国の監視船をごまかすため、滅多に船外機も光も使えない。大きく進路がズレない限りは、帆布と舵のみで進んでいく。
食事処のおばあさんの知り合いだというおじいさんは、何も聞かず僕を運んでくれている。そのおじいさんが、そろそろ塩島が見える、と叫んできた。
「おじいさん、上陸できますか?」
「出来るけど帰ってこれねぇぞ! 見るだけにしとけ!」
「着けて下さい。 おじいさんは帰ってもらっていいので」
「飯屋の婆さんは好きにさせろってことだけど……本当に良いんだな!?」
「大丈夫です。 何も言わないですから」
「……ここで死ぬんだな!?」
「はい」
何も見えなかったのに、唐突に巨大な島影が見えた。切り立つ巨大な壁は、来るものを拒むようで、引き返せといっているように思えた。 島影を沿うように船をすすめ、やがて切れ込みが入った箇所に侵入する。 朽ちた木製の桟橋に船体を横付けし、僕は塩島に上陸した。
「兄ちゃん、墓場は山腹にあるからな。 まだ昔のままならって条件だけどな。 着いたらまっすぐ進め……間違っても化けてくんなよ」
「ありがとうございます。 帰りはどうかお気をつけて」
「……若いのになんて言わねぇけど、せめて思い残しがないようにな。 じゃあな」
そう言って、おじいさんは船外機を動かす。思ったよりも音が大きい。今までが嘘に思えるスピードでバックをし、船首を反対へと向けて走り去っていく。そして、風を掴んだのだろう。 唐突にエンジン音が消えた。
船体をバックさせるためには、どうしても動力が必要なんだなと、独りごちておじいさんに教えられた方角へと歩を進める。照らされた塩島の土は黒い。これは元々なのか、闇夜のせいなのか、僕には分からない。
(塩島は、死の島……か)
せめて墓場までは生きていたいもんだ。
※ ※ ※
「おばあさん、教えて下さい。 葉島……塩島で何があったんですか?」
僕は嗚咽する老婆に尋ねる。 それは老婆にとって酷な言葉だったかもしれない。 しかし、僕には、命を賭けてもやらなければならないことがある。 世界を敵にしても、最愛の家族への罪滅ぼしをしなければならない。
「……わざわざ隠してることに首を突っ込まない方が良いよ」
「そうはいかないですよ。 塩島でやりたいことがあるんです」
「止めときな。 わざわざ死にに行くこともないだろ。 あそこは死の島になっちまったんだ」
「死の島? いいじゃないですか。 僕は死なないといけないんですよ」
「どういう意味だい?」
「……おばあさん、テレビも新聞も見てないんですね」
僕はスマホを取り出し、ニュースサイトを検索する。 すぐさま「遺伝子研究の若き権威が起こした大罪」という記事が表示された。
そこには、遺伝子研究者の山川栄一郎という人物が開発したがん細胞を死滅させる薬に、白血球を激減させる副作用があると発覚し、全世界で1億人を超える被害が起きたとある。 最後に、研究者の山川は行方不明になっていると結ばれていた。
そして、掲載されている山川栄一郎という男の写真は、スマホをもっている僕と同じ顔だ。
「僕は患者に希望を与え、同時に確実な死を提供してしまったんです」
「……あんた」
「残酷なものです。 時代の寵児ともてはやした翌年には許されざる罪人だと断ずるんですから……僕はただ、おばあちゃんと同じ病で苦しんでいる人を救いたかっただけなんですけどね」
そうだ。 世情は残酷だ。 味方が簡単に敵になる。 そして、敵は容赦なく攻め立てて、味方よりも早く増殖していく。 僕を攻め立てる目は好奇心という名の悪意が家族に向き、妻も両親も耐えきれずに自殺した。 悪いのは僕だというのに。
「本来なら野口英世なみの功績だったかもしれなかったんですけどね。 でも、僕の甘い研究は何もかもを奪った。 残っていたのは、罪悪感と後悔、無力感……ようは死にたいって絶望です」
老婆は目を見開いて戦慄いている。 そりゃそうだ。 戦争よりも多くの人を殺した元凶が目の前にいるのだ……怖いだろうよ。
「誰からも恨まれて死ぬって悲しいじゃないですか。 だから……少しでも良い事したぞって思って逝きたいんです。 ね? いいでしょ? 僕は誰からも信用されない人間になったし、秘密をばらす相手もいないわけだし」
そう言うと、老婆は落ち着きを取り戻したようで「お茶を一杯淹れてくれるかい?」と頼んできた。 僕は彼女のためにお茶を淹れてやる。 お湯を茶碗に注ぐと、少し温く感じた。 設定温度を見たら98度と表示されている。 始めは熱く感じたのにな。
お茶を手渡すと、老婆はお茶を一口飲み、喉を鳴らした後に重い口を開いた――
「始めは温泉だったんだ」
温泉? なんだそりゃ?
※ ※ ※
暗い夜道を歩くには街灯が必要だ。 塩島の山道を歩いていると、何度もそう思う。 月が隠れると何も見えなくなる夜を往くには、そっと身を伏せて、じっと月を待つしかない。
寝返りをして空を見上げる。 雲の向こうに薄明かり。 夜に鳴く鳥の声と、風が鳴らす草の音。 そして、時折聞こえる獣の声。 それが全てに思った。
「……本当に化物なんているのかな」
月が雲という名の薄衣を脱ぐと、優しい光が塩島を照らす。 ボンヤリと山腹に続く道が闇から浮き出る。 背の高い草が覆う獣道になりつつある道を、僕は手で分け入りながら歩いていく。
※ ※ ※
老婆は確かに言った。 温泉だと。
「温泉、ですか?」
「そう、温泉だ」
「なんで悪いんですか? 観光名所になって一儲け出来てるじゃないですか」
「みんな同じようなことを言ってたな。 もちろんおらも……石油プラントを建ててるときに偶然に出ちまったんだ。 そりゃあ良い温泉だったらしいよ。 地面を掘り返すのは会社さんだけだったけど、そっから個人でも掘り返すようになってな……そしたら、あいつが混ざっちまったんだ」
「あいつ? なんですか?」
「塩島はな……帝国軍が生物兵器を開発していた島なのさ」
えっ……なにそれ? そんなこと本当にあんの? いや、まぁ細菌兵器とか開発していたって噂もあるし。 でもねぇ、胡散臭いね。
「……嘘でしょ?」
「嘘だったらって何度も思ったよ……地下で隠れてやっていたらしいんだけどね、温泉を掘ってたら、その研究所に流れ込んだんだよ。 最悪なのは、そこにいた生物……正確には人間を変えちまう虫が地上に押し出されちまったんだ」
いやいや、源泉ぶっかけられたら虫なんて死ぬわ。 と思ってたら、品種改良されて熱や寒さでは死なない虫だったそう。 なんだそりゃ? しかも、そいつらに噛まれるとゾンビになる? 嘘でしょ?
「どんな対応したんですか?」
「……駆除するために焼夷弾をぶち込んだんだ。 より確実にするためにプルトニウムを入れてね。 巨大な火柱を見た両国は、この事実を世界に隠した。 結果、島も海もプルトニウムで汚され、島には生き物はいないし、魚は毒になっちまった。 」
「とんでもない惨事じゃないですか! なんで今まで知られてないんですか?」
「発表できないレベルの惨事だったからさ……それに、国から常に監視されてるからね。 この街の連中は、どこにも行けずここで死ぬしか無くなっちまったのさ。 知ってるけど言えない。 言っちまったらとんでもないことになるからね。 言えないんだ」
「そんな……おばあさん、もしかして」
「あぁ。 消されるだろうよ。 おらもあんたも」
老婆はそう言った。 嘘だろ? そんなのあるわけねぇよ! どんなマンガの世界だ、それ。
「おばあさん、嘘ですよね? 本当はそんなことないですよね?」
「嘘だと思うなら、塩島に行ってみろ」
そう言って、老婆が手紙を書いて渡した。一緒に手書きの地図を添えて。
「もう行きな」
「おばあさんも一緒に行きましょう。 ここにいたら危ないんでしょ?」
「今更生き永らえてもしょうがないさ。 あんたと一緒だよ」
「どういうことですか?」
「おらたちは、ずっと塩島のことを黙ってた。 巻き込まれたって言い訳もあるけど黙ってたんだよ。 知りあいが毒魚を盗み取りして儲けててもだ。 そのせいで、自分たち以外の奴らがどうなろうと構わない……おらたちはここから動けないんだから、お前たちも苦しめばいいって思ってたんだ」
なんともどす黒い感情だ。 でも、率直な感想だろう。 遊びたい盛の娘時代を、国から監視されてひなびた集落に縫い付けられた。テレビや新聞を点ければ、華やかな外の世界が映し出される……そりゃ見なくなるな。
「だけどね、その役目は終わりだ……全身がんになったからね」
「えっ!?」
「……余命1年ってとこらしい。 あんたの話を聞いて、おらも"少しでも良い事したぞ"って思って逝きたくなったんだ」
どれだけの覚悟だったんだろうか。 この話をすることは、命に関わるってことだったのか。 何も言えなくなる。 少なくとも、この老婆の話に嘘はないと思う。 嘘ではないからこそ、塩島は伏せておく存在だったのか。
「塩島の灯台守は必要だと思うんだけどね……ここのジジイ、ババア共が死に絶えたら国はどうするつもりなのか。 外部から人を移すこともせず、子どもを増やすわけでもなく、最後は刑務所にでもすんのかね。 おらたちが死んだこの町が、犯罪者の町になるってのは嫌だね……まぁ、もうおらには関係ねぇな。 ほら、行きな。 出たら地図に従って行くんだよ。 誰にも見つからないように全力でだ」
老婆は裏口を指差し、僕に出ていくように言う。 僕は老婆に掛けるべき言葉を探したが見つからなかった。結局、代金を置いて「ありがとうございました」と頭を下げるだけしか出来なかった。
戸口に手を掛けたとき、老婆が声を掛けてきた。
「兄さん……飯、美味かったかい?」
「……美味しかったです!」
「良かったよ。 ありがとうございました」
そう言って老婆は柔らかい笑みを浮かべた。 僕は胸が締め付けられるような、鼻の奥がツンとするような、そんな気分になった。 それをかなぐり捨てるように店を後にする。 入り込んだ路地を抜けて坂を走り抜ける。 頂上で振り返ると、黒いスーツを着た3人の人間が店の中に入っていった。
僕に出会わなかったら、老婆は安らかに死ねたのだろうか。 ずっと心にしまいこんだ腫瘍を吐き出せてスッキリして死ぬんだろうか。 そんな問を繰り返しながら、僕は地図に記されたゴールを目指して駆けた。
※ ※ ※
山の中腹についた時、目の前に広がっていたのは荒れた墓地だった。 青白い月明かりに浮かび上がった墓石。倒れているものも、立っているものも、全てが焦げ付いている。 老婆が言っていたのは紛うことなき事実だったんだ。
僕はスマートフォンの明かりを頼りに、おばあちゃんの旧姓である「田端」を探している。 倒れている石を引き起こし、土で埋められた戒名を確認する。 焦げて融解した石に残された断片的な情報から推測する……そんなことを繰り返して、やっと「田端」の墓所を見つけ出した。
僕は墓所を掘り返す。 夜明け前の寒さと、固い土を掘ったせいで、手には無残なあかぎれが余すところなく入っていた。しばらくすると、数個の骨壷が出てきた。 焼夷弾の影響もなくキレイなものだった。
「おばあちゃん、生まれ故郷に帰って来れたよ」
左胸のポケットにある位牌を取り出し骨壷に入れる。 寒さのせいなのか、それとも手という機能の限界なのか、それ以外の病的なものなのか……ずっと震えが止まらない。 でも良いんだ。 どうせ使わなくなるし。 僕は震える手を強引に動かし、骨壷を再び埋め直した。
「これで終わり。 なんだか疲れたなぁ」
そうひとりごちたときだ。何かが草を分け入りながら向かってくる音が聞こえる。そのスピードは人間とは思えないほど速い。
姿を現したのは、数えるのも面倒な程のネズミの群れだった。 青白い闇夜に浮かび上がったそれは、迷うことなく僕へと駆けてくる。
「焼夷弾が本当だったし……アイツらも本物なんだろうな」
先頭にいるネズミの耳すら見えるようになったあたりで、僕は少しだけ怖くなった。 でも、受け入れなきゃいけないな。
「まぁ、こいつらだったらしばらく生きられるんだろうな。 今でも生き残っているくらいだし。 いや、ネズミってすごいねぇ。 人間が滅んでもゴキブリとコイツらは生き残るって言うけど……いやぁスゴイ」
右胸から硬化プラスチックで出来たケースを取り出す。 右脛に鋭い痛みが走る。 噛まれちまったな。 それをきっかけに、下半身の到るところから激痛が続く。 僕は歯を食い縛りながら、ケースから注射器を取り出して、迷うことなく首筋に射し込む。
「俺を食い殺す奴らがお前らで良かったよ……しっかりと伝染させてくれよ……俺の失敗作のウィルスを」
自殺用に取っておいた白血球を殺すがん治療薬。 悪食のネズミにウィルスが伝染すれば、島中の植物も動物も、全部に伝染するだろう。
少し嬉しくなって、海が見える方へと歩いていく。 体中をネズミが這い回っており、もう痛いのか何なのか分からない。 それでも顔をかじろうとするネズミは煩わしいから払いのける。
「僕は何人殺したんだろう。 薬で世界中のがん患者と自分の家族を殺し、食事処のおばあちゃんは塩島のことを聞いて殺した。 誰に謝れば良いんだろう。 俺が許されること……あるのかな」
唐突に前のめりに倒れた。 足を見ると、右足がもげており、大量の出血をしている。 僕の血に染まったネズミが、赤い目を光らせながら僕をかじっている。
「でも、僕を社会的に殺した失敗作が、この島を救ってくれるんだ。 だったら少しだけ罪は軽くなったかな。 そうだったら良いなぁ……しかし、すげぇ寒いな」
ふと強い光を感じる。 光源に目をやると、水平線の向こうから朝日が昇りつつある。 あまりにも眩しくて、視界が真っ白に染まる。 それは目を瞑っても白いままだった。
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