それでも生きる。

 自分を生きると決めた。親の評価は絶対ではない。そう意気込んで生まれた街を離れて、遠くの街で普通の生活をすべく仕事を始めた。



 1日16時間くらい働いている。朝5時にパン屋で仕込みをして15時に帰って眠る。夜20時に起きて、22時から朝の4時までキャバクラで酔った男の相手をする。そんな生活が週6日。



 親が大変な思いをしていたことは分かっている。あんなに嫌いな両親が、私よりも要領が良くて社会とうまく付き合えていたという事実が嫌になる。私に期待して多額の投資をしてくれていて、絶対の尊敬をすべきことも分かった。



 でも、帰りたくない。常に何かと比較され、期待され、心を爛れさせられるのはゴメンだ。親のせいで心の開き方を見失い、食べると食べないを繰り返して、自分を痛めつけていたころには戻りたくないんだ。私は私でいたいだけなのだ。そのためには、強く在らねばならない。私のやり方で社会に認めさせるために。



 生きるのって辛い。もしも私の背中に白くて柔らかな翼があったなら、ここから飛び出して、新しいところにも行けるのに。



「ちょっと! お姉さん! 見て!一回で良いから見て! すごいことになってるから!」



 酔っ払った客が叫んでいる。うるさい。私は私の棚卸しをしているのだ。勤務中だけどね。 しかし、なんだと言うのだ。うん? この瓶はヘネシー? あれ? あぁ、どうやら酌をしているうちに思い出に浸ってしまっていたようだ。



「そして、客の股間を酒浸りにさせてしまったと」

「何まとめてんの! 見て! 股間、股間見て!僕の股間! すごいことになってるでしょ! なんか言うことあるでしょ!?」

「黙れ。 女を見たらすぐに股間をアピールして。 お前は発情した犬か」

「ゴメンナサイって言うんだよ!」

「旧態依然の男は大きい声をあげれば従うと思ってる。 女性を舐めるな!」

「客への粗相を謝るのに時代が関係あるのかね!?」

「そういって、屁理屈を並べて、女を屈服させようとする……まるであの男と一緒ね」

「 ボーイ! コイツやべぇから変えて! あとおしぼり持ってきて! 股間拭きたいから!」

「呼んだら簡単に股間をふく女が来ると思わないで! 女はお前のアクセサリーじゃない!」

「自分で拭くんだよ!」

「……シャイボーイ」

「意味が分かんねぇよ!」



 間違いを指摘されたからと言って大きな声をあげて……器の小さい男だ。だからキャバクラに来て、小さな自尊心を満たしたいんだろう。金を払って女に優しい言葉を言ってもらいたい、話を聞いてもらいたいんだろう。そう考えると哀れな男だ。ボーイからもらったおしぼりで一生懸命……



「なんだそのコネ方は! 」

「何いってんの本当に!」

「そんな手付きで、良いタネが出来ると思ってるのか! 膨らまないよそんなんじゃ!」

「毎晩タネ作ってるし膨らむけどね! というか、今もちょっと膨らんでるけどね! 何を言わせんだ!」

「そんなに早く一次発酵が始まるわけ無いだろう! 私をナメるな!」

「それを言ったら、俺は男のプロだよ! 後、発酵してないけどね! 全然使ってるからね!」

「強がんじゃないよ! 認めなさい!」

「ほっとけよ!」



 何を考えているのだこの客は。女性蔑視はするわ、キャバクラに来てパン種を仕込み始めるわ……どういう教育を受けて育ったんだ。いかに自分の技術が足りていないかも自覚せずに、経験者の前で臆面もなく披露するし。自分の行動が周りにどう映るか、恥を知りなさい。



「おーいボーイ! もう場内指名するわ! コイツ外してつばさ付けて!」

「馬鹿野郎!」パシーン(殴られる音)!

「へブウ!」

「そんなんでどうする!? 確かに生きることは辛い、翼が生えてここではないどこかに逃げたい気持ちは分かる。 でも、戦わなきゃ! 自分自身の居場所は自分で作って、それを守るために戦わなきゃダメ!」

「戦いに来てんじゃねぇんだよ! なんなんだお前!」

「あなたの先輩で味方だよ!」

「いやお前はキャバ嬢で俺は客だ! それが絶対だ!」

「絶対なんてない! 人生をナメるな!」

「なんなんだお前! もういい帰るわ!」

「私から逃げるのか!」

「最初からコミュニケーションが出来てないんだよ!」



 男はプリプリと怒りながら帰っていった。私はアイスペールに入っているミネラルウォーターで唇を湿らす。喉を通る水がやけに甘く感じる。思えば、あの男も迷っていたんだろう。柔らかい所を突かれて、心を痛めてしまったんだろうね。少しの罪悪感を感じるけど、貴方に言えることは一つだけ。心と骨は折れるほど強くなる。



 今日は貴方にとって、新しい自分をコネてタネを仕込んだ日。それを大事に育んで。いつか最高のターニングポイントだったって分かる日が来るから。その時にまた来ればいい。新しい貴方とお酒を交わせるのを楽しみにしてるからね。今は先輩として味方として……貴方の門出に、この杯を捧げるわ。



「……乾杯」

「瞳さん、オーナーから伝言です。『もう帰って休め。給料は減給するからね』だそうです」

「……勘弁」

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