僕の村上春樹~その1~

「ここでさよならしよう」


 彼女がそう言い残して出ていって10年。その後の俺は普通にサラリーマンになり、職場で出会った2つ下の女と家庭を持った。子どもに恵まれ、今年2歳になる娘にも恵まれている。


 あのころ夢見た生活は手に入らなかったけど、誰もが文句を言わない生活をしている。


 それでもふとしたときに思い出す。


 生活に責任もない無軌道なバラいろの日々を。掴みかけた夢のしっぽを。そして、そのときの恋を。


 そいつが通勤中の電車の中で浮かんで来た。


 一度浮かぶと関連することが次々と脳裏に浮かんで来る。職場についてからのタスクを考えて、それらから逃れようと抵抗をするも諦めた。


 少し昔に帰ろう。


 妻と娘に対して、罪悪感のトゲが芽生えたように感じたが、昔の恋を思い返すことくらいは浮気ではないはずだ。


目を閉じる。「次は新宿」だとアナウンスが告げる。降りる駅だが、私は座ったままだ。



 ~


 いつも思い出すのは大学生の6月からだ。当時美大生だった俺は画家を目指していた。


 親戚が営んでいた運送会社の倉庫を借り、アトリエ兼住居として暮らしていた。そのころの多摩地区は今ほど発展していなかったから、俺は大学まで原付きで通っていた。


 彼女と出会ったのは通学路の途中にあった喫茶店だ。店の存在は知っていたが、いつもスルーしていた。外見が蔦で覆われており、いつも上等なコーヒーを炒る香りがしていた。


 信号に捕まったときに横目で出入りしている客をみると、いつもキレイに着飾った婦人やピシッとした服装の紳士ばかりだった。


 こだわりが強そうな純喫茶然とした店構えは、安居酒屋やチェーン店の常連だった俺にとっては敷居が高かったのだ。



 初めて入ったのは3年生の6月。講義をボイコットしたことがきっかけだった。まとわりつくような雨に我慢できなくなって、勢いで入店したのだ。


 黒いエボニーで出来たドアは、見かけに反して抵抗なく静かに開いたことに驚いたのを覚えている。


 客の来訪を告げるベルが数回鳴った。ステンドグラスのシェードが吊り下げられた店内には、片手ほどの客とグランドピアノ。


 後になって分かったが、漂っていたのはキリマンジェロの香りだった。ビル・エヴァンスのピアノジャズもそのときに初めて知った。


「いらっしゃい」


 唯一の店員であるマスターがグラスを拭きながら、伏し目がちで俺に向かって呟いた。大きくも小さくもない声で。


 白いワイシャツにリボンタイをして、整えられた口ひげを持った彼は、自分では遠く及ばないカッコイイ大人に見えた。


「ご注文は」

「……」


 そう言われても困る。メニューには「キリマンジェロ」「コロンビア」などと書いてあり、それがコーヒーなのかどうなのかも分からないのだ。


「本日はマンデリンがおすすめです」

「じゃあ……それで」


 俺みたいなヤツは結構いるのかもしれない。険しい顔をしてメニューを凝視しているヤツは珍しくないのかもしれない。そして、初心者に見られたくなく、通ぶっている若者も珍しくないのだろう。


 マスターは「かしこまいりました」と微笑み、ピーナッツを盛り付けた小皿を差し出す。


「ずいぶんとしょぼいお通しだな」と思いながら1粒頬張ると、口の中に濃厚なバターの風味が広がる。そして噛み砕くと、そこにピーナッツ特有の香ばしさと塩気が広がり、一つ一つの素材が織りなす絶妙なバランスの美味さがそこにはあった。


「お待たせいたしました」


 白い陶磁のマグカップを目の前に置かれた。ちゃんとしたコーヒーを飲むのは初めてだ。


 ポーションミルクやシュガースティックはないが、ミルクポットと5個ほどの角砂糖が添えられている。マスターなりの気遣いかもしれない。それが子供扱いされているようで気に食わなかった。


 いいだろう。ブラックで飲んでやろうとマグカップを手にすると、店内からピアノ音色が響き出した。先程流れていたビル・エヴァンスの「Waltz For Debby」を誰かが演奏している。


 何気なく横を向くと、ロングヘアーをひとつに束ね、グリーンのワンピースに身を包んだ美女が鍵盤を弾いていた。


 切れ長の目と通った鼻筋、細い顎と長いまつげ。物憂げな美女と、天井近くに据えられたはめ殺しの明り取りの窓を打つ小さな雨粒。


 映画のワンシーンのような情景と、神々しさすら感じる彼女から目をそむけることが出来なかった。


 ひとしきり演奏を楽しんだ彼女が、鍵盤から顔を起こすと見とれている俺と目があった。


 偶然が生み出した奇跡とも呼べる美しさが終わり、現実に帰った俺は驚いてしまって、手にしていたコーヒーカップを落としてしまう。


 カップが床で砕ける音と、腿を伝わるコーヒーの熱さに驚いて慌てふためくと、マミは快活な笑い声を上げながら、俺の隣に来て「大丈夫ですか?」と声を掛けてきた。


 それがマミとの出会いだった。

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