#60 ゴシップガールがいずれ知る『真説 羽衣奇譚』

 ◇ハーレムリポート 出張版 最終回拡大版◇


 ――はいっ、というわけで、文化部棟の解放に伴って文芸部さんの活動も無事再開~! おめでとー!

 でもって復活した『ヴァルハラ通信』にもこうして顔を出しちゃいます、レディハンマーヘッドだよ。みんな久しぶり~。元気にしてた? 故郷で結婚式はあげられた?


 え? 久しぶりって感じがしない? お前ちょっと前に何かやらかしてたらしいじゃないかって? やだ~、読者の皆様の中にはあの番組のことを御存じない方もいるんだから、配慮してくださーい。

 ていうか、今回のタイトルみて言うことないわけ? ほら、しっかり書いてあるでしょー? ここに、ほら、最終回って! 最・終・回! ってことは~……?

 はい、このおしゃべりもついに今号をもって終わっちゃうってことです! ――。ん~、聞こえな~い。「ええー!?」って声が聞こえな~い。「ええーっ!?」って二千年紀ミレニアムのTVバラエティ風に声をそろえてくれなきゃレディハンマーヘッド、おしゃべりしてあげなーい。それじゃあ、ほらみなさん、せーのっ。


 ――――。


 ――え、嘘、マジで言ったの「ええーっ!?」って。これ紙だよ? 聞こえるわけないのに? うわぁ……。

 今ここで本当に「ええー!?」って声出しちゃって、隣の戦友さんに白い目で見られても、それあたしのせいじゃありませんから。


 ま、そういう無駄話で尺とってる場合じゃないわ。なんたって最終回だし、ちゃっちゃとすませちゃわないとページ食っちゃって、怖ーい部長さんに叱られちゃう。


 まずこの連載が終わる理由を説明するけど、ま、理由は簡単。フカガワハーレムの物語がここで一旦解決しちゃったから。エピローグに相応しく、二千年紀ミレニアム以前からあるティーン映画の様式に則ってハーレムメンバーだったみんなの近況をこれから一気に語っちゃうけど、ついてきてね。ついてこれない奴は置いてくぞー。



 無害そうな芋っ娘ちゃんとみせかけて後半怒涛の大暴れをみせつけてくれた(あたしが活動できないときにー! ぷんぷん)フカガワハーレムダークホースのサメジマサランちゃんは、無事文芸部に復帰。この『ヴァルハラ通信』の編集にも参加して、今頃お友達と仲良くコーヒーでも飲んでるんじゃないかな? お砂糖とミルクたくさん入れてさ(サランちゃんはお子様だから苦いコーヒーが飲めません。やだかわいー)。


 アクラナタリア先輩は高等部の生徒会に立候補して、今は選挙活動の真っ最中。フカガワミコトなんかに構ってられないってことみたい~。

 現生徒会長、お名前は、えーと……ん~……、あ、そうそう! アメリア・フォックス先輩直々のご指名、それに応援会長があの、れんれんことレネー・マーセル・ルカン先輩だから当選は確実ってみなされてるっぽい~。

 ん~? ナタリア先輩は生徒会活動や委員会には参加できなかった筈だって? やだー、太平洋校に関する事情通さんがここにいる~。さては『夕刊パシフィック』さんの定期購読者さんだな? それなら事情はわかるでしょ~? 初等部生徒会長選にかつぎだされてこちらも当選確実ってみられてるメジロリリイちゃんと連携をとれそうなのはナタリア先輩しかいないからって。今や飛ぶ鳥落とす勢いのリリイちゃんに悪い虫がくっついたりしないようにっていう、高等部のお姉さまらしい配慮ってやつ。――それにしても、あれからリリイちゃんてば一夜にして環太平洋圏のトップアイドルに輝いてくれちゃって、生配信企画した人間にしてみれば鼻が高いわ~。シンデレラをプロデュースした魔法使いの気分ってこんな感じ?


 ――っとお、話がそれちゃったし。


 ジャッキー姐さんは、またツアーに飛んでっちゃった。

 ツアー先からウチの学園長十五年ぶりの出撃のサポートメンバーに選ばれて(ほら、ジャッキー姐さんてばうちの学校では珍しく死海沿岸の事情に通じてる方だから)、チャリティーライブ開いた際の現地メディアインタビューに答えてたじゃん。ツアー先であたしの配信見てたって! あの場にいなかったのが残念でたまらないって。「ミンメイ・アタックならあたしの方が上手く決めてたわ」って言ってたの観た? あれでこそジャッキー姐さんだよね。きっとまたなにかやらかしてくれる筈だけど、レディハンマーヘッドはこれでゴシップガールは引退しちゃうから追って語れないのがざーんねん。


 カグラちゃんは、はい、皆さんご存知のとおり文化部棟解放と同時に総合文化企画部のお姉さま方のプロデュースに従ってわが校のニューヒロインとしてフル活動中だよ。これ読んでる人の中でも、この前出たばっかりのfast写真集持ってるかたいるでしょ~? 怒らないから、手あげて、手。ねー、可愛かったよね~。特に白いワンピースでビーチで遊んでるところとか。フカガワハーレムのメンバーで白いワンピースを着こなせたのはカグラちゃんだけだったよね~。

 相変わらずあのかわいい電子個人誌ジンも老若男女のウケがよくて購読者数も順調に増えてるみたい。近々あたしの『ハーレムリポート』のそれも抜かれちゃうってもっぱらの噂だし。やだー……って言ったところで電子個人誌ジンの方は先に最終回を迎えちゃったし、ま、いいんだけど。


 ご主人様としばらく別々の生活を過ごさなくちゃいけなくなったノコちゃんは、しばらく随分落ち込んでたみたいだけど最近はすっかり元気を取り戻してるよ。

 本来は博物館ミュージアムで大人しくしてなきゃいけないのに、いつマスターからの呼び出しがあるから分からないからって学園のあちこちを自由に駆け回ってる。もともと人懐っこくって愛想がよくて、食べ物のにすぐつられちゃうノコちゃんだからお姉さま方に可愛がられてすっかり今の生活を満喫してるみたい。最近は新しいお友達と一緒にいるところをよく見かけるな。


 さーて、後半でついに強硬手段に出てフカガワハーレムの物語を大いにもりあげてくれた功労者(彼女に乗せられて生配信なんてやっちゃったお喋り娘もいるくらいなんだから)、キタノカタマコ様。彼女はどうなったのかな〜……って、皆さま既にご存知のとおり、疎開任務の無事完了を見届けた後に大西洋校にご編入あそばれましてよ。もともとマコ様は優れたリーダーになる素質十分の方ですからぁ、エリート育成大西洋校で切磋琢磨されるほうが気質にお合いあそばしていたみたい。

 外世界からの軍勢からフカガワミコトを守ろうとする、そんな暴挙に出たマコ様の失恋の傷も、大西洋校のお友達との学園生活でご快癒されることをレディハンマーヘッドは太平洋の真ん中からお祈りいたしますです。なむなむ。


 さてさて、というわけで〜。

 最終的にフカガワミコトのハートを射止めた(暫定意的に、とかそういうケチくさいことはレディハンマーヘッド口にしない主義だから。艱難辛苦のはてに両想いになったお姫様と王子様は末長く幸せに暮らすものだって大昔から決まってるんだから)、トヨタマタツミちゃんはどうなったでしょうか〜。そりゃあもちろんフカガワミコトと一緒に決まってるんだけど。


 詳しく語る前に、ほら、この写真みてもらおっか。二〇一〇年代旧日本のデータベースのうち、お茶会事件以後に見つかったデータ層から最近発掘された当時の写真のうち一枚なんだけど(それにしても新規データ層からの発掘作業ってば話きくだけで大変そう……。電脳考古学士やさんの苦労が偲ばれちゃう)、この写真に写ってる巫女さんみたいな子、誰かに似て無い? 似てなく無い? 似てなくなくなく無い?


 ね、どう見てもこれタツミちゃんだよね? おそらくなにかの祭礼でなにかしら舞を奉納している一場面だと思うんだけど、つまり彼女は今ここにいるってことね。ほら、ほかにもデータ層から発掘された当時のSNSに埋まっていた画像から決定的なものを二、三枚ピックアップしてるから。この、ジャンパスカートの夏用制服姿で振り向くポニーテールの女の子なんて完全にタツミちゃんでしょ? それにしてもこうすると本当にフォトジェニックなんだから~。普段からこんな風にしていれば人気だって出たのに。

 というわけで、マコ様が力づくで攫って行った場所はこの二〇一〇年代の海辺の町で確定~。さっすがマコ様、時空の壁をやぶって好きな男子をさらっちゃうんだからダイナミック~。恋敵がタツミちゃんじゃなかったら彼女がヒロインだったかも。


 そんなわけで、タツミちゃんもフカガワミコトも未だこちらに帰還せず、過去の世界にご滞在中。ハネムーン? やだ何言ってんの? 小規模ながら歴史改変の起きた時空激震の震源地でしょ? そういうところって侵略者の出現率が上がるからそこに滞在して様々な調査中ってわけ。防人って言ってもいいかな。

 結構大事な任務なんだよ~。だって公の歴史ではこの時代はまだ外世界からの干渉をうけてないことになってるんだよ? もしタツミちゃんたちがいる世界で侵略者の干渉されたことになっちゃったら今度こそ間違いなく歴史が大きく変わっちゃう。そうなったら面倒だよぉ?


 ――ん? あたしってばまたお口滑らせちゃった? ま、いっか。最終回だしサービスサービスぅ(ってこれ、知ってる人いる?)。



 ◇◆◇



「――、ん?」


 覚醒した。少なくとも意識は目覚めている。

 しかし自分がどこにいるのかすらおぼつかないぼんやりした状態で、サランはまず周囲を確かめる。

 目の前には大きなスクリーン。海の上空を閃光がちらついており、浜辺に立ってそれを見上げる少年の後ろ姿の映像が投影されている。


 ――なんだこれ? なんだこの映画? ていうかここどこ?


 背中を預けているのは、チクチクした布でくるまれた座席だ。空間内は古い建物ではおなじみのほこりくさい空調と若干のアンモニア臭、ポップコーンの香ばしい匂いなどが混ざって立ち込めている。周囲が暗闇に閉ざされていることから考えても間違いないだろう。その色調が周囲をほどほどによく見通せるセピア色なのが気になるが。

 なんとなく記憶をくすぐる映画館の雰囲気だな、とサランがぼんやり思い込んでる間に映画は淡々と続いている。よくみれば大昔の映画のように、白黒で音すらない映画だった。しかし映画内の時代はすくなくとも二十一世紀はこえているらしい。閃光が乱舞する空に向けて少年はスマートフォンをかざしていたから。


「ようやく気がつきましたね、お疲れさまです。サメジマさん」

「⁉」

 

 隣の席から小声でささやかれたので、驚きでサランは席からずり落ちそうになる。何故か隣には、ここにいるはずの無かったミカワカグラがいたのだ。お茶会に乱入した時に着ていた白いワンピース姿で、ぽりぽりさくさくと細いプレッツェルにチョコレートをかけた二十一世紀末でもおなじみのロングセラー菓子を齧っている。お疲れ様、とサランを労うわりに、その表情はどことなく不機嫌そうだった。


「み、ミカワさん? なんでここに――?」

「そうじゃないかとはうすうす予定はしていましたけど、私が迎えに来たこと完全に忘れちゃってたんですね? まったくもう……。――ここは見ての通りの映画館です。マナーに違反してますが、許してください。私、映画鑑賞のおともはポッキーだって昔っから決めてるんです。好きじゃない映画を見なきゃならないんですから、手元におやつがないとやってられない」

「ていうか、なんで映画館っ? 蟲型甲種ムシはっ? シモクのバカはっ?」


 大声で矢継ぎ早に状況説明を求めた途端、うるせーぞ、の声とともにどかっと座席を蹴られた。ふりむくとそこには、ビッグサイズの容器に山盛りのポップコーンを口に放り込んでいる、パウダーピンクのネグリジェ姿のサンオコサメがいた。館内がガラガラなのをいいことに、ウサギの抱き枕に一席しようするという行儀の悪さを棚に上げて、スクリーンに目を向けたままサランを注意する。


「映画鑑賞中はお静かにってマナーをしらないのかよ。これだから映画館文化の消滅した時代の若人は」

「だ、だって状況が全然さっぱり――。つか、いいじゃないか声出して喋っても! 音のない映画なんですからっ!」

「ストーリーに集中できないだろうが、後輩。そんなことより席を立つな、席を! スクリーンが見えねえ」


 つくづくこの無作法OGの二つ名が「眠り姫」だなんて愛らしいものだという事実が信じられない、という思いでサランは黙って席につく。どんな相手であっても、映画鑑賞中に立ち上がって視界を塞ぐのはマナー違反だ。

 席につくとミカワカグラが口を寄せて、サランの耳元で責める様な口調でとげとげしく耳打ちする。


「後ろの方、どなたなんですかっ? いい加減教えてくださいっ。口ぶりからすると太平洋校専科卒うちの卒業生の方みたいですけどっ」

「あー、ちょっと長くなるから……ていうか頭の中読めば? そっちのが早いよう」

「やれたらやってます! できないから口で尋ねているんですっ」


 カグラの不機嫌は相当なものである、とその語調の荒さから判断すると同時に、サランは今自分がどこにいるか思い至る。

 夢の中だ、おそらく自分の。

 トヨタマタツミに峰打ちされ、メジロタイガとなんだかわりない仲になってしまったあの日にカグラはサランの夢の中に侵入してきたことがある。確か、短時間なら他人の夢に入ることができるはずだった。深層心理がごちゃごちゃに入り混じったような夢の空間では、頭の中を読む等という行為がほぼ意味をなさなくなるのだろう。


「そういうことです。ほぼ正解です。――あの状況、あの状態でこの九十九市まで単身渡航できるのは私くらいだってことでサメジマさんたちを迎えにいったら、サメジマさんは力使い果たして昏睡状態で、そうこうしてたら後ろの中尉さんにつかまってこんな辱めをうけるハメに……っ」


 ひぐ、えぐ、と嗚咽をもらしながらカグラはチョコスティックを絶え間なく口に入れ続ける。

 とりあえず状況の三割程度は掴めたサランは、できる範囲で自分の記憶を振り返ることにした(隣にいるカグラの席はコサメに蹴られたようで振動が伝わった)。




 ――今まさに飛び立たんとする、蟲型甲種出現地帯の上空で――。


『早く指示出せっつうの、鮫島砂蘭――ッ!』

「じゃあとっとと世界を救えよ撞木槌華ッ!」


 互いにやけくそでどなられ、怒鳴り返した声。無我夢中で振るったハンマー。

 その後の大爆発じみた音響と衝撃波。


 サランの両手両腕には、シモクツチカが姿を変えたハンマーを思い切り振りまわして次元の厚みを叩き渡った手ごたえと、その反動によるエネルギーを食らって一気に吹き飛ばされた感覚が蘇る。

 吹き飛ばされるさなか、サランは見たのだ。九十九市外縁の山間部、活断層沿いに生まれた次元溝の中で蠢く虹色の甲虫たちの群れの上に、ハンマーで叩き割って崩された次元のかけらが怒涛のようにと崩れ落ち、溝をうめてゆくのを。崩れてゆく土砂が細い谷川を埋めてゆく景色にもそれは似ていた。

 ツチカの力を借りて態勢を整えながら見下ろすそれは、できうる限り高く作った砂山を自分の手でたたき壊す快感に通じるものすらあった。

 はーっ……、と虚脱状態にいるサランだがその耳には緊張感のあるツチカの声が飛びこむ。


『ぼーっとすんなミノ子! まだ溝は埋まってないんだからねっ!』

「じゃあ第二段、行くぞっ!」


 掛け声ののちに、空中をぼてぼて走って助走をつけるとすかさずその足元に虹色のパネルは出現してサランの走行を補佐する。それをいいことに、てぇぇぇぇい!っ、となんとか勇ましい声を出して次元溝付近の次元壁を殴り、叩き崩した。

 また無数のガラスをたたき割ったような快感が手のひらを通してつたわり、爆発音が響いて爆風に吹き飛ばされる。二度目であってもサランは吹き飛ばされてくるくると回転した。――次元壁を叩き割るのは簡単だが、いちいち爆発と爆風がセットになっているのは堪える。


「――もっ、もういいかっ……っ? 溝は埋まったか?」

『そんなわけないじゃん。あの溝全体を埋め尽くして蟲たちが出てこないようにしなければ意味ないよ。――ああっ、Taygeteおば様とAlcyoneおばさまがここにいたらショベルカーとローラーであんな溝くらいすぐに平に均してもらえるのにっ!』


 最古のワンドがここにいないことを嘆くハンマー上の虚像のツチカは苛立たしそうに、脚を踏み鳴らす。つまりこの作業は時間がかかるという意味だ。目を凝らせば虹色に輝く次元壁の土砂にうずもれた溝全体など最初からなかった程度に埋めるには確かに時間がうんと必要そうだ。何でも吸い込む溝に土砂を投げ入れるような徒労をサランは感じてしまう。

 でも、やらねばならないのだ。やらねば世界の文明が数世紀後退した状態になってしまのだ。それは困る、御免こうむる。


 かくしてサランは溝をのぞきこみ、次元壁を崩し始めた。溝の周囲をハンマーを使って慎重に叩いて崩し、ある程度埋まるとハンマーでとんとん叩いて極力平らにする。ある程度それが終われば、脆そうな所を見つかるとそこを重点的に叩いて均す。その作業は幼児期の砂遊びを連想させた。

 月明りのもと、大規模な爆発が起きない程度に虹色に輝く次元の断層周辺の壁を崩し、トントンと叩く。谷間に沿って現れた断層に重なる谷川と重なる次元の溝を、そんなもの叩いてなかったようにサランはたたく。ハンマーをふるっては慎重にとんとん、とんとん、とんとん、とんとん……。


 気が乗っている間は集中できる単純作業のおかげで、サランはしばらく次元溝を埋めることに没頭する。巨大なハンマーを振るってひたすら叩く。しかしやはり気が付かずにはいられない。

 

 ──世界を救うにしては地味すぎやしないか? この作業――?

 

「鮫島さん、撞木さん。もういいわよ、お疲れ様」


 それでも次元溝があらかた埋められ、蠢く蟲型甲種の姿も見えなくなったころ、上空から澄んだ声が降ってくる。見上げると、それはホウキにのったミユだった。

 弧を描きながら舞い降りてきたミユによる作業の終了の宣言を聞くや、サランの手の中でハンマーの形が飴細工のようにぐにゃりと変化した。そうしてサランの手から外に出たツチカは元通り、人間形態に戻る。ふわりと宙に浮いているために髪は白銀のままだが。


 凛々しい礼装風の兵装姿だが、古本屋のお姉さんの時と変わらない微笑みをミユは浮かべている。それをみると張り詰めていたサランの全身が一気に緩み、強い疲労に襲われた。そのまま前のめりになった所を、横座りでホウキに腰をかけていたミユはあわてて抱き留める。


 あらあら大丈夫? と、もう一歩も動けないほど疲れ果てたサランをミユは戸惑いつつも受け入れて、膝の上に乗せた。このところ優しいOGに甘えるのに慣れてしまったのをいいことに、ミユの腰に手を回して手入れされた布の匂いが心地よい兵装の胸に顔を寄せるサランの耳にツチカのぼそっとした悪口が耳に入る。


「――赤ん坊じゃあるまいし」


 うるせえ、とサランな心の中でのみ言い返した。口もきけないほど、体にのしかかる疲労がはげしかったのだ。

 確かに午後から怒涛のように様々出来事が押し寄せてきた一日なのだから疲れるのはあたり前なのだが、全身が鉛にでも変わってしまったような気さえする強い疲労は、ワルキューレになってからですら初めて体験するものだ。

 少々異様に感じるサランへ、ツチカの憎たらしい声が響く。


「疲れるのは当たり前だよ。あんた、本当はあたしを使いこなせるレベルに達していないんだから。なのに無理してあたしを使ったせいで負荷がかかりすぎた体の方が悲鳴をあげてんの。普段スニーカーとかローファーしか履かないような子が気取ってハイヒールなんか履いてみて、靴擦れおこしたり足くじいたりしてるようなもんだね」

「こら、撞木さん! せっかくのお手柄が台無しになるようなことを言っちゃ、ご褒美あげないんだから」


 それはミユが、騒がしい後輩たちを諫める時にやる「めっ!」とほぼ同じ調子だったのに、ツチカの発する雰囲気がそれだけで変わった。小娘にも甘くない厳しい先生や教官に見せていた特有のしゃっきりした口調に切り替わる。おそらく姿勢も正しているに違いない。


「すみません。以後、気をつけます」


 とろとろと眠気に襲われながらもサランは、ツチカのスイッチの切り替えぶりに合点がいった。おそらくミユのホウキを無断で持ち出したあの夏の夕方、ブートキャンプ の教官調で叱られたことがよほど骨身にしみたのだろう。無理もないな、と脳裏にキタノカタマコが連れてきた少女たちを制圧した直後のミユの姿を思い浮かべて納得した。びびるツチカを見るのは単純に痛快でもあったが、反面同情心も催す。


 ミユとしてはツチカの堅い態度が気になったらしい。ホウキの柄の先にぶら下げていたビニール袋から缶コーヒーをとりだしてツチカへ差し出した。


「今はこんなものしか用意できなかったけれど、とりあえず。よく頑張ったわね」

「ありがとうございます。さっそく頂戴いたします」

「――ねえ、撞木さん? 以前みたいに気軽に接してくれてかまわないのよ?」


 うやうやしく缶コーヒーを受け取るツチカの態度には、いざと言う時に見せる令嬢ぶりが感じられたが、それは少々他人行儀でもあった。ミユも少しおろおろとした風情で、過剰に下手にでている。どうやらツチカにとってはお盆のあの日に涙目になるほど(おそらくあの、ブートキャンプの教官風に)叱られたことがそれなりのトラウマと化しており、ミユもそんな風に叱ったことが恥ずかしい上に悔やまれてたまらないようだ。

 サランにも冷たい缶コーヒーを差し出した。ミルクと砂糖の大量に入った飲みやすいものを選んでいるあたり流石と言うべきか。

 疲労困憊した体はエネルギーを欲している。この甘ったるそうな飲料を今飲めば、人生で一番美味しい飲み物になるに違いない。プルトップを引き上げるなり、くいくいとブラックのコーヒーの飲み干すツチカの満足げな横顔をみてそんな予感に染め上げられた。しかし、それすら億劫だ。

 

 ばらばら……と天球の片隅からプロペラの稼働音が近づいてくることに気付く。亜州連合の軍用ヘリのもので、数機分はあるなとしだいにこちらに近づく音を聞いてサランは判断した。ミユも耳に当てた無線機で、なにかしら通信を始める。なにげなく足元より下に目を転じると、崖沿いの車道を走行するテールランプがいくつか見えた。おそらくこれも軍関係のものだろう。実況見分が始まるといったところか。

 その間に、ツチカは缶コーヒーを飲み干して、空き缶を寝ぼけ眼のサランに押し付けた。片付けろ、ということらしい。


「軍だの国連のお姉さまだのが来たら面倒だし、あたしもう帰るわ。サンオさんにごちそう様って言っといて。あ、あとまた本買いに立ち寄りますからって」

「……んなことはなぁ、自分で言えよう……」


 頭をガクガクさせながらのサランの抗議をまるっと無視し、ツチカはミユへ頭を下げた。そして白銀の髪をなびかせてふわりとターンする。それだけであの憎たらしいお嬢様の姿は消えていた。どこぞへ瞬間移動したらしい。無線機で報告するミユの声に動揺はない。しばらくして通信を打ち切る。

 自身の胸に身をあずけるサランの肩をそっとゆすって目覚めさせると、ミユはいつも通り優しいふんわりとした微笑みをうかべ、ツチカに押し付けられた空き缶をビニール袋の中に入れた。

 


「あと始末はもう、上に任せればいいわ。聴取や見分は明日以降ね」

「鮫先輩……」

「本当によく頑張ったわね。今日はゆっくり休みなさい。帰り道は小雨に聞けばいいわ」


 ゆっくりとミユは元居た位置まで上昇する。地面と水平になる様に浮かんだ姿見の真下までくると、蝶の螺鈿細工をリングでこつこつとノックをした。

 

 すると、にゅっと肱のあたりまで腕がのびてくる。たゆたゆと水銀のように重たく揺れる鏡の表面から生え出たような腕にはもうあまり驚くことなく、サランはその手を掴んだ。そのとたん、ぐいっと鏡の中へ引きずり込まれる。


 そこは再びの鏡面世界、しかも九十九タワーの鉄骨の上。それなりに高い場所にあってもサランはもう、さほどおどろかない。

 それよりも、だ。


「――あ……?」


 自分の手を掴んで引っ張り上げたのが、うっすら予想していたコサメではなく、涙目で頬をぷーっと膨らませたミカワカグラだったことにサランは一瞬疲労がとぶほど吃驚したのだ。


「探しましたよ~、鮫島さんっ。全くもう! こんなややこしい場所にいたなんてこっちは全然知らなかったんだからぁ」


 泣き喚きたいのを必死でこらえてる様子のミカワカグラがどうしてここにいるのか、一切がわからないままサランは目をとじた。とにかく眠くて疲れて、こうでもしないとやっていられなかったのである。




「大体、みんな私を便利に扱いすぎなんですっ。近場であれば単独次元間航行が可能だからって却って早々迎えに行かされて――っ。そしたらサメジマさんはぐうぐう寝ちゃうし、なんだか変わったOGはいらっしゃるし、言っときますけど、私も結構疲れてるんですよっ。タツミちゃんのところまで日本刀ワンドを届けに行ったりして――それにそれに……っ」

「ったく、うるせーっつってるじゃんさっきから」


 どがどがどがどが……とせわしなく、椅子の背中が蹴られた。蹴ったのは無論サンオコサメだ。相変わらずのネグリジェ姿がイヤミなくらいににあっているのにやってることは行儀が悪いことこの上ない。


「フカガワハーレム完結編世界最速上映って形で夢の体裁整えてやってんだからさぁ、雰囲気だせよ。雰囲気を」

「――サメジマさんっ、本当にだれなんですかこの人っ? 鏡の中に虚数空間作っちゃう上に、夢の支配力も私なんかよりずっと上ですっ。――まさかこの人が……? こんな人が?」

「そーですあたしが眠り姫です。……こんな人たぁご挨拶だなあ。言っとくけど他言無用だぞー、フカガワハーレムのカグラちゃん」


 涙を浮かべた目でカグラはじろりと背後のコサメを睨んだが、後輩でいることに居たたまれなくさせてしまうOGはどこまでもタチが悪かった。ポップコーンを口の中に放り込みながら釘をさすのだから。


「言わないよなぁ~、フカガワハーレムのカグラちゃんは芯のある真面目な女の子ちゃんだもんなぁ~。ムカつくOGの陰口たたいたり機密を漏らしたりしないよなぁ~?」

「――ッ!」


 カグラの恨みがましい視線がサランへ向けられる。その眼差しには、迎えに来てやったんだからこの非常にタチの悪いOGをどうにかしろという命令が込められている。サランも文芸部員として責任のようなものを感じてしまった。とりあえず、二人の間の緩衝になることを決める。


「とにかく、これはうちの夢ってことでいいの? うちの夢にミカワさんもコサメさんも入ってきてるってこと?」


 むっすり、と『ハーレムリポート』では伝えられたことが無いであろう不機嫌極まりないふくれっつらでカグラは頷いた。サランは思わず自分の頭に手をあてる。心なしか急に重たくなった気がしたのだ。


「サメジマさんが帰って早々、タワーの上で眠り込んだ瞬間、先輩がちょうどいいから夢にお邪魔しようって。――そこで私がみてきたことを話せって仰って……」

「だってカグラちゃん口頭での説明能力皆無なんだもん。そんなんじゃダメだよー、高い能力あっても実力不足のところにチェック入れられて出世しないよー?」


 そこで、疲労のあまり死んだように眠り続けるサランの夢に入り込み、深層心理の共有映画の上映という形で諸々暴露させられるハメになったらしい。自由闊達、傍若無人に後輩の人権を蹂躙しまくるOGを前にサランは思わず困惑した。なぜにミユはこんな人とパートナー関係を結べるのだろう?

 疑問は膨らむが、何気なくスクリーンに目を転じると、こちらには背中をむけてばかりいる少年がスマートフォンをスクールバッグに閉まって自転車に飛び乗り、少し離れた松林目指して移動を始めるというシーンに突入していた。




 沖の上空で少年が見上げていた乱舞する光のうち一つだけ、弾かれたようにゆるやかで大きな弧をえがきながら浜辺まで飛んできたのだ。その先には防風林でもある松林がある。光の球は松林の中に墜落した。――好奇心が刺激され、松林に落ちた光を探しに出たのだ。自転車にのって走り出した少年の行動に理由をつけるならそうなるだろう。




 なにやらストーリーが動き出しそうなシーンであり、サランもうっかり座席に背中を預けた。カグラのチョコスティックをみているうちに自分も何か甘味がほしくなる。おやつがほしいと願うと、別れる直前にミユに手渡された甘ったるい缶コーヒーが手の中に出現した。夢は便利だ、とその点は単純に評価してプルトップを引き上げた。


 


 少年は松林の傍に自転車を止め、光の球が落ちたあたりをウロウロと歩き回る。何が落ちたのか。隕石か、UFOの類か、好奇心に手綱がつけられない子供っぽさを引きずった年代らしく、松林の根元をみて少年は歩く。それらしいものを見つける気満々でいるのだろう。

 



「この男子ってフカガワミコトの前世?」

 

 甘ったるい缶コーヒーをすすりながらサランが尋ねると、まだむっつりしたままカグラは頷いた。


「タツミちゃんに合流したときに聞いたお話と私が見聞きしたことを、例によって私なりに合成・編集したものです。その点は注意なさってください」


 律義にこう断るあたりがカグラの真面目な気質を表している。

 サランはそう評価しつつ頷いた。あと、この映画の存在を知ったら、人の深層心理の映像データ化したアーカイブを作るという途方もない野望を抱いてているパトリシアあたりが知ったら大変なことになりそうだという感想も思い浮かべる。

 ……と、松林で何かを見つけたらしい少年の動きが急にゆったりになった。映画はサランの夢がベースになっているため、サランが意識を逸らしてしまうと上映テンポに影響が出るらしい。またコサメが背中をどんと一回蹴ったので、サランはスクリーンに集中することにする。




 少年は松の根元に何か光るものを見つけたらしい、傍までくると駆け足の速度をおとし、恐る恐る……といった様子でそれをのぞき込む(その際カメラは少年の視点に寄り添っており、未知なる何かを突き止めようとする少年の行動がモキュメンタリ―風ホラー映画風に表現されたので、サランは安易に引き込まれた)。

 少年がのぞき込んだそこは若干の恐怖を交えた期待に反して何もいない。細かな砂をかぶった松の根があるだけだ。

 なんだ――と、拍子抜けを表す間合いの後、少年の視界でもあるカメラの角度が変わる。そしてその先で何かを捉えた。

 それにピントが合う前に、しゅるしゅると地を這い少年の元へと駆け寄る。鱗がつやつやと照り輝いた胴が太くて丈の短い、蛇、のような生き物だ。

 それはサランたちが生活する二十一世紀末の旧日本でも未だ発見されていない、伝説的UMAのイメージ図によく似ていた。




「え、ツチノコ?」


 甘いコーヒーをすすりながら隣の席にカグラへサランは訊ねる。お菓子を齧りながらカグラは頷く。


「だって、そう聞いたんです? 松林まで言って見つけたのが隕石でもUFOでもなくツチノコだったって。それがしかも、ぴょーんと飛んで口の中に飛び込んできたんだって――?」

「…………。え?」

「嘘じゃないもん! 本当の本当にそう聞いたんだもん! ――だからこんな、映画みたいな形で話すの嫌だったのに……。絶対信じてくれないって……っ」

「あー、ごめんごめん。あまりに突拍子がなかったもんでつい……っ」


 スネだすカグラの語った通りに、スクリーン内でストーリーは展開した。




 鎌首もちあげて威嚇する、どうみてもツチノコにしかみえない蛇が伝承どおりにぴょんと高く跳び、驚いて腰を抜かす少年の口の中へ飛び込んでゆく。そしてそのままぐりぐりと少年の体内へ――。少年はそのまま、気を失う。




 バカバカしい、という感想すら勿体ないような不条理な光景が繰り広げられる映像をみて笑うのはコサメくらいなものだった。サランは暗転したスクリーンを前に眉をしかめる。なんだか目覚めるか、夢すらみない深い眠りに落ちたくてたまらなくなったが、それを防ぐように一人楽しそうなコサメが椅子を蹴る。


 


 サランにとってはありがたいことに、少年はすぐに目を覚ました。

 そしてすぐに、体についた砂を払いながら立ち上がる。しきりに首をかしげるあたりに、上空の光の乱舞や松林に落下した未確認飛行物体(隕石? それともUFO?)とツチノコの関係に困惑している様子をほのめかせる。そして、額に手をあてて、全てを夢で片付けようとするような意志を漂わせた。

 その時、何かに気が付いたらしい。

 少年は自身の左手をじっと見る。


 薬指の根元に指輪が嵌っていたのだ。


 それがもともと少年の指に嵌っていたものではないことは、左手をむやみやたらに振ってみたり、太陽にすかしてみたり、右手で思い切り引き抜こうとしたりする動作に見て取れる。しかしその、少年にとっては不可解な指輪は頑なに指から抜けようとしないことは、困惑し焦った少年の後ろ姿でよくわかった。

 なんなんだこの指輪、気色悪っ――という感想でも思い浮かべているのか、自分の手を顔から極力遠ざける少年の頭上から小さな影がかぶさったのはその時だった。


『ちょっとそこの、どいてどいてどいて――ッ』


 この映画はなぜかサイレントだ。そのせいか、弁士がいたころ時代の映画のようにぱっと映像がとぎれて、文字だけを表示したカットがインサートされる。この騒々しい文字がだれの台詞なのか。

 すぐさま画面は切り替わり、少年に被さった影の主は誰なのか即座に明らかになる。


 巫女衣装とセーラー服を組み合わせたような、太平洋校センス満載な兵装姿で空を滑空してきたばかりのトヨタマタツミ。その人以外にあり得なかった。




 危うく甘ったるいコーヒーを噴きだしそうになったサランの目の前で、二〇一〇年代では特殊なイベントの日や決められた場所以外では往来を歩かないことを推奨される類のいでたちのトヨタマタツミは、現地の少年の上に墜落したのだった。

 ここから数分間の展開は、サランたちならみなくてもわかる。出会い頭にぶつかるハメになった少年は、うっかりタツミの胸に触れているか、顔面をまたがれる格好で倒れるか、なぜか唇と唇が触れ合う羽目になったりするのだ。そういう場面を今までやというほど見てきたサランとカグラはそれよりも気になる情報についてやり取りをする。


「これ、ミカワさんが博物館で見せてくれたビジョンの続きだよね? トヨタマさんがもってたリングをシモクのやつがぶん投げて、そしたら一瞬だけ元に戻って――」

「そうです。タツミちゃんがリングの後を追いかけた、その後の展開になります」


 スクリーンから顔をそむけたカグラが、チョコスティックを片手に仏頂面で頷く。

 少年のほぼ真上からフライングアタックを決める要領で空から降ってきたトヨタマタツミは、自分の胸が下に敷いているのが見知らぬ現地少年の顔面だったと分かった途端、悲鳴を上げて平手打ちをくらわしている。サランにとってはあくびが出る程見あきた光景であり、カグラにとっては非常に面白くない光景らしく、やたらとチョコスティックをしきりに齧る。楽しげなのはポップコーン片手のコサメくらいなものだ。


「トヨタマ家のお姫様。人命救助を怠ってるな。厳重注意だ、こりゃ」


 背後のコサメは細かなところに注目していたが(確かに人間ひとり下敷きにしているのに生存確認をせずにまず平手打ちをする私的制裁に走るタツミの行いは、あまりほめられたものではない)。




 タツミの平手打ちで意識を取り戻したらしい少年は、この時代の人間であればなおさら違和感のあるであろういでたちのタツミを前にして飛び退り、なにごとかをわめく。もちろん画面は台詞のみ表示する。


『だ、誰だあんた! なんで空から……!? 宇宙人とかそういうヤツかっ』


 その叫び声ではなく、何かに目をとめたタツミはスクリーンの中ではっと目を丸くする。そしてつかつかと少年との間の距離を早足で詰めた。

 美しくはあるが奇態な少女こちらに近寄るのをみた少年は、おびえたようにスクールバッグを盾にする。来るな、か、近寄るな、か、わざわざ文字にしなくてもいいセリフを口にして威嚇する少年の左手を、タツミは掴んだ。少年はタツミの腕を振り払おうとするが、日々日本刀型ワンドを振り回すタツミの握力および腕力はそこいらの男子よりはるかに上だ。けっきょく左手首をねじり上げて、しげしげと手の甲を観察する。

 言うまでもなく、薬指にあの指輪がはまってとれないあの左手を、だ。もちろんその指輪こそ、つい先日までフカガワミコトの薬指に嵌められていたあのリングである。二人が婚姻マリッジするまではもともとタツミのものだったのだから、すぐさまこの指輪がなんであるのかを見抜いたのだろう。タツミの眉間に皺が寄った。そして少年にくってかかる。


『どうしてあなたがこのリングを嵌めてるのっ!』

『知らねえよ、気が付いたら勝手に嵌ってたんだ』


 スクリーンの中のタツミは少年の左手薬指から指輪を抜き取ろうとリングに手を添えた。そしてそのまま引っ張る。音声は伝わらないが、少年が絶叫する様子がその態勢でよくわかった。


『痛いって! なにすんだてめえっ』


 少年は凄むが、タツミは猪突猛進ガールらしく少年の左手薬指からリングを外す作業に集中する。しかし力及ばなかったとみえて、肩を落としてはあ~……とため息を吐いた。


『ダメだわ。抜けない。リングに何かしらの生体ロックがかかってる。――おかしい、この時代じゃリングの機能は使えないのに。じゃあ機能外の作用でロックがかかってるってこと? 考えられるのはキタノカタさんかシモクさん、どちらかによる呪詛、あるいはフカガワとS.A.W.シリーズとの縁に起因する何かってことね。あたしが感知できないレベルの呪詛をしかけるなんて呪術巫術魔術の専門家じゃない限り無理だから、シモクさんは除外ね。やっぱりフカガワとS.A.W.シリーズとの縁による線も濃厚だし、キタノカタさんの関与は否定しづらい……——』


 ここ最近忘れがちだが、トヨタマタツミは文武両道の「文」の方にも秀でた少女だった。そのことを証明するようにタツミは現地少年の右手薬指に嵌ったまま抜けない指輪を前にして何事かを口にしながら思考をまとめだす。

 しかしタツミは物事に熱中すると極端に視野が狭くなる少女でもあった。どうしてこの過去の世界では起動しないはずの電子端末が指から外れないのか、それを考えているのに夢中になるあまり、現地少年がそおっとその場を離れだすことに気付かない。

 少年にしてみればタツミは、アニメーションやゲームや漫画や娯楽小説のように空から降ってきた少女である。しかもいかにもそれっぽい、コスプレじみた格好までしている。フィクションならば胸が躍っても現実でこんなことが起きるだなんてたまったものではない――逃げ腰の表情がそう語っていた(フライングアタックを決められた上に、不可抗力の事故で平手打ちも食らわされた不服さも加わっているようだ)。

 そろりそろりと少年はタツミから距離をとり、ある程度離れると一気に駆けだす。そして立てかけていた自転車の場所まで戻るとそれにまたがり思い切りペダルを踏んだ。


 スタンドを倒す音、回転するスポークやリムの音、砂を踏みしめるタイヤの音等、無数の物音からなる騒がしさを前にタツミもさすがに我に帰る。かくして一気アスファルトで舗装された車道へ出るなり全力でペダルを漕ぎだす少年の後ろ姿めがけて、ためらうことなく追いかけだすのだ。

 

 大昔のコメディ映画そのもののように、少年は自転車を全速力で走らせる。高い堤防で護られた海岸沿いの車道を走り、祭準備でにぎわっている神社の石段の前を、ひなびた個人商店の並ぶ海辺の町を暫く駆ける。その後を、この世界では単なるコスプレ衣装にしか見えない筈の恰好のトヨタマタタツミが追いかける。


『待ちなさいッ! リングを、返して!』


 文武両道の「武」が秀でていることは誰だって疑わないタツミの脚はかなり速い。しかも短距離も長距離もどちらも相応の結果を出せる。同世代の少年が全力をこぐ自転車との差を見る間に縮めてみせる。少年は振り向き、驚きで顔をゆがめた。後ろを見たせいで、前からやってくる軽トラと危うく接触しそうになる。

 祭準備で防波堤にまもられた海岸沿いの小さな町には、中高年と子供たちを中心とした人々でそれなりににぎわっている。出典準備中の屋台や商店の前でたむろする人々は、中学の夏服姿の少年が死に物狂いで自転車を漕ぐ様子と、その数秒後に妙な扮装の美少女が風のような俊足ぶりで駆け抜けていく様子を呆然と見送る。


 そんな大昔のスラップスティック映画じみたコメディ演出を挟みつつ、少年はとある交差点を内陸側へ向けて直角に曲がった。タツミも勿論その後を追おうとするが、歩行者信号はタイミング悪く赤に変わる。通行可能になった車道には数台の自動車が立て続けに通過した。

 ようやく道路を渡れるようになったころには、少年の姿はそこにもう無い。土地勘を活かして逃げ切ったのだ。

 それでもタツミの表情から戦意は失われていない、信号が変わらないうちに少年が去った後を呆れるほどの速度で駆けるのだ――。


 

 スクリーンの映像はそこで切り替わった。

 リングが左手薬指に嵌ってしまった少年が、サランたちのいる時代なら重要文化財していされていてもおかしく無さそうな古民家の納屋に自転車を滑り込ませると、わき目もふらずに母屋に飛び込む。

 生垣に囲まれたこの古民家はリノベーションが施されているのか、玄関の大きな引き戸の上に伐り出した天然木材の看板が掲げられていた。そこに掘られているのは「ギャラリー&喫茶 はごろも」の文字である。

 この時代では珍しいものではない古民家リノベーション型カフェであることを示す店舗の引き戸を少年は慣れた様子で開いた。そして、背後を伺い、誰もいないことを確かめてからそっと戸を閉める。そして、天平風に彩色された彫像が並べられた広い土間を歩き、三和土で靴を脱いだ。


 その様子は完全に身体にしみついた日常の動作だ。この様子から様子からして、この「喫茶&ギャラリー はごろも」が少年の家に違いない。すっかり見慣れて興味がないと言いたげに少年が素通りした彫像たちがギャラリーたる根拠なのだろう。


 靴を脱いですぐ、玄関と部屋を仕切る格子戸を引いて少年は中を覗いた。


 かつては畳敷きの和室であったのであろう室内が板張りのフロアにリフォームされ、看板と同じような天然木材の形を活かしたテーブルセットが数台設置されている。まさしくカフェの店内で、カウンターの中では中年男性が少年にむけて意味ありげにニヤッと笑いかける。その馴染んだ雰囲気から、この男性が少年の家族なのは明らかだ。おそらく父親だろう。


 ただいま、おかえり、といった日常のやりとりを少年と中年男性はなにげなくかわす。少年はそのまま二階へと続く階段に向かおうとしたが何かに気付いたらしくもう一度喫茶スペースをのぞき込んだ。


 カウンターの中にいる父親の斜め前に、黒いジャンパスカートに半そでワイシャツという夏服姿の少女の後ろ姿があった。ハーフアップにまとめた黒髪から漂う雰囲気からこの少女の清楚さと美しさを予感させるに十分だ――サランは若干、嫌なものを連想したが。

 ともあれ、少年はその少女の後ろ姿をみて驚いたのか、瞬きを数回繰り返した。この少女がここにいるのが意外である、そんな風情だ。そこへすかさず、カウンターの中の父親が意味ありげなニヤニヤ笑いを口元に浮かべたまま、少年へ声をかけた。


『こっち来い、マコちゃんが遊びに来てるぞ』




「⁉」

 

 なんだかんだで人の好いカグラが差し出すチョコスティックの御相伴にあずかっていたサランはその文字をみて危うくむせかける。スクリーン内カウンターの中にいる、いかにも広告業界かデザイン事務所で働いたのちに脱サラして田舎でカフェでも開きそうなのがにあう髭を生やした中年男性は今なんと?

 マコちゃん、という名前とハーフアップの黒髪に言い知れぬ恐怖を抱くサランをじらすかのように、ていねいな仕草でカウンターのスツールに座っている少女は振り向いて微笑む。


 してほしくない予感ほど的中するものだ。

 乱れのない黒髪、白くなめらかな肌に涼やかな眼元、珍しく口元には柔らかでどこか蠱惑的な微笑みを湛えているが、その少女は間違いなく、サランもカグラも良く知るあのキタノカタマコだった。来ているものが太平洋校の制服じゃないこと、トレードマークといってよい扇子を持っていないこと、侍女を引き連れておらず一人であることには違和感があるが、どこどうみてもそれはキタノカタマコに違いなかった。

 



『お帰りなさい』


 スクリーンの中のキタノカタマコは少年に声をかける。少年は怒ったようなはにかむような表情をうかべてから、大股で喫茶スペースに入るとマコの隣に座った。

 そこでスクリーンのカメラアングルが変わる。カウンターの内部から、少年とマコのバストショットを撮る格好となった。マコの正面には陶器のカップに淹れられた温かそうな飲料があった。慣れた様子でそれを持ち上げ、そっと唇をつける様子は洗練されていて大人っぽい。

 そんなマコの向かって左手に座った少年は、どこか落ち着かない様子で声をかける。


奉納ほうのうまいの練習に行かなくていいのか?』

『夕方からだからまだ時間があるの。だからちょっと、お邪魔しようと思って』


 おじさまのコーヒーも久しぶりに頂きたかったし、と、スクリーン内のマコは、今は背中のみ映されている中年男性を見上げてにっこり微笑んで見せた――。




「待って、待て待て待て待て待て、ちょっと待ってって!」


 スクリーンの中で何が起きているのかさっぱり理解できないサランは、この映画を製作・配信しているカグラに手を伸ばして繰り返す。混乱するサランを前に、カグラは表情で「皆まで言うな」とばかりに頷いているのが心強い。


「分かりますよ、サメジマさんの仰いたいことは? どうしてキタノカタさんがあそこにいたんだってことでしょう?」

「だってだって、さっきまでうちとシモクはあの人と九十九市にいたんだって。それなのに、なんで――」


 スクリーンとカグラの顔を見比べるサランの目の前に、奇麗に爪を整えた手が横切る。それはついと伸びて、カグラの差し出す箱からチョコスティックを一本取った。そういう無作法をするのはこの夢の中の映画館内にはひとりしかいない。無論、サンオコサメである。


「落ち着け後輩、キタノカタのお嬢様はお前とつーちゃんコンビとやりあってその後どっかに移動したろう? おそらく、その行き先があそこだったってこったな」


 む、と咥えたチョコスティックの先でコサメはスクリーンを指した。

 サランはそれを聞き、ほおほお……と頷いた。

 博物館などでの所業をみても、S.A.W.シリーズ六体分を合成した羽衣を持つキタノカタマコは次元単独渡航が可能な能力を有する身であるとみてよいだろう。

 

 それにツチカもこう口にしていた、「どうせ行き先きまってるんだし」と。


 確かに行き先は決まっていたのだ、羽衣を完全なものにするのに必要なツチカが自分のものにならないと悟ってすぐ、マコは旅立った。ツチカのスペアともいえる存在がいる、この時代へ――。


 その上でもう一度、少年の隣で微笑むマコをみる。

 にこにこと礼儀ただしくそれでいて親しみやすさがある、品行方正だけどとっつきにくくはない、はっとするほどの大人びた美人だけど笑った顔には愛嬌がのぞく。そういった女の子を完璧に演じているキタノカタマコの様子が信じられなかったのだ。あの、傲岸不遜で怜悧冷徹で自分の益にはならない人間は虫けらか路傍の石ころを見るような視線を浴びせかける、普段の様子はどこにいったというのだ? 

 そうまでして最古のワンドを七体揃えたいのか、そうまでしてこの地球を均したいのか、と、サランはスクリーン内でのマコを見て唖然としてしまったのだ。

 が、即座に納得した。

 思えばキタノカタマコは、スペアであってもワンドを手に入れるためならばフカガワミコトにハニートラップをしかけるし、全人類の前で泣き落とす健気なワルキューレを演じることもためらわない、そういう少女であった。

 目的を果たすためならばどんな役でも演じて見せようという気概に思わず感じ入りつつも、マコの目的が即ち地球からの全人類の退去にほかならないことをおもえば複雑な感情にならざるを得ない。

 

 色々な感情がせめぎあうため無言になってしまうサランの隣で、カグラが解説をする。



「この世界に戻ってきたキタノカタさんは、町中の人に暗示をかけています。自分はこの町の氏神である神社の娘で、毎年夏まつりに奉納することになっている神楽舞の名手だって。フカガワ君の前世であるあの男の子にはより念入りに、幼馴染だって暗示をかけています」

「幼馴染……キタノカタさんが幼馴染……」


 似合わねぇ~……、とサランは思わず呟かずにはいられなかった。


 ともかく、キタノカタマコがそこまでするということはなにがなんでもS.A.W.Ⅰ Maiaの遺伝子を引き継ぐ存在が欲しいということであろう。その娘であるシモクツチカは本人の頑なな拒絶によってサランがパートナーによりマコのものにならないことが決定的になった。そういうこともあろうかと――おそらくそういう意図があったはずである――先に取り込んでいたツチカのスペア・フカガワミコトはトヨタマタツミの妨害により羽衣から切り離されてしまった。

 ならばマコの狙いが向かうのは、この世界にいるフカガワミコトの前世の姿であるところのこの少年、そもそもフカガワミコトがシモクツチカのスペアとなるような縁起をその身に持つ彼である、ということになる。


 ――サランはその意味を改めてよく考えた。少年がキタノカタマコに目をつけられるような、トラックに轢かれて一少年に転生した先で世界で唯一の男性ワルキューレなる身になってしまったのは何故なのか。

 それは、最古のワンドのうち一体と人間との間で生まれたシモクツチカと互換の効く非常に稀な個体であった為だ。

 しかし、フカガワミコト事態は十四才で事故に遭うまでは単なる少年に過ぎなかった。ごく普通の男女を両親にもつ、なんの変哲もない一男子であった。事故によって前世に由来する眠っていた素質が顕在化し、稀なる個体に生まれ変わったといえる。

 では、今このスクリーンで幼馴染の少女を演じるキタノカタマコとはにかみながら談笑を繰り広げているこの少年はどういった素質を眠らせていたというのか?


 その推測は容易い。やはりツチカと同質の存在であるから、という答えが導き出される。ということはつまり──。

 

「!」


 サランの脳裏に浮かんだのは、帰宅したばかりの少年が一瞥もしなかった彫像の群れだ。あの中の一つにあれがある筈だ。それを確認しなければならない。

 そう願ったとたん、スクリーンの映像は巻き戻る。あ、こらなにしやがる、とコサメが抗議の声をあげたがこれはサランの夢がベースとなっているためかスクリーンの映像は意のままに動いてくれた。ちょうど、少年が玄関の引き戸を開けて帰ってきたところまで。

 着色されていたとはいえ薄暗い古民家の屋根の下で居並ぶ彫像の群れは、この世のものとは思いづらい。白黒だとなおさらそれが際立つ。美しさと紙一重の無気味さに背筋をぞわぞわさせながら、サランはそれを探す。しかし、目的のものはみつからない。

 おかしいな……、と席を立ちあがった途端、どがっとまたコサメに座席を蹴られてしまった。


『気が済んだか? じゃあフィルムをさっきのとこまで戻せよな。何気に楽しんでみてるんだぞ、こっちは~?』


 傍若無人なOGの命令に、後輩としては従わざるを得ない。映像だけみれば単なる中学生のラブコメドラマでしかないものをいい大人が一生懸命観ないでほしいとサランは心の中でぶつくさ言いながら、フィルムをさっきの時点まで戻す。




 カウンターで並んで座り、グラスに入った氷水を飲む少年と、夏模様の屋外をものともしないのか涼し気にホットのコーヒーを飲むキタノカタマコ。

 マコはふと、カウンターに置かれた少年の左手にふと目を止める。もちろんその薬指には、本来フカガワミコトの左手薬指になければいけないリングがあるわけだ。


『その指輪──』

『あ、これは、その、あれだ……ッ』


 来世と同じく嘘が苦手なのか、少年はあからさまに狼狽えて左手を背後に回した。その仕草から、キタノカタマコが少年にどんな暗示をかけているのかがよくわかる。

 正体不明な上に左手薬指に嵌っている指輪(しかも外れない)という危険きわまりないものが幼馴染に見つかってしまい、腰がひける少年をカウンター内側にいる男性が茶々を入れる。


『お、なんだ? 浮気か?』

『違う! これは、だから――』


 言い訳しようにも、空からふっってきた未確認飛行物体もしくは隕石を探しに松林に出向いてツチノコとしか思えない爬虫類に遭遇、それが口の中にとびこんでくるというめちゃくちゃな幻覚をみた直後の左手にこんなものが嵌っていた──という経緯をわかりやすく説明できず、口を開け閉めさせる少年の隙をつくように、画面が切り替わり、何者かの台詞が文字で示される。


『嬉しい。さっそくつけてくれてたんだ』


 無論、キタノカタマコのものだ。はにかみながらやや俯くという、太平洋校の敷地内にいるときには絶対みせない佇まいを披露しながら、幼馴染の少女を演じるマコはカウンターの中にいる男性へ説明する。


『先週、二人で花火大会に行ったでしょう? その時に彼が屋台で買ってくれたんです』


 そういって、マコは自分の右手をさしだしてみせる。もちろん、その薬指にはリングがある。マコ自身のリングが。

 スクリーンのこちら側にいるものには分かる嘘を、マコはぬけぬけと吐いてみせる。


『ほら、お揃いなんですよ。ね?』


 黑い瞳から放たれる涼やかな視線。それは、幼馴染の演技にそぐわない圧力を発するそれは、この数か月でサランにとっては非常になじみ深いものになったものだ。有無を言わさず、マコの主張を通してしまう圧倒的眼力だ。

 まがまがしいほど暴力的な視線にさらされた少年は怯むのかと思いきや、数度目をしばたたかせたあと、何度か首を上下に振ったのだった。


『あ、ああ。そうだ、そうだったな、うん。でも左手につけたのはとくに深い意味は無くてだなぁ……っ』


 表情から判断して、それはマコの視線に脅されて言わされたものではなかった。少年の記憶はどうやら本当にそこで「花火大会で屋台に買った指輪」だと上書きされてしまっている。マコがそのような暗示をかけたのだ。

 映画の観客である三人にはそう信じざるを得ない態度で、少年は怒ったような口ぶりで恥ずかしさを隠そうとする。マコはというと、そんな幼馴染の照れ隠しを柔らかな微笑みを湛えて嬉しそうに受け止めるのだ。


『いいよ、照れなくたって。私ですら勇気をだしても右手じゃないと無理だったのに、冗談でも左手につけてくれたんだもん。それだけで十分嬉しい』




 腹を立てるのも忘れてしまうほど、それは大した演技であった。呆れるサランの隣で、カグラがチョコスティックを齧る音がやや大きくなる。どうやらマコの所業と見え透いた演技、そしてまんまと騙されてしまった少年に腹を立てているらしい。

 観客席の様子も剣呑になってゆく中、スクリーンの様子も不穏さを高める。



『じゃあ、私も左手にはめようかな』


 マコは言うなり、自分の右手薬指に嵌っているリングを抜いた。当たり前だが、それはなんなくするりと抜き取られる。

 それをみて、カウンターの中にいる少年の父親が面白がって茶々を入れた。どうせならお前が嵌めてやれ、等。


『マコちゃんもコイツの左手に改めて嵌めなおしてやったらどうだ? おじさんが神父さんになってやろう』

『バカじゃねえの。引っ込ん出てくんねえかなー?』

『っと、マコちゃん家は神前式だったか』

『だからもう、親父は黙ってろってば』


 父と息子がほのぼのとじゃれあう中、キタノカタマコはすかさず少年の左手を取った。息をのむ少年の薬指に細くて白い指を添える。幼馴染の大胆な行動にとっさに言葉を失くした風情の少年を圧して、マコは恥ずかしそうに囁いた。


『いいね、それ』


 そして、少年の左手からリングを抜き取る。

 するり、という風にスムーズにはいかなかったようだが、瓶の蓋を外すときのように一回点させたのちにじわじわとゆっくり、薬指からリングを抜き取ったのだ。


 十数分前には何をどうしても外れなかったリングを、だ。

 

 自分の指にいつの間にか嵌って以降、何をどうしても抜けなかった指輪だったということも忘れてしまったのか、少年は取り乱しもしなかった。ただ、不思議そうな顔つきでゆっくり抜き取られるリングを目で追っている。しかし最後の瞬間、一瞬目を瞑って顔をしかめた。


『どうかしたの?』

『いや、なにか静電気みたいなのがビリっときて──。もう大丈夫』

『そう?』


 マコは含みを持たせるように微笑んでから、さっきぬきとったばかりのマコ自身のリングを指にとった。少年の左手をそっととって薬指にリングを通す。口元に笑みを湛えながら、ワルキューレにはおなじみのあの請願文を唱えながら。


『固き友愛、永久の絆、再び一つとなった戦乙女の魂を、かの地にて我らを見守りし泰山木マグノリアの女神に捧げん』

『? 何だそれ』

『気にしないで、単なるおまじない』


 それじゃあ、今度はお願いね。

 キタノカタマコは上目遣いで囁いて、楚々と、少年に左手を差し出した。

 さっき少年の薬指から抜き取ったばかりのリングを乗せた右掌を添えて。

 冷やかす父親を睨んでから、少年はおずおずとリングを自身の右手でつまんだ。さっきまで自分のものではなかったリングがはめられたばかりの左手をマコの華奢な左手手首に添える──。




 ヤケをおこしたようにチョコスティックをかじりまくるカグラのたてる音も気にならず、サランはつい前のめりになってしまった。キタノカタマコのやり口に呆れつつも見入ってしまう。

 もしあのリングが、もともとはタツミのものでフカガワミコトの左手薬指に嵌められていたものが、キタノカタマコの手に渡ってしまったらどうなってしまうのか。

 そのことにボンヤリと不吉な思いを掻き立てた瞬間、スクリーンのカットは切り替わりは乱暴に開かれる玄関の引き戸を大きく映し出す。  




 リングの交換寸前だった少年の手元からそれが転がり落ちる。それは板張りの床の上をころころと転がってゆく。慌てた少年がスツールから立ち上がりその後を追う。

 そして再びカットは切り替わる。カメラは、のしのしとおそらく大股で、彫像の展示された土間を横切る少女をサイドからとらえるのだ。巫女服とセーラー服を掛け合わせたような衣服を着た少女の──。


 カメラは少女の背後に回り、玄関とカフェスペースを仕切る格子戸をがらりと開いた。そしてカウンターの中で目を丸くする少年の父親と、幼馴染の少女の仮面をうっかり外したキタノカタマコが眉をしかめる様子を捉えた。しかし、闖入者である少女──どこからどうみても、怒りに肩をいからせたトヨタマタツミ――は、それらの視線をものともせず、どかどかとカフェスペースに侵入し、怒鳴った。


『見つけたわよっ! さあとっととあたしたちのリングを返して!』


 カメラは猪突猛進モードのタツミを正面からとらえた。

 憤怒の表情だったその顔が、そこに目当ての少年がいないと気づくなり、きょろきょろと周囲を見渡す(その様子からして、どうやらキタノカタマコがここにいるという不自然さにも気づいていない)。


 そして、タツミはついに少年をみつけた。転がるリングを追いかけていた少年はカフェスペースの片隅で這いつくばって、物陰に転がってしまったリングをちょうど取り上げたところだった。

 それでも、突然やってきたあの空から降ってきたコスプレ少女であるところのタツミと目があうやいなや、立ち上がって叫ぶ。


『ああああああっ!』




「ああああああっ!」


 少年の驚愕の声を示す文字と、スクリーンに映ったものをみて思わず立ち上がったサランの声が奇麗に重なった。

 コサメの抗議を無視してサランはスクリーンに指を突きつける、そんなサランの願望を読んだのか、スクリーンは一時停止してくれた。だから、というわけではないのだがサランは遠慮せず思い切り叫んだ。


「ああああ、あったぁぁー! あれだぁぁぁ!」


 サランの指先にあるのは、博物館に一瞬現れてそして消えたツチカの母親の化身であるというあの像、飛天像に違いなかった。

 少年の指先から転がったリングは、カフェスペースに展示されていた飛天像の台座の裏に転がりこんでいたのである。



 一時停止状態のスクリーンで大写しになった飛天像は、行儀悪くつきつけられたサランの指先をまじまじとみつめているうようにも見えた。

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