#59 ゴシップガールと救う世界

 ◇ゴシップガール復活SP 01:22:42◇


 泰山木マグノリアの樹から現れた巨大な女性の霊体は、空に浮かんだ顔に手をのばす。

 そして白い指を、磨いた石のような頬に添え、無機物めいた唇に口づけをした。


 メジロリリイの歌声が彩るそれは、唇と唇がそっと触れ合うような淡いものでしかない。であるからこそ、目撃した者の胸を締め付け、熱くさせる。

 曲がおわり、音源がとぎれてもアカペラでリリイは歌い続ける。伴奏がないと、神秘性のある歌声が一層際立った。

 カメラは時折、揺れるサイリウムの波の映像を合成してリリイの足元にかぶせた。そうすることによって一介のワルキューレで且つ売り出し中のインディーズアイドルである少女を、女神にむけて人々の祈りを歌声で届けんとする聖なる歌姫であるかのようにリリイを飾る。


 瞳に涙たたえたリリイは歌に合わせて、細い指先を天に浮かぶ女神に向ける。その姿が中継されるだけで視聴者の応援がケージにたまってゆく。それはもうMAXまで迫っていた。


 環太平洋圏、特に学園島に近い場所にある各島々の住民や都市圏の直接肉眼で、天上で繰り広げられる奇跡の様を目撃する。神霊型侵略者の姿は電子機器では上手く捉えられないことが多いことは、人類の常識になりつつあった。解像度の低いモニターの多くでは強烈な発光現象として記録されるか、ぼんやりとした巨大な人影がぬうっとそらに浮かび、謎めいた影に被さっているようにしか映らず記録もされない。それならば直接肉眼で見るべきと判断するものが多かったのも自明の理であろう。


 かくしてその日の夜空を、環太平洋圏の人々はどんなに月が美しい夜よりも真剣に、思いを込めて見上げていた。

 

 少女たちの集う島から生まれた守護神が、外の世界から現れた存在に親愛の情を示してる。愛をつたえ愛でもてなす。感情の見えない彫像めいたその顔に、唇から愛を吹き込む。

 その様を目撃した人々は、少なからず有名な童話を連想したことだろう。


 その物語通り、これまで固く閉ざされていた侵略者の目蓋がゆっくりと開く。目覚めたばかりのぼんやりとした瞳にはきっと、泰山木の女神の微笑みがいっぱいに広がっていたはずだ。


 戦乙女たちの友愛を見守り、手を貸していた少女の姿をした女神の微笑みが。


 侵略者の顔が徐々に色づいてゆく。血の通わぬ白い彫刻のようだった肌に赤みがさし、その夜の空のような黝い瞳が潤む。

 不意に天球が波打ったように見えたのは、侵略者の髪がゆれたためだ。そして空から、首や肩、両腕、胸……と順番に体の各部位をゆったりと顕してゆく。


 星空を透かした両手を、侵略者は女神の手に伸ばす。そして共に指先を絡める。女神と侵略者はその滑らかなほおをすり合わせて微笑みを交わす。


 侵略者を目覚めさせた泰山木の女神が先導する形で、空全体を覆い尽くすような体を大気中に浮かべた。泰山木の花弁を思わせる白いドレスと星を散らした夜空のドレスがふわりと天球いっぱいに広がる。


 固くてを繋いだ、二体の少女の姿をした神霊は互いを抱きしめ合って天に浮かんだ。まるで新たな星座に選ばれたように。


 あざやかな虹も蜃気楼も、いずれは溶けて消える。二体の神霊も夜空に邂逅の喜びを焼き付けたまま、程なくその姿は滲ませ解かせて、夜空の彼方へとかき消えてゆく──。


 リリイの歌声はいつしか止み、空には一面の流星雨が降り注いだ。のちにその流星雨はレネー・マーセルが侵略者に向けて撃ち込んだエネルギー弾が大気圏を突き抜けて宇宙開発のデブリを一気に打ち落としたものだと知れたが、その瞬間にそのような詳細を知るものはいない。ただ、人々の祈りをこめた少女の歌声に呼び出された友愛の守護神が、侵略者にもその愛をもってして迎え、地球から遠ざけたその光景の直後に降り注ぐ流れ星の雨は、あまりに出来すぎたものだった。


 二人の少女型神霊の出会いと、救われた地球と人類を祝福し、一仕事終えたリリイが倒れる寸前であることを隠して微笑みながらカメラに向かって手を振る様子を愛らしく彩る演出するものとして、完璧すぎる効果をもたらした。


 この「奇跡のような」光景を目撃した人々の多くは、興奮し、涙し、祈り、敬虔さをおぼえた。何万人かの人々が神を信じるきっかけともなったが、それはまた別の話。


 おそらく新たなる世界へ昇りこの地を去り行く女神と侵略者、二人の少女たちの道行を祝福するかのように、ふりそそぐ流星雨に胸をときめかせていた人々は気づかなかった。あるいは、敢えてその不自然さから目をそらそうとしていた。


 さっきまで侵略者の顔面が浮かんでいたあたりの空だけが、まるで墨で塗りつぶしたように黒一色で覆い隠されていることに。



 愛らしく美しいワルキューレたちを応援する自分たちの祈りによって目覚めた偉大なる泰山木の女神が無表情な侵略者に侵略者に愛を吹き込み感情を目覚めさせ、平和にこの世界から退去せしめた。


 そのような美しい物語に耽溺することを、人々は無意識のうちに選択したのである。



 ◇◆◇



「ん?」


 壮麗な流星雨も何分間も続けば恐怖も通り過ぎて飽きてくる。

 そろそろもういいか、とサランが何気なく東南の方向へ目を転じると、その空の端がぼんやりと明るいのに気付く。あのあたりに観測者の顔が浮かんでいる筈ではあるのだが、スーパームーンが上ったときよりも一帯が明るい。

 と、くれば当然、観測者の真下で何かが行われているのでは……? と疑う心境になるわけだが、熟考する暇は与えられなかった。


 ギリィっ、と凄まじい歯ぎしりが聴こえたせいである。発生源は無論、キタノカタマコだ。

 

 立ち去ろうとしていたはずのマコは、その足を止めてサランと同じ方角を見上げている。そのせいで表情は見えないが、歯ぎしりの音から相当不快な気持で空を見上げているのだと判断するしかない。

 つまり、観測者の真下――学園島のあたりでキタノカタマコにとって相当思わしくない事態が生じている。


 そう考えると、頬の痛みも体の痺れも薄れるようで、サランは手に力を込めた。起き上がるつもりだったが、手の中にある、くしゃりと形を変える儚い存在のことを思い出す。むろん、サランの栞だ。シモクツチカの体の一部を使った代用品ではあるが、手で丸められるなど紙そっくりの質感をしっかり再現している。


「――甚兵衛ジンノヒョウエさんはどこまでお見通しだったのでしょう?」

「はい?」


 手を伸ばし、その辺に転がしたままになっていた本を拾って胸にだくサランへ、突然にマコが問うた。それはあまりにだしぬけで、独り言と区別がつかない。反応が出遅れるサランへ、ほんの少しいら立ちが加味された声でマコは続けて問いかける。


「あの方ならばご存知の筈ですが? 私たちが今いるこの世界が夜叉・羅刹の軍勢から外世界深奥を護る最前線であったと。にもかかわらずあの方は、世界全体の平安よりもたかだかこの惑星表面に付着するの塵芥の命をお選びになった。そういうわけですか?」


 サランには心あたりのないことを一方的の述べたあと、マコは口を閉じる。と思いきや、ぎりぎりぎりぎり……と凄まじく不穏で、背筋のあたりがぞっと震えるような不快な音を口元から放ち続ける。無論それはマコの歯ぎしりだが、あるタイミングでぴたりと止まった。


「……あの方はよろずの道理に通じておいでの筈なのに、食えぬ方です。何故、世界宇宙全体ではなくこのちっぽけな世界の安寧などをお選びになるのか?」


 ワルキューレである以前に、このちっぽけな世界の住人以外の何者でもないサランの目の前でマコはつぶやき、理解ができぬとばかりに頭を左右へやれやれと振った。


「ここを陥落おとされれば我らの領土のほとんどは連中に奪われてしまいます。当然、この地に住まう貴方方人類への影響も甚大です。今よりももっと人の心は千々にみだれましょう、一層の人心後輩を招きましょう。ただでさえ計都星の通過以降は夜叉や羅刹どもの力が強め、この世界の秩序はどこもかしこも乱れに乱れているというのに――」


 なのに何故……と、まるで理解ができぬとばかりに額に手をあてる。


 サランにわかることは、キタノカタマコがマーハの能力を非常に高く買っているということである。当然であろう、マーハは元女神様だ。並外れた霊力を有するが故に幼いころに生家から切り離され聖域で女神として暮らしてきた人である。現在は旧日本の名家の養女だ。能力・家柄・血筋とも、序列を尊ぶ気質であろうマコが一目も二目も置くに値する要素を兼ね備えている上級生である。


 そんなマーハが、自分と同じ事態を把握しているはずなのに、自分に抗うような真似をするのが信じがたい。マコはそのように言いたいようだ。


「――」


 本を抱き寄せ、くしゃくしゃになった栞を適当なページに挟み、サランはマーハの言葉を必死で思い出す。そこに事態を打開するヒントがあると、直観が告げるのだ。なにせ今のサランの頭の中には事態の全体像が収まっているのだ。


 シャー・ユイとケセンヌマミナコがひと夏徹して造った本が欲しいから、などとお茶目なことを建前にしてはいたが、マーハは一般人類であるかワルキューレであるかを問わずこの世界に住まう者たちに遍く愛を注ぐ人であることには間違いない。普段からの態度や、本の他に演劇や可愛い衣類、美しい小物類、絶やさない婚姻マリッジ相手、珍奇な下級生など、愛おしむ対象が多いことからも察せられる。

 キタノカタマコが理解できないとしきりに首を振るのがその点なのだろう。質のいい和装やしつらえは好んでいるようではあるが、人類もそれらが生み出すものは彼女にとって基本的にどうでもいいのだ。

 それよりも大事なものが、マコにはある。

 それは、つまり――。


「……夜叉や羅刹って……、侵略者、のことですか?」


 まだ降りやまぬ流星雨をみあげたまま、サランは問うた。ダメージが回復していないせいで、思いのほかかすれて弱弱しいものになる。

 マコですらそれに憐れみをもよおしたのか、それとも情けなくて嫌気がさしたのか、しばらくの間をおいてため息を吐いた後に不機嫌な調子で答えた。


「世界全体に悪意をなすために現れる外部の者の意で仮称しておりますが?」

「はは、じゃあ侵略者だ……。侵略者なら侵略者って仰ればいいじゃないですか……? ご自分と同じ侵略者……」


 サランのつまらない挑発にマコは素早く反応する。ぴしゃっと小さな落雷を、頭のすぐそばに落として見せたのだ。脅す目的しかなかったようではあるが、全身が強く痺れて一瞬息が止まった。


「那由他の年月、私どもは貴方方の言葉でいうところの外世界の、より外側に属する世界から押し寄せる夜叉・羅刹の軍勢と戦ってまいりました。それというのも、この世界全体の平和と安寧、穏やかなる宇宙の運動を維持するため、計都星により乱れたこの世の理を裡から正すためにです」


 電気恐怖症になりそうなサランに、キタノカタマコは語り聞かせる。

 それを耳に入れながらサランが思い浮かべたのは、いつかトヨタマタツミが見せてくれた、ピタゴラス教団が作ったとかいうこの世界の概念モデルだ。元々安定し、調和のとられた音楽で満ちていた宇宙が、一つのでたらめな彗星の出現により不協和音で鳴り響く混乱した宇宙に変わり果てたこと。今の世界は、その混沌状態からもとの安定した状態に戻ろうという回復期にあたること。


 侵略者やそれに対抗するワルキューレ、女難に遭遇しまくるフカガワミコトなどイレギュラーの出現はそれの顕れであること。

 

 計都星の出現により乱れたこの世界を正すというキタノカタマコの発言とそれは、ぴたりと一致している。


「――気が変わりました。少々お話して差し上げましょう」


 サランの黙考を、理解が遠く及ばないが故のだんまりだと判断したのか、キタノカタマコのサランを見る目が野暮な田舎者をみる都人のごときものになる。暗愚な者にいつまでも関わりあっていられないとばかりに、若干の早口で滔々と語った。

 

「先ほどから申しております通り、地球と呼ばれるこの世界一帯は、夜叉・羅刹の住まう一帯とのいわば最前線にあたります。私の永の目的はこの世界を均し、前線基地お呼び貴方方の言葉で云う外世界深奥にある我が故郷をつなげる通路を建設することです。――これで満足いただけましたか、元文芸部副部長?」

「――だっ、ちょっ、まっ」


 思わず上体を撥ね起こして、サランは目をむいた。

 話すと決めれば勿体ぶることなく自分の目的をさらりと明かしたキタノカタマコに驚いたことももちろんだが、その真相に耳を疑ったこともある。


「ぜ、前線基地っ? 外世界深奥との通路、でもってそこに天女の故郷がある――っ?」


 ――ああ、本当にそうやって土木作業する予定だったんだ。だから最古のワンドの形状はみんな重機や建設機械だったんだ。なるほどー、本当に文字通り地球を均すつもりだったんだー。わー。


 ……等と、思わず呑気に納得しかけるサランではあったが、そんなことよりも大きな意味合いを含むマコの発言がすぐには飲みこめず、口をパクパクと開け閉めしながら、もたらされた情報を急いで整理し始める。


 天女の故郷が外世界深奥にあり、そこの連中――キタノカタマコの中身のような天女たちなのだろう――は、別の世界群から来る夜叉や羅刹と称される軍勢と闘いを続けていたという。それはサランに、善と悪、光りと闇、毎度おなじみの二元論の世界の神話を思い起こさせた。

 夜叉や羅刹には悪鬼という意味がある、その程度の知識がサランにもあった。それと対立するというマコの魂である天女がどちらの軍勢に属する存在なのかはいやでもわかる。善と悪なら善。光と闇なら光。一般的には「いいもん」だ。


 「いいもん」なのに、「わるもん」との対決の最前線であるというこの世界に、故郷へとつながる通路のようなものを建設しようとしているのだ。

 俄かに信じがたい話ではある。というよりも、間が抜けていて信じたくない話である。


 しかしマコは、酸欠の観賞魚のように口をパクパクし続けるサランの間の抜けた有様を見て、いよいよ冷たく侮蔑する表情を浮かべるのだ。


「そのようなみっともないお顔をみせるほどの情報ではないはずですが? 一体、貴方は甚兵衛ジンノヒョウエ様と何をお話していたんです?」


 その程度の情報、お前はとうに知っている筈であろうにわざとらしい――、と言いたげな表情でマコはサランを見下げる。


 だからお嬢様と小間使いごっこに興じていいただけだというのに――、と馬鹿正直に答えるような真似は勿論しない。トヨタマタツミはもそうだったが、特級ワルキューレにとってはマーハは一種の指針でありある種の神格化が行われている存在であることが判明したのが収穫といえば収穫ではある。が、自分がどうやら泰山木マグノリアハイツでマーハとともになにやら策謀を巡らせていたと思われていたことには今更ながら唖然としてしまう。

 そんなサランの顔つきから、政敵の実態を見誤っていたことにマコは自力で気づいたとみえて、また悔し気に歯ぎしりを響かせた。その口元をかくす扇子も鉄扇ももうない、ご令嬢の麗しい顔にほえ面にもっとも近しい表情がむき出しになる。


 少々痛快なものを感じつつも、いやいやいやいや……と急いで気を取り直すために、ブンブンと頭を左右に振った。


「ま、待って……! そんな、そんなことの為に地球全体を均すって駄目に決まってるじゃないですかそんなことっ!」

「そんなこと?」


 キタノカタマコの目つきが一気に危険なものになる。無礼者を打ち据える高貴な身分の子女にふさわしい、高圧的で有無を言わさなず圧倒的に厳しいそんな目である。せっかく盛り上がったサランの気持ちにも水を挿された。


「そんなことと申されたのですか、あなたは? ならば問いましょう? 世界全体の調和を取り戻す行いのどこで、どのあたりで、そんなこと等と称するに値する行いであると判別なさったのですか、貴方は?」

「――、ッ」


 そのマコの目つきは、睨んだ対象をそれだけで火だるまにするかのような迫力に満ちていた。 

 ほんの小一時間ほど前のこととは思えぬお茶会の場で、高等部生徒会長のアメリアが同じような目で睨まれて半泣きになった光景がサランの脳裏によぎる。泣きたくなる気持ちもわかった。サランだって平時であれば、適当にヒヒヒ笑いでしのいでやり過ごしたくなる恐ろしさだった。

 しかし今は、ジュリもシャー・ユイもメジロ姉妹も、マーハもヴァン・グゥエットも、利害が一致していれば頼りになるナタリアも、力を貸してくれそうな者はだれもいない。サランのことは嫌いでも、キタノカタマコををぶちのめすなら全力を発揮すると思われる規格外のあの女も、どうせ生きているクセに姿を見せない。

 サランは今、たったひとりでマコに向き合わなければならないのだ。


「早う答えなさい、元文芸部副部長?」


 目に炎を揺らめかせながらキタノカタマコは問い詰める。サランは腹をくくった。栞を挟んだ本を抱きしめながらキタノカタマコの燃える瞳をまっすぐに見つめる。


「だって、そんなのっ、当たり前ですようっ! ここはうちらの故郷なんです、ここを均されてどこに行けばいいんですかっ、うちらはっ!?」


 侵略者の軍勢が――ひょっとしたらマコが今言う夜叉や羅刹の軍勢が――攻め入る可能性が極めて高いので、故郷を捨ててて移住せよ。

 そう指示している立場のワルキューレの一員としては限りなく愚かで恥ずかしいセリフサランは口にする。

 分かっていてもそうせざるを得ない。所詮自分は低レアで意識の低いワルキューレだ。だから、こそこういった恥知らずな一言も口にできるのだ。

 

「キタノカタさんが全人類の移住先でも用意してくれるってんですかっ? ねえっ?」


 難癖をつけるサランの物言いに、マコは一切動じない。それよりもサランの厚顔無恥な一言に対する呆れを隠さず、ふう、と息を吐いたあと一言で答えた。


「無論です」

「む、無論って――! そんな、あっさりどこに――」


 マコは無言である。口を動かすことなく、視線で応じる。ちらりと振り返った夜空の先には、まだやまない流星雨の上で輝く月がある。月、である。まさか、という思いでサランは片頬をひきつらせた。


「月に移住せよとでも?」

「人類が宇宙に大きな一歩を踏み出す、よい切っ掛けではありませんか? 地球人類の文明を宇宙へもたらす、それは前世紀から夢なのでしょう?」


 まるきり人ごとの口ぶりでキタノカタマコはあっさり肯定した。


「月がお嫌なら、火星でも水星でも木星のエウロパでも、手を加えれば人類も住めぬことはないと専門家の仰る場所でお暮し遊ばせ」

「…………なっ、ちょ、待てって!」

「不満がおありならば、鉄製の箱舟にのって銀河の彼方に新たなる故郷を見つけにお発ちになるのもよろしいのではありませんか? そのためにはキタノカタは協力を惜しみませんが」


 これから宇宙開発事業に注力するよう祖父には申し上げる所存ですので、と、なんでもなさそうにキタノカタマコは付け足す。地球は自分たち、夜叉や羅刹と戦う天女たちがもらい受けることが既に決定しているように。

 開いた口がふさがらないサランの顔に視線を戻したマコは、簡単に軽蔑の眼差しをくれる。


「なんですその顔は?」

「――あのなぁ……っ」

「私は何も、人類の皆さまに死に絶えよとは申してはおりません。愚かな同士討ちで、際限のない経済活動でいたずらに痛めつけるしかない世界惑星であるならば、私どもが頂戴いたします。貴方方よりもこの世界を有効活用してみせてみせます。そう申し上げているのです。貴方方現行人類ホモサピエンスは、幾世紀もかけて銀河の中央で好きなだけ争えばよろしいでしょう」

「――いや待てってば、だから……っ」

「まだ分からないのですか? 全世界の防衛活動に半端に賢しらな地球人類は邪魔でしかありません」


 絶句するしかない一言を、マコはついに言い放った。


「防衛基地と亜空間港建設の妨げになる生物は駆除いたしませんと。こちらの世界でもまずそうでしょう? 家屋敷を立てる際にはその土地に住む動植物を一旦駆除して整地する必要があるではありませんか。私が申しているのは、ただそういうことです」


 お分かりいただけましたか、と、キタノカタマコはダメ押しのように付け足す。

 そして長口舌を振るってしまった自分が信じられぬとばかりに、頭を小さく左右に振る。


「――貴方ごときに語っても、せんの無いことを――」

「ないことあるかあっ!」


  怒りから裡に渦巻く力を放出してサランは怒鳴る。これは流石に声を張り上げずにはいられなかった。

 そのまま本を開き、皺を伸ばしていた栞を右手の指に挟んでもちながら、ぎゃんぎゃんと喚いた。


「ふざけんな北ノ方さん! あんたの思考そのものが侵略者の典型的なそれじゃないかっ! 勝手ばかりぬかしやがって……っ」

「どちらが勝手です? ここで防がねば夜叉と羅刹の軍勢にこの地は蹂躙されるのですよ?」

「うるせえっ! そもそも夜叉とか羅刹って言葉に騙されそうになるけれど、そっち側の侵略者がうちら地球人類に不利益働くかどうかまだわかんないじゃんっ。キタノカタさんの一方的な報告でしかないじゃん。つうか今の話だけ聞いてりゃ、『自分たちの仇敵から領土護るための基地作るんであんたがたには退去してもらいます』って言ってるキタノカタさんの方が明らかに実害と不利益もたらしてんじゃんっ! やってること単に地上げだしっ!」

 

 感情のほとばしるままサランは喚き散らす。ワルキューレである以前に無力でちっぽけな一人類にすぎないサランにとっては、故郷と住まいを奪われそうになってる今大人しくしていられるわけがなかった。

 大体、あんなめちゃくちゃで一方的で上からな物言いで合意が得られるわけがない。『ヴァルハラ通信』の販路を築くために時には道化めいたふるまいもこなしてきたサランからみてキタノカタマコのそれは全くなっちゃない。

 

 しかし悲しいかな、地球人類の意志を代弁するにはサランはあまりにも非力だった。キタノカタマコはサランになんと罵られようと表情を変えず、今まで秘めていたはずの目的を明かしたわりにすっきりした様子をみせず、それどころか蟠りや疑問が余計に増えたとばかりに頭を左右に振る。


「しょせん、身の丈にあった視野しか持たぬ貴方がそのように主張なさるのはわかりきったこと。より広い視野の現行人類の文明発展を願うのならば私供とともに世界全体の安寧と平安を選ぶべきですのに、何故、どうしてあの方は――……」


 キタノカタマコが指すあの方は多くはない筈だ。この場合はやはりマーハのことだろう。何がどうしてもマコは、マーハが自分と同じ見解を有していないのが不可解で仕方ないらしい。

 それだけマコはマーハの能力を高く買っている。であるからこそ――。


 そう考えていてサランは、マコが仕切りにお茶会の最中、物事が全て決定していると頑ななまでに主張していたことを思い出す。太平洋校のワルキューレたちが足掻いても、何をしても、マコがS.A.Wシリーズのワンドを全て集め、地球を均すことは全て決定ずみ、つまり現行人類にとってのこの世界でもある地球は侵略することは既に決まっていると言い放っていたのだ。

 だが、この流星雨の下にいるマコにはいら立ちが見える。歯ぎしりを繰り返し、予想外の出来事が起きていることへの不信感を隠そうとしない。観測者がいる夜空一帯の発光現象がマコにとって不測の事態であるからこそ、天女の魂を持つ人物からみても信頼がおける能力を有するマーハの意見を欲しがっているのだ。


 つまり答え合わせをしたがっている。


 そう気づいて、サランは記憶を漁る。確か、誰か――ああそうだ、トヨタマタツミだ――が、そして本人も、マーハが持っている能力自身について語っていたのだ。


 ――サメジマさん、あんたジンノヒョウエさんとよく一緒にいたんでしょ? あの方は因果の専門家だし星詠みの心得だってあるはずよ?

 ――星を詠むことはできるわ。でもね、今ほどそれが無意味な時代がないもの。世界の運行はでたらめで不規則で――、国連のお姉さまのように未来を正確に予知するのはとても難しいわ。

 ――ただ、因果を読むのは別ね。一つの原因から遠い未来に待ち受ける結果を見るのも、今ある結果から遠い過去の小さな原因を読むのも。


「!」


 お茶会の直前に聞いた言葉を思い出し、強く意識する。

 彗星の出現によって精度は落ちているが、マーハある程度、現状から過去と未来を見通すことができる。未来余地は難しいが、結果から原因を突き止めることならある程度は可能だと言っている。

 

 マーハが開いたお茶会には、マコの目的の実現を防ぐための布石である。そんな手を打ったのも、マーハがマコが用意した未来予測を「思わしくないもの」として判断したためである。

 そう結論を導きだした瞬間、サランの体に力が湧いた。女神様として人類を愛し人類から愛されてきた人が、キタノカタマコが確定したがった未来は良からぬものと判断している。そして今も阻止に動き、マコにとって不測の事態を生じせしめている――。

 

 輝く南東の空をみて、サランは丹田に力を込めた。そして思い切りよく嘲った。


「残念だったな北ノ方さん! 広い視野をお持ちな甚兵衛先輩のご意見もうちと一緒だ。あんたの目的は実現すべきじゃない、地球を均して基地だ港だにすべきじゃないってさ! あんたの思う通りに未来を確定しようと観測者なんてものまで引っ張りだしたのに、残念だったな!」


 サランごときに煽られたためか、キタノカタマコの目がまた見苦しいものを見やる容赦のないものに変じた。しかし、サランにとっては今更である。今まで何度もあの目で見つめられてきたのだ。

 ともかく、これでキタノカタマコこそがこの世界と人類の生命・財産に徒なす存在であると確定したわけだ。完全なる侵略者だ。ならば拘束の義務が生じる。


 そう、拘束の義務が。


「……」


 ――拘束って誰が?


 肝心なことに思いいたった瞬間である、キタノカタマコが、ふうっとため息を吐いたのは。


「――仕方ありません」


 やれやれ、といったニュアンスで呟くなり、マコは舞踊を舞うように右手をついと持ち上げた。それに合わせてなにかが、ぎいっと大きく軋んだ。金気臭さと機械油のような匂いがぷんと強まる。

 音がしたのは、マコが羽衣を使ってこの鏡面世界に用意せしめた巨大なボーリングマシーンだ。地盤を砕くための金属柱がパイプの中を上昇する。


「私はなるべく人類の皆さまには円満に立ち退き頂きたかったのですが、貴方あなた方がそうおっしゃるのならば残念です。――これより数十年、数世紀ばかり後退した文明とともにお過ごしなさいませ」

 

 つい、とマコは右手の指先を下に向けた。それが何を意味するのか悟ったサランは、我に帰って栞に念を込める。――やばい!

 

 民間呪術師が呪符をそうするように、サランも念を込めた栞をボーリングマシン向けて打とうとした。イメージしたものはこの事態をなんとかできそうな癖に性格の悪い一人の女だけだ。


「撞木……っ!」


 いつまでも隠れてないでとっとと出て来い! という思いを込めてサランは栞を打つ。刃のように空気を切り裂きながら呪符は宙を滑り、鉄柱が一番上まで持ち上がったボーリングマシンの傍で、白銀の髪を持つ一人の少女の姿をとった。

 

 ベージュのニットカーディガンにワイシャツ、限界まで短いチェックのプリーツスカートにルーズソックス。シャープの髪は白銀。

 白い彗星を思わせるほどにスピードをあげたシモクツチカは、飛行しながら髪を伸ばす。ボーリングマシンの基礎をなす鉄塔部分に髪を差し入れ、地面に向かって打ち込まれそうになった鉄柱に髪を巻き付け地中を掘削するのを防ぐ。ぎいっ……、と大きな音をたててまた金属が軋んだ。


 サランが今持っている栞と本はツチカの体組織を利用して造られた代用品だ。いわばツチカの体の一部だ。パートナー契約を結んだ自分なら無理やり表に引きずり出せるのではないかというサランの読みは当たったらしい。

 伸ばした髪をボーリングマシンに巻き付けるツチカが、有名なアメコミのヒーローのように鉄骨の側面に余裕気に立って見せる姿を見て安堵した、その瞬間だ。


『あ・ん・た・ねええええええっ!』


 なぜか頭の中に憎たらしい声が響き、サランの頭を内側から打ちのめす。と同時に、抱きしめている本が鉄の塊かと思うほどに重くなった。うわっ、と叫んでバランスを崩すサランの腕の中で、本はぐにゃぐにゃと形を変える。

 と同時に、ボーリングマシンの軋みも大きく鳴り、白銀の髪に絡み取られた巨大な鉄柱が少しずつ下へずり落ちる。鉄骨の上に斜めに立つツチカの表情も苦痛に歪んだ。規格外の力をもってしても、鉄柱の質量を支えきれないらしい。

 その重みによる痛みをサランへぶつけるように、わんわんと頭の中で聞きなれた声がやかましく響いた。


『バカだバカだとは思ってたけど、ここまでバカって悪い意味で期待裏切らないでよっ! いくらあたしでも五分の一の力であの巨体を支えきれないし!』

「あーもうウルセエ~っ! 今まで隠れてやがったくせに文句あるなら姿みせて口でしゃべれェェっ」

『そっちこそ五月蠅いしっ! あんたの場当たり的で雑な指示のせいで本気出す羽目になっっちゃったじゃんっ! 絶対責任取りなよねっ!」


 頭の中でワンワンひびくツチカの声の苦しみに耐えながらサランがわめくと、その倍ほどのボリュームで姿を見せないツチカは喚き返した。激しい片頭痛めいた苦しみに耐えかねて目を瞑るその腕の中で、本は大きく膨らみ、ある形を取り出す。


 手にあたる部分が棒状に細くなり、その先が大きく楕円状に膨らみだしたのだ。棒状の部分はそのままサランの身長ほどになり、その先端に垂直に交わる楕円の部分は細かく形をかえる。棒状の部分と交わる部分が膨らんだ円柱状に姿は落ち着いた。

 それは銀色の槌だ。棒状の柄の先に房のついた飾りひもが結ばれるなど、おとぎ話に登場する打ち出の小槌ににた雰囲気もあるが、白銀にメタリックにかがやくそれはハンマーと呼ぶのがしっくりくる重厚感のある外見に変化を遂げている。

 驚くことはそれを持つサランには、金属バッドか鉄製の調理器具を思わせる適度な重量感の以上の重量を全く与えないことだ。両手でつかんで、ぶんぶんと振り回すのが可能なのである。

 槌の表面には文字のようなものが細かく彫琢されていて、角度を変えるときらりと浮かび上がる。メタリックな見た目に神秘的な印象を添えるそれではあるが、ハンマーというのは聊かシャープさに欠ける姿である。


 なんだこれ? と、ツチカの一部が姿を変えた大きなハンマーを手にサランは目を丸くした。そしてしきりに文句を垂れていたツチカの言葉と照らし合わせてピンとくる。


「撞木? お前、撞木かっ? これがお前の本当の姿かっ!」

『違う! ワンドとしての最終形態なだけであって本当の姿はあくまでこっち!』


 ぬっ、と槌の部分に半透明の小さな人柄が現れて不快でたまら無さそうにサランを睨んだ。それは見慣れたシモクツチカの姿を取っているが、どうやらホログラム状の何かでしかないようで姿がが半透明に透けている。そのうえ、声もまだ直接頭に響かせていた。


『あーもう、あんた相手にこの姿見せるとかマジ最低最悪、それしかないしっ!』

  

 ホログラム状のシモクツチカは悔し気に地団駄を踏む。どうやらこのハンマー状の姿になることは本人にとって不本意でしかないらしい。サランとしてはピンとこないが。

 

 そんなサランよりも衝撃を受けているように見える人物が、この場にはいた。無論、キタノカタマコだ。

 とかく、きらめきやすい眼を見開き、信じられぬとばかりにワンド形態になったツチカをただただ手に持ち支えるサランを見ている。

 ちりちり焼け付くような視線を感じてそちらを見やったサランと目が合うなり、マコは歯を食いしばった口元を晒して一層肉肉しげに睨みつける。ギリィッ、とまたも大きな歯ぎしりが鳴る。サランは思わずぞっと肩をそびやかした。マコの憎悪に気おされそうになったのだ。


 しかしこの中で意気揚々としている者もいる。

 無論それはシモクツチカ本人で、ハンマーの上に浮かぶホログラム状のアバターは、怒りをあらわにするキタノカタマコをみては、ようやく地団駄を止めて、いつものように人を小バカにした笑いをうかべて、そばに居るサランに聞こえるだけの声で意地悪く呟く。


『ま、いっか。あの人のああいう表情が見れたことだし』

「お前なぁ……」


 腹の立つ人で、中身が悪質な侵略者であるとはいえキタノカタマコをあまり挑発しないで欲しい。その一心でサランはツチカを窘めたくなる。


 人間、自分の悪口を囁かれていると察した時はやたらと過敏になるものだ。それは天女の魂を宿すキタノカタマコであっても同じと見えて、何故かサランに強い怒りのこもった視線をよこしては視線で燃やそうとせんばかりにねめつける。その視線からの防衛反応がサランの体を動かした。マコにむけてツチカの一部を変化したハンマーを構える。


「とっ、とにかくキタノカタさんっ! ここに来る前みたいに、蟲型甲種ムシを呼び出すのだけは許しませんからねっ! そんなことしたらシャレにはならないっ!」


 ――数世紀ばかり後退した文明とお過ごしなさいませ。

 羽衣が変化したボーリングマシンを稼働する直前に、キタノカタマコはそう言い放った。

 それが意味するのは、この鏡面世界を通じて地震をおこし、鏡面世界外の次元溝を刺激して電脳空間を食い荒らす蟲型甲種を呼び出すという脅しである。実際、繁殖力が強くワルキューレの能力をもってしても駆除しきれない蟲型甲種の侵入を現在許してしまい、の地球をくまなく覆っている拡張現実や電子のネットを食い荒らされるようなことになれば、人類文明の衰退は免れない。いくらやる気のない低レアワルキューレのサランだって、それを許すことはできない。

 

 サランからの一応の警告を、マコは無視した。あいかわらず強くサランを睨みながら、右手を振り上げる。


「それから手を放しなさい! 貴方ごときが触れて良いモノではありません!」


 ――うわぁ、聞いてねぇ~……。

 

 と、ハンマーを抱えるサランは引き気味になりながら心の中で呟く。

 とまれその剣幕から、マコはサランがツチカが変化した銀色のハンマーを握っているのが非常に不快であると判断するしかない。まるでお気に入りのおもちゃを横取りされたような態度だと考えて、そして気づいた。

 確かに自分は今、マコにとってはおもちゃを横取りした他人である。


「私のモノに触れるな、元文芸部副部長!」


 肩書きとはいえサランを名指しで批判しながら、マコが右手を振り上げる。

 その動きに合わせて、ぎいいっと金属の軋む音が一層大きくなった。サランが栞を変化させた方のツチカがボーリングマシンの上で苦痛に顔をゆがませる。そしてその苦痛はツチカ本人にも連動しているらしく、ホログラム状のツチカは頭を押さえてしゃがんだ。


『誰が誰のモノだっつーんだか。――昔っから勝手に、あの人は……ッ』


 さんざんに伸ばした白銀の髪による拘束から力づくで逃れようとする鉄柱が、地面めがけて身震いしているのだ。


『痛い痛い痛い痛いってばもーっ! やめろってば、毛根持っていかれてハゲになっちゃう!』


 そして涙目でふりかえり、サランを睨む。


『バカミノ子! いつまで愚図っと突っ立ってんのっ! 早くアレを停止させなきゃでしょっ! あたしがハゲになったらあんたのこと一生恨むから!』

「! そうだそうだっ」


 丸ハゲになってぴーぴー泣くシモクツチカを見てみたい気もしたが、そんなことよりボーリングマシンの稼働を防ぐのが確かに先である。鏡面世界に来る前のように、人為的な地震を起こされて蟲型をよびだされては大いに困るのだ。

 とにかく急げとばかりに、サランはハンマーを肩に担いで芝生の上を走りだした。重量を調節してくれているのか、見た目に反しては軽いハンマーだが嵩張るものを担いでいるとどうしても通常より速度は出せない。ましてサランは決して足が速い方のワルキューレではない。

 えっちらおっちら、という擬態語が似合いそうな走りっぷりに業を煮やしたのかホログラム状のツチカは涙目で吠えた。


『遅いッ!』


 瞬間、地面を蹴ったサランの体が一気に加速する。危うくつんのめりそうになったがそれすらゆるさず、次の瞬間には視界いっぱいにボーリングマシンが広がっている。

 ぶつかる! とサランが身構えた時と、ぎいいっと金属が一層大きく軋んだ時はほぼ同じだ。見上げれば、くみ上げた鉄骨の中で、銀色の髪でがんじがらめになっていた鉄柱がついにその拘束を解いて地面に向けて落下する直前だったから。栞が変化したツチカは悔し気な表情を浮かべた瞬間、ぱっと栞の姿に戻る。

 

 パイプを通って、見るからに重たげな鉄柱が落ちる。地面にぶつかる。地を震わせる――。

 それが招くかもしれない結果を想像し、サランはとっさにハンマーを振り上げた。とにもかくにも、という一心で、ぶんっとハンマーを振るう。

 その先にあるのは、ボーリングマシンの鉄骨だ。これにはばまれて落下する鉄柱は狙えない。それでもサランは目を瞑り、がむしゃらにハンマーを振り切った。てりゃああああ! という出らめな気合付きで。


 金属バットで金属の塊を殴ったような、痺れるような振動が両腕を通じて全身を駆けぬける。それと同時に何かをぐしゃりと壊した、得も言われぬ快感も。


 強く瞑っていた目をとじるサランの視界で、ボーリングマシーンがサランがハンマーを振るった先へ向けてバラバラになりながら吹っ飛んでゆくところだった。それがスローモーションのように見える。


「……!?」



 金属が紙くずのように一瞬でひしゃげ、くの字状に折れ曲がり宙を舞う。

 その衝撃の反動が突風になって周囲を吹き散らしたが、ツチカを所持している効果なのか透明な半球状の防御壁に護られて、無事だった。おかげで、ぐわああん、とあたりに反響を響かせながら倒壊するボーリングマシーンのゆっくりした動きがサランに見えた。

 

 地面に横倒しになる鉄柱がもたらした、ずしん、という重々しい地響きとともに。


 それに誘発されでもしたのが、地面が再度、静かにゆれた。地震だ。ほんの些細なゆれではあったがサランの肝は冷えた。もしかして鉄柱のせいで近隣にある次元溝が刺激されでもしたのか――!?


『やっば!』

 

 これにもツチカも顔色を変え、ハンマーの本体部分からサランを振り返って睨んだ。


『何やってんのっ、地震おこしちゃあたしがこの格好になった意味が――っ!』

「そ、そんなこと言ったって急に――っ!」


 おたおたと慌てるサランの目の前で更にどう収集つけていいのか分からない事態が発生する。


『ウルセエえええっ!』


 地をゆるがすような大音響とともに、ピンク色の巨大な物体が突風を巻き上げながら宙に現れて右から左へと振り子のように揺れる。とっさに地面に這いつくばるサランの頭上をかすめながら行き過ぎたその物体は、ボーリングマシーンを鉄柱事天高く打ち上げた。

 そして地に伏せるサランの目の前に、巨大な爪先がぬっとふってくる。見上げるとしばらく前にこの鏡面世界から消え去ったはずの人物が、再び全長十数メートルの巨人になって、サランとツチカを睨み下ろしている。


『おーまーえーらーなぁぁっ! 確かにこの中でデートしろっつったけど、誰がタワーの傍でワーワー騒いだ上に地震おこせっつったぁ!? 封印が解けたらどうしてくれんだこのぉ!』


 ぶん、武器を携えた山賊のように等身大(ということは十数メートルはある)たれ耳ウサギのぬいぐるみ型抱き枕をを無造作に肩に乗せている巨人はどうみても、サンオコサメその人だった。

 相変わらず騒々しく怒鳴りながらも体のサイズをもともとのサイズにまで縮める。そしてその後で九十九タワーの鉄骨の上に仁王立ちし、ウサギの抱き枕の耳を掴んで振り回す。


『この鏡面世界、狭いようにみえてこれだけスペースあるんだぞ! 何もわざわざこのターミナル限定でどったんばったんしなくてもいいだろうが! デートするなら街へ行けっ、街へっ。少々暴れてもそとに影響は出やしないんだっ、思う存分暴れて特撮映画みたいに諸々ハデにぶっ壊して来いっ』

「こ、小雨さん……っ」


 問答無用なサンオコサメの乱入に、謝るべきか、それとも急に現れてなんのつもりだと文句言い返すべきなのか。とっさに判断できかねるサランだが、夏に見かけたある光景を思い出す。

 ただ気合とともに殴るだけで、フカガワミコトの魂に帰省した乙種侵略者を浄化したあの姿だ。コサメは浄化能力を持っているワルキューレなのだ。

 乱入についてあれこれ訊くのを後回しに、サランは声を張り上げて尋ねた。


「先輩先輩っ、し、侵略者ですっ。北ノ方さんの魂は外世界深奥から来た天女って形の侵略者!」

『ん~?』


 サランの報告を聞くなり、サンオコサメは眉間に皺を寄せると鉄骨の上に膝を立てて座る。そしてぼろ屑同然に吹き飛ばされたボーリングマシンを回収し再び羽衣の形にして編みなおすマコの手つきを険しい目で見降ろしていた。そして至極あっさりと、世界有数の財閥総帥の令嬢にしてワルキューレ養成校の初等部生徒会長が危険極まりない侵略者であることを確認する旨を表す一言を口にする。


『ああ~……成程』


 このたった一言を。

 もうちょっと何かあってしかるべきではないのか、という文句をサランは引っ込めて地面の上からサランは訴えた。


「先輩は浄化能力持ってましたよね! せっかくこっち来てくださったのならキタノカタさんの浄化も頼みますようっ」

『や、それは無理』

「は……っ、はいぃっ!?」

『そこの後輩の魂そのものが外世界深奥の天女侵略者なんだ。魂浄化したら体ごとお陀仏だ』


 コサメはあっさり無情な事実を口にする。サランもそれには言葉につまる。いくらキタノカタマコでも同輩だった少女が体ごと昇天する場面を見る羽目になるぞと聞かされれば、意識の低い低レアワルキューレとしては躊躇も生じる。

 しかしそれはワルキューレならば必ずやり遂げなければならない仕事のはずだ。例えそれが朋輩でも、浄化不可能なレベルで侵略者に浸食されてしまえば泣いて朋輩を斬る必要だってある。なのにコサメはそれはできないとぬけぬけと口にする。


 これはワルキューレにつきものの、清濁併せ呑む類の何かがある筈――。

 しかしそれを追求することは叶わなかった。


 キタノカタマコが激昂を抑え、羽衣の状態に戻したワンドを肩にかけそのままふわりと浮き上がったのだ。歯ぎしりをもらしていた憤怒を綺麗に拭い、いつものように済ました表情で、先輩にあたる尉官クラスのワルキューレに宙で一礼する。


「お休みのところ失礼いたしました、中尉。ご指示の通り場所を改めることに致しますので少々お待ちを」

『――あのさぁ、北ノ方のお嬢さん?』


 返事はせず、コサメは不快そうにタワーの鉄骨で立膝をする。お姫様のドレスめいたベビーピンクのネグリジェから白い素足がこぼれ出るが、お構いなしだ。


『あんたもよく知ってる通り、あたしらはアンタに手出しできない。だからこそ言っとくわ? ――白々しいんだよ、あんたのやり方はさぁ』

「何を仰います?」

『だから、やり方が汚いって話。どさくさにまぎれて術つかうわ、地震なんぞ起こすわ、やりたい放題じゃないか」


 せっかくのお姫様のようなコスチューム姿が泣きそうな無作法さで、サンオコサメはリングを嵌めている左手をさっと振った。その瞬間、当かいしたガラス張りのオフィスビルに変わって、繁華街の方向にあるビルボード広告が一斉に多数のモニターへと切り替わる。

 そこが映しだすのは、九十九市近郊の山間部だ。途中で開発が投げ出されたかつての宅地が、そのまま自然に帰ろうとしている。不自然な形に削られた無人の山間を、見下ろしている誰かの視界が映し出される。

 誰の視界か。それは、この空間に響く澄んだ声のみで明らかだった。


『小雨っ、小雨なのっ? ――あなたもしかして――!?』

『あー大丈夫大丈夫。目は覚めてない。それより美柔ミユ、どう? 次元溝の様子は?』


 モニターから聞こえるのはサンオミユの声だ。怒りは収まったのか、ブートキャンプの教官めいた口調は引っ込み、普段の優しくてたよりになるOBのそれに戻っている。ただしそれはかなり切迫していたが。


『さっきの微震による影響は実次元には見られないわ。ただ、これ以上次元溝には近寄れない。――座標を送るわ。だから、あなた、あの子たちと一緒にこっちまで来てくれない?』

『ん、了解~』


 なにやら緊迫したやりとりをしていた割に緊張感に欠ける返事をパートナーに寄こしたコサメは、九十九タワーの鉄骨に座ったまま両掌を地面に向けるとテーブルに広げたカードをかき混ぜるようなしぐさをして見せる。

 すると、サランが踏みしめている地面や九十九市中央部の風景が混ざって溶け合い、数秒で全く別の光景として再構成された。

 さっきモニター替わりにされたビルボード広告が映し出した、宅地開発が中断されたまま捨て置かれた九十九市外れの山間部だ。それをはるか頭上から見下ろす格好でサランは立っていた。

 すぐ隣には、相変わらず女性軍人の礼装に魔法使いのイメージを掛け合わせたような兵装姿のミユが、自身のホウキに横座りして浮かんでいた。浮かんで、いるのである。


『あら、鮫島さん。それに撞木さんも。――二人とも仲よくなったのね。助かるわ』

『違います! 仲良くなんてなってません』


 若干嬉しそうなミユの声に、憮然とした声ながら素早く反応できたのはツチカだけである。サランは激変した周囲の風景に狼狽して、腰を抜かしかけていた。

 何故ならば、どう見ても地上数十メートルあたのところで自分はしっかり立っているのである。ツチカの化身であるハンマーを握ったままサランはその場にしゃがんだ。

 そんなサランの正面にホウキに乗ったミユは回り込み、安心するようにぽんぽんと肩を叩く。が、その感触がサランには伝わらない。


『大丈夫大丈夫、落ちたりしない。あなた達のいるポイントに小雨の力でこちら側の風景を合成してみせているだけ。――ほら大丈夫、ちゃんと立てるでしょう?』


 ミユに促されておそるおそる立ち上がると、確かに足元には確かな地面の感触がある。ホウキをホバリングさせているミユがサランの両肩に触れられず、その手が突き抜けてしまってもサランにはなんの痛みもない。そのことから察して二人のいる次元は別であり、ミユの言う通り落下することはないと理解はできた。

 が、それでもわざわざ床の一部をアクリル板にして地上を覗かせる観光地のアトラクションのようで、恐ろしいものは恐ろしい。ツチカの冷たい目線を受けながら、へっぴり腰でなんとか立ち上がるサランは、ホウキに乗っているミユにむけてぎこちない口調で尋ねる。。


「さ、鮫先輩……っ、次元溝はっ。ムシは……っ」

『あら、まず郷土の心配をするなんて立派な心がけね、鮫島さん』


 サランの緊張をほぐす意図でもあったのか軽い口調でミユは言ったが、すぐさま口調を引き締めると、サランの背後をのぞき込んだ。


『小雨、この上に数分後の予測モデルを被せて表示することはできる?』

『楽勝~』


 さっきまで九十九タワーの鉄骨の上に座っていた筈のサンオコサメの声が至近距離で聞こえることに驚いて振り向き、サランはうわっと声を上げた。

 さっきまでと同じくタワーの鉄骨に座ったままのコサメが、さっきと同じようにテーブルの上のカードを混ぜるような手つきを見せていたのだ。サランの真後ろで。

 タワーの根元は、見捨てられた山間に電線を渡す鉄塔そっくりにしっかり根をおろしている。そのせいで、コサメの位置がサランと同じ位置に下がったということのようだと見当はつけたものの、サランにしてみれば何故にコサメはタワーから離れないのかの方が気になってしまう。まるで一心同体だ。

 もしかして、とある可能性に思いいたった瞬間、サランの目の前でめきめきと音を立てながら、谷が左右に避けたのだ。


 それはちょうどサランの足元から真下だ。且つて使用された生活道が地滑りをおち、赤黒い切れ目を覗かせた次元の隙間へ吸い込まれてゆく。そこから生じるのは、てらてらと雨の日のアスファルトに落ちたガソリンのような虹色に輝くオーロラめいた煙だ。

 一件美しい煙に目を凝らしてサランは総毛立つ。煙を構成する粒子の一つ一つがよくみれば拳ほどの大きさをした甲虫であり、月光を反射してシャボン玉のように照り輝いているせいでオーロラ状に見えているだけだとわかったからだ。

 翅を広げてとんでゆく無数の甲虫たち。地上の昆虫ではありえないほど脚が多く、体節も不自然であり、ガチガチと顎を鳴らして飛行しながら街の灯で眩い九十九市目指して飛んで行く――。


 実物をみたことはないサランでもあっさりと、この甲虫がなんであるかが理解できた。生理的嫌悪感に突き動かされたままサランは叫ぶ。


蟲型甲種ムシだぁっ!」


 ぶんぶん唸る羽音、ぎちぎちかちかちと全身に鳥肌を立たせる生理的不快感満載な顎を鳴らす音。悲鳴をあげるサランと比較してむかつくほど冷静な声がサランの神経を逆なでした。


『何びびってんの? あんたカブトムシがうじゃうじゃいたり、蜂の子食べたりするような田舎の子でしょ? 蟲なんて見慣れてるんじゃないの?』

「田舎もんがみんな昆虫に親しんでると思うなぁぁっ! あとうちの地域じゃ蜂の子食べないぃぃぃぃっ」


 鳥肌まみれになりながらサランは主張した。ケセンヌマミナコと以前駆除した乙型の蟲はまだ翅がないので耐えられたが、目の前の侵略者は空を飛ぶのである。もはや生理的嫌悪感しかわかないが、それよりももっと恐ろしい事態の前触れだというかろうじて脳の片隅にとどめていた記憶をサランは引っ張り出した。


「こ、これっ。あと数分経てば真下に次元溝があんな風に開いてそれからそれから今みたいにムシがぶあーって……!」

『そういうことね』

『つうか、こうしてる間にも刻一刻と時間が失われてるわけだな』


 それなりに深刻そうにしているが、サンオ姓のプロワルキューレは二人とも憎らしいほど余裕があった。電脳世界をを食い荒らす、もっとも危険な侵略者があと吸う数分後に現れるという予測モデルを前にしているというのに。


 この世界にはいない特色を持つ甲虫から受ける五感を刺激する不快感、そしてまちがいなく文明が数世紀後退させる恐れのある侵略者の出現するという預言めいた恐怖に目をまわしかけているのが自分一人だけというくやしさをあおるがごとく涼しい声が、サランの耳朶を打った。


「取り込み中のようですので、私はそろそろお暇いたします」


 これから起きる事態は自分にとっては完全なる人ごとだと告げるも同然な涼やかな声が発生した場所を、サランは見上げてきっとにらんだ。

 羽衣をまとったキタノカタマコだ。そしてそもそも、鏡面世界から次元を隔てて地震を起こし、次元溝を活性化させたのはこのマコだ。

 世界を崩壊一歩手前に追い込んだ天女が、そしらぬ顔で立ち去ろうとしているのである。目をグルグルさせながら、サランは叫んだ。


「ちょっと待てってば! 世界をこんなにしといてどこへ行く気だぁッ」

「――」


 マコは答えない。

 ただ、ちろりと、サランの手元にあるハンマーをマコにしては珍しく恨みや未練、憎悪といった湿り気を残した視線を落とし、羽衣をさっと舞わせた。虹色の薄い布は大きく円を描き、その中央に通路が出来上がる――。

 

「まてこの逃げるなっ!」

  

 羽衣の作り出した次元の通路に身を躍らせるキタノカタマコの背中に向けてサランは叫ぶ。とっさにハンマーを振るおうと持ち上げたが、急に宙に固定されたようにびくともしなくなってしまう。


 その隙に、キタノカタマコは羽衣の生み出した次元の彼方へ消えてしまう――。


 あせるサランの耳に響くのは、この状況でさっぱりとした明るさに満ちたシモクツチカの声だった。 


『いいから! あの人のことは放っておきな。どうせ行き先きまってるんだし』

「でも撞木、アイツは……っ!」

『言っとくけど、目の前の光景が現実になるまで残り一分も無いんだけど』


 まるで人ごとのようにツチカはあっさり、サランがうっかり失念していた事実を思い出させる。

 蟲型甲種の大群は九十九市にむかっている。封印の一翼を担っている九十九市ではあるが、これだけの大群がこの世界に押し寄せるとなると完璧な駆除は絶望的だ。一匹でも放たれれば文明を崩壊に陥れる恐れありと要警戒対象に指定されている侵略者が雲霞の如くわらわらと――。


 サランもここにきて気持ちを切り替えた。そして、ふりかえり背後のコサメの指示を仰ぐ。この場でもっとも階級が上のコサメに指揮権がある。


「小雨先輩、蟲退治の指示お願いしますっ!」

『ん、よく言った後輩。――それじゃあ軽く、二人であたしの九十九市&世界を守ってきてもらおうか。お前らの初めての共同作業にゃあ申し分ないだろ?』


 その軽口に素早く対応できたのはツチカだけだ。うげ、と、うんざりした調子で呟く。サランはワンテンポおくれて、九十九タワーの鉄骨に行儀悪く座ってる先輩を軽く睨む。


「共同作業って、なんですかその笑えない冗談」

『珍しく気が合ったね、ミノ子。マジ笑えない』

『お、世界の危機の三十秒前でいい根性だ。褒めてやるよ』


 鉄骨に行儀悪く座ったコサメはそのまま左手を振る。


 するとサランの足元にあるものが浮かんだ。額に螺鈿細工による二頭の蝶の装飾がほどこされた、ミユの部屋の押し入れでみた四角いあの姿見だ。しかしサランにはそれを確認している隙は無かった。


 足元の鏡を通して、鏡面世界の外へ放り出されたのだから。

 それも地上数十メートル場所で。


 万有引力に囚われ、握りしめたハンマーを下にサランは真っ逆さまに谷間へ落ちてゆく。ビュウウっと耳元で切り裂かれる大気が鳴る。鮫島さん気をしっかり! と叫んだのはミユに違いない。


 ――うわ。


 自由落下中のサランの頭の中にはそれしかなかった。ここ一月の間になんども突き落とされたりはしてきたが、ここまでシャレにならない高さでこんな目に遭わされたのはワルキューレになってからも初めてだ。

 うわ、死ぬ、間違いない、死ぬ、世界が終わる、前に、おわる、うちが。


 目の前に緑生い茂る山々が迫りつつあるタイミングに、サランの頭には切れ切れの単語ばかり浮かぶ。そして浮かぶお定まりの走馬燈――。幼少期、小学生時代、養成校時代、そして異常な出来事が大挙して押し寄せてきた初等部三年時代。

 路地裏でまぐあっているシモクツチカ、ケセンヌマミナコのメガネ、パイセンパイセンとなつっこいメジロタイガ、先輩先輩とねちっこいメジロリリイ、シャー・ユイの叱責、パトリシアのニヤニヤ笑い、トヨタマタツミの峰打ちの激痛、食べそこなったミカワカグラのモンブラン、ジャクリーンのスキャンダル、ジンノヒョウエマーハとの戯れ、ホァン・ヴァン・グゥエットの顔についた傷、十字を切るビビアナ、パールとその仲間たちの阿漕さ、シュー菓子を引きちぎるレネー・マーセル・ルカン、『分別と多感』について語るアクラナタリア、アメリアの早口、おしゃれして喜ぶノコ、哀れなフカガワミコト、侍女時代と伊達メガネを時代の姿が重なるワニブチジュリ……。


『ボーっとするなミノ子! 早く指示!』


 がん! と殴り飛ばすような声が頭の中で響いた。お陰で情緒のない走馬燈が脳から蹴り飛ばされた。

 我に帰ったサランは隣に人の気配を感じた。

 シモクツチカの虚像が、サランを包むような恰好で共に落下しているのだ。サランの目には自分の手に添えたツチカの両手が見えるだけだが。


『あたしはねっ、この世界で大人になるのっ! いずれ自由に外に出て誰もがふりむくようないい女になってパパとママみたいな恋愛を山ほどしてやるんだからッ!』

 

 わんわんと頭上でツチカの声が響く。がむしゃらに叫びまくってるところを聴くと、規格外の少女なりに恐怖は感じているらしい。それを悟ると、サランの恐ろしさもいくらか減った。

 ぷんと鼻孔に針葉樹の青い匂いが刺さる。目の前にはもう木々が迫っている――。


『小説だってあんなヘッタクソなのじゃなく文学史に名を残すような傑作書いていっぱい、ざくざく稼いで、珠里なんかよりずっといい女友達作ってプラザホテルのスイートで三年くらい遊んで暮らすんだからッ。だからだからだから……ッ』


 ツチカの声も次第にかなぎり声変じてゆく。虚像なのに、サランの手に重なった手に感触が伝わる。必死に握りしめる冷たい手。

 自分が指示を与えないと、ツチカはワンドとしての全力が出せない。そのことを思い出したサランの脳裏に走馬燈の名残が閃く。


 満月の下、寮へ帰る道すがら、ぶっきらぼうに夢を語った、ワニブチジュリの儚い後ろ姿。

 蘇るてれくさそうな声。



――僕はな、将来できれば出版に携わる仕事ができれば……と思っていた。今やってる文芸部の延長で、読むものを世の中に送り出せればな、って。道楽になるが紙の書籍を出版したりするのも面白そうだ。

――そうか、それは好都合だ。それじゃあ大人になっても一緒の仕事をして一緒の時間をすごすことは可能なわけだ。


 

 古い本と低品質インスタントコーヒーのそれがまざった、懐かしく甘い匂い。何気なく文化部棟で笑いあっていた日々の二人の姿と、ツチカの叫び声が被さる。


『早く指示出せっつうの、鮫島砂蘭――ッ!』

 

 世界が終わったらあんたの責任だからね、と憎たらしいパートナーに言わせる前にサランはハンマーの柄を握りしめた。

 落下しつつ、ハンマーの柄を振り上げる。空気の抵抗が変化して体の向きがくるくると入れ替わる。それでも落ちていることには変わらない。

 とにかく悔いが残らないよう、極めてシンプルな指示を与える。

 

『じゃあとっとと世界を救えよ撞木槌華ッ!』


 ぶん、と無我夢中でハンマーを上下に振った。


 瞬間、幾千幾万ものガラスをたたき割るような粉々に砕いたような快感が手に伝わる。


 ああ。


 と、全てを悟って安堵し、力を抜いたその時、目の前で閃光が炸裂した。



 世界中にある全ての爆薬に火をつけたような爆音と衝撃がサランの耳をつんざいたのはその直後である。

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