#57 ゴシップガールは問いかける、愛を覚えていますかと。

「――ッ」


 ちりちりと、ツチカが右手の中指と人差し指の間に挟むメンソール煙草の火口が燃えている。

 それが自分の視界の片隅にある。

 口内にツチカの舌の感触を感じながら、なぜかサランはそれに注目している。


 ――こいつあの煙草で目ェ焼いてくるつもりじゃないかな? いやいや、この前根性焼きなんてダサいことしなくてすんだって言ってたから、それはないか。

 ――それにしても、煙草みて暴力を連想するとか思考がリリ子じみてきたな……。


 思考がどんどん明後日の方向へそれていくということは、この唐突にもほどがある事態に対して自分はそれなりに混乱しているのだと、気づける余裕がサランには一応あった。というよりも、混乱による乖離を余裕だと思い込もうとしていた。

 

 その鈍い反応にいらだったのかツチカの瞼が開き、茶色がかった瞳でサランをぎゅっと睨みつけながら顎をもつ左手に力を込めて舌をうごめかせる。それがあまりに乱暴で、たまらずサランはううっと唸る。目をとじて反射的にツチカから距離を取ろうとのけぞるが、ここは鉄骨の上だ。せいぜい身をよじる程度の抵抗しかできない。

 それをいいことにツチカの舌はサランの口内を蹂躙する。

 

 煙草の苦い味のする舌が、サランの舌を捉えて嬲る。かすかな薄荷の香りをたよりに、苦みに囚われるのを逃れる。とにかく、息、息が苦しい。


 酸素を求めるサランは首をでたらめにふり、口と口の間にわずかな隙間を作る。

 冷たく新鮮な空気が入り込むと一散にむさぼる。そのさいに口からは、ふぁっ、だの、ふうぅっ、だのといった情けないうめき声が溢れ、それがあまりにも文芸部員で回し読みされた大昔の少女向けエロ小説の濡れ場のようでうんざりしている隙に、ツチカの舌はしつこく追ってくるのだ。そのせいで唇の端から唾液がもれた。口角から顎にかけて雫が伝う。

 それはすぐさま乾くものの、雫が伝ったあとは肌が冷えてひきつれて不快であった。


 経験豊富なだけあって、ツチカの舌使いは巧だった。

 自分が今まで行ってきた、唇と唇をぶつけるような者とも違うし、怒りにまかせたリリイが唾液を呑まそうとした舌の動きとも、失恋でヤケを起こしたミカワカグラの切なく不器用なそれとも違い、とにかく上手い、の一言に尽きた。

 ひょっとしたら、体を使うことの関しては物覚えの異様にはやいタイガなら習得可能かもしれない。そういったことをサランはくらくらする頭で考える。どこかピントのズレたことばかりを頭に思い浮かべるということはまだ混乱しているということだ。それだけを自覚したサランの急所をツチカは攻めた。


「……っふわぁっ、この、やめ……ッ!」


 真面目にやれ、とばかりにツチカの目が恫喝する。その間にも舌はグイグイと口内の上あご部分をこすった。ぞくっと尾骶骨あたりを震源にして背筋が震えるという生理的な反応を体はみせる。

 煙草の火口を無視してサランはツチカの両肩をいまさらのようにどんどんと殴る。それで満足したのかツチカはまた目をとじた。憎たらしいほどに長くてびっしり生えそろったまつ毛が、至近距離で見える。


 その済ました瞼に何故か、舐められるのが嫌いだというサランの気質に火が付いた。

 ようやっと、脈絡なく何をしてくれているのだという怒りにカッと火が付き、気が付けばツチカのワイシャツをカーディガンごとつかんで引き寄せている。そしてがむしゃらに自分の舌を押し込む。


「んむ……っ」


 この反撃はツチカにとっても想定外だったのか、余裕ぶってすました瞼が跳ね上がった。その下から現れた茶色がかった瞳は素直に驚愕をあらわしていた。だからサランも大いに調子にのって舌を動かした。やられた分はやりかえす、ただその意志だけの動きだから気遣いもなにもあったものじゃない。ただ態勢を整えようと逃げ惑うツチカの舌をねじ伏せようの意志だけで強引に動かす。

 サランの反撃いツチカは体ごと逃げの体勢に入る。煙草を挟んだ右手を鉄骨について、そのままあとじさろうとする。が、サランはそれをゆるさずにツチカの襟首を引き寄せる――。


「……んぐっ」


 不意にサランの頭がぐっと下へ向けておさえつけられた。怒ったツチカが右腕の肱でぐいっと頭をおさえたのだと気づく。いい加減にしろという意思表示だ。

 あやうく舌を噛み切りそうになった上に、勝手に始めた癖に今更――! という怒りに火がついて、サランはますますムキになってでたらめに舌を動かした。あふれる唾液をすする音が思いのほかあさましいが、一々かまっていられない。


 最後の方になると、互いにムームーんーんーとうなりながらの攻防戦になり、そっちから早く離れろという争いになる。当然、互いに面子があり譲れない争いに発展する。

 息の限界がほぼ同時にやってきたので二人とも救われた。ほぼ同時に唇を放して、反り返った。ぶはっ、と叫んでとにかく息を貪る。


「……っ、……っ、──っ、──っ」


 ぜーはーぜーはー……、と呼吸を整え、組み合わさる鉄骨の骨組みをみあげながらびしょびしょにぬれまくるわ顎が痛いわで散々な口元をぬぐい、サランは反動つけて前を向き直った。


「おーまーえーなぁっ! 急になにすんだようっ⁉︎ だいたいそういう脈絡のない不思議な行動しとけば相手がコロコロ落ちるってお前の考えは浅はかだってなあ、この際だからはっきり言ってやるからなぁ──……、あ?」


 まだ治らない混乱と怒りに任せて勢い付けたサランはまくしたてるが、視線の先は全くの無人だった。シモクツチカは見つからない。それどころか、さっき掴んでいたニットの感触すら消えている。手の中は空っぽだ。


「……あれ?」


 思わずしげしげと広げて自分の両手の中を見比べるサランは何度も手の中とツチカが消えた空間、その間を視線を行ったり来たりを繰り返す。


「撞木? おい、どこ行った? まーたお前はそうやってふざけて……いい加減にしろ」


 よう、と続けようとしたサランの口が、その際止まった。

 こつん、と鉄骨を踏みしめる硬質な音色と振動が、下半身から全身に伝わったのだ。それを察するや否や、サランは振り向く。

 細い鉄骨に並んで座りあっていた自分たち、サランの右手側に座っていたツチカがいつのまにか左手側にいる。並みの人間なら不自然極まりない移動だが、ツチカはワルキューレ、しかも最古のワンドを母親に持つという規格外の存在だ。それくらいお茶の子さいさいなのに違いない。


 そう判断して、振り向いたサランの目は、次の瞬間、このれ落ちそうなほど大きく見開かれ、そしてまた鉄骨に座ったまま大きく仰け反る結果となった。


「──……」


 ボックスプリーツの基準丈スカート、胸の左右にポケットと肩章のついた略式礼装をさらに簡略化したようなデザインのすっかり見慣れた太平洋校初等部生制服、生徒ならば着用するようにと定められているエンブレムのワンポイント入り三つ折りソックス。その下にあるシンプルであるが故に表面の照り具合や艶やかさ滑らかさでいかに高級であるかが一目でわかるローファーが彼女が身につけている衣類の中で唯一規定を破っているものだった。


 太平洋校の制服は、改造を加えずそのまま着るとやや野暮ったい。だから学内では大目に見られる範囲内でスカートの裾をつめたりプリーツを増やしたり、ソックスを指定外のものにしたり、靴をストラップシューズやスニーカーにするなど、ある程度の自由な着こなしが認められている(OG達が勝ち取った権利である)。


 しかし、サランが振り向いたその先に立つ少女は、きっちりと制服を規準通りに身につけていた。そのまま着ると各々の魅力を殺すと候補生達に不評な制服も、彼女が纏うと美貌を損なうどころかきり凛とした上品さと清廉ぶりを限界まで引き立たせる悪くないデザインに見えるのが不思議だった。

 もっともサランには呑気に感じ入る時間などなかったのだが。


 現太平洋校初等部生徒会長・キタノカタマコは、こつん、こつんと靴音を鳴らしてとっさに立ち上がれないサランに歩み寄る。その都度鉄骨が響いた。


「き、北ノ方さん──⁉︎」


 サンオコサメは確かにマコをよこすと言ってはいたが、このタイミングだとは聞いてはいない。慌てるサランをマコは無視し、危なげなく歩いてサランとの距離をすぐに詰める。


 鉄骨の上から急には立ち上がれないサランを、ほぼ真上から、マコは見下ろした。

 虫けら、石ころ、歩道に張り付いたガム、飼い主が回収しなかった犬の汚物。なんでもいい、路傍に転がるまるで無価値なものを見下す軽蔑しきったまなざしで、マコはただじいっとサランを見下す。


 その視線はサランの、舐められるのが嫌う気質に火をつけたことは言うまでもない。立ち上がるのをわすれたまま、サランはマコをきっとしたからねめつけた。


「なんですかっ⁉︎ 言いたいことがあるならはっきりおっしゃってください!」


 鏡面世界に風はない、なのにハーフアップの黒髪をたなびかせてキタノカタマコは形よい唇からなにか言葉を漏らす。


 いや、言葉ではない。ネジとネジをすりあわせたのかと錯覚するような、歯軋りだ。ギリィ……ッ、というその音は、どんな言葉よりも雄弁に感情を漏らした。

 いつも扇子で隠していた口元をむきだしにしたキタノカタマコは、唇を歪めてぞっとするような音をもらす。唇の隙間からのぞく手入れを怠らない白く形の良い歯からは想像できない不吉な音が。

 それに連動するように、ありったけの軽蔑を浮かべていた目が、瞳が、爛々と燃えるように輝いているのだ。


「──お前は……っ!」


 口を開いて、マコは怨嗟のこもった声を絞り出した。

 その声、そして「お前」という二人称にサランは恐怖を感じた。サランが接してきたキタノカタマコは片鱗を覗かせることはあったとしても決してここまで感情をむき出しにすることもなければ、お前などという乱暴な言葉も使うことはなかった。それなのに、だ。


「いつになったら恥を知る、お前は……っ!」


 またも地震でもおこすつもりなのか、地を這う怒りにサランもおののき、腰を下ろしたままあとじさりかけたが、なんとかなけなしのプライドを思い出して、その場に立ち上がる。


「つか、マジでなんなんですかっ! そもそも北ノ方さんが疎開任務につくだのそこに鰐淵を派遣するだの、むちゃくちゃやんなけりゃあうちだってこんな……っ!」


 怒りに身を燃え立たせるキタノカタマコが、きゃんきゃんしたサランの吠える声など聞くわけなどないとサラン本人が自覚していた。が、襟元を掴まれ引き寄せられると流石に言葉をなくす。行為に潜む暴力の気配におびえたのだ。


 しかも身構えてすぐ様、頬が割れそうな激痛が顔面を襲う。


「⁉︎」


 ぐわん、と頭蓋の中の脳が揺れ、左手側にサランの体がかしいだ。大きく傾く視界の中、いつも扇子か鉄線を手にしているマコの右手の中に何もなく、ただ拳を強く握りしめているのだけは確認できる。


 態勢、そして、マコの右手の薬指にはめられたリング、そして口内の鉄錆の味と匂いから、サランはマコに裏拳でなぐられたのだなと理解する。


 その頃には体は大きく傾き、足は完全に鉄骨からはなれていたのだけれど。


 数週間前にはとっさに手を伸ばして、鉄骨を掴み、落下を防ぐことができた。が、今度は無理だとサランはさとる。体がすっかり自由落下の状態に入っていたのだ。ひゅうっと、耳元で風を切る音が聞こえる。


 最後に見えたものは、その目で焼き殺さんとするようにおちてゆくサランを見下すキタノカタマコだった。瞬時にそれが小さくなる──。


 悲鳴を上げることすらできなかった。

 


 ◇ゴシップガール復活SP 01:16:20◇



『おもてなしって、何をどうするおつもりなんですかぁ? マー様ってば』


 空に浮かんだあの顔は、外世界から来た平和を求める外交使節である。

 報復が報復を生み埒が明かなくなるのが見え見えの、不要な戦闘を避けるべきと考えるならば、ただ戦うだけでなく言葉や意識を通わせることこそ肝要だ。そのためには我々の態度で空に浮かぶ使者に向け、共に手を取る意志があるのだという意志を示そう。


 という、いかにも幼少期から女神をやっていた少女らしい理想主義に傾きすぎた意見を揶揄するように、ファッションドールサイズに身を縮めたレディハンマーヘッドは素早く皮肉っぽく混ぜっ返す。いかにも、番組の意地悪な視聴者の意志を代弁するように。


『あのおっきな顔の侵略者にウェルカムパーティーでも開くとか? 外世界万博とか外世界オリンピックでも開いちゃいますかぁ、今からぁ?』

『あら、悪くないアイディアだこと』


 CG少女の皮肉を、茶目っ気旺盛で少々のやんちゃや悪戯には理解のあるお嬢様の佇まいでマーハはくすくすと微笑む。バストアップのショットにシュモクザメをデザインした奇妙なコスチューム姿の小さな少女を侍らせる姿は、悪戯好きの妖精・パックを従えた妖精の女王ティタニアのようだと思う者も視聴者の中にはいたとかいないとか。


『でも大きなイベントを今から準備するのは大変でしょう? それに何も大きな催し事を開くことはないの。――私たちが平和と安寧を請う祈りを、あの方に届ければそれで十分』


 というわけで──と話を切り替え、するり、とマーハは豪奢な椅子から立ち上がる。レディハンマーヘッドのアドリブで、軍艦の沈んだ海底から貴族の邸宅を思わせる室内に変化していたCGのセットの映像が一変、今までの想像しさやけばけばしさを拭いさったような静かな背景に置き換わる。


 それもまた合成された映像のように見えたが、それは違った。


 そこにあったのは、太平洋校入学希望者向けパンフレットや、サイトでおなじみ、太平洋校の敷地内にてあまたの候補生たちを見守っていたとされる、泰山木マグノリアの樹だ。

 世界の平和にその身を捧げる少女たちを見守り、時にその友愛の行く末に介在することもある

 ような悪戯を好む、愛と平和とワルキューレの守護女神が宿るとされている泰山木。太平洋校文芸部が刊行する部誌『ヴァルハラ通信』のうち、『演劇部通信』に親しんでいる読者ならよく知っている、あの樹だ。 肉厚の白い花弁の花をいくつもさかせる樹をまもるように、背丈を伸ばさぬように選定されたハイビスカスに囲まれている。陽が沈んで眠りについたハイビスカスを従えた泰山木はさながら女王の風格があった。

 

 あれがあの……! と、配信を見ている心に乙女を飼う全ての視聴者は色めき立つ中、乙女たちが息を飲む姿がそこにあった。

 

 そしてその幹の前には、二千年紀よりもさらに昔、一九八〇年代を思わせる過剰に少女らしいアイドル歌手風の白いドレスに身を包んだ少女が立って手を振っていた。

 大きくむき出したデコルテをごく淡いピンクのチュールをかけ、胸元でリボンのようにむすんでいる。パニエで膨らませた白いスカートのワンピースタイプの衣装の裾は短いけれど、下品な印象にならないのはチュールと同色のブーツと少女らしさを強調する大き目のグローブのおかげか。それとも眩しいような白と淡いピンクという露骨に可憐であざとく少女らしい色彩の組み合わせのおかげか。


 両耳に白い花の形をしたインカムをセットしたその少女の姿をみた乙女たちは、一瞬、この世に泰山木マグノリアの女神が蘇ったのかと錯覚し、前のめりになる。

 が、すぐさま気が付いた。その少女はよく見れば、さっきからこの番組の節々にちらちら姿を見せては自分の持ち歌を披露している新人アイドルのワルキューレだった。確かメジロなんとかといった――と、アイドルにさして興味のない視聴者層は断片的に彼女の記憶をよみがえらせる。


 切り替わったカメラは映しているのが、CGのセットが被せられる前の泰山木マグノリアハイツの庭ではなく、その中継先、学園の敷地内にあるとされる伝説の泰山木マグノリアの樹の傍だと判明したのは、メジロリリイが画面片隅のワイプにいるマーハへヒラヒラとてをふりながら呼びかけたタイミングだった。


『はーい、初めましてぇマー様ぁ。初等部二年新聞部所属、奇麗なおねえさまなら妹になりたいワルキューレ♡メジロリリイ、スタンバイ整いましたぁ』

 

 脳天からつきでるような甘ったるい声で、あえての古風なスティック型マイクを指をからめて祈るような形で構えるリリイは小首を傾げてはにかむように微笑んで見せる。配信内で見せていた明るい美少女ではなく、清楚な美少女にすっかり様相を変更していたがどのみちあざといのは変わらない。配信視聴中の演劇部のファンは、聖なるスターに秋派を送ったとして何割かがメジロリリイのアンチになり、その倍数の人間が心臓の痛みを自覚して画面のむこうのあざとい少女の蜜にからめとられていることに気付く。


 そんな画面むこうの視聴者の心理にきづかないマーハも小さく手を振って、愛らしい後輩に応える。


『はじめまして、メジロさん。急なお願い、申し訳ないわね。本当はもう少しお話したかったところなんですけど、ごめんなさい。さっそく取り掛かってくださる?』


 かしこまりましたぁ、と微笑みながらにっこり小首を傾げてメジロリリイは目をとじた。

 精神を集中させているらしいその顔を、アップに寄り切ったカメラは映す。数万単位に膨れ上がったアンチたちも、数十万から数百万単位に跳ね上がったファン層も、そろい揃って同じように息をとめて見つめてしまわざるを得ない、そんな表情で一拍の間を置く。


 そしてどこから流れるのは、よほどの前世紀末旧日本サブカルチャーマニアか研究者しかしらないような、弩級の懐メロのイントロだった。


 懐かしい電子楽器の音で奏でられる壮大な世界を思わせる曲調。ポップスでありながら、映画のクライマックスに流すのにしっくりなじむイントロが、ゆったりと流れだす。それに合わせて瞼をもちあげたリリイは、メロディーに合わせて左腕を上げる動作を演じた。ダンスというより振付と呼ぶのがしっくりする古風なパフォーマンスは、曲のなつかしい甘さと相まって、見る者の胸の内を甘いもので満たした。


 決して長くないイントロの中、ワイプに追いやられたレディハンマーヘッドとマーハはこそこそとコミカルに言葉をやりとりする。


『異なる文明に属する方と思いを交わすにはまず誠意をもってお応えするのが肝要、それには歌が有効と専門家の方から伺いましたの』

『ははぁーん、だからリリイちゃんにご協力仰いだってわけなのマー様ったら。やることすばやーい。気が付いたらあたしってばすっかり番組乗っ取られちゃってますしー?』

『ふふ、お招きしていないお客様にお茶会を台無しにされたんですもの。それくらいは安いものじゃなくて?』


 イントロが終わるタイミングで二人のおしゃべりは終わる。入れ替わるようにリリイの歌声が響く。


 音程もリズムも正確、少女らしさを存分に残した声の伸びも良い。

 ここにいない誰かを想うような美しい少女の夢をみるような表情を、カメラはあまさず切り取る。


 寂しくて、なきそうになっていた少女が自分に呼び掛ける温かい声の存在に気付いたと、リリイは歌い上げる。

 歌詞に合わせ、ここにはいない声の主に手を指し伸ばそうとするかのような動作を、リリイは演じる。まるで惹かれあう孤独な魂が出会った瞬間のように。

 

 見えぬ相手の手を取ろう、指先に触れようとするような少女の表情は、おきゃんな口上をのべたばかりの新人アイドルとは思えない風格が滲み出ていた。リリイの見せたコンセントレーションに見入り、気づかぬ間に精神を同調させていた無数の視聴者は、歌うリリイの横顔に誰かを想いだす。故郷であった幼馴染か、恋人か、昔みた映画のワンシーンで微笑んだ名もない俳優か。


 センチメンタルで出来上がった蜜で視聴者の胸の裡がしとどにぬれた時、満を辞したとばかりに一番のサビに入る。


 目と目が合った時、手が触れ合った時、それを覚えているかとリリイは歌う。伸びやかな少女の声で堂々と歌いきるその様子は、環太平洋圏を中心とした全世界に配信された。

 

 各家庭のモニターで、通勤通学中の退屈をしのぐ小型モニターの中で、大都市圏のビルボードの上でリリイの姿は配信され、甘い懐メロを歌い上げる声を流れる。

 数百、数千万にいたる人々を虜にしていることなど知らぬとばかりに、リリイはようやく微笑んだ。まるで呼びかけていた誰かと、手と手が触れ合ったその瞬間のように――。


 

 視聴者数を反映するカウンターが火を吹く勢いで猛烈に回転する中、間奏中にワイプの二人はこそこそといたずらっ子のように言葉を交わした。


『ところでマー様どうしてこの歌をお選びに?』

『ご助言をいただいた専門家の方が申し上げるには、こういう場面では〝ただの流行歌で当たり前のラブソング″を歌うものでござるってことでしたから」

『……ござる?』


 いつもは人を翻弄する側にいるレディハンマーヘッドが細やかな語尾を捉え、眉間にしわを寄せつつ首を傾げた。



 ◇◆◇



 ビュウッ、と、文字に置き換えるとそう表すしかなさそうな風切り音が耳のそばで鳴る中、サランは自由落下状態の自分を俯瞰で見ていた。

 ああ、本当に危ない瞬間というのはこのように時間が引き伸ばされて見えるというのはほんとうだったのだ。たしかに今なら走馬灯の一つや二つ見えてもおかしくはないな……──と、非常事態を目前にして明後日の方向にそれてゆく脳に投影されるのは走馬灯ではなく、鉄骨の上からサランを見下す北の方マコだ。


 爛々と目を燃え立たせた、鬼のようなその顔。天女の魂の器だというその伝説からはかけ離れた、猛々しくそして荒ぶったその表情。サランの生命など、虫けらに等しいと言わんばかりにじっと見下す。


 サランから視線をそらすことなく凝視している。


 なんで? と、生命の危機に対応できない脳はそうやって現実から思考をそらす。

 そんなサランの思考回路を軌道に戻したのは、がん、と頭の内側を震わせた声による。


『リングっ!』

「⁉︎」


 それに突き動かされるように、無我夢中でサランは右手を振りかけ──とっさに自分が今どちらの手の薬指にリングをはめているのかを思い出して、無我夢中で左手をふった。


 空気をかくようにがむしゃらに動かした。


 ふわり、と、突然生じた揚力に体を持ち上げられたのはそのタイミングだ。スプリングのよく効いたマットレスにうけとめられたように、体が数回弾んだのちに宙のある地点で、風船のようにふわふわと自分の体が浮かんでいることに気がつく。


「……、え?」


 トランポリンの上にいるように体が弾むのが収まるのを待ってから、サランは膝をぺたんと床につけたまま座るような体勢でいる自分に気づく。そしてあたりを見回し、自分が浮かんでいる地点が、地面から1メートルほどの高さしかない場所であることを知った。


 つまり、あとしばらく左手を動かすのが遅ければそのまま地面に激突していたかもしれないという事実を示している。そこでようやく、サランの全身から冷や汗が噴き出した。


 鏡面世界は表の世界と左右が反転しているだけだ。ここで死んでも命の保障があるとはミユもコサメも言ってはいない。

 改めてぞっとするサランのそばで、世界で一番大嫌いな女が怒りをこらえているような、なんとも言い難い気配が空気を伝ってひしひしと肌に突き刺さる。


「……──っ、あのさぁ……っ」


 声がする方を振り向けば、あの女・シモクツチカが腕を組んで足を肩幅に開きヒクヒクと片頬を引きつらせる凄絶な笑みを浮かべたままサランをぎっちり見下ろしていたのだ。

 ただし茶髪のシャギーが、見慣れた白銀へと変化していたが。


「ミノ子、あんたさぁ……っ。この後に及んでなんで右手の方を振ろうとしてたのっ? あんた珠里とリングとりかえるような気持ち悪い結婚ごっこをすませてたんじゃなかったの? そのこと忘れてたってのっ? あーもう、あんたのそういうところ本当にムカつく! 声なんかかけんじゃなかった! せっっっっかくの気遣いをバカな振舞で返してくれるあんたのそういうとこ! 本当にそういうとこがダメなんだってばミノムシミノ子っ!」


 白銀の髪をうねらせて怒る様は神話のメデューサのごとし。自由落下の恐怖による動悸が収まるのをぼんやり待っていたサランだが、この言いざまには当然段々腹が立ってきた。

 むっかあ……と、徐々に腹とついでに眉もつりあげるサランの前で、腰に手をあてたツチカは言い切った。


「あんたみたいなとろくてどんくさいヤツ、そのまま地面に激突してつぶれて死ぬのがお似合いだってこと、忘れてた自分に超腹立つ!」


 おなじみの渾名で罵倒され、サランは勢いよく立ち上がりツチカを下からねめつけた。さっきまでフワフワしていた足元は、たちどころにしっかりした足場に変化したが気づく余裕まるでない。


「うーるーせーえーなっ! そんなぎゃんすか怒ることかっ! 右手にリングつけてる期間の方が圧倒的に長かったんだ! とっさの事態にそうなるのは当然だようっ!」

「そのとっさの事態のつっまんない判断ミスのせいで雨上がりのアスファルトにへばりついてる蛙の死体みたいにぺしゃんこになりかけてたのは誰でしたっけーっ!? ねー、ミ・ノ・子・ちゃーん?」

「……っ!」


 腰に両握りこぶしをあてた姿勢で上半身をこちらに曲げ、シモクツチカは世にも憎たらしい態度と口調お呼び表情で堂々とサラをコケにしてかかる。怒りのあまり、雨上がりのアスファルトにへばりつく蛙の死体なんて貴重なものを都会好みのお嬢様のツチカが一体どこでご覧になったのかと混ぜっ返すことすら忘れてしまう(絶滅危惧種のアマガエルやトノサマガエルは管理水田拡がるサランの故郷のよう地域で保護されてようやく個体数を維持しているというのに)。

 しかし悔しいことにツチカの言うことは完全なる正論なのだった。リングを嵌めているのは左手と思い出すこと、そしてそれを振るのがあとコンマ数秒でも遅ければツチカの言う通りになっていたのは確実だ。反論できず、くうっとサランは悔しさに唸る。


 が、その直後に気付いた。この空間ではリングは使用できない筈だ。

 それに、目の前にいるツチカの髪は白銀だ。どうしてワンドとしての力を振るう時特有の現象を起こしているのか。その上、どうしてキタノカタマコが姿を見せるまで姿を消していたのはなぜか。


 それに、そもそも、だ。

 流れで余計なことを思い出したサランは、ツチカの服の襟首を再度つかみ、少々狼狽しながらツチカに食って掛かる。


「それよりも、なんだお前っ! なんでうちにあんなことしたっ!?」

「あんなことー? ……ああ、キスのこと?」


 何でも無さげにツチカは吐き捨て、そして何か非常に不快な出来事でも思い出したかのように顔をしかめた。


「仕方ないじゃん。手続きが必要だったんだから。……ていうか、あんたへたくそ過ぎんだけど? ガキはガキらしくパフェの上に乗ってるチェリーの柄でもしゃぶって結び目作るとか、そういう恥ずかしい練習しとけっつうの」

「……っ‼」


 あまりの腹立ちに言葉も出ない。そしてシモクツチカはそういう隙を絶対に見逃さない女であった。手負いのシマウマがいれば情け容赦なく狙いを定めてとどめをさしにかかる、乾いたサバンナに住む無慈悲なライオンのような女であった。


「つか、何? あんたセックスは抵抗感なく口にできるようになったくせにキスは言えないんだー? へーぇ、何それ?」

「……っ」

「ふつーは逆だよ? ていうか何? 体は許せても心は守るっていう自分たちに都合のいい風にギャルを誤解している二千年紀のおじさん妄想を体現してみせてるとかいうパフォーマンスアートか何か? そういうのが今のミノ子のブーム?」

「…………っ!」

「ま、なんでもいいけどオッサンの妄想に合わせに行くのってそういうのって究極にだっさいからねー。一応病気には気をつけろってことは言っとくけどー」

「………………ッ!」


 それを聞かされた直後、ついにサランの中で堪忍袋の緒が切れた。

 前世紀末の旧日本産文学を中心にデュラスだのサガンだのにかぶれ、二千年紀のオッサン妄想に合わせるような、だれかれ構わず体を交えるコギャルちゃん(でも本当は育ちがよくて教養のあるお嬢様なの)を体現していた女にそれを言われるのは侮辱以外の何物でもない。

 うがあああああ! と、怪獣めいた咆哮をあげるのはさすがに抑え、両手がいまだツチカの襟首をつかんでいるのをいいことに、ぐいっと引き寄せ自分は体を大きくそらせる。なれた頭突きの姿勢に入ったわけである。


 が、サランの頭突きは不発に終わった。

 反り返った拍子に入った視界、幾重にも重なる鉄骨の組み合わせが模様に見える九十九タワーの内部の構造を背負って浮かぶ人影が上下逆さまになった視界に飛び込んだのだ。


 太平洋校の制服に虹色の羽衣をまとわせて、地べた付近でじゃれあう二人を冷酷に見下ろすのは勿論、キタノカタマコである。


「――――…………、あ」


 その時まで感覚の外にあった口腔内の激痛がサランの中で蘇った。ぬるりとりする血液の金気の匂いも。

 そういえば自分はキタノカタマコに裏拳に殴られて落下するはめになったのだ、という自覚を取り戻したサランは、ツチカに頭突きを食らわせるタイミングを失う。

 その隙に、ツチカがサランの腕をつかむ。


「邪魔っ!」


 短く言い捨て、ぐいっとサランをコンパスの要領で振り回し自分の背後へ回すと同時に叫ぶ。


「リングを起動っ!」

「!?」


 地上約一メートルの場所から地べたに落ちたサランは、今度は素早く左手を振った。ここではリングを使えないのにという疑問は口にはしない。そんなひまなどあるわけがない。


 キタノカタマコの羽衣がシャボン玉のように膨らんで、二本の巨大ドリルの形状に変化したためだ。

 光背のようにたなびいていた羽衣の一部が角のようにとがると高速で回転しながらサランとツチカへ向けて襲いかかる。

 いや、サランではなく主にツチカの方へ。思わず前のめりになってサランは叫ぶ。


「危な――っ!」

「遅いっ!」


 ツチカの白銀の髪が大きく逆立ち、毛先が膨らむ。その形状は巨大なハンマーになり、襲いかかるドリルの襲来を自身の眼前で打ち砕き、続けざまに首を連獅子のように動かしてふりあげた地面に叩き伏せた。どごぉっ、とツチカの髪で形成されたハンマーは地鳴りを生じさせ、あたりに土煙が上がる。


 地鳴りとその振動の激しさによろめくサランを、キタノカタマコの羽衣の一部を叩き潰したばかりのツチカは振り返って睨む。どうやらさっきの「遅い」はサランに向けて言い放ったものらしい。眉を顰めてサランを睨みつけた後、チッと舌を打つ。普段から令嬢らしからぬ行儀の悪い女だが、そこまで粗暴な振舞に及ぶことは案外少ないヤツでもある。

 つまりシモクツチカはかなり、相当、非常に、不本意な一言を告げようとしているのである。経験上サランはよく知っていた。

 何しろシモクツチカはサランの脳内に長々と居座っていた、この世で一番腹立たしい女なのだから。


「な、なんだようっ」

「――いいっ。長々と説明してらんないからぶっつけで行くからねっ」


 それだけ言い捨てた途端、ツチカの目は自身の真上の陰を捉えた。そこで踊るのは、羽衣の一部をツチカの髪でできたハンマーで押さえつけられてもものともせずにひらりと舞うキタノカタマコの姿だ。


 羽衣の周囲にぱちぱちと小さな電のようなものをいくつも閃かせている。おかげで憤怒に燃えるその顔がよく見えた(別に見たくないのに)。


「――まったくお前は……っ! どうして私を煩わせる……ッ!」


 サランのことなど全く視界にも入れず、キタノカタマコは叫び手にした扇子をツチカへ突きつけた。指揮状の代わりを果たす扇子の先へ、稲光は結集し、ビームのようにツチカを襲う。

 瞬間、ツチカの髪は普段の長さにまで戻り、くるりとピルエットを舞ってサランの傍まで下がる。そのコンマ一秒前までツチカが立っていた場所に、青白い稲光が宙に閃きオゾンの匂いが漂った瞬間、ばちい! と大きな音が鳴った。人為的な落雷。サランの全身もびりびりと震えた思いがする。


 キタノカタマコの周囲にはまだぱちぱちとはじける稲光がちらついていた。そして先刻と同じように二人へ向けて扇子を突きだす。


「どうしてこのような恥知らずな真似をする……っ!」


 落雷の第二陣がくる! と、どんなに鈍い人間にもわかる状況だ。サランはとっさに叫んだ。


「撞木っ、二発目が来るぞっ!」

「見なくてもわかるでしょっそんなことっ!」


 あーもうっ! とツチカは叫び、サランを小脇に抱えて走り出した。九十九タワーから離れ、芝生の上を力の限り走る。そしてやはり、二発目の雷は二人がさっきまでいた場所を容赦なく直撃し芝生を焦がした。またオゾンの匂いが濃くなる。


「最悪最悪最悪最悪もう超最悪っ! なんでなんでなんでっ、あんたなんかとっ!」


 いくら小柄であるとはいえ、十四、五歳の女子を小脇に抱えた状態で、しかも憎々し気な悪態を力いっぱい吐き散らすにしては異様な速度でツチカは地べたを駆けた。その後を羽衣の力で空を舞うキタノカタマコは、憤怒の表情で落雷を降らせるのだ。

 ぴしゃっ、ぴしゃっ、と鼓膜を突き刺すような電の音が自身の近くで炸裂するたびにひぃっとサランは身をすくめ、やけくそになって叫んだ。


「撞木お前半分はノコみたいなもんなんだろっ! 空飛べるんじゃないのかっ? 飛べるなら飛べっ! 飛んで逃げろっ」


 ――ムチャクチャなことを言ってる自覚はあった。

 どうせシモクツチカのことだから破れかぶれ頓珍漢なことを口走るサランを馬鹿にしてかかるのだろうとサランはとっさに予測する。しかしそれはものの見事に外れた。

 サランを抱えたツチカは命じる。


「つかまりなっ!」


 驚くサランの体勢が整わないまま、構わずにツチカは軽やかに地面を踏み切った。あわててツチカの首に両腕を回して齧りつくサランを抱えたツチカの体は、そのままひらりと舞い上がる。背中から見えないワイヤーにでもつるされているように、宙に大きく華麗な弧を描きながら舞い上がる。

 すっかり日の暮れた鏡面世界、そこでも街の灯は色とりどりにきらめいている。瞬く間に九十九タワーの殺気まで自分たちのいた場所と同じ高さになり、サランは息を飲んだ。

 サンオミユのホウキに乗せられて空を飛んだばかりではあるが、今は不思議と恐怖は感じない。速度がミユに比べてゆっくりだったからか、キタノカタマコからの攻撃から逃れたという安心によるものか、すくなくともツチカの体が温かかったからということはないだろう。


「――よーしよしよし、今の調子だからねミノ子」

 

 宙を舞えるスケート靴を履いているかのような身軽な動きをみせながら、シモクツチカはサランの耳元で囁いた。さっきまでついていた悪態の響きをやや残してはいる者の、その声音はサランがよく知っているとにかく好戦的で人を小バカにするときの声と同じものだった。

 それが自分へ向けられた者ではなく、羽衣をなびかせて高度を上げ追撃態勢に入るキタノカタマコへむけられたものであるというのがとにかく珍しい。


「いいっ、あの人をブッ倒したければさっきみたいにあたしに声出して指示すること!? 出なければあたしはママからもらった力が出せないっ。OK?」


 マコから距離をとるために、タワーをはさんで大きく高速でループを描きながらツチカは早口で何かを告げる。その目はタワーの陰に居るキタノカタマコから離さない。

 びゅうびゅうと空気の圧に嬲られながらも、サランはとにかく大声でわめきながらまず疑問点を明らかにした。


「ママからもらった力が出せないって、お前のワンドとしての能力って意味かっ!? なんでっ? ノコは自分の意志で体を鋸にしてぶん投げてたぞっ!」

「あの子には深川クンがいたから! 考えりゃわかるじゃないバカミノ子っ!」

 

 声が不機嫌なものになる。


「残念ながらあたしはノコちゃんたち風には出来てないっ! 誰かのワンドになるならその相手による動作入力が必須なのっ! ――あーもうっ、珠里ならこんなこといちいち言わなくたって分かってくれるのにっ!」

 

 いらだったようにツチカは吐き捨てる。

 またこいつはワニブチの名前を呼んで、いつまでたっても侍女離れできない大人ぶりっこめ……っ! 

 という思いをとにかく飲みこみ、ループの軌道を変えてこちらへ追いかけてくるツチカとの距離を一気に詰めるマコに目を見張る。マコの羽衣は表面を波立たせてまた変形し、無数の縄となる。ツチカとサランを二人ともからめとるつもりなのだ。

 捕縛から逃れるためにツチカは一気に上昇する。重力に逆らい、下から上へと滑空する。そのスピードに羽衣でできた縄は追いつけない。生命の危機を感じたためにツチカの首っ玉に強くかじりながら、サランは目を瞑った。怖がられてると思われるのは癪だができるだけ早くツチカの言葉を整理しなければならないのだから、面子に拘ってなどいられないのだ。


 ツチカはワンドとして能力を振るうには、サランの指示が必要であるといった。 

 母親と同じシリーズのノコが自分の意志で攻撃したり体を変形できるのは、フカガワミコトがいるから――つまりはパートナーがいるから――ということを趣旨のことを口にした。


「……?」

 

 そこでふと何かに気が付いたが、空中ブランコに振り回されるような状況でサランはとにかく必死に考える。


 ツチカがノコのように自分の自由意志で能力が振るうことができないのは、のことは同じように出来ていないからだといった。「誰かのワンド」になるのならその誰かからの言語による指示なしで能力が振るえない、といった旨のことを若干悔し気にくちにしていた。

 そしてツチカはしきりにサランへ自分に指示をしろしろとせっついてうるさい。

 

 ――以上のことから導かれる事実はこうなる。

  

 半分人間の血を引くせいか、ワンドとしての能力を全開放する際にツチカにはパートナーに相当する人間が行う動作入力による指示が必要となる。

 そしてツチカはサランへキタノカタマコに対処するための指示をしろしろ、とうるさい。

 どうやらサランはツチカに能力をいかように行使せよと命令を下す権力を有するらしい。


 つまり、自分は現在、規格外のワルキューレ兼規格外のワンドである女・シモクツチカのパートナーである。


「……っ!?」


 驚いた拍子に目を開いたら、ちょうど頭の上の方に色とりどりの地上の星がまたたく地面が空のように広がっていた。ローラーコースターのようにツチカが弧を描き滑降してる最中だったのだ。ちなみにサランはその種のアトラクションに強い方ではなかった。

 悲鳴すらあげて必死にツチカにすがりつきながら、それでもサランは必死に叫んだ。


「だ、だんでうぢどおばえがぞんだこどにだっでん……っ!」

「さっき契約したでしょっ!? 今更変更は不可だからねっ、不可っ!」


 恐怖であらゆる文字に濁点がついてしまうサランの醜態とは違い、自分の歩むべき進路を見定めているツチカの言葉は悔しいほど毅然としていた。ともかく、そのおかげで不可解なキスの真相がわかった。あれはつまり、あなたのパートナーになるという契約の儀だったわけだ。

 ようやく真相に気付くようなサランにはほとほと愛想がつきたとばかりに、ツチカはギュンっと地面すれすれを滑りながら腹立ちをぶつけるように叫んだ。


「あーっ、もうだからあんたなんかパートナーにするのイヤだったんだってばーっ! 珠里のバカッ!」


 地上数十センチの高さの場所で、ツチカは華麗なステップを描く。熟練のフィギュアスケーターに負けない足さばきで、キタノカタマコの羽衣が変化する、プラズマを纏ったドリルの雨という攻撃から逃げる。マコはツチカが上空へ逃げられないように、一帯を羽衣で覆って、逃げる方向へ触手を思わせる細いドリルの雨を降らせる。それをツチカは全部すり抜けね交わす。外れたドリルは地面を大きくえぐり、ツチカの足元をすくおうとする。その力場に沿ってツチカは滑る。

 キタノカタマコの歯ぎしりが聞こえてきそうな見事な逃げっぷりだ。しかし本当は必死なのだろう。どさくさに紛れてこのように本音をもらしたのをサランはしっかり聞いていた。


「……あたしのパートナーは珠里だけなのに……っ!」

「!? 撞木っ!」


 シモクツチカの気弱な一言を発したのが気になってサランは周囲ぐるりとあたりを見回して気づく。ドリルの雨を降らしていた羽衣が大きく波打ち、再び一枚の布の状態に戻ったのだ。それがより合わさり、一本の綱となる。


 ツチカの気のゆるみを見逃さず、綱となった羽衣はツチカのルーズソックスを履いた右脚に巻き付いた。二人の視界のむこう、羽衣の一端がそよぐキタノカタマコのは、鋭く扇子をもつ右手を斜めに振り払う。二人の体が大きく上空へ持ち上がり、ツチカの体を下にしたまま、ぐんっ、と協力な遠心力がのしかかる。

 

 ――地面にたたきつけられる! 


 気づいたサランはツチカの体にしがみつき、とにかく声の限りに叫んだ。


「シモク、キタノカタさんに反撃っ! なんでもいいからあの人にほえ面ぁぁ!」

「! 指示が雑ゥっ!」


 こういう時ですら悪態をつきながら、地面に激突する寸前でツチカは両手を伸ばした。今度は体操選手のように一瞬倒立し、スカートが広がるのも構わず羽衣の巻き付く右脚を綺麗に一八〇度ひらいてくるりと開いて地面に着地する。


 勢いのついた右脚の先にある羽衣は、反動でその先にあるマコを大きく振り回した。扇子を使ってその動きを制御しようとするが僅かに遅れる。伸びた羽衣は九十九タワーに絡まり、キタノカタマコは鉄骨に叩きつけられる。端正な顔が苦痛に一瞬歪んだのちに、細い体に羽衣が巻き付く。こうして栄えある太平洋校初等部生徒会長様は地方都市のランドマークに縛り付けられた。


 ――もちろん、その程度の拘束でキタノカタマコの戦意が消失するわけなどなかった――。


 爛々と目を燃え立たせ、白檀の扇子で羽衣を一旦切断すると自分の体を戒めを一旦断ち切った。そうすると、ツチカの右脚に巻き付いていたままの羽衣も主の元へ帰り、虹色の布となってその背後でそよぐ。

 

 再び天女のスタイルとなったキタノカタマコは、その宙に浮かぶ。はるか西域から渡来した美術品のように優雅に。

 しかし、一瞬でもタワーに縛られた屈辱を味あわされたその表情は憤怒によって目の色が変化して見えるほどだった。ギリィっ、とまた口からぞっとする歯ぎしりが漏れる。

 そうして、ツチカは吠えた。地獄の底が震撼するような、憎悪のこもった声で。 


「そろそろ分を弁えよ、撞木槌華! ヒトの血混じった半端者の化け物風情め!」


 正しく、それはキタノカタマコのほえ面だった。

 サランがとっさに命じた通りに、シモクツチカはマコにほえ面をかかせたのだ。


「――……」


 しかし、地面へなげやりにサランを降ろしたツチカの表情に爽快感は無かった。相手を徹底的にやりこめた時に見せる、相手のなけなしのプライドすらへし折り踏みにじる、ふふんと上から笑って見せるあの人を小バカにした笑みはかけらもなかった。

 脚をそろえて地に立つツチカは、無言でスカートの泥汚れを払い、乱れを直す。その間一切無言だ。

 シャギーの横紙がサランの位置からツチカの表情をかくして表情が読めない。


 だがサランの脳内ではある姿が浮かぶ。いつか、ミカワカグラのビジョン越しに見せられたシモクツチカの表情が。

 学園の廊下ですれ違った時に、ツチカが見せたのは相手を今のキタノカタマコが浮かべている憎悪と寸分たがわない憎悪の表情だ。できることならその手で相手を叩きのめしてやりたいような。


 ――ああしかし、でも、かなわないのだ。

 半分が人の子ではなく、特殊な素質をもつワルキューレでなければその能力を引き出せないワンドの身であるツチカには、あれほどの力と能力がありながらキタノカタマコを殴ることも蹴ることも、その首を締め上げることも、人間扱いしない相手を叩きのめすことも、自分を化け物と侮辱した罪をあがなわせることもできないのだ。


 ――だから、だからか。


 頭の中が全て明瞭になり、サランの中で一枚の絵が出来上がる。ようやくそれが完成する。

 荒らされた地面と芝生と土の香りが一層、頭の中をクリアにする。


 ――だからこいつは一人でこんなことをしでかしていたのだ。


 サランは再度、宙に浮かぶキタノカタマコを見あげる。

 一度感情を出してしまったのである程度期は済んだのか、マコはいつも通り超然とした佇まいで二人を見下している。結局、吠え面をかいたのは一度だけだった。

 サランは一度、深呼吸をする。気持ちを切り替えるにはこれが一番だ。


「……撞木」


 呼びかけに、ツチカは言葉で応じない。ふう、と人をバカにしたような息を吐いて、顔にかかった髪を払うだけだった。

 かまわずにサランは続けた。


「撞木、あの人にもう一回ほえ面かかそう」


 その指示に対する返事はこれだけだ。


「――フン」


 バカバカしい、くだらない、もっとマシな指示は出せないのか。そんなニュアンスを込めてツチカは鼻を鳴らした。まるで西風に乗ってやってきた気位が高いうぬぼれ屋のナニーみたいだ。シモクツチカなら幼稚だとバカにする類の物語に登場する類の。


 それでもいい、それでこそシモクツチカなのだから。


 強壮剤でも飲んだような、身の内を焼き焦がすむやみやたらなやる気がサランの体に湧き上がる。今ならなんでもできそうな気がする。

 なぜならサランは、世界で一番ムチャクチャで規格外で強いくせに本気を出さなくて、大人になりたくて子供っぽさと甘ったるい少女趣味を馬鹿にして、何をおいても救いがたい恋愛脳で、なのに幼いころから一緒にいる侍女にべったり依存して、やることなすこと気に障って仕方ないのにベラボウに強い女が傍にいるのだ。

 こいつが隣にいてくれるのだ。


「よーし、んじゃあキタノカタさんにきっちりごめんなさい言わせてやろうっ! 決めたようっ!」


 サランは力一杯叫んだ。


 九月三十日、その日ほど自分が短気で舐められることが嫌いな気質でよかったと感じたことはなかった。



 ◇ゴシップガール復活SP 01:19:10◇


  

 当たり前の流行歌で当たり前のラブソング、その一番と二番の間奏は長い。

 ゆったりとしたメロディの間、カメラはその間様々な角度からメジロリリイを映す。

 生配信中、時に上級生をからかったり、アイドル然とした明るく可愛らしい様子を振りまいていた少女は、その間、もの想いに耽る切なげな乙女としての顔を見せている。

 みせている、というよりも、今が番組の配信中であることも自分がアイドルであることも忘れ、ただ一人の少女として今までの自分と今この場にいない誰かとの日々を思い出すような、切なく慈しみに満ちた表情で、ここではないどこかを見つめているのだ。かといって忘我の表情ではない。

 

 目じりに浮かんだ涙をぬぐうようなしぐさを見せた後、メジロリリイは面を起こす。

 二番に刺し変わる前に気持ちを切り替えたのか、笑顔になってニッコリほほえみながら、メロディに合わせて体を小さくスイングさせてリズムをとるリリイの劇的な変化を、カメラは真正面からしっかりとらえていた。

 

 カメラのむこう、モニター前の視聴者たちの胸に火をつけずにいられない表情の変化だった。リリイのアンチですら、胸の端っこを掴まれたような一瞬の切なさを味わう。


 そして配信画面の隅っこに、二頭身にデフォルメされたレディハンマーヘッドのキャラクターがサイリウムを上下にふるアニメーションに気付かされた。

 曲をじゃましないように吹き出しで各国言語に素早く切り替わりながら表示されるメッセージには、赤いハート型のボタンをそえられていた。


『リリイちゃんを応援したくなったらこのボタンを押してネ!

 何かすっごいことが起きるかも!?』


 そんなメッセージが表示されていることを知ら無さそうなリリイは、カメラ目線でいたずらっ子のように微笑んでから、二番の歌詞を歌いだした。

 

 寂しさに負けそうな私に「ここにおいで」とあなたの声が聞こえる

 目をとじて待っている私のもとへ歩いてくる貴女の姿が見える

 涙で曇っていた心はもう、昨日とおなじではない


 そんな歌詞を歌うメジロリリイの少し緑色のかかった瞳は、星よりも可憐な涙を湛えて瞬いていた。


 そんなリリイの歌声に心を掴まれた視聴者たちは、とにかくハートのボタンを押しまくる――。

 


 すっかり夜の帳が起きた太平洋校敷地内、ワルキューレたちが慕う泰山木の樹に変化が訪れつつあることを、少女アイドルの歌に聞きほれる人々はまだ気づいていなかった。

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