#56 ゴシップガールと鏡の国でデート

 ◇ゴシップガール復活SP 01:13:07◇



『外世界に住まう方々を、私どもは侵略者と呼びならわして参りました』


 CGでできたセットの中、ジンノヒョウエマーハはよく通る澄んだ声で画面の向こうにいる人々に語り掛ける。その顔に浮かぶのは、この世界を愛し慈しむことのできる選ばれし少女の微笑みだ。


『それはかの方たちの世界と私たちのくらすこの世界の不幸な接触があったが為、計都星彗星の出現による不安定になった次元壁を破られたことによる私たちの邂逅がままならぬ結果を生んだ為、そう称することになったのは皆さまご存知でしょう。しかし、幾多の争いを、憎しみと恨みによる悲劇を繰り返してきた私たちはよく知っているはずです。敵を討つ者もまた敵であると。かの方たちを侵略者と呼び、地球文明の延命・発展のためこれから外世界へ進出せんとする我々もまた侵略者であると』


 ミルクを垂らした甘い紅茶を思わせるとろりとした色味の肌と聡明な黒い瞳に波打つ豊かな黒髪、それらすべてがカメラのむこう側に居る人間の視線を一時奪う。一度奪われたところで、常に口角がかすかに上がった唇から、楽のような声で思考を絡めとる。

 ジンノヒョウエマーハは聖なる乙女の可憐な佇まいで、平和と安寧と今この世界の危機を語る。

 

 ――やれやれ太平洋校の小娘ワルキューレは、なにかというと感情に訴えかけるだけの実の伴わないスピーチばかりが得意な者ばかりが多い模様──。

 そのように意地悪な感情を催す悪い大人たちも関心を引かずにいられない、洗練されたたおやかさでマーハ訴える。


『この哀しい連鎖を私たちは幾度も繰り返してまいりました。そしておそらくこれからも、怒りと悲しみと恨みを乗せた車輪はこれからも回転を続けることでしょう。ありとあらゆる世界に暮らす私たちの友のいる世界を踏みにじり、加速しながらもくるくると――』


 マーハは悲し気に微笑む。

 幾世紀にわたっても、平和を達成できなかった人類を、平安と安寧と解脱を説く立場であったにも関わらずそれを実現できなかった己の無力を自嘲するように。

 しかし涙は浮かべなかった。嫋々としつつも毅然とした態度を崩すことなく、齢十七の元女神は言葉を続けた。


『今、そらから私どもの世界をご覧になっている方も侵略者と呼ばれる方に相違ありません。しかし、皆さま先ほど御覧になられたように、レネー・マーセルさん、ナタリアさんのご活躍も通じませんでした。そこから私はこう愚行いたしました、かの方は私どもがよく知る目的ではなく、おそらく別の目的でこの世界に顕現なさった方なのでしょう、と――』


 カメラの位置はさっと切り替わり、陽が落ちきる寸前の空に浮かんだ巨大な顔面のアルカイックスマイルを映し出す。そっと目をとじ、唇には微笑みをうかべているようではあるが、何を思うているのかはさっぱりわからず、地上い這いつくばるしかない無力な人間をいたずらに不安にするしかない笑みをしずかに浮かべている。


 モニターから、自室から、屋外から、空に浮かぶ正体不明の微笑みを見上げる人々がまた配信に注目するのをうながす為に十分な間を置いて、ファッションドールサイズに身を縮めたレディハンマーヘッドはけたたましく尋ねる。


『えーっと、とどのつまりマー様はあの大っきな顔の目的はなんだとお考えなんですかぁ?』

『そうね。きっと恐ろしい理由ではないと思うの。私たちが外世界の方々と仲良くできるかどうか、確かめにお見えになったような……』

『ふーん、言うなれば平和外交使節ってとこですかぁ? でも、先程マー様ってば物騒なことをおっしゃいませんでしたぁ? このままいくと地球がどかーんと粉微塵だとかなんとか』


 マーハのスピーチにうっかり見はまり聞き惚れていた聴衆もそれを耳にして我に帰る。そうだそうだ、この少女はそうやって一般聴衆を怯えさせてから気をひくという古典的なテクニックを使用したのだ、と、年端もいかない少女を世界防衛のかなめとするこの世のあり方にうんざりしている部類の人々はシニカルな思いを文字にして、生配信のコメント欄にぶつける。理想主義、平和主義、小手先のテクニックを弄する華園育ちの小娘め、と、演劇部ファンではなくうっすらとワルキューレなる存在に悪意を持っている層からの悪罵がこれ幸いとぶつけられる。


 しかしジンノヒョウエマーハは幼少期から親元から切り離されて生きた女神をやっていた少女である。さらに言えば、世界の尾根を挟んだ亜州盟主と南亜連合の緊張の種とも言える存在でもある。たかだが誹謗中傷で傷つく段階はとっくに過ぎているのだ。


 だからぬけぬけと、お茶目なお嬢様の顔と口調に戻っていたずらすきというキャラクターを演じるCGの少女の言葉に頷いてみせた。


『ええ、ですから私たちは皆で仲良くいたしませんと。平和外交使節の皆様の前でいがみ合っている様子などを見せたら先方はどうお思いになるか、皆さまよおくご存知のはずでしょう?』


 お嬢様らしいいたずらをおもいついたようにくすくすとお茶目に笑うマーハを見て、大多数の人々は気を引かれた。いたずらの仲間になりたい、というような稚気が刺激されたのである。が、中にはマーハの発言をあてこすりと受け取り苦虫を噛み潰したような心地がする者もいた。女神様時代の少女の目の前で繰り広げられた東亜と南亜の事変を起こすきっかけとなった外交上のいちゃもんに対するあてこすりだと受け取った人々も視聴者の中には存在したのである。


 そんな意図などありません、と、宣言するも同様なお嬢様の表情で、マーハは両手の指先を合わせて夢見る調子で提案するのだ。


『さあ、皆さま。天の彼の方を我々でおもてなしいたしましょう? この世界は残す価値なしとみなされる前に。ね?』



 ◇◆◇



「お、お邪魔します……」


 ミユが開けたドアの中へ、サランは進む。

 先輩のプライベートルームに初めて足をふみいれるのでそれなりに緊張はするし、そういえば夏に現れた休暇中のサンオコサメがミユを引っ張り上げたのはここの筈では? 等と要らない記憶も蘇ってしまい、なんとなく気まずさを覚えながらミユの後に続く。


 畳に押し入れといった純和風の部屋の造りを活かしつつ適度にリフォームされた室内には、机、ベッド、本棚といった家具が置かれていた。装飾の少ないシンプルなデザイのものを選んでいるためか、それほど広くないスペースなのに圧迫感はない。直接日光の射さない窓辺には小さな小物や民芸品などが飾られている。

 古風なライティングデスクの片隅には、コスモスを活けた一輪挿しと養成校時代のものらしきスナップをプリントアウトしたものを入れた写真立てが置かれていた。太平洋校初等部制服を着た五、六人の少女たちが笑顔で映りあった写真の中で、初等部制服をきたミユとコサメらしき少女はあたりまえのように隣で映りあっていた。初等部時代のミユは小柄で髪をショートにしてスポーティーな印象を与える小鹿めいた少女で今とはずいぶん印象が異なるが、となりにいるコサメであろう少女はウェーブをつけた髪にリボンを巻いたりして現代の姿とあまりイメージが変わらない。なんのつもりか端正な顔を崩してべーっと舌をつきだしつつ中指を立てているところも含めて。


「こら、あんまり見るんじゃありません~。大体そんな時間ないでしょう!」

「だって先輩いま支度中じゃないですかぁ。その間だけですよう」


 襖と中板を外してカーテンをつるし、ウォークインクローゼットとしている元押し入れの中からひょっこりと顔とむき出しのデコルテをのぞかせたミユが、サランが部屋のあちこちに気を取られているのを見て軽くしかる。その時サランは、ライティングデスクとともに目立つインテリアである本棚の前につい座り込んでいたのだ。本が好きな者としてはどうしても本棚には目が行ってしまうのである。そのことを同類として理解しているのか、まったくもう! とあきれたように呟いてカーテンの奥へ引っ込む。衣擦れの音をたてながら、サランにちょっとした皮肉を投げかけた。


「本ばっかり読む子には困ったものね。侵略者よりも本が気になるなんて」

「先輩だってそうでしょう? 世界の危機より小雨先輩じゃないですか?」

「――あら、あなたってそんなこと言うような子だったかしら?」

「六月からこっち色々あったんです~」


 皮肉を生意気で投げ返した所、カーテンの陰でミユが苦笑した雰囲気があった。カーテンのむこうで着替えているミユの準備が整わないことには出発は叶わない。急いても仕方ないのである――と言い聞かせて本棚に並んでいる背表紙のタイトルの眺める。

 さすが乙女な先輩の本棚らしく、耽美な幻想文学や日常を独特の感性で綴った女性文学者や少女小説の古本が目立つ。それに混じって原語版の志怪小説集や少女漫画調のイラストが可愛いハングルの少女小説文庫などが混ざっている。おお~……としみじみ魅入られるサランではあったが、なぜかその中に大長編の野球漫画が数シリーズしれっと混ざっているのが不思議だった。気にはなったが、首をかしげるより早く音をたててカーテンが開いた。支度を終えたミユがその姿を現す。


「おまたせ、鮫島さん。こっちに来ていいわよ」

 

 半そでのニットににロングスカートとエプロンを合わせていた私服から、黒いスーツに着替えている。普段はバレッタでシンプルにまとめあげている髪も編み込んでまとめたうえにスーツと同色の小さいギャリソンキャップを乗せている。女性用礼装に似たデザインのスーツ姿のミユは、優しいOG兼古本屋のきれいなお姉さんではなく凛々しいプロワルキューレのそれだった。黒いストッキングとタイトスカートが平素のミユのイメージと異なりすぎてサランも目を見張る。

 まとめた髪にスーツだけだとどこかの軍の女性士官のようだが、ミユの手にはワンドである竹ボウキがあり、肩からは背中の半分程度を隠す程度の裏地の赤い黒いケープがかけられていた。その二つのアイテムのせいで、ミユの印象に魔女のようなイメージも加味される結果となっていた。


「それ、先輩の兵装ですか?」

「ええそう。ここじゃどうしても転送装着は無理でしょう? こうしてその都度着替えないといけないのよ」


 招かれるままに押し入れの中に入ったサランは、ミユへ感想を語った。


「似合ってますよう、先輩。格好いいです。……でも、やっぱり専科卒業しても太平洋校出身者うちらの兵装はどうしても二次元寄りなんですね……」

「――いわないで、それは。これでも養成校時代よりマシになったんだから――」


 太平洋校の兵装デザインがイマイチなのは宿命であると言わんばかりにミユはため息交じり答えながら、天井からつるされたジャケットやコートなど、まだ出番の無さそうな冬物衣料をかき分けて奥へと向かう。

 クローゼットとして使用するため、あらかじめ押し入れの中板は外されている。そしてその奥にはは、壁に立てかけるように一枚の姿見が置かれていた。

 螺鈿細工の施された二頭の蝶が戯れる木彫りの額に縁どられた鏡は、部屋のライティングディスクや本だな同様、かなりのアンティークらしいが、それにしたって姿見を立てかける位置にしては妙だ。クローゼットの奥に設置したところで、鏡の役割は果たせない。


 ――ということはつまり、姿を映すための鏡ではないということである。


 ミユは鏡の前に立つと、姿見の向かって左側にある二頭の蝶の装飾の上に左手薬指に嵌めているリングをかざす。

 九十九市では電子端末でもあるリングの機能は使用不可の筈だが、額に掘られた蝶の螺鈿細工がさっと揺らぐように輝いた。電子のみせた反応ではなく、ミユの持つワルキューレ因子に反応した証だとサランは睨んだ。この鏡もワルキューレの能力を補助する媒介の一種であり、ミユの行為はなんらかの個人認証なのであろう。


 サランの読みが当たっていたのか、ミユは鏡の表面を撫でた。何の変哲もなかったガラス製の表面が石をなげた水面のようにゆらゆらと撓む。その間に黒い皮手袋を左手に嵌める。


「さ、ついてきてちょうだい」


 ミユは一端サランに自身の竹ぼうきをあずけて右手でサランの手を取る。そして、左手をぐっと鏡の中へ押し込む。水銀が波打つような粘度でもって姿見の表面は揺れた。慣れた様子でミユは鏡の中へ入りこむ。手をつながれたサランもそれに従うほかない。水の中を潜る様にすうっと息を吸い込んで鏡に入り込んだ。


 ぬるっとした膜を破るような感触があっただけで、鏡の中には普通に酸素があるようで呼吸をするには問題がない。周りの風景もサランがついてきたリフォームされた押し入れの中とそっくり同じだ。まさに鏡の中。

 吸い込んだ息を吐きだし、竹ぼうきをミユに返した。それを受け取ったミユはカーテンを開けて部屋に出る。そこもサラン通ってきたのと同じ、ミユの私室とそっくり同じ部屋だった。しかし違和感が大きいのは数べ手のものが左右反転しているからである。再び本棚の前に立ってサランは眩暈がした。本の背表紙に書かれたタイトルがすべて鏡文字になっている。


「……えーと、ここは?」

「簡単にいえばこの街のバックヤードね。気をつけて、ここはすべてが左右逆さまだから。なれるまではちょっと大変よ?」


 ミユの言葉通り、二階から降りて三尾邸の廊下を通りテンポとは反対側にある住居用の玄関から外に出るというただそれだけの道程で、サランは柱や壁にぶつかるという失態を何度か繰り返した。右と左が反転しているだけで、ここまで感覚が狂うとは。


 そのまま玄関の三和土におりると、靴箱からヒールの高い黒いパンプスをとりだしたミユはそれを履く。

 ミリタリー調のドレススーツとその靴はよく調和しているが、普段のイメージのミユとは違いすぎるのでサランは戸惑う。リブ編みニットとロングスカートにエプロン、外に出るときはミュールかつっかけサンダルなのがほっこり優しいこのOGのイメージだったのだから。

 シンプルなハイヒールにやたらタイトなスーツの、お陰で普段からうすうすわかっていたスタイルの良さが強調されているのにもつい圧倒される。お陰で平時とは違うのだという感覚がサランの肌にもしみた。


 三和土からガラス戸を開けた空は、三尾邸にいた十数分の時間経過どおりに暮れなずみ、藍色がかった部位が増えている。隣家や金木犀の植え込み位置関係で見えないが、そらの片隅にはきっと観測者のあの顔があるはずだ。

 それにしても、鏡をぬけたこちら側の世界には、目に映るもの全てが左右が逆さまになっているのとは別の違和感がある。おそろしいほど静かで、そしてなんの匂いもしないのだ。金木犀が盛りの時期でもあるにもかかわらず――。


 五感をたよりに鏡をくぐってきたこちら側を観察しているサランの傍で、ミユはワンドである竹ボウキの柄をバトンのようにくるりと回した。そうすると、ホウキの表面が柄の方から鱗を次々にひっくり返しながら、メタリックシルバーのホウキへ一変する。というよりも、その房まで金属状の物質に変化したものをホウキと呼んでいいものやらどうか。

 どうでもいいことが気になるサランの前で、ミユはホウキ型ワンドを浮かせた上に横座りをした。スカートがタイトなのでそうせざるを得ないのだが、自然と黒ストッキングに包まれた先輩ワルキューレが持つ脚の形の良さが強調された。


「鮫島さんは後ろね。ちょっと急ぐわよ」


 ホウキに二人乗りするというミユの指示に従おうとするものの、その意味がバイクの後ろに乗る様に運転手に身を預けるのだという意味であると自覚した途端サランは不意に気恥ずかしさを覚えてしまった。

 サラン自身も口にしてしまった通り、この夏から秋にかけて色々ありすぎてしまったせいで、美しい同性の体に反応しやすくなりつつあるのだ。このままではケセンヌマさんと同類になってしまう、という、ケセンヌマミナコ本人が聞いたら「随分今更でござるな」とあっさりツッコみ返すであろう思いに身を引き締めながら、緊張しつつミユの兵装に包まれたウエストにおそるおそる腕を回した。


「し、失礼します……っ」

「ダメよ、しっかりつかまってなきゃ振り落としちゃう」


 遠慮しがちに密着するとミユがダメ出しをするので、意を決してぴったりと身を寄せる。丁寧にしまわれていた衣類の匂いが鼻孔をくすぐり、兵装ごしに伝わるミユの体に緊張する。

 しかしそれも束の間、サランがぴったり密着したのを確認すると、号令一下、ミユはエレベーターほどの速度でホウキを垂直に一気に上昇させた。


「いい? 振り落とすって言ったのは冗談じゃないから」


 最後にそう言い、重力をものともせず真上へと。

 ものの数秒で両側を階層の低いビルに挟まれた木造二階建てのさんお書店の瓦屋根や庭を足元に見降ろし、それどころか両隣のビルの屋上まで見下ろす高さに並ぶ。

 ルーティンワーク出撃時に宿舎として利用する予備校の入ったビルの看板や、鏡文字になった各種看板の位置と目の高さが並ぶ。人通りどころか自動車の類の気配も絶えた九十九市の大通りや、フカガワミコトとノコに遭遇した六月末に見下ろしたアーケード商店街を真上はるか下に見下ろすことになった。へー、アーケードって真上からみたらこうなってるんだ……などと感心してる場合ではない。

 命綱もなにもない状態、頼りになるのは自分の両腕だけという状態でホウキ操縦者につかまっている状態の恐怖を、サランは瞬間的に思い出した。すると自然に腕には力がこもる。


 その瞬間、ミユは合図もなしにホウキを加速させた。びゅおっと空気が切り裂かれる音が耳の傍で鳴り、左右の景色が一気に後ろへ流れる。声も上げることもできず、体感では音速と肩を並べていそうな速度でホウキを飛ばすミユへただただしがみつく。人生二度目のホウキ二人乗りは、初めてのそれよりずいぶん速くかつ恐ろしかった。生まれて初めてサランをホウキに乗せた女もずいぶん飛ばし屋だとあきれたが、上には上がいた――。


 おかげで、ものの数秒で目的地に到着する。ぐるーりと大きく弧を描いて暴力的なスピードを殺しつつホウキを宙に浮かばせているミユが、ホウキを完全に停止させたのを確認してサランはゆっくり目を開けた。


「も、もういいですか……っ? もう着きました……っ?」


 ミユの体にしがみついたまま、サランはゆっくりとミユがホウキの先を向けている方をのぞき込む。そして、げぇっ! と声をあげつつ目をむいた。

 

 ミユが向かっている先、そこは九十九タワーだろうとうっすら予想をたてていた。スピードを出す一瞬前、ミユがホウキの先をバスターミナルへ向けていたからである。

 だから目の前に、赤白にぬられた鉄骨製旧都東京の昭和遺構、懐かしい東京タワーに似せた九十九タワーがあることには驚かないが、それをへし折らんとするようにタワーのカーブにそって足をのせた巨人がいるとさすがに度肝を抜かれる。


 しかもそれが、フリルのついたパウダーピンクのネグリジェ姿の巨大な美女だ。全長は九十九タワーよりも目測で数メートルは大きいのだから、よくまあホウキから落ちずに済んだと自分で褒めていいくらいにサランは驚いた。

 しかし当の美女は、お姫様のようなネグリジェの裾がまくれるのもいとわずに片足を鉄骨にのせ、到着したばかりのミユとサランをまえに仏頂面で抗議するのである。


「おっせえなー。ミユってば何やってんだよもー、あんまり遅いから出迎えにでてやってきたんだからなー!」


 巨体から予想したような大音声ではなく、スピーカーで拡大された大きさの声で美女はがなった。多少の音割れはあったが、その声と童話の国の少女めいた装いに反して砕けに砕けた口調は忘れがたいものだった。

  

 特殊戦闘地域である九十九市防衛の要「眠り姫」・三尾小雨中尉は、ロップイヤー種のウサギを模した抱き枕を抱えながら、サイズがほぼ十分の一であるホウキにのった二人に向けてぷーっと膨れてみせる。

 何がどうして九十九市の眠り姫が寝間着姿で巨大化してるのか? と、状況がつかめないサランを後ろに、まずミユがパートナーへ詫びを入れる。


「ごめんなさい、遅くなって。あの子はどこ?」

「悪いけどまずこっちを先になんとかしてっ!」


 しゅるしゅると音もたてずに体のサイズを半分ほどに縮めたコサメは、九十九タワーの展望台に腰を下ろすと、バスターミナルと向かい合う形で立っているオフィスビルに向かって左手を振った。

 リングを嵌めたワルキューレ独特の仕草にそって、正面の壁がガラスに覆われ、鏡のように九十九タワーの姿を映している壁面が水面のように揺れた。

 波紋が消え去り、再び映し出された九十九タワーの姿は今巨人化したコサメが座っているそれとはまったく別の姿を映し出す。


 足元を規制線で区切り、一般人の立ち入りを禁じられている。そして、作業服姿の人々がタワーの周辺に足場を組みだしていた。いつもならライトアップが始まる時間なのにそれはなく、薄暗がりに立つ九十九タワーはどことなしか悄然としているように見える。

 明らかに目の前の姿とは違うタワーはどこのものなのか、作業中の人々のほかに通勤通学途中の人々や大通りを行き交うバスの他各種自動車、そして日が沈んだことによりきらめきだすネオン看板の文字が左右逆さまになっていないことで容易にわかった。

 これは鏡の外、本来の九十九市にある今現在の九十九タワーの姿だ。


 自分たちワルキューレ以外の気配がないこの空間を、ミユはさっき九十九市のバックヤード的な者だと言った。つまり、終わりなき二千年紀の日常に閉ざされた九十九市という名のテーマパークを管理・監督するような場所でもあるのだろう。おそらくコサメの能力を使った異空間に違いない。クローゼットの鏡を通ってたどりついたのだから、一種の異界には違いがない。

 ミユの体にしがみつきつつ、ビル壁面に映し出された外の世界を眺めるサランは児童文学好きの性からぽつんと呟く。


「ナルニアですか? アリスですか?」

「なあに? 鮫島さん」

「クローゼットが別世界につながってるのはナルニアだし、アリスは鏡の国に迷い込む。だから――」

「どっちも違うぞ、後輩。鉄人兵団だ」


 背後から声がした衝撃から振り返ったサランは、危うくミユのホウキからずり落ちかけた。そこには等身大にまでサイズを縮めたサンオコサメがウェーブのかかったロングの髪をゆらめかせつつ、ネグリジェ姿でぷかぷか浮かんでいた。

 ウサギの抱き枕をかかえながら、ミユの体にしがみつくサランへ機嫌の悪そうな顔つきで説明する。


「鏡面世界といえば、『のび太の鉄人兵団』。常識だろうが、常識」

「――ど、ドラえもん……っ?」


 四、五世代にわたって親しまれる亜州の随一の人気漫画のキャラクターの名前をかろうじてサランは告げた。コサメが口にしたのは毎年公開されているプログラムピクチャーのサブタイトルによく似ていたのでアタリをつけられたが、今や膨大な作品数になる映画の初期タイトルの内容なんてサランはよく知りはしなかった。

 だのにそれは小雨にとっては知っていて当然な知識らしく、サランの冴えない返答を前にぷりぷりと怒りだした。


「おざしきつりぼりから鏡面世界に出入りして異星からきたロボット組み立てたり、その星から来た美少女アンドロイドと友情を築いたりするんだってば! 知らないのっ? っちょ、文芸部員がそれでいいのっ? 極東圏出身の亜州っ子が藤子F作品のこともロクに知らないとかありえねー、ああ、あり得ねー」

「知ってますー! 『ミノタウロスの皿』とか『カンビュセスの籤』なら人道倫理の授業で読まされましたー!」

「……あのなぁっ、九十九市基準なら十四、五歳の女子はF先生のSF短編より圧倒的にドラえもんに親しんでるもんなんだよ! あたしがこの街に潜むワルキューレ狩りならさっきの答えで逮捕即拷問のち収容所送りだぞ後輩っ」

「なんなんですか、ワルキューレ狩りって! いるんですかここにそんなもんが!」

「今のところ報告は受けてねーけど、うちらは外世界の侵略者と交戦状態にあるんだぞー! どこかの侵略者がスパイ送り込んでても全然不思議じゃねえし! そういう『もしも』を想定せずに行動しなくてどうするっ」


 あからさまに不機嫌なコサメはくだらないことでサランに鬱陶しく絡みだす(いやでも普段から意識せざるを得ないことではあるが、文化部棟で蠢く低レアの民が、運動系部活や委員会に属しているほかのワルキューレ候補生たちから時々変な生き物を見る目で見られるのはこういう所が原因なのだな、と改めて思い知った)。この対応で、サランはミユの部屋の本棚に並んでいた野球漫画の持ち主はこの人ではないかとこっそり仮定してしまう。

 それにしても相変わらず、大人なのに少女趣味な服を着こなせる容姿が泣くようなガサツさは六月末から一向に変化はなかった。どうやら寝起きが悪いらしく、居所の悪い虫を大いにさわがせたままにぶつくさ呟く。


「ったく文芸部員だからって文学だ文芸だ評論だ、文字ばっかり読んだり書いたりしやがって……! せめて原作漫画くらい読んどけバカモノー!」

「先輩~、小雨先輩が無茶苦茶仰るんですが~……」

「仕方ないわね、全くもう……っ。――三尾中尉、鮫島候補生を困らせるのはお控え下さい!」


 等身大の寝間着姿でふよふよと宙に浮かんでるパートナーを改めた呼び方でいさめ、「めっ!」とやる時の怖い顔で叱った。

 むーっと膨れてウサギの抱き枕を抱えるコサメの傍へ、ミユはホウキを寄せた。そして、普段通りの頼りになる優しいOGの声で問う。


「メンテナンスがあるなんて聞いてないわ。ワンドの調子はどう?」

「悪いわけがないじゃん。見なよほら、この平穏な街の様子をさ~」


 ぶっすりふくれた顔で小雨はガラス張りのビル壁面を視るように顎をしゃくる。確かに、街を行き交う人々の群れの様子にめだって不安そうな様子はない。外の世界の大騒ぎをよそに、明日も今日と同じ日が来ると信じて疑わない顔つきで、バスに乗り往来を歩いている。

 空に浮かぶあの顔はしっかり見える筈なのに、誰一人気づいた様子はない。


「――確かに見る限りなにもおかしなことはないわね」

「でっしょ~、むしろあんな風に予告もなしにこっちにきてそばでごちゃごちゃやられる方がうるさいっつんだよ。ったく。――つか、この件美柔ミユに話が入ってないって、マジ?」


 ミユは無言だ。皮手袋につつまれた細い指先を顎に添えて外の世界をじっと見つめる。珍しく眼元が険しい。その横顔を見て、サランはいつか心に書き留めていたことを思い出した。

 八月のお盆休み、サランの地元に駆けつけるさいにこのホウキを持ち出したシモクツチカを、涙目にさせるほど厳しくしかったサンオミユ。サランの知る限り、教師に不真面目な態度を幾度となく叱責されても、まったく悪びれもへこたれもしなかったあの女の目に涙をにじませたこともあるというその告白に説得力を添えるような鋭い感情がそこには浮かんでいるのだ。

 

 思わずすくみあがるサランの傍で、ミユは静かに答えた。


「ええ。入っていない」


 言葉遣いこそいつも通りだが、その声音は静かに澄んで冷静だ。であるからこそ、背筋に冷たさが這い上る。

 

 余計なことを考えない為に、サランも九十九タワーの現在の姿を観察した。

 規制線の外には立て看板がおかれ、緊急メンテナンスを行う旨がしるされた看板のかたわらで、警備員が歩行者を誘導していた。看板の末尾の署名は九十九市名義になっているが、工事車両には北ノ方電機の社名が印字されている。


 九十九市外れには北ノ方電機の工場がある。九十九タワーも北ノ方電機の広告塔という側面も持つ。そもそもこの九十九市は、太平洋戦争前からキタノカタの企業城下町だったところだ。


 普段なら、そういうこともあるだろう流せる風景ではある。が、このタイミングでキタノカタの名を冠する者たちが九十九市をうろちょろするのは怪しすぎる。S. A.W. - Ⅰ Maia飛天像のスペアが手からすり抜けた途端、シモクツチカがいるこの街でキタノカタ関係者が動き出す。それが指し示す意味は一つしかない筈だ。 


「――見た所、キタノカタ電機の方しか見当たらないわね。ワンドの不調なのに、上の方も撞木製造系の技師さんもご不在だし」

「だからつまり、そーいうことなんじゃねーの? ――お嬢さん方の痴話ゲンカに肩入れした結果、本業に差し障るハメになっちっまうとは」


 らしくねーことはするもんじゃねえな、と、ぶっきらぼうにコサメは付け足す。


 お嬢さん方の痴話ゲンカ、と、シモクツチカとキタノカタマコの中を知らなければ出てはこない言葉を口にして、はーっ、とコサメは投げやりなため息を吐いた。

 そして、たれ耳ウサギの抱き枕を抱え、憮然とコサメはサランをじっとりと睨む。


「後輩、代表してお前に言っとくぞー。あとであのお嬢さんどもにも伝えとけー。――青春の熱き血潮に湧きたつのもまことに結構だけどなー。これからはお仕事中の大人を巻き込むんじゃんねえっつの、もめ事はてめえらだけで解決すんのが大人の第一条件だコンチクショー」


 胡坐をかいてそいの膝に頬杖をつくという、ひらひらネグリジェのデザイナーが泣きそうな無作法な姿勢で小雨はぶつくさとサランに絡み続ける。六月末からうっすら気が付いていたが、どうもこのOGはやや愚痴っぽく根に持ちやすい性格をしているらしい。

 ぐちぐちつぶやくのと同じテンションで、コサメはサランへ語りかける。


「いいか? あたしのこの今の姿はこの鏡面世界でのみ活動できる精神体、いわばアバターだ。本体のあたしは任務遂行中で絶賛睡眠中だ。そんなあたしが目をさましたらどうなるのかわかってるんだろうな?」

「そりゃあ、それぐらい……っ。九十九市の皆さんにかけてる暗示が解けて、この街が作り物の二十世紀末の街だってバレるんでしょう?」

「だけじゃない。ここは危険度MAXな次元溝封印の一画でもある。あたしの本体の目が覚めて一時的に暗示が解ける程度のことならリカバリくらい効くが、状況によれば、もっと面倒なことがおきる場合もありえる」


 やはりウザ絡みするのと大して変わらないテンションで、コサメは説明するのだが、そのせいで全く信頼性がない。だからサランはつい、ビルの壁面に映し出される外の世界を観察しながらコサメの話を聞く格好になるのだ。

 外の世界に集まった作業用車両は五台、そして最後、シルバーホワイトの瀟洒な高級車が規制線の前に到着した所だ。なんとなく不吉なものを感じるサランの耳に、粘着質なOGのとんでもないつぶやきが飛び込んでくる。

 

「怖いのがこいつらがあたしを起こした上に次元溝を刺激させて、中から電脳侵犯型侵略者ムシを呼び出そうとすることだよ。そういうことをしでかすバカがここからでも拡張現実にアクセスできる機材一つでも持ち込んでりゃあ、世界はその時点でおしまいだ。人類社会は大・混・乱~」


「……、はいっ?」


 シルバーホワイトの高級車から降りてくるのがだれなのか、そちらに気を取られていたためにサランの反応はわずかに鈍った。上の空になりかけていたのをごまかすために、手振りを交えて早口で反論する。


「いやいやそれって、次元溝を刺激することなんて、並みの人間にそんなことできるわけいないしっ! できたら立派なテロじゃないですかっ!」

「ええ、だからそういうことね」


 ぐちぐちの激しいパートナーに好き放題喋らせるままだったミユが、その時しばらくぶりに口を開いた。そして、サランの顔を上からのぞき込んでにっこり微笑みかける。

 普段サランに見せる、優しくてたよりになるOGとしての微笑みに部分的に似通っていたが、ミリタリー調に魔術的意匠をとりこんだスーツ状の兵装のせいか、肌の上の温度が一気に数度下がったような気さえする。


「鮫島さん、確かに次元溝を故意に刺激することなんて難しいわね。一般の皆さんにはまず不可能よね」

「――は、はい」

「じゃあもし、そういうことができるのって、どういう存在が想定できるかしら?」

「――っ」


 にっこり微笑んだままのミユの顔はいつも通りたおやかに美しいのに、ゆらめく怒りの炎が見えるのは気のせいか。怯えながらサランは答えた。


「え、ええと……侵略者、か、ワルキューレ……っ」

「はい、よくできました」


 ひと際にっこり微笑んで、ミユは何も言わずホウキワンドを操縦した。くるりと弧を描いて九十九タワーの鉄骨にぎりぎりまで寄せる。ホウキの急発進にムチ打ちになりかけたサランに移るよう促す。


「それじゃあ鮫島さん、ここでおりてもらってもいいかしら? 私はこれから鏡の外に出てお仕事なの」


 ミユは一応サランへ許可を求めるものの、それが建前に過ぎないのは明らかである。サランに拒否権があるわけはなく、いつものようにヒヒ〜と笑って速やかに鉄骨の上に飛び移った。

 とはいえ、確認しておかなければいかない重要事項が一つある。


「先輩、あの……っ」

「大丈夫、お前の待ち人はすぐ連れてきてやる。電波の入りのいい場所で待ってろ」


 ミユの代わりにコサメが答えた。意味ありげに、下手なウィンクまでして。

 そして左手を振る。その手の下にはミユの部屋の押入れにあったのと同じ、二頭の蝶が戯れる螺鈿細工がほどこされた鏡が現れた。と、同時にぐちぐちやかましかったコサメの姿はぱっと消える。ミユに一言だけ残して。


「じゃあミユ、外のことは頼んだから」

「了解しました。──それじゃ、頑張って」


 最後にミユもサランへ声をかけ、ホウキの先端を宙に浮かぶ姿見へ向けて進めた。おそらく元ネタになった冒険譚にちなんで鏡面世界と呼ばれたこの空間の外へ向け、ミユは鏡の潜る。金属のような素材でできた房の先まで銀色の鏡面に潜った後、姿見はぱっと消えた。


「────……」


 左右反転した鏡の中の世界に、サランは一人取り残される。


 鼓膜を圧迫するような沈黙にさらされてようやくサランはそのことに気づいた。コサメが作り出したのだろうこの空間に現在いるのはどうやら自分ひとりきり。

 地方都市にありがちなさえないランドマークといえど、九十九タワーはそれなりに高さがある。すくなくとも命綱といった安全策を講じずに上ってはいけない程度の高さが。


 そのことに思い至って思わずサランは身震いしたが、自分はワルキューレだ。非常に恥ずかしいデザインの兵装も身にまとっている。受け身さえ取れないような下手な落ち方さえしなければ死ぬことはあるまい、と腹をくくりつつ、タワーを見上げた。


 四角錐状に組み上げた鉄骨を下から見上げる。この前、シモクツチカがいたあたりはどこだったかととっさに探したが、今は無人なのかぶらりと下がったルーズソックスの長い足などは見えはしない。完全に無人だ。


 サランは試しにリングがはまった左手を振ってみた。

 ビルの壁面に外の様子を投影したり、宙に姿見を出現させたり、コサメも薬指にリングをはめた左手を振っていたのが気になったせいでもある。

 リングはこの街では使用できないはずだが、鏡の中という特殊な空間ではその限りではないのだろうか? その検証のためにサランも左手を振ってみたのだ。しかし、拡張現実にアクセスしたときに感じる微細な感覚が指先に伝わらない。ただからぶった手応えのみがある。何度かふってみたが結果は同じことだ。


 やはりこの空間でもリングの機能は使えないのだ。ただしなにかしら、因子に基づく特殊な能力──侵略者がやってくる以前の時代なら魔法や超能力といった類のもの──を行使する際、リングをはめた手を振るというワルキューレなら骨身に染みている動作を無意識に反復していたのだろう。サランはそう考えた。とにかくここでもリングは使えないのは同じだ。


 使えるとしたら、何か別の能力だ。自分のような低レアワルキューレが持っていないような──。


 つまりはこの空間に残されたサランは今、ひとりの非力なワルキューレである。


 そう自覚せざるを得ずため息を一つついたのち、やぶれかぶれで己の顔をパンと叩いて気合をいれた。そして鉄骨に手をかけ、上を目指して上りだす。シモクツチカがあの夜、電波がよく入ると言っていた場所を目指して、這い上る。


 ビルの壁面は未だに外の世界の光景を、くまなく投影しつづけていた。

 カラーコーンと黄色と黒のテープでつくられた規制線のそばに止められたホワイトシルバーの車の後部座席から降りたのは、予想通り、サランもよく知る同級生だった。


 ――やはり、やっぱり、来るはずだ。

 それで手を打ってやろうとしたフカガワミコトスペアの奪取を邪魔したのは、S.A.W.シリーズ最後のワンドの血を引くツチカ本人だったのだから。

 そしてツチカは、キタノカタマコにとっては、自分の所有物だったのだから。

 

 思わずうんうん頷きながら、サランはビルの壁面を見つめる。ドアをあけた運転手を従えて、マコは規制線の傍まで歩み寄る。

 ハーフアップの長い黒髪、涼やかな目元、おりめただしく着こなした太平洋校の制服。

 疲れも汚れも感情も見せず涼やかな姿の現太平洋校初等部生徒会長キタノカタマコ。

 次元を一つ二つ越え、陰謀を巡らせ、少年をめぐって同窓の少女たちと争ってきたとは思えぬ超然としたたたずまいで、規制線の手前で楚々と頭を下げた。第三者から見れば、九十九タワーに向けて丁寧に一礼する美しいが奇妙な令嬢にみえただろうにと思わず心配をしたくなる所作をみせてから、マコは涼やかな声を張り上げた。


『お忙しい中連絡も差し上げず申し訳ありません、サンオ少尉。火急の用が生じましたので、あれを引き取りに参りました』


 面を起こしたマコは、涼やかに声を響かせる。


『速やかにお引き渡し願います』


 そちらには選択肢はない、と宣言するも同然な慇懃かつ冷徹な声でキタノカタマコは告げている。

 それに対し、名指しされたミユがどんな反応を見せるのかが気になる気持ちをサランは封じて、必死に鉄骨を登りを再開した。ボルタリングよりは易しいが、とはいえ気を散らして怪我をするのは面白くない。


『――お返事いただけませんか、少尉』


 瀟洒な高級車から降り立った制服姿のキタノカタマコを守るように立つ運転手が、規制線を支えるカラーコーンを動かして隙間を作った。マコは一人、その間を通ってするするとタワーに近づく。

 その背後にちかづく影があった。キャップを目深にかぶり、作業服を着た六人の青年だ。作業服にはキタノカタ電機の銘がある。作業員にカモフラージュしてはいるが、雰囲気がただならない。

 サランの脳裏にうかんだのは、マコがお茶会に忍び込ませていた民間警備員たちだ。マコの友人であるという、大西洋校生徒会メンバーのご実家が経営する会社に属する戦闘のプロたち。彼らの発する物々しさと似た空気を、投影された影ごしに感じてしまう。


 おそらく規制線の内側は、リングを介さない純粋な能力だけで構築された空間――結界的なものだろうとサランは判断した。その推測が正解であるといわんばかりに、キタノカタマコの向かいにミユの姿がぱっと現れる。もっとも、九十九タワーを背にして立つミユの姿を見るのはホウキを手にしたその姿は赤い夕日の照り返しを受けてその表情学見えない。タワーに向かって立つマコに至っては見えるのはほぼ後ろ姿だけになる。


『お待たせしました。初めまして、北ノ方真子さん。お噂はかねがね耳にしております。特務九課直属鮫美柔です。さっそくですがご用件は?』

『先ほど述べた通りです』


 先輩、かつプロのワルキューレを前にしてもマコは一切ひるまなかった。破壊された鉄扇のかわりに、白檀の扇子をとりだして口元を隠しながら、みゆへ告げる。


『あれを受け取りに参りました』


 いくつもの時空を駆け抜けて現れたことを気ほども声に出さず、太平洋校の制服姿のキタノカタマコはサランからはどんな表情で居るのかわからないミユに、涼やかに告げた。


『中尉と少尉、お二人のご厚意に甘える余り、あなた方には長々とご迷惑をおかけしました。――よくしてくださったと耳にはしております。本人に成り代わり、今一度感謝もうしあげましょう。まことにありがとうございました』


 楚々ともみれるしおらしい態度で、マコは慇懃に頭を下げた。その礼は、普段のマコを見慣れた者にはいつものマコらしい仕草にしか見えないものだ。一見丁寧だが、邪魔する者はねじ伏せるという意志に満ちている。

 であるためか、ミユの声に苦笑が混じった。

 

『さあて、北ノ方さん? 残念だけれど、私たちはあなたが〝あれ″と呼ぶものの心あたりがないのよ。あなたは一体なんのことを仰ってるつもり?』

『――ご冗談を』

 

 涼やかなマコの声に癇に障った時特有の間が入る。それを打ち消したのはミユだ。決してふざけてはいない、先輩として後輩の態度を叱る時の声をだす。とはいえまだそれは平素の優しいOGのそれとは違いはあまり見られない。


『ねえ、北ノ方さん。一つお節介をさせてね。お友達をアレだなんて、そんな呼び方をするのは感心しないわ。――それから』


 ミユがホウキの柄を掴んで一振りする。しゃん、鉄琴の上で撥を滑らせたような音が一瞬鳴り響き、それと同時に、マコの背後に控えた六人の薄いベージュの作業服がはじけ飛んだ。

 それだけでなく六人の身長が一時に縮む。十歳前後の子供の体に。そしてはじけ飛んだ作業服の代わりに私立小学校の制服を思わせるジャンパスカートと白いブラウスの女児服姿に身を包んだ少女たちに変化した。どこかでいやというほどよく見かけた女子に雰囲気や佇まいがにている少女たちは、偽装を剥がされたことにもやや驚き陣形を崩しそうになるが、扇子を持つマコが右手をすっと動かしただけで制した。


『この子たちはどなたかしら? 見た所、キタノカタの作業員さんではないようですけれど。それどころか、そちらに提示いただいた関係者名簿にもないだなんて』

『国民台帳をご検索くださいまし。そちらがお求めになる情報がきちんと記載されているはずですので』

『ご心配ありがとう。でもいくら権限があるにしてもここからじゃ無理よ。それに、そこまではしたくない。できればあなたの口から、をこの中に招き入れた理由を聞かせてほしいわ。北ノ方真子さん?』


 ミユの声音は本気で叱る時の声に近くなるが、それでもまだ自分から非を認めることができればすぐに笑顔になってくれる段階のものだ。問題児の後輩であるサランはそれを肌で察してヒヤリとしたが、振り払って鉄骨を上りを再開する。


 鉄骨を掴む手が手汗で時折ぬるりとする。その都度サランの肝が冷えたが、しかしそれでも聴覚はビルのガラス窓に投影された光景の音声を拾ってしまうのだ。ワルキューレになってから聞きなれてしまった、物騒な金属音が聴こえてしまうとつい反射でビルを見やってしまい、そして衝撃から足を滑らせそうになってしまう。

 キタノカタマコの背後に控えていた六人の少女は、いつの間にかマコの前にでて扇状の陣形をとり、その右手に構えた何かをミユに向けて突き付けていた。


 どう見ても小学生にしか見えない少女たちがかまえているのは、黒い拳銃だ。

 鏡を挟んだこちら側の世界にいるサランが息を飲む間に、マコは扇子を持った右手を口元へ運んだ。そしてぬけぬけと口にする。


『社会見学、とでも申しましょうか。この者たちには事情があって当家で学習の面倒をみておりますので外の世界については知らぬことが多いのです』


 あらそう、というミユの声と、ぱん! というシンプルな銃声が奇麗に重なる。  

 その音はサランの鼻孔に硝煙の香を呼び覚まさました。お茶会でメジロ姓の二人だけで制圧された民間警備会社の傭兵たちが使っていたワルキューレ用の護身具ではない、本物の銃だ。そのせいでぞわっと、背筋が総毛立ち、鉄骨にしがみついたままビルの壁面に見入る。


『――!』


 最悪の光景が一瞬脳裏によぎったが、ミユが無事なのは相変わらずすらりとした立ち姿と、銃を撃った少女本人が目を見開いて驚愕したことで判る。わずかにホウキの柄を動かしただけで、自分の眉間を狙って撃ち込まれた銃弾を防いだのがみて取れた。


『感心しないわ。児童こどもに銃を持たせるなんて』

『失礼致しました。──うた。頭をお下げして』


 うた、と呼ばれた少女は不服げにマコの顔をみあげたが、彼女らの主人である少女は涼やかに続けて命じた。


なおあやらくやすみ春秋はるあきも。皆、姉に倣いなさい』


 その命令が不満だったのか、詩と呼ばれた少女が不服げにマコを睨む。しかし最終的には武装をとくに至った。

 マコがこう告げた為だ。


『少尉はお前たちを攻撃なさいませんから、良いというまで下がっていなさい』


 それならば……と、しぶしぶ溜飲をさげたのかどうかは鉄骨にまた登り始めたサランにはわからない。ともあれ詩は拳銃を握り締めた腕をおろす。そして、一歩退き、頭を下げる。残りの五人もそれに従う。その間、主人であるマコの表情も揺るがない。


『──』


 ふう、とミユが小さくため息をついたようだ。ホウキをくるりと回して柄の先を地面につくその姿から、やれやれ困ったわとでも言いたげな、いつもの優しくおっとりした表情が見えそうだ。

 雰囲気を崩したのは、マコに図星を刺されたからに違いない。


 ワルキューレがワンドを用いて攻撃していい相手は侵略者のみだ。一般人相手にはたとえ正当防衛であったとしてもバール以下の鈍器か徒手空拳で身をまもらなくてはいけないのである。

 目の前にいるのが児童であれば尚更だ。たとえその数が六人、それぞれが銃をもち、かつワルキューレの用意した結界内に偽った姿で入れる程度の異能を持っていたとしてもだ。


『──その子たち、てっきり私たちの後輩に当たる子だと思っていたけれど──』

『ええ。三年後に太平洋校にてお世話になる予定です。それまでは公式ではただの児童です。私とて児童に先輩を撃たせるのは忍びありませんので、お止め下さり助かりました』

『──』

『この子達に人殺しをさせたくないという思い、しかと受け取りました。では、お邪魔いたします』


 こちらの意図を阻むのであれば、この少女たちが繰り出す攻撃をその身で受けてもらうとキタノカタマコは警告しながら、ゆったりと歩みを進めた。向かう先は九十九タワーの根元、定期券売り場や待合室、展望台に続くエレベーターが設置された建物だ。


 相変わらず周到にいやらしい真似をしてくる女だな! という、キタノカタマコへの突発的な怒りが湧き上がりサランの鉄骨を上る動きも一時的にスピードアップする。コサメが指定した電波のよく入る位置まであともう少しだ。

 

 ビルの壁面に映し出されたミユも、ホウキの柄を構えてキタノカタマコの歩みを止める。


『待って。――残念だけれどそういう方法で問題を解決しようとするあなたを、あの子に合わせるわけにはいかない』

 

 ミユに足止めされたマコは素直に足を止めた。背中に流れる髪がさらりと揺れる。後ろ姿のみでは感情がよみとれないが、一拍の間をおいて発された言葉から相応のいら立ちが感じ取れた。


『特務九課の課長には許可を得ております。現場の対応次第でタワーの緊急整備を初めても良い、と』

『――上司が何と言おうと、現場の指揮官は私です。あなたをここから先に進めるわけにはいきません』


 勤めて冷静に対応しようとするしかしミユの口には珍しく苦みが混ざっている。連絡経路がせき止められて上の決定が外部の判断により自分まで回されなかったことに対し、それなりに腹を立てたのか。声に強いものが混ざりだす。


『タワーの整備を条件に出すのならなおさらです。北ノ方さん、またの機会にいらっしゃい。そうすればあの子に合わせてあげます』

『――少尉がどうしてそこまであれに肩入れなさるのか、聊かつかみかねますが』

 

 扇子をもつマコの手が動く、普段のように口元を隠したのが後ろ姿でも動作でわかる。


『最近、旧日本各地では活断層の動きが活発しているとか。地質学者の中にはある種の自身は外世界宇宙の回復現象と連動しているという説も唱えている方もいらっしゃると耳に及んでおります』


 脈絡なく世間話のようなものを始めたマコの言葉が言い終わらぬうちに、ミユの体がぱあっと輝く。古本屋のお姉さんをやってる時には見せない真剣な表情がライトアップをされないタワーの足元に浮かび上がった。

 それを前にしたマコは、優雅に扇子の先を下に向けた。


『そろそろ大きな地震が来るやもしれませんね』


 マコの言葉が最後までおわらぬうちに、ミユはホウキの柄を手入れの行き届いた芝の揃った地面に突き立てる。と同時に、しゃん! と鉄琴を鳴らしたような澄んだ金属音が響いて光線が走り、地面にミユを中心とした幾何学模様が一瞬浮かんだ。ミユが光線に再び柄を突き立てると、金色の鎖になって地面の下をするりともぐってゆく。

 

 そのコンマ数秒後、ぐらり、と地面が揺れた。鏡面世界のこちら側でも大きく地面が揺れた。思わずうわあっ、と悲鳴をあげて、サランは手地下な鉄骨にしがみつく。この状態での地震はたまらない。

 どうやら鏡の外でもそれは同じだったらしく、張り巡らされた電線がゆれ、看板や建物がゆらりと一瞬かしいだ。規制線の外にいる九十九市民も驚いたように足を止め、ざわざわと騒ぎだす。


 おそらく震度三相当の揺れだ。それでも、屋外での揺れに人々は惑い、恐怖する。余震がくるまで不安げに空や、ニュースを映し出す電光掲示板を見上げる。

 しかしサランのいる鏡面世界も含む規制線の内側の緊張感は、それ以上に強かった。滅多にないことだが、ミユがきりりと眉を吊り上げていた。これは相当に怒っている、と、振り落とされないよう鉄骨に抱き着いた状態でサランはより一層恐怖で全身をわななかせた。

 しかし、ミユの怒りは立ちどころに理解できた。

 最古のワンドを六つまで手中に収めているキタノカタマコは、故意に地震を引き起こしたのだ。電脳世界を食い荒らすおそれのある虫型侵略者――現状、効果的な駆除方法もなく対処に困る上に一度放たれれば地球の文明は一瞬で終わるとされている厄介極まりない侵略者――が潜む次元溝がすぐそばにある、この九十九市で。

 シモクツチカを引き渡せ、という脅しにしては物騒すぎる。サランの脇の下を冷や汗が伝った。

 ――それどころか、ミユが何かしらワルキューレの能力を解放して対処していた所から察するに、マコの引き起こした地震は本当はもっと大きなものだった可能性は高い。警告や脅しではなく、一発目からこの世界の文明を食い荒らさせるつもりだったのかもしれない――。

 

 恐怖で寒気がするのか、それとも怒りであつくなるのか、体温を今どう感じているのか自分ですらわからなくなっているサランが見る中、ビルの壁面が映し出すキタノカタマコの後ろ姿は変わらず超然としていた。

 扇子を持つ右手をもち、口元を隠す。


『――まあ、口にした端から。珍しい事もあったものです』

『――北ノ方さん、あなた今何をしたかわかっています?』


 自分が撃たれた時よりも深い、怒りを押し殺した声でミユは問うた。それをマコは平然と受け止め、そして流した。


『ええ。ですのでここを通して下さいませ、少尉』

 

 何事もなく足を進めだすキタノカタマコの姿を見ているうちに、サランの腹の底が熱くなる。カーっと燃え出す。

 

 武器を携行した幼い少女だけに限らず、世界を亡ぼす恐れのある侵略者が出入りする入り口を刺激するという全くシャレになっていない真似までやってみせたのだ、キタノカタマコは。

 その有様が、いい加減で低レアで、意識が低くてとりあえず自分のみっともない兵装を多少マシなものにすることと、高等部卒資格を手に入れて大学受験を有利にし、予備役生活を少々安泰なものにすることしか頭にないサランの倫理にも火をつけたのだ。

 

 ──それは、それだけはやっちゃいけないだろうに。キタノカタさん!


 勿論、サランのそんな心の叫びがマコに通じるわけがない。むしゃくしゃする気持ちを暴力や投擲に転化したくても、今のサランはタワーを登らねばならない身である。

 しかしこのむしゃくしゃした感情がサランに思わぬ馬力を与えた。がむしゃらな怒りを沸き立たせながらぐいぐいと手足をうごかして、既視感のあるあの位置まで登りあげる。横に組み上げられた赤い鉄骨の上にたち、サランはぐるりとあたりを見回した。


 誰もいない。

 無人である。


「……」


 鏡面世界の九十九タワーは無風で、刻々と空が藍色に染まる中、サランは誰もいないタワーの上で一瞬呆然とする。


 ここは数週間前の深夜、シモクツチカがメンソールのタバコをすいつつ携帯電話越しにだれかと喋っていた場所と左右が反転した場所だ。それに違いはない。

 しかし今、ここは誰もいないのだ。サランを除いて立ったの一人だ。


 途方にくれてる自分自身に気づいた瞬間、サランの前身は敗北感と羞恥に襲われる。無意識にシモクツチカがここにいると信じて疑わなかった自分に気付かされたのだ。


 消し去りたい、なかったことにしたい衝動に突き動かされ、サランはその場にしゃがみこんで膝に顔を埋めた。


 嫌いで嫌いでしょうがない相手の力を借りないとならない、自分のみっともなさが不意にやりきれなくなったのだ。いままでそれを割り切って、こんな騒動を起こしてきたのだから力を貸すのは当然だと居直って散々バカをやってきたのは、最終的にあの規格外の不良ワルキューレさえいればなんとかなるさとばかりに当てにしていたためだ。結局他力本願という情けなさだ。


 いると思っていた相手がいないだけで、全身から力が抜けそうになる自分が不甲斐なく、サランは呻く。くそお……と、声を漏らす。


「……っ」


 細い鉄骨の上で不安定にしゃがみ込んでも恐怖を感じない程度に、自己嫌悪と絶望が激しいのだ。

 いっそこのまま落ちてしまおうかと自暴自棄な思いが頭をかすめたお陰で、なんとか思考ルートを元に戻すことに成功する。ここまで来たのに失敗を認めてどうする。サランは鉄骨に手をかけて、その場に立ちあがった。イヤでも応でも、とにかくアイツと連絡をとらねばならぬ。

 

 そう決意したのは、ビルの壁面に映し出されたミユが口を開いたのと同時だった。



「バッカじゃない」


 

 それは、ほんのすぐ近くから聞こえた。

 ビルの壁面を見ていたサランは、声の聞こえた方――自分が立っている鉄骨の上――へ視線を向けた。


「あの人、あんなことして鮫さん怒らせるとか。完全に自殺行為だし」


 ワイシャツに薄手のニットのカーディガン、長すぎる脚をことさら見せびらかすような短すぎるチェックのスカートに、この街では珍しくないルーズソックス。あのおなじみの二千年紀ミレニアム旧日本の女子学生スタイルで鉄骨に座っている少女は、自分が腰かける鉄骨に手を突いて、うんと後ろへ体重をかけた。斜めに傾く背中とバランスをとるように、伸ばした両脚をうんと前へ突き出す。

 金に近い茶髪にそめたシャギーの髪が、さらさらとこぼれた。そのせいで端正な横顔が曝け出される。

 いつも人を小バカにしまくる小悪魔めいた美貌は、今日は子供のように思い切り不貞腐れている。八つ当たりのようにぼそっと物騒な毒まで吐く。


「あーあぁ、いっそそのまま死んでくれたらいいのに」

 

 二千年紀ミレニアム女学生スタイルの少女は、しばらく体を揺らしたあと長すぎる膝をさっきのサランのように抱えた。額を膝に埋めて、これ見よがしに呟く。

 同じ鉄骨の上に数メートル離れた位置に立つサランのことは気づいている、それなのにきれいさっぱり無視をする。おなじみの態度を見せつけて子供のように呟くのだ。


「そしたらあたしはやっとただのヒトになれるのに」


 息と一緒に、サランは唾液を呑んだ。

 再会出来たら自分はもしかして泣き崩れてしまうのではないか、心の中でよぎったその予感は幸い外れた。子供のように不貞腐れてはいるが、シモクツチカはいつものように傲岸不遜で我儘だった。サメジマサランなどとは再会のよろこびを分かち合う気はない、とその舐め切った態度で主張していた。

 だからゆっくり、――あーコイツ本当大嫌い! という感情とともに――サランの体から過度の緊張が抜け落ち、腹立ちとともに喜びがじっくりと全身を駆け巡る。

 息をはいてからサランはようよう、鉄骨から脚を投げ出すように座りなおした少女の名を呼んだ。


「撞木……」

「…………」


 あの時と同じように、今、シモクツチカは九十九タワーの鉄骨に座っている。

 数週間前、十五夜数日前の欠けた月の夜は鉄骨の上に座り、サランの目には骨董品にしか見えない携帯電話で誰かと──不実な彼氏に泣かされている可哀想な女の子と──話していたあの姿と同じように。視線はビルの壁面にある。なんとかかんとかタワーを上ってきたサランの方は意地でも見ようとしない。


 予想できた反応だったので、サランは無視して続けた。


「なんつうか、まぁ……来たくなかったけど、来てやったぞ」 


 やはり、シモクツチカはこちらの方をちらとも見もしない。サランも予想していたことだし、それには構わない。

 困ったのは、自分もシモクツチカになんと語りかけていいのかわからないことだった。


 帰ろう、は、違う。

 鰐淵が心配している、は、伝えたいことではあるがツチカが意固地になる様子が目に見える。

 あのキタノカタマコ相手によくやったもんだな、を、今言うのは癪にさわる。


 暫く考えたのちサランは腹をくくった。

 これを口にするのは非常に悔しいが、負けを認められる方が器の大きさを示せる。そう言い聞かせて、サランは思い切った。


「撞木、お前やっぱすげえな。悔しいけどさ、とんでもねーやつだよう、お前はさあ」

「あんたに言われても嬉しくないんだけど、ミノムシミノ子!」


 スマッシュをスマッシュで返すような素早さでツチカは返した。それも薄々予想はしていたが、こっちだって嬉しくはない。

 それでもシモクツチカとはこういう女である。こういう女でなければならぬのである。


「あんたなんかに言われなくたって、あたしは十分特別なやつだってずっと知ってたから!」

「……っ」


 ぬけぬけとこう言い放てる女、シモクツチカはこうなのだ。

 低レアのワルキューレたちが蠢く文化部棟で異彩を放った傲岸不遜のお嬢様。ゴシップガールとして情報を漏洩し、浴びせられるヘイトも炎上もお構いなしに、野次馬たちを喜ばせ、地球各地の兵隊さんに娯楽を与え、今現在も世界中を引っ掻き回して、ついには地球の危機を持ち出させるほどまで天敵の独裁気質なお嬢様を怒らせたシモクツチカという女。奴はこうでなくてはならぬのだ。

 

 だからサランは一生に一度の自制心を発揮した。すーっと思いっきり息を吸い、ぷはーっと吐き出した。そうしてこうして、ツチカの不貞腐れた横顔をひっぱたきなる衝動を再びこらえた。

 泣きべそかきそうな顔でなに強がってんだよう、といった煽り文句を飲みこむのだ。


 そうしてからサランは口を開く。


「撞木、あのあと三河さんが博物館まで戻ってきた。お前や豊玉さんや三河さんが頑張ったおかげで、お前の母さんと父さんは出会う歴史は確定したってさ。これ以上並行世界をいじくったら、国連のお姉さんたちも出てこなきゃならなくなるって新聞部の先輩が言ってた」

「――まだだよ、まだ。あの人がいる限り安心できない」


 イライラしたようにツチカはつぶやく。それは当たり散らすような調子に戻る。


「大体、今更ノコノコ出てくるってなんなの国連ってば! たかだか一企業の言いなりになってる癖に世界の代表面すんじゃないっつうの! そんなんだと存在する意味全然ないじゃんっ!」

「あー……全くだよう」


 八つ当たりまるだしのツチカのそのつぶやきには、サランは頷かずにはいられなかった。国連の動向に振り回されて、演劇部のマーハはお茶会を開く羽目になり、高等部生徒会長のアメリアはキタノカタマコの前で盛大に神経すり減らす羽目になったのだ。

 それにしてもツチカにとっても国連が当初だんまりをつらぬいていたのはツチカにとっても予定外だったのか――と、意外に思っているサランを、神経を苛立たせたツチカが睨む。


「何? 人のつぶやきに勝手に乗っからないでくれる~? キモイんだけど?」

「…………っ!」


 そうだそうだ、そういうやつなんだよシモクツチカという女はっ!

 改めてそのことをかみしめて、サランは大きく深呼吸をした。自分の自制心のパラメーターが急速に上がっていく様子を想像して、つかみ合いの喧嘩をしたくなる衝動をこらえる。ここはタワーの上だ。ケンカはシャレにならない。


 すーはーすーはーすーはー……と深呼吸をくりかえすサランから数メートル離れたその場所で、不意に単純な電子音のメロディーが流れた。どうやって入れたのか、あの夜深夜に見たあの映画のテーマ曲、サビの部分が流れる間にツチカがスカートのポケットに手を突っ込んで何かを取り出す。


 この街では現役でも、サランたちが普段いる世界ではアンティークである携帯電話だ。仏頂面のツチカはボタンを押して形態を耳に当て、もしもし? と告げた。


『おーし、不良娘~。うちの後輩とやっと出会ったな~』


 その声が響くと同時に、ふわりと幽霊じみた姿が宙に浮かぶ。お姫様が着るようなパウダーピンクのネグリジェとたれ耳ウサギの抱き枕を抱えたサンオコサメだ。何故かそのサイズがファッションドールほどに縮んで、むくれているツチカの目の前でふわふわと浮かんでいたが。


「ったく何やってんだお前らー、地球の未来と人類の安全安寧を屁とも思ってねーお嬢さん遊ばせたまま、呑気にケンカとかしくさってんじゃねえよったく、候補生どもは気楽だなぁ」

「――御用はなんなんですかっ? 早く言ってください。でないと先輩のお休みが来年六月末になっちゃいますけどっ? 今年の大みそかとお正月のお楽しみが台無しになっちゃってもいいんですかー? いいんだー? へーっ」

「ちょ、待てって。分かった分かった~! 機嫌直して、つーちゃん~」


 仏頂面のツチカの言葉になぜか縮んだコサメは慌てて猫撫で声でとりなす。〝つーちゃん″なるまるでしっくりこないあだ名まで持ち出してツチカのご機嫌を伺うコサメの様子に唖然とするサランを置いて、二人は会話を進める。


「まーとにかくだ、北ノ方のお嬢がお前と直接会って話したい、そのためには地球と人類の未来もどうなったっていいって仰ってるんだ! そこまで熱烈なデートのお誘いなんだから、一度くらい答えてやりな。――ただしここの中限定でだ。ここから出すな。いいな」


 十四、五歳の少女相手に露骨に媚を売った直後とは思えない、中尉と呼ばれる士官相当の声を出してコサメはツチカに命じた。

 それにはツチカもはーっとため息をつく。


「命令ですか? 命令なんですか? 命令なんですね?」

「そうだよ、上官命令だ。お前も一応初等部放校の予備役ワルキューレだ。人類の皆さんの平和と安全に貢献しな」


 二人の仲はどうやら良好らしく、慣れ親しんだような軽口を交わしあう。つまり以前から面識があるのだろう。コサメが露骨に媚を売った前後の会話の関係から推理しつつサランは頷いた。

 そんなサランを、ツチカは一瞬じろっとにらむ。一人でうんうんと首を縦に振るサランを見て、露骨に眉をしかめる。


「……なっ、なんだようっ?」

「別に」


 ツチカからの嫌悪感むき出しの視線など今更珍しくはなかったが、それでも脈絡のない凝視には戸惑わざるを得ない。思わず半歩退いたサランを見て、いよいよ嫌そうに吐き捨てたツチカは、ふよふよと宙に浮かぶコサメに許可を得る。


「小雨さん、ここにミノ子も立ち会わせていいですか? あの人と二人きりになるくらいなら、正直人類の築き上げた現代文明の崩壊を選ばせていただきますので。一般人類の皆さんの生命財産の安全安寧なんて、放校処分食らったワルキューレである自分にはどうでもいいことなんでー?」

「あー、オッケエオッケエ。よし、決定な」


 サランの意見をまるで聞かず、コサメは体の大きさを等身大に戻した。そして、ちょっと貸しな、と口では言うもののツチカの手から携帯電話を奪い取りどこかへ向けて電話をかける。


 ぴるるるる……とごく普通の呼び出し用電子音が鳴り響いたのは、鏡の外の一部始終を投影し続けていたビルの壁面からだ。

 

 ツチカが姿を見せて以降、そういえばそっちの世界の光景がどうなっているのかを見るのを忘れていた。改めて視線をむけると、どういうわけか、黒いミリタリー調スーツ姿のミユがホウキの柄を地面につけた状態で、六人のあの少女たちを一列に整列させているところだった。

 

 知らない間にちょっとした戦闘でもあったのか、規制線の内側のあちこちから黒煙が上ったり、芝生がめくれあがったり、惨憺たる有様を見せていたが、それよりも異常だったのは幼い少女たちが一様に涙目で唇をかみしめていたことである。まるでお母さんに叱られた小さな子供たちだ。先刻、幼いながらに眉一つ動かさずに発砲した戦闘慣れした様子はまるでない。


 ちょっと目を離した隙に何があった――? と、唖然とするサランのことなど知る由もないミユは、スーツの内側から自身の携帯電話を取り出す。

 直後の第一声を耳にして、サランは耳を疑い、ツチカはびくっと小さく体を震わせた。


『はいこちらサンオ少尉ー、ただいま我らの可愛い後輩になる予定のクソ生意気な足も生えてねえオタマジャクシどもに上官に対する口の叩き方を教えてる最中ですがどうぞー?』


 ――はい!?

 いつものミユとは同一人物とは思えない言葉遣いと声に耳を疑うついでに、眼球をこぼしそうなくらい目を見開いてしまったのは、壁面に映し出された優しくて頼りになるOGのその表情に度肝をぬかれたせいだった。

 居丈高で高圧的で、幼い少女たちを恫喝するその人の表情は、軍服長の兵装と相まってどう見てもプロのサディストだった。


 どういうことですか!? と視線で訴えるサランの反応が面白いらしく、コサメは愉快そうにニヤニヤ笑って会話を続ける。


「あー、美柔ミユー? あたしだけど話はついたから。今から通路つくるから北ノ方のお嬢をこっちに放り込みなー」

了解Roger。どうぞー』

「ところであんた、今何やってたの? ちびっこいじめて~」

『三年後には自分たちの後輩になるってクソ垂れる足生えザーメンどもに今ここで上官に対する口のききたを覚えるかママの割れ目の中に戻るか選ばせていた所であります。どうぞー』


 悲しいことに九十九市は多言語間でもストレス皆無の会話をなりたたせる翻訳機能が常時稼働している、拡張現実の傘の外である。もちろんリングの機能も使用圏外だ。

 おそらくコサメの能力圏内である規制線内部でもリングは使用不可。よって、ワルキューレがワルキューレにふさわしからぬ言葉を使用した時に機能する自主規制モードも起動しない。よって、どこぞのブートキャンプの教官じみた言葉遣いはそのままストレートに垂れ流された。

 

 俄かに事態が信じられず、あわあわとした視線を向けるサランと、何かのトラウマを思い出したように耳を塞いで顔をふせるツチカを見て、きゃらきゃらとはしゃいだ笑い声をあげるのはコサメだけだった。


「ミユー、その子ら葦切シリーズの第二世代だって。だからママの割れ目の中には戻んない戻んない~、戻るとしたら試験管~。あとそれから、あんたのその姿こっちから丸見えー。後輩びびってるー、ヘイヘイヘイ」

了解Rogerぁぁあっ!? ――え、やだ、いまちょっとなんてっ、嘘、やだっ、冗談でしょねえっ!?』


 サディスト丸出しだったミユの表情はコサメの言葉を理解した途端、すぐさま目を大きく開き、顔を真っ赤にしてキョロキョロとアタリを見回す。明らかに悪戯にひっかけられた被害者の顔で、真っ赤になった顔に革手袋をはめた左手をあてる。そうやって盛大に恥じらう様子は完全に普段のサンオミユだったが、サランの印象からさっきの鬼軍曹めいた姿と言葉遣いは消えない。

 だというのに、コサメは面白がって気まずさをかみしめているサランに携帯電話を差し出すのだ。会話をしろ、という命令である。

 後輩としては先輩、かつ上官の命令には従わねばならない。サランは、おそるおそる切り出した。


「あの……鮫先輩。い、今のは……ええと……?」

『やだっ、鮫島さんっ!? 本当に見てたのっ? 違うのっ、違うのこれはねっ、私のパパ아빠がねっもともと特殊部隊出身でそれでねあのねっ、……ああもう、やだぁ~……。バカ~、小雨のバカ~、意地悪なんだからもぉぉ~っ』

 

 激しい狼狽ち羞恥に襲われているらしいミユは、涙の浮かんだ目をグルグルさせたあとに、ついに泣き声あげてその場にしゃがみ込んだ。黒いミリタリー調のスーツ姿で乙女のように恥じ入る姿は普段の優しくしっかりした姿とはかけ離れていて愛らしいとも思える姿ではあった。――さっきのブートキャンプ教官姿さえ見なければ。

 この場で純粋にミユの姿を楽しんでいたのはコサメ一人だけのようで、「じゃあね~と一言を残すなり通話を切った。


「よっし、これで年末年始の楽しみができた」


 と、世にも最悪な一言を残しながら。


 自分は決してこのような品性の無い大人にはなるまい、と、シャー・ユイあたりが聞いたら鼻で嗤いそうな決意をこっそり固めるサランの傍で、心から満足そうなコサメはツチカに携帯電話を返した。憮然とした表情で受け取り、スカートに戻しながらぶぜんとした口ぶりで注意を促した。


「言っときますけど、あたし美柔さんに借りがありますから。さっきみたいなことやりすぎると、先輩の休暇が半年伸びるだけですからね」

「分かってる。分かってるって~。んじゃあーねー、つーちゃん。デート楽しんできな~」


 童話の中のお姫様みたいな外見がなくようなことばかり口走るコサメはそのまま宙に歩をすすめ、くるりとターンしてみせた。パウダーピンクのネグリジェがふわりと広がった後に、ロクでもない先輩は姿を消した。


「……」

「――」


 あとに残された二人は鉄骨の上で、黙りこくる。サランは未だ動揺をぬぐえないまま。ツチカはむっすりと膨れたまま。

 

 鏡の外を映していたビルの壁面は、コサメが姿を消すと同時に元通り、ガラスを壁一面に貼り付けた元のビルに戻っていた。パートナーの恥じ入る姿をこれ以上後輩に見せてはならないという先輩心が働いたのかなんなのか、サランに判別つけられなかったが、どうしても呟かずにおれない一言を口にした。


「うち……今初めて文芸部員で恥ずかしいなって思ったよう」

「あたしはあの人と会うたびに毎回そう思うわ」

「撞木、小雨先輩と顔合わせる機会多いのか?」

「……まあね。学校やめてから、半年に一度だけ代わりに眠り姫やってあげてんの」


 ああ、と、それを聞いてサランは頷いた。S.A.W.シリーズを母に持つツチカは誰のワンドでも使えるという稀有な体質を有するワルキューレなのだった。

 ツチカはスカートのポケットからメンソール入り煙草の箱をとりだし蓋をあげて一本加える。その中に入れていた銀のライターで火をつけた。

 ふーっと煙をふかしながら、すっかり日の暮れた空を見上げる。煙がゆるゆると真上へと昇った。


「お互い愛し合ってる同士なのにさー、人類なんかのためにずっと離れ離れなんてかわいそうすぎるじゃん? 牽牛織女じゃあるまいし。だからヤツらより一回おおい年に二回、眠り姫を変わってあげてんの」

「……へー……」

「けど、最悪。ああいうプレイじみたことを後輩に見せるとかそういうだらしないことをするなら、今年の年末年始はジャッキーのところのニューイヤーパーティーにでも出るかなぁー」

「プレイじみたことって、そういうこと人前でセックスするような奴がいうことじゃないんじゃないのか?」

「…………」

 

 とがらせた唇から煙をはくツチカは、じろりとサランを軽くにらんだ。その視線の低さでサランは気づく。

 いつのまにか、ツチカの隣に当たり前のように座っていたのだ。


 何か言いたげなツチカが、サランにじっとりした視線をむけながら煙草を口に加えず指に挟んだままにする。まるでサランが隣にいるから煙草が吸えない、まずくなると言わんばかりの表情に見えた。

 ムッとしてサランは立ち上がる。


「悪かったな、お望み通り離れてやるようっ」

「――あんた、〝セックス″って口にできるようになったんだ。へー」

「はぁっ!?」


 急に何を言い出しやがんだコイツ? という目でツチカをみてから、サランはやっとツチカの言葉の意味を理解した。

 セックスも口にできないおこちゃまのミノムシミノ子、と馬鹿にされたことがきっかけで、照れることなくきちんと言葉にできるようになろうとして渡り廊下で十回連呼したり、愚行に及んだ四月が遠い昔のこととしか思えなくてとっさに思い出せなかったのだ。

 改めて座りなおしながら、サランは膝の上に肱をつく。


「――ん、まあ、色々あったんだよう。うちにも」

「色々ねぇ……、キスとかはしたの?」


 なぜか急にツチカの声にはニヤニヤした調子がまざる。その調子は時折ジュリが他愛ないゴシップに異様に食いついた時の有様を思い出させた。

 それはとてもよく似ていたのだ。

 ジュリとツチカが共に過ごした五歳からの日々の厚さを思い出させるほど。


 ツキンと傷んだ胸の痛みを感じるより早く、サランは答えは返した。なんにせよ、シモクツチカをニヤニヤさせるのはプライドが許さない。


「したよう、したした。――したっつうか、したのが一回、されたのが、ええと……一、二ぃ……? あ、したのが二回か。えーとそれじゃあ……」


 何を真面目に記憶をさらってるのかと馬鹿らしくなったのは、ツチカの真剣な表情に気付いたためである。

 煙草の先の灰をトントンと落としはするが、咥えることなく指に挟んだまま、真剣な目でツチカは訊ねる。


「珠里とは、した?」

「はあっ?」


 どうせいつものようにイヤミと皮肉の散弾を浴びせるのだろうと身構えていたサランは、調子がくるって裏返った声を出してしまう。が、ツチカは、いらだったように眉間に皺をよせるのだ。


「だから、珠里とはしたのかって訊いてんだけど?」

「はあ? してねえよう。なんでしなきゃなんねえんだ?」


 むすっとありのままの事実を答えると、反対にツチカの顔には満面の笑みが広がった。


「……へぇ~」


 と。

 何が楽しくて嬉しいのかよくわからないが、ニヤニヤと笑い、ようやく煙草を唇に運んで一服する。


「そっか、珠里とはしてないんだ。へぇ~? ……バカじゃないあんた?」

「はいっ!?」


 わけのわかんない女だな、相変わらずこいつは!?


 抗議でもしてやろうと口元をツチカの左手が強引につかむ。

 あァっ!? と、その不埒な振舞に噛みついてやろうとしたサランの口にツチカが噛みつきかえすように口を重ねる。


 サランの舌に、メンソール煙草の味と匂いが移った舌が乗った。息の詰まりそうな煙草の奥から糸のようにメンソールの匂いが鼻孔を刺激する。


 だからサランは目をとじられない。小癪なことに、ツチカはしっかり目をとじている。火のついた煙草と同じくらい近くに長いまつ毛がサランのそばにあった。

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