#55 ゴシップガールに捧げる月下輪舞

 太平洋校から放逐されたシモクツチカと強く結びついた場所。

 サランがイメージできる場所はそこしかない。

 

 現地の少年と遊んでいた路地裏。

 早朝に平然と現れたバスターミナル。

 満ちるまでにはあと数日ある月の下、鉄骨に座っていた九十九タワー。

 いかにもヤツの審美眼に敵いそうなしゃらくさい作品を上映する映画館。

 小娘が近寄らない店に立ち寄るのが粋だと信じている浅はかな小娘好みの、レトロな喫茶店(所詮外回り中の営業マンの休憩所だというのに)。


 四月を迎えてから数か月、サランがシモクツチカと出くわしたくないのに出くわすのは例外一つ除いて九十九市ばかりだ。

 そのせいで、メンソール煙草とシャンプーと髪のスタイリング剤の混ざったシモクツチカの匂いと、ミノムシミノ子とサランを呼ぶときに見せるあの憎たらしい嘲り笑いと顔は、しっかりと九十九市の記憶と紐づけられていた。


 それを打ち消すイメージも同時に浮かぶ。


 この八月のあの日からツチカの姿は見ていないと告げたミユの声と、縁側で並んで冷えて固くなったみたらし団子をかじりつつ見上げたやはり満月には数日かかる月。

 あのときミユは、ツチカがこの町に居ない方がいいと言っていた。居たなら世界を混乱させたあの女を捕まえなくてはならないから。


 しかしサランはとっさに祈った。

 頼むからそこにいてくれ、と。低レアの自分が訪れたこともないような、知らない町でいないでくれ。でないとお前のことがつかまえられない。


 どうかどうか、そこにいろ――。



 ――次元の壁を越えて、さんお書店の店舗兼住居の居間、というよりお茶の間に出現したのはおそらくこういった事情である。


 言われるがままに深呼吸を繰り返し、かろうじて平静さを取り戻したサランはそう理解した。



 淡い夕暮れにつつまれた九十九市は、空も街の空気も平穏無事の気配しかなかった。季節がら、金木犀の香りが庭先に漂う。


 そんな空の南東、いち早く藍色がかってきた片隅にぼんやりと異様な顔が浮かんでいる。ここではその大きさはずいぶん小さいが、シュールレアリズム絵画のような違和感は甚だしい。もっとよく空の様子を確かめようと一層背伸びをした瞬間、ミユに声をかけられた。


「あなた達より十年は長くワルキューレやってるけれど、甲種観測者型だなんて初めて見るわ。都市伝説じゃなかったのね」

「──やっぱりあれ、観測者なんですか……」

「因果に大幅な狂いが生じた時に見られる回復運動がこういう現象で現れるというのが正解かしら?」

 

 頼りになるプロでもあるミユの説明を聴きながら茶の間に戻りつつ、サランはため息をはあっとつく。

 あの顔面はキタノカタマコがこちらを疑心暗鬼に陥れるために用意した幻影などではない、瓢箪から駒の言葉のように観測者である線が濃厚。それを確信してしまうのはそれなりにショックだ。

 サランに衝撃を与えたミユは、それでもいつもの態度と口調を崩さない。


「上は今頃緊急対策室でも準備している筈よ、歴史が変わったりしちゃあ大変だもの」


 薙刀の刃の刺さった畳の後を付近で拭いたり(「やだ、血の跡が消えない。三尾のお父様お母様になんて説明しようかしら」としきりに気にしていた)、サランに座布団を進めて座るように促したり、リモコンでテレビをつけたり、きびきびと手を動かしながらミユはサランに話しかける。

 この事態に少なからず驚いてはいるようだが、動作も口調も日常の範囲にすっぽり収まるものだから、サランは自分がさっきまでいた現実との落差にクラクラとめまいを感じた。

 学園島とは約二時間の時差がある九十九市はようやく18時を少し回ったところだ。ミユのつけた夕方のニュース番組は静かなもので、キャスターが景気の動向について語っている。空に巨大な顔面が浮かんでいるにもかかわらず、だ。


「こっちは落ち着いてるんですね。あんなもんが浮かんでるのに……」

「小雨が頑張ってくれているのよ。侵略者の概念のないこの街の皆さんをいたずらに怖がらせても仕様がないでしょう? ──私たちはそういうわけにもいかないけれど」


 本来この時間なら立ち読みで時間をつぶすバス待ちや塾の時間待ちの中高生の客がいる狭い店内が、今日は静かだ。蛍光灯も切られガラスの引き戸も閉じてカーテンがかけられている。緊急事態に備えて店を閉めたとミユ自身がさっき口にしていた。

 それでも、リモコンでチャンネルをザッピングするミユの態度は一見すると場違いに呑気だった。表情が真剣なだけギャップがある。


 戸惑いを隠さないサランを置いて、ミユはあるチャンネルに固定するとリモコンを下ろした。

 バラエティー番組でも放送しているのか、きゃあきゃあと大声ではしゃぐ少女の甲高い声がお茶の間に響く。位置的にサランは背にしていて見えないブラウン管画面の中身をみたミユは目を大きくしながら、あらあらぁ……と、嘆息する。


「あなた達ったら随分また派手なことをしでかしたものねえ。──でもまあ、仕方ないか。本件に関しては上の対応に問題が無かったわけじゃないもの」


 呆れたようなそれでいてどことなく痛快さを感じているような複雑なニュアンスが漂う声で、ミユは自分のために用意した座布団に座りつつ呟いた。

 バラエティー番組の感想にしては妙なつぶやきである。思わず目を丸くしたサランの耳に飛び込んできたのは、耳慣れた声音によるオセアニアなまりの英語だった。精神状態がかなり限界に近いことを表す悲鳴じみた声はリングの翻訳機能を介さずとも誰のものかがよくわかる。

 せっかく華やかにまとめた色の濃いブロンドをほつれさせてがなっているのは、どこからどうみても現太平洋校高等部生徒会長アメリア・フォックスのものだった。


 どうして高等部生徒会長が九十九市のブラウン管テレビに――! と、目を丸くするるサランの前でアナログのモニターは仁王立ちになりパンパンと手を叩くドレス姿の少女を映し出す。


『はい、バカ騒ぎはこれでおしまいっ! 学校から指示が出るまで私たちは待機ですよ、待機ッ』


 アメリアがいるということは、当然虚構空間でしか生きられないあの口さがないCG製少女もいる。シュモクザメを擬人化したような外見のレディハンマーヘッドを名乗るあのキャラクターが、アメリアを挑発するような口を叩いた。ふたりが言葉を発するたびに各国言語の字幕が表示される。


『ええ~、何それさっきも言いましたけど都合のいい時だけこっちを利用しておい……』

、私はっ! いつまでもそうやって校則法律条例ワルキューレ憲章を蔑ろにするような振舞に及ぶのならこちらもそれなりの対応にでますから――っ⁉』

『あ、ちょっと待って待って。今、フォックス先輩あてにメッセージ届いたってリリイちゃんが。――つーわけで、ほら、リリイちゃ~ん』

『話はまだ終わっって──ッ』

『は~い、目白リリイでーす』


 さっとカメラが切り替わり、それはそれは嬉しそうに愛らしい微笑みをうかべたリリイが珊瑚を模した椅子に足をそろえて座り、手のひらを小さく振る様子に切り替わった。左手にはメッセージツールである緑色のガラス瓶がある。

 呆然とテレビ画面を眺めながら、サランはすぐさま思い出した。――これ、さっきみたばっかりだぞ?


『じゃあよみますねぇ~。……えーっとぉ、ハンドルネームMeganeuraさんからのお便りです《前略 レディハンマーヘッド殿及び太平洋校に所属するワルキューレの皆様方、小生はMeganeuraと仮称する若輩者であり、且つ安全な視力回復術式の一般化により今世紀中ごろには惜しまれつつもこの地より姿を消してしまった眼鏡を愛する者にて候……』


 博物館ミュージアムでジュリと並んで見た映像の記憶通り、画面の向こうのリリイはやや癖があるものの流暢な日本語を駆使しつつ、わざと古式ぶった英文で書かれた手紙の内容をすらすらと読み上げる。翻訳機能を介さないためリリイの言語能力の高さが際立ちサランは思わず感心しかけたが、そんな悠長な時間はないのだ。

 

 あら綺麗な子~……、とシンプルにリリイの美貌への感想を口にしたミユにサランは詰め寄る。


「ななっ、なんでっ、なんで、あの生配信が、ここのっテレビなんてもので──……っ⁉︎」


 腰を浮かせて食い気味にテレビの画面を指差すサランを前に、どこまでも日常にいるような体のミユは淡々と説明する。


「ああこれ? 特殊戦闘地域に配属されている作戦従事者専門チャンネルよ。私たちだって外の世界でなにが起きているか知る必要と娯楽を楽しむ権利くらいあるはずでしょう?」


 鮫島さん、観るのはじめてだった? と、現実についていきないサランのまえで実になんてことなさそうにミユは言い、続けて語った。

 古い衛星回線を利用した特殊戦闘地域の外の世界で起きている情報や拡張現実上の人気番組のダイジェスト版を放送する戦闘従事者限定チャンネルで、一般市民には見つからないように、非会員には砂嵐にしか見えない映画専門チャンネルに擬態している─―云々。

 そんな事情を知らされたサランがますます口をあんぐりあけている間に、ミユは説明を追加する。


「こういう場所で即時性と拡散率を兼ね備えたメディアはどうしてもテレビが一番ってことになるのよ。しかもチャンネルはここ一局しかないから、こんな風に編集が雑でも画質が最低でも放送域は地球規模になるの。ここと似たような街にいるワルキューレや各国の兵隊さんたちのうち待機中の皆さんは、間違いなくこのチャンネルをご覧になってるわね」

「──っ。マジですか……」


 面倒なことになっているが、サランはまずお茶の間の振り子時計に注目した。

 

 この九十九市でも相当レトロな振り子時計は、ミユがマメにネジを巻き手入れしているためにサランの知る限り時間の狂いは少ない。その時計の長針と短針がさすのは午後の6時15分あたりだ。

 つづいてテレビ画面に視線を移し、生配信動画のワイプ画面をそのまま引き写した映像を確認した。偏執的なおのれのファンからの手紙に怯え悲鳴をあげるアメリアの映像の下に表示されたタイマーは1:02:24。そこから刻々とカウントされる。

 ゲリラ生配信の開始時間は現地の19時であったから、アメリアが悲鳴をあげているのは20時過ぎの出来事になるはずである。


 終わりなき二千年紀に閉ざされた九十九市であっても、時は外の世界と同じように刻まれている。

 旧日本一帯と太平洋校のある学園島ではおおよそ二時間の時差があるので、旧日本で18時15分ならば、日付の変更が二時間早い島では20時15分前後のはずだ。しかしテレビの中の表示では現地時間20時前後ということになっている。約15分のズレがあるのだ。

 つまり、生配信番組をその場で大昔に放棄されたようなアナログ放送映像受像機に対応するように手を加えたり、各国語の字幕を付け足したりする作業にそれくらいの時間を有するということだろう。事情はわかるが、しかし緊急事態に15分の差は大きいのではないか?

 そんな疑問が顔に出たのか、ミユは平然と答えた。


「大丈夫よ、至急の命令があれば緊急ラインで通達があるから。──それに観測者はこちらを見るだけだもの。あっちが何もしない以上こっちも動き用もないわ」

「そんな、気象警報が出て自宅待機になった学生じゃないんですから──」


 島での上へ下への大騒ぎと、テレビを見つめてあれやこれやとおしゃべりが始まってしまう呑気なお茶の間という空間とのギャップにやられてサランは思わず顔を引きつらせた。


 ともあれ、わかったことが一つある。


 ブラウン管をみれば、リリイが眼鏡教信者の手紙の続きを読み上げ、ぜひとも眼鏡をかけてほしいという懇願に遁走で応じている所だ。このあたりまでがサランがジュリとともに博物館ミュージアムで動画を見ていた箇所と重なる。


 このあと、こわれかけの博物館ミュージアムにパトリシアが現れ(ん? 一時ビビアナからカメラ係を引き継いでいたはずのパトリシアが博物館ミュージアムにあらわれて以降、配信用のカメラを担当しているのは誰なんだ?)にのこのこ現れては空に現れたあの顔面が観測者ではないかと指摘し、それを信じたジュリの心の働きによって博物館ミュージアム内の世界線が分岐した為、本来シモクツチカの父親の家にいないとおかしい飛天像が出現した上に、あの忌々しいキタノカタマコの侍女まで現れてジュリの心を惑わした。そのせいでジュリは、シモクツチカの侍女になることのなかった世界線の自分に侵食された非常に危うい存在に変わりかけた。サランが詭弁を弄してその事実を全て受け入れることをなんとか拒絶させ続けたが、そのせいでジュリはマコの侍女に斬られる始末。──思い出しただけでもゾッとする。

 そのあと、マーハとヴァン・グゥエットが駆けつけてくれたおかげで何とかピンチを切り抜け、並行世界から半泣きで帰還したカグラから向こうで何が起きたかを聞き、一命をとりとめたジュリからお願いされた返事を待たずして多少時空間に干渉する能力を持っている麗人の先輩にこうしてこの九十九市に届けられたのだ。──現地時間で20時過ぎ、ファンからの手紙に悲鳴をあげていたアメリアの映像を見、約15分後の現在に二時間の時差の生じる場所で同じ家像を見ている。ということは、パトリシアが現れてサランが九十九市へ送り届けられるまでが10分の少々の出来事になるのだろう……。


 頭の中を整理しおえたサランの前で、ミユがエプロンのポケットの中から何かを取り出した。あの、チラシの裏をまとめたメモと飾り気のないノック式のボールペンだ。


「さて、と――」


 ことんと音をたてつつ、ミユがちゃぶ台の上に置いたのはジップつきビニール袋に入れられた、折れた薙刀の刃である。その刃はべったり血に濡れている。それを見てしまえば、いつまでも外の世界と眠り姫の加護の中にいる閉ざされた街とのギャップに驚いてばかりいられなくなる。

 さすがにミユは専科卒で尉官クラスのワルキューレなのだった。その本分は決して忘れないし、忘れさせないのだ。サランも気を引き締めた。


「あ、あの先輩――!」

「ごめんなさいね、こちらのお仕事を優先させてちょうだい? 小雨の警護の為にもある程度の情報は押さえておきたいの」


 優しい微笑みをうかべてはいたが、ミユはしっかりサランの言葉を遮った。やんわりした中にも有無を言わさぬものを潜ませたそれは、確実に小隊を率いる資格を有する人間のものだった。ただの一兵卒でしかないサランがそれに歯迎えるわけがない。

 それでもサランはワルキューレの上官と一兵卒ではなく、規律の緩い文科系部活のOGと後輩という立場を強調して訴えかけてみる。


「そう言わずに~、お願いしますよう~。こっちは急いでるんですからぁ」

「急がなくて大丈夫よ、撞木さんは逃げたりしないから。というよりも、逃げられないというのが正しいわね」

「!? 居場所ご存知なんですか、撞木のヤツの!?」

「はい減点。鮫島さんは落ち着いていると冷静に対処ができるのに、余裕をなくすと相手の誘導に引っかかりやすくなる傾向がみられるわね。実技試験だとこの段階で追試は確定よ。本番では気をつけましょうね」

「――……っ」


 普段は優しいOGのお姉さんなミユが、冗談めかして厳しい試験官のような態度をみせてすぐ、前のめりになっていたサランはすぐさま自分の失態に気付いた。

 ミユがかけたごく単純なカマにかかってしまったのだ。カマをかけるということは、ミユはサランが犬猿の仲であるツチカを追って此処まで来たことを見透かしていたということになる。


 以前ナタリアにも食らわされたのと似たような罠に引っかかってしまい、羞恥心に燃やされそうな心地を味わうサランの前に、ミユは一枚の紙を差し出した。

 つるつるとした手触りの感熱紙だ。これはファックスなる古式ゆかしい通信機器で使用されているものであることをサランは知っている。さんお書店カウンター内に設置されているファックスで、眠り姫の加護に閉ざされた街にいるミユにとっては上層部との連絡との情報をやりとりしている様子をサランは度々見ていた(ついでに本の仕入れや販売など古本屋の通常業務にもミユは使用していることも知っていた)。

 読め、という指示なので遠慮なく感熱紙にプリントされた文言に目を通す。

 びっしりと文字が詰まった紙面からさぞかし従来な文言がしるされているのだろうと心したが、そこに記されていたのは暗号めいた短文一つだ。英文・中文・スペイン語など各国使用言語に訳されたものが印字されているので紙が黒っぽく見えただけなのだ。

 若干肩透かしをくらいながら、サランは日本語に訳されたものを読む。。


 ≪託宣・狩人の接近が予測される、雲間にかくれた最後の昂星を追っているのは明白、月蝕から蠍が生まれる。逃さぬが肝心≫

 

 受信した時間は九十九市の時間で今日の18時03分ということになっている。サランが博物館から距離を縮めてこの九十九市にやってたその直前だ。


ニューヨーク本部からの指令文よ。予知・予言担当官が夢を見た後に見た言葉をこうしてそのまま流してくるのが慣例なの」

「はぁ、デルフォイの巫女みたいですね。割と適当だな……」

「あら、鮫島さんギリシャ神話が好きなのね。知らなかった」


 こういう時でも文学近縁のネタになると弾んだ声を上げてしまうのが、サンオミユの乙女らしくもあり文化部棟気質を感じさせてしまう所でもあった。しかし、まあごく基本的なレベルですけど……と、気恥ずかしさを覚えてごにょごにょと言い訳するサランへ即座にこう切り込むところはやはりプロなのである。


「だったらこの託宣の内容も理解できるわね。――まずはここから『最後の昴星』、これが暗示するものは?」


 国語の教師のように、ミユはサランへ回答を促す。明白だ、サランは七体の最古のワンドであるS.A.Wシリーズにはプレアデスの七姉妹の名がそれぞれ与えられている。プレアデスはつまり昴だ。

 雲間に隠れた最後の昴星、それが示すものはひとつしかない。


「撞木のバカのやつのことです」

「正解。でも、バカは余計です」


 もう一度教師のようにミユは注意しつつ、サランの読解が正しいことを認めた。

 昴星がツチカなら、あとの読み解きは簡単だ。昴星=プレアデスを追う狩人はオリオン。強くたくましい狩人だったオリオンを倒すために放たれたのが蠍。

 オリオンが示す人物も、ツチカを追う所から考えて該当する人物はキタノカタマコしかいない。ではこの蠍というのは?


 サランの脳裏に、いつかケセンヌマミナコと砂漠での任務中に遭遇した蠍型侵略者の威容とそれに追われた恐怖、ミナコが機転を利かせて呼び寄せたユーラシア校ワルキューレによって退治された時の安堵感などが塊になってよぎったが、それよりも大きな「まさか」という思いが脳裏にちらつく。


 まさか、いや、まさか――。


「ところで、この月蝕っていうのは何かしら? 鮫島さん、心当たりある?」


 この託宣の重要ポイントである蠍については後回しにして、ミユはボールペンの先で感熱紙をつつく。そこには月蝕の文字がある。

 サランは無言でうなずき、ちゃぶ台の上に置かれたジップ付きビニール袋に入れられた薙刀の折られた刃を見る。

 スターなのに不愛想で無表情であるスイッチが入らなければ極端に無口な麗しい上級生の、毛穴一つみえないアイボリーの色の肌を切り裂かれてから、まだ数分しか経過していないのだ。そしてその人は、まだあの遠く離れた島にいる。 

 それに何より、赤い血の色は、あの博物館で一瞬だけみてしまった血だまりに倒れるジュリの姿を想起させてしまうのだ。


 そのジュリが、サランに縋るようにして頼んだのは彼女のかつての主人のことである。


 口を開こうとした瞬間、すっかり茶の間のBGM発生器と化していたテレビの画面がぱあっと眩しく輝いた。

 あまりに閃光がまばゆいので、サランもミユも気がそがれてそちらに視線が向く。

 

 いつの間にかテレビ画面は切り替わり、戦艦沈む珊瑚礁を模したセットから配信される騒々しい少女たちの有様ではなく、夜空狭しと大いに暴れまわるブロンドの少女の凛々しく力強いさまを水平方向から映し出していた。


 カメラがとらえているのは勿論チアリーダーのような兵装をまとったレネー・マーセルで、両手にもったポンポン型ワンドから並みの侵略者なら有無をいわさず浄化する──ということになっているが、要は骨のひとかけら、思念の一片すら地上に残すことを許さず無慈悲に何もかも焼き尽くす必殺の生体エネルギー弾を観測者のあの顔面向けて放つためのモーションに移っている様子を映し出した。サランとミユの気を逸らしたのは勿論、淡い桜色と薄いグリーンという色彩だけみれば春先に咲く野山の花やシフォンの重なりを連想する色彩を連想するエネルギーの奔流を球形に束ねたレネー・マーセルのエネルギー弾が放つ閃光である。


 アニメーションのプリンセスを思わせる、優雅で無邪気な笑顔をひっこめ人類と地球を守るヒロインに恥じない凛々しい表情は、まさに戦乙女の名に恥じぬもの、環太平洋圏の女児と一部青少年と少女を魅了してやまぬものである。


 ――ただしそのエネルギー弾は、彼女たちが主に活躍する大都市圏の地上で撃ってみせたことはない巨大さに膨れ上がっている。地上のレネー・マーセルは高層ビル大の怪獣型侵略者ならドッジボール大の弾できっちりたおしていたはずだが、今溜めに溜めているエネルギー弾はあきらかにアドバルーン程度の大きさがあった。 


 デカすぎるだろオイ、と心の中で思わずサランが心の中でつっこんだ瞬間、体の前でそろえた両手が持つポンポンを跳ね上げるようなモーションに移る。どうっ、と雷のような音をとどろかせてレネー・マーセルはエネルギーの弾を放った。あたり一帯を昼間のように照らし出す小さな太陽のような光の玉が、固く瞼を閉ざした観測者の眉間あたりをめざし一直線に飛んで行く。

 ドッジボール大で高層ビル大の怪獣を倒せるエネルギー弾なのだから、アドバルーン大ともなればその威力はいかばかりか。小さな環礁くらいは吹き飛ばすほどの威力はあるのでは?

 最悪の事態を想像して悲鳴すらあげられないサランをすておき、光弾は観測者の顔面に到達する。あわや大惨事になる──と思いきや、レネー・マーセル渾身の一撃は侵略者の眉間をすり抜けて成層圏の彼方へと飛んで行った。


「詳細のつかめていない侵略者相手に不用意なエネルギー弾なげつけるだなんて。随分危なっかしい子ねぇ……」


 ミユは眉間に皺を寄せ在校生の戦いぶりを批評したが、やはりどことなく呑気なのである。サランはその発言を、踏んでる場数が違う尉官ワルキューレの余裕だとみなすことにした。

 かなり気合をためた渾身の一発がダメージを与えなかった様子を目の当たりにしても、レネー・マーセルは平静だった。ぷうっと頬を膨らませてコミカルに腕を組み、母語であるフランス語でつぶやく。その隣にやってきたナタリアもクールにパートナーを窘めた。


 ――やっぱりダメだわ。私のパワーが通用しないなんて。厄介なお客様ね!

 ――ぼんやりしないでレネー・マーセル! それから無駄玉撃つのは禁止。


 二人のスターワルキューレの言葉にあわせて、日本語字幕が表示された。全世界に視聴者がいることもあってしっかり数か国語放送に対応しているらしい。

 サランのフランス語ヒアリング能力でも、レネー・マーセルとナタリアの発した言葉を字幕担当者がかなり穏当に意訳している程度のことはわかる。そして、お茶会の終盤で不服そうに本人も言っていたとおり空に浮かぶ観測者が徒手空拳の物理攻撃が通用しない、環太平洋地域のスーパーヒロインが苦手とするタイプの敵であることも。博物館でジュリが見立てた通り、物理実体を持たない神霊型だ。


 どうやってたおしゃいいんだ、あんな侵略者……! と思わず手に汗握ってしまうサランを現実に引き戻したのがミユの冷静な声である。


「話を元に戻してもいい? 鮫島さんが心当たりあるって言った月蝕っていうのは何かしら?」

「あ、ああそうでしたそうでしたっ! それなんですけど……っ!」


 全く、お茶の間なんてレトロな空間でブラウン管式テレビなんてもので映像を見てしまうと嫌でも前世紀ののどかな日常を過ごす旧日本イズムにのっとられてしまう──と、心の中で言い訳をしながら、まずちゃぶ台上の湯呑みを手に取った。とりあえず口を湿して気分を切り替えるつもりだったのである。


 どうやらテレビ画面の中は再びCGのセットに戻り、レディハンマーヘッドを名乗るあのキャラクターとリリイがペチャクチャとおしゃべりを始めているが、無視だ無視。事態はそんなのんびりしている暇などないのだ──。


 そのように意識すればするほど、気をそらそうとしたものに神経が集中してしまうものである。そのせいでサランの耳はよく聞き慣れた、優美な響きのまろやかな声をしっかり捉えてしまったのである。


『――……ますか? 聞こえますか? 環太平洋圏、いえ、今この配信をご覧になっている全地球にお住いの皆さま方、ごきげんよう……』


 弾かれるような勢いで振り向いたサランは、煌々と光るテレビ画面の光景に危うく口に含んだままの番茶を噴き散らかす所だった。

 慌てて手のひらで口と鼻を手のひらで塞ぎ、ミユに向けて番茶の噴水を噴きかけるという大失態を繰り広げずに済んだ。そのかわりゲホゲホと激しくむせこむ。

 ミユがそのサランの背中をさすってくれたが、その最中にもテレビの音声がサランの耳朶を打ち続けた。咳き込みながらもちらりと画面を見れば、かりそめのセットの中央に、華やかな兵装姿で端正な面立ちを綻ばせる上級生がいたのである。


『配信をお楽しみ中の皆様、失礼申し上げます。私、太平洋校高等部二年、演劇部部長、甚兵衛ジンノヒョウエマーハと申します』


 ──間違いなかった。

 英国調寄宿学校風制服に緋色のサリーを合わせたような兵装と、柔和で理知的な輝きを宿した黒い瞳と常に微笑みを湛えた花びらのような唇は、どうみても見慣れた上級生のものだった。テレビからはリングの翻訳機能を介さずともよどみなく美しい日本語が流れている。

 ようやく咳が治っても衝撃が去らないサランの目の前で、事態は進行してゆく。CG故に伸縮自在なレディハンマーヘッドがバストショットのマーハにまとわりつき、甲高い声で宣言した。


『はーい、というわけで緊急スペシャルゲスト、我が校の誇る演劇部の大スターのマー様だよっ! 拍手〜!』


 レディハンマーヘッドの声に合わせて、拍手のSEが合わさる。一瞬抜かれたリリイもにこやかにパチパチと拍手していた。

 頭身をのばしたCGの少女が芝居掛かった仕草でマーハをエスコートし、ちょっとーこんな安物の椅子にマー様を座らせられるわけないでしょーチッペンデールのソファでも用意しろっつのー、と見えないスタッフに抗議するという一コントを披露している間に、サランも呼吸を整える。


「……、落ち着いた?」

「はい、なんとか……」


 ワルキューレをやっていると超常現象と名のつく出来事と遭遇するのが日常になり、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなるものだが、この九月三十日の午後にサランを遅い続ける出来事の波は限度を超えている。

 せめてバラけさせてはくれないものかと、運を支配しているであろう超越的存在にサランは心の中で苦情を申し立てた。

 

 暴虐な少女MC、レディハンマーヘッドの要請に答えて、海底を模したセットは西洋の王侯貴族が使用するような豪奢な家具で飾られたお城の一室に様変わりする。CGだからこそできることだ。そういったおきまりの戯れにマーハはくすくす微笑んで見せる。

 その間ずっと、右端のワイプに各国言語による視聴者コメントが流れ続けていた。大半がマー様の出現に湧きかえり歓喜する演劇部ファンのそれのようだが、見切れていてすべてが表示されていない。テレビの画角が動画の標準モニターやワイプに合っていないためだ。


 事態は場違いにのんきだが、なにはともあれ、謎が一つ明らかになったのは確かである。

 博物館にパートナーのヴァン・グゥエットともに現れたマーハ。美しい演劇部の女帝は、ジュリが斬りつけられた様子を前にして動転したサランを慰めたあと、用があるといって一人で博物館を後にしたのだ。

 その用がまさかこれだったとは、と、少々あきれつつも深呼吸を追える。

 気を切り替えてサランは面を起こした――というのにだ。


「あら! あの子が演劇部の現部長さんで甚兵衛家のお嬢様? ――やだ、まぁ……本当に女神さまみたい。沙唯先生もご執心なさる筈ねぇ」


 マーハの美貌を初めて目にしたのか、ミユは驚き瞳を輝かせていた。細い指先を組みわわせて、はぁっとため息をついている。現役演劇部員のオーラを浴びて、なにかのスイッチが入ってしまったようだ。


「いいわねぇ、今の演劇部さんってあんな素敵なお姉さまが部長をお務めなの? はぁぁ〜……。ぜひとも『アドゥレセンス黙示録』を演じていただきたいわぁ」

「それなら昨年、定期公演のレビューでダンスシーンを再現したものがあった筈です。シャー・ユイのやつに飽きるほど見させられました。演劇部さんのファンクラブに入れば公式サイトからダウンロードできる筈ですよう」

「えっ、本当なのっ⁉︎ ──ああっ、でもここじゃあダウンロードどころか演劇部さんのサイトにアクセスすることすらできない……っ! それにダメよっ、私は小雨を守るためにここにいるのよっ。本分を忘れちゃいけないわっ」


 畳に両手をつきながら自分を戒める言葉を吐いて美しい少女の誘惑に耐えているミユは、頼れるOGから文化部棟気質の抜けない夢見る一乙女に退行していた。

 優しくて頼りになるOGがたまにこうして親しみやすい一面をうっかり見せてしまうのをサランはそれなりに好ましくみているのだが、せっかくこっちは月蝕について話せる準備が整ったところである。わざとらしく空咳をしてみせた。


「先輩、そろそろ月蝕についてお話ししてもいいですか?」

「! そう、そうそうそうだったわねっ! やだ、私ったら……。今のは内緒にしておいて、ね?」


 顔をうっすら赤くさせながらそそくさと居住まいをただし、チラシの裏紙製メモ帳を手にとりボールペンを持ち直すミユがこほんと咳をする。頼りになるOGのそういった微笑ましい姿を一応記憶にとどめてから、サランはようやく説明を始めた。


 今からおおよそ15分前、ブラウン管の中でにこやかに笑うマーハが後にした博物館はその頃、真っ暗な月蝕の中に閉ざされていたのである。



 ◇ゴシップガール復活SP 01:09:53◇



『っはい、どーん!』


 空に浮かんだ正体不明の侵略者に向けて、環太平洋圏の女児憧れのヒロイン、レネー・マーセルは気の抜けた気合いとともに、直径数メートルにはなるエネルギー弾を撃ち放った。どうっ、という音を響かせて空を切り裂き小さな太陽めいた生体エネルギーの塊は巨大な顔面の眉間を的確に射抜くも、なんのダメージも与えず虚しくすり抜けてしまう。


 並みの格闘型ワルキューレなら一生に一発撃てるか撃てないかというレベルのエネルギー弾を放ちそれが無駄うちに終わったにも関わらずレネー・マーセルはちょっと残念そうに腕を組んでぷうっと頰を膨らませませただけだった。絶望のぜの字もない、余裕綽々の態度である。


『んっもー! やっぱ通用しなーい。だっから嫌いなんだってば神霊型ってばー。手応えなーい、めんどくさーい、ちょー厄介ー。呼んでないんだからこっち来んなっつーのー!』

『通用しないとわかっていて何故あれだけの弾を撃ったんだ、レネー・マーセル? 核クラスの無駄玉を撃つな無駄玉を』


 そばに寄ってきたナタリアの冷ややかな声を浴びせられても、レネー・マーセルはあっけらかんと語ってみせた。


『だってー、地上じゃああれだけのボールって撃てないじゃん? 怒られちゃうじゃん? こっちのストレス溜まっちゃうじゃん?』

『──』

『あたしねー、一回くらいなーんにも気にしないで思いっきりでっかいボールを撃ってみたかったんだぁ〜! それもね、都市が』


 レネー・マーセルの言葉を不自然に遮って、カメラはナタリアのアップを映し出す。普段から知的で怜悧な眼差しがレネー・マーセルとは違う層に支持されている少女は、カメラを一瞬ぎゅっと睨んだ。カメラの担当者はその視線の意図を読んだのか、さっと再び空に浮かぶ侵略者を映し出す。


 だってー、せっかくのいい機会だと思ったんだもーん。あーん、怒らないでー、ナッちゃんてば〜……、と、パートナーから叱られるレネー・マーセルのじゃれついた声がかすかに聞こえるが、その姿は映像に映されない。しかしそれはファンにとっては毎度おなじみの光景だったから、各々がモニターの前でやれやれと苦笑したりパワルフルで無邪気なレネー・マーセルに微笑んだりしただけであった。


 どんなに恐ろしく、危険で、奇妙で、不気味な侵略者にも一切ひるまず、不安を見せず、人間社会でごく当たり前の生活をするのを困難にするばかりな持ち前のフルパワーを惜しげもなく駆使してチョチョイのチョイとばかりに「やっつける」、そんなレネー・マーセルは環太平洋圏の安心の象徴でもあった。

 多少浮世離れした言動は微笑ましいとみなされていたし、賢くてしっかり者のナタリアが無邪気なレネー・マーセルの危なっかしくて足りない面を補ってくれているので安心していられる。こうして二人は環太平洋圏の女児を中心とした人類に大いに慕われていた。


 二人がいるから大丈夫、という環太平洋圏ではおなじみの安心感は番組全体にも広がりつつある。お城に暮らすお姫様のサロンのような有様に変化した華麗な番組セット内でも出演者たちはモニターを眺めながらどことなく優雅に微笑みあう。ゲストの位置に座るマーハをカメラが抜くだけでさっきまでの大騒ぎが刷新されたような雰囲気になった。

 それでもレディハンマーヘッドはMCである自身の立場を見失わなかったとみえて、同級生の頼もしい暴れぶりを慈愛のこもった微笑みで見守るマーハにすかさず尋ねる。


『ところでマー様? マー様のお見立てではあの顔の正体って一体なあに~? 我が校自慢のレネーちゃんとナタリアの攻撃がきかないなんてやばくない? なくなくない? もしかして地球ってばピンチってやつぅ? そんなぁー、まだ予言された十月になってないのに日にち間違えてやってきちゃったぁ? 慌てん坊なの、侵略者ってば」

『ふふ、どうかしら? だとしたら楽しいけれど』


 ミルクを垂らした紅茶のような肌と調和する黒く聡明な瞳、マーハの横顔がモニターに映し出される。カメラを回す者している者は、演劇部の現部長の顔には見た者の不安や怯えを消滅さえる効果があることをよく承知しているのだろう。確かな手つきでマーハが優雅に唇をほころばせ、おしゃべりなCG少女の煽るような冗談を受け止める様を映像に切り取る。


 空には環太平洋圏の女児の憧れである戦闘ヒロインのレネー・マーセルとナタリア。

 地には太平洋校の誇る元女神にして演劇部スターのジンノヒョウエマーハ。

 

 番組を見守るしかない地上の全人類は、空に異様な侵略者が浮かんでいるという異常事態でもいつもと同じ調子を崩さない三人の姿に安堵した。この世界に住む人類の生命財産を護る少女防人はメディアで紹介される時と同じような態度を維持している。だからきっと大丈夫。これは決定的な危機などではない。だってそれが来るのは数日後とはいえ来月だ――。

 

 そうやって不安をごまかし、少女たちの大騒ぎをさっきまでと同じようにただ楽しむことに気持ちを合わせた何千何万もの視聴者を意識しているはずのマーハは、カメラの位置を確認すると静かに体の向きをかえた。

 真正面からカメラに向かいあい、そして目をとじてゆったりと頭を下げた。

 まるで視聴者に、全世界の人類に何か頼みごとをするように――。


『ん、どうしたの? マー様ってば改まっちゃってェ』


 レディハンマーヘッドの茶化すような声には一瞬の苦笑で応じたのち、面を起こしたマーハはまっすぐにカメラを見つめる。

 そこには演劇部ファンでなくても太平洋校のワルキューレを愛し、応援する一般人類ならよく知る親しみやすい茶目っ気は無かった。幼少期から女神として人々に信仰の受け皿となっていた少女の超越した笑みだけがある。十七の少女がおいそれと浮かべるものではない神々しさを漂わせた微笑みを湛えたマーハは、ひと呼吸おいたのちに朗々と述べた。


『全世界の皆様へ、お願い申し上げます。人、鳥獣、魚に虫、声を持たぬ草木に花々、目に見えぬ小さき者たち……。この世界に住まう森羅万象あまねく命、それらを此度の危機から護るため、どうか私どもにお力添えを。非力な私たちをどうかお支えくださいませ』


 もう一度ゆったり、マーハは頭を下げた。

 舞台上に立ち、人の目を集めるための間合いを熟知した少女のふるまいである――と、皮肉るものは生配信を見物していた視聴者も世界のどこかにはいたはずだが、口にだすものはいなかった。さっきまでにぎわっていたコメント欄も一瞬、何も書き込まれず空欄になる。



 ◇◆◇



 外世界から飛来する侵略者を駆逐する特殊な能力を持つ戦闘少女、あるいは少女の姿をした兵器であるワルキューレ。


 ワルキューレ因子を保有する女子のみが持つとされるその力は、前世紀以前なら霊力や魔力、超能力等と呼ばれた類のものだった。かつてなら彼女らは巫女や聖女、魔女と呼ばれていたことだろう。

 女神として信仰を集めていたマーハに古い神をまつる家の姫巫女だったタツミなど、神や祈りと育ち様々な現象を自然と目にして育ったものはもちろん、「前世の記憶」という形で幼少期に自分の能力を目覚めさせたカグラのようなタイプは、ある種古典的なタイプのワルキューレと言えた。


 しかし現在、定期的な診断によって因子の保有率の高さが指摘され養成校に入学してくる大半の候補生たちは、今までに超能力や魔法や異能の類と無縁で育った少女たちがほとんどだ。

 そういった「ごく普通の」少女たちの中には、ワンドを支給され侵略者との戦闘を重ねて順調にレベルを上げるだけでなく、非常に稀少な能力を発現させる者もあらわれる。眠り姫の適正アリと認められたサンオコサメもこのタイプに分類されるだろう。二千年紀前後によくみられた娯楽作品に因んで覚醒と呼ばれるに足るドラマチックなこの現象は、ワルキューレ業界内ではよく知られたものだ。

 養成校に集められたワルキューレ候補生たちの大半が思春期の少女だ。平凡な一般人類ではなく特別な存在に選ばれるのなら、侵略者とたちと戦って命を危険にさらしても構わないという無謀な野望を胸に秘め続ける者も少なからず存在する。

 その他大勢の一人である自分からスター級の特級ワルキューレに転身する、戦闘が日常になるにつれ大半のワルキューレ候補生たちがそんな夢を胸に秘めていたことを恥じ入るようになるのが普通だのに、現実に抗い続けるかの如く自意識を肥大させ続ける少女たちは一定数存在し続けた。


 手も触れずに物を動かす、透視する、未来を予見する、瞬間移動する、死者を視る、神を降ろす、気の塊を撃つ、呪いをかける、人間を豚や蛙に変身させる、奇跡をおこす……。そんなありきたりな能力はいらない。ワルキューレなんだからこの世界にすむ一般人類の生命や財産を護り、なおかつ誰ももっていないようなレアな能力が欲しい。でなければワルキューレになった甲斐がない。表立って口にせずともそう考える者は珍しくはない。


 稀少な能力に覚醒したい。それもできれば後方支援向きの地味な能力じゃなく、戦闘時に見映えのする圧倒的に見栄えのする能力がいい。そうじゃないと意味がない。

 華々しくて、派手で、不利な戦局ながれを一気にひっくり返せるような、無敵の能力が欲しい。そう考える者がいて当然と言えよう。


 

 さて、「月蝕」である。

 指定した一帯を結界で括り、内部を外界から閉ざす。

 漆黒に近い状態になった結界内部は、生きている猫と死んでいる猫が同時に存在するような因果律の狂った特殊な空間へと変化する。結界が維持できている数分間の間に、目的に応じた様々な行動を選びなおせば決定した因果も反故することができるのだという。

 たとえば、死んでしまう猫を活かすことが目的である場合、猫のいる範囲を結界で括り暗闇に閉ざす。その間に毒ガスの噴霧器を止めれば猫を助けることができる。逆に、死ななかった猫を殺すには同じように暗闇の結界の中で故障した毒ガス噴霧器を修理する。そういって、ごく限られた範囲内であればあらゆる事象の結果を目的通りに反転できるのだ。

 自分たち陣営の敗北を取り消して勝利に変えることも、死んだ人間を生き返らせることも、存在した人間を元々この世に存在しなかったことも、当然その逆も可能にする能力というわけだ。ほとんどちゃぶ台返しも同然な、一発逆転の可能性を秘めた能力なのである。

 

「月蝕」とは、事象を決定する観測者の目を暗闇であざむき、その間に結果をすり替える能力と言えた。


「なるほど、まるで落語の『死神』ね。死神が寝込んでる病人の足元にいるか枕もとに立っているかを判別できる能力をさずかった男が、欲をかいて死ぬはずだった病人を生き返らせたために自分の寿命をすり減らす羽目になったっていう」

「? それってグリム童話に同じ話がありますよね?」

「ええ。それを初代三遊亭圓朝が翻案したんですって」


 博物館ミュージアムを立ち去る前にマーハが手短に説明してくれたその内容をサランが伝えた結果、ミユは古典芸能トリビアを交えつつ感想を漏らした。こういった面でもミユは頼りになるOGだった。 

 確かに、死ぬはずだった病人の寝床の位置を正反対にして死神を出し抜いたその男のしでかしは、暗闇の中で結果をすりかえる行為によく似ているような気がする。あの短い小話に登場する卑近な男と「月蝕」の能力を授かった上級生のイメージはまるで異なるにも関わらず。

 サランの報告を聞いたあと、何かを思い出そうとするようにミユは斜め上を見つめる。


「その能力に目覚めた子……高等部二年生で演劇部所属、なおかつ甚兵衛家の養女じゃない方と……、こちらもかなり有名な子じゃなかったかしら? 確か黄家の──」

「先輩もご存知なんですか? ……まあ、そりゃそうか。全世界でキャーキャー言われてるあのヤマブキさんだもんなぁ。知っていて当然ですよね」

「――ええ、そうね。そう、その、ヤマブキさんね。『演劇部通信』にもよくお名前が出てくるから私にも聞き覚えがあったのね」


 沙唯先生をあそこまで夢中にさせるんですからきっと素敵な子なんでしょうね、一度お芝居がみてみたいわ……等と、あからさまにミユは誤魔化した。それに気づいたサランは、追及せず腹に収め、頼りになるOGが珍しくボロをだしたことに気付かないふりをした。

 ミユはしっかり「黄家の」と口にした。環太平洋圏を中心とした少女たちから憧れの眼差しを向けられる演劇部所属の男役スターとしてのホァン・ヴァン・グゥエットは知らなくても、黒社会で名を轟かせる黄家なる一家に所属する者としては認知している。どういう形であっても存在を知ってくれているのなら話は早い。

 黄家の名前をこぼしてしまった失態を取り繕う意味もあったのか、ミユは少し痛まし気な声で呟いた。


「だとしたらこの刃物に付着した血はその子のものね」


 視線の先には、ジップ付きポリ袋に入れられた血染めの刃があった。


「ごく狭い範囲内限定とはいえ決まった世界のあり様を覆すなんて相当な異能よ? おいそれと使用できるはずがないわ。自分の寿命と引き換えにするのと同じような、相応の代償が必要になるはずだもの」


 違う? と、ミユは問う。サランは無言で頷いた。


 「月蝕」と呼ばれるその能力に覚醒し、唯一行使できるワルキューレは太平洋校二年のホァン・ヴァン・グゥエット。

 ワンド支給前後には、近接戦闘に特化した中級から上級相当のワルキューレだとみなされた彼女が、初等部生時代に多数の負傷者を出したとある出撃時に覚醒し、発現した能力だという。――出自もただごとでなければ演劇部のスターとして世界中にファンがいる麗しい上級生が覚醒して秘めた能力を顕すとはなんたる皮肉か、と、自意識を肥大させがちな低レアワルキューレたちが珍しくない文化部棟員のサランとしては皮肉りたくなるが、血の付いた刃が視界に入るとそんな無駄口は叩けなくなる。


 ミユが指摘した通り、決定した事象を出し抜くようなこの能力の代償は大きいのだ。少なくとも、舞台上に立つ女優でもある少女の顔に傷くらいは支払わねばならない程度に。

 その点を含めて、パートナーが秘めている能力についてサランへ手短に伝えたのは、茶の間のテレビが映し出す15分遅れのゲリラ番組に出演しているマーハである。

 にこやかに微笑む上級生のバストショットを見やるサランの鼻腔に、ジャスミンとスパイスにロータスが混ざったような懐かしい香りが一瞬蘇る。



「ヴァンが決めたの。どんな代償を支払ってもキタノカタさんを止めるべきだって」


 不可解な暗闇に閉ざされた直後に博物館ミュージアムこの場に現れて、混乱するサランと薙刀に斬られたジュリに救いの手を差し伸べてくれた上級生二人について、おそらく何か訊ねたそうな表情をしていたのだろう。マーハの微笑みは、体のどこかが痛むのをこらえるようなものになった。

 その表情と、いつもならここが自分の定位置であるとばかりにマーハの斜め後ろにいたがるヴァン・グゥエットは、飛天像を真っ二つに割った自身の短刀を拾い上げた。サランとマーハ、二人には背を向けていたのでその表情は見えない。でもきっといつものように、彫像のような表情でいたはずである。


「世界と人類を救うのがワルキューレ。ワルキューレでありながらワルキューレを愚弄し続けるのはキタノカタの娘。ならば世界と人類を優先するべき」


 背をむけたまま放たれる言葉は、いつものように判じ物めいてわかりづらかったためである。それでいて声がいつもより低く、固く強張っていることにサランは気づいた。何を言わんとしているのかは雰囲気でしか分からなかったが、麗しい上級生は依然としてキタノカタマコ個人にかなり腹を立てている。それだけはよくわかった。


 そして彼女が下した決断が、マーハの表情を曇らせていることも。


 ひと夏と少し、ともに過ごした経験からサランはただならぬものを察知する。

 大体、決定した事象をひっくり返すという半ば反則じみた能力がタダで使えるわけがない。ここぞという時、大きな代償とともに引き換えに行使する切り札的な能力であることはワルキューレ候補生になって三年目のサランにだってわかる。少なくとも、舞台上でもその外でも互いに単独で行動していた時ですら、常によりそっているように感じられたマーハとヴァン・グゥエットの間には今無理をして引き裂いたような隙間がある。


 不意にマーハがキュッとやさしくサランを抱きしめた。辛さをこらえる為に、人形をだくようなそんな抱き方だ。

 いつも柔らかで優雅で茶目っ気が旺盛で、ときどき艶めいたふるまいに出て、声を荒げることなく出過ぎた振舞にでる下級生をたしなめることのできるお嬢様が、当たり前の少女のように悲しみをこらえるようなそのしぐさがサランを戸惑わせたのだ。ふれあった箇所を通じてそれが伝わったのだろう。マーハはサランの顔を覗くと悲し気に苦笑し、もう一度サランの肩を抱く。


「……ごめんなさい、子ねずみさん。しばらくこうさせて頂戴。でないと私、自分が不甲斐なくてどうにかなってしまいそうなの」

「それは……かまいませんけども」


 サランが知る限り誰に対しても柔和な態度を崩したことのないマーハが、自己嫌悪めいたものを口にしている。その意外さにサランはさらに困惑するしかなかった。ほんの少し間が空く。


 ちょうどその時はミカワカグラが2010年代末期の世界から博物館に帰還したばかりだった。パトリシアが自分の開発したシステムの稼働実験に付き合ってほしいと申し込まれて歯切れ悪く返事を渋る、そのやり取りが戸惑うサランの耳にも聞こえてきた(情報のやりとりを始めようとしたとたん、パトリシアが割り込んで妙な提案をしてきたのである)。ジュリもツチカのことが気になってたまらないらしく、カグラに質問を浴びせかけていた。


 マーハはサランの肩に自身の額をあてる。ジャスミンとスパイスを混ぜたようないつもの芳香に加え、緋色のサリーの柔らかな肌触りがサランを不安にさせた。カグラのように他人の心の声を聞けないサランではあるが、目には見えない傷の痛みに耐えている様子は抱きしめられる力から察することができた。

 

 世界の尾根とも称される山脈のふもとで物心つく時から女神として敬われてきた為に、生きていく上での苦しみに苛まれる一般衆生の辛さを救うことはどういうことなのかを今活動しているワルキューレ候補生の中では最も熟知している。そんなマーハが、無力さに耐えられないとばかりにサランの薄い肩を抱いている。


 小間使いの「子ねずみさん」として自分はどのように勤めを果たすべきだろうか。

 今までの感謝の意味も込めて集中して考える為、サランは目をとじた。――そしてすぐ、ふわりとマーハが纏っているのとは別の芳香が鼻孔をくすぐることに気付く。陶酔しそうになるロータスの香だというのに、それを嗅いだ途端、今までの条件反射でサランの全身は強張った。悠長に目など閉じている場合ではないので素早く瞼を開いて上を見上げた。


 案の定、サランを抱きしめるマーハの斜め後ろ、そしてサランの視線の先にヴァン・グゥエットが立っている。いつものようにアーモンドアイで、サランを無言でじっと見降ろす。睥睨、と言ってもよいような言外の圧を込めに込めた眼差しだった。


 退け。と、とっておきの切り札をきったばかりの上級生はサランに命じている。それは完全にいつも通りの態度であったが、普段より無言の力は強かった。

 ひい、とサランはすくみあがる。おかげで口から普段の子ねずみさんらしい、ひっくりかえったようなコミカルな声が口から勝手にこぼれ出た。


「お、おじょうさま……っ、その、ホァン先輩がおそばに居らっしゃいますので……っ!」


 サランに最後まで台詞を言わせず、珍しく強引にヴァン・グゥエットはマーハの手を掴み自分の傍へ引き寄せた。柔らかでよい匂いのする先輩の感触が体から離れてほっとするのもつかの間。

 舞台上でマーハと男女の恋人を演じるのに最適な身長をしたアイボリーの肌の上級生は、パートナーの頬にそっと両手の指を添える。何もかもを受け入れるようにマーハは慎ましく目をとじた。瞼のようにはとじ切らなかったその唇に、ヴァン・グゥエットは自身のものを重ね合わせる。


 ――中秋の名月の数日前、泰山木マグノリアハイツのドアの陰で見せたような濡れた口づけではなく、数秒にも満たない淡いふれあいだった。それでもヴァン・グゥエットはマーハの両瞼にスタンプのような優しい口づけを施す。それを受けたマーハが長いまつ毛に縁どられたそれを持ち上げながら、唇に笑みをうかべた。

 それを受けても、ヴァン・グゥエットの表情はいつものように硬質さを失わない。指先だけが感情表現のできる唯一の器官であるとばかりに、パートナーの前髪を整えながら瞳から目を離さずに呟いた。わずかな光源しかないあの暗闇の中で、マーハの瞳はいつも以上にきらめいていた。


「涙封じのまじない」


 こんな時だというのに、平素の判じ物めいた言葉を口にする。泣かないで、の意味だろうとサランは察した。マーハも同じように理解したらしく、指先で目じりを拭って微笑んだ。


「……そうね、これからもう一仕事あるんだもの」


 ヴァン・グゥエットは無言でうなずく。サランにもそうだがパートナーであるはずのマーハに対してさえ、母語で話しかけるのを頑なに禁じている節がみられるこのややこしい上級生は、マーハの瞳を見つめながらいつもの口調を崩さずに伝える。


「我儘を許してくれて感謝」

「――本当にそう。ヴァンったら頑ななんだから。私はずっと舞台の外でもあなたと自由におしゃべりを楽しみたかったのよ? 昔みたいに」


 二人の間でしか通じない符丁を用いてマーハは珍しく拗ねる口ぶりでパートナーを軽く責める。少し間を置いたのち、ヴァン・グゥエットはマーハの左手をとる。


「いずれ可能になる。だから自分は後悔などしていない。一つを除いて」


  爪の先まで手入れが施されたマーハの左手を、ヴァン・グゥエットは両手で包み軽く目を伏せる。それだけで端正な横顔が憂いに沈んだ。

 それを見たマーハは、いつものように優しく華やかに微笑んだ。自分の右手をパートナーの手に重ねる。ミルクを入れた紅茶のような色味の肌と磨かれた象牙の色合いの肌が、溶け合うことこそなくとも強くつながりあう。

 マーハは無言で首を左右に振ったあと、手を放した。サランにもよく見せたお茶目なお嬢様の表情で唇の前に人差し指をたてた。そうしてパートナーに何かを口にすることを伏せさせる。それを見たヴァン・グゥエットの表情にも微かな変化があった。小さなため息をこぼした後、唇の両端がほんの少しだけ上向いていた。笑っているのだ。それも苦笑だ。マーハのふるまいを見て、お嬢様のたわいもない悪戯の計画を聞かされた従者のように、やれやれ、とでも言いたげに。

 

 それですべてが済んだのか、二人の両手は離れた。


 二人でしか分からない符丁を用いた手短なやり取りの後、ヴァン・グゥエットは再び表情を硬く引き締めたのちにくるりと背を向け、自分の短刀が突き刺さっていた回廊のつきあたりへ戻る。

 マーハはというと、とりあえず一部始終を傍観していたサランの前まで戻り、何事もなかったようににっこり微笑んだ。サランの肩を抱いた時にみせた辛さはもう影も形もない。


「先ほどはごめんなさい、子ねずみさん。私はもう大丈夫よ、心配をかけてしまったわね」

「いえいえそんな、何を仰いますやらお嬢様。心の痛みを取ってくださる方がおそばにいるのならそれが一番ですよう」


 飲みこみの早い子ねずみさんとしては、余計なことは口にせずマーハが好むようにヒヒ~と笑って見せた。行儀作法が身についていない粗忽な小間使いらしく。

 

 だから、二人の会話が何を意味するものなのか、気になったことを尋ねるのは控えた。まるで別れのやりとりのようだという不安な思いは押し殺した。――その時はそうするしかなかったのだ。

 本当に別れのやり取りだったのだと気づいた時は、薙刀の刃を投げつけられて斬られて血を流す、ヴァン・グゥエットの右頬を目の当たりにした瞬間である。

 


「ホァン先輩、秋公演にも出演が決まってて、そのチケットが発売と同時にプラチナになるくらい人気がある人で……、うちの叔母さんもいつのまにかファンになってたくらいで……」


 まだ動揺が収まらないサランが細切れに話す内容を、ミユは真剣な目で見つめながら頷く。そして、チラシを切ってクリップでまとめたメモ帳に要点をさらさらと書き込んだ。


 部活動とはいえ舞台に立つ少女の顔に傷がついたという報せを耳にして同情を誘われたものの、安易な言葉を口にするのは控えているのだろうか。ミユの姿勢からサランはそう判断した。


 そして、ミユが淹れてくれた番茶をすすり、気を落ち着かせようと試みる。

 まだ、右ほほをべったりと血で濡らしたヴァン・グゥエットの光景がまぶたに焼き付いてしまっている。先輩の背後から投げつけられた薙刀の刃によって生じた傷の深さは、単なる切り傷や引っかき傷として処理するのは難しいものだった筈だ。


 正座した膝の上で両こぶしを握り締めるサランが俯き、無言になる。胸に去来する感情のせいで何も言葉が口にできなくなるサランの事情を汲んだのか、ミユが柔らかな声で問うた。


「つまり鮫島さんは、演劇部のお姉さまがとっておきの切り札を行使したその代償としてお顔に傷がついてしまったのだと、そう考えているわけね?」


 無言でサランは頷いた。やはりミユは何も語らない。さらさらと生活感あふれるメモ用紙に何かを書きつけるだけである。


 もしかしたら、ジュリの目にお化粧を施したような腕のいい医者の手にかかれば、ヴァン・グゥエットの頬を切り裂いた傷を跡形もなく治すのは可能なのかもしれない。でも、それだって数日で治すというわけにはいかないだろう。シャー・ユイが夏から楽しみにしていた演劇部の秋公演は目の前に迫っている。前世紀初頭の東京を舞台に、悲運の女性芸術家を敬愛するモダンな青年として舞台に立つまでに、あの傷を治すことは可能なのかどうか。知識のないサランには不安しかない。

 そもそも、反則じみた能力を行使するのと引き換えにつけられた傷なのだ。通常の整形医療で治せるものなのかどうか――。


 別れを惜しむ演劇部のトップスター二人のやりとりを思い出し、サランはこぶしに力を込める。


 キタノカタマコの野望を止めるためには月蝕を起こすことも辞さない、例えどんな代償を支払うことになろうとも。それがヴァン・グゥエットの意志だった。

 マーハは、本当はパートナーにそこまではさせたくなかった。しかし、マコの目的を阻止するためのお茶会はあの結果に終わった。だからこそマーハはあの時、サランの肩を抱いて自分が不甲斐ないと己を責めながら弱い心を曝け出した。

 そんなマーハを慰めるために、ヴァン・グゥエットは口にした。これは自分の我儘だから気に病まないで欲しいと伝えるために唇をそっと重ねた。

 この時にはすでに、演劇部の一員として舞台に穴をあけるかもしれない覚悟をしていたのだろう。ヴァン・グゥエットはだから「一つを除いて後悔してはいない」といった趣旨のことを口にしたのだろう。


 自分の目の前で交わされたやり取りを、サランは頭の中で整える。そして続けて考える。

 かつて、リングを交換する相手は生涯にマーハ一人だけでいいとヴァン・グゥエットは口にしていた。そしてマーハから「子ねずみさん」として遊ばれるサランを見るときは常にやたら圧の強い視線を向けていた。それほどまでに熱烈に慕っている相手から、自ら距離をとろうとしていた。

 今にして思えば、それはまるで別離の痛みに慣れるためのふるまいだったのでは――? 切り裂かれた右頬を見た後では、どうしてもサランはそのように考えずにはいられない。


 チケットが即完売するような舞台が出演者の負傷により全公演キャンセルになるという事態が発生すれば、混乱は避けられない。まして、負傷したのが世界規模にファンの多い男役の少女だと知れわたったときのファンの悲しみと混乱はいかばかりか。それにツアーがキャンセルになるような事態にでもなった際の保障や補填など、現実的な問題は対処できるのか――。

 ワルキューレであるのだから部活動より、この世界と人類の平和と安全を優先するのが本文である。あなたは間違った判断を下したのだと見当違いな責め方をするようなものはきっと演劇部にはいないだろう。公演を楽しみにしていたファン層だって心あるものならヴァン・グゥエットを批判したりはしないはずだ。

 そういった周囲の対応を受け入れられるか受け入れられないか。それは個人の気質や裁量にかかってくる。


 ヴァン・グゥエットは本来、その筋では相当有名な黒社会に所属する人間である。どれだけ浄化を行っても、芸能界と黒社会の癒着の根絶は今なお難しい。演劇部の活動が今以上に目立つようになれば、面白半分にヴァン・グゥエットの素性を明らかにする外部メディアが現れだす可能性はぐっと高くなる。


 そうなる前に、いい潮時だ。


 かつてリリイが評したように、不愛想なくせに案外義理堅くて人情家な一面もあるあのヴァン・グゥエットならそう考える線もあるのでは? サランの頭の中ではそんなストーリーが組み上がる。


 暗闇に閉ざされた、あの月蝕の時間。

 リングを交換した二人が共に過ごせる最後の時間だと、あの二人だけは覚悟していたのではないだろうか――。



「鮫島さん? どうかしたの、ボーっとして……」


 つい物思いにとらわれた上、締め付けられるような胸の苦しみに襲われてうつむいてしまうサランへミユが声をかける。お陰で現実に戻ることができたが、不思議そうに自分をきょとんと見つめるミユの眼差しに羞恥心を覚えて、ヒヒ~とサランは笑ってごまかした。ちょうど演劇部のスター二人がお互いの間だけに通じるやり取りを交わしている内容を尋ねたいのを、我慢しているときのように。


「な、なんでもないですっ。すみません、続きっ、続きですよねっ」


 下手に胡麻化しながらサランは、マーハが博物館を去るまでのことを話始めた。



「――、こちらにいらっしゃい」


 サランのヒヒヒ笑いからその思いを汲んだように、マーハはきらめく黒い瞳でサランを見つめる。サランの同級生にもやたらと目から放たれる輝きが強い二人がいるが、それとは種類の違う優しい眼差しだった。そしていつものようにふわりと優雅にサランを招く。

 

 小間使いをやっていた習性から、疑わずにサランはとてとてとお嬢様役である上級生の前に出る。ヒヒヒ笑いの顔で命令に応じるサランの前で身をかがめると、マーハは微かに濡れたものを額に軽く押し当てた。


 そこにキスされたのだとすぐに気づけたのは、以前にも同じことをされたためである。タイガとわりない仲になってしまったことをリリイに激しく批判され、あやうく殺されそうになった時をヴァン・グゥエットにみつあみをきられたことをマーハに語った日のことだ。


 さっきまでパートナーと短くも濃密なやり取りをしていたのに何を――! という思いに駆られて、焦ったサランは上目遣いでマーハに抗議した。こういう振舞は、レンブラント光線さしこむ泰山木マグノリアハイツの書斎圏書庫ではおなじみだったが、場所とタイミングを考えてほしい(どこかから言外の圧をこめた視線が刺さるようであったし)。

 そんな抗議をこめたつもりで頬も膨らませたけれど、マーハはその時にはすでに、ここに来た時と同じ巨大な手のひらの上に乗りこんでいた。暗闇の外からにゅっと差し込まれた、じゃらじゃらとした腕輪や指輪で飾りたてられたマーハの眷属のものらしい神霊の腕だ。

 目をぱちくりさせるサランに、マーハは普段と変わらない茶目っ気のあるお嬢様の微笑みを向ける。


「それは私とヴァンからの祝福です。あなたにはもうひと頑張りしてもらわないといけないと星が告げているようですから」

「え、ええとっ、ジンノヒョウエ先輩っ、どこへ……!?」


 お嬢様と小間使いごっこを打ち切って、サランは自身の眷属に持ち上げられてゆくマーハを目で追った。もうひと頑張りの内容についても訊きたかったのに、艶めいた戯れ事が嫌いではない優美な上級生はこの場を去ってゆく。


「あら、サメジマさんたらもうお忘れなの? 私はどうしても沙唯先生たちが作ったご本が欲しいのに。そのためにはこの学校が、世界が、この世界にお住まいの皆様が平和と安寧の中で憂いなく過ごせるようにならないと」


 そうじゃなくて? と上昇しながら茶目っ気十分にマーハはサランへ語りかけた。


「そのためには共に頑張りましょう、お互いに。ね?」

 

 Namaḥ samanta-buddhānāṃ, a vi ra hūṃ khaṃ と、サランへ何かの加護を施すように真言マントラを送ったマーハはそのまま月蝕の外へと出ていった。額に唇の感触を意識してしまうサランは、風のように去ってゆく上級生を唖然として見上げる他なかったのである、その時は。



 

「で、今、甚兵衛家のマーハお嬢様はこうしてゴシップガールの配信番組に出ている、と――」

「はい、まぁ。そういうことになっちまいます」


 ―─まさか、月蝕に閉ざされた博物館ミュージアムを立ち去ったあとにしたことが、このけたたましい生配信番組に出ることだったとは──。

 

 単身、九十九市にやってきて以降事態がどのように進んでいるのか読めないサランは、ただただ困惑混じりにため息をつくしかない。

 とはいえミユは何事かを納得しているようで、自分が書き留めたメモに目を通しつつ、ふんふんとうなずく。そして、ちらりとテレビを見やった。視線の先のブラウン管は、レネー・マーセルとナタリアの空中戦を観戦し、レディハンマーヘッドのおしゃべりにクスクスと上品に笑っている様子のマーハをワイプで抜いている。それを見ているミユの表情がしだいにほんのりと乙女らしく上気してゆくのに気付かないわけにはいかなかった。


「本当に、素敵ねぇ……。この局も演劇部さんの放映権を買うくらいのことをしてくれれば甚兵衛さんの公演を私たちだって楽しめるようになるのに……」

「あーっと、演劇部さんは映像管理には結構厳しいんですよう。海賊盤対策もうちらより全然厳しいし……」


 ついついシャー・ユイ受け売りの演劇部ビジネス情報の一端を明かしながらも、サランは年下の少女に対して憧れのお姉さまを見つめる目になっているミユに対して不安を覚えた。そういえば普段は頼りになるこのOGは沙唯先生の小説のファンだという一面もある人なんだった、と、そんなことを今更のように思い出す。

 自分はひょっとして見せてはいけないものを見せてしまったのでは……、という思いにかられるサランの前で、ミユは唐突にぶつぶつと呟きだした。


「ねえ鮫島さん? 私はね、あまり先輩風を吹かすようなことはしたくないんだけど、やっぱり太平洋校文芸部の本道は文芸にあるべきで例え、読者の皆様にご好評いただいているからといってもゴシップを提供することではないと思うの。せっかく沙唯先生のような大器もいらっしゃるのよ? そろそろ本来のカラーに戻ってもいい頃合いなんじゃないかしら? それにね、『ヴァルハラ通信』は私たちのように外の世界になかなかアクセスできないような人間があなたたち候補生の日常や活動を知る貴重な縁でもあるんですからね。それなのに私たちの代から仲良くしていただいている演劇部さんの情報よりもあんなリアリティーショーじみたゴシップに紙編を割くなんて、やっぱりそれはどうかしら〜って思っちゃうのよ……。ごめんなさい、戦地に赴く兵隊さんたちに他愛ないゴシップを通じて守るべき郷土に残した愛する人々や日常を思う縁にしていただきたいという、あなたたちが考えた末に決定した方針を批判したいわけじゃないのよ? でもね、せっかくのカラーページもね、ああいう……なんていうのかしら、ええと、その、えっちなイラストじゃなくて、演劇部さんたちのピンナップでもいいんじゃないかし……」

「せ、先輩っ? 大丈夫ですかっ、ねえちょっとっ……!」


 何のスイッチの作用なのか、乙女と呼ぶにはやや残念な文化部棟気質をフルオープンにしだしたミユの前で、サランは手のひらを振ってみせた。流石に尉官クラスのプロなだけあって、夢見心地な乙女になってしまった瞳もすぐさま現実に帰還する。

 はっと息を呑み素早く瞬きをした後、ミユは決まり悪そうに頬を少し赤く染めて湯飲みの番茶を一口すする。


「や、やだっ。一人で過ごす時間が長いと独り言が増えちゃって……。今のは忘れてっ! ね? ねねっ?」

「――まあ、そろそろシモクの居所を教えてくだされば全然かまわないんですけど――」

「ともかく、甚兵衛さんと黄さんは北ノ方のお嬢様の目的を阻止することで一致、黄さんの能力のおかげで北ノ方家と撞木家を中心とした歴史改変を食い止めるのはまだ可能。そういう状態なわけね」


 後輩にあまり晒したくない一面の印象を上書きするためか、ミユは必要以上にきりりとした口調で分析めいたものを口にする。サランとしては一言二言ツッコ見たい気持ちが無いではなかったが、どんな状況でもミユは頼りになるOGには違いが無いのである。感熱紙にプリントされた託宣も読み比べる。

 

「甚兵衛のお嬢様も本部の巫女様と同じ未来を見ているのなら、S.A.W.シリーズの六つを強奪した北ノ方のお嬢様は並行世界からこちらに必ず向かう――と」

「そうですってば、最後の昂星プレアデスの長女を追っかけて狩人オリオンがやってくるんですからぁっ」

「そうね。――急いで態勢を整えないとこの街だって危ない。まずあなたを撞木さんのところに――」


 口から唾を飛ばす勢いでサランは叫んだ。ミユも、事前にキタノカタマコに関する情報は本部より耳にしていたのか、さっきまで弛緩させていた表情をきりっとひきしめて立ち上がる。つけっぱなしのテレビを消すために、リモコンを向けた。サランもぴょんと跳ねるように立ち上がり、ミユがテレビを消すのを見つめた。

 

 番組のノリにあわせたのか、マーハが両掌をぱっと広げて「どかーん」なる擬音を口にするという、常時よりもお茶目な振舞に出ていたが、プツンというような音をたてて画面は消えた。一体マーハが何をしていたのか一瞬だけ強く気になるサランではあったけれど、ミユは襖をあけて廊下に出てキビキビと動き出すのである。


「ついてきて、鮫島さん」


 そう言って、とんとんリズミカルに足音をたてながら二回へと続く階段を上る。二階はミユの寝室があるので普段は立ち入りが禁じられているエリアだ。サランは緊張をごまかすために、お邪魔します、と呟いてミユの後に続き、お茶の間をあとにした。



 ◇ゴシップガール復活SP 01:10:48◇



 何千何万の視聴者が、まるで本物の女神を前にしたような戸惑いと衝撃に襲われていたその間合いで、自由にふるまえたのは拡張現実上にしか存在できないCGの少女しかやはりいなかった。


『んっん~? 何々なぁに~、マー様ってば急にマジっぽい空気出してきて。なんか今日明日にでも地球が滅んじゃいそうで怖いんですけどー?』


 マーハの肩に座ってみせたレディハンマーヘッドだが、十七歳の少女とはおもえないオーラを発した少女はその程度のことで微動だにしない。

 ただひと呼吸おいて、超然とした雰囲気尾を自ら拭うように、普段のマーハがときどき見せる茶目っ気ののぞく笑みをうかべて見せる。今のは冗談ですよ、と、自ら台無しにしそうな悪戯めいた顔つきになってみせる。

 しかしマーハは無言である。神々しさとともに発した常ならぬ発言を取り消すようなことは口にしない。


 その間が効果的に不安を演出する。

 いつまでたっても冗談であると白状しないマーハにしびれをきらしたように、コメント欄に様々な言葉が書き込まれてゆく。――え、今の何? マジ? やっぱあの顔やべえの? ……等々。


 徐々に募る視聴者の不安を代弁するつもりなのか、それともただ単純に狂騒をひたすら煽りたかっただけなのか、レディハンマーヘッドはわざとらしくぱちぱちと瞬きを繰り返させた。


『えーと、マー様? 今のお願いって何? なんかヤバ気だったけど……?』


 言葉で返さず、じらすようにマーハは小首を傾げた。これが返答である、ということらしい。簡易の人工知能で動いているはずのCG少女は、おおげさに目をぱちくりさせて煽る様に確認した。


『え、マジ? 本気でヤバいんすか、地球?』

『いいえ。皆さまの応援がありさえすれば大丈夫』


 やっと沈黙を破ってマーハは答えた。お嬢様のお戯れを連想させる、明るくお茶目な口調で告げた。

 それに合わせたレディハンマーヘッドは、ケラケラと笑いながら言葉を重ねた。


『あはは、やっだーもう! マー様ってば罪もない人間をびびらせるのがお上手なんだからもー! ……ちなみに、皆さまの応援がなければどうなっちゃうんですー? 地球がドカーンってなっちゃいます~?』


 マーハはそのあおりに無言で答えた。わざとらしいまでにコミカルな笑みのみで。

 またも無言になるかつて女神だった少女を前に、レディハンマーヘッドは初めて真顔になる。


『……え? 本当の本当に、なっちゃうんですか? 地球が、ドカーンって。マジ?』


 一拍の間をおき、マーハはお茶目さを崩さない表情で悪びれもせず告げた。


『ですので、こうしてお願いに参りました。この番組をご覧の皆さま、どうか私たちに力を少々お貸しくださいませ。この世界がどかーんと粉みじんになるのを防ぐために』


 どかーん、という声に合わせて両手をぱっと広げてみせるマーハの仕草は、浮世離れした彼女の肩書きからはかけ離れた親しみやすさにあふれていた。ついついクスっと笑ってしまいそうになる、そんな等身大の少女らしさを演出させる。


 しかし、番組を視聴していた人類のなかでついつい微笑んでしまったものはごくわずかだった。

 何千何万もの視聴者は、夜空に浮かぶ巨大な顔を見上げ、澄んだ少女の声を反芻していたのである。


 ――この世界がどかーんと粉みじん。


 このままいくとこの世界は破滅すると告げられた一般人類の背中に冷たいものが伝い落ちた。



 ◇◆◇


 

 昭和四十年から五十年代に建てられた趣のある、店舗一体型木造住居の二階。いかにも昭和なしつらえの建具で統一された一階とはことなり平成末期の少女が好みそうな洋風ドアを開いてミユが先に部屋の中に入る。

 案内されるままにそれに続くサランは、自分たち二人を含む九十九市の住人(およびそれに準じる特殊戦闘地域の人々)を除く全世界の人々が、背中に冷や汗を垂らしてすでに15分経過していることにまだ気が付いていなかった。

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