#53 ゴシップガールは箱に入った猫を見ない

 ◇ゴシップガール復活SP 00:57:02◇


『――っ、はーい。というわけでぇ、なーんかお空に見えちゃってる気がするけど、こういう時こそ「おさない・かけない・しゃべらない」! 避難指示やなんかがでるまで皆さんおかしの法則を思い出して落ち着いて行動しようね! 環太平洋圏にお住いの人類のみなさま、レディーハンマーヘッドのお約束だよっ』


 太平洋校の時計がそろそろ夜の八時になろうかという頃、環太平洋圏に住まう人々のほとんどは、窓から、モニターから、屋外から、様々な場所で虹色に輝く空の一か所を見ていた。

 場所によっては空の片隅が虹色に輝くだけであったり、痩せゆく月よりもくっきり姿を現していたり、その形は様々だが空に異変が起きていることは一般の人々でも確かめるのは容易だった。

 太平洋の上空に見たこともない侵略者が姿を現した胸は、瞬く間に地球の裏側でも拡散される。あれはなんだ――⁉ と、世界中を騒然とし、各メディアにニュースサイトがこの異変を取り上げだす中、このチャンネルだけは平常運転を続けていた。

 メジロリリイの自分のファースト写真集とファンクラブメンバー募集の生CMから映像は切り替わり、海底を模した仮想空間上のセットの中央に陣取るシュモクザメを擬人化したCGの少女は、この緊急時にそれまでとなんらかわらないけたたましい口調でおしゃべりを再開する。


『なにかしら情報入り次第、随時おしらせするのでチャンネルはどうぞこのままね』

『なーに言ってるんですっ! この期に及んでこの番組を続ける気なんですかっ⁉ そんな場合じゃないと誰でも見ればわかるでしょうっ!』


 ぬっとCG少女の傍にぬっと姿を現してまくしたてたのはアメリアだ。

 急なアドリブに対応できずパニックを起こした結果CMに振るという、我ながら意味の分からないことをしたという恥ずかしさから顔が真っ赤だが、こういう時でも学内の統一を台無しにする恐れのある者を排除するという意志があるということはそれなりに立派と言えた。ぱんぱん、と両手を叩いて解散を促す。


『はい、バカ騒ぎはこれでおしまいっ! 学校から指示が出るまで私たちは待機ですよ、待機ッ』

『ええ~、何それさっきも言いましたけど都合のいい時だけこっちを利用しておい……』

、私はっ! いつまでもそうやって校則法律条例ワルキューレ憲章を蔑ろにするような振舞に及ぶのならこちらもそれなりの対応にでますから――っ⁉』

『あ、ちょっと待って待って。今、フォックス先輩あてにメッセージ届いたってリリイちゃんが。――つーわけで、ほら、リリイちゃ~ん』


 話はまだ終わってません――! と叫ぶアメリアを無残にその場に置き去りにして、画面は切り替わり、珊瑚を模した椅子にちょんと腰を下ろしたリリイを映しだす。何かとてもいいことがあったことを匂わせるようにニコニコと微笑む新人アイドルワルキューレが手に持つのは、手紙の詰まったガラス瓶だ。コルク栓をきゅぽんと引き抜くと、その手にメッセージをしたためた紙が現れた。

 古ぼけた紙を模したようなメッセージツールを開き、リリイは神妙な顔をつくりつつ、甘い声で文面を読み上げる。


『じゃあよみますねぇ~。……えーっとぉ、ハンドルネームMeganeuraさんからのお便りです《前略 レディハンマーヘッド殿及び太平洋校に所属するワルキューレの皆様方、小生はMeganeuraと仮称する若輩者であり、且つ安全な視力回復術式の一般化により今世紀中ごろには惜しまれつつもこの地より姿を消してしまった眼鏡を愛する者にて候。先ほど貴女らの番組を何気なく視聴していたおり、以前その御姿を一目見た時より小生の胸に消せぬ火を灯した麗しきワルキューレ、アメリア・フォックス嬢の姿を認め候。フォックス嬢のご活躍はなかなか伝え聞かぬ由、小生の運営するフォックス嬢私設ファンサイトにて当番組を宣伝致し候。現在、我らがフォックス嬢の実直でひたむきな人柄からにじみ出る知性に魅せられし四千の兵がフォックス嬢のお言葉を待ち詫び申し上げ候≫』


 奇怪な文体の手紙を一度もつまることなくすらすらと読み上げ、視聴者層に「このアイドルはただ可愛いだけじゃなく意外と知性があるようだぞ」というイメージもぬかりなく植え付けているその最中でも、画面の外からは、アメリアの悲鳴が響き渡った。カメラが、さっと動き怯えた表情でリリイのいる方向を指さす高等部生徒会長の姿を映しだす。


『いやぁぁぁぁぁ~、出たぁぁぁ~! この人よこの人、私の部屋にファン有志からのプレゼントですって言って箱一杯のメガネ送り付けてきたの~!』


 会長ダメですよ、仮にもファンの方々をそんな風に言っちゃあ! そうですよっ、いくらなんでも失礼ですよっ! ……と、生徒会メンバーたちが画面の外でアメリアを窘める声も、現在カメラを回している者が適切に拾いあげた後、さっとカメラを移して再度リリイに戻した。

 その間をしっかり待っていたリリイは、抜群の呼吸で何事もなかったように手紙の続きを読み上げる。


『≪つきましては、一つ我らが願望をフォックス嬢に叶えて頂きたく筆を取った次第にて御座候。どうか何卒、眼鏡をつけた姿にモニター越しの我々にお声をかけて頂きたく候。甚だ厚かましい願いにてさぞご困惑呼び起こし候えども、もはやこの世は一刻の猶予もならぬかのような様相を呈している折、戦う術を持たぬ人の子を哀れと思召すならばどうか聞き届けて頂きたく因って伏して請い願い給うが如也。敬具≫ ――はいっ、Meganeuraさん、どうもありがとうございまぁす。皆さんもぉ、太平洋校所属のワルキューレに質問やリクエストなどございましたらお気軽にメッセージをお寄せくださいね。待ってまぁす』

『つうわけで何? 手紙の内容は結局どういうことなわけ、リリイちゃん?』

『ん~、よくわかんないけど一度でいいからアメリア先輩にメガネかけて欲しいってことじゃないのかなぁ~?』

『ふーん、それくらいのお願いなら叶えてあげてもいいんじゃ――……あ』


 カメラはさっと動き、荒れたお茶会会場をさっと駆けだして逃げゆくアメリアと、逃げちゃダメですってばぁ会長~、ファンの声を無碍にしちゃいけませんよぉ……! などと呼びかけながら追いかけてゆく高等部生徒会メンバーの後ろ姿を映し出す。



 ◇◆◇



「――、デカっ!」

「ああ、デカいな」

「ていうかなんだあれっ、デカすぎてひたすらキモいようっ!」

「確かにあれだけ大きい人面が空にあるのはただただ不気味だ」


 太平洋上空、空を破って真下を見下ろすヘレニズム様式の仏像めいた巨大な顔面を見上げ、サランは隣のジュリの肩をガクガク揺さぶる。

 伊達メガネの上からジュリがかざした手のひらと、ほぼ同じ大きさの巨大さだ。虹色に輝く空に浮かぶ積雲を手掛かりに顔面が現れた高度をざっと計測する。太陽がないので灰色の綿埃のように見えてしまう小さな雲はあの顔面より下に浮かんでいる。ということはあれのある位置は大気層のかなり上層ということになる。


 それでいてあの大きさ――。

 全身に鳥肌を立てるサランの隣でジュリも機敏に体を起こした。そして左手を振り、学園島周囲の波の高さや地殻変動の有無を素早く確認する。それを見て少し安心したようにほっと息をつく。


「あれほどの大きさで実体がもしあれば、重力変動が起きそうなものだが今のところそれはない。潮の満ち引きも安定、各プレートに目立った反応もない。つまりあれは虚像だな。――神霊型か?」

「実体があろうが無かろうが、気色悪いもんは気色悪いようっ!」


 叫んでサランはジュリの体を掴んでさらにガクガクゆさぶった。

 生理的に受け付けないアルカイックスマイルの巨大な顔面に見下ろされても冷静に対処する親友の態度がちょっと許せなかっのだ。


「大体ほら見ろ、すでに環太平洋圏一帯で十分パニックが起きてるぞうっ!」


 つけっぱなしになっているゴシップガールのゲリラ生配信中、アメリアとCG少女がギャーギャー戯れている画面の一番下に視聴者からのコメントが流れ続けている。なんだあの顔、侵略者か、こんな番組放送している場合か、早く退治しろ云々――。

 そりゃそうだろう、太平洋を囲む一帯で天変地異の前触れか世界の終わりを予期するものが現れた時に冷静になれるものはそうはいまい。小憎らしいのは、サランの隣にいるのは冷静になれるごく少数の人間らしいことだが。

 ジュリは表情こそ眉をしかめて随分気色悪そうにしているものの、呟くセリフは此の期に及んでこのようなものだった。


「確かにあんなものが空にいては気が気じゃないな。いつ実体化するかも分からなくて危険だ」

「それ以前に生理的に無理だってば! あんなもんが空にあって日常生活送れるほど人類の神経は図太くないようっ」


 今のところ空に浮かぶ顔面は何もしない。ただ、ぬっと見下ろしているだけだ。

 いや、見下ろすという表現は正確ではない。

 空に浮かぶ巨大な顔面は固く瞼を閉じているのだ。よってその目は何も見ていない。だから空を割ったあの巨大な顔面は何を見る為に空を引きちぎったの、その意図がまるでわからない。


 地上を攻撃するつもりなのか。

 人類を面白半分に捻りつぶすためか。

 戯れに大都市群を破壊するためか。


 目的が全く読めないその顔に全身を総毛立たせながらも、サランはそれから視線を離せなくなっている。目を放したら最後、あの空を破った手がこちら向けて伸ばされそうでどうにも恐ろしくて仕方ない。見つめることで恐怖を抑え込んでいたのだ。

 その間にジュリが左手を振って、メッセージボックスを開き教職員からの連絡事項を素早くチェックしていた。工廠の爆発事故の現況、ワルキューレたちへの待機命令、外部ネットワークとの接続を禁止した通達、博物館の事故が起きたという報告、そして未知なる侵略者の出現に関する緊急警報――。

 今日一日で立て続けに出されたお知らせがいくつも表示される。そう言えば校舎の方がまた騒がしい。生徒たちに呼びかける声がこちらまで聞こえてくる。


 左手を振ったジュリはメッセージボックスを引っ込め、全生徒連絡用の掲示板を表示させる。が、そちらも待機せよという命令のみが通達されたくらいでめぼしい情報はまだない。教職員も侵略者の見極めに往生しているのか、それともこれだけの異変が起きたお陰でついに国連が動くといった通達でもあり、その指示待ちか――?


「どうなさったんで、御両人?」


 ただただ空を眺めていたサランは、その不躾な声がした方をさっと振り仰ぐ。

 どこかぬめつくような笑いをはらんだその問いかけは、予想した通り食うに食えないあの上級生が発したものだった。


「夜の博物館ミュージアムで密会たァ、さすが詩情を解する文芸部さんだ。場の選び方一つとっても随分粋でいらっしゃる。お休み中のところナンではございますがよござんすかねェ、取材させていただいても?」

「――ゲルラ先輩……」


 博物館ミュージアムの天井の縁に腰を下ろしゆうゆうと足を組み、ニタァっと笑いながらこちらを見下ろしているのはパトリシア・ニルダ・ゲルラだった。サーチライトの照り返しが、ダメージを負っていない顔の半分を浮かび上がらせる。

 ゴシップの取り扱いに関しては経験値の高い上級生に何度か煮え湯を飲まされたことのあるジュリがむっとした表情を見せたので、サランが自然と交渉役を買って出た。

 

「先輩こそなんでここにいるんですか?」

「なァに、うちのメジロが可愛がってる一年坊主が撮影したの出来があまりに酷くて見てられなくなっただけのことでさァ」


 ニタっと笑ってパトリシアは、右手を持ち上げる。その手には小型の動画撮影用カメラがあった。

 空中で翼竜型侵略者を次々と追撃してゆくナタリアを捉えた映像の見事さを思いだし、合点がいった為にしみじみと頷く。


「ルカン先輩とアクラ先輩の空中戦をバシッと収めろってなことを素人に任せるのァ酷ってもんだ。だからあーしが、可愛い後輩のためにお節介を焼いたわけだ」

「先輩、写真だけじゃなく動画撮影もお得意だったんですね? 実に見事なカメラワークでしたよう」

「好きこそものの上手なれっていうじゃねェですかい、ただそれだけのことですよゥ。――それに、卓ゲー研の連中には貸せるだけの貸しを作った方がこちらにとっても実入り大きそうだ」


 卓ゲー研の名前を出してみせた所から察して、新聞部のデータベースにパールの侵入を許したのもやはりある種の撒き餌だったのだなとサランは確信する。案の定、海千山千のこの先輩は後輩の専横を見逃すほど甘い人などではないのだ。


「しかしまァ――」


 よっ、と声をだして、パトリシアは宙に身を躍らせる。その拍子に背中から大きく開いたものがあった。

 鳥の翼の骨格によくにた構造物だ。一瞬羽ばたかせると透明の皮膜が張る。どうやらグライダーにもよく似たそれが、この上級生のワンドらしい。人工の翼を操ってパトリシアは滑空しながら、カメラを天球上の巨大な顔に向ける。


「あのお嬢様方ときたら、ケンカのついでにとんだデカブツをお呼びになったもんだ、撮れ高ありすぎて嬉しい悲鳴も出ちまいやすぜ」


 わくわくするのを抑えきれないと言わんばかりな声を、パトリシアは出した。

 あの異様な侵略者の出現が、好奇心の強すぎる体質らしいパトリシアを刺激したらしい。わざわざ「お嬢様方」と付け足すあたり、誰と誰の確執が原因で博物館ミュージアムがこのような惨状になってしまったのかをすっかり把握していたようだ。

 やっぱり食えない先輩だ――と、苦々しく思うサランと同じ気持ちだったのだろうジュリもぷいと顔をそむけた。パトリシアがこちらを見下ろして、からかうように続けたせいもある。


「先ほどのご様子、ちいと上から覗かせていただきやしたぜ。――いやぁ、シモクとキタノカタの愛憎にあんたがたもからんでの四角関係たァ、相関図の描き甲斐もありそうで腕が鳴りやす」


 そして撮影カメラを持つ手を軽く振って見せる。撮ったぞ、と言いたいのだろう。ノコの体に宿ったツチカとジュリが派手なケンカを繰り広げている様子を。

 その映像は言うまでもなく、卓ゲー研のメンバーが編集作業に追われているはずの島内のどこかにある地下編成室につながっている筈だ。

 パトリシアの意志表示に対し、無言をつらぬくことをジュリは返答とすることに決めたらしい。黙り続けるジュリを見るパトリシアは愉快そうにニタっと笑うと、謳うような口調でからかった。


「しかもうちのメジロやリリイちゃんに演劇部のスター様やフカガワハーレムのメンバー総出、オールスターキャスト総出演のいいネタ提供してくださったお陰で『夕刊パシフィック』もしばらく安泰だ。あんたがた文芸部さんにに食われたパイも近日中に取り返せそうですぜ?」

「お言葉ですが、たかがワルキューレの人間関係のこじれ具合を噂して楽しむそのような余裕が今後の人類にあるでしょうか」


 さまざまな因縁からパトリシアに対する苦手意識を拭いきれないらしいジュリが、固い口調で真上を指さした。そのはるか先にはもちろん、あの不気味で巨大なな顔面がある。

 あれの正体がつきとめられない侵略者の動向次第で、世界は一層の混沌に陥るかもしれないのだぞという指摘に、パトリシアはぬるりとした笑みを添えたの一言で応じる。


「――ちがいねェ」


 皮肉が刺さらず、よりむっとするジュリの代わりに交渉役のサランがすかさず尋ねる。

 何にせよパトリシアはサランたちより経験値の高い先輩であることはいなめない。場合によっては頼りになることもあるのだ――高い代償は取られるが。


「とりあえずお訊きしたいんですが、あの顔について何かご存知なんですかぁ? 〝お嬢様の喧嘩で呼び出された″だなんて、そんな推測はある種の根拠がないと出てこない類のものじゃありませんかねぇ? ねー、ゲルラ先輩」

「あーしは単なるゴシップ屋ですぜ? 餅は餅屋だ、侵略者のこたァ先生方にお伺いするのが一番じゃねえですかい?」


 まぜっ返しつつも、けれど──と、空を見上げたパトリシアはカメラを構えた。と同時に、背中に背負った翼の骨格のようなワンドが大きく展開しその節々に巨大な眼球にも似た器官が構成される。羽毛のないクジャクの羽を思わせるそれは空や、破壊された博物館のあちこちに向けられた。


「一つ推測を口にさせてもらうとすりゃあ――ありゃあひょっとして観測者かもしれやせんぜ?」

「観測者?」


 それに合わせたように、博物館ミュージアムの天井が穴が音もなく塞がった。

 破壊されていない天井のある光景が、音もなくすうっと重なったのだ。まるで蜃気楼でも現れたように。


 それにあわせて、散々に破壊された箇所の上に、元の静謐で厳かな光景が幻のように重なって出現する。

 同じ場所の違う時間の光景を同じ印画紙に焼き付けたトリック写真のように、異なる次元の光景が同じポイントに出現したのだ。サランはジュリとともに立ち上がる。

 きつい乱視を持つ者が見る世界のように風景が急に二重にぶれて見えだ。サランは目をすがめ、ジュリはひび割れた伊達メガネの汚れをかるく拭いてかけなおし、そして上を見上げ、そして警戒するように呟く。


「観測者、ということはさしずめ博物館ミュージアムは毒ガスが注入された箱で我々は箱の中の猫という次第ですか?」

「うぇー、つうことは時空絡みで深刻な変動が起きてるというじゃないですか。めんどくさいよう」


 あわせてサランも呻いた。

 初等部のワルキューレの必修課程・量子力学概論で教えられた、毒ガス発生装置とともに密閉された箱に閉じ込められた理不尽な猫の登場する古典的なたとえ話を思い出しながら、ユーラシア校で学位を取得した教師の声を蘇らせないわけにいかなくなる。

 


 ――この喩えは勿論ある種の思考実験ではありますが、ワルキューレをやっていますとわれわれの常識をゆさぶられる現象を何度も目にします。理論上でしかあり得ない、箱の中で死んでいる状態と生きている状態が重なりあっている猫を実際に目をするようなことですら。そういった状態に遭遇したときに科学者ならその状況の推移を観測し、なにがしかの結論を得ることができるでしょう。

 しかし、地球人類の生命および財産を護ることを第一義に考え、行動せねばならない我々ワルキューレには、当然そのような猶予はありません。なぜ二つの状態がかさなりあったままそのまま出現しているのか、そしてその観測結果のうちどちらを選ぶことが今後の地球にとってよい影響をもたらすのか、この点につきます。

 私たちはそれを瞬時に選び、それに反する事象を立ちどころにありえたかもしれない世界線に押し戻さなければならないのです――。



 今目の前に出現している状態は、破壊された博物館ミュージアムと破壊されていない博物館ミュージアムだ。


 ということは、お茶会の後にキタノカタマコたちがここに向かわずトヨタマタツミも追わなかった世界、つまり、その後のジュリとツチカの喧嘩もおきず瓦礫の山になることのなかった、「もしも」の世界が重なっている。

 その「もしも」には、最初からキタノカタマコがお茶会にまねかれなかった、そもそもお茶会が行われなかったのか――、下っ端の低レアワルキューレには判別できない無数の可能性で分岐した世界が含まれているのだ。サランがさっき目撃したのとはまるで違う時間の流れ方をした世界の積み重なっているともいえる。


 なにがきっかけで違う時の流れ方をした世界の光景が重なっているのかは──嫌な予感とともに凡その予測はつくものの──正確なことはまだわからない。

 なんにせよ、時空間の操作まで絡んでくるようなトラブルは初等部生には手のあまる案件であることはわかる。下手をすれば世界の歴史が変わってしまいかねない大事案だ。


 ――おまけに、観測者ときたものだ。


 パトリシアの言う通り、本当にあれが観測者であればただでさえ混乱しきったこの現場がさらに面倒なことになる。

 

 本当に観測者としての権限を持つ侵略者であるならば、瞼が開いた時に現れる眼球に見つめられている自分たちは毒ガス発生装置とともに密閉された箱に閉じ込められた猫も同然という立場になる。

 つまり、あの巨大な顔が観測した光景が破壊された博物館ミュージアムならばこれまでのことがこの世界に固定され、反対に破壊されていない博物館ミュージアムをみたならば今日まで骨を折ってやったことが一切なかったことにされてしまう。波乱のお茶会も行われず、ツチカも来ず、全てはキタノカタマコの希望通りに進んでいた世界が出現してしまうかもしれないのだ。

 

 ――それって、やばい!


「――……っ」


 サランはいよいよぞっとしながら上空の顔を見上げる。ただただあのアルカイックスマイルを浮かべたまま、いつまでも瞼をとじたままいでいてくれることを祈るしかない。


 言いようのない危機感に全身を貫かれるサランだが、我に返してくれたのは瓦礫の山に腰をおろし、真下から顔をみあげるパトリシアの呑気ともいえる声だった。


「ま、今のところこいつァただの推測でさァ。まだそうと決まったわけじゃなし、そんな風に目ン玉引ん剝く必要もねェと思いやすぜ?」


 不埒な上級生の声でサランははっと目を覚ます。

 と、同時に蘇ったのは、数日前のトヨタマタツミの容赦なく歯切れのない言葉だった。「バッカじゃない」の一言で、サランの歪んだ推測を一蹴したあの声が耳の奥で響いたのだ。


 そうだ、あの顔はまだ観測者とは決まったわけではない──。


「そもそも箱がどうの、猫がどうの、あんなもんは単なる喩えじゃねェすか? お話に囚われちまうのァ文芸部さんの困った癖だ」


 大体あーしはこう見えて猫の類が嫌いじゃねェんで毛玉虐待するようなあの話は元来虫が好きやせんや――、と雑感を交えながらカメラで撮影を続ける。こうして顔面を記録しておく腹積もりらしい。

 実は見くびっていた相手から数日前に痛いところを突かれたサランの事情は流石に知らないはずのパトリシアも、あの時のタツミと同じようなことを口にしてくれる。そのおかげでサランは冷静さを取り戻せた。


 そもそも観測者云々と持ち出したのはパトリシアのはずだが、なんにせよ、この事態の本質を見失わなくて済んだのは確かである。

 

「ま、あーしらが箱の中の猫ってンならこうして、箱の内側から外を見返すってェのはなかなかオツな趣向だとおもいやせんか? ――果たして観測されているのはどっちになるんでしょうかねェ……?」

「深淵を覗く者は深淵から見返されている、とでも?」


 このところの騒動からパトリシアの言葉を受け入れる余地のあったサランとは違い、ジュリの声には緊張と危機感がみなぎっている。サランよりもずっと、観測者という言葉に囚われているように思えた。

 

 それを見ていると、せっかく抑えられたサランの不安は再び膨らみ出す。


 この博物館ミュージアムの中で、二つの世界が重なっているのは事実だ。

 もしあの顔が本当に観測者で、瞼を開いた瞬間に見たものが、破壊されていない博物館ミュージアムの光景だったとしたら――。


 一概に「悪い予感」と呼ばれるストーリーの引力に引き寄せられるのを感じた瞬間、サランは気づいた。


 間違った物語の断片を見せて人を疑心暗鬼に陥れ、そしてそこから人心を操る。キタノカタマコはそうやって人の心を呪うことを得意としている。

 自分の正体がわからなくなったフカガワミコトの不安につけ入ったやり口、侵略者の軍勢が攻めてくるという社会不安をまき散らした上で人類の心をまとめ上げるマッチポンプな手法。

 それらから判断してキタノカタマコは、人の心の不安を生み出してそこに付け入る手法に長けている。


 ──トヨタマタツミはあの時、それをまじなうと言っていた──。

 つまり自分たちは今、まじなわれようとしている!


「――! 見ろ、サメジマ」


 気をつけろ! と言わねばならなかったタイミングで、ジュリが不意に叫ぶ。

 タイミングを奪われたサランのそばでジュリは伊達メガネを外した。形良く、そして裸眼でも全く問題の無い目で有る一帯を凝視し、指さした。

 

 その先にあるものは回廊だ。


 瓦礫の散らばる惨憺たるありさまの回廊、そして何も起きず静謐な状態が維持されている回廊、二つの光景が重なっている。

 ならば、回廊の両脇に並ぶアクリルの円柱型の展示ケースも、破壊されたものと破壊されずに中に収蔵品を収めたものの二つの光景が重なっていなければおかしい。

 しかしジュリの指先にあるのは、破壊され、中の収蔵品を奪われた展示ケースの残骸だけだ。


 何も起きなかったはずの過去が重なった形でそこにあるはずの、収蔵品がまったく無い。展示ケースごと綺麗さっぱり消えている。


 つまり、ノコも含めて現存していた六つのS.A.W.シリーズが博物館ミュージアム


「――っ!」


 サランが恐れていたことが起こったと気づいて悔やむより先に、ジュリは伊達メガネを素早く掛けなおすと瓦礫の山を駆け下りた。サランもその後を急いで追う。 どこ行くんで~? という、カメラを上空に向けたパトリシアの声は無視した。

 奇麗なフォームでジュリは迷わず回廊の奥を目指して走る。


 ジュリは回廊の上に散らばる建材の破片を避けもせず、鹿のように軽やかに駆ける。そのつま先は大きなコンクリート片をすり抜け、床を蹴っている。

 後を追うサランは同じ破片を踏みつけると、当然のようにゴツゴツとした感触が兵装のブーツ越しに伝わった。先を行くジュリのようにすり抜けたりしない。


 それどころか、走るジュリの体越しに月光のそれと思しき銀の光が差し込む回廊の突き当たりが透けて見えたのだ。そのことにジュリ本人だけが気づいていない。

 ぞっとしながらサランは呼びかけた。


「ワニブチ!」


 ジュリはサランより先に回廊の突き当たりに到着する。

 ミカワカグラに転送されたタツミが目撃したビジョンの中で、虹を織り込んだような羽衣を纏わせたキタノカタマコが開いた次元の扉が顕現した場所だ。


 本来ならば、床の間を思わせるような何もない空間だけがあるはずのわざとらしい神々しさを演出した場所であるはずだった。


 なのにそこにはいま、見慣れないものがある。


「――⁉ なんだこれ……っ」


 ようやく追いついたジュリの背中の後ろについてサランは呟いた。

 本来なにもないはずの突き当たりには、一体の木像がある。


 仏像か、と一瞬サランは思った。


 飛鳥、天平あたりに大陸や半島から伝わった、仏教的な意匠をとりいれつつ中性的な優美さを湛えたものだった為だ。ひらひらとドレープの多い漢服風の衣装を纏った様子も、その時代の文化を匂わせていた。

 けれど、ゆった黒髪に花やかんざしを飾り、こちらになんらかの意味をこめた視線を向ける艶やかな様子は解脱した存在からは大きくかけ離れている。

 風をはらんでいるのか、大きくふくらませた羽衣に身を任せるように空を飛んでいる様子を彫琢したとしか思えない、鮮やかに着色されたその木像は差し込む月光の下で誘うように微笑みかけている。


 天女だ。


 本来存在しないものが突然現れたという経緯に混乱したためか、サランの脳は一瞬本物の生きた天女が現れたのではないかと錯覚する。

 それくらい、顔料を丁寧に塗りこみ、細かな表情や装飾を描き込まれた天女の木像天女の肌は怪しく輝く七色の光の下では美術品以上のものに見えたのだ。


 キタノカタマコのようにその魂を宿したものではないく、本当の天女が空からここに降り立ったのだ──という考えに囚われずに済んだのは、ジュリの体を透かしてこの天女の様子が見えたからに他ならない。一見華奢だが芯のある体がいよいよ半透明になりつつある。その異様さが、サランをこの現実にひきとめた。


 ワニブチ体が透けてるぞ──と、本人を驚かせないように気を使うつもりで声をかけようとしたサランの口を封じるように、ジュリの口が動く。

 幸い声はまだこちら側の空気を震わせることができたらしい。ジュリは呆然としつつも、はっきりこう呟いた。


「──お母様……!」


 なぜここに……! 続けてジュリはそう口にしたが、サランは驚いて体を透明にしてゆく親友の顔をのぞき込む。

 お母さま、とジュリはたしかに、そう口にした。

 旧日本の華麗なる一族のうち一つである撞木家で、令嬢と同待遇で育てられたジュリがお母さまと呼んでおかしくない存在など限られている。しかしそれは通常、人間でなければならない筈だ。美しいとはいえ木像などではなく。


「ワニブチ、今なんて呼んだ? この像のこと……?」


 ジュリはすぐには答えず、自分の掌を見る。

 それが透けているのを目の当たりにして、伊達眼鏡ごしの目を大きく開いた。どうやら今この時点で自分を襲っている異変にようやく気付いたらしい。

 そしてサランもかすかな違和感に気づく。ジュリの顔立ちの印象が普段とかすかに異なることに。

 伊達眼鏡ごしでもくっきりと形のよかったジュリの目の印象に違和感があるのだ。切れ長のシルエットはそのままだが、すっきりとシャープさが際立っている。まるでお化粧を落としたように──。


 大企業を支え導く経営者としての才覚には欠けるがが審美眼だけは誰からも太鼓判を押されていたというツチカの父の勧めによって、ジュリが目にお化粧を施されたのは太平洋校にくる以前、名門学園の初等部に籍をおいていたころのことだ。

 それが元に戻ったということはつまり、そこから歴史は既に分岐してしまっている。


 それに気づいたサランはとっさにジュリの手をとった。

 右手で左手を掴んだが、ジュリの薬指からはすでにリングが消えかけている。まだかろうじて握りめることができる半透明になったジュリの左手から、霞のようにリングが消え失せる様子をサランは目の当たりにした。


 その様子もジュリも見ていた。

 それで大体のことを悟ったのだろう。戸惑ったような表情をうかべて、もう一度すがるような目つきで飛天と呼んだ天女像を見つめる。それは消えずに回廊の突き当たりで天窓から差し込む空の輝きを浴びているのだ。


「――なぁ、ワニブチ……?」


 ツチカがこれ以上消えてしまわないよう、必死にサランは半透明になりつつあるジュリの手を強く握り、同じ質問を繰り返す。

 そうしているうちにも刻々とジュリの体は透明になってゆくのに、当の本人は自分のことよりも今ここにいない誰かの身を案じるのだ。


「ツチカは⁉ そんな、まさか──!」


 嘘だ……っ! とジュリは心がここにないように口にする。

 サランにはジュリの狼狽の意味が伝わった。ジュリの体が透けて行く意味、リングが消えた意味、目に施されたお化粧が消えた意味、それはジュリがツチカの侍女にならなかった「もしも」の世界が現れつつあることを意味している。   

 それを意味することはつまり、シモクツチカの存在を否定するような何かが起きている。そう考えるのが筋だ。

 

 本来なら何もなかったはずの、この回廊の向こう側で──。


「ワニブチ様、ご苦労様でした」


 一帯に、耳に心地よく澄んだ少女の声が楽の音のように反響した。

 それに伴いこつこつと複数の足音が硬い廊下を歩く音が響く。

 ジュリの手を握ったまま振り返ると、そこにはほぼ同じ顔、同じ雰囲気の少女が六人立っていた。太平洋校の制服に各委員会の腕章、そして立派に形を保った薙刀型のワンドを携えている。


 カグラに転送されたタツミのビジョンの中で、ワンドを破壊され峰打ちに沈められ、博物館の片隅にそれぞれ転がされていたはずのキタノカタマコの侍女たちだ。

 たしかにタツミが丁寧に六つとも破壊されたはずなのにしっかりと復元された薙刀をそれぞれ手にして、落ち着き払った人形めいた顔で二人を見つめている。


 六人のうち代表に当たるのだろう、中央にいた副会長の腕章を巻いた一人が一歩前に出る。残りの五人は半円状に二人を取り囲んだ。


「ワニブチ様なら此度の状況が示す意味をご理解いただける筈。今この有様は、マコ様によるご説得にシモク様がご賛同いただいたと捉えるのが筋でしょう」

「ですので、抵抗はもうお止しなさいませ」

「もっとも、そのお姿ではご無理でしょう」


 中央の副会長、半円状のフォーメーションで待つ後ろの五人のうち左右両端、侍女たちが代わる代わるにセリフを受け持ち淡々と勝利を宣言する。


「キタノカタさんにはフカガワ君が──」


 それを否定せんとしたジュリの言葉を、侍女はやんわりと、しかしはっきり遮った。


「おそらくマコ様も、背の君を追って来られたトヨタマさまのお気持ちに打たれてフカガワ様をお譲りなされたのでは?」

「ここに飛天様がお越しになったはその現れであると考えるべきでしょう?」

「シモク様がマコ様の元へお下がりになった以上、フカガワ様の御身はトヨタマ様へお返しするのが筋でございましょう」


 しかしジュリは取り澄ました侍女たちに珍しく食ってかかる。


「お言葉を返すようですが、シモクツチカがキタノカタさんに屈することなどありえません! 訂正を!」


 気色ばむジュリに対して、侍女たちはあくまで憎たらしいほど落ち着き払っている。自分たちが使える主人の勝利を確信しているとしか思えない傲りが、そこから伺える。


「ワニブチさん、貴女らしくもないことを。今のそのお姿、そして何度も申し上げております通り、飛天様がここにお越しになった意味それが全てを表しているではありませんか」

「シモク様の身を案じる貴女様の気持ちは私供もお察しいたします」

「しかし、今ここにこのようにして在る飛天様の御身に目をつむるのは難しいかと」

「シモク様は因果の糸の果てでマコ様の杖となることを承諾された、それ以外にこの出来事を説明するすべがあると仰るのですか?」

「であれば是非ともお聞かせいただきとう存じます」


 副会長の背後に控える五人の侍女たちが一言ずつ口にし、ジュリを追い詰める。白旗をあげるようにとじりじりせまり、距離を詰める。

 ジュリは悔しげに唇をかみながら、自身の手のひらを一瞬見つめてうつむき額に手を当てた。彼女らの言葉を否定したくても受け入れるしかない。そんな現実に屈さねばならないのが歯がゆい、そんな有様だ。


 そうこうしている間にも、侍女たちはジリジリと距離をさらに縮める。

 どうやらその視界にサランのことは存在しない。取るに足らない相手だと甘くみているのだろう。


 サランはとにかくぎゅっとジュリの左手を握った。リングの感触は消えたが、かろうじて冷たい手の感触はまだあっった。もっとも、よく冷やされた空気を握るようなこころもとないものに変わりつつあるが──。

 半面、サランのリングは左手の薬指に未だあり続けている。つまりここには、サランとジュリと一緒に過ごした世界も同時に存在しているのだ。


 サランのするべきことは己の存在に全てをかけることだ。


 もはや一刻の猶予もならない。

 意を決し、サランは自分の頭を後ろへ傾けた。そして反動をつけると同時に、親友の手を自分へ向けてぐいと引く。手加減はしつつも額を前へつきだした。ジュリに頭突きを喰らわせるの今日が初めてだ。

 ごつ、と、いつもよりやや鈍い衝撃が額を中心に広がった。


「────……ッ」


 半透明になり実体が失われつつあるジュリの体、そしてかなり手加減したサランの頭突きではあっても、それなりに痛かったらしく、ジュリは右手を額に添えた。

 お化粧の痕跡がきえた自然な目で恨みがましくサランを見つめる。そして右手でずれた伊達メガネの位置を直した。どういうわけだか、伊達メガネだけは半透明にならずしっかりと存在していた。サランはそれに光明を感じずにはいられない。


「サメジマ……っ、よくもやってくれたなぁ……っ」

「怒るんじゃないようっ! 婚姻マリッジ相手の目を覚まさせてやったんだから!」


 額をさする不服顔のジュリの方をぐっと掴んで自分に近づけ、サランは怒鳴った。

 以前よりも少しさっぱりした、それでも基礎の形は決して悪くなく、もともとの目鼻立としっくりなじんでいるジュリの目をまっすぐ見つめる。


「ワニブチ、あの侵略者はまだ観測者だなんてまだ決まってない! あくまで状況がそれっぽいだけだっ! その状態でそれを信じて受け入れちまったらキタノカタさんの思うツボだようっ!」

「――、サメジマ様」


 何を異な事を、という不快げなニュアンスを漂わせることなく副会長の腕章を巻いた侍女が、サランの言葉を強制的に遮ろうとする。当然サランはそれを無視した。

 耳を貸してはいけないのだ。そんなことをすればキタノカタマコの術中にはまる。あのお嬢様はどうやら呪術がお得意のようだから。


「上のアレは観測者だって決まったわけじゃない! キタノカタさんがうちらがそう勘違いするように用意した単なる仕掛けかもしれないんだっ! 枯れたススキをオバケと見間違えてビビってたらシモクのヤツに馬鹿にされるぞっ!」

「サメジマ様、どうかそのようにお騒ぎにならぬよう。飛天様の御前です」


 ひゅっ、と刃物が空を切る音が聞こえたと思ったら、うなじのあたりにひやりと冷たい金属の気配が当たった。

 滑るように移動した侍女の一人が足音もたてずに距離を詰め、薙刀の刃をうなじにあてたのだ。黙れ、の意思をこめて。

 口先と所作だけは丁寧だが物騒極まりない武力行使によって口を封じようとするその魂胆は、サランの舐められることを嫌う気性に火をつける。しかし、今までの経緯を見る限り彼女らは、この学校に少なからず存在する人間に危害を加えるのに躊躇しないよう訓練されているタイプの連中だ。今首を切り落とされてはたまらないのでサランは渋々口を閉じる。


 とにかく、肩を掴んだ先にいるジュリが、サランの言葉を耳にして目の前で両手の平を打ち鳴らされたような顔でいるのが救いだ。


 確かにあの上空の巨大な顔面は観測者としての権限を付与された侵略者などではなく、自分の目的のためにキタノカタマコが用意した巨大な幻、ただの虚仮威しかもしれないという可能性に気付いたのだろう。


 むしろのその可能性に賭けたくなったのではないだろうか。


 なぜなら、シモクツチカがキタノカタマコの道具に成り下がることを承諾するだなんて、二人にはどうしても信じられない。五歳の時から一緒にいたジュリなら尚更のはずだ。

 少しずつだがジュリの体の透け具合が留まり、構成する色彩が濃くなっていっていることがそれを物語る。


 

「ワニブチ様、お友達のお言葉に耳を傾けるのも時と場合をお考えくださいませ」


 当然侍女たちはジュリの心を惑わしにかかる。サランのうなじに薙刀の刃をあてたまま、侍女は澄んだ声でジュリに囁きかけた。


「お忘れでなければ、先ほどの問いかけに対するお返事をお聞かせくださいませんか。サメジマ様の言葉におすがりなさる貴女は、ここに飛天様が現れた理由をどのようにお考えになるのですか?」

「──」

「さぞかし筋道の通った説をお聞かせくださるのでしょう、是非お教えください」


 難問をつきつけられた、とばかりにジュリの表情は悔しげに歪む。

 忌々しい思いでサランは視線だけ肩越しに後ろへ向け、侍女の方をなんとか睨もうとする。しかし、うまくいかない。ともあれ、侍女は気になる一言を口にした。「飛天様」という呼びかけだ。


 飛天、サランにとってそれは勿論『天女とみの虫』に出てきた、人間に恨みを抱く猛々しくも哀れな天女が浮浪児のみの虫に名乗ったものだ。

 西域に起源をもつとされる翼や羽衣をまとい仏像などの周囲に装飾される存在を指す一般名詞であることはサランも概ね心得ている。しかし、ツチカとマコの関係者が口にする以上、特別な意味が込められているはずだ。

 天女の魂を受け継いできたキタノカタマコがいともたやすく羽衣に変換したワンドの収蔵されていたこの博物館ミュージアムにこの像が現れた意味、そしてこの像をジュリが既に知っている理由、それらはサランにとっては明らかにしなければならない情報だ。


 首の後ろに冷ややかな刃の存在を感じながら、不機嫌な声で問うた。


「あんた方もこの像についてご存知なら、一体なんなのかうちにも教えてくださったっていいんじゃないですかねぇっ?」

「──」


 侍女はサランのことを主人にたてつく身の程知らずだとでも認識し、徹底的に軽んじてもいい相手だとみなしているらしい。当然のように軽やかに無視をする。

 ムカっ腹をたてるサランだが、疑問に答えてくれる者はちょうど正面に立っていた。


「飛天来迎像。図録の上ではそう銘されている、ツチカの父上が集めたコレクションの一つだ」


 質問にやっと答えてくれたジュリの言葉を耳にして、サランは勢いよく前をむく。うなじの皮膚が鋭い金属にふれた。

 正面のジュリの体はわずかにまた透明度が高くなっている。

 ここにある飛天像の謎がジュリにも解けず、侍女の言葉を思わず受け入れざるを得なかったのだろう。シモクツチカ父のコレクションが、なぜか学園島の博物館ミュージアムに突如現れた。それは言わずもがな、異様な事態ではあるのだから。

 ぎゅっとその冷たい手を握るサランへ、ジュリは説明を重ねる。色味を失ってゆく左手を握るサランの両手に、ジュリの右手が添えられる。その薬指には消えたはずのリングがあった。


 目の前のジュリはツチカに出会わず侍女には選ばれず、工業地帯の下町からそのままワルキューレとなって太平洋校にやってきた世界線のジュリということになるのだろうか。

 その世界のジュリは自分と果たして出会っていたのだろうか。

 文化部棟の一員として雑コーヒーを飲みながらくだらない話題でもりあがる仲になれたのだろうか。

 その可能性を胸内で響かせながら、サランは親友の華美さの代わりに涼やかさの増した目を見つめる。


「サメジマにも教えたことがあるだろう? ツチカの父上は美しいものを見る目だけは確かな方だ。お眼鏡にかなった美術品なら、どんなものでも手に入れて適切に保存する手間は惜しまない方だった。無名の芸術家の絵画でも、古道具屋の片隅で埃を被っていた茶碗でも、ご自身の琴線に触れる美しいものなら、一見ガラクタにみえてもなんでもいち早く見つけて掬いあげ、適切な意味と居場所をあたえる。それこそ自分の仕事だと嘯くような方だったんだ」


 その審美眼を活かして一時期芸能界で活動した後、シモクインダストリアルがイメージアップのためだけに運営していると揶揄される、文化事業の責任者をほとんど道楽で努めている。そのような基本事項はざっくりとは押さえていた。サランは頷く。

 それをジュリも軽く頷き、懐かしそうに飛天像を見やった。


「綺麗だろう、この像。信じられるか? 過疎化で廃されることが決定した、とある海辺の町の郷土資料館で展示されていたんだそうだ。そのころ古い民芸品に凝っていたツチカの父上がその町を訪れなければ、そこでさらに気まぐれをおこして寂れた郷土資料館なんかに立ち寄らなければ、見る目の無い古美術商に二束三文で売られるか、その町と同じように廃棄されるところだったらしい」


 こんなに綺麗なのに、とジュリは再度付け足す。

 

 確かに芸術に疎いサランにもこの像がかなり精緻で、制作者が持てる技術と美学をつぎこみ、端正込めて制作したものであるように見えた。胡粉の塗りの具合などから、天平風の芸術のレプリカのような制作年代は新しいものだと察せられはしても造形の美しさは素人目にもわかりやすい。

 分かり易すぎる故に芸術品としては価値がないとされたのだろうか。まるで生きているようにすら見えるのに、廃棄すると決定した者の気持ちを疑いたくなる。


「ツチカの父上が見つけた時には埃や煤をかぶって随分古ぼけて見苦しかったらしいが――。それでも心に語り掛けるものを感じたんだと仰っていたよ」


 揺らめく天の光に照らされる飛天像にサランも魅入られる。誘うような目つき一つですら優しいようにも無邪気なようにも、蠱惑的にも様々に変化し、見飽きることが無い。

 像から目を離せずににいるサランを苦笑して、ジュリは付け足した。


「もっといえば、ツチカの父上は幼い僕らにもっとわかりやすく直截な表現をしたんだ。――ぼくはこの女性に恋をしたんだよ。お互い一目ぼれだったんだ、とね」


 一目ぼれ、とサランはその言葉に留意する。


「さっきも言った通り、ツチカの父上は美術品の収蔵や展示に関しても一家言ある方だった。ご自身のお気に入りのものを集めた別宅なんて、まるで小さな美術館だったよ。僕とツチカは父上にお供をして、コレクションを直に見させていただいた。その一つにこの飛天像があった」


 小さな施設の美術館で幼い少女二人が迷子のように遊ぶ様子を、サランはふと想像する。バイオリンとトランペットのケースに荷物を一式つめこんだりしたのか? と、この場にそぐわない冗談を口にしたくなったのは、ジュリの表情がより懐かしげに和らいでいたせいだろう。

 その思い出は侍女時代に体験した楽しかった思い出の一つなのかもしれない。そう見当をつける。


「子供の目だから一瞬本当の天女のように見えたんだ。驚いて、きれいだねって子供なりに感動を伝えたら、ツチカのやつときたらなんと言ったと思う? 胸を張ってえらそうにこう宣ってくれたよ。『当たり前よ、あたしのお母さまだもの』」

「――……」


 お母様、ジュリはこの飛天像が現れた時にそう口にしている。

 それはツチカが、この飛天像を母親だと認識した為だという。美しいとはいえ、ただの木像が人間の母親とはどういうことだ? それにサランが知る限り、シモクツチカはそういったおとぎ話めいた物語を好む女ではない。

 不自然な事象を埋めるたった一つのピースのことに思い至ったサランは、もう一度食い入るように像に見入った。

 ジュリは淡々と話を続ける。


「当時の僕はあまりに幼い。だから、ツチカの母上は父上の現在の奥様にあたる方だと自然に思い込んでいた。子供がシモク家の姻戚関係だなんて難しいものを把握できるはずないからな。だから、当然『嘘だ!』って決めつける。するとツチカもムキになって本当だと言い張る。そしてそれを証明するように父上を引っ張り出して自分の言葉が正しいことを僕に語って聞かせろせがんでみせた。笑いながら父上は頷いたよ。『ツチカの言う通りなんだよ、ジュリちゃん。ツチカのママはこの綺麗な天女様だ』って」


 サランは息を呑みつつ、アクリルの壁の向こうで展示されている飛天像に見入った。

 美しすぎるが故に文化財としての重要性をあまり感じさせないこの像にツチカとの面影がみられるだろうか。

 すくなくとも、この像はツチカほど意地悪そうでも生意気そうでもないが、罪もないいたずらをしかけるようなコケットリーな雰囲気を感じさせる微笑みを唇に浮かべてはいる。

 それに気づいてから像からは視線をそらして親友に戻し、所見を述べた。


「――それで、『ぼくはこの女性に恋をしたんだよ。お互い一目ぼれだったんだ』って流れになるわけか」

「そういうことだ」


 あっさりとジュリは頷いた。そして、侵略者なる存在が当たり前に飛来するような世界になっていなければ、そしてそれを駆逐する養成学校などに籍をおかなければきっと信じられなかったような、おとぎ話そのもののロマンスを語って聞かせる。


「像を手に入れてお屋敷に戻ってから初めての満月の夜、人間の姿で現れてお互いに想いを遂げ、ツチカを身籠り産み落とすまでの二年ほどを父上と奥様は人としてともに過ごしたらしい」

「なんでそんな短期間だけ……?」


 ジュリは一瞬、侍女の方に視線を配る。もちろん彼女らは表情は変えはしない。


「後継候補から外されているとはいえ、シモクインダストリアルの令息が何処の馬の骨ともつかない女との間に娘を成した。その程度の噂なら亜州政財界のサロンで囁かれるよくあるゴシップとして処理は可能だ。しかし、その女がどうやら人ではないらしいという噂が立ったらどうなる?」

「──」


 言わずもがなである。

 今のこの世の中は人ではないない存在は、特殊な登録を済ませない限り一律侵略者として処理すべしという原則がまかり通っている。昔からなんらかの宗教活動に従事しているわけでもない撞木家の人間が妙な来歴を持つ女との間に子を成したとすれば、侵略者の被害に遭ったとみなされ飛天像が変化した女もその胎から生まれたツチカも侵略者として処理されていた恐れはある。上流階級のこと、内々に、ひっそりと。


 理解した、という表情のサランをみて頷き、ジュリはお話の続きを語った。


「だから奥様は人として生きることを諦め、像の形に戻られた。そして父上のコレクションとしてあるべき場所におさまり夫と娘を毎日優しく見守っている。──その時父上が僕に話してくださったおとぎ話めいた内容をかいつまむとこうなる。本当は遊園地を持つアニメ会社が作った映画のようにロマンティックだったんだが、すまないな、あの甘い物語は僕では再現できない」

「いや、いいよう。うちもプリンセスストーリーは得意じゃない」


 だな、といってジュリは微笑む。サランはその顔をまっすぐ見て確認する。


「要は、シモクはお母さんの正体が外に漏れそうになったから親子で生活するのが叶わなかった上に、まだほんの赤ん坊のときから将来は太平洋校であるワルキューレのワンドをやれって勝手に決められたってわけか」

「ああ。口止め料がわりにな」


 口止め料がわり、ジュリがそう含みを持たせて口にしたためにサランは侍女の表情をちらりと見やった。やはり彼女らは表情を変えはしない。憎らしいほどに。


「飛天様の持ち主はマコ様であるとこの世の始まりから既に決められております。そちら様が飛天様をお隠しになった件を大ごとにいたしませんでした当家の判断を、蔑ろにするかのようなお言葉はお慎みくださいませ」

「申し訳ございません、当方の配慮が足りませんでした」


 配慮、と侍女の口がかすかに動く。ジュリの皮肉が少し気に障ったのだろう。


 飛天像はもともとキタノカタマコのものになる予定だったらしい、と、情報を頭に叩き込んでサランは再び親友に視線を戻す。


「なあ、ワニブチ。シモクの母さんはノコのねーさん……つまり、S.A.W.シリーズのワンドなんだよな?」

「──、ああ」

「てことは、キタノカタさんのあの羽衣の一部になる」

「そうなるな」


 ということは、導き出される答えは一つだ。飛天像の正体はノコの姉に当たるワンドということにしかなりようがない。

 そして本来、本来ならツチカの父が暮らすという別邸に保存されているはずのこの像が博物館にあるということは──……。


 博物館ミュージアムというこの箱の中に重なっているのは、随分昔に分岐した世界ということになる。


 それはつまり、ツチカの父が飛天像を発見しなかったかもしれない世界。

 感情をにじませない声ではあるが、キタノカタマコの侍女がはっきりと、あれはもともとこちらのものだと異議申し立てした通り、本来の持ち主の手に収まっていたのかもしれない世界。

 ということは、シモクツチカという存在がこの世に誕生しなかった可能性がかなり高い世界──。


 サランはちらりとジュリの表情をみる。唇をかみ、額に指をそえて痛みを堪えているような顔つきになっている。

 上空にうかぶ巨大な顔が観測者だと信じてはいけないと心に言い聞かせても、大嫌いな女をぶちのめしに時空の彼方へ飛び去ったかつての主人の行く末が心配でたまらないことが見てとれる。目の前の事象はすべて、シモクツチカという女の存在の危機を伝えるものばかりだ。


 追い討ちをかけるように次女が澄んだ声で、ジュリの心を惑わす。


「ワニブチ様。さればもうおわかりのはず。シモク様はマコ様の杖となることを承諾されたに違いありません」

「目の前にある事象がそれを語っているでしょう」

「どうぞ早く真実を受け入れなさいませ」

「長の年月としつきを必要としましたが、それもようやくお終いとなるのです」

「世界もあるべき姿を一つ取り戻します」

「ためらうことなど何もないはずでは?」


 似たような声と口調で、侍女たちは畳み掛ける。それを振り切るようにジュリは軽く頭を左右に振るが、それでもやはり苦しそうだ。

 侍女の言葉を否定したいが、やはり受け入れるしかない。

 この博物館の中に「ツチカがこの世に誕生しなかったかもしれない世界」を招き入れずに局面を打開する術がない。その世界こそ現実だと認めなければならないという思いに囚われそうになる心と、必死に戦っている。


 サランはジュリに助力するために、冷たい手に添えた両手に力を込めぎゅっと握りしめる。自分の左てのリングの強く意識する。


「聞くんじゃない、ワニブチっ。これがキタノカタさんのやり口なんだぞ! 人を疑心暗鬼にさせてそこにつけこんで、それっぽいストーリーを吹き込んで人の心をいいように操るんだ! そのせいでフカガワミコトのヤツは無駄に悩むことになったし、シャー・ユイの小説が奪って書き換えて全世界の女子を惑わそうとしてんだぞ! ワルキューレに憧れて志願者を増やすようにって!」


 ……分かっている、とうつむきながらジュリは呟く。

 伊達メガネの上から手のひらをあてるのは上を見ないためだろう。大穴が開いた天井と重なる半透明の天井の上には、あの巨大な顔がある。観測者であるのかないのかはっきりしないあの顔面の目が開き、ツチカが生まれなかった世界を視認しないように、ジュリは堪えている。


 サランはジュリを応援するために、その両手をつかんで呼びかける。


「あの人はメジロの二人みたいな人造ワルキューレを増やして、ワルキューレ不足解消と自分ちの金儲けと兼ねた計画を動かす気なんだ! そういうことをやらかす人なんだよう、あの人は……っ痛っ!」


 チリチリと首筋のあたりにかすかな痛みが走ったのでとっさに手やったサランの指先に触れたのは、硬い金属の感触だ。そういえばサランは侍女によって薙刀の刃を首筋にあてられていた身だった。

 刃物さばきのたくみな侍女によってその存在を失念し、こうしてやすやすと皮膚を傷つけられるハメになったわけである。


「サメジマ様、マコ様への中傷はおやめくださいませ」


 侍女の発する警告は感情を見せないが、傷つけられた皮膚は遠火で炙られたように疼く。脅しのために軽く切られただけとわかっても気分は当然よくない。

 胴体から頭を切り落とされるかもしれない恐怖にゾッとしたのは一瞬で済んだ。この数ヶ月、なにかとすぐ暴力を振るう後輩の世話に明け暮れていたわけではないのである。


 視線だけを後ろに向けて、サランはがなる。


「中傷じゃねえようっ! うちの言ったことは全部さっきのお茶会でキタノカタさん自らお認めになったことじゃないかっ! それをキタノカタへの置き土産にして天と地を一つにする予定なんだろうが、あの人はっ!」


 サランの位置から侍女の姿は見えない。ただ、ぐいと手を引かれてサランはジュリのもとへ強く引き寄せられる。入れ替わるようにジュリの体がサランの前に立った。


 ひらり、と輝いたのは薙刀の刃だ。サランの首筋にあったあたりから随分上に素早く掲げられたそれが、閃光のように鋭く弧を描き、半透明になったジュリの体を袈裟懸けに斬る。


「────っ」


 かつん、と硬いもの同士がぶつかる音が響いた。レンズの割れた伊達メガネが床にぶつかったのだ。

 透き通ったジュリの体から鮮血が吹き出し、目の前で崩れおちる。

 それだけは生々しい血だまりに、ジュリは身体は崩れ落ちる。質量はないのか物音一つしない。

 なのに、袈裟懸けに斬られたジュリの傷口から、どくどくと赤く暖かい血が次々にと吹き出るのだ。


 言葉もなく、サランはその場にしゃがむ。

 膝を汚して赤く温い血液に手を浸し、目を閉じたジュリの上半身を抱き上げる。 さっきまで半透明だった親友の体が急速に薄く、冷たくなってゆく。


 夢だ、と思う。

 怖い、という感情が後から来る。

 あるはずがない、という否定の気持ちが芽生える。

 いやだ、という単語がかすれた口から漏れる。

 いやだいやだ、堰を切ったように同じセリフが溢れる。

 ワニブチワニブチ、と綿の詰まった人形のように頼りない手応えになってゆく親友の体をサランはゆする。

 ごめんってば悪かったから、と許しを請いながら整った顔面を斜めにぱっくり開いた傷に指を当てる。

 いやだ、と、ごめん、を繰り返しながらサランは手を通して傷に力を送る。


 回復術など高度なものを使えないのに、そうせずにいられなかったのだ。一心にジュリの傷をふさぐことのみを考えて、サランは手のひらを惜し当てる。恐怖と悔いから涙がだらだらとこぼれ落ちる。しまいには口から溢れるものは言葉ですらなくただの嗚咽になってゆく。


 ああっ、ああっ、わああっ。と、サランは鳴き、ぐったりとしたジュリの体を再び抱き上げた。さっきまでかろうじて、サランとジュリが知っている世界に止まろうとしていた体が急速に軽く儚くなってゆく。サランの両手がするりと華奢な肩をすり抜けた時にサランはついに恐怖に負けた。


「やだっ、やだやだやだぁっ! こんなのやだぁっ! 嘘だこんなのっ、嘘だからっ、目ぇさましてワニブチ、死んだらヤダァっ! 逝ったらやだぁぁぁっ! なんでもするから死んじゃやだぁぁぁっ!」


 駄々っ子のように、恥も外聞もなくサランは泣いて喚いた。そうせずにはいられなかった。

 怖くて怖くてどうしようもなくて、ほえるように何度も何度も、嫌だ、と、うそだ、と、ごめんを繰り返す。


「ごめんってばあ、なんでもするからあっ! 目を覚ましてくれなきゃいやだっ、ワニブチぃぃっ」


 恐慌状態に陥るサランは、目を閉じたジュリしかみていない。消えてしまいそうになるジュリの体を掻き抱くのに精一杯だ。

 使えもしない回復術でジュリの体と意識をこちらの世界に止めようとすることに頭がいっぱいで、自分の頭上に黒々とした影がかかったことに気がつかない。


 ジュリを斬ってしまった者も含む侍女が上空を見上げ、さっと顔色を変えたことなどなおのこと気づかない。

 一振りの短刀が上空から鋭く投げ落とされ、実体化しそうになっていた天井を突き抜けそのまま飛天蔵に突き刺さった様子にも気づかない。なぜならジュリを抱いたサランは飛天像に背を向けている。


 ただ、短刀が床に刺さった衝撃のせいか飛天像が綺麗に真っ二つに割れる、パカン、といった多少間の抜けた音はサランの耳にも届いた。そのため、恐る恐るふりかえる。


「────…………」


 サランの目に飛び込んできたのは、左右真っ二つに割れた飛天像の哀れな姿だ。まるで桃太郎の絵本のように綺麗に二つにわれて床の上に転がっているのだ。

 どれだけ美しい作品であっても、砂糖菓子のようにあまいおとぎ話をもつ像であっても、こうも綺麗に二つに割れてしまっては非常に滑稽だった。笑いを誘うつもりなのか、割れた像がそれぞれ床の上でゆらゆらと揺れてすらいる。


 真っ二つになった飛天像の転がる台座のそばに突き刺さった短刀は、いつの間にか墨を流したように真っ暗に染まったこの空間の中で、ぽおっと淡く発光している。

 三日月のような形状をした短刀に、サランは目を凝らし、そして鼻をすすった。──これには見覚えがあった。

 忘れもしない。夏休みにサランの髪を切ったのはこの短刀である。


 それを見た瞬間、サランの鼻腔に嗅ぎ慣れてしまったロータスのような香水の香りが蘇ると同時に、一帯に風が吹き込んだことにはっと気づく。


 上を見上げれば、空はいつの間にか黒一色に染まっていた。

 透けた天井越しに見えていたオーロラが揺らめく空の輝きも、星の瞬きも、サーチライトの照り返しも、全ての光を遮る暗幕がかかったように博物館全体が暗さに閉じ込められる。それ自体が淡く発光していた天空のあの顔面も、それに伴い見えなくなった。まるで博物館ミュージアム全体を黒い布に被されたように。


 それでいて息苦しさは不思議と感じない。

 この島では珍しい、心地よさすら感じる涼風が駆け抜けたと思ったら、天井には再び大きな穴が開いていた。サランがミカワカグラとともにやってきた時と同じように、無残な姿をさらしている。


 思わず目を見開いて、穴のあいた天井を眺めるサランの視界に飛び込んできたのは、爪を長く尖らせ腕輪や指輪をじゃらじゃらとつけまくることで飾り立てた巨大な腕である。肩のあたりが空間に解けるように消えている様子も含めて、この腕には見覚えがあった。ただし、サランが目撃したものよりずっと大きいが。


 その腕の先、手のひらがぐいっと下がる。サランの目の前に降りてきたその上にいたのは、よく見知った麗しい上級生の二人だった。


「怖かったわね、子ねずみさん。でももう大丈夫」


 ジャンパスカートの女子制服に細かな刺繍を施した緋色のベールを組み合わせた独特の兵装姿のその人は、ジンノヒョウエマーハだ。その隣にいるのはやはり、表情筋を動かすことを惜しんでいるとしか思えないヴァン・グゥエットがいる。翡翠色のアオザイに細かな紺色のロングスカートという兵装で、マーハの眷属の手のひらからひらりと身軽に降り立った。スカートにはスリットが入っているらしく、形良い脚が一瞬露わになったのに頓着せず、ベルトに止めた刃物と一丁取り出す。三日月型の床に突き刺さった三日月型の短刀とそっくり同じそれには長い縄が結ばれていた。

 裾をなびかせ鋭く侍女たちの元へと駆けより、縄を握って短刀を振り回し鏢として巧みに扱いながらワンドをもった六人の侍女の無力化へ向かう。

 

 翡翠色の疾風と化したパートナーに荒事の一切をまかせたマーハが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、まだ嗚咽のおさまらないサランをみつた。その顔をみただけで、サランの胸には懐かしいジャスミンとスパイスを混ぜたような芳香と何度か優しく抱きとめてくれた記憶と感触が蘇った。それがスイッチとなって、サランの両目から再びだらだらと涙が出てこぼれ落ちだす。


「じ、じんのひょう……ぅえっ、せんぱい……っ。ワニブチ、わにっ、ぶちっが……あっ」

「遅くなってごめんなさい、子ねずみさん」


 マーハの眷属であろう神霊の掌から身軽におりたったマーハは、親友の体をかきいだいたままのサランのそばに跪き、そのままそっと小さな肩を抱く。


「怖かったでしょう。恐ろしかったでしょう……でももう大丈夫。今は月の影の中。安心してちょうだい」


 涙と鼻水でベトベトになっていることを全く厭うことなく、マーハはサランを胸にだいて、幼い子供をそうするようによしよしと頭をなでてあやす。そのまま流れるように、すうっと細くて赤い線を引いたような首筋の傷に指先をあててなぞった。そうするだけで侍女の薙刀に傷つけられた傷は消えてゆく。

 美しい上級生に抱かれて傷を治されるのは大層心地よいものではあったが、サランの腕の中には冷たいジュリの体があるのだ。だから、あやされながら必死に頭を左右に振った。


「うっ……うちは、うちなんかより、ワニブチが、あぁ……っ」


「僕がどうしたって?」


「うちのかわりにっ、きらっ、斬られて、血塗れに……──、?」


 ──ちょっと待て。


 一瞬幻聴か何かかと思った親友の冷静な声を確かめるために、サランは自分の腕の中にある体を確かめる。

 視覚で確認するよりさきにまず、触覚を活用することにした。ジュリの体を抱く腕に力をこめると、しっかり細いようで芯のあるジュリのよくしなる身体の感触が返ってきた。


 そして何より、あたり一帯を濡らしていた生温い血だまりが消えていた。大小様々な瓦礫の転がった床の上はすっかり乾ききっている。伊達メガネも所在無くその上に転がっていた。


「──……っ」


 ジュリの整った顔面を無残に割った、ぱっくりと袈裟懸けに斬られた傷跡は跡形もない。ただじっと、泣きべそをかくサランを見上げている。

 その目はサランがよく見慣れた、形良い二重の切れ長だった。お化粧の施されたあの目だ。その目で、涙と鼻水でべとべとになったサランのみっともない顔を無表情で見つめた後、たんたんと事実を口にする。


「本来お前が食らうはずだった至極単純な物理攻撃が、その世界線上にいなくなった僕に効くわけないだろうに」

「――……っ」


 時間差でサランの体に羞恥が押し寄せる。

 言われてみればたしかに、ツチカの侍女になることがなかった世界の支配が強くなりっていたジュリに、あくまでサランと同じ世界に属している侍女が単純な暴力のみでダメージを与えるのは難しい筈だ。今更のようにその事実に気付かされたサランの全身が、かああっとも燃えるように熱くなった。

 伊達メガネを失ってむき出しにしたジュリの顔は、ツチカのジュリ時代を彷彿とさせた。ただし、侍女時代も文芸部長時代も見せたことのない、人をちょっと小バカにしたような腹の立つ笑みをジュリはとっさに浮かべてサランをからかった。


「──やれやれサメジマ、僕に注意を促しておいて自分からキタノカタさんたちが仕掛ける罠にかかっていればせんもないな」

「……い、いやっ、でも、そのっ、あれだっ!」


 ぐいぐいとべとべとの顔を手の甲で拭いながら、サランは自分の名誉の回復に躍起になる。ジュリが無事だと分かって嬉しい筈なのに、素直に喜ばせてくれず照れ隠しのようにからかいの言葉を吐く親友が憎らしいったらない。混乱しながらサランは床を指さす。


「血っ、血はっ⁉︎ あれだけのっ、とんでもない血……っ!」

「おそらくほんの少しだけ比率を残していたこちらの世界線上の僕が斬られたんだな。――次元の向こうで何かが起きていなければ絶命待ったなしだった」


 不幸中の幸いだ、と、深々とため息を吐きながらジュリは答えた。

 言葉こそ淡々とはしているが、斬られたという事実がようやく押し寄せてきたのだろう。しばらく額に手を添えてうつむく。

 そうして、まだ混乱して適切の言葉も浮かばないサランの腕から脱するなり、自分の足で立ち上がり瓦礫の散らかった床に散らばった伊達メガネを拾い上げて掛け直した。

 そして、サランの肩をいまだに抱き寄せているマーハの側に座する。細かな破片が散らばっているのにも構わず、美しく正座して深々と頭を下げた。


「この度は、お手を煩わせてしまいました。文芸部長としてだけではなくワニブチジュリ個人としても御礼申し上げます。ジンノヒョウエ先輩」

「構わなくてよ、子ねずみさんのおかげで楽しい一夏を過ごせたんですもの。お礼を申し上げたいのはこちらの方よ」


 まだショックが抜けきらないサランの目の前で、二人は挨拶を交わす。

 ツチカの侍女時代を彷彿とするかしこまったジュリのそれに対して、マーハの態度は場違いに朗らかで、泰山木マグノリアハイツの書斎でサランをからかうときのように茶目っ気を漂わせてこう口にするのだ。


「それに、私こそいつまでもごめんなさいね。あなたの大事な婚姻相手を独り占めして。お寂しい思いをさせてしまったわ」

「いえ、それは私のほうこそ……」


 正座のジュリは、そのままつつっと視線を移動させた。つられてサランもマーハもそちらを見る。

 そこでは、兵装姿の麗人が、鏢を操りながら六人の侍女たちを的確に倒し、封じていた。激しい運動に反してアイボリーの肌を上気させることもせず、アーモンドアイで向かいくる侍女たちをいちべつするなり、閃く刃をかいくぐり、ひらりひらりと舞うように動きながら、一人一人侍女たちの腕をすばやく縛って床に転がしてゆく。強い抵抗を見せるそぶりを見せる侍女には容赦なく背中を蹴り飛ばし床に転がす。

 普段の彼女よりやや荒々しい挙動をみて、ジュリが心配げにつけたした。


「うちの沙唯の報告を聞くたびに、ホァン先輩にご迷惑をおかけしているのではと気が気ではありませんでしたので」


 荒事の渦中であっても表情筋を出し惜しみするホァン・ヴァン・グゥエットだが、動作の端々にかすかな苛立ちが垣間見えるのは確かだ。六人目の侍女の薙刀を奪って床に放り投げた末に、縄で後ろ手にしばりあげるその動作を終えたヴァン・グゥエットは、さっと振り向き、いつまでもマーハに抱きとめられているサランへ切りそろえた髪越しに持ち前のアーモンドアイを向けた。


 約二ヶ月ほどの泰山木館ぐらしでサランにはこの言葉と表情を出し惜しみする、象牙細工のような美貌の上級生が何を言いたいのかを読み取り、ささっとマーハの側から離れる。そして、ぺコンと頭を下げた。


 まあヴァンったら……と、冗談か本気かわからないことを呟くマーハとは違い、サランが離れたことを確認すると、ヴァン・グゥエットはかつかつと靴音を鳴らし、愛する婚姻マリッジ相手のそばまで来る。

 きっとその手を取るのだろう、そんなサランの予想に反し、アオザイ風兵装の上級生はマーハのそばを通り過ぎ、回廊の突き当りをめざす。

 生涯一人と決めているはずのパートナーに背中をむけたまま、あいかわらず判じ物めいたセリフをなげかけた。


「月蝕はすぐに終わる。急がねば全て水の泡」

「──そうね、あなたの貸してくれた力を無駄にしてはならないわ。……ありがとう、ヴァン」


 ゆっくりとマーハは立ち上がった。その声は若干寂しそうに聞こえたが、それを受け止めるヴァン・グゥエットは背を向けているため、どんな顔をしているのかはわからない。


「礼は不要。我らが永劫積み重ねる罪業を濯ぐにはこれでも不足」


 サランにはまるで意味がわからない、そしてマーハに切なげな表情をうかべさせる言葉を口にしながら、麗しい上級生は真っ二つにわれた飛天像のそばに刺さった自身のワンドを引き抜いた。


 ぽおっと、雲のかかった月のように淡く輝いていたヴァン・グゥエットのワンドが、床から離れた途端に元どおりただの刃物に戻る。


 その瞬間、回廊の突き当たりに数本の光線が走り魔法円めいた幾何学文様を描き上げた。

 しばらくうちにそこそこ見慣れた現象であるなと確認しているうちに、その内側から見慣れた人影が飛び出してくる。


「サーメージーマーさぁぁぁぁぁぁんっ!」


 サランの名前を呼びながら現れたのは150cmほどに伸ばした金色の鍵に跨った、童話の女の子風兵装姿のミカワカグラは、空中でくるりとまずターンを描くとなれた動作でサランを見つけて駆け寄ってくる。大きな目がすっかり涙目で、サランの顔を見るなり安堵か何かでへたり込んだ。


「よ……よかったぁ〜……っ、ちゃんとここまで戻れたぁぁぁっ……っ! 一時は迷子になっちゃうかと思って怖くて怖くて……っ」


 可憐なカグラの顔もすっかり涙と鼻水でベトベトだ。どうやらサランにまけずおとらず、不安と恐怖に苛まれながらここまで生還できたらしい。ひんひんとその場ですすり泣く。


「並行世界単独曳航なんて、ぶっつけ本番で……っ、まっ暗いなか一人で移動するなんて怖くて怖くて……っ、灯が見えなきゃどうなってたかわかんない……っ。ううっ、こんなこともう二度とやらないんだからっ。私はタツミちゃんみたいにすごい子じゃないんだからぁっ……っ」


 うえええええ……っ、とカグラはサランにすがって泣き喚いた。どうやら緊張から解き放たれて、今ここに太平洋校の誇るスターの上級生が二人いることにまだ気づいていない。

 さっきまで派手に泣いて取り乱した仲間としてサランがカグラの羞恥心を肩代わりしながらカグラの背中を撫でてさすった。


「よしよーし、よくわかんないけどお疲れ様、ミカワさん……? 何がどうしてこっちに来たの?」


 サランの口にした問いにジュリが勢いよく乗りかかる。前のめりになってカグラに問い詰める。


「ツチカはっ⁉︎ ツチカは無事なの、どうなの教えて、ミカワさんっ!」


 乱暴といってよい激しさで両肩を掴まれ、ゆさぶられ、ひいっとカグラは怯えた声をあげる。

 そしてようやく、自分の周囲にサランとジュリだけでなく演劇部のスター二人がいることに気がついたようで、涙の浮かんだ大きな目を数度ぱちぱちと瞬かせる。そして自信なさそうにサランを見つめた。


「ね、ねぇっ、どうしてここにジンノヒョウエ先輩とホァン先輩がいらっしゃるの……っ、ねえどうして、サメジマさんっ?」

「それよりうちも、シモクのやつはどうなったか教えて欲しいんだけどミカワさんっ」


 二人の声をぶつからせた時、間の悪さをねらったとしか思えないタイミングでこちらへぬったりした声を響かせながら近くものがいる。


「おんやぁ、上のデカブツに目隠しした方がお見えになったと思ったらこれはこれは……」


 ばさり、と背中から広げた翼状のワンドをはばたかせてきたのは手にカメラを抱えたパトリシアだった。メンバーが増えたことにも驚いたそぶりをみせず、あいかわらずぬるっとした笑みをうかべる。一様にむっとするメンバーがいる中、マーハ一人品よく立ち上がり、微笑みを湛えて一礼してみせた。


「ごきげんよう。あなたが新聞部のパトリシアさんね、お噂はかねがね耳にしております」

「――演劇部さんで囁かれってェのはありがたいが、ロクな噂じゃなさそうで」


 演劇部の女帝ぶりを堂々と示すマーハを前にしても、パトリシアは普段の様子を改めもせず、いつものようにニヤァと笑う。マーハも女帝と呼ばれるだけあって、その程度の挑発に気分を害した様子はちらとも見せなかった。微笑みを湛えたまま、なぜか労うような言葉を口にする。


「貴女があのお顔を見てくださったお陰で、ヴァンが月蝕を起こしやすくなりました。それで子ねずみさんと文芸部長さんを悲しませる道が無事閉ざされました。お礼を申し上げます」

「……、止してくださいよゥ。あーしはただ滅多にない事象を記録しただけにすぎやせんので」


 ニヤァ、と人を弄ぶようなチンピラめいた笑いをうかべるのはいつも通りだが、頭をさげれては調子が狂うとばかりに、パトリシアは顔をそむけた。ゴシップ誌のパパラッチとしての矜持が傷つきでもしたのだろうかとサランは邪推する。

 動揺を隠すためか、翼の関節部に浮き出た目玉状の器官をギョロつかせているくせに右手にもったカメラを仏頂面のジュリに向けながら話しかけた。


「ところで文芸部長さん、さきほど口にされていたおとぎ話はこちらにおさめさせていいただきやしたが、よござんすか?」

「再度懲罰出撃に出向く羽目になっても良いというなら、お好きになさってください。止めはしません」

「それじゃあ遠慮なくお言葉に甘えさせていただきやすぜ」


 次から次へと曰くある上級生が姿を表すことに、カグラは混乱を隠さない。サランに視線になにがどうしてこうなったのかと尋ねてくる。ツチカがどこでどうして何をしているのかがすっかり後回しになっていて、答えてくれそうなそぶりはない。


 そんな神楽を怯えるように、ヴァン・グゥエットが真っ黒い空を見上げて一言はっきり口にした。


「月蝕はすぐ終わる」


 時間がない早くしろ、とその声音に響かせる。

 サランはとにかく、あまり接点のない上級生に萎縮しているカグラに語りかけた。


「えーと、とにかくミカワさん。いつもみたいに頭の中読んでくれるかな?」

「あ、うんそうだねっ。最初からそうすればよかった。私ってばどうしてこういう時にぐずぐずしちゃうんだろ……っ」

「反省はいいからっ、早くっ」


 その瞬間、サランの頭の中がぞわりと痒くなった。そして改めてこの人の能力は便利だなと思い知らされる。



 上空に浮かぶものの視線から自分たちを守りながら、サランとカグラは情報を互いの情報をやり取りした。

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