#50 ゴシップガール遅れて登場カオス連れ 又は 白妙の衣を纏いし少女子の濡れてあきらむ補陀落の渚
◇ゴシップガール復活SP 00:13:48◇
♪とぅーるる るるる とぅーるる るるる…… という、二十一世紀序盤の旧日本テレビ文化の記憶を持つ長寿者には懐かしいテーマ曲とともに画面が切り替わり、南洋に沈んだ黒鉄の艦の甲板にしつらえられたCGでできた珊瑚のテーブルを挟んでイソギンチャクのソファに腰を下ろして向かい合う、二人の少女の姿が映し出される。
司会者側の席に着くのはシュモクザメをデザインしたコスチュームに身を包んだCGアニメーションの少女で、ぎこちなくカメラに向かって手を振るのは白いワンピースに身を包んだ黒目勝ちの大きな眼が印象的な有名なワルキューレの少女だ。生配信番組に出演することに慣れていないことがあらわな緊張を隠さない様子をカメラが一瞬アップでぬいてから、ぱっとCG少女のバストショットに切り替わる。
『皆さんこんばんは。レディーハンマーヘッドの部屋でございます。本日のお客様はフカガワハーレムのメンバーとして人気をお集めになったあと最近では等身大の言葉でワルキューレの日常をつづった
『え、えーと、その、成り行きで出演することになりました、ミカワカグラです。どうもそのっ、初めましてっ。よろしくお願いします』
『こちらこそよろしくお願いします。――まー、あーたったら今日は素敵なお召し物で、制服姿や兵装姿もよくお似合いですけれど私服も可愛らしい……。
『え、ええ……』
『そしてそれをまとめた本までお出しになる予定があるとか。その話ものちほどゆっくり伺いますのでどうぞこのまま御覧になってくださいませ』
特徴的な鼻声による早口でそこまで語った後、CG少女は口調を切り替えた。
『てなわけでぇ、ちょっと予定を変更して乱入してきたカグラちゃんにお話をきくつもりのレディハンマーヘッドだよ? ――ん、んん? なんかここに来てこの配信の視聴率ってば上がってないない? ホラホラ』
レディハンマーヘッドを名乗る少女が自分の頭上を泳ぐCGのクマノミに手を伸ばし、尾びれに引っ掛けていたメモバインダーを取りはずしてそこに書かれたデータに目を通す。
『あ、やっぱり。カグラちゃんの出演とリリイちゃんの歌が流れだしたあたりから視聴者数と登録者数がぐんぐん上昇してるわ。さっすが現太平洋校期待のニュースター。潜在的ファン需要がすごいっぽいよ? どう思う、カグラちゃん?』
『え、えーとその……あ、ありがとうございますっていうかなんていうか……っ、ええと、こ、これからも応援よろしくおねがいしますっ』
ぺこん、と頭を下げたが、カグラの視線はおちつきなくCGでできた背景へ向けられがちだ。珊瑚礁の海底を模した背景も、水の中を思わせるぷくぷくというBGMも、少女たちの悲鳴や怒号、なにかしら物騒な射出音や打擲音を消しきれてないのだ。
それでもシュモクザメを擬人化したようなCGアニメーションの少女は合成した声でおしゃべりを続ける。
『ところでぶっちゃけびっくりしたんだけど、カグラちゃんって今日タツミちゃんとビーチをお散歩してたんじゃなかったの?
『え、ええとそのっ、リリイちゃんに誘われたんですっ』
『ふーん、本当に最近カグラちゃんってリリイちゃんと仲良しなんだぁ。――そういえばタツミちゃんとは結局のところどうなったの? さっきちらっと姿が見えた気がするけれど?』
えいっ、とレディハンマーヘッドの分身であるCGの少女が手を振ると再びシャコ貝のモニターが開き数分前の映像が公開された。手ブレの激しい映像が、日本刀型ワンドを構えた少女が疾走する様を捉えた一瞬の様子だ。その様子は次のカットでは適度なスローに切り替わる。不意を突かれた上級生の間を脇見も振らずに駆けぬける、トヨタマタタツミの鬼神めいた挙動が映し出された。
鋭く振り落とされたキタノカタマコの侍女の薙刀の切っ先を見極め、その柄に足をのせて踏切跳躍しながら刀を払い斬撃を放つ。スローモーションの映像は、首席ワルキューレの名に恥じない身のこなしを捉えていた。ほれぼれするような鮮やかさだ。
『うーん、カッコいい~。やっぱタツミちゃんて間近でみるとただのお転婆さんじゃないよねぇ。こういうところもっとアピールすればいいのに』
『タツミちゃんはアピールとかあんまり考えない子だから……。なんというか、いつも直球っていうか、わき目を振らないからこそタツミちゃんっていうか……』
『へ~、つまり裏表がないってところ?』
『そ、そういうことになるの……かなっ?』
カメラはカグラのバストアップを抜くが、彼女の視線は不安げに自分の斜め上を見上げた。その表情がどんどん恐怖に彩られ、カメラのブレも激しくなる。そもそも少し前から遠雷のような音がするたびにCGのセットがざわざわと乱れるのだ。これは明らかに何か起きている、とモニターの向こうの視聴者が映像をのぞき込もうとした瞬間。カグラはイソギンチャク型のソファから素早く立ち上がる。そしてカメラの位置も激しく動いた。眩暈を起こしたようにぶれたカメラは空を映しだす。
全天、不可解なオーロラに覆われた空には黒々とした巨大な影が無数に浮かんでいた。比翼をはやしたそれは二十世紀の古生物図鑑に載っていそうな翼竜そっくりだ。
ごめーん二、三匹撃ちもらしちゃったーしっぱーい、いやああもーっなんでこんな時にー、退避退避、姉さん方一旦退却した方が、びえええええマスターっマスターっ……! ちょっともういつまでも泣かないで……等、様々な怒号悲鳴指示命令泣き声混乱困惑様々な声がひと固まりの騒音になった瞬間、一帯がカッと明るくなる。まるで大量の炎であたりの棕櫚林が燃やされたように。
実態は空を舞うように泳ぐ翼竜型侵略者が円錐型の嘴を開き、熱線を放ったのだが。
侵略者が空から怪獣映画めいた攻撃を放つというライブ映像を配信する手ブレの激しいカメラは、さらにいっそう大きく乱れた。ぐるりと空を舐めるようにカメラは角度を変える。白熱したスペクタクル映像がそこだけは静かな水平線そばの星空を映しだし、それを見ていた人々が思わず舌を打った所、姿は見えないが優しく甘やかな声を集音機は拾い上げたのだ。
『お怪我はなくて、リモンさん?』
直後、カメラのマイクはミカワカグラの、いやあああああっ!、という絶叫と、即座に空へ向け空に光り輝く巨大な弧を描きながら跳ね返される熱線の軌跡が映し出される。それはちょうど翼竜型侵略者にヒットし、上空で連鎖爆発を起こしたらしく南洋の夜空は大型の花火が炸裂したように明るくなった。
『た~まや~……って、ちょっとねえっ、今あたし映って無くないっ? フレームの外に追い出されてなくないっ? ねーちょっと! カメラの子ってばぁーっ』
拡張現実上の少女の音声信号だけが途切れず配信されているが、カメラは爆発のおさまった空をうつしたまま固定されていたが、しばらくしてガタガタと微調整された。
そこでアップになったのは、ウエーブのかかった黒髪とミルクティのような色の滑らかな肌をした少女の、咲きほこる大輪の花めいた華やかで優美な微笑みだ。
長いまつ毛で縁どられた黒い瞳がきらめいた鮮やかな眼元に慈愛を湛えつつ、浮世離れした美貌の佳人は完璧な角度でカメラをのぞき込みながら優しい声をかける。
肩のあたりにはらはらとかかる黒髪を何気なくまとめる手には、じゃらじゃらとした腕輪がぶら下がっている。
『先輩の言いつけをよく守るのはいいことですけれど、あなた自身を護るのも大切よ? よろしくて?』
『――は、はいぃぃっ、あああありがとうございやすっ。あっしなんかの為に先輩の手を煩わせちまうとは――』
『あら、おしゃべりしてはダメ。今配信中でしょう? 声が入ってしまうわ』
『も、申し訳ねえっ。言い訳するのぁ情けねえがどうにもなれねえ作業でやして――ッああっと!』
また激しく映像がブれ、たかくかすれた少女の伝法な言葉が拾ってしまう。おそらく、翻訳機能がこのおかしな口調で訳している台詞を発しているのがカメラを持つ少女のなのだろうと視聴者は気づくが、たまたまこの配信を見ていた者たちの関心はすでにそこにはなかった。ようやく映像のブレがおさまったカメラが収めたきらびやかな少女の前身だ。
そしてこの華やかで優美な少女の姿が、おかしなゲリラ放送番組で視聴可能であるという情報は環太平洋圏を中心に世界中を高速でかけめぐった。
太平洋校演劇部のスター、ジンノヒョウエマーハのある意味非常にレアなワルキューレ兵装姿が今なら拝めると、演劇部ファンを中心に一気に拡散される。視聴者のカウンターはみるみる回る――。
半袖の白いブラウスにシックなグレイのジャンパースカート、黒いストラップシューズに三つ折りの白いソックスという名門女学校の制服のようなスタイルに、背中をおおうほど長くたなびいた金糸で刺繍の施された緋色のベールのついた冠をいただいている。腕は色とりどりの装身具で飾られている。女学校の制服と民族衣装を組み合わせたようなその姿は、演劇部女帝のワルキューレ兵装だ。彼女であるからこそ堂々と美しく着こなせるものだ(太平洋校のワルキューレは兵装のデザインがイマイチだというのは不名誉なパブリックイメージである)。
太平洋校にくるまでは世界の尾根で女神をやっていたと知られる佳人は、鮮やかな緋に塗られた爪と豪奢な金の指輪で飾られた右手にワンドを持っている。燃え盛る竜が巻き付くような彫刻のほどこされた剣だ。実戦用ではなく祭具であるように見えるその剣をもち、優美な表情をりりしく引きしめて空を指す。その先には大きくとがった鉤爪を向けてこちらへ滑空する比翼を開いた翼竜型侵略者の影があった。
マーハの背後が揺らめいて炎に包まれた剣を握る巨大な腕が出現し、その剣でもって地上に蠢く人間をさらいにきた侵略者を紙切れのようにめらりと燃やし尽くした。侵略者の躯は一瞬で火の粉になり、地上に到達することなく全て儚く消えてゆく。
それと同時にマーハの背後に出現した腕も消え、舞台上でしか見せない凛々しい表情のこわばりをふっと解いてスターは再び柔和に微笑んで、ブレなくなったカメラへ向けて手を振った。全世界のマー様担なら知っている意外とおちゃめなスターの気さくな一面が現れた瞬間を、今度はしっかり収めるカメラ係のワルキューレ。
――その一瞬が映し出されただけで、ゲリラ放送は加速度をあげて転載される。仕事の早いものがいて、リリイやカグラやマーハの映った部分を編集した非公認動画を自分のSNSに流し、小金を稼ごうとするものもあらわれる。
よって番組視聴者数を示すカウンターは一気に回転した。
さらに、と言わんばかりに今度は空から一人のワルキューレが一直線に舞い降りてくる。
『マーぁちゃああああああああんんんんんん!』
後半に近づくにつれ大きくなるその声の主は、ピンクのチアリーディング風衣装に身を包む、おおよそ環太平洋圏では知名度でも戦闘力でもアイドル性でも総合的な評価は一番高いワルキューレの一人だ。
くるくると飛び込みの要領で回転しながら地上へ降りてきたレネー・マーセルは、頭を下にした状態から手を伸ばし、とん、と一瞬地面に手をつきバク転を決める。それだけで数十メートル上空から地上に降り立った上に、同級生の着地点をちゃっかり見極めて少し脇へどいたマーハの手をとって、ブロンドのツインテールををなびかせながらくるくると無邪気に回って見せた。
『ありがとおおーっ、助かっちゃったぁー。あはは、それにしてもやっぱすごいねぇマーちゃんはぁ~。やっぱナッちゃんの次くらいに強ーい』
侵略者が群れなして舞い飛ぶ空の下で楽しくてしようがなさそうに笑う、チアリーダースタイルのレネー・マーセルは最後にマーハのことをぎゅっと抱きしめた。そしてすぐさま離れて、両手にそれぞれポンポンをもったまま海岸方向へ向けてダッシュする。
通常の人間では出せない速度の助走をつけ、勢いをつけながら何度か宙がえりをしたのちに再び大きく跳躍する。ロケットのように鋭く飛び上がった先にもいたのが新たな翼竜型侵略者だった。その体は駆除すべき敵の頭上にある。
インファイトにおいては太平洋校イチと誰もが認めるレネー・マーセルの姿を追うカメラは、豆粒のように小さくなった彼女を何とか拡大し、ポンポンごと握りしめた両こぶしを、地上へ向けて口から熱線を吐こうとしていた侵略者の脳天に叩きつけた。
ワンドで武装しているとはいえ、十七歳少女の拳と全長十数メートルはある侵略者の体である。本来ならば勝ち負けも何もあったものではないというのに、豆粒のような少女の拳は十倍は大きい体をラグーンへ向けて叩きつけた。
爆発じみた音と棕櫚の樹が数本倒れるような衝撃波は、海上に巨大な水柱があがってから巻き起こった。
衝撃波にカメラ係は吹き飛ばされたのか、悲鳴とともに、カメラはごろごろと回転する。その際に、翡翠色のアオザイ姿の誰かがマーハを抱きかかえて退避するようすがちらっと映ったが、そこに注目した視聴者の数はごく少数に限られた。
ゲリラ配信視聴者における太平洋ワルキューレファンは普段2ショットになることはない特級の二人のレアもレアな一瞬に黄色い声をあげたり、心臓を抑えたりするのに忙しく、また心無い一部のものは貴重な瞬間だけを切り抜いた動画を自身が公開する有料チャンネルに流す作業に忙しかった。
カメラは現在、踏みにじられた芝生をアップにしたまま動かない。
しかししばらくして、フレームの外へ追いやられていたCG少女がひょっこり姿を現して、人ごとのように腕を組んでうーんと悩んでみせた。
『うーん、今更だけどカメラ一つしか体勢でこの状況伝えるのって、無理じゃね? じゃねじゃね? もう一台カメラ欲しくね?』
にゅっと、キャラクター化されたエンゼルフィッシュが「ムチャ言うな!」と書いたスケッチブックをみせるために現れて去ってゆく。それを見て、シュモクザメを擬人化した少女キャラクターはまったく悪びれもせずにケラケラ笑った。
芝生の向こうから厚底のスニーカーの足が近づいたと思ったら、再びカメラが激しくぶれだす。
激しい地震のように上下に揺れる画面の中央を、拡張現実上にしか存在しないCGの少女はあつかましく占拠することで映し出される光景を巧妙に隠しながら、高らかに陽気に悪びれもなくおしゃべりを続けるのだ。
『あはは、やべ。怒られちったー。――てなわけでいまちょーっと収集つかないような状態だからリリイちゃんのMVでも流しとく? 旧作でもいっとく? OK? ――はい、準備できたみたい。はい、じゃ、どうぞー』
肉体をもたない少女のキューだしにあわせて風景はぱっと切り替わる。
夕暮れの南洋の波打ち際を、水着にパレオをまきつけたスタイルのリリイが歩く映像に、王子様を追って人間に生まれ変わることを決意した人魚姫の気持ちをうたったポップチューンを合わせたものが流れだす。
それを見た視聴者たちはようやく一息をついた。
◇◆◇
九月三十日の放課後、ミカワカグラとトヨタマタツミがビーチを散歩していたのは事実である。
カグラの
制服姿の二人の少女が無邪気にはしゃぎまわるスナップ写真を貼り付けられていることからもそれは顕著だ。
ただしカグラの
つまりこの時ビーチに居たのは二人きりではなく、少なくとも一人以上の第三者がいたことを示している。
「はいもういっすよー。お疲れさんですー。――うっわやっべ、我ながらすっげ可愛いの撮れたんすけどマジでっ。見てくださいよ~ミカワパイセンっ。あ、トヨタマ先輩もどぞー」
二人の写真の撮り終えるなり、猫目を嬉しそうにニコニコ細めてぴょんぴょんと近寄って来るのは、
実際その写真はカグラがみてもなかなかよく撮れたものだった。
自分もタツミも、飾らない普通さが、とくになんてことのない穏やかな日常の一場面が、初めてできた親友と仲直りできた日の笑顔が、自分でみていても眩しいような一瞬がみごとに切り取られていた。
タツミのフォトジェニックさは知っていてカグラだけど、普段の自分がこんなにいい表情をしているのだと初めて気づいて、猫目の猫顔なのに仕草や挙動が人懐っこい子犬みたいな後輩に向かってはにかんでみせた。
「わあ、ありがとう~。ねえ、タイガちゃんて写真撮るの上手だよね。これなんか、私じゃないみたい」
「はー? なーに言ってんすか、オレの写真より実物のパイセンのが数万倍かわいいし。やべえくらい可愛いし。自信もってくださいよー、もー」
小麦色の肌に脱色したショートボブの髪、ニイッと笑う口元からキャンディの棒をはみ出させた
クラフト紙を模したページには、事前に書き入れていたメッセージがすでにある。ペンの形で表示された文字入力ツールを手に、カグラはさっきの出来事を書き入れることにした。
《今日は、久しぶりにたつみちゃんと一緒です。
こうして二人の写真を撮るのも久しぶりだなぁ~……、あ、でもたつみちゃんの写真をここに貼るのは初めてだ。
今日はこうしてのんびり、二人でビーチをお散歩してます。
ここしばらく二人で話したり遊んだりできなかったから、波打ち際ではしゃいだり、きれいな貝がらの中にいたヤドカリにびっくりしたり、そんなことでおなかが痛くなるくらい笑いました。
写真はその時に拾った貝がらやシーグラス。これで何かつくれないかな?》
一方、タツミはタイガへの警戒心を解かない。険しい表情で左手を振り、飾り気のない画像管理ファイルを表示するとタイガの撮ったスナップ写真を無造作に収める。
一か月と少し前、派手に制服を着崩したこの下級生にカウンターを入れられたことが親友の中にわだかまりを残しているのだ、と、感応能力者であるカグラは自然に察する。
不機嫌な表情で、タツミはカグラを見て尋ねた。
「ねえ、カグラってば何がどうしてこの子達と仲良くなったの?」
「え、えーと一言で説明するのは難しくて……ビジョン送ろうか?」
「ううん、作戦行動中でもないんだから今度口でゆっくり説明してよ。――カフェでお茶でも飲みながら」
「! そ、そうだね。うん、そうしようっ」
カグラの胸にじわっと温かいものがあふれる。
カフェでお茶でもの飲みながら――。そういえばタツミとそんな時間をすごせなくってしばらくたっていたのだ。
以前は頻繁にフカガワミコトにあんなことされただの、ジャクリーンにからかわれただの、実家から八尋を通して帰ってこいと何度もせっつかれただのと、埒もあかない話をよく聞かされていたのだ。カグラは主に聞き役に回っていたものだけど、そのたわいもない時間が大好きだった。女友達とお茶しながらおしゃべりするなんて、孤独な小学生の頃に憧れた学園ドラマや少女漫画の登場人物のようだったから。
カグラは自然と笑っていた。カメラの前ではにかんで見せるのではない、心から楽しいときに浮かぶ明るい笑顔が浮かんでいた。
自分が自然に笑っていることにあとから気づき、そしてこうしてタツミと屈託なく笑いあうのが約二カ月ぶりということをふと意識する。
たかだか六十日少々なんて宇宙の歴史や多元世界の回復運動にくらべればほんの瞬間に等しいことを知ってはいたけれど、それはそれとして今この人生を生きているカグラにとってはとてつもない長い期間だった。
ふいに意味もなくカグラはタツミの手を握る。ん? というように見下ろすタツミに笑いかける。
「カフェもいいけど、私がなにか作ってあげる。そろそろハロウィンだからカボチャのプリンかパイがいいいかな? それ食べてもお茶会しようよ」
「ほんとっ⁉ やったあー、だったらプリンがいいっ。こんな暑苦しい島でパイとか食べたら喉に詰まっちゃうし。――嬉しいなぁ、またカグラの作ったお菓子が食べられるんだ」
「そうだよ。――そのかわり約束して。私の質問にはちゃんと答えること! 私にはへんな遠慮しないこと! この二つの約束はちゃんと守ってね。大体、私相手に隠し事は絶対無理なんだから」
「わ、わかってるって――。大体あたしがカグラに嘘なんて吐くわけ無いじゃない」
なにかをごまかすようにタツミは唇を尖らせてきまり悪げにそっぽを向く。それを見てカグラの胸が少しだけきゅっと痛む。でもそれは耐えられないほど苦しいものではない。
確かにタツミは彼女の恋人と同じように、嘘を吐くのが得意じゃない。心の声を聞くまでもなく、言動一致ぶりは猪突猛進な性格からうかがえる。だからといってタツミはみんなが思うほどあけすけで単純な性格ではないのだ。
そっぽを向いたのは、ただきまり悪かったからではない。
自分が親友より好きな少年を取ったことで、カグラの作ったお菓子を食べながらあれやこれやと雑談に興じるという、ただ楽しいだけの無為な時間をすごす権利は失われたのだと覚悟していたタツミが、鼻の奥がつんとするのをごまかすためだとカグラには分かっている。胸の奥には感激と感謝、そして罪悪感とカグラの純真さを讃える感情が満々と波打っていることも、感応能力をもつカグラには皆お見通しだ。
タツミのイメージの中にいるカグラは一貫して、小さくて可憐で控えめながら概ね笑顔を浮かべて過ごしている、愛くるしい女の子だ。まるで
タツミの中にいる「女の子」像と入り混じってできあがった親友の中にいる自分のイメージは、『ハーレムリポート』で描かれる地味で大人しいけど家庭的で芯はしっかりしている女の子(おまけにおっぱいが大きい)像より、カグラにきまり悪い思いをさせるものだった。
フカガワミコトに差し入れを手渡す姿を目撃して、タツミが胸をちくちくと痛ませていたことも本当は知っている。
きっとフカガワはカグラみたいな女の子が好きなんだろうな、と、自分の隣を歩きながらため息がこぼれるのを抑えるために空元気をだしていた日のことも知っている。直情径行で猪突猛進の激情家なのは疑いようのあい事実だけど、タツミだって自分のコンプレックスについて悩むし友達に気を使うような繊細な感受性を持つ優しい、純粋な女の子なのだ。
――少なくとも、家柄もよく才色兼備な首席ワルキューレのこの子が「女の子」らしく振る舞えないことにこっそりコンプレックスを抱いていることに驚き戸惑いつつも、優越感を抱いた自分なんかよりもずっと清らかな女の子だ。
親友が胸を痛ませることを知って、好きな男の子に二度三度と差し入れを用意した、そんな醜い感情を潜ませた自分なんかよりずっと性根がまっすぐな女の子だ。
――そういうタツミちゃんだからきっと、フカガワ君は好きになったんだ――。
その答えは、導き出されるたびにカグラの胸をきゅっと突き刺すものだ。静かに受け入れるしかない敗北感を味合わせるその痛みをごまかすために、あえてカグラはニコニコ笑う。無理にでも笑顔をつくると感情も胡麻化されて涙も引っ込む、という、最近仲良くなった下級生のアドバイスにカグラは従った。
失恋の痛みや、極力小さくすることはできても消し去ることは難しいタツミへの蟠りを膨らませたりで、この貴重な時間を邪魔にしている場合じゃないのだ。
タツミとまたお菓子やお茶を挟んで無為な時間を過ごせる仲に戻れたことは、カグラにだって嬉しいことなのだから。
「ところで、さ」
そんな理由でニコニコと笑顔になるカグラの方へ、タツミは視線を戻した。こぼれそうだった涙は引っ込んだようだが、あっという間に乾いた瞳は胡乱気な感情を宿している。
タツミがみているのはカグラではなく、どうやらカグラにじゃれついているメジロタイガだと知れた。
「えー、お茶会~。いいなぁ~、パイセンのプリン食いてーなぁ。ね~、オレも参加しちゃあダメっすかぁ?」
カグラの背中からだきつく格好でタイガは堂々と甘えている。
フルーツ香料の匂いで染まった息まじりにわがままを口にして、ぎゅっぎゅっと腕に力をこめる。その都度、敏捷かつ力強い活動を支える筋肉のしまった体や、カグラのそれとは違って勢いよく前にせりだすタイプの胸(横に広がり気味で不必要に肉付よくみせてしまうタイプの胸を持つカグラにとっては単にうらやましい)が押し付けられるのだ。
――タツミはカグラに対してやたら馴れ馴れしいこの下級生の存在が面白くないのだ。わざわざ心の内を感じ取るまでもなく、それくらいのことは顔つきでわかる。
無理もなかった。タツミは夏休みに彼女からカウンターを食らわされているし、自分のいない間に寮の部屋のドアを壊された上に、土足で侵入されていた。
おまけにタイガも、タツミに対する敵対心を隠そうとしない。カグラにだきついたまま、猫みたいな眼に敵意をこめてタツミを見やる。
「なんすか、先輩? ジロジロみないで欲しいんすけど~?」
タイガがタツミを敵愾心を抱く理由もシンプルでわかりやすかった。夏休み、彼女の大事な人に峰打ちをくらわせたタツミのことがまだ許せず、寛容な態度をとることが適わないのだ。
――この子、可愛くない。
――いけすかねえ、こいつ。
視線をぶつけ合う二人の心の声を感じ取ったカグラがどうすべきか逡巡しているすきに、タツミがふっと瞬きをした。こんなあっぱらぱーな恰好をした下級生と張り合ったって格が落ちるだけ、と自分に言い聞かせるという上級生に相応しい自制心を見せている。
腕を組み、ふっと息を吐くと、キャンディの棒を挑発するようにぴこぴこと上下させるタイガを見下ろした。
「ま、いいけど――とにかくあんた、シャツのボタンとめたら? 前開きすぎでみっともないんだけど」
「――。うぃーす」
「⁉ ちょっと待って、あんた今チッって舌打ちしなかった? チッって! どういうつもりよ先輩に向かって⁉」
「気のせいっすよ先輩。――つかいわれた通りボタン止めてんすからごちゃごちゃ言わないでくださいよ、もー」
「っ、いいっ? あのね、ワルキューレは少女の模範たるべく服装は清潔を第一とした着こなしをするべしって生徒手帳にも書いてあるはずでしょっ!」
「うっわだっせ、生徒手帳まともに読むやつとか実在したんだ、ありえねー。――つーかすっぽんぽんで野郎のケツ追いかけまわしてた先輩に制服の着こなしがどうのこうの言われたくねえんすけどー⁉」
「誰の事言ってるのよ誰のっ! あたしは人前で全裸になったことなんかありませんから!」
「あー、そうでしたねー。パンイチで駆けずり回ってたんですね~。それだけでも大概っすよ、大概。完全い痴女じゃねっすか超やっべ」
「パンツ一丁じゃないし! 上だってつけてたから!」
「何必死こいてんすか、目くそ鼻くそだしマジ受ける」
「――……、あんた何? ひょっとしたらあたしに喧嘩売ってる?」
「そうだっつったらどうすんすかぁ? 学年首席のトヨタマ先輩?」
タツミとタイガはぎりぎりとにらみ合う。俗に言うメンチの切りあい状態だ。
どうしよう……と、困惑するカグラだが罵り合う二人の視界には既に自分はいない。とにかくカグラは再び自分の個人誌を表示して、本日のメッセージを最後まで書き込むことにする。
《わたしにとってたつみちゃんは初めてできたお友達です。
ときどきとんでもないことをしちゃう子だけど、やっぱりわたし、たつみちゃんに出会えてよかったなって思います。
――やだ、なんかはずかしいな。
こんなことを書いちゃうのも、マグノリアハイツから古い映画の音楽がきこえるせいかも。
今日は演劇部さんたちがお茶会を開いているみたい。さっきもおしゃれした人たちとすれ違いました。
演劇部さんたちのお茶会ってどんなのだろうってたつみちゃんとおしゃべりして、想像もできないねって二人でまた笑ったところです。
お茶会って言ってるけど、きっとお城のダンスパーティーみたいなんだろうなぁ……。
それじゃ、今日はここまで。みかわかぐら、でした。》
「たーちゃ~ん、ミカワせんぱ~い、お待たせしましたぁ~」
脳がとろけるような甘く高い声をした下級生が、さくさくとビーチの砂浜をふみしめながら近づく気配があった。
キリよく《みかわかぐら、でした。》とメッセージを最後まで書き入れることのできたカグラは右手を振って
「リリイちゃーん、言われた通りに来たよ~」
ここ数日で仲良くなったメジロリリイは、カグラへ向けて小さく手を振って微笑んだ。
涼感繊維で編まれた薄手のロング丈のベージュのカーディガンを羽織っているリリイは、ここがまるで高原であるかのような涼やかな表情を崩さない。やっぱり本気でトップアイドルを目指してる子はちがうなぁ、とカグラはしみじみ感動してしまう。焼け付くような日差しの下で、リリイは汗一つかいていないのだ。
でも、リリイはこちらをみて即座に形良い眉を少しつりあげてから、子供っぽい口調で抗議を始めた。もっとも相手はカグラではない。
「もうっ、たーちゃんてばまた先輩にそうやってベタベタするぅ! ミカワ先輩困ってらっしゃるでしょう~! それにそういうことしていいのは私だけってこの前約束したじゃない。もう~」
声に相応しい甘く可愛いやきもちを焼いてから、ぷうっと頬を膨らませた。十四にしては大人びた蠱惑的な美貌の下級生だが、そうやって子供ぶった表情を作ると年相応の少女らしさがあふれんばかりになって愛くるしい。
本当に奇麗な子だなぁリリイちゃんて――と、素朴に下級生の図抜けた美貌をカグラは讃えるが、そんな彼女から熱烈に慕われているタイガはまだカグラに抱き着いて、え~もうちょっとだけ~、などと言って名残惜し気にカグラを見上げ、露骨な上目遣いになる。
タイガの猫目とフワフワしたショートボブの髪のせいか、カグラの胸には甘えたな猫に体を擦り付けられたような感情が湧いてしまうが心を鬼にした。ぐ、と、タイガの両肩を掴んで引きはがす。
「ダメ、タイガちゃん。この前約束したでしょう! リリイちゃん以外の人には簡単に抱き着いたり好きって言ったりしませんって!」
「ええ~、いいじゃないすかこんくらい~……」
「よくないです! リリイちゃん以外の人にはハグしません、軽々しく好きって言いません、はい復唱!」
教官ぶってみたカグラの指示に、しぶしぶと言った態度でタイガは従い、だれがどうみても守られる気配のない約束事を大人しく繰り返してみせた。
そんな茶番を演じている間に、笑顔に戻ったリリイは三人の傍まで近寄っていた。一歩ずつリリイが近寄るたびに、リリイの異様に迫力のある自分への信頼と義理堅さが強まり、カグラの背は自然としゃんとする。
・ミカワカグラはメジロタイガを決してたぶらかしたりしない。
・タイガを甘えさせることはあっても、それは上級生が下級生を可愛がる域のものである。その範疇は越えることはない。
・よってリリイからタイガを奪ったりすることは絶対にない。
その三項目によって、血と汚泥にまみれた過去をその華奢な体と美貌の下に秘めている下級生はカグラのことを強く信頼してくれているのだ。
ほら、ミカワ先輩もこう仰ってる~、と言いながら不埒無作法なタイガの手を握るリリイは心からのびのびとやすらいでいる。こうしてリラックスできるのも、カグラがタイガを人懐こい下級生としか見てないからであればこそ、らしい。
どんなグラビアやMVの神がかったショットだってかなわない素直な笑顔のリリイの胸からは、カグラへの感謝と忠誠心の声で溢れている。こういう気持ちに接すると、色々誤解されやすい子ではあるけれど本当のこの子は義理堅く純粋な子なんだとカグラは自分の胸をじんと熱くしたりする。
――まあ、心の中でカグラへ捧げる感謝の辞が「先輩、まっとってつかあさい、このご恩必ず返さしてもらいますけえ」という忠誠心とドスを十分に効かせてものであることにはなかなか慣れないのだが。
ともあれリリイは、日傘の中に入ってうるなりひな鳥のようにあーんと開けたタイガの口へ、フィルムをむいた真っ赤な棒付きキャンディを入れてやりながら尋ねるのだった。
「でぇ、たーちゃん。先輩たちに、あれ、渡してくれたぁ?」
「――あー……、まあ、待てって」
口の中でキャンディを転がしながらタイガがこういうと、またリリイがむくれる。
「やだぁ、まだ渡してくれてなかったのぉ? もうっ、時間ならいっぱいあったじゃない。何してたのよう~?」
「今さっきまで撮影会やってたんだよ。ミカワパイセンの
本当~? 実は忘れてたんじゃない~? とリリイに揶揄うような口調でちくちくと疑われながらタイガは極端に短いスカートのポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。
それは、腕章だ。
新聞部、そして『夕刊パシフィック』のロゴが刺繍されているものが二つ。それをタイガはカグラとタツミにそれぞれ手渡す。
「――はい、これさえありゃあお二人は新聞部として堂々とお茶会に潜入できます」
ニッ、とおもにカグラに向けてタイガは悪びれも微笑みかけた。
人懐っこくて憎めないが、報道精神といったものを全く感じない(もっと言えば活字文化というものから数光年くらい距離がありそうな)メジロタイガが新聞部員だと知った時はカグラは少なからず驚いた。
冗談ではないかと今でも思うが、タイガはしっかり悪名高いゴシップ誌とはいえ新聞部の刊行物であるには違いない『夕刊パシフィック』の腕章をすでに腕にとりつけている。
身分証、通行証、取材許可証等々、学園島内では様々な機能や効果を発揮する端末でもあり一般候補生なら電脳の規制の干渉すら無効化する力をもつ腕章は、当然おいそれと部外に持ち出していいものではない。バレたらなにかしらのペナルティはあるはずだ。
そのことを案じてカグラはおそるおそる尋ねた。
「ありがとう、タイガちゃん。でも本当に借りちゃっていいの? 怒られたりしない?」
「大丈夫大丈夫、ここだけの話ウチのデスクも構わねえっつってくれたんで~」
「構わないったって――、あんたのデスクってあのロクでもないゴシップ新聞の主筆でしょ? その人に借りをつくるってわけ?」
汚いものを持つように指先で腕章をつまみあげたタツミをみて、タイガは即座にむっとした顔をつくる。
あわてたカグラは、タツミちゃん! と小声でたしなめた。性分的にゴシップメディアにいい顔ができないのはわかるが、タツミのしぐさは自分たちのためにルールを破ってくれたタイガに失礼だ。案の定、タイガはぎゅっと眦を吊り上げケンカ腰になる。
「――あ? いーんすよ、いらねーっつううなら返してくださって~。ただその場合、あんたの大事なフカガワのヤツが生徒会長となんかやったりされたりしてる所が確かめられねえっつうだけっすけど~? お茶会の外っかわでイライラする羽目になるだけっすけど~?」
「な、何よっ、こっちが頼んでも無いのに勝手にこの話もってきたくせにその言い草! ――大体、あたしは別に演劇部のお茶会のことだって、気になんて……っ、全然……っ、別に……っ」
とたんにタツミの顔が赤くなり、言葉の歯切れが悪くなる。タツミがフカガワミコトのことになると普段の言動一致ぶりがどこかへいってしまい、本音とは真逆のことを言いだす癖は以前のままだった。
ああこれでこそタツミちゃんだ、と懐かしさに囚われるカグラとは違い、タイガは白けたようにキャンディを一旦口からわざわざ出して、チッと舌を打った。今度はしっかり聞かせる意志があったらしい。
「あーめんどくせ~、意味わかんね~。トヨタマ先輩がフカガワミコトのヤツが好きだってことなんか全世界の奴が知ってんのに恥ずかしがるとかマジクソウケるんですけど~? で、この腕章いるんすか、いらないんすか?」
「要らないなんて誰もいってないでしょ⁉ 要るわよ、悪いっ⁉ ――ほんっとに、あんたいい加減にしなさいよ、今度生意気な口叩いたら先輩権限で立ち稽古につきあわせるから!」
やけになったようにタツミは叫び、腕章を腕にとおすと安全ピンで袖にとりつけた。
フカガワミコトが演劇部のお茶会に招待された。それというのも、演劇部部長・ジンノヒョウエマーハのじきじきの
お茶会に招かれていないタツミは、そのことが不安で不安で仕方が無いのである。
普段は同輩に対しても冷淡なくらい無関心なのに、なにかというとフカガワミコトにだけは気のあるようなそぶりや、意味ありげな視線を向けるマコのことを、タツミは以前から警戒しているのだ。恋敵以外の危機感も抱いているようだが、自分の目の届かないところで何か悪いことがおきるのではないかという不安を素直に表現できないのである。
フカガワミコトのもとに届いた招待状、その直後とんでもないスキャンダル、それらのできごとがタツミの直情径行な気質を焚きつけたのだ。表面上はどっしりかまえてみせたのだが、「お茶会に潜入できる方法があるんだって」と、リリイ経由で持ち込まれた話を囁いたとたん、授業が終わった途端になんのかんのと理由をつけてカグラを指定された待ち合わせ場所であるビーチまで連れ出したのだった。
こういう分かりやすいところがやっぱり好きだとカグラが心を温めている時に、リリイが左手を振ってワンドをとりだす。瀟洒な造りの香水瓶である。
「はーい、じゃあミカワ先輩、トヨタマ先輩、仕上げやっちゃいますね~。お二人がそのまま新聞部さんに混ざっても当然バレちゃいますからこれでちょーっと、第三者の視覚と嗅覚ごまかしちゃいまーす」
なんでもリリイのワンドは潜入工作特化型で、ふきつけた対象の屈折率を変化して様々な姿に変装してみせたり、姿を消して見せたりすることや、その対象がもつ固有の匂いをけすことで誰にも印象を残さないように細工をすることができるらしい。効果は使用者の念の強さによるという。
「ほんというと、お茶会がはじまる直前にやりたかったんですけど~、私もちょっとばかりやらなきゃいけないことがたーっくさんあったりするのでぇ~」
リリイもタイガと同じ棒付きキャンディを取り出してゆったり舐め始めてから、香水瓶をこちらに向けると、にっこりと愛らしくほほえんでみせた。
「はーい、じゃあいきますね~、いっちにーの、さん」
シュッ、と、フローラルな霧状の液体を体に吹き付けられる。これで二人は名もなければ存在感も無い、無名の新聞部員になりおおせたのだった――。
工作の手助けをしたリリイは用事があるからと言って、タイガの手を取って先に立ちさった。その別れ際に、いつもトレードマークのように持っている日傘をぱちんと閉じて、カグラに預けたのだった。
「先輩、この傘しばらく預かっててくださいます~? 本当はたーちゃんにお願いしたかったんですけど、たーちゃんもたーちゃんでちょっと忙しくってぇ」
「そ、それぐらいは全然かまわないけど――」
この傘はリリイにとっては非常に大切なものであり、これを託せる人間はよくよく彼女からよくよく信頼されている者に限られる。
そのことを美しい笑顔のリリイから零れ落ちる心の声で知ったリリイは、おそるおそるそれを受け取ることにした。
――そしてその日傘は現在リリイの手元にあり、容赦なく警備員に礫の雨を横殴りに降らせている。
「なるほど、そんなことが……」
レディハンマーヘッドのアバターでもあるCG少女とのトークを中座し、大きな鍵の形をしたワンドを召喚するやいなや「いやあああああ!」という絶叫ととともに侵略者からの攻撃ならばなんでも反転できる魔法陣型障壁を展開。空に居る侵略者が吐いた熱線をすぐさま跳ね返して虹色に輝く空を爆発で彩ったのち、ミカワカグラはサランたちの下へ駆け寄ってきた。
リリイの日傘の蔭で身をまもりながら、なにがどうしてカグラとタツミがプレス席にまざりこんでいたのかという問いをサランが口にしようとした即座にカグラが頭に流し込んできた圧縮したビジョンはこのようなものになった。
単なる事象だけでなく、一人の少年をとりあうことになった親友に対するカグラのセンチメンタルな感情まで加わったメモリの多すぎるビジョンを流し込まれた結果、頭の中は猛烈に痒くなった。わしわしとつい頭をかきむしりながらサランはつぶやく。
「とりあえず事情は呑み込めたけど、なんでミカワさんはまたワンピースなんてきがえてたの、わざわざ――?」
『ああ、これ? あのね、お茶会が始まる前に
ハイウェストの清楚なお嬢様風白いワンピースは、サランの記憶が確かならあの六月末、さんお書店までフカガワミコトを迎えに来た時に着ていたものだ。
流し込まれたメッセージに、ふんふんなるほど、と頷くサランの耳たぶをなにものかが引きちぎらんばかりにひっぱり、荒っぽく怒鳴り散らした。
「いつまでボンヤリしんさる気じゃあ! はよこの状況立て直せェ、そうせんと全滅じゃあって、わしゃさっき言いませんでしたかいのお⁉」
「――ッ!」
耳元で怒鳴り散らされたため、サランの鼓膜がキーンと傷んだ。瞬きよりも短い時間で情報の伝達ができるのが素晴らしいミカワカグラの能力ではあるが、万能というわけにはいかないらしい。その期間どうやら五感の感度が通常より鈍るのだ。
サランの耳たぶから舌打ちまじりに手を放し、太ももに巻いた弾帯からカートリッジを一本とりだして手際よくセットしながら、飴を咥えたリリイはぶつくさ毒を吐く。
「ようもまあ、こがあな状況で上の空になっとれますのお、先輩。場所とってしゃあないけえ、あのめんどくさいオッサンらぁの
「そうするのを我慢してくれたお前のご慈悲に感謝申し上げるようッ、まーちょっと色々あったんだから許せっ。――ったく思いっきり耳たぶ引っ張りやがって――」
ともあれ、リリイがこのような蛮行に及ぶのももっともな話である。サランたちをとりまく現実は一向に変化せず、それどころかオーロラが取り巻き次元と次元の境界がもろくなりつつある上空からは翼竜型の侵略者の大群がマンタの大群のように舞い飛びだした有様だ。
そちらの方は、目をキラキラさせたレネー・マーセル筆頭に高等部の特級メンバーが対処してくれているのだが、さっきのように時々熱線が地上に降り注いでは海上や島内のあちこちを局所的に炎上させるわ、酷い有様になっている。今起きていることの詳細を学園側に報告しているアメリアの発狂寸前な金切り声が場の混沌ぶりを一層引き立てる有様。
それでいて、民間警備員の攻撃も止まない。キャンディを咥えたリリイが念力で強化した礫の連射で数人は戦闘不能状態に陥れたが、所詮多勢に無勢だ。
傘を片手で支えつつ、新たな棒付きキャンディを口に追加するリリイにも疲れが見え始める。
「――せっかく湧いて出てきよるんじゃけ、あのオッサン四、五人ほどまとめて食うてしもたらええのに気ィ利かんのお。じゃけ
不吉な怪物が舞う空を見上げたリリイは、ワルキューレとしてこの上なく不適切な人ことを吐く。それを聞き咎めたカグラが、それはちょっと……と、ひきつった笑顔でそう突っ込んだが状況はいささかもほっこりしないのだ。
「ねぇ、サメジマさんっ!」
リリイが警備会社に属する戦闘のプロと対峙しているその後方では、シャー・ユイが自身のワンドを展開しながらサランへ向けてがなる。
「私はまだあなたに文芸部のことも私たちの本もベットしたままなの、よっ!」
シャー・ユイのワンドは人の身長ほどもある万年筆だ。細めの丸太ほどあるそれを上述の要領であやつりながら、この場に残ったキタノカタマコの侍女たちによる薙刀の斬撃をなぎ払う。
反撃にあった侍女が距離をとるために数歩下がったその隙に、シャー・ユイは巨大化した万年筆をくるりと回して手のひらに収まる通常サイズにもどし、空中にさらさらと文字を書き連ねる。ペン先からずるずると速記文字めいたものを宙に書き込むシャー・ユイの表情は鬼気迫るものがあった。
「お茶会の前にあなた、どんな手をつかってでもなんとかする、場合によってはイカサマだって辞さないって言ったじゃない! それならとっととなんとかしてっ!」
侍女がすばやく距離を詰めながら気合とともに薙刀を振り下ろす、そのタイミングでシャー・ユイは宙に四行詩を書き上げる。その直後、
ミニチュアの城塞からは小さな兵士もいたのか、侍女に向かって一斉に弓矢を放った。縫い針ほどの弓矢が数万本、雨のように放たれては侍女も薙刀を振るって障壁をはり、身を護るしかない。
シャー・ユイとは出撃先がかぶったことがないサランは、一見派手なワンドの効果に目を見張ったが、本人にとっては使い勝手のいい能力ではないようで城塞の蔭に身を潜ませて叫んだ。
「おねがいだから早くして! 私、戦記物や英雄叙事詩は苦手なんだからぁっ!」
「分かった分かった分かったってばぁ!」
前門の民間警備員、後門のワルキューレ。前者はワンドを使えず、後者は巧にワンドを使いこなす。弓矢の雨が途切れた瞬間を見計らって、気合を込めた人薙ぎでシャー・ユイの作った城塞型障壁を破壊する。その動作の流れで舞うように薙刀を操る侍女の攻撃を、再び大きくのばした万年筆でシャー・ユイは受け止め、流して、払う。
獲物をあつかった接近戦では侍女の方が分があるらしく、息を荒げるシャー・ユイとは違って侍女は涼しい顔を崩さない。
「皆さま、大人しく降参なさいませ。歯向かって一体どうなりましょう?」
呼吸ひとつ崩さず、ここから彼方へ飛び立ったキタノカタマコの忠臣は降伏を勧告してくる。そんなことはできるかとばかりにシャー・ユイがワンドを振りかぶるが、大振りになったそれをたやすくいなし、地面へ倒した。状況を読んだカグラがシャー・ユイのカバーに入り、敗者に突き立てようとした薙刀を鍵の形をしたワンドで払い、受け止める。きんっ、と金属音が響き、火花が飛び散る――。
「私たちが会長になりかわり処分を寛大にするよう先生方にもとめます。それも今降参すればの話ですよ?」
ぎりぎりとカグラとワンドのつばぜり合いを演じる侍女は、交渉人めいた口まで叩きだす。その感情のこもらぬ涼しい声がようやく起爆剤になった。情けないほど時間がかかったが、サラン全身にようやく気力が溜まった。
サランは素早くしゃがむ。そこには、ぺたんと芝生のうえに座ってひっくひっくとしゃくりをあげているノコがいた。フカガワミコトがキタノカタマコの手に落ちてさらわれた直後の混乱に乗じて、こっちに連れてきたのだ。
マスターマスターと随分混乱して泣き喚いていたにも関わらず、しばらくまえから菫色をした瞳の納まった目を呆然と見開くだけだった。エネルギー切れをおこしたらしい。
魂のぬけがらのようなノコの両肩をつかんで、サランは語気を荒げて尋ねる。
「ノコ、お前あの電話持ってるか⁉」
「――」
自分の主人が奪われて呆然自失状態の女児型生命体は、菫色の瞳からきらめきを消してショックに浸るばかりだ。いつもの無駄にやんちゃでわんぱくでおしゃまな姿からは信じられない有様だ。。
いつもと状態が違うのは様子だけではない。きらめくような白銀の髪が艶もなく生気が消えたようにぱさついた白髪に変わってしまった。体が粘土の塊に変わってしまったように重たげに、地べたにへたり込んだままなのだ。いつものようにふわりと宙に浮かぶことすらしない。
もしかして、ワンドの能力がうしなわれたのではないか――?
フカガワミコトが羽衣に姿を変えられてすぐに、宙に浮かんでいられず地べたに墜落したノコの姿を思い浮かべ、サランはぞっとする。それでもサランは、女児型生命体のか細い体をやや激しく揺さぶった。
「ノコっ! 話を聞けったら! あの電話持ってるのか、持ってないのかっ⁉」
「――……」
「あれさえあれば、お前のマスターはなんとかなるかもしれないんだっ! だからいつまでもぼーっとするんじゃないようっ」
「……っ」
マスター、という名詞を口にしたおかげで生気を失ったようなノコの瞳にようやく輝きが戻った。
だが、その菫色の瞳の上にこんもりと涙がまた盛り上がりだす。生気が戻ると同時に、キタノカタマコにフカガワミコトを奪われたという悲しみまで蘇ったらしい。そのせいで、うええええ……っと、顔をくしゃくしゃにしてまた派手に嘆きだす。
「ま、ますたあが……っ! ノコのますたあが……っ! マコのやつぅぅぅぅ……っっ!」
びえええええ、びえええええ……っと、せっかく静かになっていたのに再び激しく泣き出すノコを見て、いらだったようにリリイがキャンディを咥えた状態で舌を打つ。
「ほんまにやっかましいワンドじゃのお! ええ加減にせんとおどれから先にぶちまわすぞ!」
「うるしゃあい! ノコには
「なんでもええけ早せえっ! 弾切れのせいで死んでもおたってヴァルハラでわしが恨まれてもわりにあわんじゃろがぁ!」
スカートの裾をまくってガーターベルトで挟んでいた礫のカートリッジを傘の上に手早くセットしながらリリイは吠えた。このカートリッジが最後の一本だったのはサランにも見える。日傘の仕掛けが使えなければ、リリイの弱体化は必須だ。
後ろでは、ワンドを手にしたカグラとシャー・ユイが応戦中。二人は侵略者やワルキューレ同士の戦闘には向いていないだろう。
となれば――、とさっきまでいたはずのタイガの姿を確認すれば、翼竜型侵略者や上級生たちが繰り広げる戦闘の衝撃に翻弄されるカメラ係のビビアナのフォローにまわっている。目上の人間には甘えたがる傾向があるが、下っ端の面倒見はわるくないよな、あいつ――と、うっかりタイガの秘めたる美質に感心している場合などでは勿論ない。
サランも感情的になるノコの肩を掴み、ぐいっとその紫色の瞳を覗き込んだ。そしてありったけの誠意を込めて命じる。
「とにかく頼む! お前のねーさんに電話をかけろ! 今すぐだっ!」
「ね、ねーさん?」
きょとんとノコは目を丸くして繰り返す。サランはその目を見て力づよく頷いた。
ノコにはそれで通じたのだろう、唇を強く結んで頷きエプロンのポケットからあの二十世紀末制アンテイィークの携帯電話を取り出してボタンをプッシュする。光ることすらしないそれを耳にあて、しばらく間を置いて受話器の向こうに呼び掛けた。
「……もしもし、ねーさん? ねーさんかっ? うん、ノコだ」
のんきに電話ゴッコとは悠長なもんですのぉ……ッ、と嫌味を吐くリリイが手慣れた様子で傘の柄を外す。最後の礫を撃ち尽くす前に武器を変更したのだ。じりじりとキタノカタの警備員は距離を詰める。礫の連射が終息したので、じわじわと三人を取り囲みに移ったのだ。
時間稼ぎの為に、サランは左手をふってワンドの格納庫を開く。取り出した本を開き栞を三枚、ルーティンワークの出撃先でなんども相手をしてきた人狼型侵略者の情報を転写して日傘の内側から呪符のように打つ。
三体の人狼に変化した栞は、投降を呼びかけた警備員たちに唾液に濡れた牙をむく――。
ワルキューレにとってはありふれた丁種侵略者のコピーだが、ワルキューレではない人間にはそうではない。この島ではありえない存在に怯んだ戦闘のプロたちですらとっさに対応ができない。それを見逃さず、人狼たちは咆哮をあげながら武器を構え完璧な陣を保っていた警備員たちに襲いかかった。
「そがあな裏技持っとりさんなら早う使いんさいや!」
後ろをむいてジト目で文句言うリリイの嫌味に、うるせえ! と答えながら、サランはノコの手から電話を奪った。
そして通話口にむかってがなる。今までたまりにたまった鬱憤をこめて。
「もしもしぃ、初めましてー! ノコちゃんのお姉さまですかー? 私サメジマサランっつーしがないワルキューレなんすけどー⁉」
電源が入らなくなって百年近くたち、当然電話としての機能を果たさなくなったアンティークの小さな通話機器から当然聴こえるものはなにもない。まったくの無音だ。
まさか本当にノコはイマジナリーフレンドと会話していただけなのかという恐怖を押し殺すために、サランは一層挑発的で不躾な口をきく。
「妹さんから聞いてませんか、うちのことー? それからお茶会のことー? あんた散々、お邪魔するっていってましたよねー? 招かれてないのにあつかましくー。 ……ったく何をタラタラしてくれてんすかねえ、おねーさまはぁ? 遅刻もいいとこじゃないですか? もうお茶もお菓子もございませんけどー?」
「正気
素早く閉じた傘と、柄から外した取っ手を伸ばして人狼の脇を掻い潜った警備員が振りかざす警棒の攻撃を捌きながらリリイは嫌味を吐く。
使い物にならないアンティークの携帯電話ごしに誰かを呼び出し始めたら、気がふれたと思っても仕方あるまい。構わずサランは電話越しに訴えた。
悔しいことに必死で、でも必死にだとは気取られないように精いっぱい虚勢を張って。
「聞いてるんだろ、ねーさん⁉ とっとと来いよっ、つうか今すぐ来い、ダッシュで来い、マッハで来い! 光速で来いっ! 自分でやらかしたことの後始末しに次元を捩じ切ってでもこっちに来いっ!」
痛々しい打擲音にうめき声と地面に倒れこむ音をした方を見れば、リリイがこめかみのあたりを殴られて棕櫚の樹の根元に倒れこんだところだった。警棒で殴られたためか急には起き上がれず、地面に伏せるリリイの傍に警備員が駆け寄り、その後頭部に銃口を突きつける。
するとどこからともなく超速の足音がまっすぐこちらに駆け寄り、ひらりと宙に影が躍った。
「リリイいいいいいいいいッッッッッッッッッ!!!!!!!!」
リリイを殴った警備員に華麗な飛び蹴りを食らわせたのは誰か、その声だけでわかる。
突き刺すような飛び蹴りで黒いヘルメットに罅を入れながら、パートナーに手をあげた警備員を地に倒したタイガだ。警備員が倒れる寸前に丸いヘルメットを足場に踏み切り蹴り飛ばし、再度ジャンプする。そして、リリイの後頭部に銃口を突きつける警備員の首に足を絡めて、そのままぐるりとバク転の要領で回転する。動脈を締めつつ器用に聖人一人を宙に浮きあがらせたのちに頭を地面に突き立てるように沈めてみせた。
あいかわらず猫のように身軽な身のこなしを当たり前のようにこなしてから、呻くリリイの顔をのぞき込む。猫目をおろおろさせている様子が、返事のない携帯電話に呼び掛けるサランにも見えるようだ。
「大丈夫かリリイっ! ケガしてねえかっ⁉ つかしてんじゃん⁉ コメカミから血ィ出てんじゃんっ」
リリイの様子を気遣いながら、地べたに転がった警備員がさっきまで構えていたゴム弾専用機関銃を腰を落として構え、ワルキューレ憲章どこへやら襖状に取り囲む警備員の足元に向けて連射しながら振り向き、呻きながら起き上がろうとするリリイへ呼びかける。リリイは転がった日傘に手を伸ばし、手元を震えさせながら柄のボタンに指をかけようとするのだ。
「……なんともないよ……これくらい……っ」
無理すんじゃねぇバカっ! と、叫ぶタイガは焦点が合わず故郷の言葉で受け答えるリリイの手から日傘を奪い取り、自分で防御壁を張った。
ぶわん、と音が聞こえそうなほど勢いよく傘の皮膜に沿って円状に念力の膜が張る。その円周はあまりに大きく、下半分はナイフを突き刺したように地面を容赦なくえぐった。右腕では奪った機関銃を構えているタイガは左手で日傘の盾で皆を護る。
よほどの力を込めているのだろう、ショートボブの髪が煽られ逆立ち、キャンディの棒を咥えた口から食いしばった犬歯が覗く。全開になった額に血管を浮かび上がらせたタイガが唸り声を発するのに合わせ、傘に沿った念力の盾から放たれる力が地面を大幅に削りその軌道上にいた警備員を纏めて吹き飛ばす。
派手に力を使うタイガが危なっかしいのか、血相を変えたリリイは健気に体を起こそうとしながら本来の口調で必死で訴える。
「大丈夫、この程度の傷なら三日もすれば元通りだ……っ! やめろよ、今すぐ、お前が死んじまうだろ……ッ!」
「オレの心配より自分の心配しやがれバカったれ! リリイはオレより先に死んじゃいけねえんだから後ろにいろっ!」
メジロ姓の二人が至近距離で絆を確かめ合っている傍、携帯電話を持つサランの右手に激痛が走った。中指と薬指を別々の手で握り、左右に割くような激しい痛みだ。
思わず電話を持ったまま地面に転がりのたうつサランを、心配げなノコがのぞき込む。
「どうした、ちんちくりん⁉」
「――な、なんでもな……っ」
悲鳴をこらえるサランの手元に、ひらひらと一枚の栞が戻ってきた。
それは目の前で地面に触れると、はらりと真っ二つに割かれる。丁種の人狼に擬態させたサランのワンドが破壊されて戻ってきたのだ。
黒い防護服を着た警備員たちは武装しているとはいえ一般の戦闘従事者だ。ワルキューレではない彼らに等級の劣る丁種、しかもまがい物であっても、侵略者は倒せない。
侵略者に擬態したワンドを破壊することができるのは、同じようにワンドを使ったワルキューレのみだ。
痛みに耐えながら状況をそう推測するサランへ正解であると告げるように、感情のこもらない澄んだ声が響いた。
「サメジマさん、それにメジロさんたち。もうお気はすみましたでしょう? 抵抗はそこまでになさいませ」
うっすら目を向けると、警備員しかいなかったはずの前方に、一人の侍女がまざっているのだだ。何委員会のものかは読めないが、しっかり腕章を巻いている。
そこには侍女がもう二人いるのだ。それぞれサランが打った栞を変化させた人狼型ワルキューレを薙刀で与しいている。
キタノカタマコの身辺警護を担う者である侍女たちがもつ戦闘能力、そしてワルキューレの等級は相応に高い筈だ。
仮にジュリと同じ上級だとしたら、サランですらなんなく処理できる丁種侵略者など、当然やすやすと組み伏せ、引き裂くこともできるというわけだ。
ああ、せっかくならもっと強い侵略者コピーするんだった。一般人相手の陽動だったから手加減したのがまずかった――。
悔やむサランに侍女は呼びかける。タイガも機関銃を連射するのをやめて、侍女の動向を剣呑な目つきで見守った。
「私たちとてあなたがたに痛い思いを味合わせるのはしのびありません。どうか大人しく降参なさいませ」
「そしてそこのS. A.W. - Ⅱ Electraをこちらへ。会長はそれも御所望です。手違いが生じましたが、それはもともと会長の手にわたるべきものですので」
「従えぬというのなら、ワンドを再びこの刃にて割かねばならなくなります」
さっきの激痛があと二回か、耐えられるかな? と益体も無いことを考えるサランの耳に怒鳴るノコの声が聞こえた。主と別れ、ワンドとしての特殊能力を封じられ、さっきべそをかいた涙目のままであっても、根っからわんぱくな気性を発揮して健気に言い返す声がサランにしっかりとどく。
「いーやーだー! ノコは機能停止したってマコの所には行かんからな! マスターにあんな意地悪をするマコなんてノコは大っっっ嫌いだ! 大体、ノコの主が本当はマコだったなんて、そんなことあるもんか! あってたまるか!」
「――では仕方ありません」
侍女の一人が薙刀を扱い、反撃の機会をうかがっていた人狼をいともあっさり両断する。と同時にサランの右手にはまたも激痛が走った。ぎゅっと身を縮めた目の前にひらひらとまた真っ二つに割かれた栞が落下する。パイセン! と叫んだタイガの声も聞こえたけれど、はるか遠い場所からの叫び声に思えた。
本当にめりめりと右手右腕を割かれたわけではないが、元々痛みに強くないサランの臆病な脳みそはパニックを起こしかけていた。もういいじゃないか、こんな痛い思いをしてなんになると弱音を吐く。
しびれる右手でただのモノでしかない携帯電話を握りしめながら、サランの頭に響く自分の声は冷笑する。今のうちは相当みっちもないぞ、低レアの癖に本気出して……と、湧き上がる羞恥に神経をそらす。
そもそも、この電源も入っていないアンティークの携帯電話の向こうにいるのがノコのイマジナリーフレンドなどではないという確証はないのだ。懲りないサランが、自分の頭に浮かんだいかにもそれっぽい物語に固執しているだけだ。トヨタマタツミがここにいたら、バッカじゃない、そんなことあるわけないっていいうはずの。
――あーあぁ、こんな古い通信機器に本気で呼びかけたりしてカッコ悪いなぁ。本当に正気を失ったように見えただろうなぁ……。
自嘲で痛みに耐えるサランだというのに、それでも携帯電話を手放せない。
だってサランは見ているのだ。力を使うとノコのように髪が白銀に変わったワルキューレのことを、本来持ち主にしか使いこなせないワンドを自由自在に使いこなしてみせた、最高に腹の立つ最悪な女のことを。
無我夢中で痺れる右手で電話を握り、自分の耳に押し当てて叫ぶ。怒鳴る。喚く。
メジロ姓の二人が電源も入らない大昔の携帯電話に向かって大声で罵り散らす様子をうるさそうに、または心配そうに見やったが、サランの視界には入らない。
「いつまでちんたらしてんだようっ、この鈍足ゴシップガールっ! お前のせいでワニブチにもしなんかあったら一生許さないからなぁ!」
薙刀を構える侍女も人形めいた顔に哀れを催したような感情を浮かべた。あまりの痛さで錯乱しているのか――といわんばかりだ。
この場での指揮権を有する侍女が、警備員たちに武器を下すように目線で指示した。もうこのワルキューレたちは安全だという合図だろう。
それだって視界に入らないサランはお構いなしに叫んだ。叫んでいるうちに怒りが膨れ上がり、お陰で右手右腕の痛みも気にならなくなってくる。頭に来るままにサランは思う存分わめいた。喉から血が出そうになるくらい。
「いい加減に早くしろよ、お前のしでかしたことだろ! 一年以上一人でやってけたんだからもうケツくらい自分で拭けるようになったんだろうが! さっさとこっち来てお前らだけでケンカしろぉ! 早く来いよ、シモクツチカぁッ!」
その名を呼んだ時、その場にいた全員がサランの方を振り返る。
特に、キタノカタマコの侍女たちの表情が珍しく大きく変化した。
それに気づかないのはサラン一人だ。
耳慣れた声が突然聞こえたためだ。
「――るっさいなぁ。何ぎゃーぎゃーぴーぴー喚いてんだよ、赤ちゃんかっつの」
心底忌々しいと言いたげなこの生意気で感じ悪くて蓮っ葉で、とてもお嬢様とは思えない毒のまみれた声は、しかしサランが持っている携帯電話から聞こえてきたのではない。
もっと近くから降ってくるのだ。
「あのさー、ミノムシっつーのは鬼の子で自分を捨てていった親を思って〝ちちよちちよ″ってはかなげに泣くんだよ。かの清少納言先生もいとあはれだっておしゃってるっつーのにあんた何? あはれのあの字もないし! うるっさいだけだし! ったく命すり減らしてぎゃんぎゃん喚くとか発情期のセミかよ? 七年地面の下にいて七日で死ぬ気かよ? いっそのことセミ山セミ子にでも改名するー?」
――ああ、これだこれ。
この矢継ぎ早で、無作法なくせに「自分はモノをよく知ってるんですよ、賢いんですよ」とアピールしないと気が済まないのか無駄なトリビアを混ぜてくどくどと毒を吐くこの口調。間違いなくあの忌々しいあの女だ。
ようやく痛みがおさまり、目のかすみもおさまってきたサランが見上げた先に居たのはしかし、期待したあの女ではない。
白髪にところどころ焼けこげやほつれができてしまった古典アニメの少女のようなブルーのワンピースにエプロンドレス。破れてしまった縞々のニーソックス。
せっかくの愛らしい装いを台無しにして立つのは、ソウ・ツーことノコである。
ノコは紫色の虹彩を機械的に開き、サランを無表情に見下ろしている。
人工生命体とは思えないほど表情豊かでやんちゃだったノコとは思えない人形のような表情でサランを見下ろしていたノコの唇から、非常によく聞きなれた声と口調、そして憎たらしいあのあだ名が降ってくるのだ。
「ねー、ミノムシミノ子?」
ふふん、とノコの中身に宿った女――サランのことをミノムシミノ子と呼ぶ世界でたった一人の女――の声で呟いたノコは、サイドの髪をさらっとはらって腰に手をあて正面を向いた。
手の動きに合わせてなびいた髪に、再びきらめきと輝きが戻る。見る間につやつやとした銀髪に戻る。それに伴い、仮面のように感情を隠していた表情も見る間に変化した。
それはいつもノコが見せていたわんぱくでやんちゃでおしゃまな女児の表情ではない。気が強くて我儘で、世界は自分を中心にまわっていると信じていそうなくらい心の底から生意気で、いい気になっている無敵の少女の勝気な表情に。
それはまさしく、サランが大嫌いなシモクツチカの表情だった。
「ったく、おっせえんだようレディハンマーヘッド……」
サランはなんとかそれだけ吐き捨てて、地面に伏し、激痛で強張り緊張した体からぐったりと力を抜いた。
――おかげで、前から言ってやりたかったレディハンマーヘッドって名前くそダサいからな、という憎まれ口をたたくことは叶わなかった。
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