#47 ゴシップガールの罪は空からヒロインを降らせた罪。
緊急時であることを示すサイレン、工廠のどこそこのブロックで火災が発生したというアナウンス。
生徒や教職員に安全な場所へ避難するよう伝える指示。
出動する消防用ヘリのプロペラ回転音。
爆発が起きて数十秒、学園島は俄かに騒々しくなる。
が、棕櫚の木立に囲まれた
そもそも工廠は学園の敷地内にあることはあるが、特別な用がない限り候補生たちも好き好んで立ち寄ろうとしない技師や研究者たちの専門エリアだ。グラウンドなどの緩衝地帯もあるので、よほどの大火災ではない限り候補生たちが活動する校舎付近に深刻な影響は起きないだろう。
すっかり爆発なれしていた面々はたなびく黒煙から事故の大きさを測り、どうやらそれが甚大なものではなさそうだと各々判断する。高等部生徒会会長のアメリアが慌てて教職員と連絡をとりだしたのと対照的に、悠々とした態度を崩さないキタノカタマコへ怪訝な視線を向ける者もいたのだが――。
ともあれ、お茶会に参加していた面々はサランに再度注目した。爆発音で消されてしまい、肝心かなめの言葉が聞き取れなかったのだから自然とそうなる。
中でも、それを間近で告げられたフカガワミコトが、一番胡乱気なまなざしでサランを見つめていた。サランの言葉を耳にできたのは彼だけだったのだ。
「……お前、今、なんて言った?」
「いや、だから……っ!」
上空を舞う消火用のヘリコプターのバラバラというプロペラ回転音が、棕櫚の木立に囲まれた庭の静けさを引き立てる。
タイミングを外した言葉をもう一度口にする羽目になるという事態に猛烈な決まり悪さを感じながらも、サランは腹をくくった。そして先刻口にしたのと同じ言葉をやけくそ気味に叫ぶ。
「ヒロインだ! お前の役割は主人公じゃない、ヒロインなんだっ!」
「――――――…………」
上空で響くプロペラ回転音。
避難を訴えるサイレン。
様々なワイプをひらき教職員と連絡をとりながら役員たちと情報収集と状況確認につとめる、なかなかにキビキビとしたアメリア・フォックスの意外に頼もしい声。
そしてこの状況でも静かに流れる古い映画のミュージカルナンバー。
お茶会の現場には雑多な音たちがわだかまっていたが、大多数のメンバーは無言である。
渡り廊下で人目もはばからず「セックス」を十回連呼するような、奇行には定評のある初等部三年がなにかしらまた頓珍漢な発言をしている。そんな目でサランをじっと見る。
居たたまれないような沈黙の中、それを告げられたフカガワミコトの眼差しが一番露骨だった。眉間に深々と皺が寄る。
「――お前……、何言ってんの?」
「そうだぞ、ぶんげぇぶのちんちくりん! マスターはれっきとしたヒトの雄だぞっ。遺伝子の型だってXYだ。そんなマスターにヒロインとはなんだっ! お前は知らんのかも知れんがheroineとは heroの女性形で――っ!」
「ああああっ! お前はちょっと黙ってろぉ! 今から説明するっ!」
黙ってられぬとばかりに宙に浮かんでサランへがなり立てるノコを脇へ追いやり、サランは可哀そうな子をみるような眼差しを向けてくるフカガワミコトにずびしっと指を刺した。行儀が悪いがこれから勢いをつけなければ発言できない。
「お前の性別がどうこう言った話じゃない。役割が、レディハンマーヘッドの奴がお前に敷いたポジションが、ヒロインなんだっ! 政敵に追いかけられてる宇宙人のお姫様とか古代文明の遺産だとか秘宝のかけらだとかそういうものを持って空から降ってきた女の子、それがお前なんだよう!」
「――、ハァ?」
何言ってんだコイツ、と、少年の視線が遠慮なく語る。
眉間に刻まれた皺が一層深くしたフカガワミコトに代わって、言葉を継いだものがいる。ヴァン・グゥエットの腕のなかからこちらを向いたシャー・ユイだ。サランをみて、数回瞬きをして表情を整える。泣き顔から普段どおりしっかりものの同輩へ。
「要はつまり〝落ちものヒロイン″ってことね? 空を飛ぶことのできる石を持って飛行船から落ちてくるような」
「そうそう、そういうこと! さっすがシャー・ユイ、話が早いっ。――けどよくそんな専門用語知ってたな。お前の得意ジャンル外の専門用語なのに」
「ケセンヌマさんと一緒にいたせいでいつの間にか頭に入り込んだのよ。まったく頼んでもいないのに――」
いつもの癖で調子よくおだてたついでに疑問をぶつけてみると、さっきまで泣いていたしっかり者の同輩は少し照れくさそうにすませながらも答えてみせた。
1980年代のカルチャーが専門のケセンヌマミナコなら、大いなる秘密と非日常をその身に秘めて空から降ってくる女の子が降ってくることで始まるラブコメに詳しいのも道理だろう。サランは納得したが、ヒロイン呼ばわりされた本人曰く数名はそうもいかないようだ。
「一応言っとくけどな、俺は空を飛ぶことのできる石も持ってなけりゃ空に浮かぶ島の王族でもなんでもねえ――」
「のは分かってる! けど、お前はノコだって起動させることができた。前世の記憶なんて妙なものも持ってる。石とかそういう分かりやすい形じゃなくてもお前には何かがあることは確かだ。それを狙ってる人もいるのがその証拠じゃないか!」
ぎっ、と、勢い余った勢いでサランは睨んだ。相変わらず口元を扇子で隠しつつ、瞼とまつ毛でつくる影だけで、お話にならない、と、主張しているキタノカタマコをだ。サランの視線には気づいたのか、あからさまに息を一つ吐いただけだ。反応はそれ一つ。言葉は何も寄こさない。
代わりに鈴を転がすような笑い声をたててみせたのはマーハだ。口元に手をあて品よく笑いながらも嬉しそうにサランへ優しい言葉をかけた。
「あらあら子ねずみさん、それはまたなんのお話かしら? よろしければ、私たちにも教えてくださる?」
マーハがサランの呼び名を「サメジマさん」から「子ねずみさん」へ切り替えた。ここからは、書斎でいつもしているように悪戯好きなお嬢様にあしらわれる野育ちのメイドのふりをせよ、茶番につきあえという符丁である。
ちらっとキタノカタマコを見ると、疎まし気にマーハへ視線を向けていた。ほんのまつ毛の向こうから黒い双眸がひたと上級生をねめつけている。いらだちを隠すのが難しくなっている――。
よし、と手ごたえを得て、サランは書斎にいた時通りまだまだマナーが身に着ききっていない野育ちメイドのふりをして、わざとらしくはにかんで顔をそむけた。
「そんな、お嬢様たちに聞かせるようなお話じゃありませんよう。大体、このしょうもない話を作ったのは私じゃあございませんし」
「まあ、では作者はどなた?」
マーハ一級のわざとらしい茶番にあおられたキタノカタマコが、視線を、つ、とサランへ移した。伏せ気味のまつ毛のしたから除く瞳が、貴様、と恫喝している。それにひるまず、サランはその目に受けて立つ。
白檀の扇子を握りつぶしそうなキタノカタマコの視線にまけないため、サランは腹をくくった。
「それは、そこにいるキタノカタ会長がよおくご存知です。作ったのは会長とそのお友達ですから。――お二人が作ったお話を私が代わりに語るような真似は差し控えさせていただきます」
キラーパスを送ったのち、サランはさっと目を背けた。すかさずするどく、マコのよく通る声が淡々と異を唱えた。
「私にはそこの方が何をおっしゃっているのか、心当たりがまるでありません。何か思い違いをされておられるのでは?」
「へーっ、では昨年に会長自らフカガワくんとご混浴あそばすような真似までなさったのはどういうお積りでなさったんでしょうかぁ? キタノカタ会長のご計画にはフカガワくんの秘めたる何かが必要だったためではないんですかぁ?」
「サメジマさん」
わざと下劣に煽って見せたサランの態度に、キタノカタマコは白檀の扇子を音を立てて閉じる仕草で応じた。口元と嫌悪感を露わにし、さえずるサランをひねりつぶすかのように睨む。その態度にサランは見えた思いがした。キタノカタマコの急所が。
「その豊な想像力、さすが文芸部に籍をおかれていただけのことがあります。ただしここはそれをとくとくと見せびらかす場ではありません。ましてそれに第三者を巻き込むなど言語道断――」
「天とこの地を結ぶ為に必要なんじゃねえのかようっ、コイツのことが!」
――弱点が見えると突きたくなる。
サランの短気で衝動的で舐められるのを嫌う向こう見ずな性分には、どうやらそのような性質も含んでいた。
よくも今までずいぶん舐め腐ったマネをしてくれたな、という思いからサランは声を張り上げその一点を突いた。メイドとしての体裁を保っている間もなく、いつもの自分そのままの口調に戻って声を張り上げる。
それに合わせてマコは立ち上がった。威嚇する猛獣のように瞠目し、閉じた扇子で手のひらをぴしゃりと打った。そうすることでサランのふるまいが逆鱗に触れたことを示す。
しかしその感情をぶつけた先はサランではない。何事かの雰囲気を感じ取ったらしく矢面に立ったノコの後ろへ控えた少年、フカガワミコトへだ。
「――フカガワ様」
黒い双眸を炯々と輝かせながら、零度に近いような怒りを放ちつつキタノカタマコは少年を見下ろす。亜熱帯の熱気も湿気もどこかへ遠のくような怒りを前にして、フカガワミコトもとっさに声を出せない様子ではあったががそれでも彼女からは逃げなかった。
頷く少年を問い詰めるキタノカタマコの雰囲気は、鎌首をもたげる大蛇を彷彿とさせるものがあった。
「もしや貴方はあの夜のことをお話しになったのでしょうか?」
その顔は端正で何一つ歪みはしていないのに、ひゅうひゅうとその背から周りを凍てつかせるような怒気を放つ。その状態でマコは少年をひたと見る。その背後に控える侍女たちがそろいもそろって顔面から心のこもらない笑みを消した。
「この、面白半分に醜聞をまき散らす恥を知らない方にあの夜のことをお伝えになったというのですか?」
「こらマコ! またお前はわけのわからぬことでマスターを……っ」
「黙りなさい、S. A.W. - Ⅱ Electra!」
主を護ろうとしたノコを、キタノカタマコは鋭く一喝する。まさに落雷を思わせる激しさで。
それを浴びせられたノコは一瞬目を丸く見開き、その目に涙を浮かべたあと、びぇぇぇぇ~……と情けない泣き声をあげてフカガワミコトに抱き着いてべそをかく。
女児型ワンドを一喝で泣かせたあと、声のトーンを幾分か落としはしたもののまだまだ冷え冷えと怖ろしい声で、キタノカタマコは自分を無邪気に慕って甘える人造少女の後頭部に手をあてて、よしよしと慰める少年を問い詰めた。
「再度お訊ね致します。フカガワ様はあの夜のことを、そこの恥を恥とも思わぬ方にお話しになったというのですか?」
「何が〝あの夜のこと″だ。君とそこの少年が神聖なる学び舎で堂々同じ湯に浸かったことはあのおしゃべり女のおかげで既に全世界へくまなく公開済みだ。今更恥じらったところでどうにもなるまい」
皮肉めいた口調で茶々を入れたのは勿論ナタリアだ。嘴を挟まれ憎たらし気にマコは先代初等部風紀委員長を睨む。その意を汲んだように、風紀委員の腕章を巻いたマコの侍女が感情のこもらぬ声を響かせた。
「アクラ先輩、申し訳ございません。少々お静かに願えます」
「ふん。了解はしてやる」
若干尊大な雰囲気をにおわせながらナタリアは笑い、さっと脚を組んだ。その動きに反応したようにお菓子を食べることに神経を切り替えていたレネー・マーセルが、顔色を変えた。美味しいものの匂いを嗅ぎつけた子犬のような態度で、怒気を放つマコと侍女たちを見る。
その瞳をきらきら輝かせるレネー・マーセルへ、マーハが微笑みながら「お話を聴きましょう?」と囁きかけ、待機を促した。
この場の雰囲気から何かの予兆を嗅ぎ取っている、経験値の高い上級生たちの反応を疎まし気に一瞥してから、キタノカタマコは詰問する。
「お返事は聞かせていただけないのですか、フカガワ様?」
「――わ、悪いとは思う。だけど――っ」
ようやくフカガワミコトは口を開く。でもそれは普段の押しに弱そうな少年らしい、マコの迫力にすでに気圧され気味になっている歯切れの悪いものだ。だからキタノカタマコは少年から発言権を奪り戻す。
「そのように仰るということは、あの夜のことはそこの恥を知らない方へお伝えになったということでよろしいのですね。――情けないこと!」
キタノカタマコはそう吐き捨て、髪をゆらしながら顔をそむけた。絶妙な角度で悔しく悲し気な横顔を少年へ見せつけ、かみしめた唇を一瞬みせてから絽の着物のそでで目じりを拭う様を見せつける。これまで散々打ちに秘めた気性の激しさをみせてから、ここにきて楚々と涙を浮かべてみせたのだ。
そしてどうにも人が良く、強く押されると抵抗しきれず受け入れる傾向がある少年へ罪悪感をすり込んでみせるという手に打って出る。歯がゆいことにフカガワミコトはその術中にはまったようだ。
「ご、ごめん。キタノカタさんに黙ってサメジマに教えたのは謝る。でも……っ!」
ハラスメントを働かれた被害者という立場であるにもかかわらず進んで謝罪する。少年の言葉を遮って、キタノカタマコは涙声で少年の良心を攻撃する。
「確かに私はあなたと約束は致しませんでした、あの夜のことは二人だけの秘密であると。思わぬことで概要のみ外に漏れてはしまいましたが、真実のことは胸に秘めて頂けるはずと、私はあなたの人柄を見込んで信じておりましたのに――」
何かがあったとほのめかす言葉を涙を浮かべつつ口にすると、すかさず目を輝かした者がいた。またこの展開に退屈しだしたレネー・マーセルだ。
「えっ、やだやだっ、何々~? フカガワくんってば、またなにかハレンチ方面なことやらかしちゃったの~?」
「いやその、別に俺はやましいことは――っ」
「違いますっ、ヤツはやらかしてませんっ。やらかしたのはキタノカタ会長ですっ!」
好奇心を丸出しな上級生の声に反応したのは、あらぬ誤解が発生しそうになって狼狽し出遅れたフカガワミコトではない。減らず口の瞬発力がMAXに高まっていたサランだ。
お茶会会場の空気がざわつく中、サランは一気にまくしたてた。目じりを拭っていた和服の袖の陰でおそらくギリギリと歯をかみしめているキタノカタマコを睨みつけながらサランは追撃する。
「キタノカタさん、確かにうちはあんたがフカガワに何をしでかしたか全部しゃべらせたよう! あんたがどんな振舞に及んだのかそのなんもかんもだっ! だからそうやって被害者装って一切合切有耶無耶にしようったって無駄だからなっ! どっちが本当にこっぱずかしい真似をしでかしたのか、こっちはよーく知ってんだ!」
大正期の美人画を思わせるかすかな色香を漂わせる横顔を向けたまま、マコは瞳をサランへ向ける。相変わらず塵屑でも見るような蔑みの感情のみをそこに浮かべていたが、されがサランの短気な性分を煽りに煽った。上等だ! という根性に火が付き、シャー・ユイが座っていた椅子に片足をダン! と乗せて脅した。
「とっくにご存知だと思うがなあ、うちには『夕刊パシフィック』とつながりがある! ここで下手にしらばっくれりゃあ、明日の夕方には全世界であのキタノカタ財閥のご令嬢で『フカガワハーレム』のマコちゃんで、全世界注目、救国のジャンヌ・ダルク様のご乱心ぶりが大公開されるハメになるぞっ! そうなっちまえばあんたの評判は大暴落だっ。今まで大事にしたお嬢様イメージだって十年やちょっとじゃ元には回復できないレベルの瑕がつくぞう⁉ キタノカタの看板でもあるあんたなのにそれでもいいのかあっ!」
おそらく史上初のキタノカタマコを脅した女子という伝説を生んでいる自覚がないままに、サランは自分を蛆虫か何かのような目で見るキタノカタマコをただ睨む。集中して睨む。全神経を賭けて睨む。あの人を人とも思わない視線に負けてなるものかという根性だけで睨み続ける。二人の間に横たわる、実力の差は明確なのだ。サランがマコに勝てるものは気合と気力しかない。怯んでいるわけにはいかないのだ。
むぎぎぎ……と唸り声すら発する勢いで、キタノカタマコの横顔と見下げた視線に盾突くサランだが、しかし当然、容姿も頭脳も資質も家柄も財力も権力も有する少女にとってサランなどただの虫けらでしかない。天と地ほどある実力差は埋めがたい。
不愉快千万という表情を隠さず、マコはついと顔を動かしマーハへ顔を向け、命令口調で懇願した。
「ジンノヒョウエ先輩。まことに失礼ながらあの小間使いをただちにお下げくださいませ。あの喚き声、聞くに堪えません」
「あら、どうして? ――私は今、子ねずみさんのお話を聴いている最中なのよ?」
マーハのわざとらしい微笑みへ、マコは微かに目つきを鋭くさせる。にっこりと慈愛のなかに茶目っ気を混ぜた笑みを浮かべたマーハは誘いかけるようにマコへ呼びかけた。
「子ねずみさんのお話に間違いがあるようなら、どうぞ訂正してちょうだい? あの子が言うには、今回のお話を作ったのはあなたなのでしょう? できれば正しいお話を聞かせていただきたいわ」
「――失礼ながら、先ほど申しました通りあなた方の仰る〝お話″とやらの心当たりが私にはございませんので先輩にご期待には沿うことは出来かねます」
マコは眉を顰めながら、吐き捨てるように言った。なんであってもしらを切りとおすつもりらしい。
マーハが味方に付いてくれることを理解して心の中で拳を握った。どうやら流れはこちらに有利になりつつある――⁉ 少なくとも今の状況はキタノカタマコが望んでいたものではない。それがはっきりしている以上、サランには怖れるものはない。
もしかしてこのまま、あの忌々しい作戦を撤回させることができるかもしれない。そんな期待が胸の内に芽生えだす。
ざわざわと体の内側を熱くなるに任せるサランとは対照的に、この場においても余裕を漂わせるマーハが微笑みを絶やさぬまま嫌悪をにじませるキタノカタマコへ語りかけた。
「心当たりが無いのなら――。そうね、では私からもお話をしてもいいかしら?」
「――」
これはサランにも読めないマーハの動きだった。マコにあってもそうらしく、つ、と一回瞬きをしてみせる。
その時、腕章を巻いた侍女の一人がマコの背後に近寄りその耳元に何かを囁いた。マコはそれを聞きいれ、侍女に何かを囁き返した。よく訓練がされている侍女は、つつ、と下がる。
マコはというと表情を整え、怒気を拭いとり、先刻激高したばかりとは思えない涼し気な声で淡々と告げた。
「申し訳ありませんが、手短に願えますでしょうか? 工廠であのような事故が起きている今、フォックス先輩にばかり対応をお任せしているわけにも参りませんので」
いままで当たり前のようにアメリアに一切の仕事を押し付けておいて、ぬけぬけとマコはそう言い放つ。
たしかにアメリアは教職員や工廠の責任者と確認を連絡をとりつつ、高等部の生徒会役員を指揮して生徒の避難指示や情報収集にあたり続けている。こちらの様子に神経が行き届いていない様子を見る限り、こういう仕事をしている方が性に合っているらしい。
――それにしても、そんなに大規模ではない爆発と火災のわりに事態が一向に収束しない。そのことでサランの思考があやうく脇道に逸れそうになったが、首を振って集中力を保った。
とにかく今は、キタノカタマコへの追撃を緩めてはいけない。
このような状態でも慈愛に満ちた微笑みを絶やさないマーハは、浮世離れしたようなゆったりした口調でお話を始める。
「それでは手短に参りましょうか。――これはジンノヒョウエの
「ねーマーちゃん、その話長くなるぅ~?」
また退屈しだしたレネー・マーセルは頬杖をついて唇をとがらせる。そのせいで愛らしい顔がユーモラスに歪んだが、当の本人は一切気にせず、すんすんと鼻をならしているノコを抱えたフカガワミコトをちらっと見やる。
「よくわかんない昔話なら、フカガワ君のハレンチ話の方が面白そうなんだけどぉ」
「大丈夫、そんなに長くならないわ。少しだけお付き合いしてくださる?」
子供っぽい同級生に苦笑してみせてから、マーハはゆったり昔話を語り始めた。
「そこはとても大きくて由緒もある立派なお家だったの。〝世が世なら″という枕詞がつくような、家柄も申し分もないお家。おじいさまがお手伝いに参じたその日に行われたのは、その家で亡くなったある方の百回忌だっていう大法要だったんですって。なんでもいわゆる御一新で武功をお立てになった後、御商売でおおきな成功をお収めになった創業者の奥様にあたる方。――ごめんなさい、個人情報にも関わるからあまり詳しく申し上げられなくて」
それを聞くキタノカタマコの眼が、つうっと細くなる。せっかく拭い去った感情がまた露わになる。
当然だろう、マーハは遠回しにその昔話で登場する家は北ノ方の本家だと明かしているも同然だ。勲功華族で世が世ならお貴族様。倒幕に燃える一介の志士だった創業者は、教科書で語られるような偉人にはなれなかったが明治の世を迎えたのちに実業で大きな成功を収め商工史には立派に名を刻みつけている。
自分はキタノカタ家の過去を知っているのだと暗に刃をちらつかせているも同然なのに、マーハは変わらず柔らかくたおやかな声で語り続けた。
「百回忌の法要だなんて、まだお若かったおじいさまにも初めてのことだったらしいの。とにかく緊張しながらそのお家の番頭にあたる方が語るお話に耳を澄まして、粗相をしないように気をはっていらしたそうだわ」
凄まず、脅さず、おとぎ話を語る口調で、マーハは自分へ向けられるキタノカタマコの敵意を無効化する。マコはそれでも長いまつ毛の陰から剣呑にきらめく瞳を演劇部の女帝へ向けるのだ。下手な振舞をみせるなら、上級生とて容赦はしないと全身で語る。この島に相応しくない凍えるような怒気で脅す。
しかしマコは一向に動じず、この島に相応しくないことだけは共通している春先の太陽のような微笑みで応じるのだ。
「幸い、各界名士がたくさんお見えになった法要は無事に済んだそうよ。でも、帰りの道中でおじい様の心にあったのは紳士淑女の皆様方お顔やお振舞ではなく、ご家族の方たちが縁戚の場でお話になった、弔い上げが済んだばかりの奥方に纏わる不思議な伝説だったの」
マコはそこで紅茶を飲む。そうやって間を作るのは口を湿らせるためか、キタノカタマコの感情を揺さぶるためか。
カップの縁から唇を放したマーハは、変わらぬ口調で続けた。
「天女だったんですって、その奥方は」
それを告げられたキタノカタマコの様子には変化はない。ただ、それを聞いたサランが思わずマーハの方を振り返ってしまった。マーハだけではなくフカガワミコトも。
この場にいる『天女とみの虫』に目を通した者の中で表情をぴくりともさせなかったのは、ヴァン・グゥエットくらいなものだ。
サランとフカガワミコトの丸くなった目を楽し気に眺めて、マーハは物語の続きを語りだす。
「勿論、その家の方々がそのように語っておられただけ。こうして祖霊となってかつての夫だった方――お家の方はそのようにお呼びだったそうだから、ここでもそう呼ばせていただくわね――
ありあまる富を持ち、資本の力で世の中を回し、世が世ならば貴族と呼ばれていたかもしれない一族に属する人々が、厄介ごとを片付け肩の荷を下ろした解放感に浸っている。その様子を想像したのか、お茶目な様子でマーハはくすくすと笑う。そして話を続けた。
「この後、こうも申されたんですって。『翁の遺言通り百回忌をすませてみたが、このような大がかりな法要をせよと申し付けられるあたり、奥方は敬愛されるにふさわしい大した方だったのだろう。それこそ本当に天女だったのかもしれない』『いや、ひょっとしたら翁は本当に奥方から羽衣を奪って言いなりにさせたのかもしれない。返してほしくば我が身を成功を、というわけだ』だなんて、お酒が過ぎるような冗談も口にされる方もいたとか」
天女が登場するおとぎ話を口にするにふさわしい優しい口調で、やや俗っぽい昔話をマーハは語る。無言のキタノカタマコが自分がじっと見ていることにも構わず。堂々と優雅にしらばっれくれながら。
「勿論、本当にその偉大な奥方が本当に天女かどうかだったなんて確かめようもないわ。でも、おじい様はこういう不思議なお話に目がないところもあった方だから、なんとなく気に留めておられて、ある時私に教えてくださったの。――この国にもお前と同じように神仏のような神通力や法力をもった娘が地上にいたらしい、その中でも天女と呼ばれるものはほんの百年と少し前までは実在して人間と夫婦になっていたようだ――って。今思えば、故国を離れたばかりの私の緊張をおとぎ話で解こうとしてくださったのね」
血のつながらない祖父にあたる人物のことを語るマーハの口調はいつもよりもさらに丸みをます。世界の尾根で女神様として信仰を集めていた少女を養女に迎え入れたその人とマーハには温かい情が通いあっていたということなのだろう。
ただしこの場は、マーハの個人的な思い出話ををする場でも、華麗なる一族の内部で囁かれる北ノ方財閥創業者の若干後ろめたい伝説を無意味に語る場でもない。
特に天女に関する物語を知らされているサランは神経をとがらせないわけにはいかなくなる。フカガワミコトも同様に。
お前がどういうモノなのかこちらは既に知っている、と遠回しにマーハから告げられたキタノカタマコは一度目を伏せ、そして息を吐いた。
上級生を射抜くその目は、遠慮なく冷たく、鋭かった。
「――お話はもうお済みでしょうか?」
案の定、マコはまともに取り合わなかった。逃げるという選択肢をためらわずに選ぶ。しかしマーハはそれを許さない。
「ええ、お話はおしまいよ。でもよろしければ質問に答えてくださらない? もしその奥方が本当に天女だったとして、その方は本当に羽衣を夫になる方に盗られてしまったがためにその方の妻になり、その神通力で後に夫となる方を成功に導いたのか。それとも本当に夫となる方を愛して進んでその叡智を授けて家名の発展に尽くされたのか――。あなたならどのようにお考えかしら?」
「――」
ただ気軽にこたえればいいだけの、戯れるようなお嬢様の問いかけに、キタノカタマコは無言で応じた。扇子をまた開き、口元をかくして目を背ける。上級生であろうがなんであろうが、そのように下らぬ質問に答えなければならない必要性はないとその態度で語るようだ。
しかしサランには理解できた。キタノカタマコはあえてこのような不遜な態度を示している。それだけ上級生によるこの問いかけを警戒しているという証である。
マーハの養祖父が耳に挟んだという昔話が北ノ方家の勃興に纏わるものである。それを当然、マコは把握しているはずだ。
だからこそマコは黙ることを選んだのだ。
天女と呼ばれた創業者の妻は果たして夫を恨んでいたのか、それとも恨んでいたのか、迂闊に答えて言質を取られることを警戒しているのだろう。答え方一つであらぬ嫌疑がかけられてしまうから――。
ぞわっとサランの背中に、電流のような、寒気のような、得体のしれないものが駆け上った。それがうなじのあたりに到達したとき髪がふわっと膨らむ。
その微妙な変化に気づいたのか、マーハはサランの方を向く。
「では代わりに――。天女は夫を愛していた? それとも恨んでいた? そしてあなたがずっと翻弄されていた物語はどんな形であなたはそこで何をなすべきか、どうぞ聞かせてちょうだい、子ねずみさん? 私、あなたの意見が聞きたいわ」
レンブラント光線の差し込む書斎で猫足の長椅子にゆったり腰をかけ、サランの髪や頬を撫でて気晴らしに秘め事や周囲で起きている様々な出来事を打ち明けさせた時の蠱惑的な雰囲気を滲ませて、マーハはサランへ促した。しつけのなっていない小間使いを有する悪戯好きのお嬢様として、子ねずみさん呼びで命じた。
子ねずみさんと呼ばれれば、サランはマーハの命令に応えなければならない。なぜならそのように呼ばれるときはサランはマーハの愛玩物である。愛玩物の飼い主には保護の責任も伴う。
なにかあればこの上級生は自分の骨を拾ってくださる、それを確信したサランは丹田のあたりに力を込めた。網にかかった――それくらいの気持ちでいろと念じながら、キタノカタマコを再度睨んだ。それを感じたのか、まつ毛を震わせるマコはまたも虫けらのようにサランを一瞥した。
そのタイミングでサランは言い放つ。言葉で急所に刺すつもりで。
「そうですね、私は――。そのどちらでもないと考えます」
その時確かに、マコの表情が変化した。扇子より上、露出した目元が見開かれる。それはごくわずかな瞬間で、すぐさまマコは表情また不愉快なものへ向けるものへと変化させたが、サランは見逃さなかった。
キタノカタマコはサランの返答に驚いた。つまりは、サランの言葉が刺さった。防御をすり抜けて、言葉が届いたのだ。
手ごたえを感じる興奮に全身をびりびり震わせるサランにマーハは促す。ちょっとその声から蜜を垂らしたような粘性が消えたことを思うと、ある程度の事態なら読めるという上級生にもサランの返答は意外だったということらしい。
「あら、じゃあ子ねずみさんはどう考えるの? 無名の若者と天女の関係は――」
「それは――」
くっ、とサランは息を一度吸い込む。あまりにも醜く汚らしいせいでかえって目を背けることができない、そんな目でサランを見下すキタノカタマコの視線を跳ね返す思いで睨み返す。その脳裏にあったのは、『天女とみの虫』を読んだときに思い浮かべた物語の光景だ。
人間に騙され羽衣を奪われいいように使われ、鬼女にまで貶められた天女、たまたま盗み出すことで出会った浮浪児、自分を封じていた戒めとき、失った天女の肉体の体の代わりに人の体を手に入れ、人間と交配することでこの地に天が近づくまで命をつなぐと言い切った、哀れでふてぶてしい天女の物語――。
――ああそうだ、これは異類婚姻譚だ。
サランの頭の中で、まだシャー・ユイの方に手を置いているヴァン・グゥエットが北ノ方一族の系図を見ながらそうつぶやいた様子が蘇り、『天女とみの虫』を読んだときに浮かべたイメージと重なる。それを通して蘇るのは、深夜の九十九市でキタノカタマコを呪うように笑いのめした、茶髪でミニスカートでルーズソックスのあの憎たらしい女の姿と夜の街の空気だ。
めんどくさい伝え方しやがって、つくづくアイツは! と、頭の中で世界で一番嫌いな女へ罵ってからサランは怒鳴る様にして答えた。
「共犯者です!」
すうっとサランは息を吸い込み、一気にまくしたてた。
「人の体に神通力だけ宿した天女の目的は羽衣を取り返し天に帰る、もしくは地上に天を近づけ一つにする。そのために命をつないできた天女には、次の代につなげる器を用意するために番うべき相手がいる。夫としてふさわしい、お眼鏡にかなった男に持ち掛ける、自分の力で富も名声も欲しいものはなんでもやるから自分と夫婦になれって――。つまり利害が一致して手を結んだ仲だと私は考えます」
頭の中にあるストーリー概要に目を凝らしながら、サランは言葉を紡ぐ。シモクツチカはこういう画を描いていたに違いない、と確信してサランは言い切る。
それを促すようにマーハは相槌を打つ。
「まあ、子ねずみさんの考えるお話は剣呑ね。――さて、そのお家は若者の望んだ通り富も名声も収めたようだけど天女の希望の方はどうかしら? 羽衣を取り戻すことができたのかしら?」
ぶんぶんと左右に首を振る。眉間に皺を寄せたキタノカタマコを睨む。この後を告げることが視線の先に居るこの散々やりたい放題やってくれた生徒会長の急所を刺し貫くことができるという期待に体の内側を燃え滾らせながら、サランは言葉を尖らせる。
「いいえ、まだです」
「どうしてそう考えるの?」
「かなり近づいてはおりますが、天女が望んだようにこの世界はまだ天と地が一つになっていませんので」
「まあ、では天女の望みが未だ叶わないのはなぜかしら?」
「それはおそらく――羽衣をまだ手にしていないから」
サランはちらっと横目で一瞬、ノコを抱いたフカガワミコトを見る。サランが自分を見た意味を、フカガワミコトは悟ったのか、そんなことが有るはずない、とばかりにフカガワミコトは首を左右に振った。が、サランは無視をした。
流れは今、こっちに来ているのだ。
その奔流を作るマーハは、謎かけ遊びを楽しむように自分が可愛がる小間使いへ重ねて問いかける。
「では子ねずみさん、あなたがさっき口にした突飛なお話と重ねて考えると、羽衣とは一体だれで何のことを指すのでしょうね?」
「それは――」
そう口にしながら、サランは勝ちを確信した。なぜなら、キタノカタマコは自分の体に汚物を擦り付けられたと言わんばかりに眉間に皺をよせ、マーハへ訴えた。
「戯言はもう結構! ジンノヒョウエ先輩、いつまでこの茶番は続くのです?」
いらだった様子を隠さずマコはマーハへ声を荒げた。――ここまで感情を表にだすということは、さっきの二人がとっさに繰り広げた茶番がマーハの急所であるという確かな証拠であるからだ。
自分の悪あがきが刺さったのだ! あのおっかないお嬢様に――という、陶酔に襲われそうになるサランを見もせず、キタノカタマコはゆっくりと頭を左右に振る。
「今更現状は変わらぬと何度も申し上げておりますのに、どうしてこのような見苦しい真似をなさいます、ジンノヒョウエさんともあろう方が――! あなたは先を見通す澄んだ眼をお持ちだと伺っておりましたが?」
「ごめんなさい、キタノカタさん。恥ずかしながら、還俗した私は一介の人としてこうして日々煩悩にまみれて生きておりますの。可愛らしい方とはお友達になりたいし、演劇で皆様の心を震わせたい、愛しい人とは常に一緒にいたいし、そのためには世界を平和にしたい。輪廻の輪に乗る必要のない下級生には生きて帰っていただきたいし、欲しい本はどうしても手に入れたい。――往生際が悪くてお恥ずかしいわ」
マコのいら立ちをマーハは軽く平然と受け流す。にっこりと茶目っ気を漂わせた笑みを湛えて。
「ですから、ね。できるだけ手は打ちたいの。それに、先ほど誉めて頂いた私の眼はおかげさまでまだ未来は確定していないと告げてますから」
慈愛の化身のように微笑むマーハと対照的に、マコは再び無言で頭を左右に振った。呆れてものが言えないとその動作で訴える。
「――ジンノヒョウエ先輩、ではあなたは私たちがこれから地獄になるやもしれぬ土地に無辜の人々を置き去りにするような状態を見逃しても、ワルキューレの名誉が、当校の評判が地に堕ちても構わぬと申されるのですか?」
「ダメよ、キタノカタさん。そうやって問題を故意にすり替えてこちらの感情に訴えてごまかすようなことをなさっては。そのような詐術を繰り返されては、ワルキューレの尊厳を保てても、肝心な貴女個人の名誉に傷がついてしまう。それは後々お困りでしょう?」
冷静に指摘して、マーハは優雅にカップを持ち上げた。経験値の少ないものならその威圧感に負けて非が無くても謝罪に及んでしまいそうなその振舞にも、マーハは取り合わなかった。この期に及んでも美しく紅茶の香りを嗜む。
マコはただ、手元の扇子の骨をはじいて、ぱちぱちと癇性に鳴らした。表情だけは超然とした様子を保っているが、相当な悔しさと忌々しさを味わっているらしい。
それをしっかり受け止めたサランが、自分のご主人様を尊敬のまなざしで眺めた。キタノカタマコの威圧感だらけな詭弁に振り回されないだけで、この上なく頼もしい。
さすがに幼いころから女神様として祭り上げられ、少女期になってから観客を埋め尽くす人々が見つめるステージの上で喝さいを浴びていた人だけのことはある――。サランはマーハを見つめ祈る。とにかくなんでもいい、キタノカタマコの企てを撤回させてほしい。
下手な物語によってこの世界と人間に恨みを抱く天女に准えられた処女の目論見を破壊して、ジュリを死地へ向かわせないで欲しい。
シモクツチカが遠回しに騙ったことに真実がひとかけらだってふくまれているなら、キタノカタマコの真の目論見はもっともっと恐ろしいものになる筈だが、そんなことはどうだっていい。
あの作戦さえ破棄されてしまえば、こちらの勝ちだ――!
サランの願いを背負ってたつように、マーハは優しい口調でマコの言い分を説き伏せにかかる。
「ねえ、キタノカタさん。この世界の人々のために身を捧げましょうというあなたのお気持ちはとても美しいと思うわ? でも、私たちはもう第一世代のお姉さまたちと同じではない。まだまだ十分じゃないにしても組織もできた、私たちの活動に対する補償や報酬を得られるようになった。私たち自身が身を捨てて人々を救えばいいだなんて、そんな悲しい物語で世界を護るなんておかしいって一般の方もたくさん賛同なさったお陰で、かろうじてまだかろうじて人間の女の子でいられるの。――自己犠牲を強いるあなたの言い分は、その方々のお気遣いも踏みにじるものよ?」
「――」
「あなたは聡明な方ですもの。どうすべきか、よくお判りだと思うわ。――ね、今日中にお姉さま方や各校生徒会さんに連絡いたしましょう? 大丈夫、私がそばにいてあげます。お姉さまたちのお叱りはともに受けますから」
スタンドプレイで散々迷惑をかけた関係各所へ頭を下げて今日中に作戦を撤回させろ、そして自分の傘下へ下れ。以後高等部を出し抜いておかしな企てを目論まぬこと。
お嬢様的な修飾をはぎ取ればそうなるはずのメッセージを、冷酷で不遜で強権を振りかざす下級生へ告げるマーハの顔は、思わずその胸に抱きとめてもらいたくなるほどやさしく柔らかだ。
その優しさこそ、キタノカタマコのプライドを刺激すると十分わかった上での笑みであろう、サランにはそれが読めた。
でなければ、このようにマーハはダメ押しをしたりするものか。
「あなたが本当に誰よりもこの世界にすむ人々を愛する崇高なワルキューレであると、みんなよくご存じなのですもの。私たちも、先生方も、世界中の皆様も――。だからきっと今ならお咎めは軽くて済むわ。あなたがここで素直になりさえすれば」
羽衣を奪い、自分を騙し、天女から鬼女へ貶めた人間への恨みを何世紀にもわたって人の体に魂を移しながら保ち続けてきた天女に准えられた少女へ、マーハは遠回しに脅す。
天と地を一つにするという目論見を野心を捨てろと、さもなくば――、と警告する。
その雰囲気を嗅ぎ取ったのか、ナタリアがテーブルを指先でこつこつと叩いた。こつこつ、こつこつ。交渉の爆発事故の応対にあたっている高等部生徒会メンバーのうち気丈な副会長がこちらに気づくまで叩き続ける。彼女が気づいた後はさっと視線のみで意志を伝えた。
何かあったら即座に教員へのホットラインを利用せよ、の意志に違いない。サランは判断した。
なぜならもともと天に暮らし、天への恋しさと人間への仕打ちの恨みからこの世界を呪う天女という種族は、現代の基準では人ではないとされるからだ。
返答次第では我々は学園に合法的に入り込んだ侵略者を排除しなければならないと暗に語りながら、マーハは優雅に返答を待つ。チェックメイトだとその笑みが告げる。
「さあ、キタノカタさん?」
促すマーハの視線と向かい合うキタノカタマコからは強烈な嫌悪や悔しさは消えていた。お茶会が始まった当初の、淡々とした静けさを湛えたものに戻っていた。
感情を制御したようなその表情は、観念し、負けを受け入れたようにも見える。
そこでふーっと息をつきかけたサランは、解くべきではないタイミングで気の張りをといてしまう。気合を入れ続けるなんて慣れないことをしたせいで、力が抜けたのだ。
だから、視界の隅で黒い影がさっと移動したことに対応するのに遅れ、キタノカタマコの言葉に耳を疑い、行動に移るのがワンテンポ遅れた。
扇子の陰から花びらのような唇を覗かせたキタノカタマコはこう告げたのだ。
「ジンノヒョウエ先輩、私は何度も申し上げているはずです。――状況はもう覆りません、既に決定しています」
――はい?
――今なんと?
と、思わず目を見開いた先にあるマコは扇子で再び口元を隠し、目を細めてわらったせいで今度は自分が見たものを疑った瞬間、サランの視界がぐるりと反転する。一瞬見えたのは今日も見事な夕焼けの空。
直後、磁器や陶器がはでにひっくり返る耳をつんざく大音響に、ガラガラガチャンと磁器の類が砕け散る音、なにかがひっくり返るような衝撃、刃物と刃物がぶつかる火花散るような金属音と衝撃波、そして悲鳴――。至近距離だった分、少し前に聞こえた工廠の爆発音よりそれは度肝をぬく音だった。
なんだなんだ……、と、戸惑うサランの鼻孔に嗅ぎなれた匂いが入り込む。エキゾチックなお香の香りを塗りつぶすような、甘ったるく人工的で、そのせいですっかり馴染んでしまい懐かしさすら感じるようになってしまったフルーツ香料の匂い。それを悟った瞬間、自分がいま親しい誰かに抱かれた状態であることも悟る。
「――ったく、な~に気ィ抜いてんすかサメジマパイセン。っぶねぇなー、もう」
驚いて強張るサランの顔を上から覗き込んだのは、見慣れた猫目と口からキャンディの棒をはみ出させた、メジロタイガのあの顔だ。サランの丸く目を見開いた顔をみて、ニヒィっといつものように笑う。
「あんの鬼みてーなお嬢前にしてんのに、最後の最後で目ェ逸らしちゃ台無しっすよ。せっかく格好いいメンチきってたのにもったいね」
どうやらプレス席からすっとんできて、自分を抱きかかえる格好になったらしい――という状況を瞬時に理解して、サランは慌てて体を起こす。前にもタイガに助けられた時同様、ありがとうを言うのは後回しになってしまったがサランは割り切った。
なぜなら、お茶会のテーブルがひっくり返っている、どころか粉々の木片に変えられている。芝生の前にはお菓子や茶器やティーセットが無残にひっくり返っていた。サランにとってはなんとも既視感を感じさせる光景だ。
芝生にぶちまけられたティーセットにお菓子の類を踏みにじるように立っているのは、制服に腕章を巻いた候補生――キタノカタマコの侍女だ。副会長の腕章をまいた侍女は、今はキタノカタマコの前に立ち、その両手には薙刀型のワンドを手にしている。
テーブルをこの惨状にしたと思しき侍女の後ろで、キタノカタマコは眉を顰めた。不快である、とその表情が語る。
その先にあるのは、黒い細身のパンツに包まれた脚をゆっくりと降ろすホァン・ヴァングゥエットがいる。そして背後には椅子から立ち上がったマーハが。
それを待ちかねるように、薄い化粧で彩ったアーモンドアイを薙刀型ワンドを構えるキタノカタ家の侍女とその後ろのマコに据えたまま、右腕でパートナーの肩を強引に抱き寄せた。
「怪我は」
「大丈夫。なんともないわ」
短いやりとりと、前後の流れでサランは状況を把握する。状況は覆らないと言い切ったキタノカタマコの雰囲気から何かを察したヴァン・グゥエットが立ち上がりテーブルをマコの方へ向け蹴り上げる。花瓶やティーセットを乗せたテーブルが襲いかかったのを、背後に控えていた侍女の一人がワンドを召喚して切り伏せた――そのような状態らしい。
ひっくり返ったテーブル同様、周囲も惨憺たる有様に変わり果てていた。マコの侍女たちは全員同型の薙刀型ワンドを召喚していた。うち三名が、フカガワミコトとノコを三角の陣の内に囲んでいる。
何々、一体なにがどうしたの⁉ と狼狽するアメリア・フォックスほか高等部メンバーも侍女たちによって一か所にまとめられる。シャー・ユイも慇懃な態度の侍女に薙刀の切っ先をつきつけられ、悔し気な表情でサランとタイガの元へ移動させられた。
「大丈夫か、シャー・ユイっ⁉」
「私なんかより演劇部の財産の損失を心配してちょうだい! ――嗚呼っ、代々受け継がれてきた演劇部のウエッジウッドをあんな風に踏みにじるなんて……っ!」
タイガの腕と膝の上から降りたサランの肩に抱き着いて嘆くシャー・ユイの様子から大丈夫だと判断する、サランたちのそばにも薙刀をもつ侍女が立つ。妙なマネをするなという恣意行動だ。ちっ、と忌々しそうにタイガが舌を打つ。
マコの侍女はお菓子をまだもぐもぐやってるレネー・マーセルとナタリアも背中合わせに立たせると、薙刀をつきつけて動きを封じる。でも、口を動かし続けるレネー・マーセルの瞳は煌めいていた、ナタリアも皮肉めいた笑みを浮かべていることからこの状況を愉しんでいるように見えるのが唯一救いではあった。
当然、マーハとヴァン・グゥエットのそばにも薙刀型ワンドを携えた侍女がはべり、マーハの傍にいたメイド服の訓練生も逃げぬようにと二人の傍へ移させる。小柄な訓練生は怯えた表情でマーハの体にすり寄った。
今やキタノカタマコの御用機関であるというプレス席の新聞部員たちもこの状況にざわつく。しかし逃げる者はいない、マコの意志に沿って動くはず侍女たちも彼女らにはワンドを向けない。つまりはこの状況を子細漏らさず記録せよという指示であろう。
囚われた高等部生徒会と華々しい特級メンバー、荒らされたお茶会現場に浴びせられる容赦のないフラッシュを浴びながら、キタノカタマコは淡々と言った。
「ジンノヒョウエ先輩。この場でワンドを振るう無礼、何卒お許しを」
「構わなくてよ。ヴァンがあなたを驚かせてしまったのね。――でも」
ヴァン・グゥエットの腕に抱き寄せられたマーハの頭のそばにある空間が歪み、爪を朱に染めじゃらじゃらと腕輪を重ねづけた神霊の腕がのびる。それが持つのはマコの手にあったはずの白檀の扇子だ。自分の手の中にあったはずのそれが、向かい合う上級生を守護する神霊の手の中にあると知り、険し表情を作った。
マーハは微笑みを絶やさぬまま、扇子を受け取りマコがするようにぱっと開いた。そしてそれを斜めに傾ける。
拡がった扇子陰から、ぱらぱらと、銀色の糸のよなものが零れおちる。芝生の上に落ちる直前にマーハは左手を振って地面に亜空間へ通じる穴を作った。その中にキタノカタマコの扇子も落としてから左手を振って、特級ワルキューレのみが持てる物理実体のある私物をしまえる格納庫の扉をしめた。
愛用の扇子――なにやら危険な仕掛けが施されていたらしい――をとりあげられたマコは絽のを和服の袖口で口元を隠し、ふゆかいそうに上級生を睨んだ。マーハは柔らかな声で告げた。
「ヴァンがあなたたちのことを驚かせたのも私に身を案じてのこと。だから今回のことはおあいこにいたしましょう?」
マーハは微笑む。その表情に残念そうなものが浮かんでいたが、それでも声の優しさは変わらない。
「今回のお茶会がこのような形に終わってしまったのは残念ですけれど、おつきの方たちにお願いしていただけないかしら、ワンドをしまっていただけます? って」
平和的な話し合いで解決しようという提案と、それが飲めないのなら自分たちが追討するという警告を無視された上に、危険な企てを秘めている下級生から武器を向けられているにも関わらずマーハの声には場違いな茶目っ気が漂っていた。
勿論、キタノカタマコはそれを飲まない。扇子を奪われてしまったたみに絽の着物の袖でくちもとを隠したまま、冷たく目をすがめた。
「残念ですが、それは承諾いたしかねます。――いくらジンノヒョウエさんとは言え、くだらぬ騙りで私を愚弄し、人ではあらぬ者と貶めた屈辱はここで雪がせていただけなれば気が済みません」
それに反応したのはマーハではない。口の中にあったものを飲み下して空にしたレネー・マーセルだ。目をきらきら輝かせて前のめりになる。
「何々何々っ! ケンカっ、ケンカなのっ⁉ 乗った乗ったー!」
二人の傍に立つ薙刀を持った侍女が下がれとばかりに、レネー・マーセルの刃を突きつけるが、インファイトでは太平洋校最強とされるワルキューレはその刃の根元を素手で無邪気につかんだ。そしてくるりと手首を返す。
めったなことでは表情を変えないキタノカタマコの侍女が珍しいことに表情を変え、宙を舞い、芝生の上に叩きつけられた。プレゼントの山を前にしたこどものような表情で、レネー・マーセルは自分の者ではない薙刀を操り自分がなんなく叩きつけた侍女の顎にその刃先をつきつける。それだけではなく、ガラスでできたような繊細なデザインのパンプスで侍女の手の甲を踏みつけた。ピンのようにとがったヒールで容赦なく。
いつも表情を変えない侍女の口からうめき声が漏れた。無理もあるまい。レネー・マーセルの履いている靴のヒールはしっかり侍女の手を貫通し、地べたに縫い留めたのだ。一部始終を見ていたサランは目を背け、そのそばでタイガが、うわ痛ぇ、と小さく声を上げた。
無慈悲、残虐という言葉以外に相応しいものが見当たらないふるまいをみせたにも関わらず、レネー・マーセルの声は明るく弾んでいる。山のようなプレゼント前にした子供のように顔をきらめかせながら、背中合わせのパートナーに尋ねた。
「ね、ナッちゃん。あたし、マーちゃんたちのさっきの話、聞いてたんだからね! だからごまかしちゃヤだよ? マコちゃんたちって外の世界からきたってことでいいんだよねっ? ねっ、ねっ?」
侍女が足元で体を丸くして苦痛に耐えているというのに、レネー・マーセルは一顧だにしない。ひたすら明るく無邪気な声でナタリアに質問をあびせかける。
「外の世界ってことはさぁ、侵略者、なんだよねっ?」
「――まだそうとは確定していない。先生方からの返事待ちだ」
ナタリアは冷静に、アメリアたちと団子にかためら固められた高等部生徒会副会長をちらと見やった。新種の侵略者の認定には経験のある教職員の判断が必要になる。でなければ駆逐命令が出ないのだ。
仲間が苦痛にもだえている姿を見ても眉一つ動かさない侍女と、急な状況の変化に対応しきれていないアメリアがおどおどしているそばで、高等部副会長はさっと首を左右に振った。
「それが、ホットラインがつながらないんです……! おそらく先生方も工廠の事故の対応に出られているようで――」
「えー、何それ! マコちゃんが侵略者だって認定でないってこと? なによ、それぇー! つっまんないなぁもー!」
ぷんすかぷんぷんとマヌケな擬音を書き込みたくなる風情で怒るレネー・マーセルと背中合わせにナタリアはにやりと面白げに笑ってみせた。首を傾け、地べたに縫い留められた侍女の一人を見下すキタノカタマコに皮肉を浮かべた視線を向ける。
「なるほど、実に周到なことだ」
「そのような態度でよろしいのですか? 下級生をそのようにいたぶる様子が環太平洋圏に拡散されれば、あなた方のちいさなファンと親御様の幻滅を誘うことになりかねるのでは?」
「忠告どうも。しかしそれは君も同様だろう? 厳しくも本当は優しいヒロインのマコちゃんが忠実な侍女にそのような視線を浴びせる冷酷無比な乙女であることが拡散されては、人前で涙をこぼして白々しいスピーチを打ってでた甲斐も無くなろう」
この場を記録してゆくプレス席の新聞部を意識したやり取りをふたりは繰り広げるが、負傷した侍女はそのままだ。じわじわと芝生に血が流れていく様子がサランの位置からも見える。そのような状況なのに侍女は声をころして悲鳴をこらえている。訓練されすぎにもほどがあるとサランは呆れてしまう。
さっきまで勝ちを確信していたというのにどうしてこのような状況に――、と、頭が切り替えられず立ちすくむサランは立ちすくむ。さっきまであったはずの流れはどうやら霧散したようだ。
そのなか、三人の侍女たちが三角に構えた薙刀の内側に閉じ込められたフカガワミコトが、声をあげた。
視線の先には頬を膨らませたレネー・マーセルがいる。
「る、ルカン先輩、ヨシキリさん怪我されてますけど――っ?」
「? ヨシキリさん? ――ああ~、この子ってそんな名字だったんだー、へー。初めて知った~。じゃあの子たちも全員ヨシキリさん? ヨシキリ一号から十二号? じゃああたしの足元にいるこの子はヨシキリ何号? フカガワ君知ってるー?」
「いや、そんなことより、怪我されてますよっ! つかヨシキリさんの手に穴あいてますよっ、やりすぎですって!」
三角の陣の内に閉じ込められたフカガワミコトは声をこらえる侍女の身を素朴に案じるが、レネー・マーセルには通じなかった。
「やりすぎ? そんなことないない。このヨシキリ何号ちゃんだかが侵略者の仲間ならこの程度のことで死なないよぉ? 丈夫なんだから、あいつらってば」
いや、だから――! と、少年は口籠ったが頭の中身と価値観が独特な上級生あいてでは拉致があかないと判断したのだろう、訴える先を変更した。薙刀の柄に手をかけて、マコへ向かって叫ぶ。
「キタノカタさん! ヨシキリさんがあんなことになってるぞ、助けないとヤバいって!」
純粋に侍女の身を案じている様子のフカガワミコトは叫ぶ。しかし、侍女の主であるはずのマコは煩わしそうに息を吐き、例のごとく冷たい一瞥を少年へ食らわせるのみだった。
「助ける? 私に何をせよと?」
「な、何って。そんなの――」
口ごもる少年の前であからさまなため息をつき、キタノカタマコは首を左右に振った。この少年と会話をすることほど時間を無駄にすることはないと言わんばかりな、無情な態度だ。
そんなマコの周囲に侍女たちが群がる。そして着衣や髪のわずかな乱れを直した。あからさまな帰り支度だ。このような状況になったとはいえ、お茶会の閉会は正式に宣言されてはいないのに。
力づくで場の流れを変えさせたキタノカタマコは、この状態で逃げ切ろうとしている。負傷した侍女をみすてたまま。逃げ切れると確信したためか持ち前の涼やかな声を響かせるのだ。
「あれは自分の落ち度でルカン先輩に身を封じられています。あの手を切り落としてここまで戻ってこれぬような者など、私には要りませぬ」
そのように、キタノカタマコは言い切った。
侵略者の仲間の可能性があるからという理由だけで、下級生の手をピンヒールで踏み抜き、その上取り上げた薙刀型のワンドをつきつけているレネー・マーセルの態度よりもうんと、無慈悲に冷酷に、その声は響く。なぜならその侍女は、いつもマコの後ろに従っていた忠実な侍女の一人だったから。
ひょっとしたら初等部一年とのときに、キタノカタマコの髪を梳かす際に失敗したあの侍女がこの子だったのではないか――? サランはその時の記憶が蘇る。
手首を切り落とせという主人の命令が聴こえたのか、苦しむ侍女の手が自身のワンドを掴む。その刃で手首を切り落とそうというつもりだったようだが、ワンドを掴むレネー・マーセルはバランスを崩すことすらしない。
ただ悪戯に痛ましい光景をとめたのは、この場に相応しくないきつく訛った口調だった。
「足上げんさい、園芸部員」
誇張の混じった旧日本の山陽放言をこの場で使う者は、サランの知る限りひとりしかいない。予想通り、それはヴァン・グゥエットの者だった。通常、自分と同じような境遇の者以外には聞かせないその訛りを、言葉と表情筋を惜しむ傾向のある上級生はためらいもなく口にする。
おそらく高等部のあいだでもヴァン・グゥエットのそのルールは周知されていたのか、意外そうにレネー・マーセルは目をきょとんとさせた。
「――ヴァンちゃん?」
「マーの前じゃけ、要らん血ィは見せとうない。それにその娘はれっきとしたワルキューレじゃ、身上はうちが保証する」
「えー、でもぉ~……」
どこまでも好戦的な気質らしいレネー・マーセルは唇を尖らせるものの、パートナーの顔を信じられないものを見るように見入っていたマーハが我に帰ってこう言うのでしぶしぶ従う。
「ルカンさん、お願い。――ヴァンがここまで言うのはよくよくのことなの。わかるでしょう?」
背中合わせのナタリアも、言う通りにせよと眼でうったえたのが決め手となり、ぶーぶー言いながらもレネー・マーセルは侍女の手から血濡れたピンヒールを引き抜いた。血が飛び散り、侍女は今までこらえていた悲鳴をあげる。
マーハは棒立ちになっている訓練生に命じて侍女の手当てをするように命じた。
その間、侍女の主であるはずのキタノカタマコは今まで通り帰り支度を整えている。嗚咽をもらす侍女のこなど一顧だにせず、戸惑いと怒りを燃え立たせるフカガワミコトに睨まれても顔色一つ変えない。
「ちょ、キタノカタさん! いくらなんでも、今の、あれは無いって……!」
キタノカタマコは答えない。一瞥すら食らわせない。焦れたようにフカガワミコトは叫ぶ。
「キタノカタさん、あんたもたまには俺の話を聞けよ! 自分の言いたいことばかり押し付けるんじゃなくて!」
自分を閉じ込めるワンドの檻をつかみ、少年は講義する。しかし当然のようにキタノカタマコは無視をする。まるでフカガワミコトの言葉など耳に入れる価値はないと言わんばかりに。
代わりに応えたのは意外な人物だ。訛りを交えた時にだけみせる感情を漂わせ、ヴァングゥエットは少年に呼び掛けた。
「ほっときんさい、あれは所詮それだけの女じゃ」
その声には珍しく、親しみが籠っていた。
「下のもんのために自分が前に立とういう気概の無い、肝の座っとらんつまらん女じゃ。――あれに比べたら、あんたの方がはるかに立派じゃ。胸はっときんさい」
帰り支度を続けるキタノカタマコは自分への評をきいて不愉快そうに眉をしかめたがそれだけだ。どうしてもヴァン・グゥエットとは口をきかないとい内なるルールを優先する。
少年はというとどうして自分の評価がこの(彼にとっては)得体のしれない美貌の上級生の中でたかくなるのかわからなかったらしく、戸惑いながら、ありがとうございますとぶつぶつつぶやく。
そうこうしているうちにマコの帰り支度は整う。マーハがかわらぬ柔らかい声で呼びかけた。
「あら、もうお帰りなの?」
「ええ。実はある人を待たせております。事故の対応もありますので、誠に失礼ながら退席せねばならぬ仕儀となりました」
「まあ! それは大変」
マーハもひるんだ様子を見せずに、余裕をもって対応する。
「なんでしたらその方もこちらへお招きすればいいわ。こちらは工廠とは離れていますから校舎よりも安全な筈だもの――。勿論、その方が移動が可能な状況で、このようなすさんだ状況でもかまわなければ、ということにはなりますけれど」
「――」
自分を逃がすまいとするマーハを見るキタノカタマコの目はやはり煩わし気だ。しかし、この上級生相手には下手に盾突くのをためらう気持ちがあるのか、それもと何かしらの考えがあるのか、涼し気な声で傍にいる侍女に囁く。その後、つつ、と、頭を下げた。
そして、面を起こす際に、力むサランをなぜか刺すような眼差しをくれる。ぞっとしたが、それは一瞬だ。キタノカタマコは落ち着きを取り戻した調子でマーハへ答えた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。――私もその方がよいと判断いたしましたので」
まあ、それは良かった――と、朗らかに応えるマーハの方にキタノカタマコの視線は向けられていたにも関わらず、後半の言葉はなぜか自分自身に向けられた気がしてサランはまたぞくっと身を震わせたがなんとか気を張った。怯んでいる場合ではない。もう賽は投げた後でめまぐるしく流れは変わっているのだ。
流れについてゆくほかない。
マコは袖で口元を隠しながら、マーハへ訴える。
「その方がいまこちらへお見えですので、もうしわけありませんが迎えに参ってもらえますか? ――できましたら、そちらの小間使いにお頼みしたいのですけれど」
ぎり、と刺すような眼差しでマコが指名したのはサランである。なぜ、と、とまどう隙も与えず、マーハも頷く。そのようにせよという合図だ。
マーハが言うならサランは動かねばならない。膝を折り曲げて頭をさげ、テラスから館の中に入り玄関へむかった。
ワンドを持った侍女が一人、サランのあとをおいかけてくるのを煩わしく思いながらドアの内側へ立つと、狙いすましたように呼び鈴が鳴った。
はいはいはーい、とやけくそのように言いながらドアを開ける。
そして無言になった。ならざるを得なかった。
「――」
制服、無造作なショートカット、なんのつもりでかけているのか分からない伊達メガネ。
やぼったさを無理して身に着けても、もともとの美点をどうしても殺せない秀でた容姿の候補生が姿勢を正しく立っていた。
見慣れたその姿にサランが目を丸くしている前で、来客は老舗洋菓子店の紙袋を差し出す。
「突然失礼いたします。――急な事態でこのようなものしか用意できませんでしたがどうぞ皆様で――」
言葉尻をぼかしながらワニブチジュリが差し出す紙袋を、サランは機械のようにただ受け取った。
工廠の火災は沈静化したのか、ヘリのプロペラ音は聞こえなくなっていた。
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