#44 ゴシップガールもお茶会の準備中?

 月の形が日々変化すれば、当然、太陽も日々東から上って西へと沈む。


 侵略者の中には時空に干渉するようなものいるが、その年はその理が覆ることは一度も無かった。それも地球その近隣で戦うワルキューレの働きがあってのことかどうかは観測者の判断にゆだねられることである。なんにせよ問題なく九月三十日はやってきた。やたらと濃密だった十五夜からその日までの数日間も過ぎ去ればあっという間である。


 当日の放課後、サランは演劇部の訓練生たちと混ざって会場の準備を手伝うことになっていた。終業のベルが鳴ると席を立ちながら出撃命令が出ていないかチェックする。

 メールボックスに寄せられていたメッセージは一件。出撃命令ではなく見慣れたジュリの一筆箋だ。開くといつもの達筆で「頑張れ」とのみ記されている。これから行われるお茶会のことを指しているとすぐにわかった。

 同じ授業を受けていたが、ジュリは教室の後ろ側にいてサランは教壇側にいた。昨日の昼休み、自分からサランを引きずって連れ出したくせに、一日たてばジュリは「文芸部はフカガワハーレムにお触り禁止」の決まりを思い出しでもしたのか、また再びサランをさらりと無視しだした。


 久しぶりに気遣いというものを覗かせたメッセージとは違い、席を立ち後ろの扉から廊下へ出ようとするジュリの動作はきびきびと超然としている。

 どうせそのままサランのことなど無視してさっさかと教室を出ていくのだろうと分かっていても、みていて気持ちのいい動作をなんとなくサランは目で追っていた。

 何気なく見ていた筈だった。

 なのにジュリはまるでその視線に気づきでもしたのか扉の後ろで一瞬足をとめ、そして振り返り、サランを見た。相変わらずの伊達メガネごしの綺麗な眼から放たれた視線と、サランのぼんやりした視線がぶつかる。

 するとジュリは唇の両端を少し上に引いて微笑んだ。

 気づくか気づかないか、そんなささやかな笑みではあったが微笑みは微笑みだった。珍しいこともあったものだ、と、サランは一瞬金縛りにあったあとに心の中で呟いた。


 そろそろ散髪し頃になったショートカットの毛先とスカートの裾をなびかせて、ジュリは無駄に颯爽と教室を後にした。あのまま文芸部の仮スペースになっている屋上の扉の前に向かうのだろうか。それとも寮に戻るのか。ジュリはお茶会の招待客ではない。


 ――ふと寒気に襲われて、サランは全候補生へ向けた連絡用掲示板をチェックする。


 出撃命令なら個別にメッセージが送られるのが常だが、殉死者氏名や大型作戦に関する辞令であれば生徒への心構えを説くことも兼ねて誰でも見られる全候補生向け掲示板で概要が通知されるのだ。

 そこにあったのは、きたる文化祭の準備に関する注意事項や出撃先で羽目を外したものへの呼び出し、本日の出撃者数と駆除した侵略者の総数、0人であると記された本日の殉死者数(「自身と朋輩の生命を守るのもワルキューレにおいては大切なことです」)、活躍に応じてランクの上がった候補者の氏名など、見慣れた情報ばかりだった。十月からの大型作戦に関する変更に関するものはそこにはない。

 とりこし苦労か、と、とりあえず安堵したサランではあるが、泰山木マグノリアハイツへ向かう途中で昨日自分への内示が発表された投影型掲示板の前を通ったが、そこにはサランが直接確認した以上の情報はなかった。


 放課後を迎えた候補生たちの表情は一様にリラックスしているように見える。


 地上のどこかで争いごとは起きている、来月には外世界から侵略者の一軍が飛来すると予言されている、そんな地球上であっても人類の生命と安全を護るべしとさだめられたワルキューレたちの学び舎は普段通りの日常にまどろんでいる。そんなふうに見えた。サランはそのまま泰山木マグノリアハイツへ向かった。


 ワルキューレとはいえ自分は低レアで、能力そのものは高くない。そんな自分が悪い予感や胸騒ぎを感じるのなんて滑稽だ、そんな風に思っていると随分久しぶりに耳にするようなキンキン声が自分の名を呼んいでいるのに気づく。


「サメジマ氏、サメジマ氏」


 ひそひそといった囁き声レベルにまでボリュームは落としていてもその超音波じみた声の発生源を探すのは容易で、通りすがりの候補生たちもブーゲンビレアの植え込みの陰に身を潜ませているつもりらしいケセンヌマミナコがサランを手招きしているのを不審そうな目で見ては去ってゆく。

 植え込みからトレードマークともいえるウサギ耳状のリボンが覗いている。苦笑しながらサランはそのそばに近寄った。真面目に隠れる気があるのかとつい問い詰めたくなる有様だったが、ミナコの表情はそれなりに真剣である。


「お久しぶりでござるな、サメジマ氏。――近頃のご発展、さしもの某も瞠目するばかりでござった」

「あー、まぁあれはいろいろあってね……。つか、ケセンヌマさんも大変だったみたいだね。聞いたよう? ――『ハーレムリポート』がらみのゴタゴタに二人をまきこんじまって、なんて謝っていいのか、さすがにお詫びの言葉も無いありさまだよう……」

「その点はあまり気になさらずとも結構。怪我の功名とでも申すべきか沙唯先生との距離が縮まるに至り、今や我らは不当な弾圧に立ち向かう同士でござる」


 むふー、と小鼻を膨らませてミナコは息を吐く。ちょっと嬉し気なのは気のせいか。苦笑するサランの目の前で、大きな目で目配せをする。自分の斜め後ろを見よととの合図だ。

 わざとらしくない程度にそちらにさっと視線をなげかけると、物陰に候補生が潜んでいるのが確認できた。委員会名までは確認できないが、腕章はしっかり巻いている。

 ――つまりそれが、ミナコがブーゲンビレアの植え込みに身を潜ませていたという理由になろう。たとえバレバレであっても。


「サメジマ氏はとっくにご存知でござろうが、本日のお茶会、沙唯先生は出席されるでござる。――いや、うらやましい。某も泰山木マグノリアハイツの乙女たちの甘美なる黄昏時の宴に同席しとうござった」

「んーまぁ、シャー・ユイは元々『演劇部通信』担当だったからね――」


 相変わらず語彙が微妙に好色な紳士じみているミナコの口調に思わず懐かしさを感じてしまうサランだが、たとえ遠巻きであっても腕章を巻いた委員会メンバーの視線はこちらにある。無視するふりをしてもその視線に無い筈の質量を感じてしまうのだ。

 長居は無用であると言いたげに、ちょっとたれ気味の大きな目をミナコは瞬きさせた。


 広報委員会からヘッドハンティングを持ち掛けられているシャー・ユイと、同人誌制作にいそしんでいたケセンヌマミナコ。そのミナコに腕章をまいた委員会メンバーが張り付いている。ならば、彼女らにとっての本丸であるシャー・ユイ本人には――と、ミナコはそう告げたいのであろう。

 機嫌がよさそうにも見えるし、内面をカムフラージュしているようにも見える。そんな印象を見る者に与えるアヒルのような口をして、いつものごとくミナコは素っ頓狂な声で素っ頓狂なセリフを吐いた。


「選ばれし乙女らが一堂に介する秘められし宴に招かれなんだことによる悲しみは、むせかえる泰山木マグノリアの香気の下、気まぐれな女神に麗しい乙女たちがその身を捧げる儀式の様子を想像して慰めるでござる」

「――あのさ、ケセンヌマさん。演劇部さんがこれからやろうってのはお茶会だよう? お茶会。そんな怪しい古代の秘祭みたいなことはしないから」


 一応そう言ってミナコのめくるめく爛れた幻想が暴走しないように釘をさしてから、サランは手を振って別れた。ただ雑談をしていたように見せるように、ふりむかないで歩く。それが却って不自然に見えるのではないかと、サランは気が気でなかったが結局のところ開き直った。

 おどおどしたところで、キタノカタマコはお茶会の賓客の一人である。腕章を巻いた連中はとっくにサランの動向には目を配っている筈だ。

 むろん、それはジュリにも当てはまるだろう。亜熱帯のこの島だというのに、胸を涼しい風が吹き抜けた。




 西の空が黄色味を帯びてきた頃合いに、いつもは演劇部の関係者のみが立ち寄るために棕櫚の木立に静かに品よくたたずむ泰山木マグノリアハイツには、甘い音楽と香りと少女たちのおしゃべりにドレスの衣擦れなど華やかなな彩で飾られだした。


 サロンのテラスから庭へと庇をのばし、白いクロスをかけテーブルにはお花やお菓子に冷たい飲み物を用意する。三段重ねのティーセットが用意されているところから基本は英国調のようだが、雰囲気づくりと虫除けを兼ねた香炉からはレモンを思わせるエキゾチックな香りが漂い、どこの国ともいえない独特のムードが演出されていた。

 正式なマナーにのっとったお茶会ではなく、初めて顔をあわせる皆さんが仲良く素敵な夕べを楽しめる会にしたいから――というのがマーハの意向だが、演劇部の美術係が陣頭指揮をとってセッティングされたパーティー会場はサランの目からすれば十分にフォーマルだった。かつてこの泰山木マグノリアハイツの持ち主だった実業家が取り巻きや商売相手を招いて繰り広げたという夜会はこうだったのだろうと思わせるような優雅さだ。

 目立たない位置に置かれた冷風を送る送風機が空気を攪拌し、亜熱帯の厚さと湿気にさいなまれることを防いでいる。古風なステレオセットからおしゃべりの邪魔をしない程度の音量に絞られた、古いミュージカル映画由来のヒットナンバーが聞こえる。懐かしくて甘いメロディーと、レモングラスのアロマ、お菓子に使われたスパイスとフルーツ、そして花とかすかに漂う泰山木マグノリア、土と樹木と海風の匂いがまざりあった香にくらくらと眩暈を覚える。


 その中で、おめかしした高等部のワルキューレたちがお茶会の会場をひらひらと泳ぐように移動する。特にゆるくウェーブのかかったきらめくブロンドと、ミントグリーンのシフォンのワンピースのすそをなびかせるレネー・マーセル・ルカンははひときわ目立つ。彼女自身が発光しているかのよう自然と視線を集めるのだ。

 テーブルの上のお菓子や園芸部が提供した花々が綺麗に飾り付けられているのに気付いては歓声をあげるレネー・マーセルの傍らには、タキシード調のスーツをカジュアル着こなしてスタイルの良さを引き立たせたアクラナタリアがいる。自由奔放にふるまうプリンセスと彼女を護る黒衣の騎士といった風情だ。目を引かないわけがない。


 天真爛漫なプリンセスは、パーティーの主催者である館の女主人に無邪気に手を振ると駆け寄った。履いているのがいるのがガラスでできたような繊細な靴であるにも関わらずその身のこなしは軽やかで優雅。花の上で戯れる蝶々めいている。

 マーちゃん、あたしたちのお花を綺麗に使ってくれてありがとぉ~……! と、レネー・マーセルの天衣無縫な歓声がサロンまで流れ込んできた。その前に「本日はお招きありがとうございます」だろう、いつになったらお前は挨拶を覚えるんだ? というナタリアの冷たい声も聞こえる。

 そんな同級生二人をにこやかに迎えるマーハの召し物は濃紺のクラシカルな英国調ワンピースだ。白いブラウスとウェストを絞りパニエでふくらませたスカート、色味こそシックだがシルエットは女主人の立場に相応しく華やかで気品にあふれている。

 いいのよ、ナタリアさん。二人とも今宵はどうぞ楽しんで頂戴ね……と、仲のいい同級生の二人を迎えるマーハの斜め後ろには、やはり当然のようにヴァン・グゥエットが控えている。黒を基調としたシンプルなパンツスーツをラフに着こなしオリエンタルな大振りのアクセサリーをところどころに合わせている。相変わらず無口な上級生だったがナタリアとは視線で何かをやりとしした風ではある。

 

 演劇部のトップスターと環太平洋圏女児あこがれのヒロイン、太平洋校の誇る四名の高等部生が居並ぶ様子はとにかく華やかだ。普段通りにしているだけで自然と視線を集めるのも頓着せずににこやかに談笑する様子がまた、スターの箔というものを見る者に与えている。

 そんな様子に、誰よりも見入っているものがいた。シャー・ユイだ。


「――ああああ~……、どうしようサメジマさん。目の前に天国が、天国があるっ。私もう死んじゃうのかもっ」

「死ぬわけ無いようっ、落ち着けってシャー・ユイ!」

「いっそこのまま死んじゃってもいいっ。むしろ目の前の光景を目に焼き付けたまま召されたい!」


 太平洋校の選ばれし乙女が集合し談笑している様子が眩しすぎて直視できないと小声で騒いでは、メイド服姿のサランの陰に隠れようとする。飲み物を配るという給仕係の仕事についている為、まとわりつかれるとお盆をひっくり返しそうで気が気じゃない。

 毛先をカールさせた断髪風ボブヘアにすとんとしたデザインにビーズの刺繍をほどこしてある朱鷺色をしたフラッパースタイルのドレスを纏ったシャー・ユイは相変わらず己の美意識に忠実だった。ビーズやフェイクパールを用いたレトロモダンなアクセサリーでわざとやぼったさを演出することにより乙女らしさを演出するというこざかしいテクニックを駆使した着こなしが小憎らしい。

 レースの手袋をはめた手でサランの持つお盆からグラスをとってノンアルコールのカクテルを飲み干して落ち着きを取り戻すものの、サランの耳元で囁かれる言葉はまだ興奮に酔っていた。


「見てっ、サメジマさんっ。マー様とヤマブキさんのあのお召し物、あの伝説の『月華輪舞』の時のお二人と、似てる、あかん、死んでまう……ッ!」

「似てるだけだろ? ちょっともう落ち着けって、もー!」


 シャー・ユイの訛りは激怒した時だけじゃなく感極まったときにもシームレスに切り替わるということに気づきを得たサランだが、そんな場合ではない。

 孤独で孤高の天才ギタリストと複雑な家庭環境で育った少女が月光に導かれる形で巡り合い恋に落ちるものの、親兄弟からの反対や世間からの非難、少女の抱えた不治の病に二人をとりまく因縁の業など大小さまざまな障害に阻まれつつも二人は己の愛に生きる――という、非常に通俗的なストーリーをヴィジュアル系バンドのヒットナンバーと前世紀末のストリートファッションでこれでもかと飾り立てた『月華輪舞』はここ近年の演劇部最大のヒット作であり、恋人に巡り合うまで欠落を抱えて生きてきたロックスター・山吹ヤマブキという自身が演じた役柄で地上の太平洋校演劇部ファンの女子のハートを打ち抜いたホァン・ヴァン・グゥエットをトップスターに押し上げた一本であり、太平洋校に空前の二千年紀ミレニアムブームを巻き起こした一本であることはサランだって嫌というほど承知していた。二年前の文化祭でその舞台を観劇してただただ圧倒された一人であったためでもあるが、それ以上にシャー・ユイが部誌編集作業の打ち上げの場などでその舞台の録画データをダウンロードして上映するせいでお腹いっぱいになっていたのが大きい。

 これから始まる放課後のお茶会では何が起きるのか分からない。キレやすくはあるが、サランよりは良識と常識と冷静さをわきまえていることは間違いないシャー・ユイの存在をサランは心の中で頼りにしていたのである。だからサランより先に我を忘れてもらっては困るのだ。とりあえずサランはシャー・ユイを部屋の片隅へ連れてゆき深呼吸をさせた。


「――ありがとう、サメジマさん。なんとか地上に帰還できたわ」

「頼むよう~、しっかりしてくれよう。場合によっちゃとんでもなく荒れる恐れがあるんだからな、このお茶会」

「キタノカタさんもお招きされてるんでしょう? 分かってるわよ。でも私だって一月以上もお二人のご尊顔を前にするのを控えていたのよ、我を忘れてしまったって仕方ないじゃない」


 つん、とむくれたような口調になるのはさっきうっかり魂を天国まで飛ばしてしまいそうになった羞恥心がはたらいたかららしい。気を取り直したシャー・ユイはいつも通りの冷静な口ぶりで続ける。


「ところで、あなたも随分はしたないマネに出たものね?」


 責めるような口調で、世間的にはキタノカタマコも思いを寄せていることになっている少年と唇を重ねあうという捏造スキャンダルをでっちあげた『夕刊パシフィック』の一件を指し、サランの無謀な振舞を批判する。

 目をそらしながらサランは弁解した。


「ちょおっと、手段を選んでられない事情がありまして……っ」

「ワニブチさんの為にやったんでしょうけれど裏目に出ちゃ意味がないじゃない? あんな真似をした結果があなたまで出撃って――」


 ぷりぷりした口調でシャー・ユイは怒ってみせた。サランが出撃する羽目になった直接の原因は、その後の話し合いで頭突きをくらわしかけたことであるのは当然黙ることにした。呆れながらもサランの身の上を案じてくれているまごころは伝わるし、それに今この場で訛りむき出しに激怒されても困る。

 ヒヒヒ~、と決まり悪さをごまかすサランを呆れた目つきで見やってから、カクテルグラスのドリンクに口をつけてシャー・ユイはつけたす。


「恥まで晒したのにものの見事に賭けに負けたわけね」

「リリ子に代わらせたらよかったかもな」

「? どうしてそこにメジロさんが出てくるのよ」

「あいつかなりバク才があるみたいなんだ。――まあそれは冗談としてだなぁ、賭けには負けったって決まっちゃなないよう。まだ勝機はある、逆転の目は出る!」


 少なくともシモクツチカはミカワカグラの電子個人誌を通じて「お茶会に参加する」という意志表示はしている。キタノカタマコとサメジマサランと舐められるのが嫌いなあの不良お嬢様は絶対、必ず、何らかの形で乱入するはずだ。サランにはその確信がある。

 そのことをまだ説明されていないシャー・ユイはサランを呆れた目でみやるのだ。


「――あなたね、それ、典型的な負ける人の台詞よ? 私のおじい様のお父様はそんな言葉を口にして慣れない株式なんかに手を出してしまったのがよりにもよって2007年で、その後数年一族郎党は辛酸なめつくす羽目になったんだって未だに春節の集まりで口にするんだから」


 要は勝ち目のない勝負に手を出すべきではない、と、シャー・ユイは言いたいらしい。好いてはいないリリイの名前も出したためもあるのか、声がやや不機嫌になる。

 それでもサランは、まあまあ……と、声に出してシャー・ユイをいなした。


「つってもシャー・ユイだって、ここで何も手を打たなきゃ負けっぱなしだってことはわかってるだろ?」

「それは勿論。ただ私はもう少し堅実な手段をとった方がいいんじゃないって言いたいだけ。――なんといっても私たちの本もかかってるのよ? あなたの持ってるチップにはワニブチさんだけじゃなくが作った本も含まれているんですからね。無謀な勝負は止して頂戴」

「まあ心配するなって。まだ負けが決まったわけじゃないってのは本当だから。――こっちにはまだ奥の手があるっ」

「それって、もしかしてやっぱり――」


 シモクさん? と、シャー・ユイは形良い切れ長の眼で問う。サランがぎこちなく頷くと、しっかりものの友人はさっきついたばかりのため息をまた吐いた。今度は呆れの成分が先ほどよりも多かった。


「キタノカタさんは全世界のヒロインに躍り出て、文化部棟は閉鎖、ワニブチさんはあからさまな懲罰出撃、個人の作る同人誌にまで口を挟んできて、あげくあなたみたいな低レアにまでワニブチさんと同じ今は疎開任務に付けだなんて。一体今はいつ時代なのかしら?」

「二十世紀の最初の方かもよう?」

「やめてよ。個人の表現活動まで規制され始めてる今、そういうのって冗談で片付けられない」


 皮肉を冗談で返したサランに抗議するようにシャー・ユイは軽く睨んでから付け足す。


「私が言いたいのは、あなたがおっしゃる通り二十世紀前半じみた状況を招いたそもそもの原因はあの漏洩なんじゃないかしらってこと。こうなる原因を作った人に持ってるチップを全部ベットするなんて、私には無理よ」

「――」

「よくあの人に全財産を託す真似なんて出来るわよね、あなた。あんなにあの人のこと嫌ってたくせに」


 皮肉なのか、それとも本気で感心しているのか、どうにも分かりづらいシャー・ユイの眼差しがサランにまっすぐ向けられる。サランのヒヒヒ笑いの奥に隠したものを見抜かんとするような目つきである(そんなものないというのに)。

 シャー・ユイはサランたちと同期の文芸部員の一人である。当然シモクツチカの記憶もある。サランとの確執もジュリとの関係も知っている。加えてシャー・ユイは、二十世紀前半の旧日本で花開いたエスなる文化を愛好し継承することに生きる意味を見出している誇り高い乙女である。

 つまり、女子と女子の間に横たわるある種の感情にはやたらと鼻の利く女なのである。作家なので匂いの元がなければなんのかんのとこじつけるのもお茶の子さいさいな女でもある。

 柳葉のような目を細めてサランを見つめるシャー・ユイはまるで会話の糸口から犯人を当てようとする名探偵のようだった。


 その顔を見ていてサランは文化部棟でやっていたように大声でシャー・ユイが考えているであろう事柄を否定しかけたが、あたりに漂うレモングラスの香と甘い音楽がその衝動を押しとどめた。今の自分はお茶会の給仕係を仰せつかっているメイドである。

 少し裏返った声でサランは素早く話題を変えた。


「しかしお前も大変なことになっちまったなぁ。聞いたぞ? 広報委員からスカウトされてるらしいじゃないか。キタノカタ総統にとってのリーフェンシュタールってとこかぁ?」

「そうね、一体誰のせいかしら?」

 

 すこん、と、嫌味を素早く打ち返してくるがそれくらいはサランもスルーできる。ヒヒヒ~と笑ってごまかすサランへシャー・ユイは嫌味のジャブを撃った。


「あと、あまり上手くない喩えね。映画は撮った覚えはないしキタノカタさんは私の小説を愛してくださってるわけではないもの。――それからさっき控えた方がいいって言わなかった、そういう冗談は?」


 少女の模範となるべきワルキューレらしくないわよ、と皮肉を口にしてからシャー・ユイはサランに身を寄せ目配せをする。


 無言で示した方向はパーティー会場になる庭の片隅だ。委員会とは別の腕章を巻いた制服姿のワルキューレたちがいた。手にわざわざカメラや録音機器を持っているところから新聞部であることが見て取れる。招待状を手に訪れるきらきらしい特級ワルキューレたちにまばゆいフラッシュをあびせかける彼女らのほとんどが保守系新聞で、半数以下のリベラル系新聞の名がプリントされていた。

 このお茶会は新聞部に半公開される形で行われている。つまりは演劇部部長が主催するカジュアルな親睦会の形を借りた高等部と初等部の非公式会談であることが通達済みであるということだ。議題にあがるものは言わずもがな、だ。


「保守系新聞は勿論、新聞部さんたちは今やキタノカタさんの御用機関よ? あの人たちにさっき言ったような冗談が耳に入れば一体何を書かれるやら」

「文士がペンを怖がってどうすんだよう?」

「私は無駄なケンカはしない主義なの。――そんなことで戦力削いで刺すべきタイミングに燃料切れを起こしちゃ馬鹿みたいじゃない」


 などと気取った口を叩くくせに、こちらにまでカメラレンズを向ける新聞部員の不躾さに眉をひそめるでもなくシャー・ユイは気取ったしぐさでカクテルグラスに口をつけるのだ。挑発していることは隣にいるサランにはわかる。シャー・ユイの中ではすでに保守系新聞はキタノカタマコの下僕とみなされているのであろう。すなわち敵である。

 カメラを向ける保守系新聞の記者たちもシャー・ユイに向ける眼差しはこころなしかキツイ。どうして文芸部の三文文士風情が客としてスターたちと同じ舞台に足を踏み入れているのだ、お前はあのゴシップ連載を掲載していた部誌の編集部員でもあるのだから自分たちと同じ場所にいなければならぬ筈。そういった眼差しだ。

 であるからこそ、シャー・ユイも無言で挑発しているのだろう。


「――広報委員長さんがおっしゃったの。『演劇部通信』の連載先を保守系新聞に移しなさいって。それが私たちの本を返却する条件の一つ」

「うえぇ、まーた厚かましい……」


 保守系新聞部員のカメラがシャー・ユイとサランの2ショットにシャッターを押す。ふざけてカメラのレンズに向けて得意の名子役スマイルを向けると、シャー・ユイが無言で睨んだ。食客であっても演劇部の一員たるもの、マー様の面子をつぶすような真似をするなということらしい。

 サランが笑みを引っ込めたというのに、今度はシャー・ユイが怒った口ぶりで言うのだ。


「本当に厚かましいったら! 大体、『演劇部通信』を楽しみにしてくださってるのは環太平洋圏を中心とした乙女の皆さんよ? 島外じゃ諜報機関にお勤めの方じゃないと読めない保守系新聞に連載したって意味あらへんやないけ。ふざけた真似さらしよってからに……っ」

「訛ってる、シャー・ユイ。訛ってるぞ!」


 またシームレスに訛りを帯びてきた口調を整える為に軽く咳をしてから、シャー・ユイは続けた。


「とにかくっ、『演劇部通信』はこれまで通り『ヴァルハラ通信』で連載するのが私の希望。――認めたくないけれど、あのゴシップガールとワニブチさんの判断のお陰で環太平洋圏外の皆さんが手に取ってくださる媒体に育ったのは事実だもの。私の書いたものを全世界の乙女の皆さんが学校や職場や戦場でのことを忘れて楽しんでくださるのも、『ハーレムリポート』の拡散力があってのこと」


 空になったカクテルグラスをサランの支えるお盆において、レースの手袋をはめた腕をくみ、きまり悪そうに天井を見上げた。シャー・ユイは『ハーレムリポート』の掲載に否定的な部員の筆頭だったから、負けを認めるのはやはり悔しいのだろう。

 それでも、サランを見る目はこれ以上なく真剣なのだ。


「――分かってるでしょうけれど、さっきも言った通りあなたのチップの中には私たちの『ヴァルハラ通信』も入っているんですからね? 負けは許されないわよ」


 心得ていることを示すためにサランが頷く。シャー・ユイが自分の主義とは違う編集方針でまとめられた部誌を取り返せとその目で語ってくれたことがやはり嬉しいのだ。だからヒヒヒ~と笑って、囁く。


「承知の上だよう。――いざとなったらルーレットでもサイコロでも操ってやるよう」

「イカサマ行為に走るのは最後の最後にしてほしいものだけれど、とにかく出来る範囲でアシストはするわよ」


 サランのもつ盆の上のウェルカムドリンクに再び手を付けてあおるシャー・ユイの口ぶりはぷりぷりと怒ってはいたが、それでも最後にはこう言い添える。


「その分、絶対勝つこと。私とケセンヌマさんは何がなんでもあの本を取り戻したいんだから」

「……っ! シャー・ユイ~、ありがとう……っ! 心の友よ……っ!」


 感激したサランは危うくお盆を放り捨てて元部活仲間に抱き着きそうになる。新役員決めのくじ引きでうっかりアタリを引いてしまったために副部長の座を押し付けられたサランだが、心の中ではずっとシャー・ユイの方がそのポジションに相応しいと思っていた。その為、無意識に頼り勝ちなのである。

 とはいえ、サランの大げさな態度をシャー・ユイは冗談だとうけとったのか、若干不安そうに苦笑いを浮かべた。


 そんな二人へ不意にぱしゃぱしゃと眩しいほどのフラッシュがあびせられた。無作法なほどの閃光に眉をしかめて光源を軽く睨んだサランはあんぐりと口を開けた。

 新聞部が陣取る取材者コーナーの片隅に、非常によく知った脱色のショートボブ頭があったのだ。その主はサランがそっちを見ているのに気付くと大きく片腕を振る。猫目を弓のように細めて、ニィッと大きく口角をあげて人懐っこい笑顔を象る口からいつものキャンディの棒をはみ出させているのは、どう見たってメジロタイガだった。手には黒くて四角くいかついカメラがある。

 あいつがなんでここに――といぶかしんだサランは、タイガの腕にまかれた腕章に注目した。「夕刊」の文字だけが辛うじて読める。つまりタイガは『夕刊パシフィック』の代表としてお茶会の取材にきたのだとわかった。


 さーめじーまぱーいせーん……! とアホの子丸出しの上機嫌さでぴょんぴょん跳ねながら呼びかけるので、傍にいる新聞部員やお茶会の来客に給仕係たちが眉をひそめたりクスクスわらったり苦笑してゆくが、本人はいたって上機嫌だ。サランは怖い顔を作ってあっちへ行けとばかりに手を振ってみせるが、かまわずにファインダーを覗いてタイガはパシャパシャとシャッターを切る。


「演劇部は『夕刊パシフィック』は出禁じゃねえのかようっ」

「タイガちゃんは例外ってことになったのね、きっと。マー様のお好みに敵った子だから。


 ――表向きはそういうこと。

 『夕刊パシフィック』は全世界に購読者を持ち、乙女の模範たるべきワルキューレたちの素行と素顔を暴き立てる品性下劣なゴシップ新聞である。それ故に新聞部では保守系にもリベラル系にも属さない。つまりは、生徒会の意向を汲む必要のないメディアでもある。腕章を巻いたタイガをこの場に読んだのは、何かの目論見を抱いたマーハか、それとも報道の自由をゴシップ新聞に託した新聞部員か。それとも両者の利害が一致したものか。


「パイセーン、こっちむいて笑ってくださ~い。はーい、萌え萌えキューン」


 メイドといえばそういうものだと未だに勘違いしているらしいタイガの台詞に、スタッフや来客がにこやかにぷっと噴き出し、パーティー会場が和やかな笑いに包まれたがサランはそれどころではない。演劇部の食客としてメイドとして働いている以上、いつものようにタイガをしかりつけることは出来ない。

 サランまで注目を浴びて仏頂面になってしまうが、シャー・ユイはさっきまでぷんぷん怒っていたのも忘れたようにニッコリ微笑みタイガに向かって品よく手を振ってみせた。するとタイガも調子にのって、シャー・ユイ先輩いいっすよいいっすよ~、超キレーっすよ、ちょーっとこっちにむかって流し目してくんねっすか? ……はいはいはーい、そおそおそお……わ、やっべ、超やっべぇんすけど、コスメ屋の専属モデルかよ、このままポスターに出来んぞっての撮れちまったんすけど見ます~? と、アホ丸出しの声を連発させている。サランは恥ずかしさからシャー・ユイの陰に隠れた。

 リリイには冷たいくせにタイガにはどこか甘いシャー・ユイは自分の背後に回るサランに対してからかうような声をかける。


「サメジマさんも写真撮ってもらったら? タイガちゃんあれで写真撮るの上手じゃない」

「知ってる。それに前この格好で写真撮らせたことがあるっ」


 シャー・ユイの声にはなにかと迷惑をかけられどおしなサランへの意趣返しが含まれていた。それを察して軽く睨みかえした時に、ふわりと嗅ぎなれた芳香が漂った。ジャスミンとスパイスを混ぜたような独特の香り。シャー・ユイが体を硬直させたのがそばにいてもわかる。


「お久しぶりね、沙唯さん。お茶会へようこそ。――お変わりなさそうで嬉しいわ」


 フリルのついた白いブラウスにパニエで膨らまされた濃紺のスカート、緩やかに波打つ黒髪をヘッドドレスで飾った淡い褐色の肌をしたジンノヒョウエマーハが優雅な微笑みをたたえて二人の前に立った。そのそばにはもちろん、長身に細身のスーツをラフに着こなしたホァン・ヴァン・グゥエットがいる。耳の下できらきらと輝く赤くて大振りのアクセサリーがアイボリーの肌によく映えた。ヒールが細くて高い靴を履いているためかいつもより長身にみえる。珍しく薄化粧をほどこしているので、中性的な艶やかさがいつもより際立つ。

 敬愛する二人を前にして、シャー・ユイは感極まったのか口に両手をあてて金縛りにあっている。すっかりスターを前にした一人の乙女になっていた。


「マー様……っ! ヤマブキさん……! ほ、本日はお日柄もよく……っ!」


 約一月はよほど長い期間だったのか、以前は二人を前にしても取材をこなしていたはずなのに今やすっかりただのファンまで後退して妙な言葉を口にするシャー・ユイをみてくすくすとマーハは笑う。ヴァン・グゥエットはアイメイクのお陰でいつもより情感を湛えたアーモンドアイでじっと自分たちのファンを見つめる。その視線でシャー・ユイはぐにゃぐにゃの骨抜きになりそうだ。


「お顔を見せてくださってうれしいわ。ご本の編集作業で大変だって耳にしていたから、お返事をいただいた時はほっとしたのよ?」

「そんな、まさか、めっそうもない……! 私がマー様のお誘いなら私、地球の裏側にいてもかけつけますから……!」

「あら、頼もしいこと」


 優雅にくすくすとマーハは微笑んだ。そのあとサランをそっと見て、わざとらしくちょっと怖い顔をつくる。


「ダメよ、子ねずみさん。久しぶりのおともだちに会ってお話が弾むのはしかたありませんけれど、おしゃべりにうつつをぬかしてばかりじゃあいけないわ」

「――はい、申し訳ありません。お嬢様」


 お嬢様にしかられた小間使いはぺろりと舌をだして自分の失敗をすぐさま反省してみせた。立ちどころにマーハも笑顔になる。こうしていつものお嬢様と小間使いごっこを再現してみせてから、サランは膝を小さく曲げてその場を離れた。確かについついシャー・ユイとの立ち話が長引いていた。サランには演劇部の食客として給仕係という務めがある。そろそろ仕事にもどらないと。

 ウェルカムドリンクが用意されたワゴンへ向かうサランの背に、マーハのふうわりした声がとどく。シャー・ユイとケセンヌマミナコの作った本は今でも予約可能かと尋ねていた。それが実は……、とシャー・ユイの潜めた声が聞こえたが、すぐに人々の談笑と甘いミュージカルナンバーにまぎれて掻き消えた。


 沙唯とみなのぬまこの共作による『演劇部通信 自選集』はそのコンセプトやデザインから十中八九マーハの関心を引くはずである。もともとどうやら初等部生徒会には疑惑の目を向けているマーハではあるが、以前から良好な関係を築いていたシャー・ユイが苦境に立っていると知ればより一層警戒心を強めてくれるはずである。


 それを見越して、二人を襲った表現活動への妨害を美しくて強い演劇部の女帝に注進していたのは勿論サランだ。

 シモクツチカはこのお茶会に来るはずだ。サランはそれを確信している。

 でも、いつ、どのような形でくるのかは全く読めない。そして招待状もないのに図々しくも堂々とのりこんできても、サランの狙った通りに動く保証は全くない。むしろ、サランの希望とは反対通りに動くのではないか、あいつのことだから。

 であるなら、保険を用意するほかない。低レアのサランができることは精々これくらいだ。




 ――サランがマーハにシャー・ユイとケセンヌマミナコの同人誌をめぐる一件を近況として伝えたのは、お茶会の準備中、ミナコと言葉を交わしてから泰山木マグノリアハイツを訪れメイド服に着替えてからのことだ。


 美術班として活動する演劇部員たちが、その技術をいかんなく発揮してお茶会会場をてきぱきとセッティングしていく様子を監督しているマーハにいつものように近況を尋ねられ、まず話題にしたのがこの一件である。

 拡張現実上にある出来上がり見本を表示させたマーハは、案の定唇をほころばせて微笑み、そのあとにサランが伝えた初等部生徒会の企みを耳に入れてゆっくり頷いた。出来上がり見本のそばに表示された買い物籠が「まことに申し訳ありませんが、現在新規ご注文をお断りさせていただいています」という文字を浮かび上がらせた幅広ののテープで封じられているのを、つやつやときらめく黒い瞳でじっと見る。

 その上でマーハははっきりと口にした。


「――沙唯さんたちもとてもお困りでしょうけれど、この本が刷り上がってお手元に届くのを楽しみになさっていた皆さんのお気持ちはいかばかりかしら?」


 そういった気持ちをたった一人の一存で踏みにじるだなんてあってはならないことね、とマーハ言ったのだ。珍しくきっぱりと。


 このご時世でも紙の本というものを愛する、マーハらしい言葉だった。新刊は電子版で読むのが普通だったサランにだって、楽しみにしていた本が諸事情で刊行日が遅れた時の生きる気力を失うほどの落胆には覚えがある。

 だから、この典雅な上級生につい親しみを抱いてしまったのだった。遠回しにマーハがキタノカタマコ率いる初等部生徒会の敷いた態勢を否定する意志を確認できたことに気づくより早く。


 本の話になったためか、マーハはかつて天才美少女作家と持ち上げられた作家が沈黙を破って発表した短編小説の話題を振り、その流れで話題はサラン主導でフカガワミコトと捏造したスキャンダルが『夕刊パシフィック』の一面を飾り、泰山木マグノリアハイツにキタノカタマコが訪れてサロンがとんでもないありさまになった日の夕暮れ時に話が及んだのだ(思えばあの時すさまじいい有様になったサロンをたった一日二日でよくここまで回復できたものだと、美しく整えられたサロンを目の当たりにして演劇部の技術力の高さに感嘆したサランである)。


 小さな彗星が地球の近くを通り過ぎたというサランたちのいるこの宇宙ではたったそれだけの出来事が実は、三千世界などと呼ばれることもある不可視の宇宙の理をふりまわすようにかき乱したという未曽有の大災害だったことを説明したトヨタマタツミが何気なく口にしていた一言がサランには引っかかっていた。


 なので思い切って素直に尋ねたのである。――お嬢様は、星占いができるのですか? と。

 それにさして驚くでもなく、マーハするりと答えた。


「星を詠むことはできるわ。でもね、今ほどそれが無意味な時代がないもの。世界の運行はでたらめで不規則で――、国連のお姉さまのように未来を正確に予知するのはとても難しいわ。私の腕ではいたずらな子ねずみさんがが素敵な淑女になれているのか、そしてその時に隣にはどなたがいるのか、それを占うのが精いっぱい」

「――からかうのは止してくださいませ、お嬢様」


 サランの鼻をちょんとつついてお茶目に微笑んだマーハを上目で軽く睨んで唇を尖らせてみせる。メイド服姿のサランはこうしてご令嬢の愛玩物としての職責を果たす。

 マーハが因果と星詠みの専門家だと一昨日の夕方にトヨタマタツミは言った。それが気になって尋ねてみた結果に得た答えがこれだ。

 宿曜を用いた占星術はできないこともないが、計都星が乱した世界の運行を従来の法則で占うのはあまり意味はない、とのこと。


「ただ、因果を読むのは別ね。一つの原因から遠い未来に待ち受ける結果を見るのも、今ある結果から遠い過去の小さな原因を読むのも。――でもこれは私以外の誰にだってできることよ? そうでしょう? 結果から原因をつきとめ、違う結果を求める際ににはその時に確定した原因は避ける、同じようなことはどなただってやってきたことだわ。私は他の方よりその精度が少し高いだけよ」


 子ねずみさんだって、そうでしょう? と、謙遜するようなことをマーハは口にした。


「文芸部の部長さんの出撃の因果はいかなる業によるものかしら、つきとめられて?」


 口調こそはサランを揶揄うお茶目なお嬢様の名残を残していたが、その瞳は慈愛が浮かんでいる。優しいが容赦なく胸の内を見透かすような、駒の立場から棋士を動かそうと試みたサランの無謀な企てを読んでいたようなサランの姑息さに面はゆさを覚えたようでもあった。

 人より因果を読み説く精度が高い、と、謙遜した口ぶりでマーハが言ったのはこういうことかとサランは考えてため息をついた。つくしかなかった。


「――それが、ダメでした。キタノカタさんが何者で、シモクはあの人のどういうところが嫌いでゴシップガールなんてマネしてケンカ売ってるのか、そこをほぐせば糸口が見えると思ったんですけど――」


 キタノカタマコはその涼し気な顔と職務に忠実なワルキューレとしての肩書きの下で、何かしら企んでいること。

 その企みを達成するには、乱れた世界が元に戻ろうとする世界の作用の影響からたまたま世界でおそらく一人きりのきわめて稀な少年になってしまったフカガワミコトが持つ力を欲していること。

 それを早くから見抜いていたのが唯一、シモクツチカだけであること。


 文字通り体を張って判明したことはこの三点のみだ。

 これだけでは、サランの求める答えにたどり着くにはまだ遠い。


 シモクツチカはキタノカタマコの企ての中身を知っている(幼少期からの確執はそれにるものか?)。

 シモクツチカはキタノカタマコの企みを「良からぬものだ」と散々ほのめかしている。

 シモクツチカはフカガワミコトが前世の記憶を持つ身であることをかなり早い段階で知っていた(『天女とみの虫』の内容から、天女が羽衣をかけるような青い松を持つ旧日本の海辺育ちである点まで突き止めている)。

 

 判ったことをまとめてみたが、どれもこれもジュリと自分が向かうことになっている作戦を撤回させるには決め手に欠ける。それどころか、ツチカとマコ、そしてフカガワミコトの絡んだ因果の糸の絡まり具合にうんざりするばかりだ。

 おまけにサランの胸にはトヨタマタツミに放たれた言葉が、未だにぐさりと刺さったままだった。



 ――バッカバカしい!

 ――あのね、この世界にあるものは現実なの、物語じゃないのっ! 現実と物語を混同するなんてさっすが元文芸部さんね、妄想働かせすぎ!

 ――サメジマさんがさっき語ったのも推論の一つには違いないけれど、キタノカタさんへの先入観が邪魔してまっすぐ事象をとらえていない。すると必然的に、そこから導かれるものは真理からは大幅にずれてくる。



「あら、どうしたの? 難しい顔をして?」

「――申し訳ございません、少々居たたまれない気持ちになりまして……っ!」


 よりにもよって、あの思い込みが激しくて人の話を全く聞かないトヨタマタツミに、キタノカタマコへの悪印象から陰謀論めいたストーリーを生み出してしまっていると痛烈に批判されてしまった。その記憶を思い出すたびに、サランは「あああああ!」と叫んでその場にしゃがみたくなるような衝動に駆られてしまう。

 でたらめなストーリーを語ってみせてそれをあげつらわれる恥ずかしさは、タイガ相手にシモクツチカの企みを大げさに騙り聞かせたのを『夕刊パシフィック』のパトリシアに後からいじられたことで経験済みだが、ほとんど同業者といってよいゴシップ屋のパパラッチにやられるのとは恥ずかしさが段違いなのである。

 しかも前段階として、バカバカしいと一刀両断される前のサランは認めたくないがストーリーを語る快感に酔っていた。それはちょっと気持ちよかった。万能感に酔いしれていたところを普段軽んじている相手から指摘されることほど恥ずかしいことはないと、入水自殺を果たした二十世紀の文豪も辛気臭い小説の中で語ってたいたのではなかったっけ?


 このことはトヨタマタツミを普段の言動から軽くみていた自分の思い上がりを同時に突き付け、サランをさらなる無限羞恥地獄に突き落とすのだった――。


 トヨタマタツミにそういった指摘を受けたことは同時にマーハに報告済みだったため、演劇部の女帝もサランの表情から大体のことを把握したのだろう。パシパシと自分の顔を平手でたたくサランに温かく見守りながら言葉を継いだ。


「トヨタマさんは真贋を見極める清く澄んだ目をお持ちだから、子ねずみさんが魔道に堕ちかけたところを助けてくださったのね。感謝しないといけないわ」

「は、はぁ……」


 元女神様のマーハは巫女姫のタツミの行動をそのように読んでいるらしい。この人も何か特殊なロジックをお持ちなのだろう、と暴れる羞恥を諫めつつサランはそのように解釈する。

 ――それでも、腑に落ちないことは口にしないではいられないのがサランだった。


「でも、トヨタマさんがその気になればあらゆる世界を見通せる力を持っていることは私も承知しておりますけど、真贋を見極めるという点に関してはいささか首肯しかねると申しあげますか……」


 とにかく思い込みが激しくて人の話を聞かず、誰もかれもがフカガワミコトに恋をするのではないかという噴飯物のストーリーに固執するあの様子からみるにトヨタマタツミの認知もずいぶん歪んでいると言わざるを得ない。

 お慕わしいお嬢様の言葉に恥知らずにも口答えをこころみた小間使いの歯切れの悪い言葉から言いたいことを汲んだのか、微笑むマーハはサランのむくれた頬をちょんとつついた。


「それは、ね。きっと、トヨタマさんの目をもってしてもフカガワさんのことがよく見通せなくてわからなくて不安だからじゃないかしら?」

「――?」

「よくわからなくて不思議で、その謎を解き明かそうとその人のことをついつい見てしまううちに、もっともっと知りたくなって、そうするうちにいつのまにかその人のことが好きになる――、世の中にはそういうこともあると聞くわよ?」

「……」


 ミカワカグラが好みそうな少女漫画みたいな言葉を聞かされて、マーハの前だというのにサランの表情は仏頂面になる。こういう甘ったるいポエムじみた御託はやっぱりどうしても好きになれないのだ。

 マーハはサランのそういう表情をみても咎めることはなく、むしろ愉快そうに笑ってサランの丸みを帯びたあどけない頬をもういちどつついた。


「今のは、お二人に対して失礼だったわね」


 つまりマーハはサランを揶揄ったのである。それを把握して、サランは安心してぷーっと頬を膨らませた。愛玩物仕草を実行したまでである。


 そうこうしているうちにもパーティー会場は着々と仕上がってゆく。美術係らしい演劇部員が園芸部から届けられた花をどのように活けようかとマーハに確認を求めたのに呼ばれ、マーハはそちらへと歩み去る。メイド姿のサランに、調理場でウェルカムドリンクの用意を手伝うように命じてから。それに応じる為にサランは、メイド服のスカートをつまんで膝をおってみた。

 

 太陽は西に傾きつつある。

 今日のお茶会は日没までに終わればよいが、左手のリングをちらっと見つめてからそのことを少し祈ってから、今日は同じようにメイド服を着こんだ訓練生たちがいる調理場へかけつける。ひと夏この泰山木マグノリアハイツに通い詰めたこともあって、可憐なスター候補生たちとは顔なじみになっていた。何人かとは親しく言葉を交わせるようになったので、以前ほどの疎外感は味会わずに済んでいる。


 


 ――その時用意していた飲み物の注がれたカクテルグラスを、新聞部のカメラフラッシュを避けるように廊下に出ていた上級生に、おひとつどうぞと差し出す。


「――ちょうど喉が渇いていた所だったの。いただくわね」


 廊下の壁にもたれながら、サランの方を見もせずにカクテルグラスの中を飲み干し、「御馳走様、ありがとう」と盆の上に返したのは上級生はこんな場所だというのに目の前に表示させた様々なグラフや文書に地図などの資料から目を離さず、じーっと睨んでいる。クリーム色をしたレース生地風のシンプルなドレスを纏った上級生は高等部生徒会長のアメリア・フォックスだった。しばらく前にこのサロンでマーハ相手に派手に泣きついていた時はヘアバンドで前髪をもちあげていた髪を、細いリボンで何重にも巻いて前髪を持ち上げ、耳の後ろをマーガレットの造花のついた髪飾りで飾っている。衣装とアクセサリー以外、以前見かけた時とあまり変化の見られない高等部生徒会長だが、今回は大騒ぎせずに顎に手をあて黙って資料を見つめている。その真剣な横顔は理知的で、なかなか頼もし気だ。そしてやっぱりありもしないメガネを脳の中で補ってしまっている。


 そのイメージを振り払うために、ぷるぷると顔を横に振り営業用の名子役スマイルを浮かべてドアの中へといざなった。


「あの、フォックス先輩、そんな場所じゃなくどうぞ中へ……」

「お気遣いなく。中じゃこうやって資料も広げられないでしょう? それに新聞部の目もあるし。カメラの前で強張って不自然に笑うくらいなら、ギリギリまでこうやってせめてなんとか現実的な作戦案でも考えた方がいいわ」


 ノートに文字をや数字を掻き込みながら、アメリアはサランに返した。何やら計算をしたりメモを書きなぐってはアメリアは時折ため息を吐いたり、せっかくまとめた髪に手をやったりしている。どうやらどうしても思わしくない結果が出るらしい。

 アメリアが表示させている地図は、死海沿岸のものだ。その近辺の住人が向かうことになる大型キャンプ予定地の様子、近隣住人の不安と不満を伝えるニュースチャンネルも並べられいる。つまりアメリは今でもキタノカタマコの主導の疎開任務の被害が最小限に収まる可能性を探ってくれているわけだ。

 サランは思わずジンとしてしまった。頼りなさそうな、影の薄い生徒会長だと思って申し訳なかった――。


 という感激を台無しにするように、アメリアは「ああーっ」と呻くのだ。


「ああもうやっぱりダメ! どうしてもダメ! どうあがいてもダメっ! 何をどうしても候補生の生還率が上がらないっ!」


 ――その上このような不吉なセリフを口にする。サランは口の端を引きつらせた。ジュリと自分の命がかかっているんだから黙ってはいられない。


「あ、あの先輩。その作戦に急遽出撃する羽目になったものですが――……」

「あ、ああ。あなたが例の文芸部副部長さん?」


 今初めてサランの存在に気づいたように、アメリアは空色の瞳で見下ろした。そして、さっき自分の口にしたセリフの意味に気が付いたらしく取り繕うように目を泳がせた。


「い、今のは聞かなかったことにしてちょうだい!」

「無理ですようっ、生還率とか不吉な言葉仰ってそれは無理ですようっ。――ちなみにどれくらいですかっ?」

「疎開任務につくのは各校の上級候補生と、あなたみたいに目立った戦績ももたない候補生ばかりよ? 特級か専科のお姉さまたちもいない状態の生還率なんて考える間も無いでしょうっ? 聞かない方があなたのためよっ」


 ――つまり候補生たちの生還率は相当低いと白状したも同然なわけである。覚悟していたとはいえ、兵站に関する能力だけは特級クラスだとマーハによっておすみつきを与えられていた上級生の態度をまのあたりにすると背中もぞーっと冷たくなる。

 聞かない方がいいと言ったのはアメリアなのに、顔を引きつらせるサランを隣においてアメリアはいらだったように爪を噛む。


「――だからこんな作戦、正気の沙汰じゃないっていうのよ……っ! 国連も国連よっ、伸びしろのある候補生をわざわざ捨て駒にするようなこんな作戦にストップかけないなんてどうかしてる……っ! 普段あれほどワルキューレ不足は深刻な問題だなんだって殉死者率や負傷者率の微増にチクチク嫌味をおっしゃる癖にどうしてこんな時はだんまりなわけ? 信じられない……!」


 爪を噛みながらぶつぶつといら立ちを吐きまくる、そんな上級生の様子からサランが分かったことは一つあった。アメリア・フォックスはどうやら数字にはかなり強いようだが、対人関係に回さなければならない神経が一本か二本、欠けているということだ。

 その作戦に従事することになっている当の本人が傍で顔をひきつらせているというのに、「正気の沙汰じゃない」「伸びしろのある候補生をわざわざ捨て駒にする」などと悪気なさそうにポロポロと言葉にしてしまう所からサランはそう判断した。

 

 ――それにしても、だ。


 ある程度承知はしていたとはいえ、こうして暗にロクでもない作戦であるということを肯定されるとじわじわとショックで飲まれそうになってしまう。うっかりお盆を傾けそうになり、サランはあわててたたらをふんだ。

 その動作で、アメリアもようやく自分が何を口走ってしまったのか気づいたようだ。サランにまけないひきつった笑みを浮かべて、首をブンブン左右にふる。


「待って、待って。待って頂戴! あなたたちは大切なワルキューレなんですからね、むざむざ見殺しにするような作戦通させないから! せめて特級を出撃させるか専科の方々のご協力を得るべきだってちゃんとあの子に意見してみせるから、安心してっ、ね?」


 ――安心できる、わけがなかった。


 アメリアはサランの両肩を掴んでそのように力説したが、何の気になしに口にしてしまったのだろう「むざむざ見殺しにするような作戦」の破壊力はかなりのものだ。

 そのダメージに言葉を失っている間に、玄関の方で呼び鈴が鳴った。


 その音にサランは我に帰る。――とにかく冷静さを失わないためにも、今はメイド仕事に従事するべきである。

 それでもまだ衝撃はさらず、必死の形相のアメリアに「ちょっとこれ、持っててください」とカクテルグラスの乗ったお盆を持たせるという無作法をしたまま、ふらふらした足取りで玄関へむかった。


 りんごん、りんごん、と、今来たばかりの客人は、せわしなく呼び鈴を鳴らして自己主張を激しく繰り返す。この落ち着きなさにはなんとなく覚えがあった。ドアを開けると、案の定だった。

 そこには銀髪に黒いリボンをかざり、水色のエプロンドレスに白いハイソックスというアニメーション風のアリス・リデルスタイルなノコがいて、スカートの裾をつまんで気取ってお辞儀をしたのは、最近なんやかんやで距離が近づいてしまった女児型生命体だった。


「本日はお招きありがとうございます。今宵はともに楽しい時間を――……、ってなんだ! お前じゃないかっ、ぶんげえぶのちんちくりめっ! マーはどこにいるのだマーはっ!」

「はいはい、ようお越しくださいましたっ。お嬢様はお庭で皆様をお待ちですよう」


 サラン相手ではお辞儀のやり損だと言わんばかりなレディー失格な態度でふんぞり返るノコ相手だと、サランも小間使いを演じるのが馬鹿らしくなってしまう。とはいえ、そんな雑なやりとりをしたおかげで衝撃がうすらいだのも事実だ。

 マーハの後ろには、白地のスラックスに肩章のついた半そで開襟シャツという、太平洋校男子礼装(略装)スタイルのフカガワミコトがいた。メイド服のサランが未だみなれないのか、それともドアを開けたと同時に放たれるお香の香りとミュージカルナンバーの甘いメロディーと乙女たちのささやきに臆したのか、強張った笑顔を浮かべて立っている。


「え、えーと、本日はお日柄もよくまた結構な会にお招きくださり……」

「いいって、それさっきノコのやつがやった」


 サランの雑な言葉遣いで緊張がとれたのか、息をついてからフカガワミコトはうやうやしく招待状をサランに差し出す。それでも自信無さそうに自分の姿を見下ろした。


「な、なぁ。きちんとした格好でこれでいいのか? 浮いたりしてねえかっ?」

「してないぞっ。その恰好のマスターは普段よりずっとずっと男前だっ。できればノコは毎日それを着てほしいくらいだ」


 心から満足したように、ノコはニコニコと笑顔になってフカガワミコトの腕にじゃれつく。

 確かに、海軍の制服を模したような折り目の通った白い礼装は着た者を数割凛々しく見せる効果があるようだった。平時の制服姿だとその辺にいる男子だが、略装とはいえ礼装姿だと何かしら特別な運命を背負った少年くらいには見える。

 戦前の女学生にとって海軍士官はアイドルのような憧れの存在だったらしいが成程なるほど――と思わず納得するサランの視線に気づいたらしく、フカガワミコトは眉間に皺を寄せて半歩後ずさる


「なっ、なんだよ! 変なら変って言えよなっ……!」

「言ってねえだろ、自意識過剰だなっ。せっかく馬子にも衣裳だなって言ってやろうとしたのに、やーめた」

「はぁっ、なんだよだから変なら変って言えって――……えっ?」


 華やかなイベントに出席する羽目になったために華やかにドレスアップさせられた庶民育ちの娘と、そんな娘と日ごろ憎まれ口ばかりたたきあってる幼馴染の男が繰り広げるような少女漫画めいた茶番を意図したわけでもないのにうっかり演じたことにうんざりしながらサランは、ともかく二人をドアの内側へ招き入れた。


 皆様サロンでご歓談中です――、と、ドアをしめながらメイド口調でおざなりに声をかける。

 ぴょんぴょんと弾むあしどりでクラシックアニメーションのアリス・リデルスタイルのノコを腕を引かれながら、フカガワミコトは泰山木マグノリアハイツへ足を踏み入れる。


 やれやれ――、とドアを閉めようとしたサランだが、慌ててその手を止めた。


 視界のすみで、なにかとても目に涼やかなものが映った気がしたのだ。

 

 長い黒髪、白地に露草色の着物のようなシルエット。そんな人影が、棕櫚の木陰に見えた気がしたのだ。


 もしや、まさか、ひょっとして――。


 マーハと顔をあわせたらしくはしゃぐノコの歓声がサロンから聞こえる中、サランは深く息を吸い込んで吐く。そしてゆっくり、もう一度ドアを開く。


 年代物だがよく手入れされているため軋む音すらせずスムーズにドアは開き、サランの目には草履と白足袋、白地に露草色と水色で楓の葉を染め抜いた絽の着物の裾が飛び込んできた。


 サランが知る限り、和服を普段から身にまとうような女子はこの学園島には一人しか知らない。おそるおそる、視線を上に向けてゆく。

 視線が翡翠の帯留めのあたりまで視線がたどり着いた時、サランの耳朶を涼やかな声が打った。


「ジンノヒョウエ先輩はどちらでございましょう?」


 この熱帯でも雪や氷を連想させる澄んで涼しい声により、はやくしろ無礼者と言外に責められたサランは、ぐっと丹田に力を込めながら名子役の笑みを浮かべて面を起こした。

 覚悟した通り、そこにいたのは絽の着物をきたキタノカタマコだった。黒髪を編み上げて、亜熱帯では目に涼やかな寒色の着物をまとったしとやかなマコの背後には、制服姿に各委員会の腕章をとりつけた少女たちが十二人控えて立っている。各委員長たち、キタノカタマコの侍女が全員だ。


 似たような顔の少女たちをずらり引き連れた生徒会長の迫力にたじろぐ、サラン冷酷な一瞥をくれ、いつもの鉄扇型ワンドではなく白檀の扇子で口元をかくしたキタノカタマコは慇懃な口調でしっかりと告げた。


「招待状には供をつれてもよいとありましたので、委員長たち参りました。かような大所帯になりましたのにご連絡が遅れたご無礼、どうかお許しを」


 つ、と目を伏せたマコの脇から、総務の腕章を巻いた委員長――侍女が進み出て、サランに風呂敷に包んだ何かを押し付ける。収めろ、ということらしい。

 ひきつった笑みでそれを受け取りながら、サランは名子役の笑顔でぎこちなくお辞儀をする。しかし、人形のような侍女をひきつれたキタノカタマコの迫力に気おされ、そのままドアの前でたちすくんでしまった。


 すると、マコは伏せ気味にした瞼を持ち上げて、じろりとサランをまた一瞥し、さきほどと同じ一言を口にした。


「ジンノヒョウエ先輩はどちらでございましょう?」


 言葉は一言一句、まったく同じだがその声はうんと冷たく冷え切っていた。言外に漂わせるニュアンスにもはっきり、早う立ち去れ、の意が漂っていた。

 金縛り状態からぬけでたサランは小間使いとしての自分の立場を思い出し、そそくさとドアを開け面を伏せる。


「お嬢様はサロンで皆様をお待ちです。ようこそおこしくださいました、キタノカタ生徒会長」

「失礼いたします」


 頭を下げたサランを見もせず、背を伸ばしたキタノカタマコは静かな足取りでドアの内側に足を踏み入れる。十二人の侍女がそれに続く――。


 その時、ガチャンと盛大にガラスが割れる音が響いた。すくなからず驚いたサランは、とっさに面を起こす。無作法な音にキタノカタマコの足もとまり、かすかに眉間に皺が寄る。


「賑やかですこと」


 不快そうに呟くキタノカタマコの声を聞いたサランの背中に冷や汗が伝った。 

 キタノカタマコにかなりの苦手意識を抱いている、高等部生徒会長にカクテルグラスの乗ったお盆をうっかり持たせてしまっていたことを思い出したのである。


 ――しまった、と悔いてももうあとの祭である。

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