#42 ゴシップガール 世界で唯一の少年誕生前夜

「私を覚えておいででしょうか、フカガワ様?」


 昨年の十月某日の夜だった。

 銀色の満月がよく見える露天風呂で、キタノカタマコが発したその言葉はフカガワミコトの胸に突き刺さったのだという。以来、抜けない棘となっていた、らしい。


 親睦会が行われた室内で顔を合わせる以前にも、初等部生徒会長に選ばれてまだ間もない彼女とは何度か事務的なやり取りはかわしたことはあった。生まれてからずっと人の上にしか立ったことが無いのだろうと思わせる、冴え冴えとした美貌を引き立てる庶民育ちにはとっつきにくい口調が彼女の特徴だった筈。

 しかし、そのとき背中越しにかけられた声はそれまでのイメージとかけ離れたものだった。怖れと恥じらいをなけなしの勇気で隠そうとした繊細さを漂わせたものだった。普段とのギャップが大きすぎてフカガワミコトは戸惑い、うっかり振り向きかける。

 それを、ぴしりと生徒会長は戒めたのだという。


「なりません! またこちらをお向きになるなら私は声をはらねばならなくなります。――さすれば御身はどうなりましょう?」


 濡れたタイルの上にいる少女はいつものように鋭い声をだす。だからフカガワミコトは小さく返事をして、湯に浸かりながらぎちぎちとゆっくり正面へ首を向けた。

 とにかく視線を太平洋上に浮かぶ銀色の満月に据える。夜の海を隅々まで照らすその風景はいつもにまして雄大だったが、それを楽しむゆとりなど既になかった。


 生徒会長が警告した通り、禁止されたのに後ろを向いて待っているのは身の破滅である。

 なにせ背後にいるのは異性である。おまけに彼女は生徒会長で環太平洋圏有数の財閥一族の直系で、親族にはこの学園の理事がいる。つまり学園の内外に強い権力を有する身なのだ。

 それ以前に背後にいる少女は裸である。全裸である。そして湯舟に身を沈めている状態も必然的に同じ姿である。

 熱い湯に浸かっているにも関わらず、全身が震えるような心地を少年は覚えた。


 この湯は温泉を利用している。とろりと肌になじむ透明の湯の中でフカガワミコトはとにかく体育すわり状で膝を抱えた。そうすれば今、洗い場に居るはずの生徒会長は脱衣所へと引き換えし、服を着て外に出ることだろう。そうすれば即効自分も上がって服をまとい、廊下で平謝りするしかない。許されるかどうかは分からないがとにかくそうするしかない。

 しかし何故だ、脱衣所の外にはちゃんと使用中の札を下げていた。だったら自分に非は無いはずだ。謝罪すべきは生徒会長では――? という疑問が胸に湧き上がらないでもないが、圧倒的の女子の多い学校で自分の立場の不利さは編入して一カ月少々ですでに身に染みていた。もめ事が丸く収まるのなら腑に落ちなさを飲み込んでも謝った方がいい。


 湯の中でそんなことをグルグル考える少年の思考をさらに乱す音があった。ひた、ひた、と、岩盤を模した濡れたタイルの上を歩く小さな足音だ。それはゆっくりとこちらへ近づく。

 その時、この場にいる人間は二人しかいなかった。ということは無論、湯船に近づく者も一人しかいないことになる。


 おいおいちょっと待て――、と、戸惑う少年の周りの湯の面が揺らいだ。天下無双のお嬢様の手には似合わない、製薬会社の名前とマスコットキャラクターのプリントされたプラスチックの手桶が湯舟の湯をくみ上げるのが、視線を満月に据えていても視界の隅で確認できる。ざば、ざば、と、生徒会長は手桶で静かにかけ湯をする。

 彼女の意図がまるで読めないフカガワミコトから伸ばした片腕一本分ほど離れた場所で、ちゃぷんと小さな水音がした。視界の片隅は勝手に白い爪先が湯の中に滑り込むのを捉えてしまう。順に、甲、かかと、足首にくるぶし脹脛ふくらはぎ、膝――。


 はっと気づいて少年は、湯に浸かろうとする少女に背中を向けた。正面にあった満月は体の側面を照らす。湯の表面にはゆったりとした波が同心円状拡がった。背中や腕にぶつかり、ちゃぷ、と小さな音がたつ。


「――牡鹿おじかにするのは止しましょう」


 肩まで体を湯に浸かり終えた生徒会長の声は、どこか揶揄からかうような響きをたたえていた。意味は分からない。声の雰囲気から冗談のようだが、意味を考えているゆとりはない。大体それどころではなかった。


 同級生の女子が、自分がいいるにも関わらず、否いるとわかっていて、わざわざ風呂に浸かりにきた。

 牡鹿がどうのという冗談より、その状況の意味を理解する方が少年にとっては急務であった。しかし熱い湯に浸かりすぎてそろそろのぼせる寸前の頭がまともに働くわけがなかった。

 いつものように要件だけを淡々と伝える冷静な口調が、茹りそうなフカガワミコトの頭に冷たく染みとおる。


しばし、その状態でいてくださいませ。――先ほども申しました通り、あなたがこちらをご覧になりましたら最後、私は声を上げねばならなくなりますので」


 後からやってきて、外に出る時間もたっぷりあったにも関わらず自ら風呂の中に浸かりに来おいてこっちを見るな、見たら最後覗き被害者としての立場を第三者に主張する所存であると宣告するとはムチャクチャだし筋が通ってない――と、湯あたり寸前のフカガワミコトに考える余裕などあるわけがなかった。ただ、うんうんと首をたてに振る。


 それを確認したのか、生徒会長は安堵したような小さな息を吐いて、再度こう尋ねたのだという。


「もう一度お訊き致します。――私のことを覚えておいででしょうか、フカガワ様?」


 覚えてないか、と訊かれてとにかく粉雪の手触りを想像させるひんやりとやわらかな声音で生徒会長がうながすままに、フカガワミコトはこの島に来るまでワルキューレに接触した覚えのある唯一の記憶を攫ってみた。


 約二カ月後にこんな運命が待っているとはしらない夏休み、映画でも観にいこうと友人と連れ立って最寄りの都会に出かけた際に運悪く侵略者の出現騒動に巻き込まれたのだ。

 轟音をたてながら駅ビルの街頭ビジョンを破壊する侵略者の姿は、人型をした怪物のようだが避難中ではその姿は立ち上る粉塵にまぎれてよく見えなかった。

 比較的平和な一画で育った少年にとって、侵略者の出現は退屈な日常に彩を添えてくれるゲリライベントにすぎなかった。でも、至近距離で遭遇しては歓迎している余裕などない。悪友たちと緊急時にはシェルターとなるターミナル駅の地下街に逃げ込もうとした際、野次馬の誰かが叫んだのである。今侵略者退治してるワルキューレは太平洋校の特級らしいぞ、と。

 侵略者の出現がちょっとした祭と同義である一帯で生活していた少年にとって、それを退治にくるワルキューレもほとんど芸能人に等しかった。不思議な力を振るって華々しいアクションを決めながら地球と人類を救う、アイドルにしてヒーローだ。特に友人の一人はワルキューレの結構なマニアだった。更に言えばプラチナブロンドの夢見るプリンセスのような外見に反して、圧倒的な身体能力でどんなに巨大な侵略者もぼこぼこに殴り倒す戦闘力を有するレネー・マーセル担だった。


 マジか、れんれんとナっちゃんがこのシケた街にっ? と色めきたって振り返る悪友の腕をあわてて引っ張った。

 あんなスターが来るかよこんな地方都市に、早くしねえとシャッターがしまるぞ――と、緊張感のない友人を急かした際にフカガワミコトもうっかり振りかえる。

 その際に見えたのは、容赦ない夏の太陽を反射するガラスの壁面を高速で駆け上がりながら侵略者の攻撃を躱す人影だった。

 疾風のように移動する人影の跡を追い、無数の光弾が撃ち込まれる。ビルの壁面を覆う鏡のような硝子が砕けてキラキラと舞い上がり路上の上に振りそそぐ。しかし人影は無傷だ。あるポイントまでくるとぱっと宙に躍り上がった。夏の青空に長い黒髪がなびいた。


 あれがワルキューレであるとフカガワミコトも瞬時に理解した。と、同時に衝撃波が撃ち込まれる。

 二人が逃げ込もうとしていた地下街の真上にある駅ビル全体がドオンと音をたてて揺れた。突風に耐えるため階段の手すりにしがみつく。早く避難しなさい! という警官の声と、うっわマジかよ超やべーぞ! 誰だあのワルキューレ! と観にいく予定だった映画のことなどすっかり忘れ去った友人の興奮した声が聞こえた直後、フカガワミコトの記憶はぷっつり断たれることになったのだ。

 ワルキューレが二人の要る方向に攻撃を放ったということはつまり、彼女にとっての敵、すなわち侵略者が駅ビルの方向にいたということに他ならない。衝撃波が撃ち込まれた駅ビルの壁面の一部は崩れ、当然落下する。そのうちのほんの小さなひとかけらが、少年の頭上に直撃し脳震盪を起こしたのだ。突然記憶が途切れた原因を、数十分後駅ビルの医務室でほっとした顔の友人から教えられることになる。


 それからが大変で――と、以降の記憶まで振り返りそうになったフカガワミコトは慌てて首を左右に振った。とにもかくにも、ワルキューレを間近でみた記憶は少年の中にはこの一件しかない。


 そういえばこの生徒会長は黒く長く奇麗な髪をいつもハーフアップにしていた、ということはつまり――とフカガワミコトは当然考える。

 だからあの日あの時あの駅前にいたのかと、フカガワミコトは尋ねたのだ。


 背後の生徒会長は、それには答えなかった。


 湯がなぜかゆったりと動き波立つ。まさか、と思う間もなく目の前に、その夜の月光のように白くかがやく肌を有する少女が回り込んできたのだ。

 長い黒髪をまとめてアップにしているため、ほそい首筋に華奢な肩が露わだった。胸より下は白いタオルを広げ手で押さえて隠しているが、湯が透明なせいでゆったりゆらめく水面の下でなよやかな体の曲線も月の下に晒している。亜熱帯の日差しの下で生活している少女とは思えないような、濡れた白い肌も。


 それに度肝を抜かれたのはフカガワミコトの方で、湯の中で態勢を崩して危うく溺れかけたのだが、生徒会長を務める美少女は唇にまげた指を軽く当ててくすくすと笑ったのだ。毒気のない愉快な冗談を耳にした時に浮かべるような、可憐な微笑みに見えた。

 あわてて湯の中で膝を抱きかかえるフカガワミコトに、生徒会長キタノカタマコはなぞなぞ遊びをするように囁いた。


「それよりもっとはるか以前に、私たちはお会いしております」


 ――ああ、お懐かしいこと。ミコト様。


 そう言って、冴え冴えとした美貌の生徒会長は親し気に近づいてきた。

 いつも扇で隠されている桜色の唇が象るのは、明るい月光にも負けずに存在を主張する、その夜の星のような可憐な微笑みだった。高飛車な印象しか与えないこれまでの挙動とは正反対の、控えめで愛らしい笑顔だ。そのギャップが心臓が跳ね上がってしまう。必然的に隙が生じる。


 そのわずかな間で、キタノカタマコはフカガワミコトに身を摺り寄せた。湯舟の床に置いた手に柔らかな指先が重ねられたと気づいた時、口から妙な声が漏れる。


 時期としては約一年前、十月某日の夜中、陰暦九月十五日のことであった。




「ふーん、そう! そうなんだぁ~、へぇぇ~! その話あたし今初めて聞いたんだけどぉ~!」


 フカガワミコトとキタノカタマコの混浴事件、『ハーレムリポート』では一、二を争う有名エピソードの実態を語る当事者を遮ったものがいた。

 黒髪を怒りで逆立てた、トヨタマタツミだ。目を三角に吊り上げている。


に、そぉおおんな目に遭ってたんだぁ~? へーっ、今の今まで知らなかったなぁ~、てばっ! どうして今まで黙ってたのかなぁ~?」

「そ、それは……! だって、トヨタマ、お前訊かなかったし……っ!」


 怒ってることを隠さない恋人にぐいぐいと迫られて、フカガワミコトはしどろもどろでそう答えた。

 本当はきっと「お前に話したらややこしいことになるから黙っていた」が正解なんだろうなぁ、とサランは二人が揉めあう様子を傍観しながらそんなことを思う。目の前で痴話喧嘩めいたものを繰り広げられたら、そうするしかなかったのだ。

 

 フカガワミコトとサメジマサラン、二人の捏造スキャンダル写真が『夕刊パシフィック』に公開された日の放課後、夕日が真っ赤に燃え上がりながら水平線の向こうに沈んでゆく時間帯のことである。

 キタノカタマコが泰山木マグノリアハイツを後にして暫く後、訓練生たちと一緒にサロンを片付けていたサランのリングに着信が入る。

 マーハに小さく頭をさげてから部屋の片隅に移動して、左手の甲の上に立ち上がったコンシェルジュキャラクターをつつくとそれはプロバスケットチームのマスコットに変わる。それで誰からの着信なのかすぐにわかった。そういえしばらく前から斬撃を放つ音も電動鋸の駆動音も消えて静かになっていた。


 いぶかしんで通話に出たサランに、フカガワミコトはいますぐ自分のところに来るように申し渡したのだった。あの時の約束を果たすから、と。


 フカガワミコトと交わした約束と言えば一つしかない。どうしてキタノカタマコとうっかり混浴する流れになったのか、その際に本当はどんな言葉を交わしたのか、その詳細を語るというあの約束だ。

 本当は好きでも何でもない、しかし世界でたった一人の少年ワルキューレで前世の記憶をもつというフカガワミコトにキタノカタマコがハニートラップじみた真似までするのは必ずワケがある。それが明らかになれば、状況は打開できる筈――。


 次の一手を打つために必要な鍵が手に入るという緊張に顔をこわばらせたサランの様子から何かを察したマーハとヴァン・グゥエットも快く送りだしてくれた。そして、サランは泰山木マグノリアハイツを飛び出して、様子が大きく変化した棕櫚の木立の前まで来たのだ。斬り倒されたばかりの木の香りが鼻に着くその周辺で、何気なくサランはフカガワミコトの名を呼んだ。


 しかし、棕櫚の陰から現れたのはフカガワミコトではなかった。正当な怒りでたぎる力で髪をゆらめかし、日本刀の形をしたワンドを握るトヨタマタツミだったのだ。

 目を三角に吊り上げて、右手にワンドを握りしめるタツミの姿は今にも火を吹く龍に変化しそうだった。縮み上がるサランを前にして、トヨタマタツミは一歩一歩ゆっくり近づいた。

 大体のことはフカガワミコトから聞いた。しかしサランの真意がまだ分からないし、それに自分の恋人がキタノカタマコと二人きりの時に何をしていたのかは自分にとっても非常に興味深い情報であるので自分も同席することにした。結果的にだまし討ちをするような形になったのは本意ではないが、許して欲しい。否、許すべきであろう――といった趣旨のことを口にしつつ、日本刀型ワンドの切っ先を向けてサランを頷かせたのだった。

 この一件に関して、トヨタマタツミに対しては負い目しかないサランが拒絶できるわけがなく、ひきつった笑みを浮かべながらうんうんと首を縦に振るしかなかった。


 かくして、自分たちが斬り倒したばかりの棕櫚の幹に腰を下ろした打ち身と小さな傷だらけのフカガワミコトが、腹をくくったような顔つきでかの有名なかの有名な「キタノカタマコとの混浴事件」の真相を聞かされたわけなのだ、が。


「〝訊かなかったら教えなかった″ァ? じゃあなんなのっ、こういう機会が無かったらあんた一生このこと誰にも言わないつもりだったのっ? 胸に秘めたまま黄泉平坂ヨモツヒラサカでも越えるつもりだったのっ? 全世界の人からキタノカタさんがお風呂に入ってたことに気が付かなかったラッキースケベのうっかり混浴マンとか誤解されたまんまっ⁉ 事態は正反対なのにっ? バッカじゃない⁉」


 ――少年が少し話すと、まだ気が収まらないトヨタマタツミがすぐに噛みついてくるのだ。よって話はなかなか進まなかった。


「なっ……! だ、だって、こんなことどういうタイミングで話せばいいっつうんだよっ」

「タイミングなんて作ればいいでしょ、今こうやって話してるみたいに! 実はあの時こんなことがあって……って説明すればいいだけの話じゃないっ。なんでそれをしないのよ!」

「いやだってそれは――……なんでもない」

「何よっ、一度言いかけたことは最後まで言いなさいったら! 気持ち悪いじゃない!」


 がなって恋人を追い詰めるトヨタマタツミの背中を見つめながら、サランは心の中でこう口にせずにはいられない。


 ――そういうとこなんだってば、トヨタマさん。そういうとこがあるからフカガワミコトも本当のことが話せなかったんだってば。ああもうこの人がいると進む話もなかなか進まない――。


 そんな感情をうっかり乗せてしまったサランの視線を、その肌で悟ったとしか思えない速度で、ぐるんとタツミは素早くサランを視線で射ぬく。タツミに対しては負い目しかないサランが慌てて愛想笑いを浮かべたがもう遅い。


「何っ、サメジマさんも言いたいことがあるならはっきり言ってくれないっ?」

「や、やだなぁ。別に何もそんな……っ、あそうだ。アレだ、アレ。さっきの話でキタノカタさんが言ってた牡鹿が云々っていうの。それってギリシャ神話に出てくる有名な話に出てくるやつだよう。アクタイオンってやつが自分の猟犬つれて狩をしてる最中にうっかり沐浴中だっま月の女神のアルテミスを覗いてしまってガチギレされて、女神に鹿の姿に変えられた挙句自分の飼ってた猟犬に食い殺されたってやつ」


 とりあえずギリシア神話小ネタで話をそらしてみたが、それに乗ってきたのはフカガワミコトだけだった。あーあれってそういう……と、積年の謎が解けたことにすっきりしたことを隠さず小さく頷くが、タツミはせっかく納めていたというのにすらっと鞘からワンドを抜いて言い放った。


「話をそらなさないででくれないっ?」

「はい、すいませぇん」


 サランは引きつった愛想笑いで応じるがもちろんそんなことで気の荒い同級生を落ち着かせることができるわけがない。ワンドの切っ先をサランに向けてタツミは宣言する。


「改めて言うけど、サメジマさんはそこから一歩でも近づいてこないこと。その際には遠慮なく斬るからね。――今度は峰打ちじゃないから」


 普段から力強くきらめくタツミの瞳は炎を宿しているかのようだった。やると言ったらやるぞとその瞳が語る。

 そもそもサランもそれ以上二人に近づくつもりはなかった。今回ばかりは斬られてもしかたないという覚悟はそれなりにしていたので、警告されるだけまだタツミの恩情を感じることができた。


 タツミに対し、申し訳ない、と思うのは事実である。

 しかし反面、こうも思うのである。トヨタマさん、お願いだから話を黙って聞いて――。


 そんなサランとフカガワミコトの思いをきっと知らないのであろうタツミは、もう一度ワンドを納めて少年へ続きを放すように目線で促すのだった。なんとなく釈然としない表情を一瞬浮かべたフカガワミコトだが、気分を切り替えたらしくだんことした口調で宣言する。


「――というわけでだな、この通りあの風呂の一件は事故っていうかなんつうか、そういうアレだったんだっ! 極力接触しないで済むようにその状況でとれる対策はとってたんだぞ、俺はっ!」


 あちこち痣やら擦り傷切り傷だらけでボロボロのフカガワミコトは吐き捨てるような調子でサランに念を押した。

 自分たちの激しい痴話喧嘩の果てに無残にも斬り倒された棕櫚の幹に腰をおろしたフカガワミコトは、サランと自分の前で猛々しく腕を組んでいるタツミを見上げてぶっきらぼうに言う。 

 その膝の上で、テニエルのアリスをプリントしたドレス姿のノコはくうくうと静かに眠っていた。どうやらこの女児型生命体は、一度本来の姿に戻って戦闘を行うと強制的に眠りにつかざるを得ないような体質をしているらしい。

 行動不能になるほどではないとはいえ無数のダメージを負っているフカガワミコトとは違い、髪と制服を乱しているがほぼノーダメージのタツミはぴんぴんしている。ワンドを召喚しても少年は彼女に身を護るための反撃しかしなかったということだろう。


 自ら続きを話すように促したにも関わらず、タツミはまた話の腰を折る。まだ腹が収まらぬといった表情で、腕を組んだままふんっとそっぽを向いて吐き捨てたのだ。


「どうだか! いつかのビーチバレーの時みたいにしっかりじっくり見てたんじゃないっ⁉」

「あ、あの時だってそんな余裕なかっただろうが! お前一緒にいたんだからわかるだろ?」

「ふーん、じゃあ余裕があったら見てたの? 水着とれちゃったキタノカタさんのことじーっと見てたの? そうだよね、あんたってばいつもそうだもんねっ、人が着替えの最中だとかそういうタイミングでいっつも間違って入ってくるもんねっ。仕方ないよねー、なんだもん!」

「言っとくけどなぁ、こっちだって好きでそんな体質に……っ! って、ああああもう! またお前は何だっていっつもいっつも話を混ぜっ返すんだよ! 人の話を聞く気があるなら黙って聞けよ!」

「黙ってられるわけないじゃないっ! あんたが私以外の女子の裸見たって聞いて黙ってられるっ? 『何やってんの⁉』って言いたくなって当たり前じゃない、普通っ!」


 話の腰を折らねば気が済まないらしいタツミに付き合わず話の主導権を握り続ければいいようなものなのに、フカガワミコトがいちいち彼女に付き合うせいでまたも舌戦は再開する。ぎゃあすうぎゃあすうかつてのように少年少女はそのまま口喧嘩を始めようとする二人を見てサランはため息を吐いた。

 いつまでこの脱線はつづくのかと少々うんざりしたサランの心境をくみでもしたかのように、口喧嘩はそこで一時中断した。少年に食って掛かった少女の方がきまり悪げに視線をぷいとそらしたのちに、呟くのだ。


「黙ってなんかいられないわよ。――あたしがっ。あたしが、一番悔しいんだからね! 一番っ。大体あんたの話が正しいなら、キタノカタさんが悪いんじゃない! 地位と権力かさにきてあんたにセクハラかましたんじゃない⁉ 言いなさいよ、そういうことがあったならあの時! ちゃんと言ってたら『ハーレムリポート』であんなに言いたい放題言われずに済んだんだから!」

「や、でも、だって。言っても無駄っつううか……。どう考えてもその状況で不利なの俺の方だし――」

「不利でもなんでも言わなきゃダメでしょう! でなければなんのために法律があるのって話になるじゃないの。ったくもー、あんたがそんなんだからスペンサー先輩みたいな人にだって付け込まれるし、サメジマさんにすら舐められて利用されるんだからねっ! 悪くない時まで謝らなくたっていいの、分かった⁉」

「――……お、おう……」


 怒鳴り散らしたすぐあとに顔を真っ赤にしてつんつん吐き捨てるような恋人の言葉に不意打ちを食らった格好の少年も、きまり悪そうに目をそらしてそう返事をする。

 なんともいえない甘酸っぱくむず痒い空気があたりに漂い、サランは閉口したが茶々を入れるのは控える。「サメジマさんにすら」とはなんだ? というツッコミも我慢する。とにかく今この場で自分は石だ、石。


 戸惑いを露わにしたフカガワミコトの様子に動揺でもしたのか、タツミは尖閣沈んだばかりの夕日のように赤くなり、やけになったように怒鳴り散らした。


「だから、とにかく嫌なのっ! 許せないのっ! あたしが好きになった男子はあたし以外の裸にデレッとするような、『ハーレムリポート』に出てくるような見境のない奴じゃなくて、世界で一番強くて優しくてあたし以外に目移りなんて絶対しない、超超超超超超超格好いい男子なの!」

「――……え、えーと」

「だからそういう自覚をもって振舞えって言ってるのよ、あたしは! 判ったっ⁉」


 組んでいた腕を下ろして拳を握りしめて怒鳴る、恫喝じみたタツミの愛情表現はちゃんと相手に伝わったらしい。フカガワミコトはただ俯いて小さくつぶやく。


「ぜ、善処します」

「しなさいよ! ちゃんと今そう言ったんだから絶対絶対しなさいよっ! 約束したんだからねっ」


 そう言って再びぷいっとタツミは顔をそらした。照れているらしい。うつむく少年も照れている。静かに愛の語らいができないらしい少年少女を帳の降りたばかりの夜空に瞬く無数の星々に見守る。


 ――その有様をサランはただただ見守るしかなかった。照明が欲しくなったので左手を振って懐中電灯状のライトを表示させ、白けた目で二人の様子を眺めながら心の中で呟く。はいはいツンデレおつー。


 このように二人の世界を作り上げる少年少女を前に却って冷静になってしまうのがサメジマサランの気質であるのだが、もう一つ場の雰囲気に加われない事情があった。


「――あのさあ。迷惑かけた分泰山木マグノリアハイツの片付けも手伝いたいし、約束を果たすのはまた後日でもいいよう? お茶会までには二日ほどあるから」


 サランの言葉を聞くなり、ぎゃんぎゃん何かを喚いていたトヨタマタツミが目を三角にして振り向き一睨みした。


「何よ、逃げる気?」

「に、逃げるって、人聞きの悪い――」


 腕を組んだまま、タツミは愛想笑いのサランを睥睨する。

 百六十五近くある長身でアスリートのように引き締まった肢体をもつタツミから放たれる威圧感は相当のものだ。平時においてすら攻撃力のやたら高い候補生なのに、付き合っている彼氏を奪われかけたという怒ってもやむない怒りを背負っている分尋常でない迫力が加味されている。タツミに対しては後ろ暗さしかないサランなど、正当な怒りで燃え上がるタツミにかなうはずがないのだった。


「言っとくけど、フカガワの話を聞き終わった後はあなたの番なんだからね。サメジマさんには、あたしに対する説明ないし弁明の義務があるんだから、どうして好きでもない筈のフカガワとあんなことしたのかっ?」

「も、もちろんだようっ。ちゃんとトヨタマさんにはどうしてあんな芝居うったのか説明するからぁ……っ!」


 カチューシャで飾られた髪の後ろで蜃気楼のようにエネルギーが揺らいでいる。 話はまったく聞かないが、古代から続く神職のお姫様で、ワルキューレ因子保有率においてはトップクラス、腐っても学年首席に相応しい力の片鱗が今にも爆発しそうだ。サランはしばらく前にそれを目撃したばかりである。

 サランにだってタツミにきとんと説明したい気持ちはあった。なんなら土下座したっていいし舐めろと言われれば靴くらいなら舐めようという覚悟もしていた。

 

 だがしかし、だ。


「芝居ぃぃィッ⁉」


 サランのうっかり漏らした言葉を聞きとがめたタツミの目がまた三角に吊り上がり、黒髪がぶわっと逆立つ。しまった、と悔いてももう遅かった。


「お芝居で普通あそこまでする⁉ 写真みたらしっかり唇と唇が合わさってたじゃない!」

「そういう種類のお芝居なんだったってば! 大体仕込みじゃなきゃああんなにバチっと決まった写真撮れるかようっ⁉」

「じゃあ新聞部さんと組んであの写真撮って載せたっていうのねっ?」


 激高したタツミの逆巻く髪や体の周囲にぱちぱちと静電気めいたものまで浮かべてまた怒り狂うのだ。


「ああいう写真わざと撮らせて新聞に載せるってなにそれっ、どういう趣味⁉ あたしに対する宣戦布告っ⁉ そうまでしてあたしからフカガワを奪いたいってわけっ? 上等よ!」


 ――ああああああっ!


 本格的にサランは髪をかきむしりたくなった。一緒に言葉をかわしていていて意思の疎通がこんなに困難な人間と話をする苦痛ったらない。人より耐久性の落ちるサランの堪忍袋の緒はいよいよ限界に達しそうになった。

 お前の彼氏なんて全然いらねえようっ! という魂の叫びをなんとかんとか飲み込んで、とにかく今までで一番の努力をしながら名子役顔に営業用の無害な笑顔を浮かべた。


「と、とにかくさぁっ、その辺の事情はあとでゆっくり説明するから――。なあ、フカガワほら早くさっきの話の続き続きっ!」

「お、おうっ」


 恋人の怒りがサランに向かっている間に英気を養いでもしていたのか、げっそりした表情を浮かべていた少年もサランの必死の目配せになんとか応じる。しかしフカガワミコトの反応はワンテンポずれた。


「――えーと、どこまで話したっけ?」

「去年の十月、ジャッキー姉さん主催のお前の歓迎会兼初等部特級メンバー親睦会の夜に、疲れ果てたお前が風呂に入りに来たらキタノカタさんが入ってきて、『どこかで会ったこと無いか』って謎めいたことを口にしながらお前にハニートラップしかけてきたってところまでだようっ!」


 早口でサランは返した。早くしないとタツミが竜に変化する前に居合を放ちそうだった。

 フカガワミコトが口を開いたのをみて、ようやくタツミも全身から闘気を怒気を揺らめかせるのをやめて恋人の方を見る。逆巻く髪がぱたんと背中を覆ったののを見て、サランはやっと一息つく。


 そしてフカガワミコトは再び話しだしたのだった――。



 

 環太平洋圏有数の財閥創業家直系のお嬢様とうっかり混浴してしまった少年として全世界に名を轟渡らせる結果となった件のスキャンダルの真相について語る前、ここに至るまでの来し方をフカガワミコトはなるべく淡々と説明した。


 約一年前、男性である彼に本来あるはずのないワルキューレ因子発見された。そのきっかけは侵略者騒ぎの巻き添えをくらって脳震盪を起こしたことに端を発する。


 駅ビルの医務室で頭に包帯を巻いて応急処置をすませた格好の少年に、自分たちの不手際を詫び、念のために病院で精密検査を致しましょうと持ち掛けたのは、太平洋校のエンブレムの入った教員用制服を身に着けメガネをかけた知的な風貌の大人の女性だった。

 後に太平洋校でお世話になりまくる、第一世代のワルキューレの一人で現在初等部教員のクラカケマリだと後に知ることになるのだが、フカガワミコトは間近で初めて見るプロワルキューレに頭の痛みと眩暈を忘れるほど緊張していた。

 

 気を失っていた間に見ていた、不思議な夢のこと――風力発電の風車、海沿いの幹線道路、トラック、そして白い服の少女――も、頭に浮かばないほど。


 ワルキューレマニアの悪友が、おいマジかよクラカケだぞ第一世代のっ! と、興奮を隠さずに小さい声で囁いていた些細なことをいつまでも覚えてる。あいつ、クラカケ先生のことを双子の姉さんの方と間違えてたな――と折にふれて思い返すことになったからだ。


 外傷は擦り傷とタンコブだけのように見えるけれど頭蓋の奥など目に見えないところでダメージを負っていないか、それだけを調べるために連れて行かれたはずの病院だった。その日の内にはすべての検査を終えて帰れる筈だった。

 映画は見られなかったけれど、来週またアイツさそって行くか――、とクラカケマリに付き添われながら言われるがままに診察室を移動しているうちに、様子がだんだん異なってくる。

 その結果を見つめる医者やクラカケマリの表情がだんだん信じがたいものを見る目で見られ、親を呼び出す際には念のため入院セットを持ってくるようにと看護師は告げる。そして気づけばホテルのような豪華な内装の個室にしばらく入院する羽目になっていた。


 単なる脳震盪じゃないのか? と、不安になりながらそれから数日、血を抜かれたり体内をスキャンされたり、脳波やその他を計測されたり、カウンセラーらしき人物に悩みはないかと根掘り葉掘り尋ねられられたり、さまざまな検査に数日費やされた。

 検査で病院中を引っ張りまわされる以外の時間は豪華な個室で無為に過ごすしかない、そんな日々は退屈の極みだった。眩暈が後を引いていたこともあって空き時間はやたら寝心地のいいベッドに横になって眠っていた。


 その時から繰り返し夢を見た。

 

 白く大きな風車が何基も見える海辺の町で過ごす夢だ。

 外世界の存在が知られなかった今世紀前半の記録映像の影響でも受けたような、のどかな田舎町で過ごす自分の暮らしを俯瞰で眺めている。


 学校の教室で、一緒に映画に見ることができなかったワルキューレマニアの友人とよく似た男子とふざけたり、教室にいる制服姿の女子が気になっている。

 いつもは友人たちとふざけながら、そして気になる女子とはたったの一回、下校する際に通る、海と山に挟まれた幹線道路沿いの歩道。その山沿いには神社の石段がある。そばを通るたびにいつもつい石段の上の鳥居を見上げる。

 あの神社で祭が行われる初秋では神楽舞が奉納される。なにか悲しい物語を背負った舞であることを知っている。

 普段そこにない屋台が並ぶ参道を手をつないで歩く人が、小さかった自分にその物語を聞かせてくれている。その人を自分の母親だと思っている。

 この辺では珍しくない木造家屋の一つが我が家で、仏間の鴨居にかけられた写真の一つがその人のものであることを、海辺の学校に通う自分は知っている。


 夏のある日、いつもの通学路で白い服を着た女の子と出会う。次の瞬間、クラクションを鳴らすトラックに迫られている。これは知らない。


 モンタージュ状に細切れに編集された夢を、この時がきっかけでフカガワミコトは度々見るようになった。

 夢が見せる場面や時間は全くのランダムだったが、眩暈と体調の悪さにあかせて眠るうちにこの退屈で長閑な夢にも一本のストーリーらしきものがあることの気づく。


 今世紀前半、世界がこのようなおかしな状態になることなど知る由もない時代、まだ独立国家だった日本の海辺の田舎町で暮らすありふれた少年の一生だ。

 白いワンピースの女の子と出会うまで、安穏と生きていた無名の少年の語るに値する物語もない平凡な一生。それだからこそリアリティに満ちた夢。


 入院中にうつらうつらとしてすごすうち、夢の方が現実に思えて仕事の合間に様子を見に来た母親を寝ぼけ眼でみつめてうっかり「生きてたんだ、母さん」と口走ったせいで、死にかけたのはアンタでしょっ! いくら怪我人だっていつまでもぼんやりしてるんじゃないわよ、といったキツめの小言を食らったりしたものだ。夢の中の遺影の人とと自分の母親全く似ていないのに。


 眩暈もおさまり、痣も薄くなり傷も消えたというのになかなか退院の許可はおりない。それどころか毎日毎日似たような検査を繰り返し受けさせられる。そんな毎日にいい加減飽き飽きしてきた頃に、運命の日は訪れた。


 ちょっとこれを握ってくれるかしら? と、ある日やさしく微笑むクラカケマリに促される形で新体操のリボンの柄を首を傾げながら握ったのが決定打だった。

 第一世代のクラカケセンリは妙なマシンを発明しては侵略者退治する天才少女の方で、新体操の道具を使って戦う第一世代のワルキューレはクラカケマリの方じゃなかったっけ? まあ俺はあいつと違ってワルキューレには興味ねえけど――……と心の中で弁解するように呟きながら、リボンの柄を握って言われるがままに空に円を描いてみせた。


 そのリボンが、ピン、と見る間に張り詰め棒状になりまっすぐに伸びてゆく様子をみて目を丸くしてから、フカガワミコトはベッドの隣の椅子に座っていたクラカケマリに尋ねた。


「え、ええ~と……、これクラカケさんがされたんですか?」


 そうではないことは、普段はいかにも学校の有能で厳しい女教師を思わせる理知的な美しさを損なわないクラカケマリのあっけにとられた表情と、彼女の後ろに控える白衣の医者たちの表情で容易に知れた。


 ワンドを起動、そして稼働できるのは通常ワルキューレ因子をもつ女子だけである。因子を持つ女子であっても、自分用にあつらえられたもの以外のワンドは通常使用できない。


 ワルキューレ因子など持つはずない男子の身の上でクラカケマリのワンドを起動できたフカガワミコトは、この時点で何の変哲もないその辺にいる普通の中学生からおそらく世界にたった一人の特別な少年であることが証明されたのだった。


 そんなわけで、自分自身も家族も何が何やらよくわからないままごく平穏な中学生生活に別れを告げて太平洋校に連れてこられ、不慮の事故で体に触れてしまったり裸を見てしまったせいで日本刀型のワンドを人間相手にブンブンふりまわす同級生に追いかけられた末に迷い込んだ工廠で、単なる電ノコにしか見えなかった貴重なワンドを目覚めさせた挙句、史上初の少年ワルキューレとして侵略者退治に駆り出されるようになった日々を送る境遇となったのだった。

 

 ワルキューレの性質上、男子生徒が入学することを想定していなかった太平洋校には当然男子寮というものが無かった。そこで少年とそのワンドであるS. A.W. - Ⅱ Electra もといノコは、研修所で生活することとなった。大西洋校やユーラシア校といった他校のワルキューレとの交流会が開かれるとき、生徒の保護者が来島したとき等に使用される宿泊機能つきの施設である。

 校舎からは遠いために寝坊すると遅刻は必須、中級グレードの和風旅館のような畳敷きの室内は殺風景。保護者など外部からの利用者であれば管理者が行う部屋の掃除や布団の上げ下げも「貴方はここの生徒であるのだから」という理由で自分の手で行わねばならない。

 正直に言って万事快適とはいい難い住環境ではあったが、不満点を補ってあまりある利点がこの暮らしにはあった。


 風呂が素晴らしいのだ。

 遠方からはるばる訪れた客人を労う意味でもあるのか、はるばる太平洋を見晴らせる位置に露天風呂が用意されていた。湯はこの島から湧き出る天然温泉らしい。


 露天風呂の利用は外部からきた施設の宿泊客がいない時にのみ利用を許されたもので毎日温泉を浴びるのは難しかったが、数日に一回ペースでも広大な景色を前に湯に浸かるのは格別だった。

 一体なぜにどうしてこんな南の島にいるはめになったのか、そもそもどうして自分は妙な夢を見るようになったと同時にワルキューレ因子なる面倒なものがあることが判明したのか。それになにより望んだわけでもないのに、なるものが完全にファンタジーであると確信をもてていたからこそ戯れることができた二千年紀から平成末期までの旧日本産の若年層むけエンターテイメント作品の主人公のような運命に巻き込まれているのか――。

 まともに考えると鬱めいてしまいそうな境遇の闇に飲まれるのを救ったのが、この温泉であると断言しても足りなりくらいである。


 授業、訓練、右をみても左をみても女子ばかりいる環境での生活および人間関係の構築、ゆく先々で何故か遭遇してはあまり思い出したくないような目に遭うことになるポニーテールの剣道女子によってつけられた肉体的ダメージ――ものもろの疲れも傷も、この風呂と景色が癒してくれたのだ。


 ことが起きた日もフカガワミコトは一人、湯に浸かっていた。

 そして、疲弊した神経を安らげていた。


 その日、初等部の特級メンバーのみ招かれたフカガワミコトの歓迎会及び親睦会が研修所の一室を借り切っておこなわれたのである。発起人はジャクリーン・W・スペンサーだった。長期のワールドツアーから学園に戻るやいなや、先輩権限で特級メンバーを呼び寄せたのだ。


「あたしたちはこれからチームとして活動する機会も増えるんだから、お互いの関係も深めた方がいいと思わない?」


 という気軽なノリで集められたのが、発起人のジャクリーン、主賓のフカガワミコトとそのワンドのノコ、フカガワミコトの行き先崎になぜかいてはあまり思い出したくない目に遭うトヨタマタツミとその親友で前髪で目元を隠して自信なさそうにしているミカワカグラ、そしてこの亜熱帯の島でも涼やかな表情と態度を隠さないキタノカタマコだった。――これがのちにゴシップガールによって「フカガワハーレム」と勝手に命名されたグループの主格メンバーとなる。


 世界的歌姫かつ戦闘力の高いワルキューレで華々しいゴシップクイーンでもあったジャクリーンは元々有名人だったから、フカガワミコトも初めて声をかけられた時はそれはもう驚いた。8の字ラインの完璧なスタイルに下品にならないよう小粋に着崩した制服がなんともコケティッシュな一学年上の上級生は、実際には気さくで有名人を前に緊張する少年にフレンドリーに話しかけてくれた。その上に親睦会を主催してくれたのである。いい人だな――と、そのときは素朴にそう思った少年だが、その印象は数時間後の親睦会開始時に大量に持ち込まれた酒、煙草、各種ドラッグを前に撤回されることとなった。

 やあね、そんな顔しないでよ。タバコなんて二十世紀までは単なる嗜好品だったし、ほかのものだって地球のどこかで合法化されてるものしか持ってきてないんだから――と、形良い唇に火のついた何かを咥えて屈託なくジャクリーンは応えた。あの時上級生が煙を楽しんでいたものが煙草だったのかそれ以外の葉っぱを紙で巻いたものだったのかは少年は未だに知らない。フカガワミコトは煙草が禁制品になってから生まれたのだから。それにそもそもそういったものは校内持ち込み禁止である。


 旧日本の比較的平和な一帯の庶民として育ったフカガワミコトが思う歓迎会なんて、せいぜい適当なお菓子や味の濃いジャンクな軽食類を前に適当に歓談する程度のことがギリである。危険物など、ほとんどジュースのようなアルコール飲料か妙にテンションが高くなるカフェイン飲料くらいなものだ。そんな中、がっつり法に触れるものを持ち込まれては当然肝が冷える。しかもどちらかというと法を守らねばならない立場のワルキューレが、である。

 自分のそばにいた、前髪で目元を隠した大人し気な女子も似たような心境だったらしく、下半分だけ覗く顔面をこわばらせていた。ジャクリーンが吹かす煙草の煙にむせたのかケホケホと咳をするのが心配になる。

 しかしその隣にいたのが、なぜかしょっちゅう自分の行く先々にいてそんなつもりもないのにセクハラと非難されても仕方ない形の接触をしてしまう女子――トヨタマなんとかといった――が、いたので動くに動けない。


「スペンサー先輩、これ薬物ですよっ⁉ 信じられないっ、何考えてるんですかっ?」

「だからぁ~、地球のどこかでは合法になってるものしか用意してないったら。心配しないでも大丈夫大丈夫。――大体あなたのお家は代々シャーマンなんでしょう? こういったジャンルの専門家じゃない」

「ちーがーいーまーすー! 少なくともうちはそうじゃありませんっ! 大体シャーマンは薬物に詳しいっていうのは偏見ですから!」


 ポニーテールの剣道女は、葉っぱを巻いた紙を燻らせる世界的歌姫相手にも臆する区となく平然と食って掛かる。その煙に気分が悪くなったらしいノコが、フカガワミコトの上着のすそを引いて青い顔で吐きそうだと訴えた端からえずきだした。

 慌てて便所に連れてゆき、本来必要じゃないのにはりきって食べていた夕食の成れの果てをゲロゲロと吐き出すノコの背中をさすってやる。そして別室に敷いていた布団の上にグルグル目を回す自分のワンドを寝かせた。

 ため息を吐きながら親睦会兼歓迎会会場に戻ると、何故かジャクリーンと剣道女はお互い畳の上に座って向かいあい、琥珀色をした酒の飲み比べをしているというすさまじい状況だった。少女たちの憧れにして模範であり地球を救うべき聖なる戦乙女ワルキューレが、ラフな部屋着姿でこの有様。

 喉をそらしてグラスを煽り、ぷはっと同時に息を吐いた二人のうち、ブロンドの上級生がケラケラ笑った。誰がどう見ても酔っていた。


「あはは、やっだー。あんた中々やるじゃん、シャーマンちゃん。あたしについてこられるなら大したもんよぉ~。見どころあるから今度一緒にあそびにいこっかぁ。今ちょうど遊び仲間が実家に帰っちゃって退屈してたしぃ~」

「いーやーでーす! ほらっ、先輩っ、約束ですよっ。あたしが勝ったらここの違法薬物全部廃棄してくださいっ」


 不自然に陽気になっているジャクリーンと違い、ポニーテールの剣道女・トヨタマの口調ははっきりしていた。顔いろも変わらず理知的だった。しかしグラスに手酌で瓶からグラスに琥珀色の液体を雑に注ぐ手つきは危なっかしかった。舌なめずりをして好戦的な気質をチラ見せさせる先輩にもほぼ同量の酒を同じようにどぼどぼと注ぐ。わかりづらいがしっかり理性をふっとばしているらしい。

 そのグラスを持ち上げるトヨタマを、前髪で顔の上半分を隠した女子が腕をつかんで引き留めようとする。


「や、やめてってばタツミちゃんっ。私はもう大丈夫だから、ね、お酒なんてよくないったらぁ……!」

「待っててカグラ、あたしがこの人に勝つから。でもって、こんな法に触れるもの全部捨てさせてまともな親睦会を開いてみせるからっ」

「いーじゃんいーじゃん、言ってくれるじゃーん。あたしあんたみたいな子嫌いじゃないよぉ? 噂じゃ声ばっか大きい温室育ちの世間知らずで白くておっきいショーツ穿いてそうなだっさい子だって話だったけどー」

「! 誰がそんなこと言ってるんですかっ! いーじゃないですか誰がどんな下着を身に着けようがなんだろうがっ」


 聞くに堪えない言葉を交わしながら、二人はグラスをチンと鳴らして乾杯し、そして一気にくいっとあおる。二人が酒を飲みほしている間に、前髪で目元を隠した女子がフカガワミコトを向いて、何度も何度もペコペコと頭を下げた。フカガワミコトも彼女にぺこぺこと頭を下げる。この地獄絵図めいた状況でまともに話ができそうなのは、地味で大人しそうな彼女しかいないようだ。

 水や炭酸で希釈されていない琥珀色の液体をストレートであおった二人が、いっぱしの酒飲みのようにぷはーっと息を吐くのを見て、フカガワミコトは夏休み以来合っていないワルキューレマニアの悪友のことを思い出し、心の中で語りかけた。


 ――現実のワルキューレなんてこんなもんだぞ、と。




「――ちょっとちょっとちょっとおお! 話を盛らないでよねっ!」


 怒りではなく羞恥で顔を真っ赤にしたタツミが昔話を遮ったのはサランが呼び出されてしばらくのち、いつものようにひたすら赤い夕焼けの中でだった。

重たげな口を開き、なんとか順序立てて説明しようと語り出したフカガワミコトの口を遮った。


「確かに、あの時あたしは校則違反だってわかっていたのにスペンサー先輩との勝負に臨んだわよ? それはカグラが先輩のってる煙草みたいなものの煙に気分悪くしてたからやめてって頼んだために飲み比べ勝負をすることになったの! それぐらいしっかり覚えてるんだから、そんな品の無い飲み方はしてないって言いきれるんですからねっ!」

「信じられないならミカワさんに聞けよ。俺が話を盛ってるかどうかわかるから」


 あまり思い出したくない記憶を突きまわしている人間特有の憂鬱な表情で、フカガワミコトは応えた。ミカワカグラの名前を出されて、話を聞かないタツミも言葉を詰まらせる。

 重々しいため息をつく少年を見て、サランは思った。フカガワミコトがこの一件を恋人に対して黙っていたのはこのあたりの立派な醜聞に匹敵する真相を恋人に伝えることにためらいがあったためだろう――。


 それはそれとして、だ。


「ふーん。あの日あの時、あなたがたは太平洋校初等部特級という立場にもあるにも関わらず、酒池肉林のどんちゃんさわぎを繰り広げていらっしゃった、と」


 これみよがしに呟いてみせたサランに、醜聞の当事者達は勢いよくこちらを見る。ある程度覚悟はしていたらしいフカガワミコトとは違い、タツミの顔は弱みを握られたことを隠さない顔でサランを睨む。


「ひ、人聞きの悪いこと言わないでよっ! 確かにあたしは結果的に飲酒してフカガワはキタノカタさんとお風呂に入ることになっちゃったけど――」

「初めから目論んだことじゃないにしても、事実は事実じゃありませんかねぇ? トヨタマさん」


 ここぞとばかりにサランはモンゴロイドモンゴロイドした名子役顔にニコーっと営業用の笑顔を浮かべて交渉に取り掛かった。泣き所を抑えられて言葉に詰まるタツミに迫る。


「いやぁ~、フカガワミコトとキタノカタさんの混浴事件の裏側で豊玉家のお姫様が非合法薬物をもてあそぶパーティーで羽目をお外しだっただなんて、そのような不祥事が隠されていたとは驚きですよう。商業芸能芸術活動そしてもちろんワルキューレ業の戦績で世界平和と人類の共存共栄に多大な貢献をしてらっしゃる分多少のおイタは目をつむってもらえるジャッキー姐さんとは違って、正義を貫き悪には鉄槌を下すわが校の良心を担うべき模範ワルキューレたるトヨタマさんがそのようなご乱交に遊ばれていたことが、外の世界に駄々洩れになった時にわが校が被るイメージ悪化によるダメージは一体どれほどのものになりますことやら――」


 ぬけぬけ、ぺらぺら、といつの間にか得意になっていた駄弁と詭弁をもてあそびつつタツミの神経を逆なでしつつ、やんわりと脅す。直情型のタツミは悔し気にしつつもサランの挑発に容易く乗った。


「な、に、が! 言いたいわけっ? 『ハーレムリポート』で他人様のプライベートもてあそんでくれた卑劣な元文芸部員さんはっ?」


 腕を組んでぎろっとサランを睨み据えるタツミの眼力は相変わらず無駄に力強いが、サランは負けないように子供っぽく笑顔を浮かべた。


「いや別に。ただトヨタマさんは愛されてるな~と思って」

「――は、はいっ?」


 案の定、闘気を高めてまっすぐに挑みかかるのが基本姿勢のトヨタマタツミは面食らって目を丸くした。そこにできた隙にサランは一気にたたみこむ。


「だって、フカガワはトヨタマさんたちが酒飲んでどんちゃんやってるのをもみ消すためにラッキースケベのうっかり混浴マンの汚名をかぶってくれたわけでしょ? や~、愛されてるぅ~」

「――っ⁉」

「外でもパパラッチに追いかけられてるジャッキー姐さんが一緒にいる時におきたありふれた不祥事と、世界でたった一人の少年ワルキューレが環太平洋圏トップクラスのお嬢様のご入浴中に乱入したって二千年紀ミレニアム以前からずーっと存在するラブコメを地でやってる。他人様が聞いて面白い話は、需要があるのはどっちかって話になると思うんだけどぉ?」

「――……」

「でもってうちらの代の映えある首席ワルキューレの不祥事を書すませるにはもってこいのスキャンダルじゃないかとうちは思うだけどぉ~。どうっすかねえ、フカガワ君?」


 そうなの、という目でタツミはフカガワミコト振り返る。その目で見られて、フカガワミコトは照れくさそうにぷいと顔をそむけながらぼそぼそと呟いた。


「べ、別にそれだけじゃ……――。つか、先輩も、お前らも、ハメ外しすぎで見てらんなかったってだけの話だし……っ」

「――な、何よ何よっ! だからいつも言ってるじゃないっ、大事なことは早く言ってって……! 全くもう、本当に水臭いんだからあんたってば……! あんたのそういう所っ、そういう所が、あたしはね……――っ!」


 素直にありがとうと言えない代わりに頬を赤くそめて、目を潤ませて、トヨタマタツミは憎まれ口を叩いた。その声からサランがついぞ聞いたことが無い戸惑いとはにかみが滲んで甘くなる。

 夕日は辛うじて一部分を水平線から覗かせている状態らしく、濃いオレンジ色の西日が差し込む以外のそらはすっかり星空に覆われていた。そろそろサランも話をまとめたくなった。


 おそらく胸をキューンとさせているに違いないトヨタマタツミがその余韻に浸っている間、サランは照れくさいのか憮然としているフカガワミコトに話の続きを促す。話の腰をバキバキ折られるせいでサランの知りたい情報までなかなかたどり着かないのだ。

 フカガワミコト相手には営業用の笑顔を引っ込めて素の表情で接する。国民的名子役風スマイルの維持は結構疲れるのだ。


「――で、その初等部特級ワルキューレさんたちによる酒池肉林の宴の最中、キタノカタさんはなにしてらしたんだ? その状態からなんでお前は風呂に入って、あとからキタノカタさんが乱入してくるながれになった? もうあたり一帯暗くなってきたんだからちゃっちゃか話せ、ちゃっちゃか」

「だから酒池肉林言うなって! ったく――」


 サランの嫌味に一応反応してから、フカガワミコトもひと呼吸間をおいてから話を続けた。少年もさっさと話を終わらせたかったのだろう。




 高そうな酒の瓶が畳の上に転がり、座卓の上ではカフェでデリバリーした軽食類が食い荒らされ、山賊の酒盛り現場のようになった室内で一人だけ表情と佇まいを変えない者が一人だけいた。

 藍地に朝顔が染め抜かれた浴衣を身に着けた少女は、場の空気がどんなに乱れようと背を伸ばして正座し、ボトルの緑茶と用意された軽食のいくつかを小鳥がついばむように口へ運ぶ。

 品が良いと言えばいえるが、どちらかというとどうしても出席せねばならない会合に顔をみせ、体面をたもつためだけに飲食をしているのだと全身で主張しているように見えた。ミカワカグラとともに室内を片付けだすフカガワミコトはそう感じる。


 制服姿ではなく古典柄の浴衣、そしていつもハーフアップにしている黒髪をまとめてアップにしているので雰囲気が異なるが、雰囲気からなにから高貴すぎてとっつきにくい生徒会長である。この時初めて、下々の者ども控えおろうと今にも言いだしそうな少女が北ノ方財閥総帥の令嬢だと知って、ヒェッと声をあげかけた。

 不透明ごみ袋に酒瓶や煙草(らしきもの)の吸い殻などを手ばやく片付けながら説明してくれたカグラによれば、琥珀色の酒がついに回って畳の上でぐでんと横になっている剣道女子のタツミの実家は古くから連綿とつづく神職の名門で、いわゆるお姫様と呼ばれる人だということを聞いてさらに驚いた。有名スポーツ用品メーカーのロゴ入りジャージとTシャツ姿で大の字になっている女子がお姫様とは。


 ワルキューレってつくづくやばいな……と、研修所の管理者にヤバいブツがみつからぬようにと空気清浄機をかけながら部屋をかたづけているフカガワミコトは、すでにこの宴の主賓が自分であることを完全に忘れていた。そんなことはもはやどうでもよかった。


 そんな中でジャクリーンは手酌で一人酒を楽しんでいた。蠱惑的に輝く唇が謎めいた一言を放つ。


「けど、残念だったなぁ~。あんたたちの学年にもう一人特級の女の子がいたでしょ? ねー、生徒会長ちゃん」


 名指しされたマコはしかし、なにも答えず顔色も変えず沈黙で応じる。なぜかゴミ袋をもつカグラが目に見えてあわてだし、キタノカタマコとジャクリーンの顔をおろおろと見比べるのだ。当然、その当時のフカガワミコトにはどうしてカグラが落ち着きを失くすのか事情が読めない。ただ、どうにもよどんだ室内の空気がさっと緊張したことだけは勘づく。


 なんだこれ? と疑問に思ったタイミングで、ジャクリーンは続けて尋ねる。


「ほら、一人すごく目立つ子がいたでしょ、うちの学校じゃ目立つタイプの。あたし去年、あの子のプレ出撃の時にメンターをやったんだぁ。面白い子だったからチーム組むの楽しみにしてたのになぁ~。まさかあたしがツアーに出てる間に学校辞めちゃうなんて、はーっ、残念」


 その口調はずいぶん挑発めいていた。その先にいるのは一人だけ別次元にいるような生徒会長だ。味気ない食事の締めというように、グラスに注いだ市販の緑茶をすい、と飲む。

 特に知りたいわけでもない、学園をあったワルキューレの情報が耳に入ってゆく。とりあえずその時の少年は学校をやめるようなワルキューレが存在するということに素朴に驚いていた。

 そういうこともあるのか、ワルキューレ業界。――まあ、大っぴらに語られないところではこうやって法や規律に触れるようなこともしてるのであれば無理もない気はする。


 それよりも、ジャクリーンがこの話を振って以降カグラが慌てだすことの方が奇妙に見えた。か細い声で、何かと破天荒な先輩に言葉を伝えようとする様子すらみせた。あまりに小さい声で伝わらなかったのだけど。


「ねえ、生徒会長さん。あたしがいない間になにがあったのか知らない? 仲のいい新聞部の子も教えてくれないし~」

「私の口から申し上げることなどございません」


 涼やかな声で生徒会長は答えた。それがこの場で初めて聞く彼女の声だった。丁寧な口ぶりだったが、答える義務は無いと言ってるも同然であるとその慇懃な響きが如実に伝える。


「……へーえ」


 下級生の生意気な態度を面白げに眺めて、ジャクリーンは話の矛先を変える。よりにもよってフカガワミコトにだ。


「ねえ、ミコト? あなたに訊きたいんだけど、去年あたり外で十三歳で作家デビューした女の子のニュースがあったの、覚えてない?」


 事情を知らないフカガワミコトには、アルコールに酔っ払った上級生が前後が繋がらない質問を口にしただけに思えた。なんにせよ、そんな華々しいニュースを耳にした覚えなどない。後輩の務めとして、いいえ、と答えた。

 それを耳にした途端、にんまりとジャクリーンは微笑んだ。思わず背筋がぞくっとしてしまう、思春期の心臓には悪い笑みだった。


「ふーん、そっかあ。覚えてないんだ。ざーんねん。あたしその子の小説読んだんだけど、マルグリット・デュラスみたいで良かったんだ〜。機会があったら読んでみてね。先輩命令だから」

「は、はぁ……」


 誰だよそのマルグリットなんとかって──という困惑を面に出しながら、ともあれ先輩の命令ならその天才少女の小説読まなきゃかあ……と、ゴミ袋を片手にうんざりした時にその声は耳に飛び込んできた。


「白々しいこと」


 耳にひんやりと響く、冴え冴えと涼しい声。

 それは間違いなく、生徒会長のものだった。


 その場にいた三人の視線が生徒会長に集中する。特にあからさまに批判されたジャクリーンは、舌で唇を軽く舐めた。この展開を待ち構えていたように見える。


 しかし生徒会長は、それきり私見めいたものは口にしなかった。


 懐紙で口元を拭うと、本日はお招きありがとうございました、少々疲れましたので失礼致しますと儀礼的な挨拶だけを残して立ちあがり部屋を後にした。その間一切、場を共にした誰相手にも興味も関心も示すことなく襖と扉を開いて廊下に出る。こうしてキタノカタマコは親睦会のメンバーに全く未練を見せることなく、研修所に用意された寝間へと戻っていった。

 はーっ、と緊張から解き放たれたとばかりに神楽がその場にヘナヘナとへたり込んだ様子が何故か印象に残っている。


 こうしてグダグダのままなんとなく歓迎会兼親睦会はお開きになる。


 ここの露天風呂の眺望が素晴らしいことは候補生間でも有名らしく、宴の間はずっとオドオドしていたカグラも露店風呂の話が出ると笑顔を浮かべた。

 眺めもお湯も最高だって評判だから一度入ってみたかったんです、と、控えめな女の子が期待を隠さないはしゃいだ様子が微笑ましくて、じゃあ先に入ってきたら、とフカガワミコトは何の気なしに勧めた。

 露天風呂は残念ながら一つしかない。個人、ないし任意のグループが決められた時間内に貸し切り、交代で入るシステムになっていた。使用中には脱衣所の扉に札をかけるのだ。


 それは純粋に厚意だったのだが、なぜか、前髪の隙間から黒目勝ちの大きな目を覗かせながらミカワカグラは首を激しく振って遠慮するのだ。


「だ……っ、ダメダメダメダメ! あのっ、だっ、ダメです! ふふかっ、フカガワくんが先にお風呂入ってきてっ! そうじゃないとダメなのっ! あああのっ、絶対!」

「……え、なんで?」

「な、なんでって……あの、それは、あの…………っ」


 カグラの声はなぜか次第に消え入り、両手で茹ったように真っ赤になった顔を覆って俯いた。頭から湯気でも噴き出しそうなくらい急に羞恥を襲われている大人し気な女の子を前にすると、こっちがいじめているような気持ちになってしまう。


「! あのそのちがうんです! ええとそのっ、あ、そうだ、その、えーと、私あとでスペンサー先輩たちと一緒に入るんで! その方が、安全だから……あーえっとじゃなくて私何言ってるんだろう、あの安全っていうのは私がじゃなくてフカガワ君が安全っていう意味で…………っ!」


 前髪から透けて見える大きな目をグルグルさせながら、ミカワカグラはなにか譫言のようなことを連発するが全く要領を得ない。だというのに、手酌でくいくいと酒をあおる上級生のみが、楽しそうに噴き出したのちにケラケラ笑いだした。カグラはというと、居たたまれなさそうに叫んでその場にうずくまる。頭から噴き出す湯気が見えるようだった。


 

 ミカワカグラがかなり高レベルの感応能力者だということなどその段階では知る由もないフカガワミコトには、この学校でようやく巡り合った話の通じそうな同級生の女子から不可解な態度を見せつけられたことに対する疎外感を無視することは難しかった。ちょっとした悲しみを感じながら浴場に向かう。

 ドアの前の札をしっかり「使用中」にし、服を脱ぎ、体を洗ってから湯に浸かった。


 いつものように海と月をながめながら、亜熱帯の森に生きるものたちがたてる音を聞く。旺盛に生きる生命の気配を感じながらフカガワミコトは孤独に襲われた。


 大人はこういう心情の時に酒をのむのだろうか、と、鼻孔に染みついたようなスモーキーフレーバーに浸って益体も無いことを思った時に、脱衣所と洗い場を仕切る引き戸がからからと開く音がした。


 自分が使用中なのだから本来この露天風呂を利用しようとするものはいない筈――、という疑問は、反射的に振り向いてから気が付いた。


 もっと正確にいうなら、月光に照らされて眩く輝くような裸身を晒した少女が岩盤を模したタイルの上に立っているのを見てから。

 一糸まとわぬ姿の、生徒会長キタノカタマコの姿を目にしてから。


 我に帰ったのはキタノカタマコが早く、両腕で体を隠してから背中を向ける。数瞬遅れてフカガワミコトもざばっと派手に水音を響かせてから満月に目を据えた。


 何が起こったのか、何をやらかしたのか、自分は何をみてしまったのか、まったく把握するゆとりのない少年の耳を、涼やかで冴え冴えとした、それでいて威圧感に満ちた声が打ったのだ。


「そのままです。そのままの姿勢をどうか崩さぬよう」


 どうか、などという健気な言葉に相応しくない威圧感を漂わせて少女は命じる。その時になって、とんでもないことをやらかしたという衝撃その他で頭と全身が調子を狂わせる。

 激しく混乱する少年へ、洗い場で背を向けているはずの少女はなぜか立ち去らない。それどころか、強張りのとれたしおらしさすら感じさせる声でこう告げた。


「無作法な真似をして申し訳ございません、フカガワ様。――このようなことをせねば貴方とお話をするのは難しいと考えた末のこと。どうか平にご容赦を」


 こ、こっちこそとんでもないことを……っ、と、脳内に焼き付いた裸身を振り払うつもりでひっくり返った声を出すフカガワミコトへ、背中を向けているはずのキタノカタマコはこう、尋ねたのだという。


「では、単刀直入に――。私を覚えておいででしょうか、フカガワ様?」


 



「あ、そういえば――」


 一息に話してから、少年は何か気になることを思い出したらしくサランの方を見て尋ねた。


「サメジマ、お前そのマルグリットなんとかって作家、知ってる?」

「名前は知ってるけど読んだことないようっ! つか今後一切読む予定だってないっ!」

「なにそんなキレちらかしてるんだよ? じゃあその十三歳デビューした女の子ってのは……!」

「知・ら・な・い! ――ったくいい加減にしろよなぁっ、こんなに話の腰をおってばっかいたら終わった頃にはド深夜になっちまうだろうがよう⁉」


 肝心なところで勝手に話の腰をバッキリ折られ、サランはむしゃくしゃして怒鳴り返した。

 今は入れない文化部棟の部室で『愛人ラ・マン』というきつい香水を思わせるような小説の文庫本を読んでいたシモクツチカの印象が、サランの記憶には鮮やかに焼き付いているのだ。


 そんなことを知る由もないフカガワミコトは、なんだよお前文芸部じゃねえのかよ……と呟いた。ジャクリーンからの先輩命令は本気でかからねば達成できないことを知らない少年は、ひと呼吸おいてから話を再開した。

 

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