#40 ゴシップガールが観測する長い長い放課後、その顛末

 異類婚姻譚。


 サランの頭にそんな単語がよぎる。『天女とみの虫』の冊子をパラパラとめくって黙読するヴァン・グゥエットの横顔をみていたせいだ。

 新学期が始まってまだ間もない頃、目の前の象牙彫刻のような硬質な美貌の先輩が北ノ方家の系図を見つめながらそうつぶやいたことを思い出す。


 世界にその名を轟かせる北ノ方家と物語の類型が一体なんの関連があるのかと、あの時はただ不思議に思うだけであったが、シモクツチカが送り付けた妙な物語を読んだあとでは印象ががらりと変わっていた。


 天女を騙して地上に留め置き、繁栄した人間の一族。

 その一族に復讐の念をたぎらせる天女の魂。


 ――下手な見立てだ。喩えも何もあったもんじゃない。


 胸の中がざわつくのを抑えるために、サランはここにいないシモクツチカへ悪態を飛ばす。

 無表情で冊子を読み終えたヴァン・グゥエットはサランに和綴じの冊子を手渡した。何を思っているのか、その端正な横顔からは読み取れない。

 

  ◇◆◇

 

 もとよりあった洞窟を蟻の巣のように掘り進めて出来あがった煮炊きをする区画に赴き、みの虫は飯炊きを任されている女に報酬の粥を求める。


 頭のそばできゃらきゃらと媚態を振りまいていた女たちと同じように、かつてどこからか攫われてきたはずの女である。だから本当は娘と呼んで差支えのない年ごろであるはずなのに、毎日煤にまみれて火の番をしながら生き抜くうちに媼のような老いた見た目を有するようになった。そんな娘はみの虫に無言で粗末な椀に粥をよそい、雑に手渡す。

  

 舌が焼かれるほど熱いことにも構わず、みの虫はそれをすすった。空腹に粥はしみわたる。

 胃袋が満たされると次に来るのは眠気だ。火のお陰でひんやりとした洞窟の中も温かく心地よい。大仕事を終えた解放感、突拍子もないことを語る奇妙なことを語りだす人形との出会いでいささか疲れていたのだろう。火の傍にごろりと横たわる。


 老婆のような火の番係の娘は、邪魔だよ、と不愛想にみの虫へ告げた。しかしまぶたがとろとろと降りてゆくことにみの虫は逆らえない。ことんとその場で眠りに落ちる。


 腹は満たされている。この満足がもうしばらくもてばいい。

 それだけを願い、火の番をする娘が灰をつついて炭をおこす音を聞きながら夢の世界へと落下する。


  ◇◆◇


『――はい、姉さんにはえろう迷惑かけてもおて合わせる顔もありゃあしません』


 ヴァン・グゥエットの左手の甲の上でヴィクトリア朝の絵本のようなフェアリーが、めずらしくしゅんとしたリリイの声を伝える。口調は相変わらずきつく訛っているが。

 

『わしとしたことが、持ち場を離れてまうとはらしぃもないことを――』

『いんじゃねぇ? そっちになんもなかったんなら結果オーライじゃん』


 二人の会話を割り込むように、トラ耳をつけた黒ギャルのコンシェルジュキャラクターが現れてすっかり聞きなれたアホの子の声を伝えた。まだ二人は一緒にいるらしい。どうやらリリイから今回のおおよその説明でも受けたようだが、その上で余計なことにも気が付いたようだ。


『! んじゃあそっちにフカガワのヤツがまだそっちにいやがるってことかっ? んの野郎っ削ぐ毟るたた』


 表情筋を動かさずにヴァン・グゥエットが甲の上のトラ耳黒ギャルだけ冷徹に指ではじいて消す。それで大体の事情をリリイから伝えられているらしいタイガの騒々しい声は絶たれた。その上で告げる。


「リリイ、とりあえず今日のことはもうええ。あんたの婚約エンゲージ相手がこっち来て余計な事せんように見ときんさい。二人で売店に行って氷でも食うとったらええけ」

『ほいじゃがそれではわしの顔が立ちやせん――』

「顔がどうたらさえんこと聞かせんでええ。仲よう甘いもんでも食べとりんさい言うんが分からんか? もう言わんで。うちは二回も三回も同じこと言わせる子は嫌いじゃ」


 怜悧な美貌に似つかわしい冷たい口調で持ち場を離れた妹分を突き放すような一言を言ってから、ひと呼吸おいて柔らかい声を出す。


「あんたの力を借りんならん時はどうせすぐ来る。そん時どうなるかわからんでぇ、今の内に飴食い猫とゆっくり過ごしんさい。営業じゃなんじゃあせこいことは考えんとの」


 要はヴァン・グゥエットは妹分にタイガと一緒にこれからデートでもしてこいと言ってるも同然なわけだ。待機中に持ち場を離れるという失態を犯した妹分への処遇にしては甘すぎる上に、薄い唇の端にはごく微かではあるが笑みすら浮かべてみせていた。

 それを目撃したサランが目を疑うような事態がさらに繰り広げられる。ふふっと苦笑した後に軽口をたたいたのだ。


「それにしてもうちの妹は悪趣味じゃあの。そがあな浮気娘のなにがいいんか」

『姉さんでもたーちゃんの悪口は……! ――申し訳なぁです。ほいじゃあ今日は遠慮のう姉さんの言う通りにさしてもらいますけえ』

『ちょっと待てってリリイ、ひょっとしたらそっちにサメジマパイセンいんじゃ』


 ぶつ。


 左手の甲の上に立ち上がったトラ耳の黒ギャルのキャラクターをヴァン・グゥエットは冷静に指先ではじく。二人の会話に割り込んだタイガの分身はそれで消え、ほどなくリリイの分身であるフェアリーも、お礼は必ず返するんで――と意外に義理堅さをにおわせる一言を残してふっと消えた。

 妹分との通話を終了、左手をおろしたヴァン・グゥエットの表情はさっきさらんを驚愕させた表情は綺麗に拭われいつもの感情の見えない象牙細工のような硬質な表情となる。そして、同じように通話の最中であるサランに目で問うた。


 まだか、と。

 まだです、と左手の上に赤リスのコンシェルジュキャラクターを表示させたサランは頷きつつ、ミカワカグラからの報告に耳をすませていた。


『――でね、私もやっぱりサメジマさんがタイガちゃんのこと好きじゃないならあんまりベタベタするのよくないって思うの。話聞いててリリイちゃんに同情しちゃったもん。ていうかその状況ならみんな絶対リリイちゃんの方が可哀そうだって言うよぉ?』

「ええ~、それは言い過ぎじゃない? 大体そもそもトラ子の気が多いのだって……」

『だとしても先輩としてそこは毅然としてしなきゃダメだったんだってば! だってタイガちゃんはどうしてもその辺が理解できない子みたいじゃない。私もついつい叱っちゃったけど何が分からないのかよくわかってない顔しかしてないし……。タイガちゃんがそういう子ならサメジマさんが先輩としてしっかりしなきゃあ』


 赤リスのキャラクターの向こう側、おそらく寮の室内でカグラはぷりぷりと可愛らしく怒っている。不実なサランにお説教していて次第に盛り上がってきたのか、話が脱線しているのに気が付いていない。サランは、一体なぜにどうしてメジロ姓の二人と仲良し動画や画像を撮る流れになったのかを聞いていただけなのに――。

 

 まだおしゃべりを続ける気か、とヴァン・グゥエットは視線で問う。サランも視線と身振り手振りで謝りながら、カグラの話が終わらない旨を伝えた。


「あーミカワさん。いつもみたくミカワさんの能力でパパっとビジョンを伝えることって出来ない?」

『無理です。サメジマさんがいる位置は私の能力の有効圏外ですもん。――それでね、さっきの続きになるけどリリイちゃんがサメジマさんに意地悪するのもサメジマさんの自業自得ってやつで――』

「ああもう分かってるよう! いやってくらい分かってるようっ!」


 自覚あることをカグラに責められてサランはついに根をあげた。


 

 ――数十分前の寮内、ミカワカグラとトヨタマタツミの室内にて。


 ベッドの縁から二人足を滑らせ、お互い体を折り重ねる状態で床の上に倒れこんでしまうという気まずい状況の直後、何事もなかったようにローテーブルを挟んでモンブランとお茶を楽しむことに集中していた二人の所に傘を携えたリリイが乗り込んできた。

 ↓

 持ち前の能力でリリイの襲撃を察知したカグラが、二年のあの怖い女の子がこっちにやってくることに怯えて顔色を失くす。

 ↓

 可憐で控えめで乙女らしい手仕事が得意なカグラに対して胸をときめかせていたタイガは、上級生が急にガタガタふるえだしたのを見て何があったのかを問い詰める。カグラは問われるままに、リリイの襲撃を伝える。

 ↓

 壊れたドアからリリイが現れ、翻訳機能が対応しない母語のスラング混じりにタイガをなじる。タイガはカグラを庇って前に立ちながらリリイの興奮を鎮めようとする。が、当然リリイは涙目になって激高し、きっとタイガとそしてカグラを睨み武器である傘の先端を向ける。


 あわや、というそのタイミングでカグラはタイガの肩をとんとんと叩いて振り向かせた。そして、ぷうっとほおを膨らませた顔でタイガの頭を拳で軽くこつんと叩いた。

 

『あの子が一番って言ったのなら、そうしなきゃダメ! フラフラするのは絶対ダメ! ってつい怒っちゃったの。だってリリイちゃんの悲しい気持ちが私の中にいっぱい入ってきてつい同情しちゃって――』


 と、カグラは語った。

 創立者の銅像とブーゲンビリアの木を破壊しまくった大げんかの末、雨降って地固まる式に気持ちを確かめ合った直後だというのにもかかわらず、生来の気の多さに性懲りも無く振り回されるタイガに対する怒りと悲しみと失望が、カグラの胸に雪崩れこみ深くえぐったのだという。リリイの母語の翻訳されないスラングが耳朶を打つよりも早く。

 それは失恋の傷癒えぬカグラの感情と深く共鳴した。そして、その便利な能力で顔は美しく性根の歪んだ少女の感情の裏にあるのが一筋縄でいかない今までの来し方だと一瞬で悟り、リリイが礫を傘の石突から連射するより先にタイガを叱っていた。


『もしあの子があなたに好きだって言ったのにあなた以外の人とお付き合いを始めちゃったらどう思うの? 嫌でしょ? 人にされて嫌なことは自分もやっちゃダメなの。人間関係を築く上での一番大事な基本だよって、私、タイガちゃんに怒ったの。――まあ、なんだかキョトンとしてただけだったけど、あの子』

「あー、まあだからトラ子はそういうヤツなんだってば」


 カグラのお説教を正座して一見神妙に聞き入れるタイガではあったが、やべーミカワパイセン怒ってても可愛いんすけど、え、怒り方がこんな可愛い人っている、うっそ、やべーやべーどうしよう、と自分に対する好意をと胸の鼓動を高まらせるだけだった。

 そんなタイガの聞きたくもない心の声を受け入れざるを得ず、困惑しているカグラをさらに混乱させる事態が待ち受けていた。


 どさっ、と何かが倒れこむような音がした方を見れば、茫然とした顔つきのリリイがへたり込んでいたのだという。いつも隙なくきらめかせている徒っぽい目を開いて、ぽろりぽろりと涙を数粒こぼしたらしい。

 その表情が、遠目にいつも見ているものやさっき部屋に怒鳴り込んできたものとまるで違う、あまりに素直なものだったから、カグラは恐怖も忘れて声をかけた。

 どうしたの、と、シンプルに。


『そしたらリリイちゃん、小さい子みたいに泣き出して。久しぶりに人間扱いされた気がするってエンエン泣いちゃって――。そうしたら私、たまらなくなって』

 

 リリイはカグラのことを、特級とは名ばかりのおどおどした大人しい上級生として端的に言えば舐めてかかっており、自分の戦闘力をもってすれば制圧するのは造作もない相手だと見ていた。だから、ケンカのあとの仲直りの最中にタイガから『一番好きだ』とようやく言わせた記憶を言い当てられて必要以上に驚愕し、攻撃の機会を逃していた。

 カグラからタイガへのお説教が行われたのは、リリイが虚を突かれたそのわずかな瞬間だった。

 

 一年後輩とは思えない大人びた美貌の下級生が子供っぽく泣きべそをかく背中をさすってるうちに、そのような事情をカグラは自身の能力で知った。

 命拾いしたという安堵と、この子は実はひょっとしたらそこまで怖い子じゃないのかもしれない――という気持ちがカグラの中で芽生え、気が付けば、ローテーブルで二人向かいあってモンブランを食べながら涙混じりのリリイの愚痴を聞くことになっていたのだという。


 そんなこんなで新進気鋭の美少女アイドル・メジロリリイと、太平洋校期待のニューヒロイン・ミカワカグラの仲は急速に縮まった。

 一人を好きになったらその人だけ、比翼連理を尊ぶという恋愛観が一致していたのが大きかった。

 リリイとカグラはスイーツを食べながら、タイガの不実をやり玉にあげる。同じ施設にいたころから他の女の子を可愛い可愛いと褒めたたえてはぎゅっと抱きしめるような、リリイの目からすれば不誠実なふるまいを何度もしでかしていたと愚痴を吐く。えーそれって酷い、とカグラは相槌を打つ。

 タイガはというと自分の行いや恋愛観を批判されても、美しいパートナーと愛らしい先輩に責められるのは案外悪くないものだったらしく、だってオレ可愛いもんに可愛いって言ってるだけだしそれの何が悪いんすか? とロクでもない反論をしてはヤニさがる。


 こうして寮の一室では女子会という形のカジュアルな時間が過ぎゆき、その流れの戯れであのような動画や画像を載せる仕儀になったらしい。

 

 ――以上、口頭を使った情報伝達にはやたらと時間がかかるミカワカグラとの通話でサランが知りえたことの一切だった。


『タイガちゃんも最初どんな怖い子かと思ったけれど、写真撮るのも上手で、話してみると楽しい子だね。突拍子もないけどそこが憎めないというか』

「あー、そこがヤツのタチの悪いとこなんだよう」

『そうだね……。私も下手に可愛いって言わないようにしないとサメジマさんの二の舞になっちゃう。もっとも私はそういうことは致しませんけどぉ~』

「おうおう、言ってくれるじゃんミカワさんってば」

『それからサメジマさん。リリイちゃんも根はいい子なんだよ、サメジマさんのしたことにすごおおおく傷ついてるんだよ? リリイちゃんの為にもダラダラした関係を続けたからダメだからねっ。またそういうことするんならもう絶対サメジマさんには協力しないからっ』

「その辺はこっちだってミカワさんにいわれなくたって重々承知してるけど――……」


 じ、とサランは自分になにかビーム状のものが照射されているような気配を感じた。

 無論その発生源はヴァン・グゥエットのアーモンドアイである。視線だけで、まだ喋る気か、と圧を放つ。ここをどこだと心得ている? という思いとともに。

 

 ヴァン・グゥエットが連れてきたのはすっかり馴染んだ泰山木マグノリアハイツだ。一階の廊下の片隅だ。不必要な私語はこの屋敷では悪目立ちする。


 まだ女子会のノリから気持ちが切り替えられていないカグラと話しているうちに、自分までおしゃべりモードになっていた。気を取り直す為に、サランは咳をする。


 とりあえず知りたい情報は手に入れた。

 カグラとメジロ姓の二人が仲よさげにじゃれあっていた理由。

 そして、かつてはジュリのものだったリングをはめたサランの左手が映った画像に気づいてカグラの電子個人誌ジンにコメントをよこしたアカウントのこと。

 カグラの電子個人誌ジンの購読者ではなく、通りすがりのアカウントでDMを送っても何も反応はないという。


『でも何このメッセージ、お茶会には参加するって……? シモクさんの暗号?』

「そんなとこじゃねえ? アイツのことだし謎めいた風に演出つけてやがんだよう。ったくめんどくせぇ」


 カグラの疑問をサランははぐらかした。

 今度のお茶会――それはきっと、もう目前に迫った九月三十日のマーハ主催のお茶会を指すはずだ。はてさてゴシップガールはどこからその情報を仕入れたのやら。メッセージ経由でお茶会があることをサランが伝えたジュリからか、それともほかのルートからか。

 ともあれ、拡張現実に機敏にアクセスできるということは今は九十九市の外にいるということだ。これでサンオミユはシモクツチカは確保しないですむ。ほかのワルキューレに身柄を拘束される恐れはあるが。

 

 まあアイツは規格外のワルキューレだから一人でなんとかするだろう――と、一瞬でもシモクツチカの安全を気にしてしまった自分を否定するようにサランは荒く鼻息をつく。

 そろそろ通話を切ろうとしたタイミングで、衣裳部屋のドアが開いた。テニエルによるアリスのイラストをプリントしたテキスタイルを利用した老舗ロリィタメゾンのビンテージドレスをまとったノコが黒い練習着姿の訓練生に手を引かれて現れる。

 あいかわらず一端のお嬢様として磨き上げられたことが嬉しいらしく、つんと気取ってモデル風にウォーキングを決めてみせる。


「待たせたな、マスター。そして皆の者。レディーの身支度には時間がかかるのだ。許せ」


 ぬけぬけとこう言い放ち、壁にもたれて未だに『天女とみの虫』の物語を繰り返し読みふけるフカガワミコトの前に立ち、くるりとターンを決めてみせた。


「どうだ、マスター? 今日のノコは一段と愛らしいと思わんか?」

「――ああ、うん。可愛い。可愛いぞノコ」


 ノコの方もちらと見もせず、物語を目で追いながらフカガワミコトは答え、冊子のページをめくる。フカガワミコトは一体何が気になるのか、サランに冊子の表示を頼みいつまでもツチカの寄こした出来の悪い物語を繰り返し目を通し続けているのだ。

 その態度にノコはあきれたのかレディーのお作法をかなぐり捨てて主の手から和綴じの冊子をむしり取ると、仏頂面でサランに突き付けた。


「これはお前が持ってろ、ぶんげぇぶのちんちくりん! これのせいでマスターはさっきから上の空だ! 迷惑だ!」

『――! ノコちゃん? ノコちゃんがそっちに居るのっ?』


 サランの左手甲の上にはカグラのコンシェルジュキャラクターである赤リスがいる。通話を切るタイミングを失したせいで、甲高いノコの声がリングの向こうにいるカグラに伝わってしまったらしい。その声を聞いたノコの表情もパっと輝く。


「カグラ! カグラだなっ⁉ もうっ、最近ぜんぜん会いにきてくれないからノコは寂しかったんだぞっ。偶にはノコもカグラと遊びたいぞっ。カグラの作った弁当が食べたいんだぞ!」

『ごめんねノコちゃん、また今度……っ。――サメジマさん、ノコちゃんがいるってことは、いるのっ? そっちに、フカガワ君がっ⁉』


 通話を切るタイミングの逃したせいで、カグラまで余計なことに感づいてしまった。サランがアクションを起こす前に、フカガワミコトの次になついていたカグラの声を聞いたうれしさからノコは笑顔で赤リスに話しかけた。


「いるぞ、マスターもここにいる! ――ほらマスター、カグラだぞっ!」


 その上フカガワミコトの腕を引っ張り寄せて、顔を近づけさせる。サランは慌てて左手を自分の頭より高いところへ持ち上げた。そこからカグラの、え嘘っやだ、さっきからそこにフカガワ君いたのっ? もーやだぁ、どうして教えてくれなかったのサメジマさんてばぁ~……っ、という悲鳴が降ってきた。

 フカガワミコトも気まず気な表情を浮かべる。通話を切ろうかとサランがアイコンタクトで尋ねたが首を振り、横向きになった赤リスに語りかけた。


「……あ、えーと……、久しぶり。ミカワさん」

「ひっひひひひひひさっ、久し、久しぶりですぅっ」


 すっかり前髪を下ろして目元を隠していた頃の話し方で、カグラは分かりやすく狼狽していた。

 

「新学期から会ってないけど……その、なんていうか……よかった。元気そうで」

『ああの、その私、健康だけが取り柄っていうかなんていうか、だからその、あのええと……っ! 何言ってるんだろう私、ああもう……っ!』

「あの、さっきサメジマと話していたみたいに普通にしてくれて全然かまわないんだけど――」

『⁉ きっ、聞いてたのさっきの話っ⁉ うそ、やだっ。やだやだやだぁっ』

「あ、なんつうか聴こえてきただけで話の内容はちゃんとは聞いてなかったから。でもミカワさん、普通にしゃべれんだなっと思って――」

『ち、違うのっ。フカガワ君の前だとこうなっちゃうだけで……ああっそういう意味じゃないのっ! あのそのえーと、さっきの私は普段の私じゃなくてでもこっちの私も私じゃなくてえーとえーとそのあの……っ。もうやだぁ~!』

「あ、いや、俺も別にミカワさんを困らせたかったわけじゃなくてわけじゃなくて……!」


 久ぶりに声をかわす少年少女の通信手段と化したサランは、ヴァン・グゥエットの視線による圧をひとり受けていた。いい加減無作法なおしゃべりはやめろ、とその怜悧なアーモンドアイから無言の命令が放たれる。そこでサランは左手を下ろし、赤リスに告げた。


「そんじゃまたなんかあったら連絡するから。今日はいろいろ迷惑かけてごめんねっ。今度またお礼するから」


 そして左手を振り通話を終える。泰山木マグノリアハイツの一階廊下にようやく静けさが訪れた。

 どっと疲れてため息をつくサランは、瞬きもせずサランを見つめて何かしらの意図を言外に匂わせるヴァン・グウェットへ頭を下げた。ついうっかりおしゃべりに夢中になってごめんなさいの意を込めて。それを見やると、硬質の美貌を持つ上級生は、つ、と視線をそらした。以後気をつけるようにの意が籠っているようだ。


 ヴァン・グゥエットの視線の先には黒い練習着の訓練生がいる。涼やかな声で、部長が皆様をおよびです、と告げた。了、という意味なのか、瞬きするほどの間を置いてヴァン・グゥエットは廊下を歩きだす。

 その後にサランが続き、手招きをしてフカガワミコトとノコに続くよう指示する。しかしそれを、ヴァン・グゥエットが制した。


「鋸娘は別室で待機」

「だからノコと呼べというのに! ――それになんでノコを仲間外れにするんだ⁉」


 ぷうっと頬を膨らませたノコだが、あちらのお部屋で一緒にお菓子を頂きましょうと訓練生に誘われたらあっさり満面の笑顔になった。彼女と手をつなぎ、フカガワミコトに手を振って廊下の向こうへ去ってゆく。

 こうしてサランとフカガワミコトは気になることをなかなか説明してくれない上級生の後を追う。


 カグラとの久しぶりの会話のお陰で『天女とみの虫』の世界から現実に戻れたらしい少年は、コロニアル趣味あふれる建物の中身を物珍し気にキョロキョロ眺めまわしていた。きっとサランがかつて味わった、異次元に迷い込んだような落ち着かなさを覚えているのだろう。

 サランはというと、泰山木マグノリアハイツをいつものメイド服ではなく制服姿で歩く自分への違和感がはなはだしかった。今日はメイド服を着なくていいとサランに極端に少ない言葉で指示したのはヴァン・グゥエットだ。


 ――ということはつまり、マーハお嬢様の可愛い小間使いではなく、初等部三年の低レアワルキューレであるサメジマサランに用があるということなのだろう。


 そう考えるうちに、サロンの扉の前に立っている。こんこん、とヴァン・グゥエットはノックすると、年季の入った茶色い扉が内側から開いた。慣れた足取りでサロンに足を踏み入れた寡黙な上級生は一言告げる。


「連れてきた」

「ご苦労様、ヴァン」


 そう応えたのは当然マーハだ。この館の現主人でもあるので、ホストの位置に座っている。ヴァン・グゥエットは自分の定位置はここであるという態度でマーハの後ろにすっくと立つ。マーハは相変わらず優美に微笑み、ドアの入り口で躊躇するサランとフカガワミコトを見つめて微笑みかけた。


「サメジマさん、フカガワさん、どうぞこちらにおかけになって」


 マーハがサランのことを子ねずみさん以外の呼び方をする。ということはやはり、お嬢様とメイドごっこの目的で呼び出されたわけではないのだ。

 その理由はテーブルをかこっている二人の客を見てすぐに理解できた。二人の姿を見たサランの足が一瞬止まる。

 

 椅子に並んで座っていたのは二人の少女だ。

 どちらも長い黒髪で、一人はカチューシャで髪をかざり、もう一人は清楚なハーフアップ。ドアから見て手前に座っているカチューシャの候補生はサランと、その後ろに控えていたフカガワミコトの姿を見とめるなり紅茶のカップをひっくりかえす勢いで立ち上がり、目と眉を吊り上げて怒りを表す。その手がナチュラルにいつも日本刀型ワンドを帯びている腰のあたりに手を添えた。

 

 斬撃が来る――、ととっさに構えるサランだったが怖れていたそれは放たれず、サランとフカガワミコトを両断することはなかった。トヨタマタツミの腰にはワンドはなかったからだ。タツミ本人もすぐにそのことを思い出したとみえて、決まり悪さからなのか咳ばらいをしたのちに、眦をつりあげてフカガワミコトを睨んだ。


「~ッ! どういうつもりなのあの写真! どういうことなのっ⁉ 説明してっ⁉」

「せ、説明すると長くなる――」


 恋人の剣幕に逃げ腰になるフカガワミコトを庇うようにサランは前に立った。サランにはこうしなければならない義務がある。


「あ、あのトヨタマさん。あれに関しては全面的に悪いのはうちだから。ちょっと事情があってああしただけで、演技とかお芝居みたいなもんだから。シバくんならうちだけにして――ッ!」


 しかしこの行為はタツミの目には浮気相手風情がパートナーを身を挺して助けるような図々しい行為に映るわけで、せっかくの黒髪を逆立てんばかりに逆上してなじるのだた。


「あんたもあんたじゃない! フカガワのことなんて好きじゃないだなんて言っておいてどうしてああいうことするわけっ⁉」

「だから事情があったんだってばぁ! 説明すると長くなるんだけどおいおいするからぁっ!」

「人の彼氏とああいうことする事情って何、あんたもフカガワのことが好きだったってこと以外にどんな事情があるってわけ⁉ 下手なごまかしはやめて、本当のこと言ってよね! 本当はあんたもフカガワのことが好きだったって」 


 ――ああああっ! と、サランは頭をかきむしりたくなる。


 常態ですら人の話をきかない女なのに、悲しみと怒りにたぎるタツミは完全に逆上している。そういえば胴体をに峰打ちをくらわせたことを謝罪に訪れたときも、タツミは本当はサランもフカガワミコトが好きで、しかしそのことをひた隠しにしているという自説に固執していた。きっとあの『夕刊パシフィック』の記事を知ってその説の裏付けを得たような気持ちでいるのだろう。


 短気さゆえにタツミに言い返したくなる衝動を必死で抑えるサランのとなりに、一歩後ろにいたフカガワミコトが立った。


「トヨタマ、本当にあれはなんていうか――。とりあえず、ごめん。本当にごめん」


 真剣な表情で、ぺこり、と頭を下げるフカガワミコトに慌てて倣って、サランも頭を下げた。無論タツミがそんなことで二人を許すわけがなく、涙できらめく瞳を恋人に向けてつかつかと少年の前に立ち、右手をふりあげる。平手打ちの構えだ。

 おそらく数秒後には自分にも見舞われるはずのそれを食い入るように見つめるサランと、この場にいた全員の耳を優しい声が打った。


「暴力はお控えになって」


 ぎゅっと目をつぶったフカガワミコトの顔面を張り飛ばす直前、あと数センチというところでタツミの右手がぴたりと止まる。

 優美であるのによく通り、そして有無を言わさぬ迫力を潜ませたその声はマーハのものだ。サランとお嬢様と小間使いごっこに興じている時には見せたことのない、演劇部の部長にしてスター、文化部の女帝であることを知らしめる圧倒的な命令だ。

 フカガワミコトの頬を打つ直前でぴたりと制止したトヨタマタツミの右手首は、半透明の手にしっかり掴まれている。タツミが歯を食いしばって手を動かそうと踏ん張っても右手は固定されたように動けないようだ。


「不満や疑問があるならちゃんとお話合いをいたしましょう。それがこの泰山木マグノリアハイツのルールなの。――席に着いてくださるかしら、トヨタマさん?」

 

 タツミの右手をしっかりとつかんで離さない半透明の手首、鋭利に整えられた爪に装身具をいくつも付けたそれは見るからに女性のものだったが、歯を食いしばるタツミがどれだけ動かそうとしてもびくともしない。おそらくかつてなら霊とよばれたような存在のはずだが、尋常ではない霊力を持つトヨタマタツミを押さえつけるとあっては相当高位にあるモノのはずだ。

 この場でこういった高位の神霊を使役できるほどの力を有するものは、この場にはおそらく一人しかいない。


 かつて世界の天井と呼ばれた一帯で、人々の信仰を集めていた女神だった経歴をもつマーハは、にっこりと微笑みながらタツミと、サランとフカガワミコトへ語りかけた。


「さ、席についてちょうだい。――サメジマさんとフカガワさんもこちらにいらっしゃいな」


 タツミは悔し気な表情をうかべたが、霊力を有する者同士で力の差を悟ったのだろう。振り上げた右手をその場におろすと、半透明の女の腕は消えた。

 不機嫌さを隠さずさっきまで座っていた椅子まで戻る。座る直前に、みっともない姿をお見せしてしまいました、とマーハに一礼するあたりがトヨタマタツミらしかった。

 

 初等部主席の特級ワルキューレにして、神代の世から続く旧日本神職名門のお姫様のマウントをやすやすととってみせた文化部の女帝、そんなマーハの命令をサランもそしてフカガワミコトも無視することなど出来るわけがない。大人しく進んで、来客と並んでテーブルを囲む。


 テーブルを挟んで向かい側、フカガワミコトの正面には怒りがまだ収まらぬという顔付で彼氏をじりじりと睨むタツミがいる。

 そして、サランの正面の席に座っているのはハーフアップの黒髪に楚々としつつも涼やかな美貌の少女だ。

 さっきの騒ぎの中でもこちらの方を一切見ようとしなかった美しい少女は、初等部生徒会長・キタノカタマコだった。


 いつも引き連れている侍女たちはおらず、一人きり。そして磁器のカップに静かに唇をつけて紅茶を味わっている。

 ぐ、と鳩尾付近に気合をため、負けないように隣に座った正真正銘のお姫様よりもよほど姫という形容がふさわしい楚々とした美貌を持つ少女を真正面からじっと見つめる。

 そうしなければ、わあああ! と叫んですぐさま逃げ出してしまいそうなサランとは違い、キタノカタマコは正面に座ったサランの方へ視線一つよこすことすらしなかった。


 席に着き、静かに紅茶を飲むだけの細身の体から放たれているだけとは思えない圧に負けないよう、サランはツチカが送り付けた出来の悪い物語を頭の片隅に思い浮かべた。


 魔よけの経文のようにすがるのは癪ではあったが、仕方がない。奴はキタノカタマコとケンカの出来る女であることは確かなのだから。


 ◇◆◇


 眠りの世界でみの虫は不思議な夢と戯れた。


 自分が男の体を持ち、殿上人のような美しい女にささやきかけられる夢だった。

 二から三歳年上の男になったみの虫は、美しい女に命じられている。お前は妾と夫婦になる宿命であるから天の国へ帰ることはまかりならぬ。この地に留まれと美しい顔を嵩にきたような口で命じるのである。


 女のけんつくな口の利き方と猛々しい美しさに恐れをなしながら、おかしい、と、みの虫は冷静に思う。

 これは頭が口にしていた、天女の物語が土台になっている夢だとみの虫にだってわかる。

 

 しかしなぜ、天女と男の性が入れ替わっているのだ? まるで解せない。


 夢の中らしい腑の落ちなさに眩暈を覚えたおり、体を揺さぶられた。無遠慮に激しく。


「起きろ、童」


 眩暈をもたらすような夢から逃れたい一心で、みの虫はゆっくり瞼をひらいた。 目に飛び込んできたのは火の番をしていた老婆のような娘だった。しかし、みの虫が日ごろ見慣れたあの娘の表情とまるで違う。すすけて汚れて、盗賊に攫われたという己の不運に泣き疲れ、年より多く深いしわに覆われた娘の顔の肌が磨かれた石のようにつるりとしたものに変わっていた。

 煤も消え、毎日火を見ていたために眩し気に細めたまま固まっていた瞼が持ち上がり、溌剌と輝く瞳が見える。


 化粧気はないが、生きるために頭の傍で嬌声をあげねばならなかった白粉まみれの娘たちに引けをとらぬほど、美しい娘に変わりはてている。


 さてはまだ夢の中にいるのかとまた瞼を閉じようとしたみの虫を、娘は制した。


「起きろと妾は言うておる。膳の用意ができた」


 娘は何を言っているのだろう? みの虫は目をこする。

 そんな態度にじれたのか、娘はとげとげしい声を出した。


「塗膳に米の飯をたらふく食いたいと申したのは童であろう。早う食え。お前が所望したものがここにある」


 そういえばなんともいえぬよい匂いがあたりに漂っている。匂いを嗅ぐだけで涎のあふれる、甘くて豊かな香ばしい匂い。米の炊き上がる匂いだ。

 ふわあ、と陶然とした気持ちになった瞬間、みの虫の目は覚めた。


 確かに自分は数刻前、白い米をたらふく食いたいと愚にもつかぬ願いを口にしていた。その相手は、長者の家から盗んだ奇妙な曰くのある姫様人形だ。


 それを何故、火の番の娘が知っている。


 混乱するみの虫の前に、娘は山盛りに飯をもりつけた膳を置いた。さあ、約束の飯だ。たんと食え、とどうせで語る。

 白くつやつやの米が、上等の椀の上に山のようにこんもりと盛られている。傍らには香のものまで添えられていた。粥はまだ腹にたまっているが、炊き上がったばかりの米はみの虫の食欲と意識を目覚めさせた。


「お前、あの人形なのか」

「見ての通り妾はもう人形ではない。あの忌まわしい枷は土に帰した。だからそう呼ぶのは止せ。それから早う飯を食え」


 娘が促すままに、みの虫は箸を握りしめるように持って、おそるおそる熱い米を口に運ぶ。

 その甘さを歯ごたえを、香りを、ゆっくり味わうつもりだったのに、気づけばみの虫は噛むのも惜しいという勢いで米を掻き込んでいた。稗や粟の混じっていない、混じりけのない米。真っ白い米。こんな贅沢なものを食っておれは死ぬのではないか、と、みの虫の頭にはそんな恐怖がかすめる。


 しかしすぐさま、それでもいい、と頭は考えを改める。

 自分はしがないみなしごで盗人の下っ端だ。このままいっても粥よりよいものは食べられなかった筈だ。現世でとりたててよい目にあわないまま遊行の坊主が説くような地獄なる場所へ赴くなら、白い米をたらふく食べたという思い出話ができる分マシというものであろう。


 だからみの虫は食べに食べた。小さな体に収まる限界まで米を食べた。

 食べながら時折尋ねた。


「どうしてお前は火の番の姉様の姿をしている?」

「この娘が一番美しかったからだ。その体を貰ってもいいかと問えば、どうぞどうぞ喜んで身を投げ出しおった。このまま生きていても良いことは無い。本物の鬼に食われて死ぬのならばこの体くらい喜んで捧げると申してな」


 ならばありがたく頂戴する、と申したまでだと涼やかに火の番の体を乗っ取った人形は答えた。妾は鬼ではないのだが、と、ややつまらなさそうに着けたしながら。


 腹が膨れて一ここちついたころ、洞窟の中がいやに静かなことに気づく。宝が放りだされた奥の間で行われている酒盛りの声も、雷のような頭たちのいびきも何も聞こえない。

 不気味なほど静かである。


 火の番の娘の体に宿った人形のことを、みの虫は飛天と呼ぶことに決めた。ほかにどう呼べばいいのか見当がつかなかったためだ。天女、と呼ぶのは憚られるものがあった。


「飛天、頭たちの声が聞こえない。静かすぎるぞ」

「気になるならついてまいれ」


 飛天は立ち上がり、すたすたと歩きだす。口で説明すれば済むことなのに、簡単に答えを明かさない。飛天のその態度にみの虫はここちよく膨れた腹の中身が冷えた鉛に変わったような不快さを一瞬覚えた。

 当たり前のように口をきいていた目の前の娘の体に宿った飛天は、この世の上か外から来た化生の類なのだ。


 飛天の後に続きながら、なぜ自分が飛天を天女と呼ぶことを憚られたのかを自覚した。


 頭の聞かせた昔話が事実であったなら、まちがいなく飛天は若者に騙され裏切られた天女である。

 しかし、天女という言葉に秘められた嫋々とした気配が飛天の言動からはまるでない。


 旅の方士によって鬼女として人形に封ぜられた数百年の間に、本物の鬼女に変化したのではないか。


 頭から突き出た角こそ見当たらないにしても、人の体を手に入れた飛天のことをどうしても天女とは呼べない。

 それでいて、ほんの一瞬吐き気を覚えたものの目の前を歩く飛天に対してさりとて恐ろしさを感じないのがみの虫にとっても妙であった。


 きっと、白い米を腹いっぱい食べたいという自分の願いを叶え、律義に米を炊き上げてくれたからだろう。みの虫はそのように解釈することにした。


 天女と呼ぶには憚られる猛々しい飛天だが、義理堅い質であることは確かなようだ。かつて手ひどく人に騙された過去を持つというのに。


 ◇◆◇


「どうしてキタノカタさんとトヨタマさんがこちらにいらっしゃるのか、そしてサメジマさんとフカガワさんをお呼びしたのか――。私から説明してもよろしくて?」


 両膝に両手を置いてギリギリと正面の恋人を睨むトヨタマタツミ。

 その視線を受け、申し訳なさそうに俯く他ないフカガワミコト。

 背を伸ばし超然と紅茶を味わうキタノカタマコ。

 丹田に気合をためてその生徒会長と向かい合うサメジマサラン。


 演劇部外の四人の初等部生を囲むマーハは、微笑みを讃えながらキタノカタマコに問う。

 演劇部の部長でスター、文化部の女帝、元女神、旧日本の仏教界の名門の養女――と、様々な肩書きを有する先輩に声をかけられても北ノ方財閥総帥令嬢にして初等部生徒会長は顔色一つ変えもせず、超然とした面持ちのままだった。ソーサーの上に音を立てずカップを置き、落ち着いた声で答えた。


「いえ、私から説明いたしましょう。ジンノヒョウエ先輩のお手を煩わせるわけには参りませんので」


 感情をあまり感じさせないがためにどうしても慇懃無礼なニュアンスが漂いがちなキタノカタマコの声にもマーハは動揺することなく、それじゃあそうしてくださるかしら、と朗らかに応えた。そしてティーセットのワゴンのそばに待機している給仕係の訓練生に、お茶のお代わりを用意するよう指示を出す。


 訓練生がキタノカタマコのカップに紅茶を注ぐ。可憐であどけない下級生のふっくらした頬に緊張が見てとれる。

 粗相もせずに紅茶を注ぎ終えてほっとした風情の訓練生のことなどまるで視界に入っていないように、マコは澄んだ声で淡々と語る。


「先日頂きましたお茶会の招待状に参加のお返事を届けに伺おうとした際、偶々そこのトヨタマさんをお見掛けしました。16時を少し過ぎたあたりのことです」


 つう、とマコの視線が斜め向かいのフカガワミコトに視線を向ける。伏せぎみの瞼の下からは黒目勝ちの眼がのぞく。自分が何を言わんとするのか察せよ、とその表情が物語る――ようにサランには感じられた。

 16時すぎといえば、『夕刊パシフィック』が公開された直後のころだ。言うまでもなく。

 給仕係の訓練生は、みるからに怒りをこらえていますというトヨタマタツミのカップに紅茶を注いだ。注ぎ終わったばかりのカップの表面が、タツミの力を受けて小波を生じさせている。


 暴走寸前の力を張り詰めさせている少女の隣にすわっても顔色一つ変えないキタノカタマコは、淡々と説明を続けた。


「トヨタマさんがどことなく浮かないご様子でしたので、一言声をおかけしました。――お一人でどうなさいました? フカガワ様の姿が見えませんけれど、と」


 ガチャン、と音を立ててタツミの前に置かれたカップが真っ二つに割れて白いクロスの上に紅茶が広がる。給仕係が慌てて割れた磁器を下げテーブルを拭く。感情が押さえられないあまり失敗したタツミは我にかえったとみて、恥ずかし気に訓練生に小さく頭をさげて片づけを手伝おうとする。

 ――そういった様子がまるで視界に入らない様子で、キタノカタマコはつづけた。

 視線の先は自分の方にも流れてきた紅茶をふき取ろうとして立ち上がった所を、給仕係の訓練生にお気遣いなくと席に着くよう促されたフカガワミコトにある。


「初等部生徒会長という立場上、わが校の新聞全紙には目を通しております。そのうちの一つに目を疑うような記事が掲載されたばかりでしたから、私はトヨタマさんにお訊きしました。このような記事が掲載されておりますけれど貴女は詳細をご存知か、と」


 見つめたものを凍らせるような一瞥をくらわされたフカガワミコトは立ったまま体をびくつかせる。その様子を見て、タツミは髪をふわっと逆立てる。制御のきかないタツミの力を受けてテーブルの上の茶器や花瓶がカタカタと揺れる――。

 マーハの後ろに控えていたヴァン・グゥエットが滑るような足取りで動き、タツミの背後に回り込んで両肩を掴んだ。そのとたんにタツミの髪はすとんと背の上に落ち、テーブルの上の振動もぴたりと収まる。無言のヴァン・グゥエットは肩に添えた手の動きだけで席に座るようタツミに促す――。


 このささやかな異変にもキタノカタマコは一切動じなかった。

 視線をフカガワミコトから自身の前に置かれた紅茶のカップに据え、カップを持ち上げる。


「御覧の通り、トヨタマさんはあの記事に大層なショックをお受けになりました。信じていた愛しいフカガワ様、友情めいた想いを抱きつつあったサメジマさんのお二人に裏切られた悲しみを代弁することは差し控えますが、そのご様子に私も責任を感じないわけには参りません。――何もご存じなかったトヨタマさんに、あの愚にもつかぬ記事をお教えしたのは私であることには違いありませんので」

 

 ぐずっ、と鼻をすすりあげる音が室内に響く。発生源はもちろんトヨタマタツミだ。うつむいたタツミの目からぽたぽたと涙が滴りおちている。サランの位置からもそれが見えた。未だタツミの肩を抑えているヴァン・グゥエットが表情を変えないまま無言でハンカチを差し出す。

 サランですら罪悪感で身が引きちぎられそうになったのだから、フカガワミコトはなおさら黙っていられなくなったのだろう、もう一度立ち上がってテーブルの上に両手をつき頭を下げた。


「ごめんっ、トヨタマ。本当に、ごめんっ!」


 テーブルに額をぶつける勢いで頭をさげながら、フカガワミコトはただただ謝罪の言葉を口にする。あらあら、とマーハが苦笑して訓練生に目線で指示を与えてフカガワミコトを勇めようとするが、少年はみっともなく頭を下げ続ける。そうするしか術がないことはとなりに座るサランには分かる。罪悪感にかつてくらった峰打ちの激痛が蘇る。


「お前が気が済むならどんなことでもなんでも受け止める覚悟がある、だから、マジで、本当にごめんっ」


「フカガワ様」


 絵にかいたような修羅場が展開されるこのテーブルの周りで、少女のすすり泣きや頭を下げる少年を目のあたりにしても表情ひとつかえないのは、タツミの隣にいるキタノカタマコだけだった。

 ソーサーの上にカップを戻し、感情を感じさせない丁寧な口調で淡々と続ける。


「説明がまだ済んでおりません。申し訳ありませんが、席にお着きになってくださいますでしょうか?」

「いや、でも――」


 それは間違いなく命令であった。

 丁寧で、静かで、しかし有無を言わさぬ圧倒的な命令。誰が聞いても好意を抱いている少年へ向けたものではないと立ちどころに理解できるものだった。

 無言のフカガワミコトが席に着くと、マコはマーハの方を向き軽く一礼する。


「失礼いたしました、ジンノヒョウエ先輩。出過ぎた真似を」

「気になさらなくて結構よ。――でも、人のお話に耳を傾けることが出来ない方の言葉に耳を貸そうとする人はいるかしら?」


 笑顔ではあったがマーハはしっかり釘を刺す。マコは無言でマーハを見つめたあと、視線を戻した。


「お言葉、肝に銘じます」


 正面を向いたキタノカタマコの静かな目は、正面に座るサランへ据えられる。星のようなきらめきを宿したぬばたまの瞳。声と同じく涼やかなそれに射すくめられて、目をそらしたくなる衝動をこらえてサランは向かい合う。

 瞳の光が炎のように揺らめいた、そんなふうにサランには思えた。しかし、それは錯覚だったかもしれない。マコは紅茶のカップを再び持ちあげる。


「話を元に戻させていただきます。――あの記事を目にしたトヨタマさんのご様子がただならぬものでしたので、私も狼狽いたしました。よもやまさか、あのフカガワ様がトヨタマさんを裏切るなど私も想像しえませんでしたので。そこで、私はトヨタマさんをお誘いしました。私はこれからジンノヒョウエ先輩の元へ参りますけれどよかったらご一緒いたしませんか。先輩方がいらっしゃる泰山木マグノリアハイツにはこの不埒な一件の当事者がお勤め中ですから直接お話を伺いましょう、と」


 マコは紅茶に一口口をつけ、そしてそっとソーサーにカップを下した。

 直後、面をおこしてサランをまっすぐに視線で射る。静かに燃える強い光を宿した目で、サランをまっすぐに。

 全身から血の気が引くような恐怖に晒されながら、サランはテーブルの下で自分の膝に爪を立てた。


「あなたがどこかで性懲りも無く、フカガワ様と遊び惚けていらっしゃっていたとは思いもよりませんでしたけれど」


 誤解を招くような言い方はやめてほしい――……、と、いつものように反射的に口に出せる言葉は喉がしまり舌が強張ってとても言葉にはならない。

 膝に爪を立てるだけではおいつかず、丹田に力を籠めすぎて腹筋は引きつりそう。サランは左手のリングの感触に意識を集中する。


 舌を向き、防御の型をとるサランから一旦視線を外し、マコはその先をマーハへ向ける。


「そしてまさか、ジンノヒョウエ先輩が二人の居場所を御存じだったとは」

「サメジマさんから事前に届を受けていましたから。今日は所用につき欠席いたします、と。――フカガワさんとデート中だったとは私も思いもよらなかったけれど」


 ふふっと愉快そうな笑みをこぼすマーハは、書斎の長椅子でサランのしでかしややらかしを耳に入れてくつろぐ時に見せる茶目っ気を覗かせた。それを聞いてまたトヨタマタツミがカタカタとテーブルの上の茶器や花瓶を揺らしたが、素早くヴァン・グゥエットが肩に力を込めて諫めた。サランはというと、上手くしらばっくれてくれたマーハに心の中で感謝を告げた。今回の件をすべて、マーハには伝えているのだから。

 

 そうだ、マーハが味方になってくれている。妙な騒動ばかりおこす子ねずみさんのやらかしに、面白半分で力を貸してくださるお戯れ好きなお嬢様がついて下さっている。


 それが、サランにいくばくかの勇気を与えた。

 ジュリの姿を思い浮かべる。このままいくと危険極まりない任務に就かされる親友のことを。侵略者を退治するというワルキューレの本文からかけはなれた、お嬢様同士のわけのわからない争いに自ら巻き込まれようとしている自分を探して迷走中の滑稽で綺麗で歯がゆい、大事な親友を。

 

 あいつと将来、大人になるんだ。

 一緒に出版に関係する仕事をするんだ。


 満月の元でそうなるんだと願った夢が、サランに力を与える。


 そもそも何をひるむ必要がある。自分はシモクツチカとおそらく殴り合えた唯一の存在だ。世界中を好き放題に引っ掻き回せる権力を有する女ですらリングに引っ張りあげることが叶わなかったあの女に鼻血を噴かせた唯一の同級生だ。


 口をつけるタイミングがなかったせいで冷えてしまった紅茶を一息に煽り、なんとか叩きつけないように力をかろうじて加減しながらソーサーの上にカップを戻す。そして息を吐いて面を起こした。正面にはキタノカタマコのさげすむ様な視線がある。


 ラッキーだった。サランは舐められるのが我慢できない無鉄砲で短気な愚か者なのだから。すうっと腹に勇気が溜まる。気が付けば自分でも驚くほどの落ち着いた声が出せた。


「――今回の一件、すべての責任は私にあります。嫌がるフカガワ君に無理強いしたこと、その結果、トヨタマさんを深く傷つけたこと、すべて私の短慮に端を発するものです。お二人には今ここでお詫び申し上げます」


 立ち上がり、ごめんなさい、と言って二人へ向けて頭を下げた。たっぷり間をおいてから面を起こし、涙を浮かべてもまだ気丈に睨みつけてくるトヨタマタツミへ向けてもう一度小さく頭を下げた。


「もちろん、ここで謝罪したからといってすべてが許されるとは思ってはおりません。後日改めてなんらかの形で謝意を示させていただきます。ワンドで胴体ぶった斬るなんなり好きにしていただいて結構!」

「ふざけんじゃないわよ、そんな覚悟もない癖に――!」


 タツミが立ち上がろうとするが、その肩をヴァン・グゥエトが再度押さえていさめる。今回はアーモンドアイを向かいの席に座るフカガワミコトに据えた。来い、という命令だ。この上級生との付き合いは短いにも関わらず、少年はその意を汲んでタツミに駆け寄る。


「あんたって本当に、本当に……っ! 最っ低!」


 タツミの力が暴走し、それを受けた茶器や花瓶が割れてゆく。テーブルの上に水と色とりどりの切り花が飛び散った。

 髪を扇のように広げたタツミの周囲で巫女姫としての力が暴れて逆巻く。シャンデリアが揺れて壁を飾る絵画の額が大きな音を立てて落下した。


 怒りに我を忘れるトヨタマタツミの腕をフカガワミコトが掴む。暴力禁止と言い渡されたばかりのこの館の一室で、遠慮なくタツミは恋人の頬を打つ。超常の力が加わっていたその平手打ちの軌道上にあったテーブル真っ二つに割れ、食器や花器が落下する想像しい音を立てて真ん中から崩れ落ちる。よく訓練されているはずの訓練生が、悲鳴を上げてうずくまった。


 テーブルを真っ二つにするほどの力をその体に受け止めたフカガワミコトは、両脚でその場に立っている。左顔面はぶたれて赤く腫れさせながら恋人の腕をつかんでドアの外へ出る。去り際に上級生へむけて一礼してから、放しなさいよぉ! あんたたちなんて大嫌い! と涙声で叫ぶトヨタマタツミを引きずるようにして外へでてゆく――。


 ひっくり返った紅茶や花瓶の水をかぶってサランは水浸しになっていた。顔がチクチクと傷むので指先で拭うと、血で赤く染まる。粉々になった磁器の破片で頬に傷がついたらしい。


「あらあら、痕になってはいけないからお手当しないと――」


 演劇部が代々受け継いできたはずのアンティークのテーブルに茶器の類が一瞬で粉々になったにも関わらず、マーハは小さな子供のたわいない悪戯を目の当たりにした年長者のような苦笑を浮かべたままだった。椅子に座ったまま優雅に茶を飲んでいる。よくみれば半透明の腕がマーハの前に透明の盾を展開してその身を護っていたわけだが。

 ゆっくり見渡すとサロンは、嵐が通り過ぎた直後のようなひどいありさまに変わり果てていた。申し訳なさからサランは頭をゆっくり左右にふる。


「この程度の傷、すぐ治りますから大丈夫です。――すみません、ジンノヒョウエ先輩」


 冷静に紅茶を味わっていたのは、気に病むことなくてよと微笑みながら告げるマーハの他にも一人いた。

 キタノカタマコだ。

 左手にソーサーを、右手にカップを持った状態で椅子に座っている。目の前の騒動など全く視界に入っていないかのように。

 

 ちん、とかすかな音をたてソーサーの上にカップを置き、キタノカタマコはサランを見つめた。


「――それでは、お話してくださいますか?」

「な、何を?」


 視線をサランへ据えたまま、カップを乗せたソーサーを左手でもち、すい、と真横へ動かした。カップとソーサーのセットの先にいるのはヴァン・グゥエットだ。

 それでいながら視線はサランに向けたままである。


「貴女があのようなふるまいに出た理由を、です。先ほど貴女自身が仰ったではありませんか? あの一件はお芝居のようなものだと。――なぜそのような茶番を演じる必要があったのかお訊きしても構いませんか?」


 給仕役の訓練生があわててこちらへ駆けてくる。キタノカタマコが突きだす茶器を受け取ろうとするが、すい、とマコは左手を動かして訓練生の前から遠ざける。いぶかしむ彼女がもう一度茶器を受け取ろうとするが、やはり同じように、すい、と茶器のセットを動かす。それを何度も繰り返し、訓練生は泣きそうな表情になった。

 

 サランはマコの児戯めいた振る舞いをみて眉を顰めた。まるで意味の分からない嫌がらせにしか見えなかったからだ。しかし、ヴァン・グゥエットの表情を見てすべてを理解した。


 舞台の上に立つとき、そして特殊な訛りを使う時にしか見せない表情の変化が上級生の怜悧な顔に浮かんでいたから。


 アーモンドアイを見開いて、茶器のセットを見つめるそれは、憤怒だった。

 キタノカタマコは上級生に茶器を下げるように命じている――。


 放埓で自由奔放なイメージを持たれがちだが、年長者を敬うべしという太平洋校に伝わる校風がある。文化部棟の住民ですら、建前であっても先輩や敬語で接するのが基本だ。

 まして生徒会長という立場にあるものなら、後輩が先輩に茶器を下げるようなことを命じる者があれば真っ先に咎めねばならない立場の筈だ。

 だというのに、マコ自身がそのようなあってはならない振る舞いに及んでいる──。


 ヴァン・グゥエッドの属する黄家なる家は黒社会では随分の名門の様ではあるが、所詮は陽のささぬ場所で、誰もしたがらない汚れた仕事を請け負う一門に属する者だ。

 上級生だろうが、演劇部のスターだろうが、ワルキューレだろうが、お前は自分と同じ位置に立つものではないとそう言っているのだ、キタノカタマコは。


 そう理解したとたん、サランの体がかっと燃え上がり、熱くなる。頭の中が真っ白に焼き尽くされて、言葉を失う――。


 そんなサランの前で、すい、と一脚のティーセットを上級生の方を見もせずつきつけるのだ。早く下げろ、と。


「――ところで、文芸部部長とご婚姻マリッジなさったと耳に挟みました。まずはおめでとうございます」


 ありがとうございます、なんて間の抜けた声が出てくるわけがなかった。

 ああ本当にこの人は、人を人とも思わない人なんだ。人類に愛も敬意も抱かぬ人なんだ、という証拠を目の前で展開されて、寒々しい恐怖と湧き上がるような怒りで体の内側をかき回されていたからだ。


 立ち尽くすサランの前で、涼やかにマコは続けた。


「ワニブチさんは十月初旬には死海沿岸へ赴かれます。死地に向かう朋輩との絆を強め、記憶をこの世に語り告ごうとなさるその姿、不覚にも心を動かされました。失礼ながら、貴女にはそのような人として持って当然の情を持たず育ったお可哀そうな方だと認識しておりましたので。お詫び申し上げましょう、サメジマサランさん。その健気で純真な乙女の真心の持ち主、正にワルキューレの鑑と申せましょう」


 失礼いたしました、と、キタノカタマコは頭を軽く下げた。左腕はまだ、ヴァン・グゥエットへ向けたままだ。

 サランが初めて見る憤怒で全身をこわばらせている上級生の怒気にようやく気付いたかのように、マコは自分の左手にいる上級生を初めて、つい、と見やる。


「そろそろ腕が疲れました」


 気が付けばサランは、数分前までは染み一つなく真っ白だったクロスごとテーブルの残骸ごと踏みつけて、キタノカタマコの直前まで距離を詰めていた。そして腕を伸ばし、制服の襟首をつかんで引っ張り、強引に立ち上がらせた。

 いつも伏せ勝ちにしている大きな眼が大きく見開かれた気がするが、頭を大きくのけぞらせているサランにはそれを確認している余裕はない。反動つけて頭を前に向けて振る――。




 ガチャン、と、おそらく高価であるに違いないティーセットが無残に粉々になる音が耳の奥で響く。



 

 ――初等部三年の鮫島砂蘭に、来月実施される死海沿岸での疎開任務に参加せよという命令が下ったのは九月二十九日のことであった。

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