#36 ゴシップガール長考中の恋愛喜劇

 昼休み開始のベルが鳴ると同時にサランは席を立ち、振り返りもせず教室を飛び出して廊下を駆け出す。

 それと同時に同じ階の別教室の扉も勢いよく開く音が聞こえ、直後に機関銃の射出音めいた軽快な足音がこちらへ近づいてくるのも背中で感じた。振り向かなくても身体能力が図抜けているタイガが獲物を狩る肉食獣の目をして追ってきているのは分かる。


 単なる鬼ごっこをしていては自分が負けるのは分かっている。そのためサランは階段を下り、のぼり、渡り廊下を走り抜け、なるべく追跡者をまくルートを選んで校舎を駆け回る。しかしタイガはことごとく先回りする。階段を下りればその上から飛び降りてサランを待ち受ける、回れ右して階段を駆けのぼれば一段飛ばしで追いかける。なんとか振り切って渡り廊下を激走し隣の棟へ逃げようとしたら別ルートを使って先回りしていたタイガが向こう側から走ってくるという塩梅だった。


「サ・メ・ジ・マ・パ・イ・セぇぇぇぇぇぇんんんんっっっ!」


 学食へ向かおうとするもの、教室や中庭で弁当を食べようとするもの、廊下や階段、渡り廊下を行き来する候補生たちが、ぎゃああああ、と喚き声を発しながら逃げるサランとネコ目を吊り上げて叫びサランを追いかけるタイガをぎょっとした顔つきで振り返る。

 人影が多い方を選んで逃げながら、時にまだ生徒たちがたむろする教室に飛び込んで窓から飛び降り、植え込みの陰に隠れるなど、恥も外聞もなくサランはこざかしく逃げまくるが必ずタイガは追いかけてきた。


 昼休みを楽しむ候補生たちからも見捨てられたような巨石と樹木で囲まれた学園創立者の銅像と世界恒久の平和の為に云々と記された碑文とハイビスカスの陰に隠れサランは右手をふり――その直後にリングはそっちにないことを思い出して左手を振る。今までと同じ白猫のコンシェルジュキャラクターを呼び出してリリイにつなげるように命じた、が。


「っ⁉」


 背中の上に何かがのしかかり押し倒され、左手がぐいっと背後にねじり上げられる。世界の平和を誓う碑文を踏みつけにして飛び降りサランからマウントを奪った不心得ものの犯人は誰なのか、確認しなくたってわかる。フルーツ香料の香りが漂ったからだ。

 左腕をねじり上げられてうめくサランの目の前ににゅっと、二千年紀ミレニアムの二つ折り携帯電話を象った文字入力ツールが現れた。ロースペックな液晶画面にはゴシック体で指示が記されている。〝通話を切れ″。その直後ねじり上げられた左腕に激痛が走る。

 サランは大人しく左手薬指を振って見せた。するとすぐに左腕は解放される。

 するとすぐさま勝ち誇ったような声が降ってくるのだ。


「ふっふーん、オレから逃げようなんざ百年早えっすよ、サメジマパイセン。チビん時からリリイ相手に追いかけっこやってたんすからちょっとしたもんすよ?」


 勝ち誇るタイガに、サランは地べたに腹ばいで押し倒されたまま不満いっぱいにうめいた。


「――重いッ! いい加減どけようっ、どうせもう逃げられやしないんだからっ」

「シッツレーっすねぇ。オレ重かねえっすよ? パイセンとそんな変わんねえし」


 背中にまたがったタイガはいつもと同じようなあっけらかんとした調子で答えた。だからサランももろもろのマズイ状況をわすれていつものように軽口で応じる。


「いやお前のが重たいね。筋肉と乳の分重い」

「そ、そんなの大した差になんねえっすよっ」


 ちょっとむくれた風な声音で言ったタイガは大人しくサランの背中から降りた。そして腹ばいの状態から体を持ち上げるサランの正面に回り込んでしゃがむ。猫目を弓なりに細くして笑って見せるタイガの右手には茶色いクラフト紙製の袋がある。


「さ、パイセン。約束っすよ。昼飯一緒に食いましょう。やきそばパンとコロッケパンどっちがいいすか?」

「――メロンパンとチョココロネ」

「良かった。二つともあります。――やー、パイセン甘いもん好きだしそっちらへんも買っといて正解でした」


 いつものように口からキャンディの棒をはみ出させながらタイガはニィっと笑った。かくしてサランのパンを買いに行かせてその隙に逃げようという作戦は失敗に終わる。そこにきてようやくサランも腹をくくった。

 ――授業開始前にサランの隣に座り、薬指にリングの嵌った左手を持ったままジト目のタイガを自分の学科の教室に帰らせるために、昼休み一緒に飯を食おうと適当な約束を交わしてやり過ごしたのは何より自分である。


 芝生の上ではあるが胡坐をかいて地べたに直接座りつつ銅像の台座にもたれたタイガは、のそのそと起き上がるサランに購買で買った袋入りメロンパンとチョココロネとお茶のボトルを手渡す。そして自分は、口から舐め終わったキャンディの棒を取り出すと、さっさと焼きそばパンの袋を破り、大口開けて勢いよくかぶりつくのだった。しばらくパンを咀嚼してからパック入りのコーヒー牛乳で流し込み、一息ついた後にサランへ話しかける。


「――にしてもパイセン、昼飯そんなおやつみたいなパンで持ちますか? 昼ってしょっぱい系のもん食べたくなりませんか? つか、そういうもんばっかり食ってっから大っきくなれねんじゃねえっすか?」

「焼きそばパンにコーヒー牛乳合わせるやつに食生活を云々されたかねえよう」

「まぁオレはちっこいパイセン好きっすけどね。――っぁ……!」


 余計なことを言いだすタイガに軽い突きを食らわせた。さっき左腕をねじり上げられた仕返しの意味もある。それでもタイガは何か嬉し気に勢いよくパンにかぶりつくのだ。


 差し出された二つのパンのうち、サランはメロンパンから齧りだす。

 本当はサランも昼はちゃんと塩気のあるものを食べたいというか、おやつではなくごはん感のあるものが食べたい主義だし、さらに言えば米どころ育ちなのでコメが好きだし、もっというと今日は学食でグリーンカレーでも食べようという気分だったのだが、毎度毎度の身から出た錆でこういうことになったのだ。そういうことは小遣いからけなげにパンを買ってくれたタイガには黙っておく。

 本当にこの衝動的な性格だけはどうにかしよう、と大手製パン企業による量産菓子パンを齧りながらサランはひっそり決意した。


「パン食ったらうちはもう教室戻るからな。リリ子気づかれたら殺されちまう」

「リリイなら今は来れねえっすよ。ホァン先輩に呼び出されてっし」


 さしものリリイでも姉貴分の命は第一のようだ。道理であれほどバタバタと校内で派手においかけっこをしてもリリイが無視しつづけている筈だと合点がいったあと、サランは改めて状況のまずさに気が付いた。

 ――ジュリとの婚姻マリッジをすませたばかりのサランが、自分の知らない所でタイガと二人きりで会っていたと知ったリリイの怒りの激しさが容易に想像ついたせいである。バレれば本格的に生きたまま人体各部をえぐられた後にラグーンの外に放り出されるかもしれない。


 ボトルのお茶を煽った後、サランは試しに銅像の表側に向かって呼び掛けてみた。


「ビビー、そこにいるかぁ?」

「ビビ公もいねえすよ。リリイにつかせてますんで。ホァン先輩の用事が済んだらリリイを修練用具室に誘導して、ファンクラブの方針に関して確認しておきたいとこがあるとかなんとか卓ゲー研連中で引き止めろって指示出してっし」


 もしゃもしゃと焼きそばパンに食らいつきながら平然とタイガは答えた。考えを読まれてサランはくぅっと歯噛みする。アホの子のくせにこういう所では妙な周到さを発揮しやがって、とパンを食み、悔し紛れにぶつぶつつぶやく。


「――ビビもビビだよう、なんで自分とこの部長よりお前やリリ子みたいなやつらの言うこと優先しやがんだ」

「そりゃあパイセン、オレのオンナとしての格ってヤツがもの言ってんすよ」


 ふふーん、とタイガはいよいよアホっぽく胸をそらせてみせた。相変わらずシャツの第二ボタンまであけているので胸をはると際どいことになる。そもそもスカートが短いのに胡坐をかいているので格でいうなら最底辺もいいところな有様だ。

 見てるとどうしても注意してやりたくなるが、それをこらえて視線をそらした。タイガのこういうついつい構ってしまいたくなるところを無視できなかったせいで、今現在難しい関係になっているのだ、と考えた為だ。

 

 曲がりなりにも婚姻マリッジした身だ、かなりおざなりではあったが永久とこしえの絆を誓った相手がいるのだ。不貞はいかがなものかとサランの倫理観も警告を発する。


 無作法な自分を注意せずにサランのことをタイガの方も妙だと気づいたのだろう。パンを食べながら胡坐をやめて膝を立ててみせたりする。角度がまずければ完全に下着が見える。

 それでもサランは無視してメロンパンを食べ終えた。タイガにさっき手渡されたチョココロネの袋を破く。


「――っ」

 

 ムキになったのか、タイガはコーヒー牛乳を飲んでから、足をのばして座っているサランの向かいに回って手と膝を地面につける。猫目を上目遣いにして何かをねだる様に唇を尖らせて、サランの足をまたいで四つん這いになってみせる。第二ボタンまで留めていないシャツから重たげな胸を強調させる。

 サランは手元のチョココロネに意識して集中することにした。チョココロネは素晴らしいパンだ。巻貝のような形状のパンの中にクリーム状のチョコがつまっている。旧日本の製パン業会が生み出した傑作のひとつに数え上げられよう――。


「パイセン?」


 タイガが猫よろしく四つん這いで距離をつめてきたので防御のためにサランは体育すわり状に両膝を立てる。するとタイガはサランの膝の上に両腕とちょっとすねた顔を乗せる。膝下から脛にタイガの上半身が密着する。


「ねえ、なんで無視するんすか、サメジマパイセン?」

「――なあ、トラ子はコロネ食う時はどっちから食う? うちはな、ずっと穴の開いたほうから先に食ってたんだ。こっちから食うとチョコが垂れてこないし手も汚れないじゃないか。だからこっちから食べるのが正解だと信じて疑ってなかったんだけど、世の中にはとがった方から食うって信じられない人種もいてな――」

「どーでもいいっすよコロネの食い方なんてっ! つかなんでこっち見てくんないんすかっ?」

「いやだって、とがった方から食うと穴からチョコが垂れて手がベタベタのドロドロになるじゃないか? そうなったら困る――」

「なんでいっつもみたいにブラ出てるとかパンツ見えてるとか注意してくんねえんすかっ、見えてねえんすかっ? 見せてんすけど、さっきから! 無視されっとハズいんすけどぉっ⁉」

「あーっもうだからだろぉぉっ、人が必死こいて無視してやってんのにこのアホは本当に……っ!」


 ついに限界に達してサランが正面のタイガにがなった瞬間、何をおもったのかタイガはサランの手元のコロネに食らいつく。自分でも言った通りサランはコロネは穴の開いた方から食べる主義だから、タイガがかじったのは尖った方ということになる。右手の上にあふれたチョコがこぼれた。

 サランの膝の上で悪びれもなくコロネの約三分の一を齧ったタイガはチョコのスプレッドで汚れた唇を舌で舐めとったあと、勝ち誇ったような表情でサランを見上げた。


「――オレは尖った方から食うの好きっすよ。穴開いた方から食うと最後はパンだけ食うハメになるじゃないすか。それだとつまんねえし」

「お前は……っ、急に何を……っ」


 不意打ちで汚れたサランの右手をタイガはとってぱくりと咥える。見た目は無造作なのに、タイガの口腔内でチョコのスプレッドを舐めとる舌がサランの指に絡む。

 ぞわぞわと背筋を駆け上がる感覚をふりきるために怖い顔をつくって睨むサランの視線を受けたタイガは猫目で挑発的に笑って見せてから、すぼめた唇から指をぬきとる。キャンディを毎日舐めているせいかぴったりと指に絡みついていた舌からはなれたばかりの指はつやつやと照っていた。チョコで汚れた形跡はない。

 固くしていた全身から力をぬいてはあっと息をついたサランを勝ち誇ったように見上げてから、タイガは言うのだ。


「手に垂れたチョコ舐めて食うのってなんか美味くねえすか?」

「ねえよっ、――ったく、汚ねえなっ!」


 残ったコルネを口の中に放り込んで、ハンカチで濡れた指を拭った。やけくそで咀嚼したパンを飲み込みお茶を煽る様に飲むと、サランは立ち上がろうとうする。


「んじゃあ、うちはもう行くな。パンごちそう様。じゃあ――」


 が。

 タイガはそれを許してくれるわけがなく、腕をつかんで立ち上がるのを防ぎそのまま身を摺り寄せてくる。サランを銅像の台座にもたれさせたまま、腰に両腕を回して薄っぺらい胸に片頬をくっつける。行くな、の意思を込めて全体重をかけてくるわけだから重たい。背中に積み上げられた石の固さを感じる。

 甘えてる癖に怒った顔をしているタイガを見下ろして、はあっ、とサランはため息を吐いた。


「重いし痛い。どけって」

「嫌っす」


 ぎゅうっとタイガが腕に回した両腕に力を籠める。加減はしてくれたようだが結構苦しいので小さなうめき声が出てしまう。それは表情にも出たはずだが、いつもならすっと力をぬくはずのタイガはほんの少し力を足した。困らせたい心境らしい。


「ほら、昼飯にあんなおやつみたいなもん食うからパイセンちっこいし細いまんまなんすよ」

「どけってば……っ、苦しいっ」

「嫌だってば。――大人しくしねえとそのまま背骨折りますよ?」

 

 まさか本気でやりはしないだろうが、タイガは声を低めて腕に力を込めた。思わず身じろぎするのをやめて身をこわばらせるとようやくタイガも腕から力をぬく。冗談すよ何本気でビビってんすか、と付け足すがその声が若干鼻声だった。

 サランの胸にタイガは顔をすりつける。じわじわとシャツがぬれていく感触があった。


「――なんでワニブチ先輩なんかと婚姻マリッジしたんすか? パイセン前あんなのは馬鹿らしいしやんねえっつったじゃないすか。嘘つき」

「心境と状況が変化したんだから仕方ねえだろうがよう」


 甘えているくせに泣き顔はみせたくないというプライドがあるらしく、タイガはサランの薄い胸から顔をあげない。だからサランには脱色したタイガのショートボブの頭しか見えない。それを撫でてやったら情が移って元の木阿弥になりそうだから、燃えるように赤いハイビスカスに視線を据える。

 胸に顔をくっつけたまま、タイガは言葉を発する。鼻声の言葉を紡ぐのにあわせて動く唇の感触を布越しに肌は伝える。


「ワニブチ先輩にキューンってしたんすか?」

「してねえ、うちとワニブチはそういうんじゃないし」

「なんでキューンとしない相手とリング取っ換えるんすか? 意味わかんねえし」

「それを言ったら、うちはお前にもキューンとはしてねえぞ? してねえけどお前相手にああいうことは出来るような奴なんだぞ? ――そういうやつだって分かってただろうがよう」


 なんだか通俗ドラマに出てくる悪い男みたいなセリフを吐いてるなぁ、主要人物に殺されても視聴者からちっとも同情されない類の……と、自分の口にしたセリフを淡々とサランは分析する。そうでもしないと、本格的にぐしゅぐしゅと泣き出した気配のあるタイガの背中をさすってしまいそうだったから。

 

「分かってたけど……分かってたけど……っ! んじゃあいいじゃないすか、今まで通りでっ! オレの顔みてあんな風に『うわマズイ』みたいな態度みせなくたっていいじゃないすか⁉」

「いやだって、うちもリリ子に殺されたくねえし。――大体お前、自分が被害者みたいになって泣いてるけど、そっちこそどうなんだよう? もしうちが、うちかリリ子かどっちが選べって言ったらちゃんとうちを選ぶのかっ? そうじゃないだろ?」

 

 すん、すん、と胸の上でタイガは二度ほど鼻をすすりあげてしばらく何かを考える。十数秒ほどたったあと、うぇぇぇ~……と情けない泣き声をあげてより強くサランを抱きしめた。アホの子らしいあどけないしぐさでサランも思わずほだされる。手が伸びて背中に触れそうになる。

 そんな温かい感情を、タイガの泣き声が打ち消した。


「……え、選べない……っ、リリイもパイセンもどっちも可愛いから、選べない~……っ」


 ――コイツは……っ!


 胸に沸いたあたたかな情に冷や水をぶちかけるように、泣き声のタイガは涙で濡れた猫目をサランに向ける。そして真剣にサランのセリフを責めながらさらにムチャクチャなセリフを吐いた。


「つかなんでパイセンそんな酷い質問するんすか? オレにどっちか選べってそんなことできる訳ねえじゃねえすかっ。オレ二人とも好きだし大事なのに――……っ痛ぇっ!」


 さっき背中をさすってやろうとした右手で、サランはタイガの髪の分け目にそって容赦なく手刀を入れた。それぐらいやってもバチは当たらない筈だ。




「リリイのことはちゃんと好きっすよ。つか一番好きっすよ。あんな綺麗なやつそうそう滅多にいねえじゃねえすか? そう思いません?」

「――まあ、綺麗であることは認めるよう。性格は極悪だけどな」


 それよりお前、ぬけぬけと〝一番好き″とはなんだ? さっき人の胸の上で泣いてたくせに。涙と鼻水でべとべとにされたシャツはまだ乾いてないというのに。


 憤慨するサランの隣で、再び胡坐をかいたタイガはコロッケパンをもそもそ食べながら語りだす。

 そもそも自分の妹分のことをどう思っているのか、あれだけあからさまに慕われているのにどうして婚姻マリッジを頑なに拒んだり、このように不実なマネをしたりするのか。そもそもお前が「二人で一緒にワルキューレになろう」だの「リリイなら可愛くて綺麗で最強のワルキューレになれる」だのなんだのさんざん甘い言葉をささやいてその気にさせたみたいじゃないか、その癖に――。

 と、だらだらと流されるままに肉体関係をもった自分を棚に上げて先輩然とした説教をすると、泣き止んだばかりでちょっと顔の赤いタイガはパンを齧りながら語りだしたのだった。


 綺麗は綺麗だが性格は極悪、というサランのリリイ評に対してタイガはやや激しめに首を振る。


「何言ってんすか。あいつ本当は優しいんすから、それに義理堅いし頑張り屋だし。もともとの地はあんなんじゃないのに、アイドルになるって決めたらあのキャラちゃんとやり続けてるし。すごくないすか、演技力ヤバくないすか? オレならぜってぇ無理ですもん。確かにすぐピーピー泣くようなヘタれたとこもあるし誤解されやすいけど、あいつ本当に綺麗で可愛くて、でもって強くてカッケエやつなんですって」

「――優しい……?」


 ほかの評はともかく、タイガが真っ先に口にしたその言葉を受け入れられなかったサランは、誰が? という思いをその目に込めてタイガを見やる。その目に気づいてないのか、まーカッケェのはオレのが勝ってますけどね、とまた耳を疑いたくなるようなことをマイペースにつぶやいた。

 それでもしばらくすれば、あの人を人とも思わないような極道アイドルのどこが優しいというのか? という目つきサランがひたと見つめているのに気づいたようだ。タイガはコロッケパンの最後のひとかけら飲み込んで空を見上げる。

 猫目で遠くを、古い思い出を、見つめている。


「――オレがリリイと初めて会った時、胸がこう、キューンっってなったんすよ。キューンって。キューン、通り越してズキュウウウウン! っつうか。ああこんな綺麗で格好いいヤツ、兄さん以来久しぶりに見たって……」

「〝兄さん″?」


 予告もなしに新キャラが出てきて戸惑うサランを無視して、追憶の中にいるタイガはコーヒー牛乳が手にあることも忘れたのかパックを傾けてこぼしそうになりながら、独り言のようにぽつりぽつりとつぶやく。


「リリイは今でこそああやって女子~って感じでやってっすけど、初めて会った時はそりゃあもう、ヒデエ恰好してたんすよ? きれいなビルばっかでテロとかも起きねえぜんぜん治安のいい都会マチで育ってたくせに、戦争ばっかしやってたようなオレの育った所にいるガキとかわんねえボロッボロの。大人用の古着重ね着して、髪の毛もボサボサのばしっぱで虫とかいそうで、風呂とか入って無いのまるわかりのクセエ臭いさせてて。それでも顔はスゲエ綺麗で――、だからオレ最初リリイのこと男だと思ったんすよね。女でこんくらい綺麗なら十そこそこのガキでも女衒がほっとかねえ筈だって」


 語彙が貧弱な上に、気分と記憶のおもむくままに言葉をつむぐタイガの台詞から文脈を読み取るのは忍耐を要したが、それでもいつかリリイ自身が告白していたように身なりに構えない幼少期を過ごさざるを得なかったこと、そして二人がそれぞれ育ってきた環境がやはり相当過酷なものであることは理解する。十そこそこで〝顔が奇麗な女子なら女衒に買われる″と当たり前に判断できるようになるような場所であり階層ということだ。


「あとから知ったんすけど、あいつ買われたりヤクザに囲われたりするの嫌だったからわざと汚ねえカッコしてたんすよ。そんで、親ともなんか死に別れてるっぽくて、だから街のヤクザもんの使いっぱして一人で生きてたんすよね。――オレだって兄さんたちと一緒に暮らしてたのにさ。いややっぱあいつスゲエんすよ、根っこは強えんすよ」

「――ああ、だからリリ子のやつアウトロー弁が使えるのな」


 とりあえずタイガの話から納得できる個所を拾ってはサランはうなずく。追憶に浸るタイガの語りから筋道の通った説明を期待するのは諦めたのだ。


 空を見上げるタイガの口ぶりから、素直にリリイを尊敬し一目も二目も置いている様子がうかがえるのを、サランは少々以外に思っていた。

 タイガは十一歳男子のノリでリリイに対して姉さんぶっていたし、リリイも確実に自分より迂闊で軽率なタイガに姉さんぶられることを受け入れて楽しんでいた。どちらかというとべったりとタイガに依存して二人の間の決定権はタイガにあるように振舞っていたのはリリイだった。サランが原因でリリイが暴れた時も冷静に動いてリリイを取り押さえたのはタイガで、リリイは幼児退行したように抱きすがっていた。

 その様子が印象深かったので、サランはてっきりタイガは本当に幼い妹に対するような庇護感情を抱いているからどれだけ慕われてもせがまれてもその気になれないのかと思っていたのだ。が、タイガの中ではどうやらそうではないらしい。

 あいつスゲエ、強え、というタイガの貧弱な言葉には、ありったけの尊敬と憧れが詰まっていた。尊いものについて語る時特有の夢みるような雰囲気が滲んでいる。はーっとため息をついてみせる。


 そのあとポケットからいつもの棒つきキャンディを取り出す。なれた手つきでフィルムを剥ぎ、赤い珠を口の中に放り込んで無造作にコロコロと転がしてから、胡坐をかきつつ空を見上げた。


「……リリイ、オレと初めて会った時にアメくれたんすよね」

「飴? 今食ってるそれか?」

「んなわけないじゃねっすか。アレっすよ、こう、お祭りの屋台とかで売ってるヤツっすよ。棒の刺さったリンゴやなんかにアメがかかってるやつ」

「ああ、はいはい。――で?」

「オレとリリイが初めて会った時、――まあちょっとした用があって、オレ、リリイのいた街にいたんすよね。その時にたまたまリリイと出会って、街を案内してくれることになったんすよ。で、その街でちょうど祭みたいにいっぱい屋台が並んでて……、祭りとか屋台とか見るのオレ初めてで、珍しくて、ウワースゲエ、ハンパネエ~って見て歩いてたらさ、黙って買ってくれたんすよ。リンゴのアメを」


 この思い出はタイガの中でとっておきのものなのか、猫目を細めると照れくさそうにニヒィと笑って膝をかかえて身をよじる。口の先からキャンディの棒が嬉しそうにぴこぴこと上下した。


「オレそん時にはもうこのアメ食うようになってたんすけど、ちょうど食い終わってるのに気が付いたからって。それで黙って買ってくれたんすよ? 初めてあったばっかのガキに、赤くて綺麗で可愛くて夢みたいなアメを。不味くない普通に甘いやつをさ。しかもナリはきたねえけど、スゲエ奇麗な顔のヤツがオレの為に。さっきも言いましたけどそん時リリイのこと男だと思ってましたから、なんだよマジかよ、なんつう男前だよコイツ……! ヤベエ、超ヤベエってなって。――こういう状況になったらパイセンだって胸キューンってなりません? てかなるっしょ? ズキュウウウウン! ってなるっしょ?」

「――いやお前それよりも、なんつうか――」


 不憫だな、という言葉をサランはすんでで飲み込んだ。


 わかりづらいタイガの話から想像するにおそらく十歳のころ、それまでお祭りや屋台の類を見たことが無く、ありふれたリンゴ飴を「赤くて奇麗で可愛いくて夢みたいな」と無邪気に表するタイガの境遇を察して別の意味で胸が痛んだのだ。ぼんやり思い浮かべていた想像以上に過酷な幼少期を過ごしてきたのだろう。

 それを思うと、なぜにタイガはリリイのいる街(沿海地方のしがないちっちゃな田舎町だとリリイはかつて語っていたけれど、タイガの口ぶりからすると「ちっちゃな田舎町」などではなくそこそこ大きな都会だったと判断するのが妥当だろう)にいたのだ、とか、どうして不潔な浮浪児だったかつてのリリイに街の案内を頼むはめになったのか、その辺の気になるポイントについて訊けなくなる。


 タイガはというとサランが自分の思っていた反応を寄こさなかったのが不満なようで、猫目を半眼にしてじっとりサランを軽く睨む。


「えー……なりません? ズキュウウウウン! ってなりません?」

「うーん、まあ、……とりあえずチビの時のリリ子にはそういう人の情みたいなもんがあったんだなってことは分かったよう。うん」


 サランの適当な返答がやはりやや不満だったようだが、タイガはじきにさっきまでの夢を見るような顔つきになった。相当特別な思い出であるようだ。


「オレねえ、スゲエ嬉しかったからリリイに『お前顔とか髪とか風呂入って洗ったらスゲエ男前になれっし。オレの兄さんみてえに姉さん連中がほっとかねえ伊達男になれっし』って褒めたんすよね。それでもリリイのやつ『フーン。で? それが?』みてえな顔しかしねえのがまたちょい冷たくて格好良くて……。ああ~、コイツとまた逢いてえなあ……ってなって……、ちょ、聞いてますパイセン?」

「いや聞いてるけど、さっきからちょいちょい出てくる〝兄さん″って誰だよう? お前兄弟いたのか?」

「いませんよっ。兄さんっつうのはオレを拾って面倒見てくれてた人っすよ。野郎の中じゃこの世の中で一番カッケエ人っす。オレの目標なんすよ。――今ちょっと収監おつとめ中っすけどね」


 兄さんの説明は今度しますから! と叫んでタイガは話を戻した。


「――まぁ、そんなわけでリリイはオレん中でそん時の印象が強いんすよ。だからこう……なんつううか、まぶしいっつうか、怖いっつうか、アレっつうか……っ」

「眩しい? 怖い? アレ?」


 語彙が貧弱なために説明に窮しているらしくタイガは両手を上向けて、もどかしそうに指をもぞもぞと動かして、あああああっと呻く。


「――わかんねえっすかねえ? アレっすよアレ。緊張アガるんすよ。つかなんか未だにリリイみてえに綺麗で可愛くて強くてカッケエやつがオレみたいなのベタベタ好いてくれんのって思うし? 意味わかんねえってなるし。ひょっとしたら夢なんじゃねって思うときあるし? そう思うと怖くなってくるし……」

「――怖い?」

「だって怖えじゃないすか! 超綺麗で可愛くてカッケエやつが、なんでかしんねえけどオレのこと可愛いとか好きだとか言ってくんすよ、怖えし! そんな夢みたいな都合のいいこと起きるかってなるし! オレは綺麗で可愛いもんが好きだから好きだっていう側の人間なんすよっ。綺麗で可愛いもんから好きだって言われる側じゃねえんすよ! だってオレどっちかいうとカッケエ方じゃないすか⁉」

「――はい? 誰がカッケエ方だって?」

「とにかく! オレがワルキューレになろうって決めた理由の一つはこの世にある綺麗で可愛いもんを護るためなんすからね――パイセンみたいな」


 隙を見せたとたんにタイガは隣にいるサランの肩を抱こうとしたから、もう一度脳天に手刀を入れた。さっきまでうっとりとかつてのリリイの思い出を語っていたくせにこの振舞いはない、という意味をしっかり込めてやや強めに制裁を加える。

 痛ぇ、ひでぇ、何するんすかもぉぉ~……と嘆くタイガを見やりながら、さっきまでのセリフを整理してみる。


 つまり、タイガはタイガでリリイのことは好きなのだ。結局のところやっぱり両想いなのだ。それだのに何故かうまくいかないのは、やたらとときめきやすく気が多いことに加えて、自分から好意を向けることには惜しまないが向けられることにはてんで弱くて受け身がとれなくなるというタイガ独特の気質が関わっているということになるらしい。


 理屈はわかった。しかしだ。


「よくわかんねえなあ……。好きは好きならお前がリリ子の気持ちを素直に受け入れたら済むだけの話じゃないか。それを妙な形でつっぱね続けるから事態がこじれんだよう」

「だってオレ、リリイより先に死んじゃうんすよ?」


 この所言わなくなっていた台詞をタイガは久しぶりに口にした。

 キャンディの棒の先を上下させて、タイガは乾いた口調で言う。


「あんな綺麗なヤツが死んだ人間のことずーっと想って操立てて生きてくの、想像するだけでツレえし。──オレ、チビのころ大事なヤツがおっ死んだせいで生きてるのに幽霊みたいになった大人何人も見てっし」


 リリイにはそうなって欲しくねえから、とタイガは結んだ。


「さっきも言ったけど、オレは綺麗で可愛いもんを護るためにワルキューレになったんすから綺麗で可愛いもんを泣かしたくないんすよ。オレがいなくなってもリリイには売れっ子の芸能人になって綺麗に着飾って映画でもドラマでも歌でもグラビアでもなんでもいいから、世の中にもっと綺麗で可愛いもんを増やしてって欲しいんすよ。フフーンって笑いながら。――アイツにはそれができますから」


 いつもは口の中に放り込んだままにしているキャンディを一旦取り出して、タイガは毒々しい赤い珠状のそれを見つめた。サランもつられてそれを見つめる。

 どこまでもアホで一見元気なタイガではあるが、他人が口にすれば毒にもなるような薬を服用している身なのはもはや疑いようのない事実である。聞きたくも信じたくもないが、あまり長生きができない身であることもそうなのだろう。医務室での一件で普段は見せない不安そうな様子を見てしまったあとではサランも覚悟せざるを得ない。

 リリイの想いから逃げるようなことばかりするのも、タイガの単純なくせにネジくれた思考回路の中ではなにかしら整合性がついているのだろうとサランも察する。

 

 で、あるが、だ。


「リリ子を泣かしたくないとかお前今いっちょまえの口叩いたけどな、もうすでにアイツはピーピー泣いてるぞ。お前がうちとリリ子を両天秤にかけたりするから」


 タイガは無言で口の中に再びキャンディを放り込んだ。アホの子なりに痛いところを突かれたと思ったらしい。

 話のキリもついたところで時計をみれば昼休みも残り十分といったあたりだ。そろそろ教室に戻って次の授業の準備をしなければならない。立ち上がってサランはスカートについた芝や塵をパンパンと払う。


「――まあ、リリ子が一番ってお前の気持ちはわかったし、ちょうどいい機会だ。お前ら二人よーく話あって今後の関係を深めるなりなんなり――……」


 立ち上がった自分に不自然な影が落ちてきたのを不審に思い、その方を何気なく視線を移す。

 そしてそのままその場に硬直した。

 タイガはというと、その数瞬前に何かを察したらしく素早く立ち上がってサランの前に庇うように立った。


 二人の斜め前には創立者の恒久平和を願う言葉が刻まれた碑石がある。その上にすっくと立つ少女が一人いた。彼女は優雅に日傘をさしてくるくると回している。

 南中からやや西にかたむきつつある太陽を背にした逆光のためにその表情は伺いしれないが、形良い口元が形良く微笑んだあと、いつものように語尾を伸ばした甘ったるい口調で二人へ話しかけた。


「たーちゃん、それにサメジマ先輩~。私がいない間になにやってたのぉ~? こんなところでぇ~、目を盗んでぇ~……っ」


 亜熱帯の明るすぎる日差しには不似合いなどす黒い負のオーラを背後に揺らめかせているリリイは、くるくると日傘を回す手を止めて角度を変えた。傘の下から現れたリリイの顔には、激怒したとき特有の凄絶な微笑みが浮かんでいる。

 本気の殺意に触れたサランの背筋がすくみ上る。


「先輩、どういうことなんですかぁ~? 昨晩ワニブチ先輩と婚姻マリッジなさったんですよねぇぇ~? なのにこれはちょっと、節操ってものがなさすぎじゃあありませぇぇぇん~?」


 傘を支える左手の反対側には、フィルムを剥いたキャンディがある。リリイはそれを口元まで運び姉貴分がするように咥えた。舌を伸ばしてゆったり舐るのが習慣のリリイがキャンディを咥えるときは戦闘開始の合図であると、サランもすでに学習ができている。


「ま、待てリリ子っ。うちとトラ子は今後の関係を――っ」

「昼飯くってただけだって。落ち着けよリリイ」


 完全に震え上がるサランとは違って踏んできた修羅場の違いか、タイガは冷静に妹分をいさめた。リングを嵌めた右手を背後に回して素早く手を振り緊急事態アイコンを呼び出してワンドを格納している亜空間にアクセスする。その手つきが完全に慣れていた。

 タイガの言葉にリリイは表情を一変させた。こちらもなれた手つきで日傘を閉じて、その石突を二人に突き付けながら柳眉を逆立て怒りを露わにしなにごとかを喚く。


「たーちゃんもいい加減にしろよこの浮気性の   野郎! 気が多いのはお前の性分だから仕方ねえにしてもおれよりそいつと    するっつうのが納得いかねえ、     かよ! 糞  が!」


 リリイが激高したときにリングの翻訳機能がそうするように戦乙女の学び舎に相応しくないところどころのワードを無音にしたが、今回は他の部位も大概だった。いつもの脳天から突き抜けるような声ではなく、アウトロー訛りを使うときに出す地声でタイガを罵る口調は乱暴で荒々しい。日傘の先でサランを指して汚い言葉で怒鳴り散らす。


「お前が可愛いだ綺麗だ歯の浮くようなことのぬかしやがって人をその気にさせたんだ! そのくせこんな      にも同じこと言ってんじゃねえよっ。――っとに馬鹿にしやがって……!」


 やはり所々無音になるのがもどかしいらしく、リリイは右手を振って翻訳機能を切ろうとするそぶりを見せたがそれをタイガが止めた。


「いい、切るなって。リリイ、そのままで喋りな」


 世にも嬉しそうな、弾んだ声で。


「まるで初めてあった時のお前みたいだ。――そういうお前、やっぱ悪かねえぜ」

「……っはーん」


 リリイもそれを受けて唇の端をつりあげ、ニヤリと笑う。その拍子にふわりと肩を超す長さの髪がふわりと舞った。裡からあふれ出すワルキューレ特有の超常の力を受けてのことだろう。余裕を見せつけながら、キャンディを咥えたリリイは傘の先をタイガへ迷わず据える。


「それじゃあ、久しぶりに本気の鬼ごっこでもするか――なっ!」


 タイガを狙っていた傘の先が素早く横にそれ、そのまま高速の礫が放たれる。リリイが狙っていたのは創立者の銅像、その両足首だった。

 単なる樹脂製であるはずの礫は、金属でもドリルに穴でも穿つような激しい音を立てながら創立者の銅像の足元を強引に台座から引きはがす。それまでにものの数分かからない。

 銅像がよギイイっと音を立てながらこっちに倒れてきた時にようやく現実に帰れたサランとは違い、タイガはサランを抱きかかえて後ろへ飛び退っている。亜空間から取り出した手甲型ワンドを装着した右拳で倒れてきた銅像を突き上げる。金属と金属がぶつかる激しい音を立てて、創立者の像は金属の塊に変えられながら、さっきまで自身が立っていた土台へ送り返される。そこにいたのはリリイで、まだ目の前の現実に対処できていないサランへ傘の石突を向けていた。大きく形のゆがんだ銅像の成れの果てが飛んできたのをすれすれで躱す。


 金属と岩がぶつかってガァン! と激しい音を立てる寸前に、ハイビスカスの根元にサランを下したタイガは叫んだ。


「いるか、ビビ⁉」

「姉貴こっちで!」


 おわっ、とサランは声を上げた。植え込みのハイビスカスの陰からビビアナがにゅっと姿を現したからだ。リリイの様子を探っているタイガに対し、ビビアナはペコペコと頭を下げた。


「面目ねえ、やっぱあっしらでリリイ姉貴を抑えるのは骨でしてこのような仕儀になりやして――」

「言い訳はあとだっ、とりあえずサメジマパイセン教室まで送ってけ。オレぁちょっとリリイと遊んでくっから――よっ!」


 そのころにはもうタイガはその場にいない。芝生を蹴って高速のダッシュで一気に距離を詰め、花咲き乱れるブーゲンビリアの木の枝の中に駆け上がる。次の瞬間、すべての花と葉が空中に散った。手甲から伸ばした鉤爪でそれらを一気にすべて切り落とし、そこに潜んでいたリリイの姿をあぶりだす。日傘を開いて鉤爪の攻撃を防いだリリイは素早く傘を閉じて。ブーゲンビリアの花吹雪に身を躍らせる。タイガはそれを追撃する――。


 鬼ごっこというには派手すぎる空中戦をサランは観戦することはかなわなかった。姉貴分の命令に、合点でさ! とイキのいい返事をよこしたビビアナに手を引かれてその場を駆け足で離れていたからである。


 二人が後にしたスペースからはめきめき、ばりばり、どかどか、ばしばし、といった、あまり耳にしたくない激しい音が聞こえてきたがもはや振り返る余裕はない。


「急いで姐さんっ! 早くしねえと次の授業に間に合いやせんぜっ」

「いやでも、あいつらあのままにしておくわけにも――」


 確かに予鈴が鳴り始めたが、あのメジロ姓の二人をそのままにしていいいのかと良心が咎めて足が進まない。中途半端な情を発揮するサランとは違ってビビアナはシビアだった。


「いいんですかいっ、お二人のケンカに姐さんがかかわってるって先生方にバレちまったら今までの合わせ技で矯正キャンプか営倉行ですぜっ」

 

 ビビアナの言うことは最もだった。夏からのふるまい、出撃先の門限破りでサランの素行点はおそらくギリギリな所にまで落ちている。今度なにかしらやらかせばおそらくもう後はない。だというのに、創立者の銅像を破壊するという最悪なやらかし現場に立ち会ってしまったのである。

 

「ケンカに姐さんを巻き込んじゃなんねえっつう姉貴のお計らいだ! あっしもリリイ姉貴をお止めできなかったってェ不首尾もある、責任もって姐さんをお送りさせていただきやすっ」

「わ、悪いな。正直恩に着るよぅっ!」

「礼だなんて野暮はナシだぜ姐さんっ」


 結局、利己心に負けたサランは見た目通りすばしこいビビアナの俊足に引きずられるような形で、次の授業が始まる教室に滑り込んだ。それとほぼ同時に本鈴が鳴る。

 空いた席にぐったりと座り込むサランを、近くの席にいた候補生が不審な目で眺めた。元文芸部副部長でフカガワハーレムのこの子、また妙な事やらかしてる――とその目が如実に語っていたが、サランは気にかけている余裕もない。


 同じ教室の窓際にいるジュリがこっちを振り返り、伊達メガネごしに呆れた視線を向けたことに関してはきまり悪くヒヒっと笑って返した。




 世界の平和をもたらすことを誓い、かつて悲惨な争いの起きた地から創立者が持ち帰りこの地に根付かせた木々を荒らした。

 あまつさえ、太平洋校の候補生たちが慕うべき創立者の銅像を完膚なきまでに破壊した。

 そんな悪行を白昼堂々行った者たちが誰であるのかはたちどころに判明する。かくしてメジロ姓の二人も初等部二年の学年主任に呼び出されてみっちりしごかれたらしい。

 早朝訓練の集合場所に来てみたサランはメジロ姓の二人がそこにいるのに気が付いて、たちどころに覚醒したのは次の日の朝のことになる。




「貴女の毎日は本当に愉しいわね、子ねずみさん」

「――笑いごとじゃないですよう」


 十五夜から三日が過ぎた日の放課後、泰山木マグノリアハイツの書斎で長椅子に座りながらマーハはくすくすと笑った。

 選ばれし乙女たちばかりが集う演劇部周辺ではまず滅多に怒らないサラン周りの騒動が、この浮世離れしたお嬢様には愉快でたまらないらしい。文化祭に向けての劇の稽古にもいよいよ熱が入る。今日は衣装合わせがあったためか、マーハも舞台衣装姿だ。昭和初期のモダンガール風のワンピース姿だから書斎の雰囲気にしっくりなじんでいる。今はまだ豊かな黒髪を背中に垂らしているが、演じる役柄に合わせて近いうちにそれこそモダンガールのように短く切ってしまうらしい。

 この人のことだからどんな髪型にしても似合うはずだがちょっともったいないな、などとサランは考える。


「文芸部の部長さんとの仲はその後、ご良好かしら?」

「それは、まあ――……はい」


 マーハのささやきはいつもなにかしら秘め事の匂いがする。

 だから、婚姻マリッジはしたものの相変わらず『ハーレムリポート』は終わってないからの一点張りでサランとは表向き接触しようとはしない、変なところであいつは頑なで強情だということを文句混じりに伝えるだけでサランは妙にドギマギしてしまう。


「沙唯さんも仰っていたけれど、本当に生真面目な方なのね。部長さんは」

「――まああれで結構俗っぽいところのあるやつなんですけどね。他人の好いた腫れたの話が好きだとか」

「まあ、じゃあきっと子ねずみさんとのお話にも興味をお持ちでしょう?」


 貴女の周りで起きる話は愉快なことばかりですもの、と、マーハは優雅に揶揄う。

 サランは咳払いをしながら『ヴァルハラ通信』のバックナンバーをパラパラめくった。よりにもよって開いたページはジュリがかつて書いた、本人がその経歴から消したがっている私小説だった。ちらっと視界に入ったページで、ジュリの分身である少女は自分の故郷であるはずの町を異邦人の眼差しで見つめながら彷徨っている。


「貴女たちが直接お話できるようになる日はいつなのかしら?」

「それは――あの忌々しいゴシップガールの胸先三寸です」


 四月までは、亜州経済界にそれなりの発言権を持つ大企業の権力に守られている不良娘を活かすも殺すも一平民である自分の胸先三寸だと思っていたのに、今やそんなみじめな境遇である。情けなさにため息をこぼしてしまう。


 マーハの後ろに控えた訓練生の少女がカップに紅茶をそそぐ。紅茶を淹れるのが上手だという評判の訓練生の手による一杯のためか、芳香が書斎に満ちた。数日前の昼休みのドタバタが遠い世界のようだ。

 昭和初期のモダンガール姿でマーハはカップに唇をつける。この部屋だけ時間の流れが違うのではないか、サランはそんな錯覚にとらわれる。


 書斎の外の時間もそうだったらいいのだが。

 

 中秋から三日経っても、国連からは未だなんの音沙汰もない。たかかが養成校の初等部生たちで勝手なことをするんじゃない、というお叱りの声は飛んでこない。

 外の世界ではいまだキタノカタマコはヒロインだ。この子の素の姿が描かれている(なんなら少年と混浴したり水着姿を披露したりあまつさえその水着がアクシデントで外れてしまったりだとか色っぽいシーンがふんだんに登場する)『ハーレムリポート』のことが今までその存在を知らない層にまで周知され始め、今では読めないことになっている電子個人誌ジン版に代わって『ヴァルハラ通信』のバックナンバーを求める声が殺到していると聞く。閉鎖されて以来まともな活動ができない文芸部ではその声に応じることがかなわないため、オークションや地下マーケットでは目の玉が出るようなやり取りがされているとも(小金儲けに関心をもっている卓ゲー研の連中が「姐さんバックナンバー流してくれませんかね?」とろくでもないことを囁くせいでこんなことを知るハメになってしまった)。


 キタノカタマコの立案した作戦に賛同の意を示した各校のワルキューレたちも、世間ではヒロインとして扱われているようだ。特に大西洋校のメンバーに大手民間警備会社の令嬢が目立って取り上げられている。彼女の家の協力を仰げば、この無茶な大作戦の成功率も上がるという専門家もいると聞く。


 作戦は早ければ十月に始まるのに。

 あんな作戦実行されるはずが無い、ニューヨークにいるお姉さま方はそんなに甘い方じゃないと言い切ったツチカはこの期に及んでだんまり中だ。ジュリ曰く長考に入っている状態だ。


 自信満々に言い切りやがった癖に、なんだこの有様は――。


 大嫌いなツチカの想定外の事態が進行中なのに気分が晴れるわけがない。今度ばかりはツチカの言う通りに進んで、それみたことかとばかりに九十九市で勝ち誇られた方がどんなによかったかしれないのに、というくやしさまじりの気持ちばかりが日に日に増してゆく。十月はもう目前だ。


「――実はね、子ねずみさん」


 マーハがカップをソーサーの上に戻した。


「急で申し訳ないけれど、九月の三十日にちょっと大がかりなお茶会を開こうと思うの。お手伝いを頼めないかしら?」

「はい、それはもうもちろん私めにできることならなんでも!」


 いそいそと立ち上がって、サランはすばやくお嬢様付のメイドになりきる。恥ずかしいロールプレイも心の中に不安を抱えている時はありがたいものだ。マーハも満足したようにゆったり微笑む。


「いいお返事で嬉しいわ。では早速なんだけれど――」


 優雅にマーハは左手を振ると、サランのリングの上に白猫コンシェルジュキャラクターが立ち上がり着信が入ったと知らせる。それを突くと、サランの右手に一冊のファイルが現れた。ぱらぱらめくってみるとそこには候補生たちの名前やその他個人情報が記されている。


「招待状のあて名書きをお願いしたいの。構わなくて?」

「はい、それくらいなら全然――」


 拡張現実上に表示されたファイルのメンバーは精々十名未満。マーハと個人的に仲の良い安倉アクラナタリアやRenee-Marcelle Requinレネー・マーセル・ルカン の名前もあってつい苦笑する。主人であるマーハお嬢様の顔をつぶさないようにと精魂こめて美しく名前をしたためても、骨が折れるほどの件数ではない。

 それにしても招待状を用意するなんて、よほどフォーマルなお茶会なのか……と興味をそそられながらリストに目を通していたサランはあるページで目を止めた。


 初等部生徒会長 北ノ方真子様


 そこにはそう、しっかり記されていた。


 こわばった顔でマーハの顔を見つめたサランへ、演劇部の女帝と呼ばれる特級ワルキューレは典雅な微笑みを浮かべた。

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