#33 ゴシップガールと一晩中

 東京タワーをスケールダウンし安易に模した趣の九十九タワー。


 地域住民にとっては見慣れたランドマークにすぎないそれは、いくらライトアップされようが電光掲示板に時刻が表示されようが、だれからも顧みられなくなって久しい。帰宅途中のサラリーマンに夜遊び中の学生、予備校帰りらしい真面目な十代に家に帰るのをただ躊躇う所在ない十代、様々な人々がバスを待ち、広場でたむろする。その場にあるだけの電波塔は空気のようにそこにたたずむ。


 ライトの死角を掻い潜って、サランは跳躍し、鉄骨を駆け上がる。足をぶらぶらさせながら閉ざされた街を見下ろすシモクツチカが座っている場所まで。


 ええ、そう……へえ、最悪だねそいつ。


 電話越しのおしゃべりが聞こえる場所までたどりつくと、わざとらしくサランは鉄骨を音をたてて踏みしめた。ガァン! と、結構な大きさの音と振動を伴ったが、ツチカはサランの方を見ようともせず誰とも知らない相手と会話を続ける。

 サランが同じ高さにまでたどり着いても、作業用の通路を渡って側まで近寄っても、ツチカは華麗に無視をする。


「しぃーもぉーくぅーぅぅぅっ!」


 唸る様に名前をあげても、ガンガンと鉄骨を鳴らして近寄っても、ストラップをぶら下げた年代物の携帯電話を耳にあてておしゃべりをやめる気配はない。あはははっ、と何が楽しいのか明るい笑い声まで上げる。まるで自分の名前を呼ぶ者がいることに全く気づいていないようであるが、そんなわけがないことくらいサランは知っている。シモクツチカはそういうヤツだ。

 ふーっ、と、息を吐きサランは自分をわざとらしく無視をするツチカを見下ろす。


「――お前、サンオ先輩のワンド勝手に持ち出して叱られて半泣きになったんだってな。だっせ」

「……え、なんでもない、ごめん。気にしなくていいから、そばに大きい声で独り言ブツブツ言ってる気持ち悪い人がいるだけだから」


 ――よーしよしよし。

 サランは一回深呼吸をする。これこそシモクツチカ。ヤツはしっかり平常運転の真っ最中だ。


「怖くないかって? 大丈夫大丈夫、遠くから一人でなんか言ってるだけの人とか怖くないし、キモいだけだし」


 電話の向こうの誰かに話しかける最中、ツチカはこっちをちらとも見ようとはしない。前世紀末の地方都市を律義に真似た九十九市を見下ろす。足元をバスが走ってゆく。

 その背中を蹴とばしてやりたい気持ちを堪えて、サランは語りかけた。どうせこっちの話はしっかり耳に入れているのだ、無視するだけで。


「先に礼だけ言っとく。なんだかんだ言ってお前が来てくれたからうちの地元は助かった。お前が来なけりゃもっと酷いことになってた。ありがとうなっ」

「――うわ、きっも」


 電話にむかってツチカは言う。心の底から不愉快そうに。そして、電話の向こうの誰かへ明るい声でフォローするのだ。


「ううん、なんでもない。さっきから言ってるキモい人がこっちに絡みだしてさ、マジうざいんだよね。だから悪いけど一旦切るね~。んじゃねー。ばいばーい」

 

 そう言ってツチカは通話を終わらせるボタンを押した。緩い風になびく髪を手で軽くまとめてから、肩から掛けていたスクールバッグにぶら下げている携帯電話ケースに電話を収納する。

 タワーの上は一気に静かになる。鉄骨に座ったまま、ツチカは無駄に長い脚を組み替えて仁王立ちのサランを気だるげに見上げた。


「――で、何?」

 

 まるで平然と、サランが今日ここに来ることも見越していたように、そこにいるサランのことを受け止める。その態度にサランはぐっと黙る。そこへツチカはぐいぐいと杭を打ち込むように続ける。


「何の用なのミノムシミノ子? こんなとこで寄り道してていいわけ? 宿舎から締め出されてピーピー泣いてるところでも見せてこっち笑わせてくれるわけ?」

「うっせえな、お前一発ぶん殴ったら閉め出される前にさっさと帰るわ!」


 おら立てェ! とサランはツチカを威嚇してみたが当然ツチカはそれに応えるわけがなかった。心底面倒くさそうにサランを見上げてメンソールの煙草を咥えて銀色のライターを取り出し、慣れた仕草で火を点ける。塔の上は風もそれなりにあり、夏服ではそろそろ肌寒い。ツチカのくゆらせた紫煙はあたりにたなびいた。

 嗅ぎなれないタバコの臭いに胸が悪くなりそうになるが、黙ってサランはそれに耐えた。ツチカが嫌がらせでタバコを取り出したのは見え見えだ。


 タバコの先端に灰が溜まってもその場にい続けるサランを横目で見上げて、ツチカは心底鬱陶しそうに呟く。


「……つかさー、早く帰れば? あたしさっきの子と早く電話がしたいんだよね。好きな男がつまんない女と付き合いだして辛いって言ってるからさ、もうちょっと話聞いてあげたいし」

「はぁっ? なんじゃそりゃしょうもねえっ。そんな話わざわざこんなとこでしなきゃなんないものかようぅっ?」

「まーね、ここ電波よく入るから」


 携帯灰皿に灰を落としながら平然とツチカは答え、そして相変わらず淡々とたたみかける。


「あんた相変わらずだね。他人の恋愛を『しょうもない』とか言っちゃうデリカシーのなさ、変化したのは髪が短くなったってことだけ。相変わらずだーれも好きになれない、子供のまんまのミノムシミノ子。そろそろ帰って寝た方がいいんじゃない?」

「――言っとくけどなぁ、ミノムシは蛾にならないだけで別に成虫になってねえわけじゃねえようっ。ミノムシのままで交尾して卵も産むんだ。そういう形で大人になるってだけだっ」


 実は前から言ってやりたかったミノムシミノ子への反論をかますサランを、ツチカはいよいよ鬱陶し気に見上げた。メンソールの煙草を指に挟んでおざなりに応対する。


「へんな生き物トークとかする気ならとっとと帰ってほしいんだけど? あたしもそんな暇じゃないし。さっきの電話の子はもう寝ちゃったかもしれないけど、これから行きたいところもあるしさ」

「うっせえな、じゃあ帰るけどその前に一発殴らせろようっ! お前のやりたい放題が原因で鰐淵は死海のほとりにお住まいの皆さんの疎開任務受け持つことになってんだからな! その上学校じゃあ今まで他人のプライバシーをおもちゃにしてきたんだからああなって当然だ、当たり前だっつって今針の筵だっ! そんなにしておいた上に平気で機密漏らして立場を悪くするような真似しやがって……っ! 何考えてんだよお前は⁉」 

 

 ツチカは答えない。

 火の点いた細いタバコを再び咥えただけだ。

 サランの方を見ることもなく、両脚を組み替えて前に伸ばし、再びそろえておろす。

 

 なんとか言え! と今にも怒鳴りたい気持ちを押えて、サランはツチカの反応を待つ。タバコを咥えるというのはツチカの「お前とは口をききたくない、口をきかない、お前は自分と口をきく価値すらない」という意志表示だ。

 それが分かったから、サランもその場に腰を下ろした。鉄骨の上に胡坐をかく。

 どうしたってコイツを一発殴る、せめて今回の一件に関する詫びを一言でも吐かせる。頭の中がそれ一色になっていた。宿舎の門限のことは頭の片隅にないでもないが、それよりも今はツチカである。


 鉄骨の上で、サランはツチカが口からタバコを放すのを待つ。じっと息をつめて待つ。


 シャギーの髪が横顔を隠し、じりじりと燃えてゆく煙草の火口だけが見える。煙草の先に灰がたまってもしばらくそのままにする。

 不意に足元が真っ暗になった。ライトアップ用の灯りが消えたのだ。下を見下ろすと、バスを待つ人々の数も大分少なくなっている。


「――日付が変わったね」


 根負けしたのはツチカの方だった。はーっと煙を吐き出しながら、携帯用灰皿に今にも落ちそうな灰を落とした。


「馬鹿じゃない? あんたもう宿舎に入れないよ? 減点間違いなしだね、反省文とかで済めばいいけどー」

「うるせえっ。そんなことは今どうでもいいってわけではないけど、お前のことを一発どついて、『自分のせいで鰐淵を危険な目に遭わせてしまいました。文化部棟のみんなに大迷惑かけました。反省します』って土下座させんのがうちの中で最優先事項なんだからしかたねえだろっ!」


 胡坐から立ち上がりサランはツチカとの距離をつめると、その襟首に手をのばす。Vネックのニットから覗く、第一ボタンを閉じていないシャツの胸元を掴んで引っ張り立たせる。そのまま右拳を振りかぶった、が。

 シモクツチカは取り乱しもせず、唇から放した煙草の火口をためらうこともせず自分の襟首をつかんだサランの左手の甲へ近づける。指すような痛みが肌の表面に触れ、とっさにサランはそこから手を放した。振りかぶった右拳は宙をからぶる。


 ――え、あれ?


 ぐらり、と視界が大きく傾いだ瞬間にようやくサランは、ビルの六から七階分に相当する高さの鉄骨の上でバランスを大きく崩したことに気が付いた。悲鳴をあげるより先にサランはとっさにからぶった右手を伸ばして目の前を通過したばかりの鉄骨を死に物狂いで掴んだ。右手、右の指、右腕と右肩に全体重がぐんっとかかる。

 チリチリと軽いやけどで痛む左手も伸ばし、必死で鉄骨にしがみついた。そのまま懸垂の要領で体を引き上げる。

 死に物狂いなサランの一部始終を、再び煙草を咥えたツチカがニヤニヤと見下ろした。


「よかった~、あんた反射速度上がってんじゃん。お陰で根性焼きとかだっさいことしないで済んだわ」


 そんな風に人を見下しおちょくるが、なんとか鉄骨に足をかけて落下を免れたサランに手を伸ばそうとはしない。体を形良くきれいに曲げて、歯を食いしばって必死に体を支えるサランに顔を近づけた。

 ふーっとメンソールタバコの煙をおもいきりふきかけ、そして静かに言い捨てた。


「――ねえ、珠里ジュリが嫌だって言った? あんたに助けてって言った? そうじゃないよね? あの子は自分のやるべきことがどういうことかわかってるもん。だのに何あんた勝手に怒ってんの? 珠里のこと可哀想な子扱いして何キレてんの? バカなの? ちょっとは頭使って欲しいんだけど~、ねえ、鮫島砂蘭~?」

 

 最初は淡々としていた声が徐々に苛立ちが加わってゆく。

 煙を吹きかけられてゲホゲホせき込みながら、サランはなんとか体を持ち上げて鉄骨の上になんとか体を持ち上げた。とりあえず命が助かった安堵と煙を吹きかけられた怒り、シモクツチカにフルネームで名前を呼ばれた衝撃と混乱、それになにより自分の方がジュリのことをよくわかっていると言わんばかりな口調による動揺を鎮めるために数回深呼吸をした。

 その間にツチカは短くなった煙草を鉄骨の上で踏みにじり、吸い殻を携帯灰皿意に仕舞う。


「珠里があたしと何年一緒にいたと思ってんの? 分かってるから、自分が疎開任務への出撃命令が出たのは北ノ方さんがあたしをリングの上に引っ張り上げるためだってこと、あの子はちゃんと分かってるんだから。北ノ方さんが本気で人類を護る為に骨を折るつもりなんてサラサラないってこともね、当然!」


 キタノカタマコのことに触れる時、ツチカの声には苛立ちが混じる。

 サランはツチカがジュリのことを「あの子」と呼ぶ度にいら立ちを感じる。何をどう言おうが、ツチカがジュリに各種迷惑をかけ続けているのは客観的事実だ。

 はー……っ、と息を吐き尽くしてからサランはなんとか立ち上がる。さっきバランスを崩したショックで情けないことに膝がガクガクしていたがそれでもツチカに詰めよる。


「だからなんで! なんでお前らのケンカに鰐淵を、つか鰐淵以外にも文化部棟も、全世界の人もあったり前に巻き込んでんだようっ⁉ お前ら同士が仲が悪いならお前ら同士で殴りあいでもしろよう! 他人をまきこむんじゃねえようっ!」

「そういうことは直接北ノ方さんに言ってくれる? あの人が先にガンガン他人を巻き込んでくるんじゃん? だってそうでしょ? パジャマパーティーの時にあの人が進んで提案したんでしょ~? 初等部だけで戦闘区域の住人の疎開を受けもとうとかバカみたいなこと言い出したの? ――ほーんといい迷惑だよね~、あちらにお住まいの皆さんが」


 緩い風にあおられる髪をツチカは片手でまとめた。風にふかれてもツチカは鉄骨の上でも地上と同じように安定してその場に立っている。


「あんた六月に北ノ方さんに食って掛かって揚げ足取って、挙句の果てに目ェつけられたんだって?」

「……なんでそのこと……」

「別に。珠里から聞いただけ。――で、あんたあの人に関してどう思った? 真面目にまっすぐ人類を救いそうな女の子に見えた? 地球と人類を愛してそうな子に見えた? ワルキューレの諸先輩方を尊敬してワルキューレであることに誇りをもってそうなタイプに見えた?」


 体を腰のあたりでこちらに向けて、ツチカは畳みかけた。やたら力の強い大きな目に嘲り色を浮かべながらツチカはサランを問い詰める。迫られおもわず後ずさりをしそうになりながら、サランはなんとか耐えてツチカに向き合った。ぶすっとしたまま、情けない一言を返す。


「――見えなかった。つうか、怖かった」

「はい正解そういうことー。――学校の新聞読んでさ、あの人が心にもないことペラペラしゃべってるのが笑えたから、じゃあこれ全部本当のことにしてやろうじゃん? ってなって。で、ああやってバラしてやったの。全然やる気のないこと喋ってんじゃねえよって意味で」


 ふふん、とツチカは人をコバカにする時特有の笑みを浮かべる。コバカにされているのは目の前にいるサランなのか、今ここにいないキタノカタマコなのか一瞬分からなくなる。


「あの人の謝罪スピーチ、見たけどさ。ウケるよねー。涙まで浮かべて心にもないことペラペラしゃべってさ。しかもそれみた一般人の皆さんがほだされて真子ちゃん支持に回るし。全体が悪趣味なコメディーみたいで笑い死ぬかと思った。普段その女の子の犠牲でのうのうと生きてる癖に、女の子がちょっと泣いて見せたら可哀そう可哀そうって大騒ぎして。ほんと、この世界ってチョロすぎー。死ぬほど笑える」


 その様子を思い出しでもしたのかツチカはクックッと喉を鳴らして笑った。

 

 サランはその顔を睨みつけながら、果たしてツチカは一体どこでキタノカタマコの伝説的なスピーチ動画を目撃したのだろうと考える。この九十九市でないことは明白だ。九十九市にある骨董品のような端末で拡張現実にはアクセスできない。それに死海のほとりに大型甲種の軍団が現れるということ事態、この街の人々は知らない筈だ。侵略者の概念すら知らない人がばかりがいるのだから。

 

 それと同時に、ツチカの悪意にまみれた言葉も整理する。

 各校初等部生徒会メンバーによるサミットの話し合いの結果、ツチカの話を総合すれば元々は学園を去って拡張現実の外に潜伏したツチカを自分の前に引っ張り出したいがための口実。表向きは親友で、その実は侍女だったジュリを危険な任務に就かせれば嫌でもツチカは姿を見せると考えた。

 そのようにコマを進めたキタノカタマコに相対するツチカが打った手は、『ハーレムリポート』内でまだ一般人に向けて公開するには早すぎる情報を漏洩するという所だった。そのせいで太平洋校には激震が起き、責任をとってキタノカタマコは謝罪スピーチを行った。

 あの気位の高そうな生徒会長を人前に引きずり出して謝罪をさせた。


 ――サランはツチカが語った内容を整理する。当のツチカは携帯灰皿をスクールバッグのポケットに入れるとバッグを肩にかけ直す。まるで帰り支度でもするように。


「世界のキタノカタの総裁令嬢でいくら前途有望な特級ワルキューレとか言ったって、所詮初等部のペーペーじゃん。そんなガキに好き勝手された挙句おとなしく言いなりになるほどニューヨークにいらっしゃる元帥クラスのお姉さま方は甘い人たちじゃないよ。ましてや自分たちすっとばしてガキだけで妙な事なこと企てただけでも腹立つのに、この規模の大騒動をおこしたんだから心象は最悪。近いうちにガキは引っ込んでろって声明をお出しになってこの一件は収束、それでお終い。珠里は強制疎開を命じられた皆さんのストレス解消のはけ口になることもない。学園長みたく慌ても騒ぎもしなければ、普通におさまる炎上だっつの。――はーいこれであんたの頭使う手間省けたんじゃない~? あたしって親切~。じゃあねミノムシミノ子~」


 ツチカは淡々とそう説明しながらひらひらと手を振った。

 しかしサランはまだ収まらない。

 六月の騒動でジュリとメジロ姓二人の前に連座させられた際にみせたキタノカタマコの態度を思い出す。華軍の師団長から「お嬢ちゃん」呼ばわりされたことの嫌悪と屈辱を滲ませた、あの態度が蘇る。呆れるほどに気位が高いとツチカは十分しっていただろうに、ツチカはあの生徒会長をコバカにしてみせた。

 よって、現在のキタノカタマコの胸中にはおそらく相当の怒りが渦巻いていると考えるのが筋だ。そしてその怒りの矛先が誰にむかうのかも。

 ツチカの予測通り、国連所属のワルキューレ達が養成校のひよっこたちを却って足手まといだと取りやめさせる線もありえなくはない。しかし上層部が本格的に動き出すまでジュリは一人でキタノカタマコの敵意に晒される。それは一体何日続くかわからない。上層部が動くより先にキタノカタマコが動く線だってある。大体今のキタノカタマコは世界に無数のファンを持つ時の人でスーパーヒロインだ。

 という思いから、必死にツチカを呼び止める。


「待て、撞木――話はまだ……っ!」


 駆け寄ったサランを嘲るように、ツチカは体を前傾させた。街を見下ろしたままゆっくりまっすぐ体を倒す。シャギーの茶髪がふわりと宙に踊る。一秒も経たずにツチカの体は宙を舞う。

 飛び込み選手のようにくるりと体をひねりながら、ツチカは地上へ向けて落下する。それを目の当たりにしたサランは一瞬肝を冷やした後に慌てて後を追った。サランはツチカのように華々しいマネはできない。一段ずつ鉄骨の適当なポイントに向けてたん、たん、と確実に飛び降りてゆく。


 そのころにはツチカは猫のように身軽に芝生の上に舞い降りていた。ビルの六から七階分の高さから降下したのにダメージは一つも負った様子もなくすたすたと平然と歩き去ってゆく。

 こういう単純の身のこなし一つとっても、並みのワルキューレではないのだ。つくづく格の違いを見せつけられながら、サランは最後の段を飛び降りる。たかだか数メートルの位置から飛び降りるのですら、脚がびいんと痺れた。


「待てってば、撞木! 話はまだ終わってないし!」

「はー? 知らないしそんなことー」


 ツチカは歩きながら一度振り向いた。その後をしびれる脚で追いかけながら、サランは声を投げつける。


「慌ても騒ぎもするなって、勝手なこと言うな! 文化部棟は閉鎖されてみんな迷惑してるし、あんなゴシップ分で荒稼ぎした報いだとかなんとか鰐淵は孤立無援で陰口叩かれ放題なんだぞ! 上層部が動くまでお前鰐淵に一人で我慢しろっていうのかよう──っ」

「陰口もなにも実際その通りでしょー? あんたたちゴシップガールのお陰でずいぶん儲けたのは事実じゃん」

「でも、もともとはお前のなんかよくわからない企みから始まってるんだろうが! それに鰐淵を巻き込んで面倒かけたのだって事実だろっ⁉」


 眉間にしわを寄せて睨んでから、ツチカは前を向いて歩きだす。颯爽とした足さばきの大股で。できるだけ早くサランとの距離を取りたそうなその足取りとその後ろ姿に、根っから短気なサランの頭が燃えあがる。


「逃げるな! 撞木槌華ぁ!」

 

 バスターミナル前の舗道にはまばらではあるがまだ人の気配はある。酒に酔った風な学生がぎょっとした目でサランを見つめたが構っていられない。一度名前を呼んでしまうと、口から今までの想いが火を吐くようにあふれ出る。


「そりゃあお前はいいよなぁ! 学校でなにがあろうが鰐淵がどんなに苦労しようがどんな目に遭おうが、お前は一人だけ安全圏にいるんだから! 神様気取りでうちらを好き放題に扱って妙なゴシップまき散らして勝手にストーリー作って、全世界の人間巻き込みながらほらどうだこの学校じゃこんなバカみたいなことが起きてんだぞって拡散してりゃいいだけの気楽な立場なんだから。――結構なもんだよなぁ、元天才美少女作家様はぁ――っ」


 ローファーを履いたツチカの足がぴたりと止まる。

 よし! と、サランの中のとにかく舐められるのを嫌う好戦的な気質が、その後ろ姿をみて号令を出す。それは二年前、部室でツチカを初めて言い負かした時と同じ感覚だった。

 サランの言葉を無視できなかったということは、ツチカがリングに上がったという合図だ。手応えからしてこの忌々しい不良お嬢様の柔らかい所を突いたことは明白だ。ならばこのまま――刺してやる!

 夏からこっち派手に迷惑をかけられた分の反撃をしてやる、と、頭に血の上ったサランの中はそれ一色に染まる。


「お前の頭の中にはさぞかし大層な図とストーリーがあってその上で、ゴシップガールなんて訳の分かんねえことやってんだろうけどなあ、やるんなら全部自分ひとりでやれよう! 鰐淵が協力しなきゃ成り立たないような杜撰なプロジェクトの組んでるくせに人間関係好き放題できる神様気取りでイキりやがって! 下請けに丸投げして手柄は全んぶ丸どりするやりたい放題のクライアントか、お前は! くそだっせえ!」


 振り向くよりさきにツチカは、スクールバッグを投げてくる。弾丸のようなそれをサランは躱す。二年前のバスケットボールと二の轍は踏まないのだ。

 しかしその目の前にはツチカの体が迫っていて、サランの襟首をひっつかんだあと右拳で遠慮なく顔面を殴った。この街では無用の長物であるリングを薬指に嵌めたままの右手で。

 

 ――あ、なんか口の中が切れたな、血の味がする。

 

 明後日な感想は後回しにして、舗道の上で辛うじて踏みとどまりツチカの制服の襟首をつかみ返して、思い切り頭をそらして勢いよく頭を前に振る。額のあたりにガツっとクリティカルな反応を得てから口内のダメージに気づいた。鉄さび臭い血まみれの唾液をぺっと吐き出す。道端につばを吐くなんて初めてだ、まさか自分がそういう人間になるとは――という感想も、目の前のツチカが体を屈めて鼻と口元を手のひらで覆い隠しながらも、闘争心でギラギラ輝かせた瞳でサランを睨みつけている時に浮かび上がった。

 顔面の下半分を覆っていた右手をツチカは拭う。その指先が赤く染まり、口元に赤い線で汚れた。サランの頭突きがヒットして鼻血が出たらしい。

 

 ――ざまあ、と嗤う余裕はサランにはなかった。


 シモクツチカは矯正キャンプ行きをすっ飛ばし問答無用の退学処分を食らった不良ワルキューレではあるが、特級相当の能力を有する女である。対してサランは頭突きと減らず口だけが得意な、意識も戦力もレアリティも低いワルキューレだ。

 接近戦、格闘戦になれば負けは確定、ハナから勝てるわけがない。


 かくしてサランはツチカに殴られ蹴られて地べたに転がされる。速攻、的確、ぐうの音も出ない圧倒的暴力で数分間ボコボコにされたサランは、舗道に頬を擦りつけたまま立ち去るツチカのローファーを見送る。どちらかの血がかかったのか、ルーズソックスに赤い雫が飛び散っていた。


 足音を響かせてツチカは立ち去る。


 その気配を察しながらサランは目を閉じた。

 とりあえず言いたいことの半分は言えた。あいつをリングに引っ張り上げるという、キタノカタマコですら出来なかったことを成し遂げられた。体のあちこちが痛いが、夏休み中にトヨタマタツミに峰打ち食らわされた時ほどでもない。


 動けそうになってから道端の隅にでも移動して、それから先のことでも考えよう。そう段取りして目を閉じる。

 


「……?」



 しばらく意識が途切れていた後、ざっざっ……と舗道の上を歩く足音が近づく気配を感じる。

 誰だろう。九十九市の一般市民だろうか、それとも警官か。正体を隠してこの街に潜入している軍関係者か、サンオミユ以外のワルキューレか。そういえば酔っ払いらしきおじさんに喧嘩を目撃されていた。

 そろそろ動いた方がいいな、と、ゆっくり体を起こし、激痛に体をしかめた瞬間にサランは目を見開く。


「――」


 目の前にいたのはツチカだった。


 思いっきり不機嫌そうな、不愉快でたまらないという表情で肩幅に足を開いてサランを見下している。なんで戻ってきたのかといぶかしむすきにツチカはしゃがみ、右手でサランの頭を掴んだ。ボールでも掴むようにぐっと指先に力を籠める。

 苦痛に顔を歪めて睨むサランの目の前で、仏頂面のツチカの表情は変わらないまま髪がふわりとなびいた。

 明るい茶髪の根元から髪の色が変化する。輝くような白銀に。

 随分奇妙な現象だが、ツチカ本人の表情はつまらなくてつまらなくてどうしようもないと言わんばかりな仏頂面だ。


「――……」


 こめかみに指をつきたてられたまま、サランはツチカの髪の変化に見入った。そういえば自分の地元を助けに現れた時、サランのワンドを使った時も髪の色はこうして変化したのだ――。

 つくづく規格外な奴め、という気持ちでサランはツチカを睨み続けたのは数十秒で、不意にツチカは頭を掴んでいた手を乱暴に離した。その瞬間、髪の色は元通り明るい茶髪に戻った。

 ふん、とツチカは鼻を鳴らして立ち上がった。その時にサランの腕を強引に掴んだから強制的に立ち上がらされる。

 

「……なんだお前……? 妙な手品見せやがって……」

「まーね、実際あんたなんかに勿体ない手品だったわ」


 相変わらずの憎たらしいことを吐き散らしながら、ツチカはサランを引きずって歩く。怪我人を引きずってるくせに遠慮なくのしのしズカズカと乱暴な足取りで舗道を歩く。ちょっとはこっちを気遣え、遠慮しろと言いたくなってからようやく、体のあちこちの痛みが消えていることに気づいた。

 口腔内の傷も、あちこちの打ち身に打撲の鈍痛も、擦過傷のヒリヒリする痛さも消えている。指輪をはめた手で殴られたせいでズキズキ痛かった顔面の痛みですら跡形もない。


 ツチカに引っ張られていない方の手でペタペタ顔に触れながら、大小さまざまな一切の怪我が消えていることを確かめて、サランは一つの結論に思い至った。


「――回復術?」


 こめかみに指を突き立てて、仏頂面で見下ろしながら何をしていたのかと思えばツチカはずいぶん親切なマネをしていたらしい。その状況が読めないサランの腕を、ツチカは折れよとばかりにギュウっと力を込めて握りしめた。正解、且つ、徹底的に痛めつけたサランを動かせる状態にまで治したことが不本意であったとその態度で語る。


「どっかの誰かに見つかって、ズッタボロの芋臭い女子が死んだみたいにブっ倒れています~って通報されて、よくよく調べたら外から来たワルキューレでした~……とかなったら超めんどいし。ったくバッカじゃない? なんで勝てるわけないくせしてこっちに喧嘩売ってくんの? あんたのそういうとこマジでキモイ」

「うっせえな。勝手にボコにした上に勝手に治して文句言うなよなあ!」


 体を治した礼を言えとも、ましてボコスコぶんなぐって悪かったともツチカは口にするはずが無かった。

 サランもありがとうなどと死んでも口にしたくなかった。大体、ブチギレて殴ってきたのはツチカが先である。様々なやらかしもツチカが先である。

 謝るのも礼を言うのもしっくりこない、気持ち悪い。まさにキモイ。


 二人の間に微妙な空気が流れ、お互い先に口を開いた方が負けだという雰囲気が流れあう。バスターミナルのロータリーを離れ、ツチカはまだ明るい繁華街へとサランを引きずるようにして連れてゆく。

 どこへいくつもりだとも、どうして回復術なんて特殊な技を持っているのかとも、なぜ髪の色が変わるのかとも、ツチカへは訊きたいことは山のように生じたけれど、その雰囲気のせいでサランは口にできなかった。

 安居酒屋や大人の社交場のネオンのけばけばしく、酔っ払いの嬌声でやかましい繁華街を勝手知ったる足取りで歩きながら、ツチカは古いビルの中に入る。


 ロビーのすみに設置された、座面を合皮でカバーしたスチールの古い椅子に放り捨てるようにサランを座らせると、ガラス窓の嵌ったカウンターに近づき何かを告げた。

 ぼんやりしながら当たりを見回す。ロビーにはわんわんと何かの音が響いている。視線を彷徨わせると、あちこちに映画のポスターが貼ってあるのが見えた。どれもこれも前世紀末のタイトルだ。

 古びた空調の匂いや、さすが前世紀末期を再現した都市だと褒めたたえたくなるようなアンモニア臭いトイレの匂い。暗がりにぼうっと輝く自販機の灯をみながら、ああ、とサランは納得した。ここは映画館か。それもかなり古いタイプの。

 今世紀前半には姿を消すタイプの。


 このビルそのものはいつ竣工されたのかなと、レトロなデザインの照明を見上げていると誰かがサランの目の前に立った。いうまでもなくツチカで、肩からバッグをかけたままぶすくれた表情でなにごとか告げる。


「――今ここでやってるオールナイト上映の特集、あたしすっごい楽しみにしてたんだよね?」

「ふん?」

「高校生含む十八歳以下は本来いまこの時間にいちゃいけないんだけど、交渉に交渉を重ねて入れてもらう約束をとりつけたんだよねっ?」

「それで?」

「だっていうのに、あんたのせいで、最初の数十分、見逃したんだけど?」

「だから?」

「だからじゃないし!」


 細く整えた眉を吊り上げて、ツチカはそれだけがなると、ロビーの奥にある分厚いドアの方へと歩いて行った。最初の数十分見逃しても楽しみにしていた映画はなにがあっても見たいということのようだ。サランにありがとうとごめんなさいを言わせるひと手間より自分の見たい映画を優先したいのだろう。勝手にするがいい。

 一瞬、わあん、とロビーに映画の音があふれてすぐに静まった。いくら古いタイプの映画館だといっても上映中に堂堂と入ってもいいものなのだろうか。そんな疑問を感じながら、何気なく本日の特集をしらせるフライヤーを見やる。九十九市内なら最先端であるはずの、香港出身映画監督作品の上映大会をしているらしい。サランも名前だけ知ってる監督だった。

 ――ああ、シモクのやつが如何にも好きそうだな、と考えながら、サランはロビーの椅子に横になる。

 

 その瞬間を狙いすましたように、ガラス窓のはまったチケット売り場の扉が開いてスタッフらしい青年が中から出てきた。

 ぱさぱさの金髪に反して眉は黒々した二十代半ばくらいの青年がこっちに近づくのに気付いて慌てて起き上がる。

 やべ、ウェーイとか言う系の人かなこのお兄さん……と、緊張するサランの目の前で映画館の従業員らしい青年はぼそぼそとサランに尋ねる。


「――ツッさんの友達?」

「や、友達じゃないです」


 シモクツチカが、なんだかぬぼっとした青年からツッさん呼ばわりされていることを気に掛けるより友人疑惑を否定する方がサランには重要だった。険を多大に含んだ言い方になったが、青年は気にしなかった。悪いけどそこで寝ちゃいけないことになってるから、とサランに告げる。

 そうなら仕方がないと座りなおした隣に、青年は座った。距離が近いので拳一つ分ほど距離を話したが、ぼんやりしたふうな彼は特に気も留めなかった。ウェーイとか言うタイプではないようだな、とサランは少し安心する。


「せっかくだから、観てったら? 映画」

「そうできたらいいんだけど、今、金持ってないんです」

「ふーん……じゃあ俺オゴるわ」


 ぼんやりした金髪の青年はぼんやりした口調でいともあっさりとそう告げる。

 そんな申し訳ない――と、とっさに辞退しようとしたサランを青年は引き止める。


「いいっていいって。遠慮しなくって。星に帰ったら、地球には映画って文化があることを伝えてくれたらそれでいいから」

「――、はい?」

「だって君、ツッさんの友達なんでしょ?」

「いやだから違いますから!」

「まあ友達じゃないにしても、ツッさんと同じ星からきたとかそういう仲間っぽい人なわけでしょ? 宇宙からきたエージェント的な?」


 ――うわぁ……。

 なんとも言えない感情を載せて、サランは青年を見つめたが、彼はびくともしなかった。偶蹄目の獣のような静かな表情で、サランを見つめている。


「宇宙じゃなきゃ異次元とか未来人とか、そういう人じゃないの? それともあれ? セーラーなんとかみたいなあっち系?」

「ええと……」


 宇宙人は突拍子がなさすぎるにしても、青年が言ってることは概ね正解しているのだ。サランもツチカも終わらない前世紀末に閉ざされた九十九市民にしてみればエージェントだし未来人だ。

 どうしてツチカに対してそういう見解を持つようになったのか、と目つきで尋ねてみれば、青年はぬぼっとした表情で答えた。


「――ツッさんさぁ、俺がなんか妙なバケモンに襲われてる時に助けてくれたんだよねー。こう、プレデター的ななんかに食われかけそうになった時にバチコーンって蹴り飛ばしてブッ倒したんだよ」


 話を聞きながらサランは肝を冷やして顔をひきつらせた。九十九市内の一般市民の目の前で侵略者退治をするのはご法度である。やむを得ずそういう事態になれば目撃者の記憶の改ざん処置は必須だ。だのに青年にはそれを施された形式がない。

 いくら大平洋校からは退学になった身の上とはいえフリーダムにふるまうツチカの行動への推測をサランは披露した。


「――よもやまさか、あのバカ。あんたを助けた見返りにここで映画見放題にしろとかいってませんかね?」

「あー、よくわかったね。そういうこと、やっぱ仲間だからよく知ってんの?」


 正解したところで何一つうれしくはない。それどころか、あいつは一体なにやってるんだと激しく呆れる。唯一の救いはこのぼんやりした青年が、なにもかも怪しいツチカの存在をすなおに丸ごと受け入れていることだった。


「金のことはいいんだって。ツッさんみたいなエージェントにこの星には映画ってものがあるってわかってもらえれば俺は十分だから。もし俺らの知らないところで、宇宙人の偉い人どうしが会議して、よーし地球滅ぼしちまおうぜってなった時に、いやいやあの星には映画があるからダメってなってくれるのが目的だから」

「――」

「ちょっと前からやってる宇宙人の漫画、知ってる? それにさ、地球壊したら野球が見られなくなるつって大人しくしてる凶暴な宇宙人が出てくるんだよね」

「――……」

「野球が好きだから地球を壊すのやめようって宇宙人がいるなら、映画が好きだから地球壊すのやめようって宇宙人がいてもいいと思う。うん」


 いやそれ漫画の話だし、漫画と現実をごっちゃにしないで欲しいし……と、ツッコみたくなったがサランは耐えた。この九十九市の現状は一般住民の彼にとってはずいぶん漫画じみたものだ。サランがだまっているのをいいことに、青年は何かに納得して大きく頷く。


「そういうわけで俺、地球の平和に貢献してるから。で、今もしようとしてるから」


 大真面目なのか、それともからかってるのか、なんとも判別つけがたい雰囲気で青年はサランを見る。要は中に入って映画というすばらしき地球の文化を堪能して、母星へ報告しろと言いたいらしい。


「地球が平和になったらさ、この街も普通に戻んでしょ? 違う?」


 偶蹄目のような穢れのない目で、青年はサランに尋ねた。下手なことをいうわけにはいかず、黙るサランへ青年は重ねて尋ねる。


「だってこの街、変じゃん? プレデターみたいなもんがいるところからしてまず普通じゃねえし。バスはぐるぐるしてっけど市の外には出られねえし。線路は通ってるけど電車は停まんねえし。――俺、東京の映画の専門ガッコに行ってたし、行ってたはずなんだけど、なんかこう……記憶がぼやーっとしててさぁ……」

 

 前世紀末の夢を見る眠り姫の強烈な暗示の中にいる、九十九市民の貴重な意見に耳を傾けながらサランは背中に冷や汗を滴らせる。この青年の特異な気性のせいで九十九市の不自然さは封じ込められているが、街の不自然さをうっすらと気づかれている。これはなかなか危険な状態ではないか。

 ともかく営業用の、モンゴロイド名子役風笑顔を浮かべた。

 なんにせよ、この街は特殊な事情があって外から隔絶されていると感づかれるのはまずい。宇宙人だの怪物だのが現れる、ちょっぴり不思議なことがおこりやすい前世紀末の奇妙な地方都市だと思わせるのが得策だ。

 CMで商品名を口にする名子役のような完璧な笑顔を浮かべたのち、サランははきはきと告げた。


「なるほど地球人の青年よ。君の言いたいことは理解した。私はエージェント・シモクの勧めに従って映画なる地球の娯楽でもあり芸術であるとう興味深い文化の視察に訪れた銀河評議員だ。この街は地球など滅ぼしてしまえと主張する敵対派閥の連中の手によってさまざまな工作員が送り込まれる危険地帯と化しているが、それらの手先から君たち地球人を守るために彼女が派遣されている。彼女は性格と素行に難はあるが実力あるエージェントであることは私が保障しよう。そしておそらく、君が感じる幻惑感は敵派閥の工作員がしかける精神攻撃だろう。本来地球人には感得しえない微妙な波長を受け取ってしまうとは、見た目とは異なり君はずいぶん繊細な感覚を有するようだ。――ともあれ、もう安心していい。君の日常生活はエージェント・シモクが守ってくれるだろう」


 我ながらなんというアホな嘘八百を――と、呆れたくなるのを子役顔の営業スマイルで必死に封じ込め、サランは立ち上がった。おお~……、と低いうなり声を出してしみじみと感動している風な青年が見ていられなくて、数分前にツチカが姿を消した扉へと進んでゆく。


「さてと、私も映画とやらを堪能するかな? 君の勧めに従って」

「ああ、どうぞどうぞ。楽しんでってください? ――けどさ、評議員さん。あんたツッさんにちょっとなめられ気味じゃないすか? 大丈夫?」


 大きなお世話だようっ! と言い返したくなるのをこらえてそっと扉を開けた。中のスクリーンでは俳優がパイナップルの缶詰を食べまくっていた。どういうストーリーなんだか。

 ツチカらしい明るい茶髪の頭とはうんとかけ離れた席に座って、実際の前世紀末の香港で繰り広げられた雰囲気で押しまくる男女二組のラブストーリーを眺める。



 ベリーショートがよく似合う美女が出てきたあたりからサランには映画に関する記憶がほぼなく、それでもレム睡眠の頭には広東語でうたわれる澄んだ声のすんだメロディーによるテーマソングが染み渡り、その後数日頭の中で鳴り響いていた。


 当然、宿舎の門限を無視しまくった朝帰りにはペナルティが課せられる。

 チームリーダーにみっちり叱られ、帰島後には学年主任に呼び出しをくらう羽目になった。なにもかも身から出た錆であるので受け入れるしかない。


「六月末の九十九市出撃から、素行の乱れが目立ちますね。サメジマさん」

「――面目ないです」


 髪をアップにまとめこのご時世にわざわざ眼鏡をかけ、教職員用の制服を折り目正しくきっちり着こなした、まるで昔の家庭小説に出てくる家庭教師ガヴァネスを具現化したような学年主任教師の名前は、クラカケマリという。


 学園長であるミツクリナギサと同じ、かつて全世界の少女たちの憧憬を集めに集めた第一世代のワルキューレの一人だが、その夢と憧れを一番激しく裏切った存在としても有名だ。

 現役時代のクラカケマリは、新体操の強化選手としての一面を持ち、アスリートらしい元気で明るい言動と敏捷且つ華麗なアクションで侵略者を翻弄したワルキューレだった。一人称なんか「ボク」で、ユニセックスな雰囲気が魅力的だったのだ。その元気いっぱいなキャラクターは、顔はそっくりなのに天才的頭脳をほこる参謀キャラでマリとはまるで性格の違う双子の姉妹だったクラカケセンリともいいコントラストを描いていたものだ。

 ボクっ子でぴちぴち跳ね回るゴム毬みたいだった女の子が、なぜ大人になったら生徒をびしびしと指導する厳しい眼鏡の家庭教師ガヴァネスに成長するのだ? マリではなくセンリがこのように成長するなら理解もできるけれど――、と、ボーイッシュで活発な女の子だったかつてのマリのファンだった少女たちをがっかりさせるのである。いやあ新体操で培った肉体美はあの制服をもっても隠し切れんでござるな、むしろ禁欲的な装いであればあるほど十代では到底醸し出されぬ大人の艶香を引き立てるでござる……といった聞かされる方が耳を塞ぎたくなる印象を語る候補生もいるにはいたがごく少数である。少なくともサランが知るだけでは一人しかいない。


 クラカケマリはただただ反省するしかないサランの前でため息をついた。


「――この学校はね、学科だけがんばればいいというものじゃないのよ?」

「ええ、それはもう。承知しております」

「一応、高等部への進学は希望しているのよね? でもあなた、このままいくと一等兵相応の階級で進学することになるわよ? そうなってつらい思いするのはあなたよ」


 学年主任であればこその苦言をすべて受け入れ、サランは頭を下げまくった。

 それが幸いしたというよりも、帰省中にサランの地元を襲った侵略者に遭遇した際の働きが考慮され、サランのペナルティーはこれから一か月ほかの成績不良メンバーとともに早朝のトレーニングに強制参加することに決まった。レベルを下げられなかっただけでも随分ましな処分である。

 

 処分をくらった次の日から、太陽が水平線の向こうから姿を現す時間にグランドだのビーチだのに集まり、もともと体育会系だったクラカケマリの号令に合わせて走りこんだり格闘、戦闘の基礎を体に叩き込まれる。

 亜熱帯の日の出の色は、あの日のサラン初の朝帰りの色はまるで違う。それでも醒めきらない頭は、あの映画のテーマソングを脳内にわんわんと響かせた。



 九十九市の古い映画館でオールナイト上映が終わり、ビー玉の中を覗き込んだような色彩の街を腕を引かれて連れてこられたのが繁華街の片隅にある二十四時間経営の喫茶店だ。ステンドグラスを模した硝子扉を開いたとたんにうわっと押し寄せるタバコの匂い。店の中に多いのはテーブルに伏して眠っている社会人や学生たちだ。

 前世紀末を再現した九十九市で、前世紀末でも数少なくなりつつある古いタイプの喫茶店の狭い階段をのぼり二階奥にある座席まで慣れた足取りでツチカは進み、ビロード張りの椅子の上に座る。なれたしぐさでウェイターにブレンドを頼んだあと勝手に一品注文した。


「あとチョコレートパフェ一つ」

「――うわ、お前こんな時間からよく食えるなそんなもん」

「何言ってんの? あたしがそんなもん食べるわけないじゃん。あんたの分だよ、ミノムシミノ子。どうせ今でも甘いもの食べるときにはガキっぽくニッコニコしてんでしょ? 久しぶりにあんたのあのバカみたいな顔みてやろうと思っただけだよ」


 テーブルの上に映画のパンフレットを開き、耳にはサランの目にはひたすらアンティークに見えるポータブルCDプレイヤーのイヤホンを耳に突っ込んだ。

 この喫茶店にむりやり連れてきたのはツチカで、その上勝手に人のオーダーまでしたあげく、サランと話をするのは嫌だというポーズをまたとる。つくづく意味がわからないやつだとふくれながら、喫茶店の窓から繁華街を見下ろした。


 映画館の座席で爆睡していたところ、ツチカに叩き起こされて有無を言わさずこの喫茶店に連れてこられたのだ。

 ネオンが消えた夜の街は、虚飾の剥がれた書割のようで気まずいほどにむき出しだ。そろそろ宿舎に戻らねば、とサランは気もそぞろになる。きっと施錠されっぱなしだから中には入れないだろうが、点呼をごまかせるチャンスがないでもない。ツチカと二人きりで喫茶店で向かい合うというわけのわからない状況でじれじれと過ごすよりはマシだ。


 大体こいつはなぜどうしてここに引っ張り込んだのだ、映画館で寝ているところを置き去りにしたってよかったのに。


 ウェイターが持ってきたお冷を飲みながら、サランは顔を頬杖をついて通路側を見ているツチカの横顔を睨む。その視線に気づいたのか、ツチカは顔をそむけたまま呟いた。


「――信じられない」

「はぁっ?」

「よくあんなとこで大口開けてガーガー寝れるよね? 隣になんか怪しいおっさんが座られてんのも顔になんかかけられようとしていたのに気づきもしないでさ? 危機管理能力どうなってんの? だからいつまでたってもレベル上げられないでそんなだっさい兵装のままなんじゃん」


 完徹した後でもシモクツチカは変わらず平常運転で絶好調だった。むかっ腹の立つサランだが、確かにツチカに叩き起こされた直後、ぼんやりした眼の隅でツチカが誰かの脳天にローファーによるかかと落としを食らわせ、反動で浮き上がった顔面に強烈な膝蹴りを繰り出していたのは見えた気がする。てっきり夢の中の光景かと思っていたがそうではないようだ。

 そのまま半覚醒状態のまま小走りのツチカに引っ張られたのがこの喫茶店だ。おそらく暴力を振るった相手を撒くためにサランを連れてここに来たのだろう。


 ――状況から判断して、ツチカはサランがなんらかの痴漢に襲われそうになったのを救ってくれたという形にはなるようだ(しかし自分は何をされるところだったのだ?)。礼を言わなければならないようだが、CDに耳を傾けるツチカはこっちのことなど見たくもないし構いたくもないという憎たらしい態度をあらわにする。

 あー糞っ、と、ようやく脳も覚醒してきたサランも感謝の気持ちをなくして席を立った。するとツチカが目をこっちに向けた。


「――どこ行くの?」

「帰るんだよっ。人目のないうちに宿舎に戻るんだ。うまくいけば今なら点呼ごまかせるかも――……?」


 通路の向こうからやってきたウェイターはテーブルの中央にパフェを置いた。淵がひらひらと花びらのように波打ったレトロなデザインのパフェグラスに盛り付けられた、円錐状に盛られたアイスに生クリームにバナナやリンゴに缶詰めミカンなどをあしらいチョコレートソースをかけた随分レトロなデザインのパフェ。

 思わず食い入るように眺めると、ツチカが促すままにそれはサランの前に差し出される。ウエイターはツチカの正面にコーヒーカップを置いて、ではごゆっくりと声をかけて立ち去った。


「――食べれば?」

 

 先にコーヒーに口をつけたツチカが口火を切った。ついうっかりレトロなパフェに見とれたサランは我に返った。


「いらねえよう。今無一文だし、そもそもお前におごられる筋合いなんてねえし」

「おごりじゃないから。立て替えた分は今度利子付けて徴収するし」

「だったら余計にいらねえようっ。第一今からこんなもん食ってたら、完全に日が昇る――」

「あっそ。じゃあこのまま放置するしかないね。あたし甘いもの嫌いだし」

「――きったねえ……。お前、相っ変わらず本当にきたねえなっ。知ってたけど!」


 やけになってサランは席に着いた。そして見た目から非常に興味と食欲をそそるレトロなチョコレートパフェにスプーンを差し込み、口に運ぶ。

 生クリームとアイスにチョコシロップがかかったレトロなパフェはやっぱりレトロな味がする。おそらく本当の前世紀末でもあか抜けないと評されていたような懐かしくくすぐったいような味がする。ウサギの形にカットされたリンゴがグラスにひっかかっているのをみると、ちょっと胸が弾むのを抑えられないのが悔しい。味蕾ではなく脳みそで味わうたぐいの美味しさがいちいち愛らしくて悔しい。

 そんな状況をお膳立てしたうえにその瞬間に立ち会っているのが、シモクツチカという世界で大嫌いな女であるというのが一番悔しい。


 だからサランは精一杯の仏頂面でもくもくとパフェを平らげる。ちょっとでも楽し気な様子を見せたら負けだという気持ちから、むすむすと不機嫌な顔つきで、日の出直後のパフェを食らう。

 ツチカはCDを聴きながら、サランを見てフンと鼻を鳴らした。幸せそうに無邪気に甘いものなんか食べちゃって、と、コバカにしているのはその表情で丸わかりだったからサランは追及しない。目の前のパフェに集中する。


 冷たいものを急いて食べるのはどうしたって難しい。グラスが空になったころは窓の外の繁華街は黄色い日の光に照らされていた。

 スプーンを咥えたまま、サランはずいぶん眩しく、明るくなった通りを眺める。バイクに乗って、新聞か何かを配達する人たちが行き交いだす。世界はすっかり新しい朝を迎えていた。

 宿舎ではそろそろ起床の時刻だ。自分がもどってこなかったことを、今回もいっしょに出撃していたミナコは心配してくれているかもしれない。


 今まで考えないようにしていた不安と焦りが表情に現れたのだろう、ツチカがふたたびフフンと鼻で笑い、コーヒーカップを口に運んだ。完全に勝ち誇っている。


「もう行けば?」

「っせえな、行くよう。言われなくてもっ」


 お冷で甘ったるくなった口の中を洗い流し、サランは立ち上がった。

 去り際に、少し迷ったた末にこれだけは言い残すことにした。


「しばらくサンオ先輩のところに寄るんじゃねえぞ」


 ツチカは答えなかった。イヤホンの位置を直し、聴こえなかったというポーズをとる。そういうつもりなら、という意味でサランは最後に余計な一言を付け足しておく。


「お前もサンオ先輩のとこで本が買えなきゃつまんねえだろ。だからとっととなんとかしろよ。自分のケツくらい自分で拭けよな」

「何? 言いたいことあるならはっきり言ってー」


 イヤホンをはずそうともせずツチカは言った。相変わらずの平常運転だった。

 だからこころおきなくサランも喫茶店の二階にツチカを一人残して立ち去る。


 珠里によろしく言っといてよね、というツチカの声を背中で受け止めてサランは階段を駆け下りた。



 朝の訓練の後には通常通り学科の授業がある。


 早起きをしなければならないために当然睡魔との闘いになる。ワルキューレとしての適性がさっぱりであったために学科には力を入れ、高等部を卒業するくらいにはよければ北米あたりの創作科のある大学に進学して文芸理論でも学べる学力と資格ぐらいは身に着けておきたい程度の意欲はサランにだってあった。

 睡魔はあの映画でベリーショートの美女を演じていた女優による澄んだ歌声と涼やかなメロディーを伴ってやってくる。調べてみると、おあつらえ向きにタイトルは「夢中人」というらしい。

 

 自販機で砂糖とミルクを増量したコーヒーを買い、ずずっとすすっている間にもそのメロディーは頭の中で流れている。日の光が差し込み、ワルキューレ達がせわしなく行き交う廊下の眺めにかぶせてみても案外悪くないのが癪だった。


 壁にもたれコーヒーをすすりながら、ぼんやりとあのテーマソング以外のことを思い浮かべた。しかし思い浮かんだのは、大嫌いな文庫本の、なぜか心に引っかかって苛ついて仕様がないあとがきだった。


『良い大人と悪い大人を、きちんと区別できる目を養ってください。良い大人とは、言うまでもなく人生の慈しみ方を知っている人たちです。悪い大人は、時間、お金、感情、すべてにおいて、な人々のことです。若いということは、はっきり言って無駄なことの連続です。けれど、その無駄使いをしないと良い大人にはならないのです。死にたいくらいの悲しい出来事も、後になってみれば、素晴らしき無駄使いの思い出として、心の内に常備されるのです。私は、昔、雑誌で、悩みごとの相談をやっていましたが、本当は、他人が他人にアドヴァイス出来ることなど何もないのです。いかに素敵な無駄使いをしたか。そのことだけが、色々な問題を解決出来るのです。学生時代の放課後は、その無駄使いのためのちょうどよい時間帯なのです。と、いうわけで、なあんにも考えずに、恋や友情にうつつをぬかして欲しいものだと、私は思います。』


 ――で、あいつはあの街で恋だ友情だ、いろんなことにうつつを抜かして生きてるわけか、なんにも考えてないかどうかはともかく。


 文芸部の部室で真剣に濃いピンク色の背表紙の古い文庫本に読みふけっていたツチカの姿をサランは思い出した。好きな小説の作者が書いたことを真に受けて、長い放課後を遊びまくって、あいつもよくよく素直な奴だな……と考えながらコーヒーをすすっているところに、甘ったるく粘っこい声に呼びかけられる。


「サメジマ先輩、朝早くからおつとめご苦労様~。やだぁ、コーヒーなんて飲んじゃうと身長伸びませんよぉ~」

「なんじゃそりゃ、エビデンスはあんのかよう?」


 廊下の向こうからいつものように仮面めいた笑顔をはりつけたリリイが目の前に現れて、あいさつ代わりに嫌味を放った。これを聞くといつもの日常に戻ってきた気がするのもまたなんとなく癪な話ではあった。


 リリイはサランの隣にくると、サランの目の前に一枚のカードを差し出した。あまった暑中見舞いに認めたメッセージの返信なのは明らかだ。それだけで目が覚めた。

 シンプルな付箋紙を、リリイはサランに手渡す。


「ワニブチ先輩からのお返事ですぅ。――ところで先輩、しばらく付き合った恋人からポストイット一枚のメッセージで振られたヒロインが出てくるドラマがあるのご存知ですかぁ?」

「何? お前ワニブチがうちにそういうメッセージくれたって言いたいの?」

「まさかぁ、そんなわけないじゃないですか。やだぁ〜そういうドラマがあったのご存知ですかって聞いただけなのにぃ。先輩ったら神経過敏〜」


 いつものごとく笑顔で嫌味をまぶしてくるリリイのてからメモをひったくり、サランは目を通した。予鈴が鳴り出したのでリリイはそのまま立ち去ってゆく。



 メモの上には一言、「了解」とだけ記されている。

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