#24 ゴシップガールは花については物語らず

 ◇ハーレムリポート 電子個人誌ジン版 #54◇

  

 さーて、前回サランちゃんとバトルを繰り広げたタツミちゃんはその後どうしたのか。せっかく一緒にバスケで遊んで縮まったフカガワミコトとの距離が再び離れちゃうのか。大人しいフリしてとんだ問題児な新メンバーの出現に翻弄されるフカガワハーレムの明日はどっちだ……!


 ってもりあげたい所だったけど、ま、いつものようにサランちゃんと過ごした一夜のことを問い詰めようとしたタツミちゃんはワンドを片手にフカガワミコトを追いかけまわして、学園島を駆け回ったあげく、ノコちゃんに説得されてようやく怒りの矛先を収めたみたい。行方不明中フカガワミコトと一緒にいたノコちゃんは当然一部始終を目撃したから、サランちゃんとはなんにもなかったって証言したんだって。……ちぇっ。そういうことをしてくれたらゴシップガールとしては商売あがったり……げふんげふん。


 お待たせしました、こんにちは乃至こんばんは。レディハンマーヘッドだよ。


 なんでお前は地味な新メンバーを推すんだ、提携先の文芸部のメンバーだったからかって疑惑の声がちらほら聞こえてきてるけれど、だってしょうがないじゃない。行方不明になったフカガワミコトと遭遇したのがたまたま文芸部員だったサランちゃんだったんだもん。ゴシップガールは実際におきたことを伝えるのがお仕事、運命に介入するなんて大それたことは管轄外。あたしはこう見えて謙虚なんだからできることとできないことはわきまえてますぅ。

 

 そんなわけで、ちょーっと太平洋校文芸部さんにご迷惑をおかけしちゃったから次号『ヴァルハラ通信』の掲載はお休みになりそう……。うう、残念っ。みなのぬまこ先生が描くメイド姿のサランちゃんのピンナップがつく予定だったのに……。


 その代わり沙唯先生の『演劇部通信』をお楽しみにねっ。麗しい乙女の友愛の世界をご堪能あれ~。


 ◇◆◇


 泰山木マグノリアハイツの書斎の本棚にはマーハの蔵書には、やはりジュリの好きな小説の単行本は無かった。

 それでもマーハがジュリの好きな小説について語った記憶はある。マーハもそのやりとりを覚えていたようだからあの夢のあの部分は事実だったことになる。


「あら、無かったかしら? 昔読んだ記憶はあるんだけど――。じゃあ私が読んだのは家の書庫のものね」

「お嬢様のご実家の書庫……想像するだにすごそうですね」

「そうね、私設図書館として皆様に公開しましようかというお話も出る程度にはなるかしら?」

 

 今日もマーハは猫足つきの長椅子に座って、作業するサランを眺めている。

 書斎の長椅子に座る時のマーハは常に涼しげに練習着姿の初等部生が用意した紅茶を飲んでいるが、夏休み期間中は秋の公演にむけて激しい稽古を繰り広げている最中である。書斎の付きの小間使いという役を与えられている為その稽古風景を間接的に見聞きするだけのサランも、書斎の窓から棕櫚の木陰ですすりなくプレッシャーに耐えかねた部員たちを目撃してしまうこともあった。


 太平洋校の華であり顔であるという演劇部をまとめ支える立場のマーハにとって、薄暗い書斎で過ごす午後のひと時は心安らぐ解放の時間であるらしい。

 小間使いとして書斎の調度品の一部となっているサランの主な仕事はマーハに快い休息の時間を演出することである。とはいえいくら愛玩物という立場であっても、毎日毎日本棚の埃を払っていたところで埒があかない。暇にあかせて、台本や資料のリストを自主的に作り始めていた。

 書斎の本棚にはマーハの蔵書だけでなく歴代の公演でつかわれた台本や広報誌などの資料も収められていた。「演劇部通信」の連載が始まって以降の『ヴァルハラ通信』バックナンバーも。古い資料を積み上げては台帳に記録してゆくサランをマーハは面白そうに目を細めて見守るのだ。


「こうしてみると、太平洋校の華だなんていわれている我が演劇部の歴史も短いものね。たった十数年だなんて」

「だってそりゃあ、うちの学校の歴史自体そんなに長くないですもん。たかだか十五年とちょっと。それでも演劇部さんは最古参の部活の一つなんだからやっぱりすごいですよう」


 どこからともなく飛来した小さな彗星が星空を切り裂いたその夜から世界各地に現れた侵略者。そして侵略者と唯一対抗できる能力を持ち、ワンドと呼ばれる外世界由来の武器を振って様々な奇跡を顕現できるワルキューレ第一世代が現れたのが約二十年前。

 第一世代のワルキューレを研究した結果、彼女らが有する共通する因子が発見される。ワルキューレ因子と単純に命名されたそれを持つ少女たちを世界中から選び出し訓練し育て上げれば、たった数人の少女だけに世界の命運を託さずに済むと考えた偉い大人たちによりワルキューレ育成機関である学校が創設されたのが十数年前(女児が生まれた場合の検診時にワルキューレ因子保有率の検査項目が加えられたのも、ワルキューレではない大人たちによってワルキューレ憲章が制定されたのもほぼこの時期)。

 当初、一般的な学問と専門的な知識と実技を学ぶ機関でしかなかったワルキューレ訓練機関だが、言っても十代の少女達の集う学び舎であることから訓練や戦闘以外の活動に励みたいという声が自主的に高まり、「世界平和と人類の保護に邁進すべきワルキューレがちゃらちゃらと部活に励みたいとは何事か」という偉い大人たちの中数割を占める頭の固い派閥との激しい論戦を経たのちに各種部活の創設ラッシュが始まる。演劇部は太平洋校における最古参の部活の一つである――という、太平洋校年代記を自作リストに適当に書き込みながらサランは答えた。


 侵略者が来るようになって実はたったの二十余年、その事実をこうして目の当たりにするとしみじみ驚かされてしまう。世界各地に大小問わず侵略者が飛来するのが当たり前になったような世界で生きていると、うんと昔からこの世界はあたりまえに外世界からの侵略者の危機に晒されていたような錯覚に陥ってしまうのだ。

 というよりも人類がこんな異常事態に素早く順応しすぎなのではないだろうか。


 世界にはいくつか太平洋校のようなワルキューレ訓練校ができ、世界各地からワルキューレ因子を持つ少女たちが入学し訓練し、出撃し、一部は命を落とす。

 ワルキューレや外世界に関する研究も進み、中にはワンド開発最大手のようなシモクインダストリアルのような企業も生まれる。


 世界中に何十億といる女の子達のうち特殊な能力をもったたった数人の選ばれし女の子たちだったワルキューレが、今や生後三か月から十二歳までの定期検査でワルキューレ因子の保有率を調べられ適性アリと認められた少女たちが訓練して一人前になる戦闘員に。

 

 そしてこれからは特殊な処置をほどこして人為的にワルキューレ因子を植え付ければ、どんな少女でもワルキューレになれる時代がくる。即席使い捨てのワルキューレに。


 ――やっぱり世界は異常事態にいちいち素早く順応しすぎだ。人類どうしの諍いですら根絶できてないくせに。


「どうしたの、子ねずみさん? なにか悩み事でも?」


 ついうっかり物思いにふけっていたために手が止まってしまった。その隙を見逃さず、マーハは訊ねる。サランはあわててリストへの書き込みを再開した。


「いやその、世の中の進み具合は早すぎてついていけないってことを考えてたんですっ」

「そう? 私はまた子ねずみさんはお友達のことで頭がいっぱいなんじゃないかしらって思っていた所だけれど。――あの時の怪我はもうよくなって?」

「あ、はい。お陰様で――」


 校医の言いつけを一部守って二日ほど安静にした結果、トヨタマタツミにくらった峰打ちのダメージはほぼなくなっていた。まだうっすら痣があるが、痛みはほとんど感じない。

 ただその日から気を抜くとぼんやりしがちなのはサランも自覚するところだった。本人も気が付いていることなのだから、今までに七人ものワルキューレとリングを交換し続けていた女帝には既にもろもろお見通しなのだった。


「気のせいかしら、子ねずみさんがお休みしたあの日から様子が少し変わったように見えるのだけれど――?」


 品のいい嫋やかな微笑みを浮かべて、マーハはサランを弄ぶ。つやつやと輝く黒い瞳はどことなく嗜虐的な感情が浮かんでいる。物腰の柔らかい麗しい佳人であってもマーハは特級のワルキューレなのだ。サランなど捻りつぶすのに一分も必要としないワルキューレである。

 そのことを改めてい思い知らされつつも、サランはわざとらしく積み上げた資料の冊数を数えながらそ知らぬふりで答えた。


「あれですよう、『男子三日会わざれば刮目して見よ』って昔から言いますし、いわんやワルキューレをや、ですよう」

「そうね、三日は一等大事なお友達にも言えない秘密を作るのは十分な時間ね」


 普段はそよ風のように鼓膜を撫でてゆくマーハの声に、僅かながら蜜のような粘度が加わる。どうやらマーハはサランの抱える秘密に興味があるらしい。

 サランは意識してなんでもないフリをしてみたが、上手くいかなかった。どうしても肩に力が入り動作がギクシャクしてしまう。

 そんなサランを見たマーハはくすくす微笑む。


「図星?」

「──っ」

「そんな表情かおをするものじゃなくてよ? お日様の光を浴びたすくすくと伸びやかな野の花も夜露に濡れるようなこともあるのねって、いたずらに好奇心をくすぐられてしまうもの」

「な……何を仰いますやらお嬢様はっ」


 お嬢様にしては直截な表現にサランは動揺を隠せず、ぷいっと顔をそむけた。その無作法な仕草はマーハの好みに合致していたようで、おそるおそる視線を戻しても長椅子の上でサランを見つめている。くっきりした目が糸のように細くなり弧を描いている。一見慈愛に満ちたマーハの微笑みだが、サランは猛禽に見つかった小動物のような心地になってしまうのだ。

 その一方で、胸に抱えたものを、ジュリへのメッセージにして託そうとしても打ち明けられなかったものを、この美しく優しくそして強い先輩へ打ち明けてしまいたくもなるのだった。

 

 その惑いが視線やリストに書き込む拡張現実上のペンを持つ手に現れてしまったらしい。マーハはサランへ呼びかける。すこし蜜の気配の増えた声で。


「子ねずみさん、いらっしゃい」


 みつあみにしているせいで空気にじかに触れているうなじがぞくぞく震える。

 現状の自分はマーハの愛玩物である、命令には逆らえない。それを言い訳にワイン色の絨毯が敷かれた床の上を歩いてマーハの前に立った。

 それでもなんとも気まずくて、エプロンの裾を摘まんで視線をそらした。


「お、お呼びでしょうかっ。お嬢様っ」


 お嬢様の前でなんと見苦しい――と、架空のメイド長に叱られる様子を想い浮かべ、てサランはなんとか冷静さを失わないようにしようと試みる。が、やっぱり上手くいかない。というよりも、マーハがサランの無駄な抵抗をすべて読み取っている気配がある。

 マーハは自分の腰かけているスペースの隣を示して、お座りなさい、と優しく命じた。サランはそれに従う。ちょんと腰を下ろし、どこを見つめていいか分からずとりあえずスカートのすそと白いエプロンが隠す自分の膝を見つめる。


「部長さんの次の出撃はいつかしら?」

「ま、まだ聞いていませんけど、今までのローテーション的に八月中にあと一回くらいはありそうですっ」


 腿の上においた両手にマーハの視線があるのを意識せずにはいられず、エプロンを軽く握りしめた。右手薬指のリングの鈍い輝きが目を射る。


「では、その時には部長さんを泰山木マグノリアの木の下にこっそりお誘いしないと――。でも、あなたは大丈夫? そんなお顔を婚約エンゲージのお相手に見せられて?」

「――ッ」

「〝私は貴女に対して秘密があります″と、白状してるも同然よ?」


 するりとマーハの右手が、次いで左手が伸びてサランの未だ幼い両の頬に添えられる。手入れが入念に施されたマーハの指先は柔らかくほどほどにひんやりと冷たく、やはりジャスミンとスパイスの混ざったような芳香がした。その香りに目を閉じて開いた所を、マーハは覗き込む。

 そうまでされるとサランもマーハの黒曜石のような瞳を見た目返さざるをを得なくなる。


「子ねずみさんがそんなお顔をしていては、部長さんは寂しい心のまま侵略者に立ち向かわなくてはいけなくなる……。それはあなたの望むこと?」


 分かっている。

 マーハは所詮、休息中の暇つぶしに小間使いをからかってみたくなっただけだとサランは頭では分かっている。今、頬から指先を滑らせて顎のあたりに手をそえた演劇部のスターで文化部の女帝にとって低レアの下級生など叩けば鳴くおもちゃか小動物と同じ程度の価値しかもたないものだとサランは頭では十分承知している。

 ただそれでも、距離が近くなればなるほど蜜のようにとろりとしてゆくマーハの声に抗うのが難しくなってゆく。そもそもサランが抱えた秘密を打ち明けたくてたまらなかったのだ。そこを見こしたマーハが的確に誘惑しかけくる。


 それに乗るのもアリかもしれない。何せ自分は現状、マーハの愛玩物だ。

 農村で大らかにそだった後でお屋敷にあがったばかり、しつけや行儀がまだ身についていない素朴な小間使い――せっかくマーハが用意したこの設定に乗らないでどうする?

 サランは胸に手を添える。自分の心臓がどくどくと痛いほど激しく脈打ちはしているがおそらく締め付けられる切なさとは別種のものだろう。


 ぎゅっと一度強く目を瞑った後に、サランは意を決する。


「お、お嬢様……。その、私めは、いわゆる過ちなるものを犯してしまいまして」

「あら、穏やかじゃないこと」


 マーハの左手がサランの幾筋かのほつれた髪を耳へかける。細い指先が耳の傍を掠めてぞくりと背筋が震えた。


 ああやっぱりこの人はからかっている。

 わかっていても一旦決意した後だ、勇気が尽きてしまわないうちに、とサランは急いて心の内側を吐き出すために、まずすうっと息を深く吸い込んだ。


「その、実は――」


 親友と、後輩と、何より自分自身に二度と顔向けできないことをしてしまいました――と問づけようとしたタイミングだった。


「マー」


 さっきまでこの場に居なかった筈の人物による突然の声に、サランは長椅子の上で硬直する。どくどくと脈打っていた心臓が跳ね上がったせいで、ひっと裏返ったような声が漏れた。

 マーハも少なからず驚いたようで、サランのほっぺたのふわふわすべすべした感触を堪能していたら指の腹の動きが停まった。

 二人の視線はそろって、書斎の入り口に向けられる。そこにはタンクトップとオリエンタルな刺繍の施された八分丈のパンツという稽古着姿のヴァン・グウェットが立っていた。アーモンドアイはまずマーハにまっすぐ向けられた後、マーハの方へ身を寄せる形で座っていたサランへ向けられる。そのままサランをじっと見はするが表情筋は動かない。

 舞台の上では時に感情を激しくあらわにすることもあるのにプライベートではそれを出し惜しんでいるのか、マーハに並ぶトップスターはサランがぺこんととりあえず頭を下げて会釈したのを表情を一切変えずに見届けるとマーハへ視線を戻し、言葉すら最小限で演劇部の女帝に告げた。


「花が届いた」

「あらそう。わざわざ教えにきてくれたのね。ありがとう、ヴァン」


 マーハはにっこり微笑んで長椅子から立ち上がった。その際にサランへ向けて苦笑してみせる。話は一旦中断の合図だろう。困ったように自分と並び立つトップスターであるワルキューレへこう話しかけたことからも察せられる。


「――でも、あなたったら気の利かない人」


 短く切りそろえた黒髪に、アイボリーの肌。ほっそりと無駄な肉が無く、それでいて柔軟で強靭そうな芯の通った中性的な肢体を際立たせる稽古着姿のヴァン・グゥエットはマーハにそう言われてもやはり表情を変えない。ただ視線の先を書斎の中とは反対の廊下の向こう側へ向ける。サランには形の良い耳やすんなりとした首筋だけが見えるだけになる。

 マーハにはそれだけで彼女の感情が読めたらしい。微笑みながらパートナーの待つドアの傍へ立つと慣れ親しんだ様子でその腕を取る。それに応えるのうにアイボリーの肌をしたワルキューレもマーハの瞳に視線を戻し無言で見つめる。 

 嫋やかなマーハと凛々しいヴァン・グゥエット。制服と稽古着姿の二人が見つめあう姿を見てサランの脳裏にも「眼福」の言葉が浮かんだ。シャー・ユイがいたら涙流して喜ぶだろうに……と、サランがそんな思いにとらわれていた一瞬をついて、つ、とアーモンドアイがサランを捕らえた。


「――」


 やっぱり表情筋が動かない。それなのに目だけがひたとサランを見つめる。先日二階からバケツの水を浴びせかけられたことも蘇り、あわてて長椅子から立ち上がりサランは硬直した。また何か粗相をしたのだろうか……?

 居住まいを正すサランをじっと見つめるヴァン・グゥエットの表情はぴくりとも動かないのだが、それでも間を置くと唇を開いてよくとおる艶やかな声で告げる。


「ねずみにも客。害虫つきの猫がまた来た」

「――あ、はい。すみませんどうも、ホァン先輩をお使いしちまいまして」


 無表情さと口数の少なさで無用な威圧感を放つスターを前に、サランは不必要に卑屈になる。こうでもしなければ神経が持たないのだ。ただでさえこの表情の変化に乏しい上級生の感情は読みづいらいのに、たまにかけられる言葉も判じ物めいていて伝わり辛いと来ている。この先輩と同じ屋根の下にいることが、サランにとってはさっそく気詰まりになっていた。

 とはいえ時間が経てばこの打ち解けない上級生についてもそれなりに理解が進む。

 ねずみ=サラン、猫=タイガ、害虫=夕刊パシフィックであるからして、また取材と称して夕刊パシフィックの腕章をまいたタイガが来ていると告げているのだろう。そしておそらく、ああいった連中をここに近づけるなという気持ちも込めているのだろう、アーモンドアイでサランをじっと射る。


 マーハだけが優しく微笑み、パートナーの腕を取った。


「ダメよ、ヴァン。子ねずみさんが怖がってるわ。もっと優しく笑って頂戴」


 ヴァン・グゥエットはマーハの顔をアーモンドアイでじっと見つめる。相変わらず無言だがマーハは気にも留めない。サランへ向けて微笑みかける。どことなく意味ありげに。


「あなたもいらっしゃい。お客をお待たせしてはいけないわ」


 あ、ハイ、と返事をしてサランは部屋を後にする二人のトップスターの後に続いた。――本心を言えば、逃げ出したかったのだが。


 後ろから確認できるヴァン・グゥエットの左手薬指にはリングがある。どんな危険地帯に出撃しても無傷で生還する特級ワルキューレ・ホアンヴァングゥエット、彼女が七人目のマーハの婚姻マリッジ相手だ。

 マーハもマーハで戦女神ドゥルガーなどと呼ばれる特級のワルキューレであるからして、二人の体さばきは後ろ姿からして低レアのサランとは全く異なっていた。

 優雅で気品があるのは当然として、まるで隙がなく足音もない。まるで雲の上を滑るような二人の足取りの後をとたとたと歩きながら、はーっとサランは感じ入るのだった。


 泰山木マグノリアハイツは天人の住居、つくづくサランのような地上の民がいてよい場所ではない。

 

 


「はああ……素敵……」


 テラスの外、棕櫚の木立のある庭にいたのは予想に反してタイガではなかった。

 温室で育てられた温帯の花々で飾られた華やかな一階ホールを見て目を輝かせるリリイがいたのだ。しかも腕には新聞部の腕章を巻いている。

 タイガではなくリリイであったことにサランはほっと安心するような、おかしな気持ちになる。棕櫚の木の下で、サランをじっとみつめるリリイの視線にはどれだけ笑みで隠しても滲み出てしまう敵意が籠っていたが、それすら直接タイガと顔をあわせることを考えればずっとマシに思えた。


「お前一人だけか、リリ子。どうした? 何の用だ?」


 リリイはいつもの仮面めいた笑みをはりつけて、あからさまにサランを無視した。ああこのいつも通りな分かりやすい無視に安心する日がくるとは思わなかった。

 サランから関心をそらす為か、リリイはパーティー会場のように生花で彩られた一階ホールをもう一度視線を戻し、演技がかった調子で両手を組みうっとりと見惚れだす。

 リングの位置は左手の薬指。タイガは出撃してるらしい。きっとまた中米かどこぞの危険地帯にいるはずなのに、サランは情けなくほっとしてしまう。


「いいですねえ……ファンから届けられるお花でお部屋が埋まるなんて……」

「お前も早くそういうランクのアイドルになんなきゃだなあ、リリ子」


 どういう顔をしていいのか分からなかったタイガがいないと分かった安堵から、サランはリリイのこれみよがしな独り言に毒をまぶして言葉を投げた返した。受けて立たんとするように、リリイも仮面めいた笑顔で応戦する。

 

「応援ありがとうございます、サメジマ先輩。その恰好可愛いですよぉ? 『ハーレムリポート』でも評判みたいじゃないですかぁ。〝家が貧しいせいで年季奉公に出した妹を思い出す″とかそっち方面でぇ。過酷な戦場で働く兵隊さん達に児童の人権を考えさせるきっかけを与えるなんてさすがですぅ」

「お褒め頂きどうもありがとな。その甲斐あってフカガワハーレム台風の目って評価をほしいままにさせていただいているようっ。あー望んだわけでもないのにサラン困っちゃう」

「やだぁ先輩、私がまだフカガワハーレムに未練あると思ってたんですかぁ? 情報更新してくださいません~? 大体、新メンバーになってもトヨタマ先輩にワンドで斬りかかられる炎上必須のネタ枠なんてサメジマ先輩にしかこなせませんよぉ? ……あ、遅くなっちゃいましたけどお体の調子はその後いかがですかぁ?」

「お蔭さんで日常生活に支障はないレベルまでには回復したよう。リリ子もあの時はあんがとな」

「いいえ~、別にぃぃ~。だってあの時のサメジマ先輩ったらあんまりにも惨めで可哀想だったんですものぉ~」


 仮面の笑顔で語尾をべたべたと伸ばした後、リリイはメイド服姿のサランを一瞬見て鼻で笑った。ああこれこそ、いつものメジロリリイだ。

 泣きたくなるような安堵の中でギスギスしたやり取りをかわすサランとは無関係に、一階ホールには作業着姿の園芸部の二人が蘭や薔薇を運んでいた。パーティーでもあるのかと思ったらそうではなく、純粋に綺麗な花が育ったということで演劇部におすそ分けに来たということらしい。

 今年度から立ち上がった高等部の園芸部のメンバーとマーハが個人的に親しいということからのプレゼントだそうだ。女主人としてふるまうマーハと作業服姿の園芸部員の会話から事情が伝わる。


 花瓶に大輪の薔薇を活けるほっそりしたブロンドの園芸部員は花の出来をマーハに褒められてはにかんでいる。赤褐色の肌をしたもう一人の園芸部員は何往復もして蘭の植わった鉢を抱えて飾り棚に並べている。無骨な作業着もブロンドのワルキューレが着ればその可憐さを際立たせ、赤褐色の肌のワルキューレが着れば小柄ながら女性らしい曲線美を引き立たせる。


 全く、二年前に初等部を中心に粛清の風を吹きあらした元生徒会長と風紀委員長だとは思えない穏やかなたたずまいだ。


 亜熱帯の太陽に照らされたら最後ただちに溶けてなくなりそうなほど見た目のブロンドの高等部二年生が先代初等部生徒会長のレネー・マーセル・ルカンが、自分が活けていた薔薇の花瓶をうっかり倒しかけると、カーリーヘアをシンプルにまとめたアクラナタリアがすかさず近寄ってさっと支える。

 ふぇーん助かったよぉぉ、ありがと~ナっちゃん~……とレネー・マーセルが自分のピンチを救った親友兼元部下に抱き着き、礼には及ばないとナタリアは表情を変えず冷静に返す。

 

 二年前に初等部を荒らしに荒らした元凶の二人が高等部で園芸部を立ち上げた……という噂は本当だったのかとひたすら感心するやら驚くやらのサランであったが、そんな場合ではないのだった。


「――で、何の用があってきたんだ? リリ子。新聞部の腕章なんか巻いたりして」

「だって私、今『夕刊パシフィック』に籍を置かせていただいていますからぁ、ワニブチ先輩のご判断でぇ。文芸部員はフカガワハーレムにおさわり禁止なんでしょう~? 私が文芸部に籍を置いたままじゃあこうやって使いっぱもままならないじゃあないですかぁ~。ご自身の執筆だってあるシャー・ユイ先輩にばかりお使いをお願いされるのを遠慮なさったんじゃありません~?」


 ちろり、と意味ありげにリリイはサランを横目で見つめる。サランの表情の変化をじっくりチェックしていた。


「――このこと、ワニブチ先輩からお聞きになっていなかったんですかぁ? 直接お会いはしてなくてもメッセージはやり取りなさってるんですよねぇ~? ――ワニブチ先輩ってお優しい人ですねぇ~、サメジマ先輩には勿体ないくらい」

「――、本当だなリリ子」


 よく見ればリリイはその手に菓子折りの入った紙袋を提げていた。それはジュリがツチカの侍女だったころ、謝罪行脚に出向く際によく利用していた老舗洋菓子屋の焼き菓子詰め合わせだと分かって胸が締め付けられる。

 文芸部員はフカガワハーレムにおさわり禁止。そのルールは当然食客であるリリイにも適用される。だからジュリはリリイの所属先を新聞部へ移したのだろう。自分への使者にするために。しばらくは会いたくないと語っていたパトリシアにおそらく頭を下げて。


「――バカだな、あいつ。本当に……いいヤツすぎて……」


 やばい。と思った瞬間にはもう遅く、視界がぼやけてかすんでいる。涙がこぼれない様に上を向くより先に、リリイの日傘の石突がサランの額へ突き付けられた。

 

 作り物めいた笑顔を引っ込め怒りをむき出しにしたリリイが口だけがぱくぱくと閉会するが音声は放たれない。きっと例のごとくリングの翻訳機能が変換できない母語のスラングを使って罵倒しているのだろう。

 その対応でサランの気が却って晴れた。なんなら今ならリリイの日傘で脳天を割られてもいいような気すらしてしまう。


 なにしろリリイにはそうしてもいいだけの権利はあるのだから。


 


 トヨタマタツミに峰打ちを食らわされたあの日。医務室のベッドの上で、先輩せんぱいとすすり泣きながら身を擦り寄せるタイガの背中にサランは腕を回した。この時はただ、不安げ弱々しい態度をさらけ出すタイガを慰めたい一心だった。


 いつも舐めているキャンディが予想以上に剣呑なものであることが分かり、どうして十三か十四やそこらでそんなものを常時口にしなければならない身の上になったのか、その見当がついてただただ哀れでたまらなかった。

 呆れるほどアホなのに、生き急ぐように危険地帯ばかりに出撃したがったり、自分は長く生きていられないとやたら乾いて悟ったことばかり言うのもパズルのようにすべての理屈が収まってしまったのだ。


「トラ子、お前なあ……。さっき怪我人には手ェ出さないって自分から言ったくせに、そういうとこだぞ、本当にもう……」


 深刻な空気が出来上がらないように口ではそう言って、サランはタイガの背中をさすった。それで少しでも、いつも見せないようにしていた恐怖や不安が拭われれば、その一心だったのだ。

 

 ほら、もう泣き止め泣きやめ。よしよーし……と、わざとらしく赤ん坊扱いをするとたとえ妙な気を起こしていても霧散するだろうとサランはみこして冗談めいた口ぶりで、とん、とん、と背中を叩いた。

 体のあちこちはそれなりにまだ痛むというのに手を焼かせると、心の中でそう意識することで気を散らそうとしていたのに不意にタイガが背中の下に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。


 一応力は加減したようだが病み上がりの体のあちこちが痛む。ひっ、と悲鳴を飲み込むと、首筋と肩に密着させていた顔を少しあげてタイガはサランを濡れて上気した猫目で見た後、今度はさっきよりも力をやんわりと加減して抱きしめた。

 んっ、と胸に重量感のあるものが押し当てられたせいで一瞬息が詰まるサランに対しタイガは、はあっ、とフルーツ香料の匂いのついた息を漏らす。

 首筋と肩に顔を擦りつけていたタイガは、気道確保のために身をよじるサランの顔を潤んだ猫目でじっと見る。


「サメジマパイセン、何すか今の〝んっ″ての? 超かわいいんすけど?」

「馬鹿、お前が胸押し付けてくるから重くて苦しい……――ちょっと待て」


 タイガの呼び方が普段と異なる気弱な「サメジマ先輩」からいつものアホそうな「サメジマパイセン」に戻っていた。

 それに気づいて、サランは声に怒気を潜ませる。全くちょっと気を許したらこいつはすぐこれだ!


「お前な……調子戻ったんなら今すぐ離れてそれからベッドから降りろっ。今ならまだ笑って許してやるっ」

「嫌っす」


 きゅうっとタイガがサランの体を潰さない程度に抱きしめる。そのせいでタイガの大きめの胸に圧迫されて、ふわっ、と息を吐き慌て吸い込んだ空気にフルーツ香料の匂いのついたタイガが呼気が混ざる。

 タイガは少し怒ったように猫目で軽く睨んでから、あえぐサランの耳元で呟いた。


「こうしないと胸がキューンとして痛くて痛くて死にそうだから嫌っす」

「あーそう、お前それ心筋梗塞なんじゃねえのっ?」

「……サメジマパイセンはこの状況でもキューンってなったりしねえんすか?」

「するか馬鹿。全身痛えわ息苦しいわでそんな余裕ねえわ」


 衣類越しに触れ合う胸からタイガの鼓動が伝わってくるのが気まずくてサランは逃げようとするが、体に腕を回すタイガがそれを許さない。

 シーツを掴むサランの手を強引に取ると、シャツ越しに自分の左胸に沿わせて押し付ける。シャツと下着につつまれた年齢にしては大きめの胸の弾力が手のひら全体に押し付けられた。

 うわっ、とサランは小さく叫んで手を退かせようとするがタイガがその手を上から抑える。そして怒ったような顔でサランを見つめる。サランも当然カッとなる。


「離せこの……っ、悪ふざけがすぎるぞ!」

「ふざけてねえしっ、ふざけてこんな事しませんし! ──こうしなきゃ胸の痛いのが治んないんすよ、


 またタイガの「パイセン」が「先輩」に切り替わる。口調は怒って拗ねているのに、つり気味の猫目の端が赤く染まって羞恥が滲んでいる。口の中でキャンディを転がして棒の先がサランの顔に当たらないような小癪な気遣いは見せる癖に、サランの手のひらは自分の胸の上からどかせない。

 力を込めて無理やり手を放そうとすると、それ以上の力でタイガが押さえつける。戦闘力も腕力もタイガの方がずっと上だから、抵抗すればするほど手のひらはタイガの胸に埋まってしまうことになると気づいてサランは抵抗をやめた。不可抗力で胸を揺さぶってしまう際にタイガが息を荒げたり切なげに小さく声をあげたりするのでたまらなくなってきたのだ。


「お前なぁっ、こういうことはリリ子とやれっ!」

「ヤだっ。リリイじゃ治せねえもんっ。先輩がオレをこんなにしたんだからサメジマ先輩が治すのが筋だろっ」

「……ッ、ダダこねやがってこのガキ……っ」


 背中に回されたタイガの腕が下に降りてゆくのに気づいてサランは焦った。ベッドに横になる前に皴になっては困るのでスカートを脱いでいたのだ。シャツの裾が辛うじて太ももの付け根あたりまでは隠しているが、下半身は下着とソックスをつけているのみだ。タイガの右手が腰あたりまで滑り落ちてきたために薄がけ布団の下でサランは抵抗のため脚をばたつかせる。その脚にやすやすとタイガの脚がからみつく。太腿の上のあたりでタイガのスカートの生地がざらざらと擦れた。抵抗のためにサランは片膝を曲げた。


「触んなっ、これ以上なんかしたら――」

「なんもしませんよ、オレは。ヤダって言ってんですから。──だから怖がんないで」


 立てた膝の上にタイガは跨る。そこに熱く湿ったものが押し付けられた。その感触にサランは息を呑み、タイガの口からは声が漏れる。腰に回されたタイガの手がサランを抱き寄せる。もっと体を密着させるために。膝にあたるタイガの体はいよいよ熱く濡れてゆくのだ。動きが封じられて、サランは顔をそむけることしかできない。


「ば……っバカ、こんなとこで……サカんなっ」

「へぇ、パイセン、キューンとなったことはなくてもサカると体がどうなるかは知ってるんすね。……エロいんだ」

「――……ッ」

「ちっちゃくて細くて、鳥の雛みたいに脆そうなのに……やっぱオレより大人なんすね」

「──黙れ、お前もうなんも喋んなっ」


 また性懲りも無く「先輩」から「パイセン」に戻したタイガは過敏になったサランの耳元で囁かれた上に、筋肉でしまった脚でサランの膝を挟み込み締め上げた。やっ、と悲鳴だと誤解されかねない小さな声をかけ思わずあげてしまったことが悔しくて、サランは下から睨み付ける。


「……っ、トラ子お前……なんもしないって言っときながらさっきからフザけたことばっかしやがって……っ! 本当にお前はそういうとこがだなあっ」

「だって先輩さっきからしてくんないじゃないすかっ」


 タイガは縁を朱く染めた目で睨み返してきた、また自分のタイミングで「パイセン」から「先輩」に切り替えて。


「オレさっきからお願いしてるのに、すっげえ恥ずかしくて死にそうなのに、先輩だって心臓ドクドクさせて全身熱くさせて、そういうことになってる癖に──……なんも感じてないフリしようとして、そういうのずりいっすよ」


 いっちょ前に挑発したくせに、拗ねたその横顔はどうしようもなく子供っぽい。

 そういえばタイガはいつもそうなのだ。自分から散々挑発する癖に、煽ってくるくせに、反撃されると叱られた子供のように身をすくめる。

 

 それに気が付いて、今までタイガに一方的に翻弄されていたサランの精神に火が灯る。


 自分の都合にこっちを付き合わせて振り回してる癖に責めてきやがって、こいつはどれだけ勝手なんだ。もう知るか。好きにされたいならお望みどおりにしてくれる。


 舐められるのが嫌いで短気で後先考えずに行動するサランの気質がカッと燃え上がる。――そのせいでいつも後悔するというのに、分かっているのに、もう止められない。


 サランは息を吸い込んだ。


「――トラ子、お前うちのこと好きなの?」


 つとめて冷静な声で問うと、目の前のタイガの顔はひどく分かりやすく真っ赤に染まった。


「――ちょ……? なんでこのタイミングでそんなこと訊くんすか……っ?」


 笑いたくなるほどわかりやすく狼狽するのを見せつけられると逆に余裕が生まれる。と同時に、堪え性がなく行儀の悪い甘えたの後輩への嗜虐心も。


「別に。お前本当に趣味悪いなって思っただけだよう。なんでこんなちんちくりんで地味で口悪くて短気で、惚れた腫れたが嫌いだってヤツ好きになんだよう? アホな上にマゾって笑えるな」

「……お、オレだって最初は別に……っ、リリイもいるしそんな……っ。でも、パイセン、……優しいし……死ぬなって言うなとか言ってくれたし……っ」

「優しい?」


 あっ、とタイガが声をあげて背中をそらせる。シャツの隙間から手を差し入れて汗ばんだ胸に直に触れるとタイガの体からふにゃっと力が抜けた。その隙を見こして体位を入れ替える。サランが上に、タイガが下になる様に。


「優しいって誰が?」


 猫目を見開き、動揺でキャンディを無意味に転がしているタイガはおびえと期待の入り混じるような顔つきでサランを見上げた。

 サランは上から、タイガを見下ろす。さんざんやりたい放題やってくれたためタイガの乱れた制服からは下着と肌が覗いている。自慢するだけあって黒をベースにピンクのリボンとレースで縁を飾った上下揃いの下着はギャル趣味ではあったが少女らしかった。

 自分が相当の痴態を晒しているのだとタイガにわからせるためにサランは意識して意地悪く笑った。


「言っとくけど、うちはお前のことなんて好きじゃないぞ?」

「――知ってますよ、そんなこと……わざわざ言わなくたって……っ」

「お前のことなんて好きにならないようなヤツにしてくんなきゃヤダってねだるお前ってなんなの? どっちがエロいんだよう、変態か」


 サランの言葉に反応したのか、タイガが電流を流されたようにきゅっと目を閉じて体を震わせる。それでもうっすら目を開けてタイガはサランをちらりと見ては最後にぼそりと憎まれ口で煽る。


「──つかパイセン、ブラとパンツの色揃ってねえっすよ?」

「うっせえな、うちの身にこういうことが起きるなんて想定外だったんだからしかたねえだろう、このエロ猫っ。浮気猫っ。尻軽猫っ」


 サランが言い返すとタイガはニヤッと笑って、にゃう、と猫の鳴きまね一つで返す。


 そういえばドアの前に委員会のメンバーが一人張ってるんだった……と、今更思い出したサランはタイガの耳元で、デカい声出すなよう、と囁いた。

 



「……あらまあ、それでこんなことに?」


 襟足の近くで、マーハの握る鋏の刃が小刻みに動く。無造作にばっさり断ち切られたみつあみの跡を、マーハが切りそろえてくれているのだ。


 泰山木マグノリアハイツのバスルームで、鏡の前に椅子を置きケープを巻いたサランの髪を整えるマーハの手つきはプロもかくやというもので仕上がりも見事だった。

 ブラシで襟足の髪を払い、ケープを取り外して現れたショートボブというよりおかっぱ頭になった新しい髪型と自分のモンゴロイドな童顔が加わるといよいよ子供っぽく見えてしまう。


「その、お聞き苦しい話を耳に入れちまいまして──」


 サランはすっきりしたばかりのうなじを撫でる。小学生の頃から常に肩を越す程度まで髪は伸ばしていたから頭が軽く風通しがいいのはまだ落ち着かない。髪型が一部被ってしまうシャー・ユイが今度会った時に文句をつけなければいいが、と、どうでもいい心配をしてしまうのは胸の重しも取り払った故の余裕かもしれない。


 断ち切られた小間使いの髪を整えながら秘め事を聞き出すことに成功したマーハはよい退屈しのぎができたと満足したのか、静かな微笑みをくちびるに湛えて鋏や櫛を片付けていた。サランは早速バスルームのタイルの上に散った自分の髪を掃除し始めるが、今朝編んだみつあみはそこにはない。それはリリイが持っている。


 なんか変なことに使わなきゃいいけどな……と、藁人形に五寸釘を打ち付けるリリイの様子を簡単に思い浮かべながら細かい髪のくずを箒でかき集めた。人造のワルキューレとはいえ念を込めればそれなりの効果は発揮するだろう。自分はこれからそれに耐えねばいけないのだ。


 うなじを触れられた感触があって、うひゃっと叫んで身を震わせ振り向くと、マーハがいたずらっ子のように笑い、そのままサランの頬にかかる短くなった髪を一束つまんだ。


「いい子にしていないと、あなたったらいつか丸坊主になっちゃいそうね。子ねずみさん」

「それは――さすがに勘弁ですね。いくらなんでも」

「私はかまわなくてよ? 長い髪のお手入れに頭の中をいっぱいにするような子には飽き飽きだもの。それに短く髪を刈った頭に触れるのは気持ちいいそうね。一度思い切り撫でてみたいものだわ」


 つまり、マーハはサランがこの手の騒動を起こすことを歓迎するということだろう。なんなら期待しているとも。


 サランの推測が正解だとい見透かしたように、マーハは微笑んでサランの額を柔らかい指の腹で突いて撫でた。リリイに日傘の石突をぐりぐりと突き付けられた赤い痕が残っている筈だ。

 ホウキを持ったまま身震いをして硬直するサランの額にマーハはそっと唇を触れさせた。額の赤い痕を治すためのおまじないだと囁いて軽やかにバスルームから立ち去る。

 お嬢様らしい気まぐれを発揮してただ自分をからかってみたくなっただけだろうとサランは解釈しながらも、しばらく一人バスルームで立ちすくむ。 

 

 美しい上級生が何事もなく立ち去る後ろ姿を見送りながら、サランはジュリと一緒に雑コーヒーを飲んで語らうかつての日々がすでに彼方へ遠のいてしまっていることを意識しないわけにはいかなくなって、今更ながらぞくりと全身を震わせたのちにバスルームから窓の外を見た。


 一瞬誰かに見られたような視線を感じたのだ。だが、そこから見えたのは棕櫚の葉影だけのみだった。


 夕日さすバスルームまで、数時間前に園芸部の二人が贈った花の香りが微かに漂う。

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