#23 ゴシップガール提供キャットファイトショー

 ◇ハーレムリポート 電子個人誌ジン版 #53◇


 夢を叶えるおまじないは数あれど、やっぱり流れ星にお願いするのが一番効果があるみたいだよ! これを読んでいるあなたに今夜は夜更かししてお空を見上げるのをお勧めしたい、全世界に生きる数十億の乙女の味方・レディハンマーヘッドだよ。


 そんなわけでついに、引っ込み思案な女の子のふりをしていたサランちゃんがついに期待通りに動き始めてくれたっぽい。やー、フカガワハーレムに入って即フカガワミコトと一夜を過ごしたことをちらつかせてカグラちゃんを泣かせた上にタツミちゃんと大喧嘩するなんて、さっすが謎めいた追加メンバーらしい活躍っぷり。だから言ったでしょ、この子は期待の新人なんだからって。単なる地味な芋っ子だなんて結論だしてた気の早い人たち、これ読んでるぅ~? 


 なんといってもサランちゃんは生徒会長のマコ様を怒らせたばっかりって評判もある、なかなか秘めた一面もある子なんだよ。言ったでしょ~? 大人しそうな文学少女に見せかけて実はなかなか食えない女の子なんだって。昔っから言うじゃない、地味そうな子ほど裏ではわりと凄いんだ、なんて。


 ……え? なんでサランちゃんがマコ様を怒らせたのかって?


 さあ知らな~い。フカガワハーレム以外のことはレディハンマーヘッドの専門外だもん。

 ハーレムメンバーが仲良く行方不明になっていた時に一人だけお留守番だったマコ様に「やーい、お前だけ仲間外れ~」って意地悪でもしたんじゃないかな、わかんないけど。


 そんなわけで各メンバー推しのみんなもサランちゃんの今後の活躍に期待してねっ。応援メッセージもお待ちしてますっ。

 

 ◇◆◇


 普段から自分たちのことを面白おかしく書き立てる「ハーレムリポート」のゴシップガールと手を組んでいる文芸部の副部長が自分の大事な親友を泣かせたらしい。

 それを知るや否や、義憤にかられたトヨタマタツミが疾風じみたその俊足で食堂を飛び出しサランの後を追いかけ、そしてすぐさま追い越した。


 そのころすでに頭を切りかえてマーハの待つ泰山木マグノリアハイツへ向かっていたサランは、自分の傍を何かがすさまじい速さで駆け抜けた何かが自分の正面に回り込まれてようやく気がつく。それが結った髪をなびかせたフカガワハーレムの最も正ヒロインに近い首席ワルキューレだったものだから少なからず驚き、しかも自分を睨みながら居合の型をとったものだからそれもすぐさま恐怖へと転化した。


「待ちなさいっ! あんたよくもカグラを泣かせたわね。よりにもよってあんな優しいいい子を……っ。どういうつもりよっ?」


 わっ、と妙な声をあげてサランは飛びずさった。普段一方的に観察しているばかりだったフカガワハーレムの正ヒロインに最も近いワルキューレが敵意をむき出しに目の前にいる状況と理由を瞬時に考え、サランは慌てて両手を前に出し左右に振る。


「ちょ、ちょっと待って! 確かにミカワさんを泣かしちゃったけどあれは事故っていうかなんつうか──」


 その時すでにサランの視界からトヨタマタツミは消えていた。ザッと地面を蹴りだす音が聞こえたなと思った瞬間、サランはというと体全体で衝撃をくらって視界がぐるっと回転し、気が付けば地面に倒れていた。

 地べたに横たわる自分の目の前にトヨタマタツミのローファーを履いた足元があった。視線をなんとか上向ければ、タツミは、ちん、と音をたてて日本刀型ワンドを鞘に収めている。


 ああ、うち、あれで斬られたんだ。んじゃあひょっとしたら死んだんじゃ……いやいや生きてる。生きてるし。


 と、脳の判断が追い付いたとたん胴体を中心に激痛がサランを襲う。どうやら斬られはせず、峰打ちによる打撃のみくらわされた様だがそれにしたって痛い。骨が軋んで内臓がもんどり打つのでサランは身を丸めた。悲鳴すらあげられずげほげほとせき込む。


「今まであたしたちをおもちゃにした上にカグラを泣かした分よ。――本当は胴体斬り落としても足りないくらいあんた達には腹が立ってるんだから」


 気が付けば周りに人垣ができている。当たり前だ、フカガワハーレムのメンバーとどうして加入したのか謎の地味っ子メンバーが派手に喧嘩している真っ最中だ。野次馬が集まらないわけがない。涙目で人垣を見ると掲示板に書き込みしている者が何人かいる。

 ああこれらが全て、シモクツチカの退屈しのぎのネタになる――。


 そう思っただけで謎の力がサランの身の内に湧き出てきた。あんなお嬢の思う通りキャットファイトなんて演じてたまるか。

 激痛を我慢して立ち上がり、サランはぱんぱんと砂にまみれた制服を払う。

 立ち去りかけたトヨタマタツミは一旦足を止め、おや? と言いたげに振り返る。その顔へ向けて、サランはつとめて今おきたことなんてなんでもないような表情を作ってみせる。


「き……気が済んだっ? トヨタマさん」


 産まれたての小鹿のように脚はよたよたはするが何とか立ち上がり、声を出すだけで肋骨や内臓が痛んだがとにかく極力苦しんでる顔を控えて平気な顔を心掛ける。


「だったらさっきの一発でこれまでのことチャラにして、もううちに構わないでね。うち、別にフカガワミコトのことなんてなんとも思ってないから、安心して。そんじゃあねっ」


 うー痛ぇぇ……と、呻きながらサランはよろよろと歩きだす。とりあえず泰山木マグノリアハイツの前に医務室だな。手当を受けねば……と次の行動に向けた段取りを立て始めると、何故だかトヨタマタツミは形良い眦をつりあげて怒るのだ。


「さっきのたった一発で今迄のことをチャラにしろって? 冗談じゃない、あんたたちってどこまで図々しくて下品なの⁉ 大体あんたあの時あの結界の中でフカガワのバカと朝まで一緒にいた癖に!」


 せっかく納めた鞘からワンドの刀身をしゃっと抜いてトヨタマタツミは怒る。怒った表情が確かに巫女装束の幽体でさんお書店に現れた時そっくりだ。その顔を見ながらサランは嫌なことに思い至った。

 トヨタマタツミは激昂すると人の話を聞かなくなる、猪突猛進女子なのだった。しかもどうやらサランに対してあらぬ疑いをまで抱いている。

 あーめんどくせえぇぇ~……と痛む鳩尾に手をあててサランは唸った。見た目に圧倒的な華があるミユやコサメの影に隠れて自分のことなど視界に入ってはいないだろうと予想していたのに当てが外れた。


「ああもう、フカガワミコトとはたまたま一緒になっただけでなんもないようっ。――あいつなんかと何かあったと思われただけで屈辱だっ」

「はっああぁぁ〜? あいつのことをよく知らないくせに〝あいつなんか″とは何よ!」


 ざわっと野次馬たちが前のめりになり目を輝かせる。「一晩一緒にいた」は無責任に面白がるにはもってこいの一言だ。急に攻撃された腹立ちから抑えきれなかった本音が事態がこじらせたと分かったが、サランもしつこくつっかかってくるタツミへの怒りがじわじわ高まるのを自覚しないわけにはいかなかった。

 本当にまったく人の話を聞かないヤツだなっ、といういら立ちがサランの怒りに火を点けた。


「あーあー、確かに一晩一緒にいましたようっ。でもあそこには専科卒の先輩お二人がいらっしゃったんだぞ、あんたの考えるような妙な間違いなんか起きやしねえよう! ったく、いい加減にしろよな、男が女が一晩一緒にいりゃあなんぞ間違いが起きるかもしれねえっつうサルみたいな思考回路どうにかしやがれ、脳みそ思春期腐れさせやがってこの首席ワルキューレの色ボケお姫様はよおっ!」


 体の状態を無視して一通り思ったことを吐き散らかしたたあと、少々の快感とともに肋骨と内臓がずきずき痛んで警告を発した。言い過ぎた、やりすぎた、と。


 普段から力強く瞬く鈴を張ったようなタツミの目が怒りに燃え上がり背後にはゆらゆらと炎めいたオーラが揺れていた。結っていた髪を高く舞い上げて、タツミはワンドを鞘に納めて再度居合の型を取る。

 その様子を見ればサランも自分の命はここで尽きたなと覚悟しないわけにはいかなかった。ああまさかワルキューレに粛清されてこの世を去ることになるとは、流石にそんな結末は予想だにしていなかった。

 

 こんなことになる前に――……と、これから命が絶たれることを悟った脳が落ちた瞼の裏側に誰かの影を思い浮かべようとした瞬間、体を突き飛ばされる。その後、金属同士がぶつかり合うような鋭い音が耳をつんざいた。

 そのあと、どすっと胴を打つような打撃音と地面を擦る足音が響く。


 地面の上に倒れこみつつもすんでのところでどうやら自分の命は助かったらしいと理解した瞬間、聞こえてきたのは耳に馴染んだ声だった。


「っはーん、三年首席ってのは伊達じゃねえんすねぇ。この距離でオレのケリ食らって立ってられんなら大したもんすよ、先輩」


 かすむ目をうっすら開けると、短いスカートから蹴り上げた足をゆっくり下ろす様子が見えた。その足元はスニーカーとルーズソックス。その向こうでトヨタマタツミはみぞおちを抑えて立ってはいるが、その顔を痛みに歪ませつつも目元に敵意を漲らせつつその場に立っている。

 サランの前に突然現れたタイガは、振り向いていつものようにキャンディを咥えたままにっと笑って見せた。


「すんませんパイセン、ちょっと雑になっちまって」


 タイガの右手には鉤爪状のワンドがある。それでタツミの剣戟を受け止めて捌き、居合を弾かれて隙の生じたタツミへ至近距離からカウンターのケリをみぞおちに入れた、ということらしい。

 苦痛に顔を歪ませながらタツミはタイガを睨みつける。


「……あんた、二年の……っ」

「メジロっす。んじゃあ乱入失礼しやしたっ」


 それだけ言い捨て、ロクに動けないサランを有無を言わさず抱き上げるが全身が痛むサランには拒む術がない。オラ退け野次馬ぁ! とタイガが滅多に出さないドラ声を張り上げるとモーゼが割った紅海のように人垣は左右に大きく分かれた。その通路をタイガは素早く駆け抜ける。


 待ちなさいっ! とタツミが呼び止めるのが聞こえたが、すぐさま、聞き覚えのある短い射出音が響いた。リリイの仕込み傘から放たれるプラスチック製の礫の音だ。駆けだそうとしたタツミの足元に礫は撃ち込まれる。どこかに潜んでいるリリイの姿は、タイガに抱きかかえられたサランには確認しようがなかった。


 走りながらタイガはニヤっと笑ってサランをからかう。


「なんすかパイセン、オレのことさんざんアホの子アホの子つっといて、パイセンも大概アホじゃないっすか。フツー首席ワルキューレをあんな風にボロカスに言ったりしませんよ?」

「……うるせえっ、もうちょっと静かに走れっ。内臓に響くっ……!」


 悪いなお陰で助かった、恩に着る、ありがとう……とった殊勝な一言は、本当に全身が痛んで吐きそうで口にすることが出来なかった。脂汗をにじませながらサランはタイガにしがみつく。自分を抱えているのがタイガでなければみっともなく泣き喚いてしまうであろう痛さにサランは目を瞑って耐える。

 そんな様子をのサランを抱えていて、タイガも軽口をたたくのをやめて一直線に医務室へ向かった。



 完全に逆上しているようにしか見えなかったトヨタマタツミだが、ワンドを持たず錯乱もしていないワルキューレ相手ということできっちり手加減はしている。今は酷く痛むだろうが一日二日安静にしていれば体は元通りだ――というのが校医の診断だった。


「一部始終を配信してた子がいたから動画を見させてもらったけど、貴方って一年の時から全く成長が無いのね」


 ヒジャブを巻いた校医も元ワルキューレだ。回復術の心得があるはずなのにサランには通りいっぺんの処置を施した後、激しい痛みをとるだけの治癒術を施したあとベッドで寝るように命じたのだ。


「先生、うちこれから演劇部さんとこに行かなきゃなんないんすけど──」

「ドクターストップですってこちらから連絡しておくわ」

「回復術かけられるんでしょ? ならパパーッと一発──」

「ああいったものは出撃先でしか使っちゃいけない規則なの。普通の治療で期間いっぱいベッドで横になれるのは訓練生の特権よ。今のうちに味わっておきなさい」


 戦地なら野戦病院のベッドでゆっくり寝ていたくてもむりやり全回復させられて前線に出るなんてザラなんだから、と校医は軽い口調で脅しつけてとりあわずサランをベッドに寝かせた。夕方まではそこで寝て、それからは寮で明後日の朝あたりまでは大事をとって安静にしろと指示を出す。


 普段ならその状況を喜んで享受するのだが、サランは今は生徒会の監視対象だ。演劇部の保護から離れて一人でいるところを委員会に狙われるとも限らないのだ。

 校医がある程度の痛みをとってくれたおかげであれこれ考える余裕は生まれたが、体を起こそうとしただけで悲鳴が出そうになるような状態だ。そこを狙われたら一たまりもない。

 苦痛と不安のないまぜになったサランの表情をみて、校医は苦笑した。


「他の先生は知らないけれど、私は訓練生同士の人間関係には不必要に干渉しないようにしているの。――ただ、面会謝絶の札くらいなら出してあげますけど」


 どうやらサランの置かれている状況をある程度把握しているらしい校医はそう言って、ベッドの周りのカーテンを閉める。その際に、何故か当たり前の顔で付き添い用の椅子に座っているタイガに声をかけていく。


「悪いけれどしばらくサメジマさんを見ていてくれるかしら? 今から会議があるのよ」

「はい喜んでー!」


 本当にうれしそうに満面に笑うタイガとは反対に、サランはなんとか手首より上の部分を持ち上げて抗議の意を表した。


「めっ……面会謝絶……っ!」

「でもサメジマさん、現状のあなたには付き添いが必要よ? どうするの、トイレにでも行きたくなったら? 今一人で歩ける?」

「――」


 シモの世話を人質にとられてはサランは降参するしかなかった。大人しくなったサランを見届けて安心したのか、校医はベッド周りの白いカーテンを閉めて医務室の外へ出る。

 足音をが遠ざかるのを聞きながら、サランは目線だけ動かして椅子に座るタイガを見やる。タイガはベッドの上に頬杖をつき、猫目をニヤニヤ細めていた。口元からはみ出したキャンディの棒が機嫌良さそうに上下にぴこぴこ動く。


「……やー、二人っきりっすねえサメジマパイセン」


 タツミの襲撃から助けてくれたのは間違いなくタイガなのだからなにはなくとも礼だけは伝えなければならない。その気持ちがあったのだけれど、タイガの嬉しそうな顔をみるとそんな素直な気持ちはどうしても引っ込んでしまう。薄い掛布を鼻のあたりまで引き上げてサランはタイガを軽くにらんだ。


「うるせえ、調子乗んな。なんかしたらリリ子に即チクるからな」

「流石にけが人に手ェだしたりしませんよ。――でもま良かったっす。そうやっていつものパイセンみたいに憎まれ口叩けるってことはちょっとは調子出てきたってことっすよね。安心しました」


 にひぃ、と、タイガは口の両端を左右に引いて笑う。

 深刻な痛みは引いたとはいえ、身じろぎするとズキン骨が痛むような状態なのにニヤニヤしやがって……とサランの胸にはむっとした思いが湧かないでもないが、アホの子らしいあけっぴろげな笑みを見ているとそんな気持ちをぶつけるのは控える気にはなる。タイガは恩人である点は変わらないし、生徒会からの護衛の意味でもいないよりはいてくれたほうがマシだ。とりあえず介添えなしでトイレまで行って帰れる程度の体力の回復に専念しようとサランは決意した。


 ふうっと息を吐き、何気なく天井を見上げた。

 見おぼえがある天井である。それもそのはずで、一年の時ツチカにバスケットボールを顔面に思いっきり当てられて昏倒した日に寝かされたベッドと同じなのだから。

 ただ、あの日髪の長かったジュリが座っていた椅子にはタイガが座っているという違いがあるのみだ。


「リリ子は放っといていいのか? さっき援護してくれてだろ?」

「あー……、あとで礼言っときますよ」

「お前な、うちなんかよりリリ子の方を優先しろよう。お前にとっちゃ妹みたいなもんかもしれないけど仮にも婚約エンゲージ相手だろ?」


 ベッドのわきに頬杖をついたタイガはそれを聞いて唇を尖らせた。キャンディの棒も上を向く。そうしながらも右手を振って20世紀末期モデルの携帯電話を表示させるとカチカチと何やら文字を打ち込みだす。素直にリリイへのメッセージを用意しているらしい。それでも拗ねたような口ぶりでこういうのだ。


「普段はリリイを最優先なんすからいいんすよ、こういう時くらい。――つか、サメジマパイセンの婚約エンゲージ相手は今どこで何してらっしゃるんすかぁ? 結構派手な騒ぎになってんのにガン無視ってまずありえねえし」

 

 やはりタイガがジュリのことを口にする時は若干の棘がまぶさる。

 サランもなんとか動く右手を振り、メッセージを表示させた。おてがみがいっぱい~、と白猫のコンシェルジュは通知するメールボックスの一覧にジュリの一筆箋が混ざっているのを見かけて確認した。

 ひそかに安堵してから、サランはタイガに伝えた。


「文芸部員はフカガワハーレムにおさわり禁止なんだ。トヨタマタツミとケンカしたばっかの新メンバーにワニブチが会いに来れるわけないないよう。せっかく炎上が収まったばっかだっつうのにさ」

「――っふーん、わっかんねえ」


 言ってから右手を振って旧式携帯電話の表示を取り消すと、頬杖を一旦崩して椅子の座面に手をついてタイガはのけぞった。

 行儀悪く両脚を前へ投げ出したせいでキャスター付きの椅子がからからと後ろへ下がる。何もしなくても前にせり出している胸を突き出たため、シャツの第二ボタンまで開けているタイガの胸元は結構際どいことになった。


「もしオレがワニブチ先輩なら何をおいてもすっ飛んでいきますけどね~、リングとっかえてもいいやってなったくらいの相手が訳わかんねえ因縁ふっかけられてしばかれそうになったらさあ」


 たしかにタイガはリリイが錯乱状態に陥った時は二階教室に飛び込んで直ちに取り押さえていた。そういう場面になると頭より体が勝手に動く性分なのか。


「仕方ねえよう。ワニブチには文芸部長やらなんやら立場っつうもんがある。お前とはちがうんだよう。……つか、気いつけろよ。ブラ見えるぞ。ボタンしめとけ」

「見せブラすからいーんすよ。可愛いっしょ、これ?」

「知らねえよう。大体別に見たくねえし」


 タイガは色々とガサツなので「おしゃれとして敢えて見せてる」のではなく「だらしがないのでうっかり覗いてしまっている」風に見えがちだと注意してやりたかたったのだが、面倒で憚られた。校医の施した痛み除けの治癒術には睡眠効果もあったらしく、トロトロと眠気に襲われる。

 そういえば前にもパンツが見えるから気をつけろって注意してやったことがあったな……と、くだらないことを思い出しながらサランは欠伸を一つする。


「……眠いからちょっと寝る……。くれぐれも言っとくけど何もすんなよ……?」

「だからしませんって! オレそんな信用ないすか?」


 タイガはぷうっと頰を膨らませて見せたが、素直に片手でシャツのボタンを止めていた。

 前科がいくつかある為信用が出来ないと視線で訴えてから、サランはゆっくり瞼を閉じる。


 ジュリからのメッセージを開いて読みたかったが、それすらままならない。目が覚めてから読もうと、とろとろと揺蕩う意識に身をまかせる。




「……あ」


 泰山木マグノリアハイツの薄暗い書斎で本棚の埃を払っていた時、見慣れたタイトルの単行本をサランは見つけた。

 初版は二千年紀の次の時代に刊行されたにもかかわらず、二十世紀旧日本に刊行された本の並ぶマーハの蔵書の中にその本はあった。サランは思わず抜きだして手に取る。アラベスクと少女の切り紙細工が表紙にあしらわれた装丁は、部室でよく見かけたあの文庫本とよく似ている。ぱらぱらとめくると、古書特有のチョコレートのような甘い匂いが立ち上った。版型は異なるも読み慣れた文字とストーリーの断片を自然と目は追う。


『聖マリアナ女学園は東京、山の手に広々とした敷地を誇る、伝統ある女学校であった。幼稚舎から高等部までが同じ敷地内にある校舎で学び、大学のみが別校舎となる。創立は二十世紀初頭、そう――いまから百年も前となる、一九一九年のことである。遠くフランスの地からやってきた修道女マリアナの手によって建設され、神の愛を信じよりよい社会のために貢献し続ける女性を育てるという理念のもと、流れる水のように変化し続けるこの国の片隅に存在し続けた。学園は外から見れば薄絹のようなヴェールに包まれ、とうの女学生たちの生態は二十一世紀にもなった今でも杳として知れなかった。漠然と、良家の子女であると認識されているのみであった。……』


 歴史のある名門女子学園のはみ出しもの達が集う読書クラブで本ばかり読んだり騒動を巻き起こしたりする年代記だ。初等部一年、ツチカの侍女だったころのジュリがよく読んでいた文庫本の親本だ。


「やっぱり好きなのね、子ねずみさんはこの本が」


 背後から声をかけられて、サランは背中をびくっと震わせた。ふりむいた先にはマーハがいて微笑みながら髪を耳にかけていた。ジャスミンとスパイスを混ぜたような芳香が漂う。


「初等部の文芸部さんは毎日賑やかで楽しそうで、まるでその小説の世界みたいねって沙唯さんのお話を聞くたびに思っていたのよ。世間相手に大胆不敵な企みを仕掛けている所もそっくりだわって」

「……いや、その、お恥ずかしい……」


 体全体をマーハに向けて、サランは笑ってごまかしながら本を背後に隠した。

 と、同時にマーハが「ハーレムリポート」についてある程度のことを察していることをその台詞から気づく。ジンノヒョウエマーハは演劇部のトップスターでもあり初等部・高等部含めた文化部の女帝だ。知っていても不思議ではない。


「でもその本がより好きなのは子ねずみさんじゃなく部長さんの方でしょう? 違うかしら?」

「──、ははは……」


 この場にいたらワニブチのやつ恥ずかしさで頓死するな、と考えながらサランは笑ってごまかした。ごまかせてないのは分かっていたけれど、そうやって対応した。


 ツチカが学園を去り、侍女の任を一応解かれたジュリは、同時にそれまで強いられていたツチカ及びツチカの父好みの振る舞いやいでたちから解放された。はれて「シモクツチカの侍女」ではなく「ワニブチジュリ」に戻ることになった。

 戻れたところで約十四年の人生の大半を侍女として過ごしたジュリには、戻っても良い「本当の自分」というものが皆目見当がつかなかったらしい。様々な迷走を経て、お気に入りの小説を参考に髪を切った伊達眼鏡で一人称が「僕」で雑なコーヒーを飲むという現行のキャラクターに落ち着いている。それがジュリがようやく見つけた「自分」の型だったようだ。

 小説を参考に自分を作るなんてはずかしい奴だな、それ絶対十年後には黒歴史になってるよう……と、サランはずけずけ何度も指摘したが、その都度ジュリは毎度のように「お前のいう通りだ。恥ずかしいから今日は枕に顔を埋めて寝ることにしよう」と返してきた。


 サランの指摘だからジュリも余裕げな姿を見せられたけれど、初等部文芸部から遠く離れた演劇部のマーハにまでそれがバレていると知ると恥ずかしさも数倍になるのではないだろうか。


「部長さんとはその後、どうなさってるの?」

「はい、うち──私がこうなってしまった以上直接顔を合わせるわけにも行かなくて、メッセージのやり取りだけは毎日やってるんですけど……」

「まあ、それじゃあ寂しいわね」

「寂しいっていうか、直接会ってくだらない話ができないのって堪えますね。今だってワニブチの奴に先ぱ……──マーハお嬢様がワニブチの好きな小説の本持ってるよ、それどころじゃない、噂どおり古い本がいっぱい並んだ夢みたいな本棚があるってのは直接会って伝えてやりたいし……」


 やはりなかなか小間使いの立場を徹底するのは難しい。ぱたぱたと羽ばたきを動かしながらサランは冷や汗をかく。


 本棚の掃除を再開したサランの様子を猫足の長椅子に腰をかけたマーハが背後から見守りながら尋ねる。

 踏み台にのって高い所から埃を払うサランはその視線を気にせずにはいられない。良い香りを纏わせた佳人に見つめられての作業はなんとも落ち着かない。


「じゃあ、部長さんが出撃の際にはこちらにお招きしましょうか、新聞部さんたちに見つからない様にこっそり、内緒で。このような事態でリングの交換が出来ないのは子ねずみさんも残念でしょう?」

「えっ?」


 マーハが何をっているのか一瞬分からず、黒い練習着すがたの初等部生がしずしずと運んで来た紅茶のカップに口を添えているマーハを振り返ったあと、羽根ばたきを持つ自分の右手を見比べる。そして慌てて右手を下ろして後ろに隠した。


「やっ、そんな、いいですいいですっ。婚約エンゲージ中っていってもうちとワニブチはめんどくせえ後輩をなだめるために成り行きでやったようなもんで、どっちも真剣じゃないですし、ノリですし。ノリ!」

「――、そう?」

「そうです、そう! 大体あんなの面倒ですよう!」


 小間使いのふりを維持できなくなったサランの見ている前で、マーハはティーカップをソーサーに戻す。カップの取っ手を持っていた右手の薬指は美しく手入れがなされいているだけで何もない。リングは当然のように左手薬指に嵌っている。 ジンノヒョウエマーハには演劇部の舞台に立ってから当然のように常に結婚マリッジ相手がいるので有名だ。しかも頻繁に入れ替わる、ロマンス豊富なトップスターなのだ。


「可愛い小間使いさんの逢引のお膳立てをするのも楽しそうだったんだけれど」


 そう言ってくすくすとマーハは笑みをこぼした。

 どこまでこの人は本気なのだと混乱するサランとは違い、紅茶のカップを運んで来た可憐な初等部生は一部始終を目の当たりにしても眉一つ動かさない。よく訓練されているらしい。


 演劇部は一応文化部に属するのだが、この寮にはあきらかに文化部棟と違う法則で支配されている。ここに通い詰めてからの毎日は、違う宇宙の法則を体で学ぶような日々だった。根っから文化部棟民なサランに泰山木マグノリアハイツのルールはまだ馴染み切っていない。

 できれば馴染む前に文化部棟に戻りたいものだ、と、退部届を出したにも関わらずサランは未練がましく望んでしまう。


「子ねずみさん、そこの箱を開けて御覧なさい」


 くすくす笑いをおさめたマーハがサランへ命じる。

 言われて本棚の正面を見ると、きちんと並んだ背表紙の手前に小さな宝石箱が置かれていた。マーハの本棚の板の上にはこうした可憐な細工物や小物が適度に飾られているのだ。

 命令なのでサランは宝石箱を手にとって蓋をあけてみた。オルゴールが内蔵されていたようで、ポロポロと涼やかな音色がこぼれだす。箱の中にあったのはリングが六つ。きちんと収まっている。

 それを見て、サランは息を飲む。ジンノヒョウエマーハの結婚マリッジ相手は現在で七人目なのは有名だ。過去の結婚マリッジ相手の中には出撃中に命を落としたものもいることもそれなりに良く知られている。

 

 演劇部のトップスターであるだけでなくワルキューレとしても特級であるマーハの結婚マリッジ相手には、かなり手強い侵略者が飛来した戦地に飛ばされる実力者も少なくなかったのだ。そしてその犠牲になるものも。


「……後で悔やみたくないなら、婚約エンゲージした方とのリングの交換はお続けなさい。たとえきっかけが成り行きだったとしても」

「――は、はあ」


 ――重い。


 宝石箱の蓋をそっと下ろしながら、サランは心の中で呟いた。元の持ち主がいなくなった六つのリングたちは無言で何かを大いに語っている。その圧にサランは負けてしまう。

 ジュリは上級相当のワルキューレだからサランとは違って危険地帯に出撃することも多いのだ。こんな状態のまま別れて、顔もみないまま拡張現実上のノートの切れ端と一筆箋だけのやりとり今生の別れになってしまった――なんてことになる可能性は、残念ながらゼロじゃないのだ。


 マーハの小さな宝石箱の中にある六つのリングはそのことを強く訴えかけてきた。


「お心遣い感謝いたします、お嬢様」


 サランは棚を乾いた布巾で拭いてから宝石箱を元の位置に戻し、振り向いた時にはそこにマーハはいなかった。



 そのかわり、両目を前髪で隠した制服姿のミカワカグラがその場にいて振り向いたサランと目が合うなり、おろおろわたわたと慌てだした。



「ああああっ、ごめんなさいごめんなさいっ。あの、そっその一言タツミちゃんのことを謝りたくって来たんですけど、サメジマさんの夢を覗く気はなかったんですごめんなさいごめんなさいぃぃぃっ!」



 ――そうだ、これは、夢だ。

 この夢は数日前、マーハと交わしたおしゃべりが基になっている。

 でもマーハの本棚に、ジュリが好きな文庫本の親本があり、サランがそれを見つけたという記憶はない。だからこれは、夢だ――。



 その瞬間、泰山木マグノリアハイツの書斎が暗転しサランが乗っていた踏み台が消えた。夢の中で空を飛んだ時に感じるなんとも言えない浮遊感が全身に取り巻く。

 足がむずむずするようなこの感覚にとらわれた時は大体目が覚める時――、サランの意識がそこから遠のきかけた時、ミカワカグラが仰向けに倒れるサランの片腕をつかむ。


「ままま、待って! 今まだ起きちゃダメですサメジマさんっ!」

「⁉ ――なんだようもう、あんたらはさあっ! こっちも悪いとはいえ人をワンドでしばくわ夢の中に勝手に入ってくるわっ! いい加減にしろよっ!」


 一旦真っ暗になった空間は、うって変わって味気なく見慣れた初等部の教室に変化する。サランの姿もクラシカルなメイドからいつもの制服姿になった。脚にはまだあの浮遊感が取り巻いていてむずむずする。両手で両足をさすりながら、隣の席に申し訳なさそうな顔で座っているカグラを睨んだ。


「――でっ、これもまだ夢の中ってわけ? 特級ワルキューレさんっていうのは能力の欲するままに低レアどもの深層心理に無断で侵入してもいいてのかようっ?」

「ち、違うんですぅぅっ。私はたださっきのことを謝りたくてっ……! 私がタツミちゃんにちゃんと説明しなければいけなかったのにそれができなかったせいでサメジマさんが医務室に運ばれたって聞いたから、どうしても謝らなきゃって思って……。でもサメジマさんは面会謝絶だって校医せんせいは仰るし……」


 それに、と言いながらカグラは右手を振った。すると床全体が突然ガラス張りになったように透明になる。そこで見下ろすことになるのは、サランが眠るベッドとその脇で欠伸を噛み殺しているタイガ、壁を挟んだ医務室まえの扉の前に陣取る顔も名も知らないワルキューレだ。腕章を巻いていることから委員会のメンバーであることが分かる。


「あの通り、委員会の方がいらっしゃって……、それに」


 医務室の前の廊下に接した窓の外、真っ赤に咲き誇るハイビスカスの木の下でくるくると日傘を回したリリイが右手でつまんだキャンディを舐めつつ、にっこり微笑みながら立っている。あの位置だと医務室の扉の前に立つ者に仕掛けのあるあの日傘で狙撃することも(もしくは何かが起きた時に速やかに医務室内に突撃することも)可能であろう。

 カグラはリリイを示しながら怯えた声を出す。


「あそこには四月にやたらフカガワ君につきまとっていた二年の怖い子もいて……、それで仕方なくって……」

「うちの夢の中に入ったってわけ? ――あのさあ、謝りたいだけってのなら、うちの目が覚めるまで待てばいいじゃん。なんでこんな無茶したかなあ?」


 大体、もともとの原因はとっさのこととはいえサランもカグラへえげつないビジョンを見せたことだってあるのだ。なにがなんでも急いで謝らねばならないとカグラが思いつめる程申し訳なく思う必要もないのだ。しかしそれがこの能力だけは異様に高い気弱な特級ワルキューレの性分なのだろう。

 そう思うとサランのいら立ちも霧散した。憤る気も失せたのだ。


「……まあでも、助かったって言えば助かったけどね。――やっぱ委員会の連中が外で張ってやがったのか。っの野郎」

「あの……サメジマさんってキタノカタさんを何か怒らせるようなことをしちゃったんですか? あの人がフカガワくんや文芸部の部長さん以外の人に執着するのってあんまり見たことがないから意外で……っ」

「聞いてねえのかよう? 六月末に初等部教室半壊させた時に生徒会長に呼びだされて――……ああ」


 サランがタイガと唇を触れ合わせて、リリイが激昂し、その果てにサランがジュリが婚約エンゲージすることになったあの日あの時、目の前にいる特級ワルキューレは乙種侵略者によって各地へ転移させられしばらく行方不明になっていたのだ。そのことをサランは思い出した。

 フカガワハーレムメンバーであの日学園島にいたのはキタノカタマコだけだったのだ。

 カグラはその日に起きたことをキタノカタマコからは聞かされていないようで、不思議そうに小首を傾げた。


「? どうしたんです?」

「いや、なんでもないよう」


 フカガワハーレム、とは呼ばれても「ハーレムリポート」で書かれているように各メンバーの仲は「一人の男子をめぐってスラップスティックなケンカはすれども根っこのところは仲がいい」というような呑気なものではないらしい――と、サランはその時悟った。よくよく考えてみれば、「ごめんなさい」と「すみません」を頭にくっつけないと他人との会話もままならないくらい臆病なカグラが眼力だけで人を圧倒するキタノカタマコと対等の関係を築けるわけがない。


「――」


 「ハーレムリポート」で書かれるフカガワハーレムと、実際目の前にある本当のフカガワハーレムのズレ。それがサランにはふと引っかかる。が、不意に目の前のカグラの姿が徐々に透明になりだしてそのことをゆっくり考えるゆとりは失われる。


「す、すみませんっ。夢の中にダイブするのは数分が限界なんですっ! ですからあの、そのっ、私のせいでタツミちゃんがご迷惑をおかけして……!」

「ああもういいようっ! わかったからもう人の夢の中に入ってくるのはこれで最後にして――!」


 カグラの体がゆっくりと透き通ってゆくのに比例して、周りの教室はぐにゃりと歪みサランの体から平衡感覚が再び失われる。ずぶずぶと液状化した床はサランを支えていられなくなったようで、あおむけになりながらサランの体は階下のベッドで眠るサランの本体の真上へ落ちていった。


 あー、夢の中で落下するこの感覚、本当に気持ち悪い。


 最後にそう思ったとたん、サランの意識は途絶えた。




「――……」


 カグラが侵入した夢が崩壊してすぐ目が覚めたとばかり思っていたのに、どうやらそこからもう一度深い眠りについていたらしい。太陽の位置が大きく変わっていた。数時間は眠っていたことになる。

 

 うっすら瞼をあけ、眼球が天井に焦点をあわせるまでの間に脳はさっきの夢でみた情報をでたらめに上映する。

 気の弱いミカワカグラ、ドアの外にいるかもしれない委員会、ハイビスカスの木の下にいるリリイ、泰山木マグノリアハイツのマーハの指輪、書斎でみつけたジュリお気に入り小説の単行本――。


 ――変な夢をみた。


 頭の整理が追い付かないのでサランはとりあえず一言で片づけて、ゆっくりと体を起こす。時々節々がずきんと痛んだが、耐えられないほどではない。これなら自力でトイレまで歩いて用を足す程度のことはできそうだ。ドアの外にいる委員会メンバーが面倒だが。

 サランは安堵し、右手を振ってメールボックスを表示する。眠る前に気になったジュリの一筆箋を見つけて取り出して中身を開封する。


 達筆で一言、「生きてるか?」と書かれたものを読んでヒヒ~と笑って保存用ファイルにしまい、「生きてるよう」と拡張現実上のノートに書いたものをを破って送り返す。


 ふと傍らを見ると、サランが眠る前には頬杖をついていたタイガがベッドのそばに突っ伏すようにして眠っていた。いつものキャンディを咥えたまま寝入ったらしく、半開きになった唇からまだ溶け切ってない飴玉が覗いている。サランが眠る前に舐めていたキャンディではない新しいものらしい。何気なくベッドわきの屑籠を覗くと、白い棒が数本投げ捨てられいてサランは慄く。

 いくら恐ろしく甘苦い薬であるとはいえ、飴は飴である。たかだか数時間舐めるにしては異常な量であるし、しかもこんなもの咥えたまま眠っては虫歯になるんじゃないかとサランはふと心配になった。

 戦闘力のわりに華奢なタイガの肩を、サランはゆする。


「トラ子、起きろ」


 ゆさぶった拍子にタイガは、うあ、というように小さく呻いた。口がやや開いたのでキャンディを取り上げる。イチゴ味の駄菓子を連想するような毒々しい赤色でフルーツ香料の香りが漂う。味が全く可愛くない分外見だけは愛らしく整えたような趣があった。


「起きろって。うちはもう起きたぞ。お蔭さんでだいぶ良くなったから」


 うう……と、タイガは唸ってキャンディが無くなり空っぽになった口を条件反射の様にもごもごさせたあとに上半身を丸めた。あどけないほど安らかな表情だったのに眉間に苦しそうなきつめの皴が寄る。普段のあけっぴろげなアホの子ぶりからはうかがえないようなその表情がサランはふと心配になったのは、さっきジュリの手紙を読んで心が柔らかくなっていた効果もあったのかもしれない。

 

 そういえばトヨタマさんの襲撃から助けてくれたのに礼を言うのがまだだった。


 そのことを思い出して、サランはタイガの頭に手を置いた。空気をふくんだショートボブの手触りは見た目通り柔らかい。その髪をぽすぽすと軽く撫でて、サランは呟くように伝える。


「トラ子、今朝はありがとうな。お前のお陰で助かったよう」


 でも正直お前に礼を言うのはこれっきりにしたいけどな、と続けようとした途端、タイガが強めに身じろぎをし、やや大きめにううっと唸った。サランは驚いて手を引っ込めてタイガの肩を強めにゆすぶる。

 悪い夢でも見てるのか、それともどこかが急に痛み出したのか、心配になるサランの目の前でゆっくりとタイガは瞼を開いた。

 寝起きで焦点の定まらない視点が徐々にサランへ向かう。徐々に覚醒しているようだが、まだ意識がぼんやりしているらしく顔をベッドに伏せたまま、手のひらで唇を触る。その後、はっと目を見開いて体のあちこちを両手でぱたぱたと叩く。

 その顔が見る間に焦り一色に染まってゆく。


「? 何やってんだトラ子?」

「……ない」

「無いって何が?」

「アメが、無いっ。ちょ、無いんすけど⁉ なんで、ええっ……⁉」


 うそ、マジか、ちょやべえっ……、と細切れの言葉を発しながらタイガは椅子を蹴倒して立ち上がり、シャツやスカートのポケットのあたりをまさぐった。その様子を見てサランは流石に慌てる。タイガの焦り方が尋常ではなかったからだ。


「落ち着けトラ子、お前の飴ならここにあるぞ、ほらっ。――お前これ咥えたまま寝てたから……っ」


 まだ唾液で濡れた毒々しいまでに赤い飴玉をサランはタイガへ向けて差し出す。タイガの泣き出しそうだった目はすぐさまそれを捉えた。


 あざっすパイセン等といいながら安心してニカッと笑ってキャンディを咥える──、そんなタイガをサランは想像していた。


 しかし現実は予想に反する。


 タイガは獣じみた身のこなしでベッドの上に飛び乗ると、口を大きく開けてサランの手からキャンディを食らいつくように咥えた。サランの指先を食いちぎらそうな勢いで。

 

「……っ!」


 サランの体にまたがる様に四つん這いになったタイガは、無言でキャンディを舐める。口の中で転がる飴玉が歯にぶつかる音や唾液をすする音を時々響かせたがタイガは終始無言だ。両手両膝をベッドの上について俯き一心不乱にキャンディを舐めるタイガの表情はサランには見えない。


 それら飢えた肉食獣が数日ぶりに肉に食らいついた様子にも似ていて、サランの胸に恐怖心が湧く。

 なけなしの見栄でそれを隠しながら、そうっと手を伸ばした。


「トラ子、なんだよお前。本当に虎みたいになって……ビビるだろうがよう?」


 その声に反応したようにタイガはがばっと面を起こす。サランが驚いたのは、タイガの猫目が涙で潤んでいたからだ。細く整えた眉はいつも勝気に跳ねているのに今は不安げに下がっている。口からキャンディの棒をはみ出させているのはいつものことだが、それすら下を向いている。唇からはひくっとしゃくりをあげるような音まで漏れた。サランは無性に不安になる。タイガがまるで痛みをこらえているように見えたからだ。

 伸ばした手で、そおっとタイガの頭を撫でる。冗談として場を和ませる意図も込め、どうどう……とおびえる獣ををなだめるようなことまで口にする。


「落ち着いたか? ――悪かったな、その飴勝手に取り上げちまって。でも、いくら薬だからっていって食いすぎじゃないのか? それじゃまるで」


 ヤバい方のクスリじゃないかとサランは続けかけて、言葉が継げなくなった。

 屑籠に捨てられた棒の量、口からキャンディが消えた瞬間の取り乱し様、それに何より先ほど見せた一心不乱な姿。そこから見つけた結論は自分が発しようとした冗談が真に近いのではないかという疑惑を高めざるを得なかったから。


 それにもう一つ、物理的にも難しくなっていた。


 泣きそうな目でサランをひたと見つめていたタイガが、両腕をサランの首の後ろへ回して体重を預ける。ようやく上半身が起こせる状態になったばかりのサランに小柄であるとはいえ十四歳女子の体重を受け止めきれる体力はない。あえなく仰向けに押し倒される格好になったサランの隣へ回り込んだタイガは抱き着き全身を擦り寄せる。

 サランの肩から首筋にかけて頬とコシの少ない髪をを擦り寄せながら、何かに脅えて泣き出しそうな鼻声でタイガは小さく何度も繰り返す。


「サメジマ先輩、せんぱい、せんぱい、せんぱいっ……っ」

 

 いつものサメジマパイセンではなく、涙声のサメジマ先輩。

 そして、首筋と肩がだんだん濡れていく意味。


 それをゆっくり考えられるほど体のダメージは回復できていないし、何よりなんの言葉も出てこないほど頭が混乱していた。

 

 とりあえず、一体今日はなんて日だ。まだ体のあちこちが痛いのに。


 怪我人には手ェ出さないなんて嘘ばっかじゃないか、だからコイツは──と、サランは啜り泣くタイガの体に腕を回す。

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