#12 ゴシップガールの侍女の物語

 ◇ハーレムリポート 電子個人誌ジン版 #44◇


 いたずらも過ぎてあのゴシップガールもついにお縄についたって噂をうっかり小耳に挟んだものだから、バカンスも切り上げてこうした再浮上したレディハンマーヘッドだよ。


 もう〜フカガワハーレムの皆さんがなーんにも動いてくれなきゃあ、ゴシップガールもやることなくってビーチで寝っ転がるしかやることなくなっちゃう〜。タツミちゃんが助けたウミガメさんの子供達の名前は、レオナルド・ラファエロ・ドナテロ・ミケランジェロだってぐらいしか言うことなくなっちゃう〜。一体どこのだれがこんなピザ食べてそうな名前付けちゃったのかは謎だけど。うーん、自然発生?


 ま、ハーレムの方では動きは無いけれど生徒会長のマコ様は謹慎もとけて通常業務に邁進されてるみたいだよ。フカガワミコトのことになると暴走されがちなマコ様だけど、元々とっても有能な女の子だってことは皆さまご存じの通り。


 ワルキューレであることに絶対プライドと自信をお持ちで、ちょーっとツンケンした女の子に見えるけれど、本当は常に世界の平和とワルキューレの諸権利について考えていらっしゃる優しくて賢い女の子。だってあたしたちったら侵略者相手には遠慮なくワンドが振るえても、人間相手にはダメだって固く禁じられてる立場だもーん。目の前に殺意をむき出しにした何が現れても、それが人間だった場合、徒手空拳の抵抗のみでしか許されないんだもーん。武器の携行が許されてもせいぜい包丁とかバールのようなものぐらい。

 いやーん、人権が制限されちゃってるう。ワンドが振るえたら頭のネジの一個か二個外れた人間なんてプチっで片付いちゃうのに、プチっで。


 だからワルキューレの諸権利獲得のために尽力されていらっしゃるマコ様は、そんな可哀想な人型兵器のあたしたちにとっての希望の星、ジャンヌ・ダルクって訳よ。

 ……ん? ジャンヌ・ダルクって火あぶりで処刑されたような女の子に喩えるのは不吉だって? まあ、固いことは気にしなーい。

 


 所で、『ヴァルハラ通信』最新号についていたぬまこ先生によるピンナップのご利益はあたしの耳にも入っているよ。熱い反響にお応えして近々特別に増刷されるっぽいから、前線にいらっしゃる皆さんは元気なうちに切り取って胸ポケットに入れちゃってね。


 ◇◆◇


  髪を切って伊達メガネをかけ業者の粗品のマグカップで安物のインスタントコーヒーを湯で溶いただけの雑コーヒーを愛飲する上に一人称が「僕」という自分を探しまくって人跡未踏の暗黒大陸に足を踏み入れているがごとき風情の文芸部部長になる以前、クセが全くないまっすぐな髪を高い位置で結んだポニーテールにして少女離れした完成度の頬と顎のラインに釣り合う眦のやや吊り上がった二重の大きな眼でぐいぐいまっすぐ見つめてくる硬派の不良ワルキューレだった時代のワニブチジュリが書いた数本の掌編は今でも『ヴァルハラ通信』バックナンバーで読める。

 

 河原でキャッチボールをする幼馴染を声もかけずに見つめるだけの少女が出てくるスケッチ程度の掌編はジュリの実体験を下敷きにしていることは誰が読んでも明らかで、それゆえに文芸部内でも人気のある一編だった。サランの代の文芸部員にはキャッチボールをするような異性の幼馴染を持つものが、ジュリのほかにいなかったのだ。

 この掌編にさほど食いつかなかったのは、色恋の絡んだ話になるとテンションの下がるサランと、異性愛の絡んだ物語や文章には技巧の巧拙でしか評価できなくなるシャー・ユイぐらいのものだった。

 

「『みえなくなるほど遠くにボールを投げれる強い肩』ね、まさしく」


 シャー・ユイは二千年紀ミレニアムの流行歌の歌詞を引用した含みある感想ひとつを述べるにとどめていた。サランはというと、軟式用の野球ボールを二十五メートル以上も投げられるような男子なんて野生のおサルとそう変わらない生き物だという公立小学校で培った偏見がぬぐえないこともあり、はしゃぐ部員たちを遠巻きに眺めていた覚えがある。


 第一に恋愛の気配を嗅ぎ取ってはしゃぐあの上ずった空気はサランに小学生時代の記憶を催すものでもあった。

 文芸部に集った面々は概ね本や創作活動を愛する低レア同士気の合う仲間たちだったが、こういう場になると疎外感を感じないわけにはいかない。


 どうしてうちはこの空気になじめないのだろう……と人の輪の外で軽く悩むサランの内面など知る由もない部員たちは、ジュリに質問を浴びせる。


 まるで二千年紀ミレニアムと言わず環太平洋域東北域産少女漫画には連綿と描かれ続ける、明朗快活を絵にかいたような男子を幼馴染もつということは一体どういう心持がするものなのか? 今でも接点はあるのか? と羨ましさを隠そうとせずに興味津々で尋ねる部員たちに、まだ髪の長かったジュリは困ったように答えていた。


「どんな気持ちも何も、いい遊び友達だったなあ、今も元気でやってるかなあ……としか。でも今はもう接点が無くなっちゃったから。向こうは私のことなんてきっともう全然覚えてないよ」

 

 えー、ワルキューレになった幼馴染のことなんてそうそう忘れないよ~? と部員の一人が場を盛り上げようとするための声を出す。ジュリはそれに水を差そうとはせず、微笑むだけだった。




「『夕刊パシフィック』のゲルラ先輩がさあ、ワニブチの書いた文章のファンだからまた読みたいってさ。特にあの野球小僧が出てくるやつが好きなんだって。あれ本当に人気あるよねえ」


 ジュリが無事出撃から帰還してきた日の部室で、サランは迷ったが一応耳に入れておくことにした。文芸部副部長としての報告・連絡・相談の一環だ。

 ある程度は予想していたがそれを聞くなり、いつものように雑コーヒーを飲もうとしていたジュリの顔色が一変した。サランがジュリのこじらせ迷走真っただ中なキャラをいじっても笑っていなすだけなのに、それを聞いたとたん自分の愛飲しているものがとてつもなく不味い液体であるとようやく気付いたかのように顔を思い切りしかめた。

 

「――なんだそれ、『夕刊パシフィック』の嫌がらせかっ。文芸部への宣戦布告かっ? それとも僕への個人攻撃かっ」

「いや、多分そんな意図はないと思うよう? 純粋に好きなだけだと思う。多分、だけど」


 サランはそう付け足してみたけれど、しかしパトリシア・ニルダ・ゲルラのあのニヤリとした笑みを思い出すと、嫌がらせの線もないではないなと思えてくるばかりなので親友をフォローしたくても「多分」と強調せざるを得なくなる。


 マグカップを作業机の上に置いて、「――ああああっ」と呻いて頭を抱える今のジュリを見たらきっと、あのぬめぬめした質感のチンピラぶりっ子な先輩はこれ以上なく満足げににやりと笑いそうなのは容易に想像がついた。


「――時間を巻き戻せるなら二年前の自分に一時の感傷的な気分に引っ張られてあんなもの書くなって言いたいっ。お前の書き散らかしたものは数年後に黒歴史になって、延々イジられ続ける羽目になって好き放題突っつきまわされてネタにされるって地獄を味わう羽目になるんだから止せって引き留めたい……っ!」

「そこまで落ち込む必要もないかと思うんだけどなあ。文章自体はいいもんだったよう?」

「お前はそういうがなっ、うっかりこっちが文芸部の部長でアレを書いたものだってバレるとあちこちの出撃先でお姉さん方から突っつかれるんだ! 『あのキャッチボールしてる男の子の文章書いていたのはあなたなの』って? 『私にもそういう経験があるんで分かるわあ』とか『十代のころ思い出しちゃったぁ』とか、……地獄だぞ地獄!」

「そういうのって普通は作家冥利に尽きるっていうじゃないのかよう?」

「だろうなっ。だから僕は二度と創作はすまいと誓ったんだ! こんな苦痛に向き合ってまで世に公表しなければならないものなんて僕の中には存在しないっ!」

 

 あの掌編にジュリが触れたがらない事情を知るサランですら慄くレベルでジュリは懊悩している。そんなにもあの掌編が巨大な地雷に育っていたとは──まあ確かにそうならざるを得ないだろうな、うん。


 間の悪いことに、廊下の向こうからサランには耳なじみのある甲高い声による歌がこちらへむかってくるのだった。よりにもよって「♪あたしまっだこりてないっおとなっじゃわかんないっ」という二千年紀ミレニアムにテレビアニメのテーマソングに採用されていたこともあるあの歌を思い切りよく口ずさんでいた。

 それに反応して、ジュリが肩をびくっとさせたのと同時に、普段は眼鏡をかけていないケセンヌマミナコが部室のドアからひょいと顔をのぞかせる。ふわふわカールした髪にウサギの耳のように幅広のリボンを結んだケセンヌマミナコが何も知らない無垢な目でこちらを見る。


「お邪魔するでござる。約束の時間より早くなってあいすまぬがサメジマ氏はいらっしゃるでござるか?」

「いらっしゃるでござるが今その歌はやめてくれないかなあ、ケセンヌマさん……」


 引きずられて自分でもござる口調になってしまったことを心の中で恥じながら、サランはミナコに空いている席を勧めた。シャー・ユイの小説の挿絵の件での話し合いに招いていたのだ。来客用のカップを用意して飲み物の準備をする。

  

 二千年紀ミレニアムと言わずその前後の旧日本産二次元文化に通じている上に語尾が「ござる」なケセンヌマミナコが、あの歌を知らないわけがなかった。


 とにもかくにも、世間にとっては好評なあの掌編が当人にとってはシャレにならないレベルの大地雷に成長していることはしっかり胸に秘めていようとサランは決意した。親友としての務めである。

 


 

 「黄昏の町」とシンプルに題されただけのあの掌編は、ある名無しの少女が夕暮れの土手を歩いているところから始まる。

 自分の故郷であるはずの町の様子を歩いてその目で確かめてから河川敷にたどり着いたことが語られる。そこから見下ろせる河川敷を整地したグランドで、地元の少年が数名ボールを投げあって遊んでいる。 

 少女はそのうち一人が幼馴染だと気が付く。実家の近くに住んでいて、かつては自分も連れだって毎日のように遊んでいた仲間の一人だ。


 その町で暮らす子供達の殆どがそうだったように、同じ小学校から中学校に通い、十把一絡げにその町の子として育ちその町の大人になるのだと、幼い頃の少女は漠然と信じていた。

 幼馴染の少年にとってもそうで、同じ小学校に通うのだとばかり思い込んでいた。


 だから少女が一人、遠く離れた違う学校へ通うことになることはお互いにとって青天の霹靂だった。少女も少年も、それもどういうことか掴めないまま離れて暮らすことになる。


 それから数年経ち、少女は今、実家から遠く離れた学校に通っている。

 子供が通学するには困難な距離にある学校へ通うため普段は学校の近くにある知り合いの家に下宿していると説明される(その家がシモクツチカの邸宅であり単純な「下宿」という形でないことを文芸部員だけが察している)。

 

 連休を利用して里帰りをしていた少女は、数年前まで自分が暮らしていた町をただ歩いていた。

 昔より機械の稼働音が小さくなったような路地裏、少女のことがだれか分からなかった駄菓子屋の主、手入れされるものがいなくなって荒れるばかりの空き家、体が大きくなったせいで通れなくなった秘密の抜け道。それらを自分の目で確かめながら少女は工業地帯の町をさまよう。自分の世界の全てであった町なのに、やんわりと拒絶されているようなよそよそしさを感じながら。

 夕暮れに誘われる形で少女は河川敷に足を運ぶ。かつて幼馴染の悪童たちと走り回った河川敷の運動公園は、変わらないようでいてやはりどこかが違う。そんなことを思いながら、少女はグランドで遊んでいる男子のうち一人がかつての幼馴染であることに気が付いた。


 背が伸びて、日に焼けて、はっとするほど大人びていたけれど、ボールを投げる時の特有のフォームであの幼馴染だと分かったのだ。野球の上手な兄弟と一緒に遊んでいるうちに自然と身に着いたという奇麗なフォームで、相手の少年のグローブめがけてボールを投げる。ボールがグローブに収まるたびにすぱん、すぱんと気持ちのいい音がする。少年は楽しくてたまらないように、仲間とふざけあい笑いあう。


 記憶のなかの幼馴染が、そのまままっすぐ大きくなったようなその姿。


 少女は遊歩道に設置されたベンチに座ってその様子を眺める。

 声をかけるべきかどうか考える。少年は少女が声をかけると、昔とかわらない明るい笑顔で遊びにさそってくれそうでもあるし、反対に他人行儀な笑顔で距離をおきそうでもある。


 少女はしばらく悩む。記憶の中の姿のまま大きくなった少年に直接声をかけるという勇気がどうしても出てこないことに戸惑いながら少女はどうすべき考えて、やがて少年に気づかれないうちにやがて立ち去る。


 以来、少女は学業に忙殺されて実家に帰るゆとりはなく、少年ともそれきり会ってはいない。


 

 髪の長かった時期のジュリによって綴られた掌編ではそういうことになっている。

 




「不思議だったんでしょう? ツチカと私の関係」


 サランがツチカにバスケットボールをぶつけられて昏倒した日の保健室で、ジュリはそう言った。


「まあ、そりゃあねえ。だって変だよう? 友達にしてはすごく変だ。うちは友達が作りにくい気質だけど、それでもやっぱ変だと思う」

「サメジマさんはハッキリいう人だね」


 ジュリは苦笑し、自分とツチカの関係を淡々と明かしだしたのだった。



 ジュリが幼稚園に通っていた頃の正月に、親に連れられさる大きなお屋敷の新年会に招かれたのが全ての始まりだった。

 珠里ジュリはお姉ちゃんだから他の同い年の子に比べてしっかりしてるし心配はしてないけど、トリヒキサキのお嬢様相手にソソウのないように。お行儀よくしてること。

 一張羅のスーツを着た父親とよそ行きをきた母親と別れてジュリは一人、ぴかぴかに磨き上げられた立派なお屋敷の廊下を案内されるがままに歩く。


 黒い制服のお手伝いさんによって通されたのは広い座敷で、そこでは自分と同じ年頃の女の子達が数人、思い思いに騒々しく遊んでいた。

 かるた、すごろく、福笑い……。いささか古風なお正月らしいおもちゃに混ざって最新式のお人形や、ぬいぐるみ、高価そうなおままごと道具などがまき散らされた座敷は原色とパステルカラーがでたらめにぶちまけられたようでもあり、子供たちの声や電子音に溢れ、五歳のジュリの神経を刺激する。暑いくらいに暖房が効いていたのも疲弊の原因になる。


 そもそもジュリはどうして自分がここにいるのか、よくわかっていなかった。


 トリヒキサキのお嬢様がお正月に同じ年頃の女の子と遊びたがったため新年会を催すことになった。あんたもどうかって招待されたよ。これはすごいことだよ――、と笑顔の父さんの母さんに説明はされたので喜びはしたけれど、何がどうすごいことなのだろう? 

 でも、同じ年頃の女の子と遊ぶのは面白そうだと五歳のジュリは考えた。うちのお正月はきっと去年と同じように大人たちが朝からお酒を飲んでごろんと横になってるだけで退屈だもの。おばあちゃんと一緒に行くことになっている氏神様の初詣の屋台は楽しみだったけど、去年の人混みを思い出すと面倒な気にもなってくる。


 そういった軽い動機でお屋敷に招かれたものの、女の子達はジュリに特に興味をもつでもなく、各々の遊びに熱中している。中にはジュリを一瞥するなり、フンっと鼻をならしてみせる感じの悪い子もいる。ジュリとおなじようによそ行きの洋服や高価そうな和服をきた女の子達が集められていたが、ここで繰り広げられている光景はどうみても普段通っている幼稚園と大差ない。

 大体同じ年頃の女の子と遊びたがっているお嬢様とは一体どの子で、どこにるのだろう? この騒々しい女の子の中の一人がそうだというのだろうか?

 期待を裏切られた思いがして、幼いジュリはがっかりした。ここにいるけたたましい子たちと仲良く遊べる自信がない。

 遊んでみたいなと思った最新式のおもちゃは、さっきジュリをみてフンっと鼻をならした意地悪そうな女の子が独り占めしている。あの子から奪い取ってまで遊ぼうという気にはならない。座敷の隅に座って、早く家に帰る時間にならないかなと考えながら、藺草の匂いもまだ青い畳の上に投げ出された絵本を拾ってぱらぱらめくる。飽きたら畳の上に投げ捨てられた積み木やカードの類を片付けてゆく。


「何してるの? どうして遊ばないの?」


 声をかけられたので隣をみれば、きらびやかな振袖を纏った女の子がいた。

 ジュリは息を飲む。いつの間にか隣にいた女の子はきらきら輝く大きな目をまっすぐに向けてこちらをみている。お姫様だ、とジュリはその子をみて思った。お姫様が隣にいる。


「あなた片付けが好きなの? 変な子ね」


 お姫様みたいな女の子はそういって面白そうに笑った。ジュリはそれをみてちょっとムッとする。片付けなんて好きではないが時間を潰すために仕方なくそうしているだけだと、五歳児の語彙で説明する。


「女の子と遊びたがってるお嬢様がいるっていうから来たのに、その子がいないなんておかしい。こんなことならおばあちゃんたちと家にいるんだった。混んでてもいいから初詣に行った方がマシだったよ。屋台で何か買ってもらえたもの。もう早く帰りたい」

「どうしてそのお嬢様がいないってわかるの? これだけ女の子がいるのに?」


 振袖の女の子が重ねて尋ねる。不思議な子だな、とジュリは思いつつ素直に答えた。


「だって、ここにいる子みんな幼稚園にいる子たちと似てるから」


 五歳のジュリが思い浮かべる「お嬢様」は女児向け番組に登場する、召使いに傅かれながら豪邸に住んでいて「〜ですわ」という喋り方をするような高飛車なキャラクターでしかなかったが、そういった像に合致する女の子はこの場にいなかった。なので素直にそう答えたのだが、振袖の女の子はそれを面白そうに聞いて子供なのに口紅をさした唇を左右に引いて笑った。

 いたずらを仲間を見つけた悪童のような笑みだった。

 振袖の女の子はぎゅっとジュリの手を取ると立ち上がる。


「外に出ない? ここは暑いもん。お庭で遊びましょうよ」


 誘われるままにジュリは振袖の女の子について歩いた。実際退屈していたし、暖房の効きすぎた座敷から一刻も早く外へ出たかった。

 それにこのお姫様みたいな女の子がお嬢様でないかとようやく気付いたからだ。髪をくるくる巻きにもしてないし「〜ですわ」なんて喋り方はしないけれど、きっとこの子がそのお嬢様。


 お嬢様に手を引かれて連れて行かれた日本庭園で、ジュリはお嬢様と羽根つきをして遊んだ。

 羽根つきだなんて、幼稚園の先生が配る『ひのもとのくにのうつくしいでんとう』というタイトルのあまり面白くない冊子でしかみたがない遊びだったけど、やってみるとなかなか楽しい。失敗するとお嬢様が振袖の懐に潜ませていた筆ペンで顔に落書きもする。お嬢様は遠慮なくジュリの顔にヒゲを描いたりして笑い転げるので、お嬢様が羽根を落とした時はジュリも遠慮なくお嬢様の顔をパンダみたいにする。


 日が傾いた頃に、迎えにきた両親にジュリは正月早々酷く叱られた。お嬢様に粗相のないようにとあれほど言ったのにあんたって子は! と。

 それを見て、顔がほとんど真っ黒になったお嬢様は涼しい顔で両親に感謝告げた。


「ジュリちゃんを怒らないでくださいな。私がお誘いしたんです。お陰で楽しい新年会を過ごすことが出来ました。感謝申し上げます」


 ジュリの両親を案内してきた黒い制服の女中に汚れた顔を清められてから楚々とお嬢様は頭を下げ、すっかりきれいになった面を起こしてからさっさと同じような悪童めいた笑みを浮かべた。


「鰐淵のおじさま、おばさま。私、再来年はジュリちゃんと一緒に学校へ通いたいの。ですので早い目に準備して下さる? パパとおじいちゃまへは私からじかにお話しておくわ。ですからどうか、お願いします」


 お嬢様は大人を前にして顔色を伺うそぶりを見せず、堂々としていた。それどころか、戸惑う両親を頭から丸のみにするような異様な迫力すら漂わせる。


「珠里ちゃんならパパとおじいちゃまもきっと気にいるわ」


 ジュリはただ、さっきまで人の顔を真っ黒にしようとしてばかりだったお嬢様の変わりぶりを目にしてただ驚くだけだった。このお嬢様ったら、まるで大人みたいだ。とても同い年には見えない。怖いけどちょっとカッコいいな。わたしもあんな風になってみたいかも。


 この時のジュリはたかだか五歳だ。自分の人生が自分の意思とは関係なく予想だにしていない方向へ舵を切られたことなんて気付いていなかった。

 ただ話の流れから、お嬢様はジュリと遊んだ時間を満足してくれたのだけ理解した。それで十分だった。ジュリもお嬢様と過ごした時間が結構楽しかったから。また今度一緒に遊んでもいいかなと思う程度には。



「――私が招かれたその新年会はね、将来ワルキューレになることが決まっていたツチカの学友を選抜する場所だったんだって。シモクインダストリアルの全社員、取引先の家族からツチカと同じ年頃でワルキューレ因子を持つと診断された女の子に片っ端から声をかけて一箇所に集め、そこからツチカに直々に選ばせる。まあ言えばオーディションだね」


 髪が長かったあの日のジュリは、ベッドのわきの椅子に座って淡々と語って聞かせた。背もたれの無い椅子に腰をおろしていても背筋がぴんと伸びている。


「本当はキタノカタさんのお取り巻きみたいに数名選ばせる予定だったみたいだけど、ツチカは私だけでいいってかなり頑固にいいはったみたい。名誉なことだよって、私の親は何度も言ってた。三歳児検診の時にワルキューレ因子なんて面倒なもんが見つかっちまったせいで、散々利用されたあげく箕作ミツクリナントカって女の子みたいな目に遭うか、時局が今よりもっと悪くなったら大昔の戦争みたいに赤紙で召集されちまうことになる不憫な娘だとばかり思ってたけど、赤紙なんてとんでもない。1等の宝くじレベルの幸運を引き当てた孝行娘だよ、お前はって」


 サランの言いたいことをその視線から汲み取ったのか、ジュリは自嘲するように笑う。


「……これ、うちの父さん母さんが私の顔を見るたびにいうセリフなの。だから覚えちゃって」


 ベットに横になりながら、サランは「……へぇ〜」と芸のない声を漏らすしかなかった。ジュリの語った内容が、想像の埒外にありすぎた為だ。


「それ本当に二十一世紀末の話?」

「そうだよ、二十一世紀末の話」


 自らあずかり知らぬ場でラッキーガールとなったジュリは、その年の一月から早速ツチカの通う予定である名門小学校へ入学するための受験準備が課せられた。週に何度もあのお屋敷へ連れてこられては、ジュリと遊ぶ合間に各種行儀作法や知識を叩き込まれる。前日は幼稚園に通っては幼馴染たちと路地裏を駆け回ったのに、次の日には撞木の邸宅から回される高級車に乗ってお正月に招かれたあのお屋敷に向かう。そんな毎日が突然始まってしまったのだ。

 幼馴染たちと一緒に地元の公立小学校へ通うつもりだったジュリにはわけのわからない生活が始まり、対応出来ずに移動の車中でベソをかくことが何度もあった。


「昔の児童文学に出て来る家庭教師みたいな先生が本当にいたんだもん。怖くて仕方がなかった。ジュリが先生に時々仕返ししてくれなかったら、六歳にしてメンタルやられてたという思う」

「──シモクさんの仕返しってエグそうだね……」

「まあ今思うと悪質だったかも。庭の池に落とすのはザラだったし、洋服の襟から毛虫を入れたこともあった。係累の身辺は調査済みなんてことも言ってたっけな。あの時は意味がわかってなかったけど。可愛くはないお嬢様だよね」


 懐かしそうにジュリは語ったが、サランはどう返していいかわからず曖昧な笑みを浮かべてお茶を濁した。


「……なんちゅうかまあ、本当に過酷な幼少期だったんだね。うちなら一日で根をあげてるよう」

「私も何度もこんな生活やめたいって思ったよ。お家に帰ってみんなと一緒に地元の小学校に通うって。でもね、その都度ツチカに引き止められたんだ。『小学校にはすごく意地悪で大っ嫌いな女の子がいるから、その子に負けないためにジュリの力が必要だから』って。すごく必死になって引き止めるの。そうすると、大人相手にも全然怯まないツチカがそこまでいう女の子なんだからきっと鬼みたいな怖い子なんだろうな……ってなっちゃうじゃない。だからつい頑張っちゃって」


 ツチカはペロっと舌をだした。

 サランもつい思いを巡らす。あの傍若無人でわがまま放題な女が怖れるような意地悪な女ってどんなバケモノだ? ラスボスか? と頭の中でその姿を思い描いてしまう。


 ともあれジュリは一年少少に及ぶ辛い受験勉強の果てに無事名門小学校に入学し、晴れてツチカと共に「ご学友」という立場で同じ小学校へ通うこととなった。撞木家のお屋敷に起居しながら。


 撞木家邸宅内でのジュリはツチカと差別されることなく令嬢待遇で扱われていたが、身分の上では食客や書生と同等だ。ツチカは気にするなというが、ジュリとしてはそうも言っていられない事情を成長するにつれて肌身で感じるようになる。


 まず長期休暇の度に帰省すると両親が異様にジュリを歓待する。

 お姉ちゃんのおかげで鰐淵製作所も創業150周年を迎えられる、今年も従業員にボーナスも満額支払える。全てお姉ちゃんのお陰だ。お姉ちゃんは本当に自慢の娘だよ。ありがたいありがたい。……その声を素直に誇らしく思えていたのは十歳になるまでの間だけ。


 私がツチカのご学友をやっているからうちの工場はみんな幸せに働ける。

 ということは、私が「あんな学校に通うのは嫌だ」って言ったらどうなるんだろう? 官僚政治家一流企業の役員に大富豪、数代遡れば歴史の教科書に名前が載ってるお貴族様の子孫のような人ばかりいるような学校で「撞木さんのお友達」としてしか扱われないのが耐えられない、なんて言ってみたら?


「この前の日曜、お父様とお母様と鰐淵さんがお育ちになったあたりを歩いてみたのよ。平成末期の風情が今も現役だなんてとても素敵ね。ああいうノスタルジーを刺激する風景はインバウンド効果も期待できるから是非保存しなくっちゃってお父様も仰っていたわ。ねえ、今度直接ガイドしてくださらない?」

「ああいう優しい町でお育ちだから、鰐淵さんは心の清い人になったのね。あの撞木さんのお友達をつとめられるなんて本当にあなたって立派だわ。私もあなたみたいなお友達が欲しい」


 まれに「鰐淵さん」って直接話しかけてくる同級生は、一点のくもりもない眼を向けて悪意なく仰るような方だけだと語ったら?

 

 そう話しかけられても私は怒ることは愚か言い返すことすら許されずただ曖昧に微笑むしかないのだ、自分の立場とはそういうものなのだ、と感情のままに訴えてみたら?


 もしそんなことを口にしたらどうなってしまうんだろう? うちの工場に仕事は回してもらえなくなって従業員の人たちみんな困ってしまうんだろうか。それに何より父さんや母さんはどう思うだろう? お姉ちゃんは自慢の娘だと言い続けてくれるんだろうか。


 帰省の度に座卓に並べられたジュリの好物ばかりを盛り付けた大皿をみて、その疑問を飲み込む。

 三つ下の妹はゲームに興じるか友達とメッセージをやりとりしてジュリを無視するのがいつのまにか当たり前になっていて、小学校に通うようになってから生まれた弟は回らない口で「だれ? だれ?」とジュリに指をさす。


 だから撞木の邸宅でも身分を弁えた行動を身につけるようになる。

 表向きはジュリをお嬢様として扱うその陰で工場の娘が分不相応にと使用人たちに嗤われないように常に身なりを整え立ち居振る舞いに気を遣う。傍若無人でトラブルをすぐに引き起こすジュリのフォローも率先して行う。

 

 君のことはもう一人の娘だと思っているんだよ、と端正な顔に優しい笑顔を常に浮かべていたツチカの父親にも礼儀正しくふるまう。物語に登場する自慢の娘のように品良く清楚にお行儀よく、ただし時にはコケティッシュに。


 ツチカの父親は、商売には興味がないと公言してはばからない人物だった。撞木家の人々からもシモクインダストリアルの首脳陣からも後継者として端から期待はされていないのをいいことに、センスが光るプロデューサーとして芸能界で活動した後に開き直って道楽のような文化材保護団体の代表に収まっていた。

 怠惰で惰弱でどうしようもない腑抜けだが審美眼だけは確かだと、それだけは誰からも太鼓判をおされていた。


 そんなツチカの父親が、ある日、本を読んでいた二人のいる部屋の傍を通りかかる。そしてやおらしげしげと二人を眺めると、ジュリの傍に近寄り、立ったり座ったりを命じたり、難しい表情でジュリの周りを行き来する。六年生になったばかりのある日のことだった。

 不審な行動をとったあと、冷たい娘の視線をものともせずにツチカの父はどこかワクワクしたような優しい声で、しかしきっぱりと告げた。


「やっぱりだ。かねがね僕は君を見る度に思っていたんだが今日確信したよ。――珠里ちゃん、君の目の形は今でも決して悪くはないがちょっとを足すと今よりぐっと引き立つ。君の骨格の美しさと合わさって今より魅力が増すこと請け合いだ。槌華ツチカと今後全世界で活躍するワルキューレとして二人並び立ってゆくなら絶対そうした方がいい。いや、そうしなさい」


 ツチカの父を言うお化粧が何を指すのか、ジュリは分かっている。だからとっさに返事ができない。

 言葉につまるジュリに先立って、ツチカが自分の父親を思春期の少女らしい冷たい声で咎めた。


「パパ、勝手なこと言わないで。珠里はパパのコレクションじゃないんだから」

「分かっているさ。でもねえ、僕は君たち二人のためを思って言っているんだよ? そうした方が絶対いいんだ。何年かぶりにプロデューサーとしての僕のカンが告げるんだよ。妻の行きつけのクリニックに今すぐ予約をいれるから、そうしなさい。ね?」

「あたしたちまだ十二にもならないのよ? お化粧だなんて早すぎる」

「女の子は多少背伸びをするくらいがちょうどいいんだよ。――それにしてもずいぶん臆病な言葉だね、槌華。じゃじゃ馬なわが娘はどこへ雲隠れしたのかな?」


 そして再度ジュリの目をまっすぐ見つめて言うのだ。


「君もいつまでもじゃあつまらないだろう? 大丈夫、君が考えるほど怖いことじゃないから。みーんなやってることさ」


 そう言っていそいそと踊るような足取りでツチカの父は部屋を出ていく。本気だったようで、小一時間後には車の準備ができていた。

 パパのいうことなんか無視してもいいと、父親から臆病よばわりされてむくれたツチカは何度も言ったが、断る選択肢などジュリにはない。審美眼だけは確かなツチカの父による有難いアドバイスを蹴った身の程知らずの娘だという目で見られてしまう、と自分にそう言い聞かせる。


 医師の手によって目の形を整える程度の手間暇は、今ではそれこそお化粧とそう変わらない。かつての様に副作用に脅える必要も煩わしいメンテナンスに振り回されることもない。

 ある階級の人たちにとってそれは、半永久的に長持ちするお化粧でしかない。

 撞木の屋敷で起居するようになって六年目になろうというその日まで、そういった事例をつぶさに見てきた。後ろめたいことでも怖いことでも罪深いことでもなんでもない。


 平成末期の風情が今でも濃厚な下町で基本的な倫理観を植え付けられたジュリは、ツチカの父が用意した車に乗って自分に言い聞かせる。

 怖くない、なんでもない、ここではみんなやってる単なるお化粧。綺麗なものをたくさん見てきたツチカのパパさんが間違いないって言うんだからそうした方がいいんだ。



 

 二年前の保健室でジュリが明かしたのはここまでだ。


 いつの間にかベッドの上で体を起こしてジュリの話に聞き入っていたサランは、しばらく言葉を失う。生徒たちの声と遠くの潮騒が聞こえる程、保健室が静まった後に、サランは正直な感想を口にした。


「――この現代に本当にあった話とは思えなくてぶっちゃけどう反応したらいいのか分からないよう……」

「ごめん、重たかった?」

「まあ確かに軽くはなかった。でも、こんなことを言うとワニブチさんは気を悪くするかもしれないけれど、とんでもない話すぎてちょっと面白かったよう。おかげで鼻血もとまったっぽいし」

「面白がってくれたんならよかった。引かれたり同情されたりするよりずっといい」


 そう言ってジュリは微笑んだ。お化粧が施された目は確かにジュリの硬質な魅力を存分に引き立てていて、シモクツチカ父の審美眼が確かなのは真実なんだろうなとサランも納得した。

 でも、お化粧される前のワニブチさんの目はどんな形だったんだろうと考えながら、サランはヒヒヒ~と笑った。



 

 だから、あの掌編でジュリが語らなかった真実をサランが知ったのはかなり後のことになる。

 「黄昏の町」について触れられる度に何とも言えない苦笑を浮かべるのが気になって、ある日ふと尋ねてみたのだ。ジュリが文芸部の部長に就任し、髪を切って伊達メガネをかけだしてしばらく経った頃のことだ。



 ジュリの目にお化粧を施された十二歳になる年の四月。

 その翌月の連休に、ジュリは例年のように帰省した。


 いくらあたしらの親方だからって身内を無視してうちの孫の目を勝手にこんなにしちまうなんてあんまりだ、横暴がすぎる! と憤懣やるかたなしとばかりに怒る昭和末期生まれの祖母と、まあまあ……といなしながらもジュリの顔をみてなんと声をかけていいのか分からず明らかにとまどっている両親が言い争う実家に居づらく、ジュリは町をさまよい歩いていた。

 

 西の空が橙色に染まったころに河川敷にたどり着き、幼馴染の姿を認める。

 一年生の時、連休や長期休暇時の帰省の際には毎日一緒になって遊んでいた。お前も来いよ、と幼馴染の方から声をかけてくれたのだ。

 二年生から四年生くらいまでは、草野球のメンバーが足りないからという名目で引っ張り出された。ボールを打ったり投げたりするのは性に合っていたようで、撞木の屋敷に戻ったあとも時間を見てはこっそり勉強し、面白がったツチカ相手に練習もしていた。

 五年生の夏休みからは誘われなくなった。塾に通いだしたらしいと両親経由で耳に挟んだから、仕方がないなとあきらめた。せっかく速いボールもキャッチできるようになったのに。


 六年生の春休みにはついに姿すらみせてくれなくなった。


 だから六年生の五月には自分から会いに出かけた。会いに行ってみたはいいけれど、なんて声をかけたらいいのか分からず、遊歩道のベンチからじっと眺めているだけで終わってしまう。

 河川敷にいた幼馴染はボールを投げながら時々ちらちらとこっちを見ていたにも関わらず、かつてのように笑顔で手を振る様子も、こっちに来いと気安く命令することもなく、ただ無視するだけだった。


 これ以上は埒があかないと、ジュリはあまり帰りたくない実家に向かう。陽が落ちきる前には帰らねば。しばらく土手沿いの遊歩道をゆっくり歩く。



「あの時ゆっくり歩いていたのは、自分に幼馴染への未練があったせいだな。みっともない話だ」

 髪を短くしたばかりのジュリは吐き捨てるようにサランへ語った。



 十二歳になる年のジュリがゆっくり土手を歩いていると、後方からどやどやと騒がしい少年たちの声が近づく。自転車に跨ってゲラゲラ笑ったりふざけたりする少年たちは、さっき河川敷にいた少年たちだった。彼らはジュリを軽やかに追い越してゆく。

 その最後尾にいたのが幼馴染だった。ジュリの傍を通るとき、仲間に気づかれないようにスピードを落とす。

 ジュリはうつむく。隣に幼馴染がいると思っただけで、なぜか自然に俯き、全身が自然にかあっと熱くなってしまう。


 そんなジュリへ、幼馴染は不機嫌そうな低い声で呟くようにいった。

「何しに来たんだよ?」


 今までに聞いたことのない冷たい声だったから、ジュリの足はその場で止まる。幼馴染は停まることなく、ジュリの方へ顔を向けて軽蔑したような眼差しを向けて言う。


「鰐淵製作所んとこの整形女がいたぞってさっきあいつらにすっげえ笑われた。……黙って見てるだけとかキモすぎて引くわ。用があるんならせめてなんか言えよ」


 十二歳になるまであと数ヶ月だったジュリはその場に棒立ちになる。口も体もすぐには動かなかった。

 ただ、頭から熱湯が浴びせられたような思いがしただけだった。


「用は……特にない」

 そう絞り出すのが精一杯だった。


「……そうかよ」


 幼馴染はそう言って、ゆっくりペダルを踏む。その後一度ジュリを振り向いたが、すぐに腰を浮かしてぎゅんぎゅんとペダルを無茶苦茶に踏んで激しく自転車を漕ぎ、先を行く友達と合流していった。

 その光景はジュリにはもう見えない。お化粧を終えたばかりのジュリの目から、どうしようもなく涙が溢れてしまうのがとめられなかったから。

 その場に足を踏みしめて、歯を食いしばり、嗚咽を噛み殺して、なるたけ俯かず涙が足元に落ちないようにしないために天を仰ぎながら、あと数ヶ月で12になるジュリは今だけ戸外で涙を好きなだけ流すことを己に許した。




「……軟式ボールを25メートル以上投げられる男子なんてものはサルだな、やっぱり」


 髪を短く切って伊達眼鏡をかけ始めたばかりのジュリからその話を初めて聞かされた時、サランは白猫マグカップから雑コーヒーを啜りつつそのような感想を漏らした。


「そう言うな。僕の地元は平成末期から産業も風景も住人の気質も変わらない、インバウンド効果も期待できる素敵なノスタルジアエリアだからな。正当な理由があるわけでもないなに医療技術で外見を弄るのはよくない、ずるい、という価値観が二十一世紀末期になってすらなかなか払底されないんだ。――人の目を意識し始めた年頃の幼馴染が往生するのも仕方がないさ」


 一人称の「僕」がまだ板についていない頃のジュリは、お気に入りの文庫本のページを繰りながらそうして皮肉った。

 一体誰に対する皮肉なのか、皮肉の射程にいる人間は全部で何人なのか、サランはしばし考えた。


 お化粧の施された目はジュリがかけ始めた伊達眼鏡とも程よく調和していた。ジュリはそれをあるがままに受け入れているようだ。かつての決断を悔いている様子はない。



「かたじけないでござるな、サメジマ氏」

「どういたしまして。シャー・ユイが来るまでちょっと待っててよう」


 ケセンヌマミナコにそれなりに丁寧に淹れたコーヒーと、パトリシアからもらった菓子の山から一つ適当なものを選んだものを差し出しながら、サランはジュリを見やる。

 地雷を踏まれた衝撃から立ち直ったのか、新たに雑コーヒーをどぼどぼと淹れ直したジュリの佇まいを見ているサランの目には、今でも変わらずそう映る。






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