梅のき

 その時、鳥羽晴彦の部屋に入って、まず目についたのが、一つの鉢植えだった。


 観葉植物を植えるような大きな鉢植えに小さな若木が生えていた。


 それは盆栽には大きすぎ、観葉植物にしては小さすぎる木だったが、うねるような曲線を描く幹は、妙に妖艶だった。なので、最初に見た時は柳の木か何かかな、と思った。


「何だそれは?」部屋に入るなり、私はその鉢植えに顎を向けて尋ねた。

「梅だよ。梅。綺麗だろ?」晴彦はニコニコ笑って答えた。


 この男にそんな趣味があるとは知らなかった。

「へーえ。梅の木にしてはなんか綺麗だな」


 私の知っている梅の木は、しゃちほこばってカクカクしたイメージがあったが、その木はやたらと曲線が目立ち、樹皮も滑らかだった。だからこそはじめ見た時は柳の木と勘違いしたのだ。


 なんか妙な鉢植えだと思った。


「どうしたんだ?コレ?」

「貰ったんだよ。へへへ」そう言って、晴彦はまた照れるようにニコニコと頷いた。


「それはそうと、相談ってなんだ?」と私は尋ねた。

「ほら、モチさん、部屋を探してるって言ってたろ?俺もそろそろこの部屋を出て、も少し広いところに住もうかな、って思って、いい不動産屋を紹介してもらおうって思ってたんだ」

「なんだ、お前、寮を出るのか?」私は少し驚いて尋ねた。


 私と晴彦とは同期入社で、晴彦は総務、私は営業部に所属していた。

 私はこのところ仕事が順調で成績を上げており、今年の春に主任に昇格し、係長も遠くはないと噂されていた。


 我々が住む独身寮は係長までしか入居が許されず、実際には係長に昇進した途端に周りからジリジリと閉め出しが掛かるというので、そうなる前に次に住むマンションを気長に探していた。

 ちょっと気が早いが、東京でいい物件を見つけるには、一年越し、二年越しで探さなければ、いい物件が見つからない。

 実際、不動産屋を回ってみた結果、いい物件は大抵ホームページにアップされる前に契約されるケースが多く、これは気を長く持って足繁く店舗通いをするのが得策だな、と思い、休日にちょくちょく不動産屋に顔を出していた。


「なんだって、寮を出て行くのさ」

「いやあ、そろそろ俺も広い部屋に越そうかな、と思って」と晴彦は呑気な笑顔で答えた。

「まだここに居座っていた方がいいんじゃないか?ここ出たら、今の倍以上の家賃が掛かるぞ」

「判っているさ」晴彦は拗ねたように口をとがらせた。


 とりあえず、晴彦の話だけは聞こうと思って、希望の間取りなどを尋ねた。

 すると、出来れば2LDK、でなければ2Kか1LDKがいいという。予算は思った通りかなり低かった。


「そんな都合のいい物件、二十三区にゃないぞ」と窘めると、

「郊外でもいいんだ。多少遠くても構わん」と晴彦は言う。


 私は「じゃあ、判った」と言って、その日は彼の部屋を出た。勿論探す気などはない。そんな物件見つかる訳はないのだ。隣接県でもそんなものはない。


 ネットで相場を調べて出直せ、と思っていた。


 私の方も急いで探しているわけではなく、今のうちから不動産屋と仲良くなって、その時が来たらいい物件を紹介してもらいたいという、営業的な考えで暇な時に回っていただけだから、友達とはいえ、それほど親身にはなれない。


 奴は暫くここにいる方がいいと考えていた。


 部署が違うこともあり、私はそんなことがあったのをすっかり忘れていた。


 すると、十日ほど経って晴彦が私の部屋にやってきた。

 不動産屋の件はどうなているのか、と。


 それでも私はいい加減な答えをして、適当にあしらっておいた。


 しかし、すぐに諦めると思っていたが、毎日のように夜になると晴彦は私の部屋へやってくる。ここが寮の厄介なところだ。


 そこで仕方なしに今度の土曜日に不動産屋を紹介すると約束してしまった。

「最近、顔を出してないし、まぁいいか」と私は思った。



 駅前の不動産屋は沢山あったが、私が見つけた親切でキチンとした店は三軒だけだった。

 そのうち一軒はここのところ全く顔を出していない不動産屋だったが、晴彦向きの不動産屋だった。


 ここは、親類か縁者でもいるのか、武蔵野・多摩地区の古いアパートの物件をメインに扱っていた。


 家賃も安い。


 只、都心から非常に遠く、築二十年以上のボロ屋ばかりだった。中には半世紀くらい経っているものもザラだった。


 とても住めるようなところではないと思っていたが、店主の老夫婦が親身になってくれ、とても良い人達だったので、時々、顔を出してお茶を馳走になっていたりしたのだ。


 老夫婦も私に借りる気がないことは承知で、商売抜きで優しくしてくれた。


 何時行っても客はいなかったので、暇つぶしの相手には丁度いいと思ったのだろう。



 土曜日に晴彦を連れて駅前に行き、一番に例の不動産屋に顔を出した。


「こんにちは。ご無沙汰してます」と言って店の中に入った。

「あら、お久しぶり。元気にしてた?」おばあさんが優しい笑顔で答えてくれた。

「まあまあ、お茶でも飲んでいきなさい」と人のいい老人が手をこまねいた。

「今日はコイツの相談に乗って欲しいんですよ」と言って、私は後ろにいた晴彦の背中を押して前に出した。

 晴彦は黙ってペコリと頭を下げた。


「私はちょっと駅前に用があるんで、お願いします」と言って私はすぐに店を出た。


 晴彦の世間知らずな要望を横で聞く方が恥ずかしい。


 服や靴などを見てまわり、小さな雑貨店をひやかしてから、残りに軒の不動産屋に挨拶がてら顔を出した。


 思った通りいい物件はなく、丁重に断りとお礼を述べてから二つの不動産屋をを後にした。


 そろそろ晴彦も観念してる頃合いだと思い、最初の不動産屋を覗くと、おばあさん一人しかいなかった。


 おじいさんと晴彦は武蔵の方面の物件を内覧に出たそうだ。


「うちの人の車で行きましたが、いくつか回るって言ってましたから、遅くなりますよ」とおばあさんが言った。


 店の掛け時計を見ると、すっかり昼を回っていたので、駅前の小さな中華屋でチャーハンを食べて寮に戻った。


 晩夏とはいえ、夏の日差しは厳しく、寮に戻るとすぐに水風呂に入った。



 晴彦はなかなか帰ってこなかった。


 私はサッシを開けて出て、下の通りを眺めた。


 ヒグラシのジイジイという声が遠くで聞こえ、黄金色に染まる街並みに夕暮れの風が涼しかった。


 私は突然喉が渇いていることに気づき、冷蔵庫から缶ビールを出して飲んでいるところへ晴彦は帰ってきた。


 ドアがノックされ、「どうぞ」と言うとしょげた顔の晴彦の顔があった。


 私は、そらみたことかと思いながらも彼を部屋に上げビールを勧めた。


「ダメだったか?」私は尋ね、答えが返ってくる前に、

「まあ、こういうのは一度や二度じゃダメなのは当然だ。部屋探しは時間を掛けて、どっしり構えてやらないと失敗するぞ」と慰めた。


 晴彦は異常なくらい悄気げていて、缶ビールを一本飲んだだけで自室に帰っていった。



 晴彦は何故か早急に引っ越したいようだった。


 寮を出て行けと言われたわけでもないのに、どうしてそんなに急ぐのか、私には全く解らなかった。


 その頃、晴彦がパワハラを受けているという噂が流れた。苛めているのは、法務課の課長で、晴彦の直属上司でないのだが、自分より弱く口答えをしないと判るとネチネチ虐める陰湿な奴らしい。


 周りの者もパワハラの矛先が自分に変わったら厄介なので、何も言えないでいるらしい。


 しかし、同じ部内でも課が違うので直接のやり取りはないし、第一、生活環境を変えたからといって、職場環境が変わるわけでもない。


 もしかしたら、退職を考えているのだろうか?


 それから私も忙しくなり、話をする機械が少なくなったが、相変わらず物件探しは続けているらしかった。


 土・日には部屋を空けるし、たまに昼休みに総務部へ行くと、ネットで部屋探しをしている彼の後ろ姿があった。





 季節がすっかり変わった土曜の晩に晴彦がやって来て、部屋が決まったと、嬉しそうに報告してきた。


 どんな物件か聞いてみると、思った通り、電車で三十分、そこからバスで三十分以上かかる辺鄙なところだった。

 通勤には確実に一時間以上かかる。


「でも、いいとこなんだ。まだ畑も残ってるし、神社や公園には木も沢山生えてるし……」と晴彦の方は上機嫌だった。「小さいけど、庭付きの一軒家だよ」



 本当にそんな所があるのだろうか。あったとしても雨漏りしそうなボロ屋に違いない、と私は思った。


 晴彦の引っ越しは年明けだということだった。


 営業部は1月は暇で、上から有給休暇の消化をせっつかれていたので、思い切って連休を取り、その一日を晴彦の引越し手伝いに当てようと考えていた。


 引っ越しの荷物は、二トントラックの半分ほどしか無く、引越し先への手伝いは私と総務部の二人が手伝うことになった。


 晴彦は免許を持っていなかったので、私が運転することになり、引越し業者のトラックにくっついて現地に向かった。



 引越し先の家は、思った以上に酷い家だった。家というより、バラックや昭和からある仮設住宅といったほうが良かった。

 至る所、ペンキがはげ、天井は雨漏りのシミだらけで壁も汚かった。


 前の住居者が「良かったら使ってくれ」と言って置いていった小さな古い食器棚や色褪せた安物の衣装たんす、年季の入った三面鏡などは、明らかに粗大ごみに出す金が惜しくて置いていった代物だ。


 いいところといえば、家庭菜園くらいなら出来る大きさの庭だけだった。


 晴彦の荷物は驚くほど少なかったので、引越し作業はものの三十分で片付いた。


 畳に積もった埃を雑巾で拭き取ると、空気を入れ替えるために南側のサッシを全開して舞い上がった埃が外に逃げるのを待った。サッシ窓の前には小さな縁側があり、晴彦はそこに例の梅の木の鉢植えを置いた。

 晴彦が助手席の床において抱えながら大事そうに持ってきたものだ。

 初めて見た時よりハッキリ分かるほど成長していた。

 ちょっと異常な成長速度だ。


「この木にとってはいい部屋だな」私は皮肉半分に言ったが、晴彦はそれに気づかないのかニコニコして頷いた。


 小春日和の温かい日差しが降り注いでいた。





 それから二ヶ月くらい経った後、晴彦は無断欠勤を続けているという噂が流れた。


 もう一週間以上続いて、電話しても全く通じない。


 彼が寮を出てから全く音沙汰が無いので気にしていたところだった。


 その噂を聞いた午後、様子を見ようと総務部へ足を伸ばした。


 すると、部長が私の顔を見て私を呼んだ。


「持田くん、持田くん、君、鳥羽くんと親しいね。家も知っているそうじゃないか」と早口でまくし立てた。


「はぁ、一週間以上来てないんですって?」

「一週間どころじゃない。表沙汰にしたくないので、秘密にしていたが、もう一ヶ月以上たつんだよ」

「ええ~っ!」私は驚いて眼をひん剥いた。


「ちょっと、忙しいところ悪いが、行って見てきてくれないか?」


 私は営業車に乗り、晴彦の家へ急いだ。



 道が混んでいたので着いたのは日が傾きかけた頃だった。


 玄関は鍵が掛かっていて、ノックしても応答はなかった。

 家の表の方へ回ってみると、二部屋ある両方共、電気が消えていたがカーテンは開いていた。

 覗いてみると、人の気配は全く無い。


 もしかするとひょっこり帰ってくるかもしれないと思い、二時間ほど待ったが帰ってくることはなかった。


 仕方なく、私は総務部長に連絡し、見た儘を報告した。


「これはちょっと具合がわるいかもしれないね」部長はそう言って、自分も今から行くからそのまま待つようにと伝えてきた。



 部長より早く来たのは自転車でやってきた二人の制服警官だった。その後、中年の大家と名乗る男がやってきて、最後に部長の黒塗り高級車が到着した。


 部長は警官たちに訳を話し、中を見てきてくれるよう頼んだ。


 大家が合鍵でドアを開けると、二人の警官は靴カバーを穿いて家の中に入った。

 もうすっかり暗くなっていたので、懐中電灯を点けて警官たちは家の奥に消えていった。


 しかし、二人はすぐに首を横に振りながら戻ってきた。

「誰も居ないようです」警官が言った。「実家の方へは連絡したんですか?」


 部長は実家に連絡したが、何も連絡はなかったと、青い顔をして答えた。


「携帯電話は机の上にありました。メモらしきものもありません」と警官は誰に言うとも無く口を開いた。

「ここは一つ、面倒ですが親御さんにうちの署まで来て頂いて、失踪届や捜索願なんかの書類を書いてもらったほうがいいですね」


 どうやら警察は積極的に晴彦を探すつもりはないようだ。

 書置や遺書も無いし、脅迫状や身代金の要求などもなければ、動くことが出来ないのだろう。


「あのぅ」それまで黙っていた大家が口を挟んだ。「奥様の方はどうしましょう?わっしは連絡先もお名前も聞いてないんですが」


「奥様?」大声を出したのは部長だった。


「ええ……」


「鳥羽くんは結婚してないし、そういう話も聞いておりませんが?」部長は何故か怒ったように大家を睨んだ。


「いや、嫁を貰ったから越してきた、と言っていたようですが、わっしの聞き間違いかの?」


「聞き違いでしょう。結婚するなら会社に届けるでしょう。彼は総務の人間なんだから、忘れたり怠ったりするはずがありません」部長はきっぱりと言い放った。



「家賃の方はどうなるのでしょう?」と大家が尋ねれば、部長は「事件に巻き込まれてやむを得ず失踪したのかもしれませんよ」と警官に食って掛かる。


 部長と大家は埒も開かないことを言い合っていた。


 私はふと気になることがあり、四人から離れ、庭に回った。


 あの鉢植えがどうなったのか、気になったのだ。



 縁側に梅の鉢植えは無かった。


 とっぷり日は暮れ、すっかり夜になっていたが、その日は満月で、月の光が煌々と降り注いでいたので、闇にまみれるということはなかった。

 あの梅は、初めて見た時より、相当大きくなっていたから、見逃すはずもない。

 サッシ越しに二つの部屋の中も覗いてみたが、部屋の中にも無かった。


 梅の木の成長速度はかなり早かったようだから、自動車免許もない晴彦があの梅の木を持ってどこかに行くことも考え辛い。


 ふと、振り返ると、何か異質なものを感じた。


 なんだろうと思って、もう一度良く庭を見渡した。


 すると、庭の端に、引っ越しの時は無かった木があった。



 あの梅の木だった。


 余りにも大きくなっていたので気が付かなかったが、あの丸みがありか弱い枝ぶりや艶めかしい幹の括れや捻れはまさしくあの梅の木だった。




 そして、その横には節くれだって力強い梅の木があった。


 初めて見る梅の木だった。


 二本の梅の木は寄り添うように植わっていて、満月に照らされた姿は、若い夫婦が寄り添って満月を仰ぎ見ている姿に似ていた。

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