第176話「出藍の誉れ」後編

 第一話「出藍の誉れ」後編


 ――尾宇美おうみ領には”峰月ほうづき湖”という湖がある


 遙かいにしえの時代、天上の月から舞い降りし美しき天女が、湖面に映る月影に身を投じて帰ったという伝承がある名勝だ。


 ”見る人に、もののあはれをしらすれば、月やこの世の鏡なるらむ”


 れは月の如きにうつろうしゅじょうの有り様をうれうものか


 いくつき交わる逢わせ鏡カレイドスコープ


 れは無限に重なる異界への――――


 有象有象も”深淵”への知的好機リビドーは尽きぬ……


 一切合切も”黄昏”への破滅願望タナトスとどまらぬ……


 尾宇美おうみ城がそびえ立つ尾宇美おうみ平野西側に存在する”あかつき”最大の湖に纏わる寓話は多い。


 閑話休題――


 地理的には”峰月ほうづき湖”は、北に隣接する香賀美かがみ領を通りあかつき海へと流れ出でる大河”あで川”を擁し、その他にも百本以上の支流を持つ尾宇美おうみの水瓶であった。


 また、香賀美かがみ領から尾宇美おうみ領の峰月ほうづき湖へと繋がる支流のひとつ”御女おな川”周辺域は比較的ひらけた地形で、軍馬が南下するのには最適の進軍路であったが、逆に言えば香賀美かがみ領から尾宇美おうみ領の国境越え進路ルートは、それ以外は険しい山岳地帯に囲まれ大軍の移動には適していない。


 かつて”藤桐 光友みつとも”が画策した、政敵である”京極きょうごく 陽子はるこ”排除のための尾宇美おうみ城大包囲網戦で、”鈴原 最嘉さいか”が脱出ルートとして、この狭い峠路を最大限利用し大軍の追撃を煙に巻いたのは記憶に新しい。


 つまり――


 「……”これ”が上流から流れて来たと?」


 臨海りんかい第二軍を率いる加藤 正成まさなりが、尾宇美おうみ領へ向けてこの川沿いの南下進路ルートを採択するのは至極当然で……


 立派な太刀を背中に背負った将は、指に付着した米粒を注視しながら尋ねる。


 「はい、よりかなり上流に、それ程の量ではありませんが……」


 部下の報告に正成まさなりは暫し考え込んだ。


 「その辺りに人家は無いという調べだったな、ならば……いや、これだけでは早計か」


 そしてそう呟くと、正成まさなりは部下を数人呼び寄せ、早急な川上の調査を命ずる。


 ――


 斯くして半日ほど。


 その場にて進軍を留めた臨海りんかい第二軍であったが、もたらされた情報は……


 「加藤将軍の懸念された工作兵の姿はありませんでした。しかし、隠蔽作業を行った僅かな痕跡が……」


 加藤 正成まさなりの部下は優秀である。


 忍集団である元赤目あかめ出身者で固められた直属部隊の調査能力は”闇刀やみかたな”や”蜻蛉かげろう”に次ぐと噂されているほどで……


 「如何いかに数的不利とはいえ、我らの進軍を放置し、なかなか仕掛けて来ぬと思っていたが……なるほど」


 ここに来て正成まさなりは納得顔で頷いていた。


 「どうやら敵には小賢しい策士が居るようだ。だが……柳の下に泥鰌どじょうは二匹居らぬぞ」


 呟くと将は全軍に通達する。


 「全軍一時後退!一旦、峠口まで戻り、部隊を小隊に分割してから順次南下を再会する!!」


 ――



 「どうして臨海りんかい軍は川沿いの南下を中止し、わざわざ狭い峠道を分割して進軍するような面倒な行動を……」


 御女おな川上流から数キロ……


 すっかり臨海りんかい軍の捜索範囲から離脱した小隊で、指揮官に質問する兵士。


 「それはなぁ、一度痛い目にうてるからやろ」


 クリクリとした毛質のショートカットの、特徴の無さから地味な美人といった表現が適当だろう女が答える。


 この偽装部隊を率いる指揮官にして、王族特別親衛隊プリンセス・ガード、五枚目の五味ごみ 五美いづみだ。


 「痛い目ですか?」


 更に問う部下に彼女は面倒臭がること無く愛想良く説明を続けた。


 「鈴原 最嘉さいか赤目あかめ侵攻……”枝瀬えだせ城水攻め”や、っとるやろ?あんとき、水攻めで赤目あかめの援軍は壊滅したやん、そん時の赤目あかめ側の将の一人があの大将や」


 「あ!ああっ!?」


 頭の中でなにかが繋がったのか、今更ながら理解して兵士は声を上げる。


 「精神的外傷トラウマってやつやわ。やから、在りもせえへんウチらの……見せかけだけの工作もどきを警戒して、わざわざ回り道して、んで!ご丁寧に峠の”隘路あいろ”にご招待や」


 「隘路あいろ?……ああっ!!」


 そして更にその先の展開を、またも今更ながら理解した兵士は二度目の間抜け声を上げた。


 「あはっ!山には飢えた野犬けものるもんやしぃ、それより飢えた怖い怖い加虐性愛サド女がるかもや」


 屈託無く笑う五味ごみ 五美いづみ


 「……」


 その無邪気な笑みとは正反対の結果を感じ取ったのだろう、兵士はゴクリ!と生唾を呑み込んで顔を引き攣らせていた。


 「あははっ、八月はづきちゃん、やるやん!なかなかの詐欺ペテン師ぶりやわ!」


 ――

 ―


 「ま、また伏兵!……今度は側面からっ!!」


 その隘路あいろにて――


 「ぎゃぁぁ!」


 「だ、だめですっ!身動きがとれません!!いったん後退を!!」


 グルルルルゥゥ!


 ウゥゥゥゥッ!


 「うわっ!!」


 「ひぃぃっ!化け物っ!!」


 相次ぐ伏兵による襲撃に混乱する部隊!そしてそれを目がけて今度は茂みから巨大な獣が躍りかかって牙を剥く!!


 「くっ!だめだ!こんな場所で戦いどころではない!!」


 「援軍はっ!?他の隊からの助けは来ないのかっ!!」


 狭い隘路あいろを通るため、 加藤 正成まさなりが率いる臨海りんかい第二軍は軍を幾つかに分割した。


 敵の水攻めを回避し、速やかに尾宇美おうみ領に向かうための代替案だ。


 だが分割したとは言え、元々が大軍の臨海りんかい軍であるから、それぞれの部隊はそれでも千以上であった。


 この道幅に対しその数では……当然”機動力”は極端に制限される!


 そんな状態の臨海りんかい軍を、あらかじめ伏せた部隊で各個撃破する新政・天都原あまつはら軍。


 新政・天都原あまつはら軍は百単位の絶妙な複数部隊に別れ、高機動力で臨海りんかい軍を翻弄する。


 更には、未知に近い敵国領土内で予定にない別ルートを急遽選択した臨海りんかい軍に対し、新政・天都原あまつはら軍は我が庭である。


 ガゥッ!ガウッ!ガァウ!


 「ぎゃぁぁ!」


 投入された伏兵部隊の手際もさることながら、同時に向けられる森の生態系で頂点を極めた巨大な猛獣の襲撃は……臨海りんかい軍にとって悪夢と言うほかない!


 「ルヴトー、食べるのはやめておきなさい。ふふ……おなかを壊すわ」


 ――とどのつまり、完全にしてやったり!!


 その光景を少し離れた位置で傍観していた、長い巻髪で色白の、如何いかにも高飛車そうな女の赤い唇は嗜虐的サディスティックに歪んで上がっていた。


 王族特別親衛隊プリンセス・ガード、九枚目の九波くなみ 九久里くくりである。


 「上手く分断出来ているみたいね、良いわ」


 獣は蹂躙に加え、その特性を生かし――


 人足ではとても通行不可能な獣道を縦横無尽に駈け、臨海りんかい軍による隊間の連絡を完全に遮断するという周到ぶり。


 勿論、それを可能にするのは……”獣匠ハウンド”としての技能を持つ九波くなみ 九久里くくりが在ってこそだろう。


 五味ごみ 五美いづみが言うところの”怖い怖い加虐性愛サド女”……


 武器に鉄鞭と子飼いの狼二匹を使役する”獣匠ハウンド”の女。


 「八月あのこの指示では、後方は緩めておく予定だけど……ふふ、このまま山中で徹底的に嬲るのも良いかもしれないわ…………っ!?」


 「うおぉぉぉぉぉっ!!」


 臨海りんかい軍を好き放題に蹂躙していた女が更なる凶行に及ぼうと思案しだした時だった、そこに一騎の騎馬兵が突進して来る!!


 「貴様が指揮官かっ!!我が名は……」


 尋常ではない!


 この波打つが如き勾配こうばいを!曲がりくねった狭路を!


 騎馬武者は飛ぶような怒濤の勢いで馬を駆り、九久里くくりに迫る!!


 「チッ……やっかいね!」


 そして騎馬武者の標的ターゲットとなった加虐性愛者サディスティックな女の口元からは、微笑みが消えていた。


 「ヴランシェ!」


 ザザザザザッ――


 女の声に呼応して!藪から白い巨獣が踊り出て、


 ヴォォォォーーーン!!


 咆哮と共に騎馬武者に襲いかかった!


 そして――


 馬上の九久里くくりは、その間に愛用の鉄鞭を……


 カッ!――ババッ!!


 しかしその騎馬武者は、背中に背負った刀を鞘のまま解き放ち、そしてそれを揺れる鞍に打ち着けると、まるで棒高跳びのように跳躍した!!


 ヴォォォォ!?


 間一髪で巨獣の牙を飛び越える武者!


 「……参るぞ!!」


 ババッ!!


 そのまま空中で刀を抜いた武者は、勢いのまま九久里くくりの間合いへ――


 「じょっ!?冗談じゃないわよっ!!」


 その武者のあまりの速さに……自在な仰俯角ぎょうふかくに……


 飛び方は棒高跳びだが、幅跳び並に水平方向へ一直線!!


 ヒュ――――ババッ!!


 一足跳びで九久里くくりの間合いに跳躍した武者に、彼女の鉄鞭は虚しく空気を裂くだけだった!


 シャラン!


 懐でひらめく白刃!!


 「くぅっ!」


 女の自慢の長い巻髪が数本、短くなって宙に舞う!!


 咄嗟に!人体の稼働角度限界と思える程も仰け反った九久里くくりは、白刃をなんとか紙一重でやり過ごす事に成功するが……


 ――ドサッ!


 そのまま体勢を崩して馬上から転げ落ちていた。


 「終わりだ!」


 息つく暇無く、無様の上空うえから容赦なく武者の二撃目が……


 「ル、ルヴトー!!ヴランシェ!!」


 ガルルルゥゥ!

 ウゥゥゥゥッ!


 「むぅ!?」


 泥にまみれた巻き毛の女にトドメをさすため、抜き身の刃を振り下ろそうとした武者に、

彼女が子飼いの二匹の巨獣……黒と白の大狼が牙を剥き出した形相でそれを阻んでいた。


 「…………」


 従狼のおかけで一命を取り留めた九波くなみ 九久里くくりは、屈辱の泥にまみれたまま武者を睨み上げる。


 「……」


 無言で刃を構えたまま、二匹の巨大な狼と対峙する武者……


 依然、”加藤 正成まさなり”は、必殺の機会をうかがったままだ。



 「臨海りんかいの”飛将軍”だったかしら?……加藤 正成まさなり……ね……なにが”飛将軍”よ!馬鹿げた跳躍力と忍びのわざ……ちゃんとってるわよ」


 赤い滴が零れるほどにギリギリと唇を?む女は、先ほどの死の経験を経た事で記憶の奥にあった知識の欠片と目前の人物が繋がったようであった。


 「赤目あかめの”飛び加藤”……別名”空撃の刃エアリアル・キリング”……」


 「……」


 ――


 お互いが隙をうかがい、極限の命のやり取りが続く最中――


 「か、加藤将軍っ!!敵の包囲が崩れましたぁぁ!!」


 「将軍!!い、今ならっ!!」


 窮地に陥っていた臨海りんかい第二軍の兵士達から、状況好転の叫びが次々と響く。


 それは臨海りんかい兵の奮戦と、伏兵部隊指揮官である九波くなみ 九久里くくりからの指示が途絶えたために手に入れられた幸運だろう。


 「…………後方に一点突破!」


 「ちょっ!」


 緊迫した状況で、加藤 正成まさなりは刃を仕舞い背を向ける。


 「一旦この隘路あいろを抜け、集合、合流する!!」


 「……」


 九波くなみ 九久里くくりは肩透かしを食らい、一旦は不満な声を上げたが……


 直ぐに思い直したのか、大人しくその背を見送った。


 ――加藤 正成まさなりは指揮官らしく、個の勝利より全体の安全確保を優先した


 それは将としては当然の行動だろう。


 すみやかに後退して行く臨海りんかい軍を見送る女は……


 「追撃は藪蛇ね、十分役目は果たしたんだから……」


 ――

 ―



 香賀かが城内――


 「敵に工作をぎりぎりで察知されるように仕向ける難しい任務……それも、”それ自体”が実は擬態なのですから、さすが五美いづみさんです!撹乱かくらん戦術はものですね!!」


 そばかす顔の少女策士は、任務を上首尾で終えて戻った五味ごみ 五美いづみを激賞していた。


 「そやね。けど、そこまで褒められたら……ちょい”こそばゆい”なぁ」


 照れ笑いしながらも満更でもない、地味な美人の得意技は……


 ――ズバ抜けた技量の形態模写と、工作、撹乱かくらん任務だった


 「……そうね。我ら”王族特別親衛隊プリンセス・ガード”としてはこなせて当然の任務レベルよ」


 ――!?


 そんな八月はづき五美いづみの前にちょうど帰還したのは……


 「ぷぅっ!!なんやぁ、九久里くくりぃ!ちょい見ん間に泥臭い女になったやん!」


 五美いづみ九久里くくりの泥にまみれた姿を見て、たまらず吹き出した後で楽しそうに笑い転げる。


 「ちっ……泥臭い田舎女は貴女でしょうが」


 ただでさえプライドの高い九久里くくりは本当に不機嫌そうにそう吐き捨てると、策士の少女に向けて視線を投げた。


 「敵の前進は阻止、その後は”そこそこ”削ったわ……で、言われた通り無理をせず、後ろの囲いは薄くして後退させたけど?」


 未だ不機嫌な表情かおはそのまま、八月はづきに報告する九波くなみ 九久里くくり


 「有り難う御座います、九久里くくりさん。これで敵軍は、時を労したうえに振り出しに戻りました」


 「これで良いの?多少の時間稼ぎにはなったけど、削ったといえ二万もの大軍だから、まだまだ残りは……」


 もうちょっと無理をすれば、もっとれたのでは無いかと、そういう不満顔の九久里くくり八月はづきは首を横に振る。


 「敵は屈指の将である加藤 正成まさなりです。欲をかくと、こちらが大打撃をこうむる可能性も高いです。それに……」


 通常の行軍で一度。


 水攻めを懸念した進軍路ルート再考で一度。


 そして、隘路あいろにて妨害され一度。


 加藤 正成まさなりの軍は、都合三度もこの平原まで戻されたことになる。


 それは時間的ロスもさることながら、肉体的、精神的徒労感もさぞ大きいだろう。


 「それに多分、こちらが何をするか解らない疑心暗鬼状態に持ち込めましたから、敵はこの香賀かが城を無視して通過は出来難くなったと思います。ここからは当初の予定通り、頑張って籠城戦にて時間を目一杯に稼ぎましょう」


 八十八神やそがみ 八月はづきはにっこり笑って、結構ハードな任務を口にする。


 「まぁな、やるしかないわなぁ」


 笑い転げていた五味ごみ 五美いづみもいつの間にか座り直して、あきらめ顔で頷いていた。


 「そうね……そうだわ……十倍、いえ、百倍の汚泥まみれにしてから首を狩るのも……」


 そして、完全な私怨で嗜虐的サディスティックな赤い唇を歪んで上げる九波くなみ 九久里くくりの姿が香賀かが城内にあった。


 ――

 ―



 香賀かが城前、平原――


 「各隊、順次合流しております。現在把握できた被害は、死者二百六名、負傷者六百五十四名……また指揮系統の完全な統制には今少し時間が掛かるかと」


 部下の報告を聞きながら加藤 正成まさなりは無言にて腕を組んで座っていた。


 「あの……本当にこのまま城攻めを?」


 「……」


 そして部下の質問に、臨海りんかい第二軍司令官の大任を授かった男はスッと立ち上がる。


 「どうやらあの城には厄介な人物がいるようだ。ならば、後顧の憂いを断たねば、このまま捨て置いて進むことは出来んだろう?よもや寡兵だからと侮るなよ!」


 厳しい表情の正成まさなりが命に、その場の部下達は即座にザザッ!と背筋を正して敬礼する。


 「……」


 その後も軍の準備を整える間――


 歴戦の将は遙か遠方、険しい山脈を眺めて立ったままだった。


 「よもや?……よもやか……本当に”あっち”が本隊になろうとは……」


 第一話「出藍の誉れ」後編 END

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