第86話「狂人の交渉場(テリトリー)弐」後編(改訂版)


 第四十六話「狂人の交渉場テリトリー 弐」後編


 ズズズ……


 「……」


 更に左手の高度を下げる俺、


 「……」


 俺の顔を見据えたままの焔姫ほのおひめ


 ズズズ……


 俺は更に下げる。


 機械のように、無感情に……刃の突き刺さったてのひらを徐々に下げ続ける。


 「も、もうこれ以上は……」


 「うっ!ぐ……」


 長州門ながすどの”白き砦”ことアルトォーヌ・サレン=ロアノフは堪らず白い顔ごと”それ”かららし、人相の悪い坊主、安芸国あきぐに 慧景えけいは禿げ頭に脂汗を浮かべ顔を歪めていた。


 「……」


 ――無理も無い


 戦場で血には馴れた強者共も、”平和な世界での”こういった趣向には耐性が無いだろう。


 これはわば自身による拷問。


 極悪な挑発とか脅迫と言った類いの邪道で、普通の神経なら見るに堪えないのが当たり前の光景だ。


 ――だが……


 「…………」


 血に濡れた小刀を握る紅蓮の姫は……動じない。


 紅蓮あか双瞳ひとみも、石榴の唇も、


 微塵も揺らぐ事無く真正面から”鈴原 最嘉おれじしん”を見ていた。


 ズズズズ……


 開いたてのひらに鉄の異物がめり込み、肉の内を裂いて進む……


 この時、刻まれる腕越しに、握った小刀越しに、肉を切り裂いて伝わる鈍い振動は俺と覇王姫、共通の感覚だろう。


 「……」


 「……」


 ――ブシュッ!!


 やがて僅かな抵抗と供に赤黒をまとった金属の切っ先は、侵入した反対側から姿を現す。


 手の甲から封を切ったシャンパンの様に、特に”めでたく”もない飛沫が一、二度噴き出し、その直後に下方へと更にあかを注いでゆく。


 「…………」


 思わず息をのむ程の美女の眼差し、


 魅つめることごとくを焼き尽くしそうなほどあかあか紅蓮あかく燃える紅玉石ルビー双瞳ひとみ


 ――ペリカ・ルシアノ=ニトゥ


 ”紅蓮ぐれん焔姫ほのおひめ”と呼称される長州門ながすどが覇王姫が紅蓮の双瞳ひとみが奥に、炎の”紅蓮あか”が揺らめき、


 最早、血塗ちまみれの白い手には大気に触れて変色したそれの上から更に”なみなみ”と注がれる流血の”あかい滝”


 「……」


 ――そう、これは”狂気”だ


 「……」


 ――覚悟という名の”狂気”


 そして”狂気それ”は、時にしてあらゆる交渉術に勝る事を俺は幾つかの経験から思いらされていた。


 「鈴原すずはら……最嘉さいか……」


 紅蓮の姫が俺の名を呟いた。


 「……」


 俺は返事を返さない。


 今や”串刺し状態”で、それでも更に下方へ向けスライドする俺のてのひらは……その五指は……


 ――


 ビクリッ!ビクリッ!と痙攣するが


 「…………」


 俺の表情は一切の鉄面皮だった。


 ズズズ……



 ――判断を誤れば全てが終わる戦場において忌みされる行動がある


 無謀な行動、浅慮な行為、無意味な虚仮威し……


 ――愚行の極致だ。自己をして他者に誇るだけの愚者の蛮勇!


 ズズズ……


 ――だが、それが唯一存在感を発揮する希なる瞬間は……


 「……さい……か……」


 百戦錬磨、鬼神も避ける覇王姫……ペリカ・ルシアノ・ニトゥの紅蓮の双瞳ひとみに初めて陰がよぎった。


 「……」


 相変わらずの鉄面皮が下で、俺の口端が捻上がる心象イメージ


 ――そう、そういう希なる瞬間は……確かにある


 ズズズ……


 貫かれて小刻みに痙攣する五指、てのひらを下降させ、遂に到達した最下層で……


 ググッ!


 「…………ぁ」


 小刀の鍔部分に刺さる”封書”越しに……


 僅かな厚みのつば越しに……


 不細工な旋律を奏でる様に不揃いに跳ねる俺の指は、どうしようも無くあかまみれた柄を握る”ペリカかのじょ”の血まみれの指先に触れ、紅蓮あかい女は、まるで幼い少女のようにうぶく”小声ひめい”を上げた。


 「……」


 俺の血に犯された白い指先を、生臭いあかまみれた異物越しに握りしめる!


 「…………さい……か……」


 血にまみれ……


 更に下方にある床にさえ血溜まりが出来るほどの生臭さの中で、


 俺を見上げる紅蓮あか双瞳ひとみは……瞬間いま、この時は……


 まるで熱に浮かされた乙女が微熱の瞳。


 「…………」



 苦痛に抗えるのは精神力や忍耐力では無い。


 そんな”モノ”では常軌を逸した苦痛に抗うことは到底適わない。


 「果実は危険極まりない刃の向こう側……だったか?だが、鈴原 最嘉オレには収穫は造作も無い」


 「……!」


 小さく声を上げた女の紅蓮の双瞳ひとみが間近で大きく見開かれ、


 そして俺は”其所ソコ”に達しようとしていた。



 「さ……い……か……」


 「…………」


 ――痛覚制御……


 それは人智の外にある外道のわざだ。


 てのひらは人体の中でも最も神経の密集する部位のひとつ。


 なればこそ、そこは他の部位に比べ類を見ないほどの痛点の密集地帯である。


 日々の激しい訓練で痛みに馴れた兵士でも、戦闘で傷つけられる事が希なその部分を切り刻まれれば発狂し、昏倒する。


 ――って……


 効率よく拷問するには、てのひらや指先を痛めつけるのは非常に有効な手段だろう。


 そんな基本的な事は此所ここに集った誰もが承知だ。


 だからこそ俺は……


 俺はそういう箇所に”自ら”ゆるゆるりと、痛みを与え続けた。


 ズブズブと異物が肉を切り開く感触。


 ズキリ、ズキリとてのひらから肘へ、”こめかみ”へ走る発狂レベルの激痛。


 度を超えた痛みは、腕の腱だけでなく背骨にさえ到達し脊髄を何往復も貫き続ける……


 その衝撃は痛みを越え、最早激しい熱となって体中を駆け巡っているようであった。


 「……」


 ――そんな中、俺は”其所ソコ”に沈め続けた


 てのひらを、左腕を……意識を……精神を……


 ――深い深い水の底……”其所ソコ”へ


 いいや、水というのには違和感があるだろう。


 それは……


 そうだ、まるで恐怖から逃れようとする意識を拒む弾力のある海。


 人が”痛覚それ”から逃れることを認めない”ことわり”のような抵抗の海。


 ――俺は”其所ソコ”に沈ませる、精神を、存在を……


 鈴原すずはら 最嘉さいかを”拒む海”に……


 手に足に胸に肺の中に……ズシリと魂にさえまとわり付く抵抗の海底そこへ……沈め続ける。



 ――そう、それは真実まさに”水銀の海”


 人を断固として拒む”銀の世界”


 ――

 ―




 「もう……いいわ」


 遙か遠くで……


 女の声が響いた気がした。


 「……」


 ――なんだ?


 ――まだ俺は本当の意味で達していないだろうに?


 俺は……


 深い深い”銀の世界”から、


 ”其所ソコ”から帰還させられた事に大いに不満だった。


 「……わかった……から……少し時間を置いてから……”再交渉”しましょう」


 大いに興ざめだった。


 紅蓮あかい髪の女は……


 ことごとくを焼き尽くしそうなほどあかあか紅蓮あかく燃える紅玉石ルビー双瞳ひとみの女は……


 俺に視線を合わすこと無く言い捨てて、臨海こちら側の答えを聞く前に既に退出しようとする。


 「……」


 ――この”覇王姫おんな”には大いに失望し……!?


 すっかり血塗れになった小刀のつかから、つば越しの俺の指先から自身の白い手を遠ざけて離れた覇王姫、ペリカ・ルシアノ・ニトゥの背中を呆けた様に眺めていた俺は我に返る。


 ――俺は……いったい!?


 そう、俺は一体、何に失望を?


 「……アルト」


 去り際、立ち尽くしたままの自身の側近に声をかけるペリカ。


 ――俺は元々、交渉のためにこんな賭に出たはず……だのに、いつの間にか……


 「え、えぇ……では……一時間後に交渉の再開を……」


 未だ白い顔で……は元々だったか?


 いいや、明らかにそれとは違う蒼白さの残る顔で突っ立っていた長州門ながすどの覇王姫、ペリカ・ルシアノ・ニトゥの懐刀、”白き砦”のアルトォーヌ・サレン=ロアノフは、あるじの声に気を持ち直し、その意を汲み取って俺達にそう確認した。


 「は、はい、解りました……あの……」


 それに花房はなふさ 清奈せなが応え、俺に目配せをする。


 「……」


 俺は……コクリと頷く。


 ――まぁ、上々だ……


 俺は己の内にくすぶっているわだかまりを一時は忘れ、本来の目的は達したろうと自分自身を納得させる。


 ”再開”と言うことは、交渉を続けると言うことは、長州門ながすど臨海りんかいとの取引に応じる用意があると言う事だろうからな。


 「そう……なら、わたくしは少し休ませて頂くわ」


 俺の返事を聞き届けた後、若干付かれた顔色をしつつもペリカはわざと俺の居る方へ、


 未だ左手を小刀に串刺されたままの俺が立つ、惨状現場を横切る様に歩いて来る。


 遠回りして、俺達臨海りんかいあらかじめ用意した控え室へと移動して行く。


 「……」


 「……」


 そして……平然とした表情で、紅蓮あかい姫は作った”すまし顔”で俺とすれ違う。


 ――はは……


 なんて負けず嫌いだ、気の強い女だなぁ


 俺はそれが妙に可笑しくて……

 何故かいじらしく感じて……


 ズキリズキリと激痛に疼く左手をそのままに、

 すれ違い様の紅蓮あかい女に対して、


 よせば良いのにこう言ってしまった。


 「意外と可愛いとこ、あるのな……焔姫おまえ


 「っ!!」


 ギィィーー

 バタンッ!!


 その時の、無言で去って行く紅蓮の焔姫ほのおひめの整った顔は……


 彼女の瞳に劣らぬほど赤く染まっていたのだった。


 第四十六話「狂人の交渉場テリトリー 弐」後編 END

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