第86話「狂人の交渉場(テリトリー)弐」後編(改訂版)
第四十六話「狂人の
ズズズ……
「……」
更に左手の高度を下げる俺、
「……」
俺の顔を見据えたままの
ズズズ……
俺は更に下げる。
機械のように、無感情に……刃の突き刺さった
「も、もうこれ以上は……」
「うっ!ぐ……」
「……」
――無理も無い
戦場で血には馴れた強者共も、”平和な世界での”こういった趣向には耐性が無いだろう。
これは
極悪な挑発とか脅迫と言った類いの邪道で、普通の神経なら見るに堪えないのが当たり前の光景だ。
――だが……
「…………」
血に濡れた小刀を握る紅蓮の姫は……動じない。
微塵も揺らぐ事無く真正面から”
ズズズズ……
開いた
この時、刻まれる腕越しに、握った小刀越しに、肉を切り裂いて伝わる鈍い振動は俺と覇王姫、共通の感覚だろう。
「……」
「……」
――ブシュッ!!
やがて僅かな抵抗と供に赤黒を
手の甲から封を切ったシャンパンの様に、特に”めでたく”もない飛沫が一、二度噴き出し、その直後に下方へと更に
「…………」
思わず息をのむ程の美女の眼差し、
魅つめる
――ペリカ・ルシアノ=ニトゥ
”
最早、
「……」
――そう、これは”狂気”だ
「……」
――覚悟という名の”狂気”
そして”
「
紅蓮の姫が俺の名を呟いた。
「……」
俺は返事を返さない。
今や”串刺し状態”で、それでも更に下方へ向けスライドする俺の
――
ビクリッ!ビクリッ!と痙攣するが
「…………」
俺の表情は一切の鉄面皮だった。
ズズズ……
――判断を誤れば全てが終わる戦場において忌みされる行動がある
無謀な行動、浅慮な行為、無意味な虚仮威し……
――愚行の極致だ。自己をして他者に誇るだけの愚者の蛮勇!
ズズズ……
――だが、それが唯一存在感を発揮する希なる瞬間は……
「……さい……か……」
百戦錬磨、鬼神も避ける覇王姫……ペリカ・ルシアノ・ニトゥの紅蓮の
「……」
相変わらずの鉄面皮が下で、俺の口端が捻上がる
――そう、そういう希なる瞬間は……確かにある
ズズズ……
貫かれて小刻みに痙攣する五指、
ググッ!
「…………ぁ」
小刀の鍔部分に刺さる”封書”越しに……
僅かな厚みの
不細工な旋律を奏でる様に不揃いに跳ねる俺の指は、どうしようも無く
「……」
俺の血に犯された白い指先を、生臭い
「…………さい……か……」
血に
更に下方にある床にさえ血溜まりが出来るほどの生臭さの中で、
俺を見上げる
まるで熱に浮かされた乙女が微熱の瞳。
「…………」
苦痛に抗えるのは精神力や忍耐力では無い。
そんな”モノ”では常軌を逸した苦痛に抗うことは到底適わない。
「果実は危険極まりない刃の向こう側……だったか?だが、
「……!」
小さく声を上げた女の紅蓮の
そして俺は”
「さ……い……か……」
「…………」
――痛覚制御……
それは人智の外にある外道の
なればこそ、そこは他の部位に比べ類を見ないほどの痛点の密集地帯である。
日々の激しい訓練で痛みに馴れた兵士でも、戦闘で傷つけられる事が希なその部分を切り刻まれれば発狂し、昏倒する。
――
効率よく拷問するには、
そんな基本的な事は
だからこそ俺は……
俺はそういう箇所に”自ら”
ズブズブと異物が肉を切り開く感触。
ズキリ、ズキリと
度を超えた痛みは、腕の腱だけでなく背骨にさえ到達し脊髄を何往復も貫き続ける……
その衝撃は痛みを越え、最早激しい熱となって体中を駆け巡っているようであった。
「……」
――そんな中、俺は”
――深い深い水の底……”
それは……
そうだ、まるで恐怖から逃れようとする意識を拒む弾力のある海。
人が”
――俺は”
手に足に胸に肺の中に……ズシリと魂にさえ
――そう、それは
人を断固として拒む”銀の世界”
――
―
「もう……いいわ」
遙か遠くで……
女の声が響いた気がした。
「……」
――なんだ?
――まだ俺は本当の意味で達していないだろうに?
俺は……
深い深い”銀の世界”から、
”
「……わかった……から……少し時間を置いてから……”再交渉”しましょう」
大いに興ざめだった。
俺に視線を合わすこと無く言い捨てて、
「……」
――この”
すっかり血塗れになった小刀の
――俺は……いったい!?
そう、俺は一体、何に失望を?
「……アルト」
去り際、立ち尽くしたままの自身の側近に声をかけるペリカ。
――俺は元々、交渉のためにこんな賭に出たはず……だのに、いつの間にか……
「え、えぇ……では……一時間後に交渉の再開を……」
未だ白い顔で……は元々だったか?
いいや、明らかにそれとは違う蒼白さの残る顔で突っ立っていた
「は、はい、解りました……あの……」
それに
「……」
俺は……コクリと頷く。
――まぁ、上々だ……
俺は己の内に
”再開”と言うことは、交渉を続けると言うことは、
「そう……なら、
俺の返事を聞き届けた後、若干付かれた顔色をしつつもペリカは
未だ左手を小刀に串刺されたままの俺が立つ、惨状現場を横切る様に歩いて来る。
遠回りして、俺達
「……」
「……」
そして……平然とした表情で、
――はは……
なんて負けず嫌いだ、気の強い女だなぁ
俺はそれが妙に可笑しくて……
何故かいじらしく感じて……
ズキリズキリと激痛に疼く左手をそのままに、
すれ違い様の
よせば良いのにこう言ってしまった。
「意外と可愛いとこ、あるのな……
「っ!!」
ギィィーー
バタンッ!!
その時の、無言で去って行く紅蓮の
彼女の瞳に劣らぬほど赤く染まっていたのだった。
第四十六話「狂人の
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