ラザロは待っている

伊智

1

天気のいい日に図書館に居たいと思う。晴れの日には耕せと先人に叱られそうではあるが、僕は少なくともそう思う。

目が覚めて、カーテンの隙間から顔面に差し込む光が心地よい時に、僕は束ねた紙と、古いインクの匂いを思い出して、新しい本でも読みに行こうかなという気分になる。

 相反して、雨の日にはじっと自宅に居たいと思う。少なからずの人がそうであるように、濡れ鼠とは関係の無い部屋で伸び伸びと過ごしたいのだ。

今日僕が図書館にいる事実に、残念ながら天気はまったく関係無い。仕事とはそういうものである。

「いい靴を履いていらっしゃるようだ」

 僕の数歩先を行くハルタ氏が、振り返りもせずにそう呟いた。

「足音が一等小気味良い。お若いのに感心です、私が君くらいの頃は安かろう悪かろうの代物を買い換えてばかりいましたから。良い足音の男は信頼できる」

 ハルタ氏はゴムボールのような身体を揺らし愉快げに笑っていて、僕はといえばはにかみながらも、彼がごろごろと階段を転がり落ちる光景を想像して遊んでいた。

 もう、かれこれ数十分は階段を降りていた。踊り場のようなものもなく、ただひたすらに長く平べったい螺旋階段を降りていく。氏が慎重に足を運ぶペースに合わせて進んでいるのもあって、階段はとにかく果てしなかった。

「すみませんね、長々と」

「今まで階段の途中で倒れた人はいなかったんですか?」

「幸いにして今のところ報告はありませんね。エレベーターの設置も当初は計画にあったそうですが、建築家の意向で結局無しになったとか」

「建築家には建築家なりの哲学があるのでしょう」

「ちなみに、遠藤瓶はここにいますよ。彼なりの哲学とやらは本人に聞けるかと」

 階段に響く、革底靴の足音。

 遠藤瓶といえば、無学な僕でも聞き覚えのある名前だった。因果なことに、実家の近くに遠藤瓶の墓地があったのだ……遠藤瓶の墓地といってもそこに彼が眠っているというわけではなく、彼がデザインした墓地である。

墓石にはめいめいに彼の飼っていたカタツムリが埋められているという都市伝説を、信じていた時期もあった。

 世界中に珍妙な作品を残したかの有名な建築家が死去したニュースを耳にしたのは、ごく最近だ。

「カタツムリの墓石を作っていたことで有名な」

「なんて?」

「いえ、なんでも……」

「とにかくたくさんいます、神も仏もない空間なので。女房は敬虔なキリスト教徒なので、私が帰宅するたびに十字を切っていますが……機嫌を取るために毎日苦労してますよ」

「いまどき熱心な方ですね。本は死なないというのに」

「ええ、そうでしょうとも。もちろん、燃やしたり、土に埋めたりしない限りはね」

 氏の口調は相変わらず弾んでいた。階段を延々とバウンドしていく。僕はその後をついていく。

 やがて階段を降りることに退屈を覚え始めた頃、ようやく単調な階段を打ち止める自動ドアが現れた。

 ガラス越しに見た内部の様子は、僕の予想をはるかに超えて奇天烈なものだった。

 棺の群れだ、と思った。しかし、それらは本棚だ。

「ご存知でしょうが、中は常に一定の温度と湿度が保たれています。中の備品を外に持ち出すこと、飲食、騒がしくすることや、宗教的な議論は禁止です」

「僕は無神論者です」

「ではそれも、口にはしないように。きっと彼女は怒るので」

 ハルタ氏の窘めるような視線が僕を黙らせた。彼がカードキーとパスワードによる複雑な解錠を行っている間、僕は上の、はるか上の階に陳列しているであろう古い書物達のことを想った。

 紙とインクで構成されたものが好きだった。それは決して肉と血液ではない。

 口寄せ自体に具体的な嫌悪感がある訳ではなかったが、少なくとも図書館の発展は僕の思い描いたようなものではなかった。

僕は学生時代、図書館というものは上に上に積み上がっていくのだろうと本気で信じていた。しかし現実はまったくの逆で、図書館は下へ下へとその様相を広げていったのだった。

 まるでやましい秘密があるかのように。

 地下の奥底に隠したいものといえば、公にするには些か問題のあるものだろう。犬が骨を地中に隠すように、人もまた同じであると、この場に足を踏み入れて改めて感じた。

「……すみませんね、お待たせしてしまって。今ようやく開きました、どうぞこちらへ」

 汗を拭きながらハルタ氏が呟くのと、自動ドアが開くのはほぼ同時だった。

 生ぬるい空気が顔を被った途端、僕は反射的に表情を歪ませた。眉間にじわっと力が入り、見えない不快感を自覚する。

それでも自動ドアの先へと踏み出すと、どこからとも無く声が聞こえた。

「死臭でもすると思いましたか?」

 いかにも聡明そうな女性の声が、僕に刀の切っ先を彷彿とさせた。僕が何か言う前に、ハルタ氏が言葉を発する。

「カイネ女史」

「彼ですか、新規採用の職員というのは」

「ええ、そうです、見た目はちょっと頼りないけれど、才能のほうは申し分ありませんよ……」

 肉付きの悪い僕の背中を数度軽く叩き、氏はまるで声の主の機嫌を伺うような口調で言った。

「コノリです。本日からこちらでお世話になります、宜しくお願いいたします」

 当たり障りのない挨拶は得意だった。しかし反応を待てども、沈黙がその場に虚しく漂うばかりだった。

 助け舟を乞うべく隣で揺れるハルタ氏に目配せをしてみるものの、氏は両手の指を忙しなく合わせたり離したりを繰り返しておりまったくこちらを相手にはしてくれない。

 困り果て、僕の方としても落ち着かずにそわそわと次の展開を待っていると、不意に部屋の奥のほうからコツコツと床を子気味よく叩くような足音が聞こえてきた。

 どんな化け物が現れるのかと、その足音のするほうをじっと凝視していたが、本棚の群れから突然現れた女性は僕の想像を遥かに超えていた。

 遠目から見ても分かる、陶器のようになめらかな肌、砥がれた刃のように強く涼やかな目元、芸術的な美しさを形取る頬の輪郭。

彼女は若く、そして尋常ではなく美しかった。

 曇り空のような灰色のスーツに身を包んだ彼女は、呆気に取られる僕の顔を見て怪訝そうに呟く。

「本当に口寄せの才能が?とてもそうは見えませんが」

 痩せ型の男に何かしらの怨みでもあるのだろうか。

「僕の祖母がたまたま喋り出したのを聞いたのが最初で……一応国家資格も持ってますよ」

「聞けるだけではこの仕事は務まりません」

 ぴしゃりと言い放ち、カイネ女史はハルタ氏のほうに向き直る。

「では、ハルタさんは本日付で異動ということですね。お気をつけて」

「はは、海外勤務なんて初めてだからなぁ、正直なところ少しわくわくしている節もあるんですよ」

「海外?」

 僕が口を挟むとカイネ女史は眉をひそめたが、ハルタ氏はさも楽しげに応えた。

「ええ、ええ。明日出発なんですよ、バンコクにね。タイは物価はもう日本と大差ありませんが料理が美味しいのが楽しみで。それにタイ人は仕事のペースがゆっくりだそうで、もう胃に穴を空けずに済むと思うと……」

「なるほど、それは良いですね」

「なんにせよ、本日までお疲れ様でした。新天地でもご自愛ください」

 カイネ女史の鋭い声がゴムボールを一刀両断する。ハルタ氏も自分の失言に気付いたのか、「いやはや!」と呟き額の汗を誤魔化すようにハンカチで拭っていた。

「それではコノリくん、頑張って」

 中年男性からのチャーミングなウィンクに苦笑いを返し、僕はハルタ氏がまた弾みながら階段を上っていくのを見送った。あの分だと、下りの倍はかかるだろう。

 かくして、部屋には僕と女史の二人だけが取り残されたのだった。 

「では、これを」

 息つく暇も与えないといった様子でカイネ女史は僕にタブレット端末を手渡した。画面には名前や出身地、死因といった項目がびっしりと埋められており、それぞれに番号が振られていた。

「これは」

「5971」

「え」

 カイネ女史の氷のような眼差しが僕の凡庸な水晶体に突き刺さる。

「現在この地下書庫に保管されている遺体、もとい書籍の数です。5971体。それぞれナンバリングがされているので、その資料に従ってA0001から順番に巡回をお願いします。識別可能な書籍があったらその場で口寄せを開始してください、時間の記入を忘れないように。何か質問は?」

「あの、言語が判別不可能だった場合は」

「そのデバイスに電子辞書が入っているので、文法や発音から分析して判別してください。ちなみにコノリさんは使用可能な言語はおいくつですか」

「一応、50ほど」

「そのうち希少言語は?」

「30です。アジア圏の言語と、絶滅言語を少し」

「奇特な人ですね」

 カイネ女史の薄い唇が皮肉っぽく口元で弧を描いたのを見て、僕は視界が不規則に揺れるような眩暈の感覚をおぼえた。

「では、任せました」

 造形物の如き美しさを翻し、惚けた僕を置いて女史はさっさと本棚の群れへと消えていった。カイネ女史のハイヒールが床を叩く音が遠のいていくにしたがって、僕の正気も段々と戻ってくる。

 ゆっくりと、本棚、と呼ばれる白い棺たちを見上げる。五段に積み上げられたそれは、一見すると豆腐っぽいなと思った。

 角切りの一端に僕は取り掛かることにする。

 僕達の仕事は至ってシンプルで、それでいて非常に冒涜的だ。

19年前、一部の人間の遺体に一定のリズムで電流を流し続けると刺激された声帯がどういう訳か、世界各国の言語体系と合致した内容の音声をランダムに紡ぎ出す、という事実が明らかになってから、人類の死生観は綻び始めた。

 死体の声を正確に聞き取り、データ化する作業を日本では口寄せと呼び、それに特化した才能があると国に認められた者もまた同じように呼ばれた……電流を流して喋り出す死体は全体の約0.02%であり、また生まれつきその声を明瞭に聞き取ることのできる才を持った人間はそれよりもすこし少ないとされている。

 幸か不幸か、僕はそんな呪いめいた才能に恵まれていた。

高校生の頃、祖母の葬式で遺体が何か喋っていると気づいた瞬間は流石にぞっとしたが、訛りのある英語を小声で呟き続ける遺体をじっと見つめていると、僕はむしろ祖母の死を物理的に受け入られるような気がした。

 生前祖母が外国に興味を示す事は無かった。海外旅行どころか国内でも故郷を離れることは無く、地元で生まれ育ち、死んでいった人だ。だからこそ思ったのだ、祖母は死に、物になってしまったのだと。

 実際、政府は喋る死体を物として扱った。音声が聞き取れた時その内容を全て公開し防腐加工した遺体の所有権も返却するという契約で遺族から遺体を収集、それらをまとめて書籍としてカテゴライズする。その厄介な「本」は全て、国の運営する図書館の地下書庫に安置された。

 何はともあれ元来本の虫であった僕はその才を認められ、現在司書の括りに入る仕事に就いたわけだ。思い描いたものとは、まったく異なるが。

 A0001の番号が振られた白い棺の前に立ち、そっと小窓を開ける。嗄れた囁き声が小窓の隙間から溢れだし、比較的耳慣れた言語が僕の中にするりと入り込んでくる。

 広東語だ。僕は胸をなで下ろした。初っ端の仕事で「聞き取れない」は格好がつかない。

「羊を追っていく最中に、小さな子供に出会った。子供は笑い、空中分解を繰り返しながら、柵を飛び越え西へ行く……」

 淡々と、聞いた内容を翻訳しながらデバイスに記録していく。

 口寄せのおおよそはこういった、意味不明な文言の繰り返しだ。それを死者の夢であると信じる者や、前世や来世の様子であると言う人もいる。

本当のところは誰にも分からないが、僕にしてみたら死肉が発した音声を、生者が勝手に自分たちの言語体系に当て嵌めて解釈しているにすぎない。

 だからこれは、事務作業だ。

 小窓を閉める時にちらりと遺体の顔が見えた。薄暗くて人相はよく分からなかったが、初老の男性だ。この人の遺族は口寄せの結果を知らされて、どう思うのだろうか。

 それはまったく見当もつかない。僕が考えることではない。

ぱたん、という音が虚しく書庫に響いた後、僕はA0002の小窓に手をかけた。

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