第53話
「おい、大丈夫か……?」
呻くマモンを見た零司は、息を呑んだ。
マモンの肩に深い傷がある。そこから黒い粒子が立ち昇っているのだ。
「なんで、おまえが怪我してるんだよ……っ!」
悪魔の身体は魔力で瞬時に修復される。
それがなされないということは。
マモンの手が首の鎖を辿り、魔力瓶を出した。
中身を失った空瓶がそこにあった。
「……はは、魔力切れだ。マモン様ともあろうものが、情けないな。あたしは玉座を取る女なのに……」
「なんでだよ! 朝にはあれだけ魔力があっただろ! 普段、札束出しまくっても全然減ってなかったのに、どうして空っぽなんだよ!」
「そんなの、レヴィに奪われたからに決まってるじゃんか」
涙を溜めた少女の瞳は、煌めいて宝石みたいだった。
「嫉妬しないなんて無理だったぞ。だって、レヴィはプロポーズされて、レイジと結婚するって言ったんだ。それはあたしが一番したかったことだぞ。羨ましくないはずがないじゃんか」
呆然と零司はマモンを見下していた。
一番したかった、だって……?
「写真では、レイジとイチャついたレヴィがいて、あたしがいない間、ずっとあんなことやそんなことをしてたんだって思ったら、辛くて、悔しくて、あたしはまだ、レイジに抱き締めてもらってすらいないのに……!」
その言葉が終わる前に、少女をかき抱いていた。力いっぱい抱き締めて、その身体から魔力が出て行くのを少しでも抑えるように。
マモンがぽかんとした声を出す。
「レイジ……?」
「……レヴィアタンに騙されたのは俺もだ」
罪滅ぼしならば、同情しているだけならば、一時の嫉妬でマモンの魔力がなくなるはずはないのだ。
空瓶が、マモンの好意が本物である何よりの証拠だった。
マモンを強く抱き締めたまま零司は言った。
「……これでもう、嫉妬しないか?」
「まだだぞ。レイジにはやってもらってないことがたくさんあるんだ」
「何だ」
「お姫様抱っこだろ。手つなぎデートだろ。あ、あたしは趣味じゃないけど、レイジがしたいなら、くすぐり拷問プレイもしていいんだぞっ」
「俺の趣味でもねえよ」
大方、アシュマダイや栞から聞いたのを間違って解釈しているんだろう。
「レイジ、あたしは悔しいぞ。あたしの力が足りないばかりに、レイジを魔王にしてやることができない。レイジほど鬼畜魔王に相応しい者には、もう二度と巡り会えないのにな」
ふとマモンの腕の感触がなくなる。
身体を離すと、マモンは消えかかっていた。傷口からは黒煙が絶えず昇っている。アシュマダイのときと同じだ。
消えゆく少女は力なく笑む。
「お願いだ、レイジ。最後にキスしてほしいぞ」
目蓋を閉じるマモン。
長い睫毛を震わせて口づけを待つ少女は、それはそれは美しくて。
息を詰まらせた零司は、その貌へゆっくりと顔を近付ける。
そして、言った。
「……………………………嫌だ」
ふえ、とマモンが驚いて目蓋を開けた。
間近で睨んでいる零司に、大きな瞳を瞬かせる。
「さっきと話が違うぞ。俺が生きてる限り、おまえは俺を幸せにしてくれるんじゃなかったのか? なんで最後なんだよ。おかしいだろ。俺はまだ死ぬつもりはないぞ」
低い声で淡々と言う零司に、マモンがぱくぱくと口を動かした。
「レ、レイジの鬼畜が発動したあ! ひどいぞ! 最後くらい、我儘聞いてくれたっていいじゃんか!」
「だから、最後って何だって言ってるんだよ! 最後って言えば俺が優しくするとでも思ったのか!? 俺はんな甘くねえぞ!」
「だだだだって……! あれ、なんでレイジは怒ってるんだ……?」
「おまえが俺を置いて消えようとしてるからだろ! おまえ、今までの自分の言動よーく思い返してみろよ! ホームステイをでっち上げて、出てけっつってんのに何があっても俺から離れないって、無理やり家に上がり込んだのはどこのどいつだ!?学校でもクラスメートにまでなって、承諾してないのに婚約者だとか勝手に言って、俺に散々付き纏っておきながら、今さら消えんじゃねえよ!」
はあ、はあ、と息を切らして零司は俯いた。眼鏡の上に、水滴が落ちる。
「……知ってたよ。親父がいなくなったときから気付いてた。家族ですら、簡単に壊れるんだ。他のものが壊れないわけがないだろう? ヒトもカネもモノも、永遠じゃない。どうせ消えていくんだ。そんなものを望むことに何の価値がある?」
「レイジ……」
初めて吐露した虚無感。
父親の失踪を機に生活は一変してしまった。たくさんのものを失って理解したことがある。
もう何も失いたくない。だったら、初めから何も望まなければいい。何も手に入れなければ、喪失の哀しみを味わうこともない。
それなのに、よりにもよって自分の前に現れたのは、強欲の悪魔。
世界のすべてが手に入る? そんなものはいらない。
でも、さっき気付いてしまった。
その悪魔と過ごす下らなくも賑やかな毎日を、既に手に入れてしまっていたという事実に。
「泣くな、レイジ。あたしはレイジの涙を拭く札も出せないんだぞ」
「……んなもん、いるか」
袖で目元を拭った零司は、マモンを見据えた。
「……なあ、おまえは初めに言ったよな? 俺は世界のすべてを手に入れられるって。おまえにはそれだけの力があるんだって」
「いきなり、何を言い出すんだ、レイジ。た、確かに前はそんなこと言ったけど……」
凄んで言った零司にマモンが慌てる。落ち着かなく視線を彷徨わせる少女の頤を掴むと、マモンはぴたりと静止した。
二人の視線が交錯する。
「カネで手に入らないものはないんだろう? なら、それを今、ここで証明してみせろ」
魂すらも惜しくはない。それを取り戻せるというのなら。
強欲の悪魔へ願う。
「――俺はおまえが欲しい。おまえを手に入れられるだけのカネを俺にくれ」
刹那、零司の舌にある印章が虹色に輝いた。
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