第43話



「やられた……」



 日本へ戻るプライベートジェット機で、ふかふかな席へかけたマモンは歯軋りをしていた。中世ヨーロッパの宮廷を思わせる華美な内装も、お抱えの一流シェフが彼女のためだけに作った機内食も、今の彼女の心を平静にさせることはできない。


 電話を受けて契約者の元へ向かったマモンを待っていたのは、契約者の喪失だった。

 マモンが到着したとき、印章を刻んだ契約者の手は切断されていたのだ。搬送された病院によると命に別状はないらしいが、マモンとの契約は終わりである。魔力を得ることもできず、すぐ引き返す羽目になった。おそらくマモンを呼び寄せるために利用されたのだろう。


 そこまでしてマモンを移動させたかった理由は、一つしか思い当たらない。

 零司の魂。

 不思議なことに、マモンが契約したときより、零司の魂は格段に魔力を増やしているのだ。普通の人なら百回人生があっても零司に及ばないと最初に言ったが、百回どころじゃない。百万回だ。何かの間違いかと思ったが、最初が間違えていたらしい。


 零司へメールを送ってみるものの、握り締めたスマホからは一向に返信がない。行きのジェット機の中ではよかったのだ。苛立たしげな零司の罵倒メールを読んでニヤニヤしていられたのに。


「レイジ……嫌だぞ。おまえまで死ぬなんて」


 低く呟いたマモンは席を立った。操縦席へ向かう。


「予定を変更するぞ。真っ直ぐこの住所へ向かうんだ。合図と同時にあたしは飛び降りる」


 マモンの無茶苦茶な要求に、寡黙なパイロットは一つ頷いただけだった。このパイロットもマモンのお抱えだ。莫大な報酬を払うことで、破天荒な注文をいつも通している。


 ジェット機が高度を下げ始め、窓の向こうに夜景が見えた。吞み込まれそうな闇に、散りばめられた街の灯。時刻は日付が変わったばかりの深夜だ。週明けを控えて寝静まった寂しい町並みが、マモンの不安を煽る。

 パイロットの合図でマモンは飛行機のドアを開ける。圧力がかかった扉も、悪魔の腕力をもってすれば開けるのは容易い。


 そして、マモンは頭から虚空へ飛び込んだ。

 金色が夜闇を裂いて、真っ逆さまに落ちる。ぐんぐん近付いてくる景色の中に、柳生家の屋根を見つけてガッツポーズをした。よし、軌道はバッチリだ。


 ドコーーーン、と近所迷惑な音を立てて、マモンは零司の家の前に墜落した。道路が見事に陥没したが、そんなのはどうでもいい。

 平然と起き上がったマモンがインターホンを押すより早く、ドアが勢いよく開いた。


「お兄ちゃん、こんな時間まで夜遊びしていいと思ってるの!? 今日はほんとに怒ってるんだからね!」


 物音がしたからだろう。いきなり飛び出してきた栞に、マモンがびっくりする。

 栞もマモンを見て、目を見開いた。


「……あれ、マモンさん……どこ行ってたの?」

「どこって……あたしの都合でちょっと海外へ行ってきたぞ。レイジから聞いてないのか?」


 零司がうまく説明してくれているものだと思っていた。栞がきょとんとする。


「え、じゃあ、お兄ちゃんと一緒じゃないの? わたし、てっきりマモンさんとお兄ちゃんが遅くまで遊んでるんだと思ってて……」

「てことは、レイジは帰っていないのか!?」


 思わず栞の肩を掴んでいた。マモンの勢いに栞が狼狽える。


「お、お兄ちゃんは、結城先輩を送っていくって、お昼過ぎに出ていって、それからずっと、帰ってきてない……」


 言っているうちに、栞の表情が泣きそうに歪んでいく。


「どうしよう。マモンさん、お兄ちゃんが帰ってこないよ……! こんな時間まで帰ってこなかったこと、今までなかったのに。連絡も取れないの! もう何度も電話してるのに出てくれなくて……!」


 パニックを起こしかけている栞を、咄嗟にマモンは抱き締めていた。零司がいない今、自分が彼女を落ち着かせなければと思って。

 きつく抱き締められた栞が、ぱちくりと瞬きをした。


「マモン、さん……?」

「……大丈夫だぞ、シオリ。レイジは必ず帰ってくるぞ。何故なら、マモン様が捜してきてやるからな」

「捜す……?」

「そうだぞ。マモン様は大金持ちなんだ。できないことは何もないんだぞ。レイジなんかすぐに見つけてやる」

「え、まさか、これから……? ダメだよ。マモンさんまで、トラブルに巻き込まれたら……」


 表情を曇らせる栞に、マモンは小さく笑った。寝る間際だからかツインテールを解いている頭を、ちょんちょんと撫でる。


「あたしに任せろ。シオリは家にいるんだぞ。必ずレイジを連れて帰ってくるからな!」


 言うなりマモンは駆け出した。背中で栞の呼ぶ声がしたが、それを振り切る。


 信号も車もガードレールも何もかも無視して走り続け、柳生家から十分すぎるほど離れてから、マモンは力尽きたようにがっくりと膝を折った。



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