第38話



 その日の深夜。



 自室でいつものように眠っていた零司は、肩を揺すられて目を覚ました。


「……ジ、起きて……」


 囁くような声。重い目蓋をなんとか持ち上げると、幼い少女が零司を覗き込んでいた。布団は剥ぎ取られていて、わずかに肌寒い。


「ん、どうした? 眠れないのか……?」

「レージ、力をちょうだい」


 力? と思った矢先、アシュマダイの顔が降ってきた。

 唇同士が触れ合った――その瞬間、零司はアシュマダイを押し返そうとしたが、

 なっ、身体が動かない……!?

 さっきまで自由だった身体が、まるで全部の筋肉が弛緩してしまったようにぴくりともしないのだ。


 慌てる零司にアシュマダイはキスを続ける。なす術もなく零司は柔らかい舌を受け入れ、互いの舌が絡み合う。

 やがて、少女の口が離れた。唾液が二人の間で糸を引き、キラリと光る。


「……何のつもりだ?」


 キスが終わっても零司の身体は動かなかった。声だけは出るのが、せめてもの救いだ。


「俺を動けなくしたのはおまえか? なんでこんなことをする?」


 ぺろりと唇を舐めるアシュマダイを、零司は目を細めて見た。眼鏡がないのと暗いのとで、アシュマダイの表情はぼんやりとしかわからない。

 ベッドの脇に立つ少女は頬をうっすらと染めて、零司を見下ろしていた。


「色欲固有の能力。契約者の体液を摂取することで、魔力を手に入れることができる。今ので、ほんの少し力が回復した」

「そうか、それはよかったな。なら、もういいだろ。俺を動けるようにしてくれ」

「まだ。まだ一番欲しい体液が手に入っていない」


 アシュマダイはベッドへ乗ると、仰向けになっている零司に跨った。

 それで零司も察しがつく。アシュマダイの求めている体液が何か――。


「……待て待て、どうしてそうなった? おまえが欲しいのは、俺の魂だっただろう?」

「ずっと悩んでいた。どうしてわたしだけが七姉妹の中で、特別に弱いのか」


 焦る零司に、アシュマダイは静かな声で言った。


「傲慢は驕ることで負けなくなった。憤怒は怒ったときに力を発揮する。嫉妬は妬んだ相手を確実に滅ぼす。怠惰はやる気のないときが一番強い。強欲は何でも欲しがって絶対に譲らない。暴食は魔王様すら食べようと狙っている。じゃあ、色欲は? わたしはどうしたら強くなれる?」


 アシュマダイが零司の顔の横に手をついた。長い髪がカーテンのように垂れ、逆光の少女の表情を隠す。


「強くなりたい。わたしだけ仲間外れは嫌だ。わたしも他の六人と同じように戦いたい。対等に戦って、姉たちに、お父様に、認めてもらいたい……!」


 零司の頬に温かい水滴が落ちた。

 泣いても笑ってもいけない。そう言っていた少女がポタポタと涙をこぼしている。

 これがアシュマダイの本来の姿なのだろう。泣き虫アシュと言われていた少女は、ずっと涙を封印していたのだ。弱いからこそ、泣くことも許されずに。

 ぐすっと鼻をすすり、アシュマダイは言った。


「お願い、レージ。エッチして、わたしを強くして」

「――」


 あまりにストレートで零司は返す言葉を失う。アシュマダイは自分が着ているパジャマのボタンを外し始めた。


「……おい、やめろ。バカなことはよせ。考え直すんだ」

「十分、考えた。これしか、色欲のわたしが強くなれる方法はない」

「だとしても、今こんなことする必要はないだろ。無理するな」

「無理じゃない。強くなるためなら、これくらい平気」

「どこが平気なんだ。手が震えてるじゃないか」


 零司の指摘にアシュマダイの肩がびくりと跳ねた。ボタンを全部外し終わったアシュマダイは、あとはパジャマを脱ぐだけだ。だけど、布を持つ手は震えていて、一向に前を開けようとしない。

 うーと脱げないまま呻いていたアシュマダイだったが、


「……レージも脱がす」


 冗談じゃないことを言い始めた。


「やめろ! 脱がすな! ちょ、引っ張るな……!」


 零司のパジャマの裾を掴んで、ぐいぐい力任せに押し上げるアシュマダイ。身動きできない零司はされるがままだ。それから、アシュマダイは意を決したようにズボンにも手を伸ばす。


「……あれ?」


 アシュマダイはパジャマの上から零司の下腹部をペタペタと触って、首を傾げていた。こんなはずじゃないというように、少女は当惑している。

 はあ、と零司は安堵の息をついて、身体を起こした。アシュマダイがびっくりする。


「え、なんで動ける……!」

「さあ、なんでだろうな」


 太腿の上に座っているアシュマダイの腕を掴んで、押し倒した。

 動けるようになったのは、パジャマの胸ポケットに入れていた銀の銃弾のおかげだった。


 アシュマダイが食堂に現れた日の放課後、ソフィアにお守りにともらったのだ。それがアシュマダイに脱がされたときにポケットから転がり、零司の身体に触れたのだ。銀が魔を祓うというのは、本当らしい。


 上下を逆転されたアシュマダイは、パジャマの前をギュッと握って震えていた。亜麻色の髪をベッドに散らし、不安そうに零司を見つめている。

 アシュマダイの手をパジャマからどかすと、少女は観念したように目を瞑った。それを見て、零司は小さく笑う。


「――悪いが、おまえにそんな気は起きない。栞を重ねちまうからな」


 目蓋を開けたアシュマダイが見たのは、パジャマのボタンを留めていく零司の姿だった。少女が勇気を出して、震える手でなんとか外したボタンを、零司は難なく戻していく。


「理由も気に入らないな。こんなこと、強くなるために焦ってすることじゃないだろ。女の子なんだから、もっと自分を大事にしろ。じゃないと、後悔するのは自分だぞ」

「……」


 後悔しないために零司に頼んだのだと、アシュマダイは言うことができなかった。

 真面目な口調で零司は続ける。


「それに、おまえが弱い原因は他にあると思うんだがな。マモンも言っていたが、魔力の使い方にそもそも問題があるんじゃないのか? 学校のあの状況が続いたとして、俺を堕とせると思ったら大間違いだ。おまえはもっと頭を使って戦略を練ったほうがいい」


 なんで俺が悪魔にアドバイスしてるんだよ。

 やれやれ、と零司は剥ぎ取られた布団を持って横になった。隣にいるアシュマダイにも布団をかけてやる。


「わかったら、寝るぞ。子供は寝る時間だ」


 目を丸くしてアシュマダイは零司をじっと見つめる。それでもまだ何か言いたげな少女へ、零司は先手を打って言った。


「ここでは、弱くたっていい。誰も弱いおまえを咎めたりしない。泣きたければ、好きなだけ泣くといい。でも、知ってるか? 独りで泣いたら哀しいだけだけど、誰かの胸で泣けば、泣き終わったときにまた頑張ろうって思えるんだ」


 アシュマダイの瞳が潤んだ。

 零司のパジャマを握り、顔を埋めるアシュマダイ。溜め込んでいた泣き声を洩らす小さな頭を撫でながら、零司は眠りに就いた。本当に昔の栞みたいだな、と思いながら。



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