二章 ワガママな悪魔が間違った方向に目覚めるまで

第17話



 スマホがポケットで震えている。



 目蓋を開けた零司は、見慣れない高い天井に瞬きを繰り返した。自分が寝ている場所が教会の通路だと思い至り、勢いよく起き上がる。


 周囲を見渡すと、会長も神父も信者もいなかった。まったくの無人。薄暗い教会では、来たときと同じように讃美歌が微かに流れている。

 身体を見下ろすが、制服の乱れは一切なかった。会長に解かれたはずのネクタイも、しっかり締められている。


 何、だ……? 本当に夢だったのか……?

 そう思ってしまうほど、何の痕跡も残っていなかった。黒い棺はどこにもなく、十字架はちゃんと上のほうが短い。


 嫌な感じに昂っている心のまま、零司はブーブーとしつこく鳴っているスマホを出す。画面を見た瞬間、心臓が跳ねた。


「八時!? スーパー、あと少しで閉まるじゃねえか!」


 着信は栞からだ。いつもなら夕飯を食べている時間なのに、今日の料理当番の零司が帰ってすらいないのだから、さぞかし怒っているに違いない。

 慌てて零司は床に転がっていたカバンを拾い、教会を飛び出した。


 閉店間際のスーパーへ駆け込み、適当な食材をカゴへ放り、レジへ。ビニール袋を提げて家までの道を全速力で走る。電話を取る時間も惜しいため、着信はすべて無視だ。


 その途中で、零司はあることに気が付いた。

 あれ、息が切れない……?

 全速力で走っているのに、苦しくならないのだ。理由はどうあれ、急かすようにスマホが鳴っている今、それは好都合だった。


 徒歩二十分くらいのスーパーから家までを、一度も休むことなく駆けた零司は、雪崩れ込むように帰宅した。


「お兄ちゃん、遅い! どこ行ってたの! 電話も出ないし!」

「そうだぞ、レイジ! マモン様はお腹ペッコペコだぞ!」


 玄関で並び、腰に手を当てたお揃いのポーズで出迎える天使様と悪魔様。

 罪人は許しを乞うため両手を合わせた。


「悪い。すぐ作る」


 ビニール袋を持ってキッチンへ入った零司は、料理に取りかかる。日常的に料理はしているので、腕前はそこそこだ。だが、今日は時間がないので、オムライスとサラダという簡単メニューで勘弁してもらう。

 チキンライスに入れる鶏肉を切っていると、


「まったく、出前とって二人だけで食べちゃおうよ、って言うマモンさん、宥めるの大変だったんだからね。お母さんはさっき、帰りが深夜になるって連絡あったし」


 ぶつぶつ言いながら栞はエプロンをしていた。しっかり腕まくりまでしている。予想外のことに零司は瞬いていた。


「手伝ってくれるのか……?」

「お兄ちゃんが遅いから仕方ないでしょ! 今回だけなんだからね」

「すまん。なら、サラダ頼む」


 頬を膨らませるものの、栞はそれ以上不平は言わず、スーパーの袋から野菜を出し始めた。そこにマモンの声がかかる。


「あれー、ねー、シオリ。ジェンガの続きはー?」


 見ると、テーブルにはとんでもない量の札束が積み重なっていた。どうやらトランプの次は、札束でジェンガを始めたようだ。


「ダメだよ。マモンさんもテーブルの上、片付けてね」

「えー、ヤダヤダ。シオリ、もっと遊ぶぞ。料理はレイジに任せとけばいいじゃんか」

「それだと食べるの遅くなっちゃうよ。ほら、お腹空いてるなら、マモンさんも手伝って。三人でやると、もっと早くなるよ」


 ええーっとマモンが盛大なブーイングを上げた。


「なんであたしがそんなことしなくちゃいけないんだ!? 全部レイジが遅く帰ってきたのがいけないんだろ! レイジのせいなんだから、レイジが一人で頑張ればいいじゃんか!」


 ごもっともなので、零司は口を挟まない。

 けれど、野菜を洗っていた栞は、キュッと水を止めてテーブルを振り返った。

 だらーっとテーブルに上半身を預け、札束をいじっているマモンの傍に、ツインテールの少女が立つ。


「マモンさん、うちに何しに来たの?」


 へ? とマモンが間抜けな声を洩らした。

 唐突とも言える栞の問いかけに、マモンが視線を泳がせる。


「え、うーんと、レイジの家に泊まりに……」

「ホームステイでしょ? ホームステイしに来たって最初に言ってたじゃない」

「あ、うん、そう、そうだった!」


 テキトーな様子のマモンに、栞はじっと目を据える。


「ホームステイってことは、マモンさんはうちのお客さんじゃなくて、家族なの。わかる? 家族の一員。家族が困ってたり、大変だったりするときは、助け合うのが当たり前でしょ!」


 鶏肉を炒める手も止めて、思わず見てしまった。

 栞が珍しく本気で怒っている。横顔は真剣で、零司でも宥められそうにない。対するマモンは、何が起きたのかわからないという感じで、ぽかん、と呆けていた。


「一人で頑張れる人なんていないよ! 誰かと一緒だから頑張れるんだよ! 家族が助け合わなくて、どうするの! マモンさんは家でお手伝いとかしたことないの!?」

「え……ない……」

「そうなんだ。マモンさん家ではそうだったかもしれないけど、うちはみんなで協力し合ってるの! 誰かが困ってたら、みんなで助けるの! うちにホームステイするなら、マモンさんにもそれは守ってもらうからね。わかった?」

「……うん……」

「わかったら、テーブルの上、片付けて! 手洗ったら、食器出してもらうから」


 栞の剣幕に戸惑いながらもマモンは札束ジェンガを片付け始めた。それを見て、零司は顔を前に戻す。いかん、鶏肉が。


 マモンに的確な指示を出す栞を脇目に、零司は小さく笑みをこぼした。

 やはり栞は天使だ。俺の手に負えなかった悪魔を従えてしまうんだからな。


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