第16話



 間近に立つ神父は零司を見下ろし、唇を歪めた。



「蛇の道は蛇、という言葉があるでしょう。悪魔と戦いたければ、自らが魔になればいいんですよ」



 甘い声で囁かれて、ぞくり、と身の毛がよだった。

 何、だ……? 「魔」だと……?

 神父はさっきまでと雰囲気が変わっていた。人の好い笑みではなく、仄暗い微笑を浮かべている。急に黒い神父服が禍々しいものに思えてきて、零司は一歩、後退った。

 けれど、グレーの瞳は粘っこい視線を向けていて、零司が目を逸らすのを許しはしない。


「まさか、そっちを求めていた人とは知らずに、敬虔な神父の真似をしてしまいましたよ。説教をしたのなんて、実に何百年ぶりでしょう。ふふ、神に仕えていた頃を思い出しますね」

「何、百年……?」

「ええ、わたしは主に仕え、主と共にあるのですから」


 彼の言う「主」は神ではない。

 そのとき初めて、零司は祭壇に棺が置かれているのに気が付いた。

 神父の後ろにある、真っ黒い棺。


 これまた典型的だ。嫌な予感しかしない。鼓動は警報のように打ち鳴っていた。

 神父が足を踏み出したとき、零司は決死の思いで床を蹴った。が、いきなり両腕を脇から掴まれる。席に黙って座っていた信者たちだった。振り払おうとするが、まるでゾンビのように零司へ群がり離れない。乱暴に零司は赤い絨毯へ引き倒された。


「ひっ、やめろ、放せ……! 何をする気だ……!」


 仰向けに四肢を押さえつけられた零司を見下ろし、神父はぞっとするほど整った顔を愉悦に歪ませた。


「あなたが望むものをあげようというのですよ。男なのが残念ですが、仕方ありませんね。ま、主はお喜びになられるでしょう」


 零司の傍らに膝をつき、神父は顔を寄せてくる。その口元に覗くのは、長く鋭い牙。恐怖が最高潮に達し、零司が悲鳴を上げかけたとき、



 ガタ、と祭壇にある棺の蓋が動いた。



 神父が動きを止める。と、次の瞬間、吹っ飛んだ。

 飛んできた棺の蓋によって横殴りにされ、床へ転がる神父。何が起きたのかわからず零司が呆然としていると、


「……何をやっているの、貴方たち」


 不機嫌な声が響いた。

 ソフィアだった。日傘を竹刀のようにぽんぽんと手のひらへ打ちつけ、厳しい表情で教会を見渡している。


「会長……!」


 最悪だ。いくら会長でも、吸血鬼相手に敵うはずがない。


「ダメです、会長! 逃げてください! 誰か助けを呼んで……!」


 零司が叫ぶ中、神父がゆらりと身体を起こす。

 そして、――跪いた。


「お目覚めですか、我が主」


 ――え?

 気が付くと、零司を押さえつけていたゾンビ信者たちも全員、ソフィアに跪いている。

 は? え? どうなって……?

 キョドる零司を置いて、ソフィアは神父を睨んだ。


「リージェス、彼は私が呼んだのよ。それを横取りするとは、どういう了見かしら」

「申し訳ございません。我が主の晩餐とは存じませんで、ご無礼をお許しください」

「二度はないわ。覚えておきなさい」


 冷たく言い放つと、ソフィアは零司へ目を留めた。


「ごめんなさい。怖がらせてしまったわね」


 ゾンビ信者たちが退いてできた道を歩いてくるソフィアは、まるで闇の女王だった。漆黒のドレスを揺らし、赤い絨毯を泰然と進む姿は、この世のものとは思えないほど麗しい。

 そのとき、不意に思い出した。黒服だ。会長の車を運転している黒服と神父は同じ顔をしているのだ。


「会、長……? これは、どういうことですか? ここは教会ですよね!? なんで、教会に吸血鬼が……!」


 緊張と恐怖で喉はカラカラだ。

 さっき神父が言った「晩餐」という言葉も引っかかる。零司の勘違いでなければ、それは自分を指しているのだ。

 歯の根が合わない零司に、ソフィアは微笑んだ。


「柳生くん、聖ペトロ十字を知っている?」

「は……? せい……?」

「天地を逆にした十字架のことよ。俗に逆十字と言われるわ。本来、謙虚を象徴しているものだけれど、その形状から神への反逆や離脱のシンボルにも使われるの」

「反逆や、離脱……?」


 ふと、ソフィアの首元にある十字架が目に入った。

 逆十字……!

 はっとして、教会の正面に掲げられた十字架を見ると、それも上下の長さの比率が逆さまだった。認めたくない現実に頭がクラクラしてくる。


 腰を抜かしている零司の傍まで来たソフィアは、ドレスの裾が床に着くのも構わずしゃがんだ。零司と目線を合わせる。


「天から傍観しているだけの神に、地上の私たちは救えない。来てくれて嬉しいわ、柳生くん。私のことを頼って来てくれたのよね」


 にこりとしたソフィアの手が零司のネクタイにかかった。するり、とそれを解かれる。


「あの、会長……何を……?」

「心配しなくても、私は柳生くんが困るようなことはしないわ。貴方は私に身を委ねるだけでいいの」


 ソフィアは零司の腰に跨ってきていた。ボタンを外され、ワイシャツをはだけられる。夢のような展開に零司は放心し、なすがままになっていた。憧れていた会長に脱がされているなんて、本当に夢なのかもしれない。

 ソフィアの少しひんやりした手が胸板に触れた。そのまま身体を倒したソフィアは、愛おしげに頬を寄せてくる。


「……ずっと貴方を見てきたわ。貴方がうちの学校に入ってきてから、ずっとよ。それなのに、いきなり現れた悪魔に奪われてしまうなんて、許さないわ」


 まるで愛の告白だ。

 鼓動はさっきとは違う意味で激しく打ち鳴っていた。

 ソフィアが話す度に吐息が素肌を撫で、くすぐったいような快感が走る。サラサラの銀髪からは、かぐわしい花の香りがしていた。


「柳生くんに必要なのは、力よ。悪魔に打ち勝つための力。貴方は私に血を捧げ、私は貴方に力を授ける。これは契約よ」

「……会長、やっぱり会長も、吸血鬼……?」


 見下ろすと、ソフィアは鮮血よりも深い紅の瞳で妖艶に微笑んだ。


「一緒にイキましょう、神のいない天国へ」


 柔らかい唇が首元へ押し当てられ、刹那、強烈な快感が走った零司は意識を手放した――――。



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