第14話



 栞はそのまま友人たちを追いかけて行こうとして、


「……なあ、栞」


 ツインテールを揺らし、栞が振り返った。



「――今の学校は、楽しいか?」



 零司の問いかけに一瞬きょとんとした栞は、口元を綻ばせた。


「その質問、何度すれば気が済むの? もうお兄ちゃんが心配するようなことなんて、何もないんだからね!」

「……そうか。ならいい」


 眼鏡を持ち上げると、零司は踵を返した。


 今じゃ想像もつかないが、栞は小学生の頃いじめられっ子だった。高学年になるにつれ、いじめはひどくなり、小六にはほとんど不登校になった。その頃、栞が笑ったところを零司が見たことはない。このまま公立中学へ行けば、また同じ目に遭う。そこで、既に栄西中学に入っていた零司が栞に受験を勧めたのだ。校則が厳しく、先生の目が光っている私立中学なら、いじめに遭うこともまずないだろう、と。


 そうやって取り戻した栞の平穏なのだ。

 零司のスカラシップ生が取り消しになれば、学校を出るのは公立という受け皿がある栞だ。友達もできて、うまくやれている栞の学校生活を壊すことになる。


 学年トップの成績も、校則を徹底的に遵守するのも、校則の鬼と呼ばれるまで風紀委員長として打ち込むのも、すべてはこのためだ。

 零司自身には夢も目標も展望も野望も希望さえもない。零司を突き動かしているのは、焦燥にも似た恐怖だけなのだ。



 教室へ戻ると、金髪少女がぽつんと座っていた。


「あ、レイジが戻ってきた。遅いぞ。みんな、どっか行っちゃったぞ」

「おまえもどっか行ってればよかったのにな」


 自然と意地悪な口調になった。零司のやつれた表情に気付かず、マモンは遊園地に行く前みたいなテンションで言う。


「そんなこと言って、ほんとはあたしが待っていたのが嬉しいくせにー。素直じゃないぞっ」

「おまえの都合のいい思考はどこからくるんだ。って、待て! 俺に触れるな! 近寄るな!」


 腕に抱きつこうとしてきたマモンから後退る。


 胡桃沢のお話は最後通牒だ。これ以上、新たな噂や零司に不利な証拠が挙げられると、胡桃沢も庇いきれないのだろう。一発アウトなところを、日頃の行いがよかったおかげでセーフにしてもらったにすぎないのだ。


「いいか、この学校で男女交際は禁止だ。おまえにくっ付かれると、俺がとばっちりを食う!」

「そんなの余裕じゃんか。カネで校則を変えればいいんだ」

「だから、おまえのカネは使わないって言っている! おまえが俺と距離を保てばいいだけだ!」

「そんなの無理だぞ。レイジとあたしはもう一つなんだからなっ!」

「そういう言い方をするから、皆に誤解されるんだろうが……!」


 ガゼルに跳びかかるチーターのごとく。マモンは勢いよく零司に抱きついた。

 ああ、この感触……などと考えている場合ではない! 零司はマモンの肩を掴むと、思いきり引き剥がした。どん、とマモンの背を黒板へ押しつけ、睨む。


「……いい加減にしろよ。俺は真剣に言ってるんだ。これ以上、ふざけるようなら……」

「ふーん、どうするんだ? どうせ何もできないくせに。レイジがあたしに何かできるわけないもんねー」


 ニッと笑ったマモンに、いきなり眼鏡を奪われた。

 返せ、と言う前に頭を押される。顔が墜落した場所は、胸元を大きく開けたマモンの双丘。

 脳内が真っ白になった。


「レイジが堕ちるのは時間の問題だぞ。これまであたしが堕とせなかった人間はいないんだ。誰だって富が欲しい。裕福になって毎日、楽しく暮らしたい。せっかく幸せになれるのに、なんでレイジは拒むんだ?」

「……」


 沈黙する零司をマモンは見下ろした。

 マシュマロのような柔らかさに零司は溺れていた。それはもう、温かくて包まれるような感じで、とてつもなく気持ちよかった。疲れた……。このまま眠って目覚めたら、何もなかったことになっているんじゃないかという錯覚さえする。


 だが、不運は連鎖するものだ。


 ガラリ、とドアが開いた。マモンを黒板に押しつけ、その胸に顔を埋めていた零司が、はっと顔を上げる。

 あ、ヤバ、という表情をしたクラスメートの女子がそこには立っていて。


「……ごゆっくり」


 そっとドアが閉じられた。


「違うっ! 違う違う違う、誤解だっ!」


 慌てて零司はクラスメートを追おうとして、イスに躓いた。

 ガタガタンッとイスと一緒に床へ倒れた零司は、くっと己の失態を悔やみ、

 不意に分厚い札束が目の前に差し出された。


「慌てることないぞ、レイジ。口止め料を払えばいいんだからな」


 カネを手に微笑む悪魔。

 ぎり、と歯噛みした零司はマモンの手から眼鏡を奪い返すと、カバンを持って教室を飛び出した。


 廊下を走る零司へ、コソコソ話す生徒たちの非難がましい視線が注がれる。「不純異性交遊」という言葉が風に乗って聞こえてきて、零司は両耳を塞いだ。そのまま逃げるように駆ける。


 ダメだ。このままでは、すべてが崩壊してしまう……!

 マモンの言う通りだった。何もできない。零司には、マモンを追い払う術が思いつかない。くそ、悪魔を退けるには、どうしたら――。


 そのとき思い出したのは、ソフィアの言葉だった。

 そうだ、教会。神ならば、悪魔を祓えるかもしれない。



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