お母さん

「んぐぅー! んうー!」


 小衣が何かを叫ぼうとしている。きっと『ちーちゃん』を無事に無力化した俺に礼を言いたいのだろう。

 俺はニヒルに片手を上げた。


「気にするな。俺は依頼を果たしただけだ」


「んぐうううー!」


 霧島さん、素敵! 将来お嫁さんにして! ――と言っているに違いない。やれやれ、少女趣味はないんだがな。

 冴子に目を戻し、渋く笑んで銃口を向けた。


「ご自慢のワーキャットも桜庭も動けねえ。次はあんたが相手をしてくれるのか?」


 冴子は怯えるでもなく、怒りをあらわにするでもない無表情で俺を見ている。凍りついた顔のまま、おもむろに口を開いた。


「あなたの依頼人の身内ですよ。撃つんですか?」


 白々しい。そんな言葉で俺が止まる訳が無いことを知っている声だ。

 冴子は時間を稼ごうとしている。何のために――?


 いきなり背後の男に突き飛ばされ、小衣がつんのめるように冴子の前に出てきた。小衣を盾にする気か?

 冴子は小衣に何かを耳打ちした。

 すると、興奮して真っ赤だった小衣の顔が青白く変わった。


 次の瞬間、小衣が飛んだ。目を見開き、必死の形相。猿ぐつわがなければ絶叫を上げているに違いない。

 俺は銃を捨てて床を蹴った。小衣の落下地点に突進しつつ、歯をギリギリ言わせた。


 あのアマ、自分の娘を突き落としやがった!


 普通、あの高さからなら落下しても死ぬことはない――後ろ手に縛られ、頭から落ちていなければ。

 このままでは間違いなく小衣は首を折るだろう。絶対に受け止めてやる――。


 落下地点に到達。スライディングするように足を地に擦り付け減速した。俺の身体能力ならこの程度の距離を詰めるのは簡単だ。小衣はまだ落下軌道の半ばにいる――。


 腕を広げて上を見ると、眼球が飛び出しそうな小衣と、その後ろで背筋が凍りそうな笑みを浮かべる冴子とに目が合った。

 冴子は上に弧を描く三日月の目でこちらを、いや、小衣を見ている。


 乾いた発砲音が響いた。小口径の銃の音。

 小衣が体をのけ反らせた。と同時に俺が小衣を受け止める。


「小衣!」


 小衣の背中に回した手が湿り気のあるなにかに触れる。

 手を見た。


 血だ。指が血にまみれている。


 胃の底が抜けたような気分。凄まじい脱力感を覚えながら小衣の背中を見た。

 黒い銃創が穿たれ、そこから心臓の鼓動に合わせて血が溢れだしてくる。

 俺は怒りに狭まる視界の中で猿ぐつわを取ってやった。


「あ、あたし……」


 息の漏れるような声。俺は震える喉から言葉を絞り出す。


「しゃべるな、少しケガをしている。横になって休むといい」


 優しく床に寝かせた。

 頬がひくついてないといいが、と思いながら小衣に笑顔を見せる。金髪の少女は素直に目を閉じた。


 立ち上がる。


「まあ、素敵。小衣の騎士様はとっても紳士ですのね」


 ブローニングをジャケットの内ポケットから取りだし、マガジンを弾き出す。


「そんなに大事にされていながら、あの人にも寵愛を受けようなんて。ちょーっと欲張りじゃなくて?」


 残弾を確認。3発。

 あのイカレ女を殺すには十分だ。


 マガジンを戻し、怒りを込めて地を蹴り跳躍。

 一跳びで冴子のいるキャットウォークの高さに到達した。手すりを掴んで体を回し、着地すると同時に銃を構えた。


 冴子を守るように二人の男が前に出てきた。アサルトライフルを持っている。

 が、銃口を俺に向けるのがコマ送りに見えるほどのろくさい。


 俺は狙いを定めて撃つ。一人が脳ミソを撒き散らす。

 素早く次に照準し、撃つ。つつがなくもう一人殺った。


「後は?」


 冴子に向けた問い。同時に女の両脇で男が二人崩れ落ちた。

 年齢不詳の美女は困ったように笑う。まだ硝煙のたなびく銃を持ったまま。


「もう私の手駒はありませんわ。どうされますの?」


「なぜ、小衣を撃った?」


 冴子がくすくす笑う。今気づいたが、この女は俺の神経を逆なでするための笑顔を浮かべている。本心からの笑みを見せているわけではない。

 笑顔の裏の意思。

 夫からの愛を受けるものは娘であろうと殺す、暗黒の殺意。


「だぁってぇ。小衣ってば、ズルいんですもの。魔法が使えて、それでいて魔法嫌いのあの人に愛されるなんて。おかしいと思いません?」


 しなを作りながら俺の隙を探っている冴子に、心底から気味悪さを感じた。


「知るか」


 引き金を引こうとする。

 が、ブローニングがずしりと重く感じて銃口を持ち上げられない。

 冴子が俺を嘲笑った。


「あらあら、魔法使い狩りは一般人を撃たないと聞いていましたわ。でもそのご様子じゃあ……撃たないのではなく撃てないみたいね?」


 なにかが切れた音がした。

 怒りに狭まっていた視界が赤く、暗く、淀んだ色に濁っていく。


 ――お母さん!


 ガキの頃の俺の声が頭に響く。

 まばたきをして想いを振り払う。振り払えない。

 千々に乱れた心が俺の指を掴んで離さない――引き金が引けない――。


 冴子はゆっくりと銃を俺に向けた。

 かわせ。避けろ。回避しろ。

 撃たれる前にあの女の背後に回り込むことなど朝飯前だ。ほら、足を動かせ――。


 駄目だ。

 銃弾が飛んでくるのが見える。体は金縛りにあったようにまるで言うことを聞かない。やられる。


 女の叫び声がした。冴子ではない。

 俺の体は衝撃に揺さぶられ、前のめりに倒れる。

 後ろで再度女の声。幼い少女の声。


 言葉の呪縛から解き放たれた。床に顔面を強打する寸前で手を突き、顔を上げる。


 ブローニングはどこへいった? いや、それどころではない。冴子は?


 混乱から回復するとブレていた視界が戻り、冴子の顔が目に映った。

 サイコ女が初めて見せる驚愕の顔。


「小衣。あなた……」


 体を起こして振り向いた。

 そこには、口から血を滴らせる小衣の姿があった。


「ごほっ! ……どうして?お母さん」


 小衣は自分の血液にむせながらも自分の足でしっかりと立ち、冴子を見つめている。

 その目は悲しみと疑念とに彩られていた。


「小衣、お前は……治癒の能力があるんだな」


 小衣は魔法を使えたことがないと言っていた。髪を金に染める程の魔力を持つものが魔法を操れていなかった。

 それは魔法に適正が無いのではなく、治癒能力に全ての魔力を使っていたからだったのだ。

 破壊された心臓を修復できるほどの魔力。小衣は俺の経験の中でも最上級の魔法使いだ。


 冴子が顔を歪めた。

 醜悪な表情。自らの娘に向けてはならない感情を迸らせている。


「死んだと思ったのに」


 冴子がぽつりと溢した言葉に、小衣が胸を抑えた。


「どうして……お母さん」


 悲痛な声。それを聞いた冴子は眉を吊り上げ、再び銃を構えようとする。俺は冴子の後ろに回り込み、首を締め上げた。

 長い黒髪から上等な香水の匂いが漂い、嫌悪を覚えた。必死で吐き気をこらえる。

 冴子はあっさり意識を手放した。


 俺は冴子を床に寝かせると、小衣を見た。

 洋服は血にまみれて赤黒く変色し、うちひしがれた顔をして俯いている。


「殺したの?」


 俺は小衣の硬い声に首を振った。


「いや。ちょっと寝てもらっただけだ」


 小衣が歩いてきて、俺の肩に頭を乗せた。


「どうして?」


 少し考え、俺は口を開いた。


「お前のお袋さん、エキセントリックだな。まあ、ゆっくり関係を直していけよ。お互い生きてるんだ」


 声を殺して小衣が泣き出した。肩を叩いてやる。

 小衣は少し経ってから体を離し、まともに俺の目を見た。まつげに水滴が光っている。

 そして、指で俺の頬をつまんだ。


「ちーちゃんを思いっきり殴ったわね!? 死んじゃったらどうしてくれんのよ!?」


「いててててて! やめろ、つねんな! ワーキャットがあれくらいで死ぬわけがないだろう!?」


「あたしの猫ちゃんはか弱いのよ!」


「弱くねえよ! 最強クラスの魔物だったよ!」


 俺達は唾を飛ばして罵り合いながら仔猫を連れて事務所に戻った。

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