ワーキャット

 なぜかは知らんが猫科の動物が魔力によって変質する例はまれだ。俺もワーキャットを直接見るのはこれが初めてである。


 短かった薄茶色の毛皮は強靭そうにごわごわと伸び、なまくらな刃物は通しそうにない。

 前足の付け根(猫も肩と呼ぶのか?)は筋肉によって肥大している。ボーリングの玉など目じゃないほどの膨らみ。あの前足で殴られたらカリフォルニアまで飛んでいってしまうだろう。

 口からは牙が2本、下に向かって伸びている。幼い頃動物図鑑で読んだ『サーベルタイガー』とそっくりな牙だ。


『ちーちゃん』が後ろ足で立ち上がった。猫人間ワーキャットと呼ばれるようになったきっかけ。二足歩行だ。

 威嚇しているのか、こちらに腕(立ち上がったし、面倒だからこれから腕と呼ぶ)を向け、俺の呼吸に合わせて揺らしている。動くタイミングを読まれているようだ。


「おい、桜庭。なんでアイツ武術家みてえに俺の呼吸を読もうとしてるんだ? どこで覚えた?」


 桜庭は話しかけんじゃねえよとばかりに顔を歪めた。


「知るか。あのサイコ女かイカれた旦那が仕込んだんだろうよ」


 戦闘訓練を受けた魔物。舐めてかかると火傷するのはこっちだ。


『ちーちゃん』が俺と同じく前傾姿勢をとった。もうすぐ飛びかかってくる――身構えた俺の視界を埋めたのは、既に眼前に迫ったワーキャットの姿。


 慌てて頭を下げた。俺の頭上を鋭い爪が通過。巻き起こった暴風が髪を乱した。

 回避した体勢のまま足元を走り抜け、振り向き様に両手のウージーとMP5の銃口を向けた。引き金を絞る。銃声が連続で炸裂した。

 『ちーちゃん』は弾丸の嵐を跳躍することでかわした。俺の身長を遥かに超えて跳び、蛍光灯を吊っているボルトを掴んだ。

 奴の体重を支えられるわけもなく、軋み音を立ててボルトが外れた――しかしその一瞬で十分だったのか、『ちーちゃん』は空中で方向転換。俺の方へ跳んでくる。

 MP5を撃ちながら疾走。鉛玉が腹部に命中する。


 甲高い鳴き声を上げ、『ちーちゃん』が地面に落ちた。

 まずい、殺してしまった――?


 瞬間、背筋を焼く恐怖に突き動かされ、反射的に後ろへと跳んだ。

 寸前まで俺の頭があった空間で、がきっという硬質な音が弾ける。白い牙が光を反射した。

 俺の頭蓋骨を噛み砕き損ねた『ちーちゃん』は殺意以外の感情が読み取れない目を俺に向けている。

 腹の獣毛を濡らす赤い血液。傷口から弾丸が排出されて床に落ち、きんっと音を立てた。


「貫通力の高い9mmでも筋肉で止まるか。凄まじい生き物だな」


 ヂアアッ! 『ちーちゃん』が返事を寄越した。そのまま突進してくる。


 回避しようと足に力を込めたところで、背後にいる桜庭の存在を思い出した。奴のジャケットを掴んで跳躍。


『ちーちゃん』を飛び越し、着地すると同時に走りだす。大型機械に隠れ、桜庭を放した。

 どちゃっ。桜庭が無様に這いつくばった。


「おい、どうやってあのワーキャットを生け捕りにした?」


 俺に振り向くと同時、怒りに燃える桜庭は魔法を使おうとした。周囲の大気が揺らめいている。

 横っ面に前蹴りを入れた。桜庭の口から血が飛んで床に赤い斑点を作る。


「発動の前兆はすぐわかる。俺の5メートル以内にいる場合、魔法は使おうとしないほうがいい。イケメンが台無しになっちまうぜ」


「クソ野郎が」


 隠れた機械の向こうから殺気が近づいてくる。俺は桜庭を再び持ち上げ、その機械の側板に叩きつけた。

 呻いて開いた口にMP5の銃口をねじ込む。


「冴子に一杯くわされた同士、仲良くしよう。もう一度だけ聞くぞ。……どうやって、あの、ワーキャットを、捕らえたんだ?」


 桜庭は銃口の油の味にえずいている。

 ゆっくり銃口を引き抜くと、絞り出すように話し始めた。


「俺の魔法は大気を操る。奴の呼吸を阻害して酸欠になったところをふんじばったんだ」


「なるほど。それを今、俺とお前のためにもう一度やる気はあるか?」


「ない。……と言ったら?」


 試すような桜庭の言葉。俺は壮絶な笑みを浮かべる。


「そうなったら、小衣からの依頼料を諦めてお前を殺し、軍から駄賃を貰うだけさ」


 タフな桜庭は無表情のまま。怯え一つ見せない。

 しかし、額の汗が恐怖を物語っている。ここだ。


「そうか、わかった。もういいよ」


 桜庭を突き放し、両手に銃を構え直す。

『ちーちゃん』が大型機械の陰から飛び出してきた。


 銃を向けてやると、『ちーちゃん』は足を止めた。さっき受けたダメージを思い出したのか、胸の傷を押さえている。


 首筋がちりちりする。俺は息を大きく吸い込みタイミングを測る。

 顔の回りで僅かに大気が揺れるのがわかった。


 今だ。

 思いきり前のめりになり、地面を蹴る。

 地を這うようにして疾走。『ちーちゃん』の足元を駆け抜ける。


 額が床に触れそうなほどの超低空――ちらりと桜庭に目をやった。

 驚きにまぶたが見開かれ、飛び出しそうな眼球。かざされた手のひら。歪む風景。

『ちーちゃん』の周囲の空間から空気が失われた。

 茶色の毛皮をまとった狂獣は腕を振り回し、喉を押さえ、声にならない叫びを上げてもがいている。


「てめえ……」


 震える唇から吐き出された桜庭の声に俺は口角を吊り上げる。


「キレると行動を読まれやすくなる。覚えとけ」


 桜庭は思い通りに動いてくれた。挑発を続けた桜庭に背を向けて魔法を発動する隙を与えたことで当然奴は俺を攻撃してくる。

『ちーちゃん』が間近に迫っているこの状況なら、俺と『ちーちゃん』をまとめて仕留めようとするだろう。その際使う魔法とは?


 とっさに頭に浮かんだものを使う可能性が高い――直前の会話に出てきている魔法だ。

 狙い通り、『ちーちゃん』と俺の周囲から空気を奪ってくれた。


 吸い込む酸素を失った『ちーちゃん』は、胸をかきむしりながら膝を折った。

 俺はサブマシンガン2丁を腰に吊り、転がっている鉄パイブを蹴り上げる。右手で掴んだ。

 助走をつけ、強く床を蹴った――飛び上がりながら鉄パイブを両手で振り上げ、『ちーちゃん』の首筋に叩き込む。

『ちーちゃん』は一声呻いて倒れ、動かなくなった。


 呼吸が出来ない。まだ周囲に空気がない――鉄パイブを投擲。呆けている桜庭の膝を砕いた。

 押し殺した叫び。桜庭が前のめりに倒れると、突然空気が押し寄せてきた。猛烈な風に髪をめちゃくちゃにかき回されるのも構わず大きく息を吸う。


『ちーちゃん』を見ると、背中が呼吸で膨らんだ。

 更に全身から茶の剛毛が抜け落ち始め、体が小さくなってゆく。仔猫の姿に戻るようだ。


「いい仕事だ、桜庭」


「ぐああ……! 畜生ォ!」


 手早くマガジンを交換。桜庭を観察した。

 あいつは痛みにもだえ、床を転げている。強力な魔法の発動は出来ないだろう。


 冴子に視線を戻す。

 女は両手で口元を押さえ、丸い目でこちらを凝視している。

 恐らく冴子に戦闘能力はないだろう。問題なく小衣を取り戻せるな。


 と考えたところで頭の中に音が響いた。


 ぴこーん!


 やべっ。ハードボイルド凄腕PMCとしてあるまじき失態。

 フラグ立てちまった。

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