フォーク・スコアにのせて

翔谷 涼

土曜日の雨


 閑散とした住宅街に、一台のタクシーが止まる。

 中からは二人の若い男女が降りた。


 ありがとうございます、と丁寧に頭を下げる男に「どうもー」と運ちゃんが覇気のない返事をして、エンジンを唸らせ塀の先へと消えていった。

 タクシーのテールランプが消えると、街灯がチカチカと付きはじめる。

 男は大きめのバックパックを背負い直して、周りを見渡す。


「懐かしい?」


 どこかからかうような声色で、若い女は男に問う。


「そう、だな。いろいろと変わった気がするけど」


 男は故郷の懐かしい景色に目を細めていた。


「ほら、あそこ。あの家の角のところだけアスファルトが抉れてただろ? もう綺麗に直されちゃったんだな」

「ここの路地は去年くらいに舗装し直したの。脩平とはあの穴でいろんなことしたよね」

「雨上がりに水たまりになったらあそこにカエルを集めたりしたよな」

「すぐに逃げられてたけどね」

「それで結已が『逃げちゃやだ!』って言ってザルを被せてな。次の日にはみんな動かなくなってたっけ」

「あったね……子どもって残酷だよね」


 小さな頃の懐かしい話にくすくすと笑い合う二人。

 二人はこの辺りに住んでいた幼馴染だった。小学校の頃から二人はべったりで、外で遊んでは夜までこの辺りで走り回って遊んでいた。もちろん近所の年の近い子どもたちと一緒にいることが多かったが、何をするにしても二人は必ずくっついていた。


「さ、行こうぜ。こっちは梅雨なんてないけどちょっと降りそうな気がする」


 脩平は結已に手を差し伸べる。

 遠くの山には鈍色の雨雲がどんよりとかかっていて、今にも二人の頭上に伸びて降り出そうとしている。


「昔よりも降るようになったよ、多分降るから急ごう」


 結已は脩平の手をとる。

 二人は少し指を絡ませて、人差し指と中指だけで握りあった。

 

「昔に戻ったみたいだね」

「……そうだな」


 脩平は一瞬だけ寂しそうな、そんな表情に顔を歪める。結已には気付かれないように。


 六月最後の週の土曜日、二人は高校時代と同じ手のつなぎ方で遠くに見える市街と、その先の目的地へと向かう。


「久しぶりだし楽しまないと。急ご!」


 結已はパステルピンクのフレアスカートをふわりと揺らして手を引く。

 ここ最近の結已は落ち着いた服装をするようになったが、今日はまるで昔に戻ったような快活な印象を与える格好だった。

 子どものように楽しげに跳ねる結已に脩平はそうだな、と苦笑しながら小さく呟いた。


「今日は、特別な日だから」



 *   *   *



 二人は、公園で遊んでいた。

 脩平は錆びてボロボロの、この公園に一本しかない照明を蹴り飛ばす。

 この照明は、いつもこの角度で蹴るとちゃんと明かりが灯るんだ。そんな裏技のような技術を自慢げにひけらかす。 

 前も聞いたよ? と結已が答えるのも、もう何度目か分からないくらい、いつもこの公園で遊んでいた。


「ゆい、今度あの穴に何飼おっか」

「しゅうくんの好きなものでいいよ」

「じゃあ、ザリガニとか?」

「えー……もっとかわいいのがいい」

「なんだよ……じゃあウニとかがいいのか?」

「ウニいい! かわいい!」

「かわいいかアレ!? 女子のかわいいはわかんねぇ……」


 二人の楽しげな話し声は、辺りは夜の帳が落ちるまで続いて。

 やがて、ポツポツと雨が降り始めた。


「あれ? 雨?」


 照明に照らされるドーム型の遊具の中から、結已は手を出して雨粒を確かめる。


「あはは! 見ろよゆい!」


 脩平はドームの上から弾けるように走り出し、すぐそばにある錆びた蛇口を開けた。


「あっ……」


 結已は、思わずドーム型の遊具から身体を乗り出した。

 水圧に軋む音をたてる蛇口からは勢いよく水が溢れ出し、明かりに照らされてキラキラと光るアーチになっていて。そのアーチの先には、雨雲の切れ間から月がぽっかりと浮かんでいて、宝石のように彩られていて。

 それはまるで、夕方のアニメで見た遠くの世界へ続く魔法使いの使う扉のようで。


「アーチ、きれい……」


 結已は頭を濡らす雨にも気づかず、アーチの煌きをその瞳に湛えてその光景に見入っていた。

 それを見た脩平は、自慢げにアーチの下にもぐりこむ。にひっと結已にピースしてみせた。


「ここならアーチのおかげで濡れないぜ!」


 キラキラと光る魔法の扉。そして魔法使いが、結已に笑いかけている。

 ――魔法をかけられた。結已は突然にそう思った。脩平の顔も、いつもよりとびきり輝いて見えた。


「あはは……わぷっ!? ちょ、風、つよ……っ!」


 そして突然に風が強まる。アーチは脆く崩れ去って脩平の身体に降り注いだ。ぎゃーと騒ぎながら大げさに転げ回る姿に、結已は思わず吹き出す。


 さっきまでの魔法のような時間は一瞬にして、水のアーチのように霧散した。

 けれど、かけられた魔法は解けなかった。

 


 *   *   *



 中学生二年生になって程なくして、二人は付き合い始めた。

 周りからは今更だとかもう結婚してるだろとか囃し立てられたが、すぐに収まった。


「なあ、進路は決めたか?」

「ん~……」


 高校生になってからは二人で出かけることが増えた。近所の友人たちと一緒に遊ぶことは少なくなった。

 周りが二人に気を使ったのか、中学生になって交友関係が広がったせいか、二人には知る由もない。


「私は、地元の役に立ちたい。進学するか就職するかは決めてないけどね」


 雨雲が頭上にのしかかる、夏の土曜日。

 二年生になってからの毎週土曜日は、いつも二人で遊びに出かけていた。

 いろんな形と色で踊る噴水と、それに戯れて遊ぶ子どもたちを眺めながら、脩平と結已はベンチに腰掛けていた。


「俺な、ここを出るよ」


 脩平は噴水から目を逸らさずにポツリと呟く。


「ここじゃできない、やりたいことがあるんだ」


 結已はその答えを知っていた。

 四六時中一緒にいるのだ。何に興味があるのか、脩平が何をしたいのか、どれだけ本気なのかなんて、手に取るように分かる。


「……そっか」


 ポツリ、ポツポツと、雨が降り始める。雨粒が脩平のデニムに染み込んで黒く滲んでいく。

 脩平は濡れることも構わない様子で、まるで雨に気づいていないかのように噴水を見つめ続けている。


 結已は知っていた。脩平の意思が変わらないことも知っていた。決めたことはちゃんとやりとげることも知っていた。二人の視界の先に屹然と伸びる孟宗竹のように、折れずに夢を追えることも知っていた。


 だから、今は。


「ほら、濡れるから早く帰ろ! あ、お腹空いたから山麓駅のカレーぱん食べにいこ?」


 ぴょんとベンチから立ち上がって脩平の手を引く

 努めて明るく、結已は笑いかける。脩平も、まだどこか気持ちを引きずりながらも、笑顔を見せる。


 だから今は、互いの心の空に浮かぶ今日の空の雨雲のような感情はそのまま浮かべて、雨が通りすぎるのを待とう。雨雲の先にあるはずの青空は、まだ見えないのだから。

 

 二人は傘も差さず、しとしとと優しく降る雨の中を歩き出した。



 *   *   *



 結已は地元にある大学の商学部へ進学し、脩平は大阪で仕事を始めた。

 高校を卒業して、二年が経っていた。

 

 数カ月ぶりに脩平が地元に帰省し、二人は夜の海岸沿いをドライブしていた。

 結已の車を脩平が運転して遊びに出かける――今ではなかなか会えない二人の、数少ないルーチンになっている。

 フロントガラスの先には平坦に南へ伸びる小高い山が見える。一番高いところはまばゆく光り、ワイパーでいくら拭っても落ちてくる雨粒に反射して煌々ときらめいている。

 この日も、雨の降る土曜日だった。


 帰り道、雨に打たれて笑いあったあの頃の笑顔はなかった。


「大丈夫だよ。大丈夫」


 まるで独り言のように結已へ声をかける。結已は助手席から海岸線に浮かぶ漁火をじっと見つめていた。返事はなかった。

 しばらく無言で走り続け、二人は市街地の中へ入っていった。

 街は雨靄に包まれて、賑やかに光るトンネルのようだった。休日の街路は混み合っていて、遠く先まで赤いヘッドライトが繋がっている。

 昔はこの光の中をいつも一緒に歩いていけると思っていたのに。歩いていこうと思っていたのに。


 「大丈夫」


 脩平は、もう一度だけつぶやいた。


 ――大丈夫? 誰に言っている。

 不安なのは、自分なのだ。

 でも、言い出しただって自分なのだ。


 だからこそ、夢に妥協はしない。


「またすぐ帰ってくるから。なんとかなるよ。なんとか、する」


 大丈夫だから――なんて軽い言葉なのだろう、と脩平は自嘲するように口端を釣り上げた。それでも、結已に目を合わせることも出来ずに繰り返すしかなかった。


 いいの、分かってる。

 誰にも届かなかった結已のその声は、ワイパーの音にかき消された。



 *   *   *



 明日の朝一番に発つ飛行機で大阪へ戻る、と脩平は言った。

 一日と数時間。それが数カ月ぶりの二人で過ごす時間だった。


 二人は空港の駐車場で、シートを倒して目を閉じていた。

 寝ることはなかった。でも、言葉を交わすこともない。

 ただ静かに、相手の存在を感じているだけだった。

 

 脩平は順調に成果をあげ、部下もついてますます仕事に邁進していた。長期の休みをとることはほとんどなくなり、こうして地元に戻ってこれるのも数ヶ月に一度程度になっていた。

 結已は地元で公務員になった。最近身体が動かなくなった親の介護をしつつ、忙しい日々を送っている。


 まだ、夜は明けないで。

 二人は無言のまま、願うように手を握る。


 でもそれは、今にも解けそうな頼りないもので。

 しっかりと掴んだように見えた手と手は、人差し指と中指だけでひっかかるように繋がった。

 

 フロントガラスの先に見える空が白みはじめる。別れまで残り三十分を告げる携帯のアラームが鳴る。外からは朝の空気を揺らすエンジン音が聞こえる。


 二人は、身じろぎもせずに祈る。

 まだ、夜が閉じるまでは――



 *   *   *



 二人はロープウェイから降りて展望台を目指す。


 昔は散策路をはしゃぎながらここまで登ってきていた。深い緑の中を笑いながら、時に転びながら一緒に駆け上がった記憶は今も忘れてはいない。

 

「ここに来たのも何年振りかな。中学のハイキングの時以来?」

「俺は高校の部活で罰走でここまで往復したっけな」

「うひー、今考えるとしんどすぎるね……」


 昔話に花を咲かせて、間もなく木のデッキになっている展望台に着く。

 いつの間にか、雨が降り始めていた。


「うわあ……! 霧夜景!」

「これはすごいな……」


 繁華街の明かりが、車のテールランプが、民家の窓から漏れる素朴な光が、それぞれがうねるように色を変えて空を覆う。

 山の麓に広がる輝きは、雨の靄で幻想的に包まれていた。


「何回もここには来たけど、霧夜景は初めてだ」

「夜よりも昼とか夕方が多かったよね」

「学生の頃は夜まで外にいることはあまりなかったしな」

「うん……大事な時だけ、いつもここに来てたよね」


 二人は目前の光景に見入りながら、大事な思い出を反芻する。


 小学校の頃を思い出す。

 結已は展望台の階段で足を滑らせて転んで泣きじゃくった。脩平は結已のお母さんが来て泣き止むまで、隣でずっと一緒に待ち続けてくれた。

 この頃から、脩平と一緒にいることに心地よさを感じるようになった。

 

 中学生の頃を思い出す。

 脩平は一人でこの展望台に登った。部活中、結已が他の男子と楽しげに話しているのを見てもやもやとしたやり場のない気持ちを燻らせていた。

 この頃から、どこにいても結已の姿を探すようになった。

 

 高校生の頃を思い出す。

 結已は卒業式の前日に麓の神社を訪れた。どうか遠くに行っても脩平の夢が叶いますようにと、思いを込めて神様に必死に祈った。

 この頃から、脩平を想う気持ちの奥底に仄暗い不安が澱のように積もり始めていた。


 ――雨が強くなる。

 周りの観光客は雨を避けてか、がらんといなくなっていた。


 二人はどちらともなく向き合う。


「今日はありがとう。いつもお疲れ様」

「結已も、いつもお疲れ様」

「へへ……楽しかったね」

「ああ、ホントに。懐かしいところいっぱい回れて楽しかったよ」


 結已は笑顔で。

 その頬には、雫が伝っていた。


「ありがとう」


 ぐっ、と脩平の顔がこわばる。

 目も合わせられず、ひたすらに流れる雫を目で追う。

 その雫は雨のせいか、それとも――そんな分かりきったことを考えてしまう。最後にこうなることも、分かりきっていたのに。


「特別な日に私に付き合ってくれて、ありがとう」


 今日は、二人が付き合い始めた土曜日。

 二人にとって、土曜日は特別な一日。


「今まで一緒にいてくれて、ありがとう」


 この結論は、二人で出したものだ。

 だから、自分だけ何も伝えない訳にはいかない。


 脩平はそっと結已の手をとる。


「こちらこそ、ありがとう」


 結已の手は冷たくこわばっていた。

 暖めてあげたいと脩平は思う。


「今まで俺を支えていてくれて、ありがとう」

 

 でも、それはもうできない。

 二人は声に詰まって、ようやく目が合った。


 愛してるよ、と。

 愛してます、と。


 二人は最後にそれだけを言葉にして。

 手の中に、温もりと思い出だけを握りしめて。


 雨は、もう止んでいた。

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