ケース2 一条勝己×解離性同一性障害(8/8)

 置き去りにされている問題がきっと勝己の記憶の中にある。それをもっと上手く引き出せたら――

 白夜は勝己の元へ毎日熱心に通い詰めた。

 徐々に明らかになっていくのは、勝己の仄暗い過去だった。


 五歳の時にゆかりは一条の家を出ていった。椋谷だけを連れて。

 置き去りにされた勝己は、一条の家で孤独な二年間を過ごした。小さいころの二年というのは大きかったという。その間、いろいろなことを考えたそうだ。今頃母さんと椋谷は何をしているだろう。きっと楽しく暮らしているんだろう。こんな一条のしがらみに囚われずに。

 一条なんて嫌い。母さんを追い詰めた父さんも大嫌い。それから、置いていかれた自分のことも嫌いになった、と勝己は言った。

「当時は母さんが他の男の人と不倫しているなんて知らなかった。俺は、自分が憎き父さんに似てるから、母さんから嫌われていたんだと思った。母さんは俺を、お父さんに似ているねとよく言っていたんだ。俺はそのたびに突き放されるような気がしていた。だから、父さんに似ている俺のことは捨てて、椋谷だけを選んだんだと思った。椋谷に対して嫉妬した。恨んだ。俺も父さんに似ていなければよかったのに――そうすればこんなところに置き去りにされずに済んだのに――って」

 二年後、ゆかりの自殺の知らせと共に椋谷が帰ってきた。勝己は複雑だった。仲良し兄弟だった椋谷の帰還は嬉しかった。だけど、この二年間ずっと羨んでいた相手だった。自分はもう二度と母さんに会えないのに、最後まで母さんを独り占めにしたのは椋谷だ。

「でも、それでもやっぱり、椋谷が帰ってきてくれたのは嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。だから、俺は我慢するようにしたんだ。椋谷を憎む気持ちに蓋をして」

 そして、歪んでいった。

 「父さんに似ているね」と言われた部分を切り離していった。

 代わりに、母さんに似ようと努力した。

 そうして自分という存在がよくわからなくなっていった。 

 解離した理由はそれだったのだ。


「勝己様、おはようございます。白夜です。お時間ありませんか?」

 白夜は今日も戸を叩く。

「治療の続きをしましょう!」

 複雑な家庭事情、隠されていた過去、それらも徐々にわかってきたし、勝己に会えない間に、勝己の解離がなぜ起きたのかを白夜なりに推理して、順を追って端的にまとめた。あとは、勝己が「多重人格」でなくなるように向かわせていくのだ。

「勝己様?」

 しかしドアの向こうから返されるのは、

「ああ白夜くん、勝己は今日も調子が悪いんだ」

 二代目知己からの、拒絶の意だった。

 今日だけではない。昨日も。その前も。せっかく、あと少しで解決するところまで来たのに、勝己は急に体調を崩して人格交代を起こし、部屋に引きこもって、白夜を入れない。

 でもよく考えてみれば、看護師に対して妙な話である。

「昨日もお疲れのご様子でしたよね知己様、ちょっと様子を見させてもらえませんか?」

 調子が悪い時ほど、プロに任せるべきだ。今ならなんだって解決してみせる、と白夜は意気込む。腹痛でも風邪でもどんとこい。

「さあ、僕は看護師ですよ!」

 みなぎる全能感。だが――

「悪いけど、帰った方がいいと思うよ」

 なぜ!?

(いや、いや、考えろ)

 白夜はドアの前で考え込む。

(ああもう……あと少しだって言うのに、最近、交代してばかりで進まない……)

 盆が近くなってきたからだろうか。

 あの手この手を尽くしても勝己は部屋から出なくなった。そして白夜を入れなかった。出入りを許されたのは暁か、椋谷だけ。ここまで来ると、さすがにお手上げだ。そうして白夜は中間報告を兼ねて針間に電話をかけることにした。本当はそこまで自分で答えを導き出したかったが、それ以上に、解離性同一性障害の原因究明業務にさっさと取り掛かりたかった。

「今のところ、判明したのはここまでです」

 これまでの経緯、全ての真相。報告を、電話の向こうで針間は黙って聞いていた。

「よく引き出したな」

 白夜は一瞬、また褒められたのかと思った。

「それで、勝己は今何してる?」

 だがその声には張り詰めた緊張感があった。

「実は……会えていません」

「――何?」

「調子がよくないからと言われてしまって……どうしたらいいでしょう?」

 針間は電話の向こうで、何か考えているように沈黙している。それさえも白夜にはじれったかった。医者である針間が介入すれば、さすがに先に進むだろう。早く何とかしてくれ、と、そんなことを考えて先を急かした。

 だが、

「おまえ、

 針間から浴びせられたのは、冷ややかな質問だった。

「え……?」

 一条勝己のこと? もちろん、ずっと考えている。

 いや――そんなことを訊ねているのではないだろう、と直感が頭を突き刺す。

「あいつがそれに直面したくなくて、解離してまで避け続けてきたってこと、忘れてねえか? あいつはそういう人間だったんだぞ?」

 その言葉で、冷水を頭からかぶったように白夜は硬直した。

「あ……」

 途中まではたしかにちゃんと感情に沿って、心を慮ってやっていた。けれど。事情が込み入ってきて余裕がなくなり、目の前には、ずっと欲しかった情報がいくつも見えてきて――勝己の心のこと、まったく考えなくなっていった。

 そもそも自分は解離なんてしたことがない。そんな感覚わからない。早く正答を導きたかったし、それが治療の最短ルートだと思っていた。解けた方がいいに決まっている。もうさっさと解いてしまえ、と。パズルのように。

 遅れて気が付いていく。自分は正解らしきものは導き出せた。だが、数日もの間、勝己はそこでいったい何をしているのだ?

「い、今すぐ……様子を見に行きます!!」

 白夜は返事も待たず電話を切って、駆けだした。階段を上がって、勝己の部屋をノックする。だが、鍵がかかっている。内側から、暁の声が聞こえる。

「すみません、誰もいれるなと、先代の方々のご命令なんです!」

 壁を叩きつけるような音がする。耳を澄ますと、中からは勝己の口を借りた複数の異なる人格たちのが聞こえてくる。死ね、汚い、と椋谷を罵る言葉に殴打の音。


 白衣の裾を翻して駆けつけてきた針間が、深くため息をつく。

「やっぱりこうなったか」

 針間はため息とともに、頭を掻き毟る。

「お前みたいに、頑丈な人間ばかりだと思うな」

 針間に言われ、白夜は俯いた。

 その通りだ。

 つまり勝己は、真実に耐えられなかったのだ。


「仕方ねえ」

 針間は言うが早いか、どこからかドライバーを取り出すと手渡してくる。

「強行突破すんぞ。おまえが外せ」

「え、は、はい……」

 そして針間は両手に何も持たない状態になって言う。

「俺が催眠暗示をかける」

「は、はい」

 解離する体質の人は被暗示性が強い。

 白夜が蝶番の留め具を外している間に、針間は勝己に対する何か呼びかけを開始し、

「よーし勝己、出てこい……」

 ドアが開くとともに、中から勝己の悲鳴が聞こえた。

「椋谷! おい、しっかりしてくれ、どうしてこんな、酷い、誰が――暁、なあ、俺、どうしよう――」

 自分におびえる椋谷と暁の姿に、勝己は愕然と立ち尽くしていた。

「こいつらは診療所に運べ。念のため精密検査する」

 ぐったりとした椋谷と暁をそれぞれ車椅子に乗せ、白夜が一人ずつ車に運び込む。

「ああ……今日は、何日ですか?」

「八月十日だ。勝己、おまえはもう一週間ほど記憶が抜けているだろう」

 針間が言うと、勝己は項垂れる。

「地獄みたいだ。何が起きているのか……」

「椋谷を虐め倒していたんだろうがよ、暁もな」

 勝己は取り乱して泣いている。

「どうしよう、どうしよう……二人とも、大丈夫かな……どうしよう……俺……」

「あんまり大丈夫じゃねえっつの。だから催眠かけてまでお前を引っ張り出さなきゃならなかった」

「ねえ、椋谷たちは、今どんな状態なんですか?」

「まだわからねえ。これから調べる」

「金ならいくらでも払います。何でもします。必ず助けてください!!」

 追い縋る勝己の両肩を、針間が静かに掴む。

「本気でそう言ってるんだな?」

「当然です。もういやだ。俺は誰も、傷ついてほしくない。「憑依」は精神科で治せるんでしょう、だったら早く治してください! 「憑依」なんて二度としない体にしてくれよ!」

 詰め寄る勝己に、針間は言う。

「その分、おまえが傷つく覚悟はあるのか?」

「え?」

「もうわかってんだろ? 本当はおまえ自身の問題なんだって」

 勝己は俯いた。

「俺に問題があるのは、な、なんとなくわかります。でも、どうしろっていうんです……」

 針間は揺さぶって、無理やり視線を合わせて言う。

「統合しろ」

「統合?」

「そうだ。受け容れるんだ。本当の自分を!」

 勝己の目を見て、諭すしかなく。

「全部、おまえなんだよ」

「違う――!」

「暁を殴ったのも、椋谷を憎んでいるのも、全部全部お前の意志なんだよ!」

「あり得ない!! 馬鹿なことを言わないでください!」

「さあ、おまえも一緒に来い。あいつらの傷を見ながら、移動しながら聞け」

 針間は勝己の手を引きながら、全てを明かしていく。一つ一つ、刺すような真実を。

「そんな……じゃあ、俺の元々の人格は、「勝己」じゃなくて、「椋谷や暁を殴った人格達」だっていうんですか?」

「その通りだ。「勝己」は、元々のおまえオリジナル人格が作り出した幻想の人格だ。一条ゆかりに気に入られる人格をイメージして作り上げた存在なんだよ」

「信じられません、そんなの!!」

「信じたくないだけだろ……」

 針間は寝台車の後部座席で、隣に座らされた勝己に問いかけ続ける。

「認めないなら、あいつはこれからもお前に殴られ続けるぞ」

「でも殴っているのは、俺じゃない!」

「おまえだ! 心の奥底に閉じ込めていたおまえなんだ。父親にそっくりで、大嫌いだった自分自身――それが一年に一度蓋を開けて、一条椋谷を憎んで、嫉妬して、いまだに殴ってんだ!」

「違う、そんなの、認めない――」

 ここが踏ん張りどころだ。

「俺は、俺はそんなことはしない! やっているのは歴代の主たちなんだ! 祈祷師の織子さんを呼んでくれ! 誰か!」

「録音音声を聴いたんだろ? 「憑依」なんてものはない」

「違う……「憑依」のせいなんだ……。でも、そ、その分、俺が、椋谷を大切にする。椋谷は、どんなに傷つけられても、治してあげる……俺が、俺が癒してあげるんだよ。そうだ。だから、このままのほうがいいんだ……!! も、もう二度とこんな治療はしないでくれ。このままでいいんだ!! 「憑依」なんだよ!! それをもっともらしい理屈をつけて治療しようとするから、だからあんな目に遭わせてしまったんだ! 今までも、それなりにうまくいっていたんだ……」

「でも、椋谷は重傷を負ってんだぞ!? 暁も!」

「毎年「憑依」した俺に傷つけられていたさ! だから盆が過ぎ去るまで耐えてもらって、その後で手厚く保護した。俺の、最大限の愛情で――これからも、もう、それでいいんだよ! 俺は、これが俺だ! これが勝己なんだよ! あんな人格なんて、俺じゃない!!」

 

 針間精神科診療所で椋谷と暁の緊急処置が終わり、二人は入院の運びとなった。勝己はすでに邸に返されている。

 白夜は病室を出ると、恐る恐る、針間の顔を窺う。

「あの……大丈夫ですか、針間先生、その傷」

 いててて、と針間は頬をさすって廊下を歩く。あの後、興奮した勝己に殴られたのだった。

「まーな。あいつの本性が出始めた。元の人格はなかなか好戦的らしいからな。ま、つまりは治療は前に進んでるってこった。こんな風に、少しずつ統合が始まっていくといいんだが――っつてもこりゃ、厄介な人格だなーははは」


 心を治すって何だろう。

 勝己の気持ちは、実は白夜にも少しだけわかる。

 本当の自分と、なりたい自分。

 その、落差。

 たしかに自分も、優しい看護師になりたかった。優しい人間になりたくて、憧れて、真似をしようとした。でも、それは時に、自分を殺さないとできないなと思う。少なくとも、無意識のままでは、なれそうにもない。

 でも、人はあそこまで自分らしさを殺しきることもできるらしい。

 それによって歪みが起きているけれど、少なくとも勝己は自分のなりたい自分になることはできていたのだ。

 それは白夜の想像を絶する殺し方で。


「お前、これから一条の屋敷に戻るのか?」

 後頭部で手を組み、針間が伸びをしながら尋ねてくる。

「勝己に会うのか?」

 白夜は迷わず頷いた。

「はい」

 時刻は夜の九時を回っている。

「んじゃ、まー頑張ってこいよ、俺はもう寝るわー」


 屋敷に戻り、勝己の部屋を訪ねたが現在清掃中で、部屋主を探してみると、夜の庭のベンチに所在無くぼんやり腰掛けていた。

 どう話しかけたらいいものか、白夜が遠巻きに考えていると、一階客室の中の一室から祈祷師の織子がこちらを見ていることに気が付いた。

「織子さん……」

 白夜は窓辺にそっと近寄る。

「じゃーから言ったろうに」

 嫌みたらしく彼女は嗤う。

「織子さん、あなたは何もしてないじゃないですか……」

「していたさ」

「何を」

「少なくとも、おまえが引っ掻き回すまでは、もう少し平和じゃった……」

 言い返す言葉が出てこない。

「はあ~、仕方ないねェ。特別に、タダで呼び出しておいてやったわい。盆だからね、近くまで来ておったしのゥ。ま、助けてもらいな……」

 織子はそう言うと、突然白夜の背中を力いっぱい押してきた。「わっ!?」と前につんのめって両手を地面に着く。すると、目の前にいた勝己がこちらに気付いて、歩いてくる。

「ほお……」

 その手には古めかしい煙管が持たれていた。

「勝己、様……?」

「ああ、ワシは、初代、一条一己かずみじゃよ」

 ぷはーと紫煙をくゆらせながら、ゆったりとした動作で夜の月を眺めている。

「やれやれ。遠い孫も困ったもんだな。見かねてな、出てこさせてもらったよ」

 煙管をくわえると、もう一度吐き出す。

「死人に口なしをいいことに、ずいぶん悪者にされてしまったようだな、ワシたちも。あっはっは」

 白夜はぼんやりと、彼の立ち振る舞いに見入っていた。

「お前さんたちも困っているみたいじゃのうと、思ってな」

 夜風に吹かれ、まるで時代が遡っていくような錯覚にとらわれる。

「試練だねえ、勝己。頑張ってるのは、おじいちゃん知ってんだけどな、でもな、ちいとやりかたがよくないのう……」

 ちら、とこちらを見やり、

「本当にすまないねえ――あんな愚息で……」

 遠い場所から、思い馳せるように、

「こんな孫を、受け止めてくれるかね」

 彼は、愛情を込めて言う。

「最後まで、認めてやってくれませんか」

「初代……さん」

 白夜は立ち上がると、しっかりと頷いた。

「はい。僕は、そのつもりです」

 初代は満足げにゆっくりと微笑むと、

「それじゃ、頼んだよ」

 そう言って、消えていく。残ったのは、深い眠りに落ちているらしい勝己で、その場に倒れてしまいそうに揺れる彼を、白夜が受け止めた。

 

 その日、本物に会ったかもしれない、と針間に報告したら、鼻で笑われた。おそらくISH――内部にいる自己助力者インターナル・セルフ・ヘルパー、実生活には関与せずにどこか高い場所から人格たちを観察する人格だろうと一蹴された。


 だがあれだけは、勝己の作った交代人格ではなく、本当に先祖の霊が憑依していたのではないだろうか。と、白夜は時折思うことがある。

 そんなことがあるわけないと思いつつ、一条家先祖代々の墓の前に、白夜も両手を合わせておいた。


 盆は、もう少しだけ続く。

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