ケース2 一条勝己×解離性同一性障害(6/8)

 翌日、すっかり金を巻き上げられた白夜と針間は、一条家に出された食事を客室で一緒にとっていた。

「だいたい、あれは診察の一環だったんだよ! 交代人格を引っ張り出すための! 恩をあだで返しやがって!」

 白夜は呆れ顔で、針間の愚痴を聞いていた。

「……それなら診療経費ということで、僕の負け分は針間先生が出してくれるんですよね」

「はあー!? お前は遊びに行ってたんだろーが!」

「いやいやいや! だからっ、針間先生こそそうだったでしょ!! 言い訳しないでくださいよ!」

 針間はふんっとそっぽを向く。傷をなめ合うこともなく、えぐりあうだけの不毛な会話だ。

(ああ、この盆休み、働いてしっかり稼がなくては……)

 針間も同じことを考えたか、食事もそこそこに、マウスを操作して電子カルテを読む。

「……交代人格の把握は一旦保留。新たな人格が出たら知らせてくれりゃそれでいい」

 そして白夜に次の指示を出した。

「次は勝己と親しくなって、今抱えている問題か、過去の苦痛な出来事を出来るだけ聞き出せ」

「親しく、ですか?」

「なんらかの外傷経験や愛着障害から解離している可能性がある。仲良くもない奴に、いきなりそんな過去の重い話をしたいとは思わねえだろ」

 白夜は頭の中に収めている「解離」の情報をたぐり寄せる。

 解離性同一性障害――つまり多重人格が、外傷経験トラウマや愛着障害で起こる。それはどういうことだろう、と改めて考える。

「解離ってのは、言ってみれば防衛機制の超進化形なんだよ」

 針間は答えをくれた。

「解離は、ストレスに対し一般的な防衛機制じゃ対処できなかったとき、稀に成功しちまう」

 防衛機制というのは、保健体育の授業でも習う。抑圧、合理化、同一視、投射、反動形成、逃避、退行、代償、昇華――ストレスそのものを消すことができないとき、苦痛から心を守るために起こる、無意識的な心理的メカニズム。誰もが持っている心の安全装置だ。たとえば「合理化」は、イソップ物語の「すっぱい葡萄」が有名で、高い位置に実った葡萄に、手が届かなかったキツネが「あの葡萄はどうせすっぱい」と根拠なく思うことでストレスを軽減している。本来は葡萄をとれなかったことを嘆くべきだが、その悲しみから心を守るために「合理化」という防衛機制を使っている。言い訳ともいう。そんな風に軽減してばかりでは本来のストレスは存在したままで、成長もないが、辛すぎて何日も寝込むくらいなら、そう言い訳して次の果物に進む方がよっぽど生産的だ。一般的には、それら防衛機制を適宜使うことで人生を謳歌していける。

「なんかバカでかい闇があるはずだぜ」

 だが、ストレスがあまりにも大きかった場合はどうか。防衛機制しても軽減が間に合わない。ストレスそのものを取り除くことはできない。そこで、どうするのか。

 解離するのだ。

 そのストレスは自分ではなくまったく別の人格が抱えるストレスで、自分には関係ないことだと思い込もうとする。もしくは、今目の前に起こっていることは、現実ではないと思い込む。不都合な現実なら、いっそ現実味を無くしてしまえばいい。

 解離とは、ぷっつりと切り離すことともいえる。たとえば健康的な日常の中に多かれ少なかれそういったことは起きている。白夜も、数独パズルに熱中している際に周囲の声が聞こえなくなることはある。それを、たとえばストレスから身を守るために病的なまでに高度化させてしまったものが解離症だ。自分の中で現実味を薄めさせて苦痛な出来事の実感を無くしていけば離人症となり、苦痛なその出来事自体を忘れ去ってしまえば解離性健忘となり、そして自分ではなく別の人格部分が経験していることにしてしまえば解離性同一性障害になる。

(勝己様は、そんなになるほど、いったい何に対してストレスを抱えているっていうんだろう)

 白夜は「親しくなる」ミッションを遂行すべく、勝己の傍にくっついて回った。

(これ、試練だよなあ……)

 元々、気を利かせて人の心を掴むということには憧れがあるものの、白夜の苦手とすることだ。勝己の後ろをただついて回るだけではもちろんだめだろう。

(どうしたらいいものか……)

 それに、そんな大きなストレスというものを吐き出させるのは、至難の業だ。かといって、針間先生には期待できそうもない。南もここにはいない。今頃、受験勉強中だ。

(俺がやらなきゃ)

 転機が訪れたのはそれから間もなくのことだった。

 白夜が勝己の声の届く範囲内で宴の手伝いをしているころ、

「たった今、奥様がおやしきにお戻りになられました」

 ハウスメイドが暁にそう告げるのを、ふと耳にした。

 「奥様」は、正月に帰ったきりで、それから実に八か月ぶりの帰宅となる。入って半年の白夜はこれで初めて顔を合わせることになる。

(今すぐ挨拶に行くべきだろうか?)

 でも今、自分は勝己についているわけだから、勝己の行く先で偶然出くわした時にしようと結論を出す。勝己が動き出すのをじっと待つことにしよう。白夜は用事があるフリをして勝己の部屋に入って待機していた。

(八か月ぶりに帰宅する母親かー……)

 それはもう帰宅と呼んでいいのか来訪と呼ぶべきなのかわからないが。しかし「夫婦別居」とは決して言わないよう、その昔白夜がここに入った時に暁から細かく言われていたのを思い出した。仕事の都合でしばらく留守にしているだけだ、と念を押された。

(いろいろ体裁があるんだろうな)

 勝己が解離した理由もここにあるかもしれない。白夜は勝己をじっと観察する。勝己は瑛璃奈の帰宅の知らせを受けても「ふーん」と言って雑誌のページをめくる手を止めない。出迎えには行かないのだろうか。

「まあ……盆の席で顔を合わせればいいんじゃない?」

 おや? 白夜は意外に思った。

 さらに、

も、忙しいだろうし」

 と、付け足す勝己に違和感を覚える。

(瑛璃奈、さん?)

 変な呼び方だ。

「ではそのように」と言い残して、手を打つべく出ていく暁を見送った後、勝己にそれとなく尋ねてみる。

「あの……、お母様とは、あまり気軽にお会いになったりしないのですね……?」

 こんな大きな家ではそういうものなのだろうか。

「ん、いや形式上は……母親、だけど、血が繋がってるわけじゃないからさ。年に数回会うだけだし。挨拶なんてその時にまとめてでいいよ」

「え、そうなんですか?」

 血が繋がっていない?!

「うん。瑛梨奈さんは……俺の母さんの後に、再婚で一条に来た奥さん。普段は京都で仕事してるし、住まいもあっちだから」

 わざわざ名前で呼ぶことの違和感も、すとんと腑に落ちて消える。

 瑛梨奈だけが京都暮らし――

 ――そしてもう一つ確認したいことが出てきた。

「では、勝己様のお母様は、今、どこに……?」

 これはかなり重要な情報だと気を張る白夜。

「母さんは、俺が六歳の時に亡くなったよ」

(……そうか)

 勝己の家庭環境は結構複雑だということが明らかになってくる。

 実母は勝己が幼い頃に他界し、京都に別居している継母がいる。

 勝己が六歳の時に母親が亡くなった。ということは年齢差的に、瑠璃仁と伊桜は後妻である瑛梨奈の子供なのだろう。

(解離する原因となる要素がいろいろあるな。たとえば、継母が帰宅する盆に、自分だけ疎外感のようなストレスがかかるとか……まだわからないけれど、なんかありそうだよな)

 長い沈黙。

 勝己は、物憂げに黙ったままだ。

 白夜は無意識に流れ始める思考回路の電流を一旦切断する。

(おっと、悪い癖だ)

 白夜は慌てて、目の前の勝己に集中する。

 繋ぎ直せ――隅々まで張り巡らせるべき回路は、勝己の心情に対する配慮の方だ。家庭環境の情報取得も大切だが、それは後からでもきっとできる。まずは、今だ。今、心を通わせるところから始めるんだ。

「そうだったんですか……」

 神妙に頷きながら白夜は繊細に感度を高め、五感の全てを総動員する。そのまま第六感まで目覚めさせるくらいの気概で、勝己の心を読むがごとく情報を吸い上げる。

 あれ……? 勝己様は今、何を考えているんだろう?

 距離のある瑛璃奈様とのこと? それとも幼き日の「母さん」のこと?

 白夜は研ぎ澄ませた神経でもって洞察する。瑛璃奈と勝己は不仲ではなさそうだが、仲良しというわけでもなさそうだ。近づきたいとも、理解し合いたいとも思わず、出来るだけ当たり障りなくその場をやり過ごしたいとでもいうような空気を感じた。

(きっと、瑛璃奈様のことは、今の勝己様の頭にはない。瑛璃奈様のことじゃなくて、きっと――)

 勝己は、幼い頃に亡くしたという実の母親の方を一切迷うことなく「母さん」と今もなお呼んでいた。勝己にとって母親とは、亡くなった一条ゆかりただ一人だけだとでも言わんばかりに。

 六歳の時に死別するというのはどういう感覚なのだろう。記憶はどれくらいあるのだろう。白夜にはその感覚がよくわからない。

 でも、間違いない。

 今、勝己は幼き日の「母さん」を思い出している。

 つまり――

「勝己様は、お母様のことがお好きだったんですね」

 白夜は言い切る形でそう確認する。

「え?」

 勝己は茶色い瞳を丸くさせ、驚いたようにこちらを向く。白夜はにっこり笑って問いかけた。

「大好きだったのではないのですか?」

「あ、え、えーと……まあ、うん……」

 思わぬ図星を突かれたように、こめかみを掻きながら首肯する勝己の頬は、朱に染まっている。

「うん、そうだね……すごく好きだったね」

 最後の方はどこか惚気るように。

 白夜はにっこり微笑んで、

「もしよろしければ、お母様のお話、聞かせてもらえませんか?」

 そう水を向ける。

「……いいよ。うん……そう、本当に大好きだった!」

 普段そんなことを語ることなど、あまりないのだろう。勝己はもう楽しそうに話してくれる。

「俺はね、ちっちゃいころから母さんのことが、そりゃもうすっごく大事で、愛しくて、ずっと一緒にいるんだーって、心から思っていてね……」

 そして、自分の方から白夜にいろいろなことを教えてくれた。幼い日の思い出。庭の筑山でよくピクニックをしたこと。「母さん」の笑顔はにっこりと純粋で、暖かくて、楽しくなること。初恋は母親だったとまで。

 勝己は思い出に浸り込むように、ごろりとベッドに寝転がる。

「母さんがもし生きてたら、俺マザコンになってたかも。危なかったね……はは」

 そんな風に冗談めかして、ずっと、寂しさを紛らわせてきたのだろう。

 白夜は胸が切なく痛んだ。

 誰かまたこの人を母なる愛で包んであげてほしい、と切に願った。

 願うしかできない無力な自分を、もどかしく思った。

 そうして白夜は自分の感情に素直に従うがままに、自然とベッドに腰かけて、目の前に横たわる勝己の頭に手を伸ばす。そして、優しく撫でた。幼子を扱うように。きっと、驚かせただろう。でも、そんな勝己の躊躇などきっとすぐ跳ねのける確たる自信が白夜にあった。やはり、勝己は嫌がらなかった。それどころか目を細め、気持ちよさそうにうとうとと眠りに落ちていく。静かな時が流れる。廊下を行くメイドたちの足音が小さく聞こえる。次期当主を幼子扱いするなんて、失礼極まりない行為で、暁などに見られでもしたら大目玉だ。それでも白夜は全然構わなかった。白夜には手に取るように、勝己が心地よさに包まれていることがわかっていたから。自分を含め、勝己以外の人間のことなど、どうだってよかった。勝己に共感し、共振するままに、そのまましばらくそうしていた。


 盆が近づくにつれて日常業務が増えていく。

「おーい、白夜、手が空いていたらちょっと手伝ってくれ」

 掃除中の椋谷に呼ばれた。他の使用人から仕事を頼まれることも増えてきた。手が空いているわけではないが、新たなる情報が入った今、それを元に外堀から埋めてみるのもありかもしれないと、清掃道具を受け取る。

「どこを掃除すればいいんです?」

「伊桜の部屋だ。留守にしてた間も誰かが綺麗にしててくれたみたいだけど、細かいところがなー。伊桜の部屋は本当は結構古いから」

「そうなんですか」

「ああ。俺が十九の時に伊桜が小一で、俺の部屋だったのを改装して作ったから……」

「え?」

 今、なんて?

 さっそく情報収集のチャンスが訪れた気がして、白夜は聞き返す。

「ん? 改装して作ったんだよ」

「いや、その前の……」

 と、しかし白夜の目の間にてくてくてくと動物が現れた。しかも二匹。一条家で飼っている白と黒のラブラドールレトリバーだ。すぐそばの椋谷に向かって駆けてくる。

「あ、そろそろ、ワルツとオペラの散歩の時間かー。じゃ、そっち先行くか」

 二匹ともしっぽがぶんぶん揺れていて、ふくらはぎに当たるとピシピシとけっこう痛かった。

「あ、苦手じゃないよな?」

「ええ、まあ……、慣れないですけど。わわっ」

 優しい色合いのイエローホワイトのラブラドールが、白夜にどーんと飛びついてくる。

「こっちがワルツで、黒がオペラでしたか。なんだか名前、シャレてますね」

「はは。オペラは俺の犬だったけど、名付けたのはおれじゃねーからな」

「そ、そうなんですか?」

「お上品すぎるだろ、そんなの」

 そっちじゃなくて、俺の犬だった、という言い方が気になった。どういうことだ? 椋谷はここに住んでいたことがあるのか?

 純ブラックの毛並みが凛々しい黒ラブラドールのオペラは、白夜に一瞥をくれると、そのまますーっと通り過ぎようとする。その時にさりげなく椋谷の足に脇腹で触れるのに、白夜は気付いた。

「いつから飼ってるんですか?」

「どうだっけ? 俺が小学校卒業するころぐらいかなあ? 犬が飼いたいって勝己とねだっててさ。それを聞いた取引先がラブラドールを二匹譲ってくれて、ワルツは勝己が、オペラは俺が飼うことになった。自分の犬なんて持ったことないし、俺も勝己も、大事に育てたなー。今はもう、二匹とも勝己が飼い主で、二匹とも俺が世話係だけど」

「あの……椋谷さんって、一条家の勝己様とどういう関係なんですか――?」

 使用人にもかかわらずタメ口をきくし、暁もそれを甘んじて許している。同級生の幼馴染とかだろうか?

 そのときふと中庭を見ると、庭に続く方向から暁が一人で歩いてきていた。

「あ、暁さんだ」

 白夜と同じく今日は勝己に同行を断られたのだろう。

「は? うわーわわ。めんどくせーやつが一人で帰ってきやがったかー。勝己も連れてってくれればいいものを……」

 暁は、中庭と廊下を隔てるガラスを外側から磨いている春馬に出くわすと何事かを言いつけ、春馬が困ったようにぺこりと頭を下げる。その光景を見て、椋谷がげんなりして言う。

「は~。あいつ、愛しのご主人様に追い返されて、そーとー不機嫌だから、注意しとけー」

 暁はそのままの勢いで、ずんずんとこちらに向かってくる。

 ガチャリと、中庭から室内へと続くガラスドアを開けて、白夜たちのいる廊下へ。

「おー。暁、ワルツとオペラの散歩行ってくるなー」

「椋谷さん! ワルツ様に、オペラ様です!」

「いや、さすがに犬に敬称は……いや、なんでもないっす。ウィッスウィッス」

 手慣れたように、「オペラ様行きますよ~こっちこっち」と茶化して声を掛けている。暁はまだ何か言いたげだったが、椋谷が「あ、これお願い」とエプロンやら掃除道具やらを暁に押し付け、逃げるように走るので白夜もひやひやしつつ慌てて追いかけた。

 犬の散歩という家事仕事。ここでは基本はリードを付けていないというが、勝手に敷地外に出ていってしまわない様に、注意を配って見ている散歩の時間以外は外に出さないらしい。しかし、自分の家の庭を回るだけで犬の散歩が事足りるというのだからすごい。

「バラ園をうねうねして、日本庭園の方まで回ると、ちょうどそこでウンコする」

 高貴な犬の散歩だなー。

 敷地が広いことを改めて思い知らされる。だが白夜がここに徒歩で来たときに気付いたことだったが、この豪邸は都心に自慢げにあるわけではない。まず、外から見ても住居があるのだということがわからない。住所を頼りに行けどもしばらくはなんの面白味もないような地味でうらぶれた木に囲まれた砂利道が続いていて(後から知ったがその道も一条の私有地だ)、なにか用でもなければ気にも留めないような坂道を行き、この先に公民館とかなんかの施設でもあるのかと思うような頃に……突然広々とした公園のような一面の青い芝が現れる。それから一流のデザイナーズオフィスか高級ホテルのような建物と、その付近には迷路のようなバラ園だ。階段の下には松の木が植えられた日本庭園が広がっていて、ちろちろと小川が流れている上には小さな橋がかけられており、その下を覗き込めば鯉もいる。橋の向こうの奥地には茶屋まである。

「まあ、あいつらが駆けてくのをこうやって見ているだけでもいいんだけど、気晴らしに歩くんだよ。んで、一周するころにはあいつらも空気を読んで、家ン中入ってってくれる」

「へええ……」

 二匹は放っておいたらずいぶん遠くまで行ってしまった。黒と白の点が、あっちにこっちに。付かず離れずの距離で、白ラブラドールのワルツはへなへなよたよた、たまに何かを――蝶かな? ――追いかけたり、木陰で休んだり。黒のラブラドールのオペラは迷うことなく数か所に寄って用を足し、お決まりのコースを一定の速度で歩いている。

「まあ~、一応オシッコかけられたところは後で水で流すけど、急いでいるときはサボればオーケー。あ、暁が見ていない限りな」

 椋谷は気まぐれのように指笛を吹いた。遥か遠くまで響き渡り、二匹のラブラドールがぱたりと時間を止めたようにして振り返った。初めにオペラが。次いでワルツが花の匂いを嗅ぐのをやめて振り返る。オペラが椋谷の方へ駆けていくのを見て、ワルツは自分もとそれに続いた。椋谷に呼ばれたことに嬉しそうに、こちらへと戻ってきた二匹。椋谷は気分よさげに彼らを撫でる。二匹はもっと撫でてと体を摺り寄せ、ワルツがやんちゃに飛びついて椋谷は「おおっと」と尻餅をついて笑った。ワルツはさらに追撃をかますように突進。椋谷はいっそ仰向けに転がって、ごろんと空を見上げた。思わぬ反応にびっくりしたようなワルツが、仰向けの椋谷の周囲をうろうろ歩きはじめるが、オペラは椋谷の胸板を二本の前足でむんずと踏んで澄ましていた。

「あー重い、重いオペラ、降りろって~」

 地面に転がった椋谷のスーツが土まるけになっている。椋谷はオペラの体重に負けじと腹筋で上体を起こすと、バランスを崩したオペラを抱きかかえて反撃した。オペラは目を白黒させ、体をぶんぶんと振って抱擁から逃げようとするが、椋谷は頬ずりして離さない。ワルツが羨ましそうにワンワンと吠えて、ようやく交替してやる。オペラは這う這うの体で歩き出し、散歩を再開。入れ違いに椋谷の胸に飛びこんだワルツは、構ってもらえて嬉しそうだ。

 なんとも長閑な時間だ。白夜はぼうっとその様子を眺めていた。

 本当に仲がいいんだな。深い年月を感じさせるその光景に、白夜がやはり気になるのは――さっきのことだ。幼い頃に勝己と犬がほしいとねだって、勝己はワルツを、椋谷がオペラを飼っていた、とはどういう意味なんだろうか。あとは、伊桜の部屋はもともと椋谷の部屋だったものを改装したとか――。

 そうして、足を止める。

「あ。なー、ほらウンコ」

「ほんとだ……」

 椋谷が指差す先で、二匹とも踏ん張っていた。健康的な生活リズムのようだ。

「ちょっと先帰ってこいつらの風呂とエサ、用意しておいてやってくれる? ここは俺が片付けておくから。エサの場所なんかは、そこらへんにいるやつに聞いてー」

「はい」

 白夜は言われた通り、一足先に邸に戻ることにする。

 やはり、自分にはまだ知らないことがありそうだ。

 その後、椋谷はなかなか戻ってこなかった。庭師の春馬に草取りを頼まれたそうだ。白夜はというと、食堂の前を通りかかった時に、宴の準備に手を貸してほしいと言われてしまった。

 盆の宴は親族一同が邸に集まり、盛大な宴会が執り行われる、と、春先に勤務を開始したばかりの白夜はことあるごとに聞かされていた。

「こっ、これ!?」

 素っ頓狂な声を上げてしまったのは、座席表の確認を手伝っていたときだ。

「いや~、ひどい間違いを見つけてしまいました。あはは、いくら椋谷さんの苗字が一条だからって、一条家ご親族の方に椋谷さんまで入れちゃあだめですよー……」

 椋谷の苗字は一条。一条椋谷。一条という苗字は全国にそう多くはないとはいえ、特段珍しいわけでもない。一条姓が偶然被ることもあるだろう。邸の者はお互いを名前で呼び合うことが推奨されているので普段特に意識したことは無かったが、まさか一条一家の盆の宴の座席表の中に、家事使用人である彼の名前が混ざるなんて、ひどい間違いもあったものである。

「これじゃ、この表作り直しですね。座られるお席がズレていたりしたら一大事……ん? どうしたんですか皆さん?」

 白夜があたりを見回すと、なにかを言いたげに使用人仲間がこちらを見ていた。

 その時ちょうど、一条椋谷本人が草を捨てに帰ってきた。

「あー……それはな、いいんだよ」

 状況を察した椋谷は頭を掻きながら進み出て言った。

「盆と正月だけは俺、一条側で出なきゃなんねぇから……」

 歯切れ悪くそう説明する椋谷。言葉に窮するのは今度は白夜の方だった。

「どういうことですか……? もしかして椋谷さん、一条家とは遠縁とか……?」

「いや、血縁はめっちゃ近い……てか、一条家跡取りの勝己と俺は兄弟だよ。異父だけど」

「はあっ!? えっ?!」

 あれー白夜まだ知らなかったっけー? と言葉を交わす仲間達。知らないのは白夜くらいらしい。

「つーわけで、当日は、俺はいねーから、雑用は白夜一人でなんとかガンバ」

 そう言って彼はすぐにごみ捨て場へ行ってしまう。

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよー!」

 戻ってくることもなく、ガラスの向こうの中庭の草を、膝をついてせっせと毟り始めていた。

(半分だけ一条家の血縁? その彼がどうして使用人として邸で働いているんだ…?)

 泥に塗れた前掛けと執事服もすっかり板についている。彼から幽かな気品のようなものを感じたことがあるかもしれないとふと思う。でも、庶民の白夜の感度でははっきりとは感じ取れなかったし、彼を覆い隠すその前掛けはあまりにも汚れていた。


 異父兄弟。椋谷はそう言っていた。それはつまり、一条家跡取りである勝己と同じ母親から生まれたということだ。でも、父親が違う。そんな状況が、あるのだろうか。いや、状況はあるかもしれない。でも、それでどうして彼は一条家の使用人をやっているのだろう。でも、勝己の父親が一条家現当主である正己なら、椋谷のことをどう感じているのだろう。

 白夜は気になってしばらく観察していた。

 椋谷は一条家現当主である正己の前では物言わぬ使用人として与えられている業務を淡々とそつなくこなしていた。何か用事を言いつけられれば「はい」と返事をして、確認する際は全て敬語。立ち振る舞いもきちんとしていて、何も知らない人が見れば、椋谷が実は一条家側の人間だとはとてもわからないだろう。実際、ここに半年も住み込んでいる白夜でさえ気づかなかった。彼が勝己に対して馴れ馴れしく接することに疑問を抱かなかったわけではないが、勝己と同じ高校に通っていたと聞いたことがあったため、その時仲良くなり友人付き合いを経てここに就職したのかと勝手に思っていた。

 だが使用人仲間から得た情報によると、そうではなかった。一条家には当主である一条正己、その息子一条勝己が跡取りで、さらにその下に一条瑠璃仁、一条伊桜の兄弟がいる。一条正己の妻は一条瑛璃奈だが、彼女の前に結婚していた人が一条ゆかり。そのゆかりとの間に生まれたのが一条勝己であり、そして椋谷は、一条ゆかりが正己との間に産んだことにしていた次男だったが、本当はゆかりと他の男との不義密通の子だった。

(なんて複雑な家族構成なんだ……)

 ようやく混沌とした闇が見えてきた気がする。

 でも、どうして勝己が解離するまでに至ったのだろう?

 その理由がまだわからない。

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