ケース2 一条勝己×解離性同一性障害(4/8)

 針間は五分と経たずすぐに来た。一条家には医務室があることを知っているので、身一つで。白夜は指示されたとおりに椋谷を車椅子に乗せて医務室に連れていく。まずは彼の処置だ。ベッドに寝かせて気道確保の上、酸素を投与、さらに輸液路を確保して、胃洗浄の後に活性炭を投与。

「よし。四時間は経過観察。いいな」

 針間は手短にそう言うと、しゃっとカーテンを閉める。

「はい。ありがとうございました」

 これで椋谷の処置はひとまず終了。針間は緊張を切らさないままに、白夜に問う。

「……で、もう一人は」

 白夜は一歩下がると、カーテンの隙間から椋谷のことを不安げに見つめる長男勝己の顔を見た。

「俺?」

 勝己はきょとんとして白夜を振り返る。心配そうなその表情は、見慣れた「勝己」のものだ。

「勝己様、ですね?」

「うん。勝己だよ」

 勝己は問いかけられて初めて、数分間の記憶の欠落に気が付いたように、「そうか、また取り憑かれていたんだね、俺……」と、表情を暗くする。

 針間は白衣を翻し、

「診察するから話せるところへ案内しろ」

 と、もうすたすた歩いていく。

 三人連なって医務室を出る。診察に望ましい空間が必要だ。勝己の自室がいいだろうと白夜は判断し先導する。階段を上って、勝己の部屋の前に来た時、勝己が声を上げた。

「えっと、俺、が診察を受けるんですか?」

「ああ、そうだ」

「椋谷じゃなくて、ですか?」

 意外そうな勝己を針間はちらりと一瞥する。

「あいつの処置はもう終わった。それと、お前の方が時間かかる」

「はあ……?」

 困惑したまま、勝己はドアに手をかけた。白夜も中へ入る。ひんやりとした風、屋内の室温はどこも常に一定に保たれ、快適だ。明るい茶色と重厚なこげ茶・黒を基調にデザイナーが本腰入れて設計したであろう居心地の良い洋風の空間は一人の部屋にしてはかなり広く、二つに分けられるように敷居もある。さらに奥にはバスルームもついていることを白夜は知っている。勝己と針間は、ローテーブルを囲むソファにそれぞれ着席した。

 勝己が気を利かせて「誰かにお茶を出してもらってくれる?」と白夜に命じる。白夜は内線電話でその旨を伝えた。針間は持参したノートパソコンを起動し、何かを入力している。勝己も白夜も無言でそのまま待っていると、程なくして暁がそわそわした様子で氷の入った茶を運んできた。針間と勝己に差し出すと、珍しく白夜の分のグラスも隅に置いてくれた。暁はそのまま盆を脇に挟んで、白夜の横に控えるように立つ。本人はもちろんここで世話をするつもりだったようだが、針間が「診察を始めるので、関係者以外は立ち入り禁止」と出口を指さし――暁は退室の運びとなる。

 そして静寂が訪れた。

 針間はノートパソコンを開いてまたカチャカチャやっている。勝己は戸惑うように、黙ったまま冷茶を見つめている。精神科医に呼び出され、大事になっていること自体が苦痛のように、じっと固まっている。しばらくそのまま時間が流れた。針間が手を止め、お茶を一口飲む。勝己はその様子を眺めている。

 針間は結露したグラスを、コルクでできたコースターの上に置くと、

「よし。いくつか質問をしよう、一条勝己」

 手のひらを合わせ、そのまま組み、勝己に視線を向けた。勝己はついに来たかと身構える。

「お前は、別人みたいだったと言われることがあるか?」

 白夜もじっと勝己の様子を窺う。勝己は暗い表情で、「ありますよ」と頷いた。さらに

「……季節限定ですけど」

 と付け足した。針間はまたノートパソコンに視線を落として、

「それが、盆の時期なんだってな?」

 さらにそう水を向ける。

「はい、そうです」

 気恥ずかしそうに、勝己は頷いた。

「詳しく言えるか?」

「はい……」

 白夜はそのやり取りを、少し意外な気持ちのまま見守っていた。

 針間は普段こんな風に患者と会話をしない。いや、今でも無遠慮にカルテ入力などしているが、基本的に診察時の態度はこんな穏やかなものではない。

 勝己は言うかどうか悩むように頭を掻きながら、

「――歴代の当主に憑りつかれるんです……、はは」

 と、打ち明けた。

 「いつから?」と問いかける針間に、勝己は笑われることを想定していたのか、追従笑いを引っ込めて答える。

「いつからだったか……。よく、覚えていませんが、幼いころからだったと思います。十歳とか」

「ふーむ」

 針間は真剣な表情でキーボードを叩きながら訊く。「憑依、と呼んでいるようだが、その間の記憶は?」

「憑依されている間の意識はありません。俺は」

「俺、は?」

 針間はつっと顔を上げた。勝己は視線を逸らしつつ、答える。

「その当主たちの間では、記憶を共有しているみたいです……。椋谷や暁が、そう言っていました」

 針間は何度か頷く。勝己はまだ、こんなこと信じてもらえるのか半信半疑といった様子で、居心地悪そうにしている。

「自分の魂が身体から抜けて外から自分自身を見ているような経験はあるか?」

「まあ、それはありますね」

 勝己はごく当然のように頷いた。針間は何かわかったように「ほー」と頷くと、それも電子カルテに書きつける。白夜もこの発言で、自分の見立てが確定していくのを感じた。解離性同一性障害、つまり多重人格かどうかはわからないものの、その気質は充分にありそうだ。自分の魂が身体から抜けて――体外離脱体験、幽体離脱とも言う特殊な経験が、勝己はあるというのだ。解離性同一性障害を含めた解離症の患者はそういう体験をごく自然と持っていて、他の人も同じだろうと感じていることがある。針間の「ほー」は診断のための重要な情報を得たからだと白夜は推察した。

(やっぱりな)

 針間は次に診療歴を訊ねた。だが勝己は、医者にかかるのは歯科と健康診断くらいで、特にこれといって思い当たるものはないと言う。その資料は愛長医科大学から取り寄せることにし、次に針間は成育歴や生活歴の聞き取りを始めた。現在の仕事、家族構成、それから「憑依」と呼んでいる症状が現れる時期や状況など。一時間以上に及び、白夜が空になったお茶のおかわりを運び入れ、それもなくなる頃、「ま、これからまた、追々聞かせてもらうぜ」と、ようやく診察を閉じる。

 針間と勝己の部屋を出ると、もうすっかり日は昇っていた。リネン室の水の音や、吹き抜け廊下から聞こえてくる食器の音などが少し騒々しい。

「初診にしても、長かったですね」

 白夜は驚きを隠しもせず感想を述べた。せかせかした日常の診療姿を見慣れているため、どうにも違和感を覚えてしまう。

 針間は不機嫌そうに眉間の皺を深くし、噛みつくように言った。

「……こーゆー病気のために普段カツカツやってんだよ」

 白夜は微笑んだ。

「そうだったんですね」

 針間の本心だろう。

 別に、一条家跡取りだからと、勝己を特別扱いしているわけではない。

 解離性同一性障害は、解離症の中でももっとも複雑な病態なのだ。

「厄介なやつ連れてきやがって……」

 針間はたったたったと早足で階段を下りていく。吐き捨てる文句も朗らかに聞き流せるほど、白夜の胸の内に感謝の思いが溢れていた。

 針間先生なら、きっとどうにか治してくれるに違いない。

 白夜は後姿を急いで追いかける。

「本人は季節限定とか言ってるし、盆の間集中して診る」

「はい、よろしくお願いします」

「ま、診療所も休みだしな」

 休みだから、往診に力を入れてくれるらしい。

「はい」

「交代人格共は普段接していないとわからねぇ。催眠で呼び出すのはできるだけしたくない。つーわけで、密着取材だ」

「はい」

「空き部屋いっぱいあるんだろ?」

「え゛っ……」

 まさか。

 手を頭の後ろに組んだまま振り向いた顔は、にいーっと笑っている。嫌な予感がする、その顔。

「もしかして、ここに泊まる気ですか」

「おー」

 針間は鷹揚に頷く。それって、一条家に住み込みで、診察をするということだろうか? 驚きの展開に、白夜は目を瞠る。 

「しかも、その間白夜を使い放題ときたら今やっちまう方がいいだろ」

 ……畳みかけるように要求された内容を理解するのに数秒時間を要した。

「いや、いやいや、僕、針間先生に付きっ切りで看護なんてできませんよ! 盆は、一条家のお手伝いを頼まれているんですから!」

「おーじゃあ世話する相手が一人増えたなー。はは」

 いや、なんでだよ! 宿泊中の自分の世話くらい自分でやれよ!! と、内心荒めにツッコミを入れる。

「とにかく、盆には仕事の先約があるんですよ!」

「でも仕事って一条家の仕事だろ?」

「そうですけど……」

「看護師として呼ばれたって言って断れ」

 当然のような顔でこちらに視線を送られ……。

「いや、うーん……」

 責任感の強い暁になんて言おうか気が重い。

「……俺を使うって、何をしたらいいんです?」

「助手ー」

「具体的には?」

 針間は少し真剣に言葉を選ぶようにして、その質問に答える。

「関係性を築く」

「関係性……?」

 意外な要求だ。

「そうだ」

 そして針間は説明を加える。解離性同一性障害などの解離症には、過去の外傷体験や愛着形成に端を発することが少なくない。可能な限り、生育歴や生活歴の聴取が必要となる。それから幼少時の家族構成や各家族構成員の人柄まで、手に入る限りのあらゆる情報を集める必要があると。そのためには、患者との関係性の構築が必須。だから診察も、いつも以上に気を遣っていた。

(関係性を、築く手伝いを、俺が……?)

 針間の目が、まっすぐに白夜を射貫いている。

 おまえ、やってみろよ、と。

 白夜も、その看護を引き受けてみたい、と思った。

 それは、理想の自分への挑戦でもある。


 盆の間、いつも以上に多忙になるであろうことは確定した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る