ケース2 一条勝己×解離性同一性障害(3/8)
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使用人の生活空間は地下にある。窓もなく、太陽の光を浴びて目覚めることができないのは不健康に思われるかもしれないが、問題ない。なぜなら使用人の起床時間は大抵太陽より早いから。鳥よりも早い。新聞配達員とはいい勝負。
既に執事服に身を包んだ
そんなたわいもないことを考えて歩くうちに屋敷まで到着した。まずは地下の使用人控室に行って新聞をさっと配ってしまう。そのあと、朝の時間を過ごす主人たちそれぞれの定位置にきちんと並べ置く。そうしてから使用人の全体打ち合わせが始まるのでそれに参加する。最近は盆の行事関連の準備に追われていた。白い提灯を出し、迎え火、送り火から僧侶の手配まで。何より、一条家の親族一同が集まるとあっては念入りに打ち合わせが必要だ。きっと今日もその話だろう。そのミーティングのあとで、一条家の朝食を作る厨房の手伝いに入るのが家事使用人椋谷の毎朝の流れだ。「執事」「メイド」なんていってドラマの世界でおなじみの、あのファンタジーな職種――でも個人の邸宅で働くというだけで、やっていることはホテル業に近い。それに家政婦をかけ合わせたような感じで、ホテルにしては小規模であり、家政婦にしては大規模、そんな感じだ。
椋谷は居間に入ると足を止めた。電気も点けていないそこには、今日は珍しくもう人影があった。こんな朝早くに一体誰だろうと椋谷は新聞を手に持ったまま近づいていく。泊まっている親族の誰かだろうか。まだまだあと数時間は一条家の家族は誰も起こさない。勝手に起きてくることもあるがあまりにも早すぎる。しかし見ればやはり使用人仲間ではない。寝間着のままで、茶色の髪がややぼさついてはいるものの、あれは――見慣れた一条家跡取り勝己に違いなかった。歳は二十五。椋谷とは同級生だったが、しかし四月の遅生まれと、三月の早生まれなので、実は一年分椋谷の方が若い。かつては椋谷と同じ高校に通っていた、一条家の跡取り息子。服も髪も笑顔もいつも品よく整えられている男だが、起きた姿はこんなものだ。でも、人に見られる前にある程度髪くらいは直そうとする奴が、まったく、今朝は寝ぼけているのだろうか? 家族以外も多く滞在中なのに。椋谷はいつもの調子で軽くからかおうと口を開いて、――静止した。
椋谷と同じ背丈のはずなのに、異様に背が高く感じた。威圧的で、そしてその眼は鋭い怒気を放ち、顔の筋肉の使い方もまるでいつもとは違っていて別の人の顔みたいだった。
ああ、これは、勝己じゃない。
椋谷は声が出なかった。言葉を発すればそれが何か酷い引き金となってしまうような張り詰めた空気があった。
「おまえを、許さない」
地鳴りかと思うほどに重々しい声色が響いた。勝己の口から出てきたのは、勝己のいつもの朗らかな明るい声ではなかった。
「一生かけて償え」
その顔には別の誰かが乗り移っているように見えた。
盆が来る。地獄の窯の蓋が開く音が聞こえた。
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一条家住み込み看護師である加藤白夜はまだ夢の中にいた。他の使用人が起き始めるのは自分より数時間早く、壁越しに少しだけ生活音が聞こえた後すぐまた静まり返る。その
「はい白夜ですがどうしましたか……」
がさがさにかすれた寝起きの声で尋ねると、電話の向こうからは困ったような声が聞こえた。
「白夜くん!? ごめん、すぐ来てくれる!? えっと、ここどこだろ、ごみ置いておく倉庫、かな!? 朝から申し訳ないけど、大変なんだよ、椋谷がケガしてて」
あれ、誰だ? 少し高いけど重厚感もある、弦楽器のような男性の声。よく耳にする声だ。でも、親しいからというわけじゃない。
白夜はその声の主に思い至り、はっと目が覚めた。
「あっ、え、勝己様!?」
間違いない。この、焦っていてもどこか世俗を離れたように上品な声は一条勝己――まさか一条家の八代目跡取りが直々に自分を呼び出している? 椋谷さんがケガ? さすがに眠気も飛んだ。お抱え看護師として一条家に囲われている白夜は、気合いを入れて上体を起こす。
「はい、すぐに向かいます。どうかいたしましたか――いや、場所はどこです?」
「なんか、バックヤードの倉庫みたい。ゴミがいっぱい並んで置かれている!」
それが当てはまる場所はこの家に一つしかない。地下にあるゴミ捨て倉庫だ。一条家跡取り息子は知る必要もない場所だ。というか、どうしてそんなところに勝己がいるのだろうか――いや、そんなことは今はどうでもいい。
「場所わかりました、向かいます!」
勝己のその慌て様に、何が起きているのか不安を覚えながら、とにかく急いで上着を羽織り、前を閉めて部屋着を覆い隠す。急ぎ足で自室を飛び出した。
ゴミ捨て倉庫は、普段は重い鉄の扉によって閉められている。しかし白夜が駆け付けたときには大きく開け放たれていて、閉じ込められているはずの悪臭が通路にまで漂っていた。白夜が中に入ると、いつもとは違うゴミ捨て倉庫の光景が目に飛び込んだ。倉庫奥には壁伝いにゴミ袋が二段に積まれていて、手前は少しスペースがある――が、一部雪崩を起こしたように崩れて、中身も派手に散らかっていた。そうしてその中に埋もれるようにして椋谷が倒れていた。
「椋谷さん!」
白夜は枕元にしゃがんだ。白夜は部屋着のまま膝を床に接触させることを思わず躊躇う。もともとここの床は週に二度の回収日の度にモップ掛けをしているらしいが、袋からこぼれ出た液体や腐敗した生ごみなどの汚染度合に到底追いついていない。ゴミ捨て場として使っているのだからその点仕方もないがつまり寝そべっていていいようなきれいな場所ではないのだ。さらに周囲には残飯らしきものがカラスに荒らされたように散らかっている。椋谷の着ている執事服はひどく汚れ、また汚水を吸って冷たそうだった。彼の身には何が起きているのだろう。
「わかりますか? 椋谷さん」
彼の明るい栗色の前髪をかき分けると、その顔は頬と顎を殴られたように赤く腫れて熱を持っていた。そうして、眉が顰められたかと思うと、
「ああ……」
と目を開けた椋谷が潤む瞳で白夜を見た。その後に、白夜の真後ろに立つ勝己の顔を見たとき、一瞬怯えたように硬直したことに白夜は気が付いた。勝己が前に進み出ると、椋谷の筋肉に力が込められ、そして震えていた。
「椋谷、大丈夫?! も、もう安心して! 俺だ! 勝己だよ!」
だが掛けられた言葉を聞いて、椋谷はほっとするように緊張を解いて弛緩した。
「……勝己……なんだな」
「ああ。今は……もう、出ていったみたい」
「そうか……」
白夜は状況が掴めず、勝己と椋谷の顔を交互に見た。なんのやりとりをしているのだろう。椋谷は上体を少し起こすと、うっと呻き、口元を手で押さえて腹ばいになろうとする。嗚咽感があるらしい。
「吐きそうですか?」
白夜の問いに、椋谷は頷いた。
「……吐いた方が楽かも」
「何があったんです?」
白夜は椋谷の背中をさすりながら訊ねる。椋谷は、自嘲気味に笑みを浮かべて、話し始める。
「……まあ、気に入らないんだろ。俺のことが、よっぽど」
何の話だ? 白夜は口を挟むタイミングを失い、椋谷は続ける。「初めに現れたのが、三代目だ。暴れに暴れて、ものすごい力で……貨物リフトに積み込まれて、ここに運ばれて、あと、他の代も入れ代わり立ち代わり、四代目も五代目も来て、いろいろ弄ばれたよ。毎年のことだ。最後は二代目が終わらせてくれたけど……」
白夜が質問しようとする前に、勝己が、
「なに、された? 椋谷」
自分の両手の甲を力なく見つめながら、小さく尋ねた。わなわなと震えている。
「殴られた。……それと……」
白夜は勝己のその右手が黒く汚れているのに気が付いた。
「なんか……ゴミ食わされたりしただけだよ」
椋谷が笑ったままなんでもないように言った。カラスが立ち去った後のように散らかるのは、よく見ると、一条家の残飯だ。一条家の厨房は、主人とその家族のために使用した食材から残った可食部で使用人のまかないまで作ってくれる。それでももう使用できない食材部分や、一条家や使用人たちの食べ残したものは、すべて普段青いポリタンクにまとめて捨てられていた。
「なんで、そんな……」
「気に入らない奴で暇つぶしすんだよ」
白夜の問いに、椋谷はろれつの回らない口調で、軽く答える。
「そんなことで気が済むんだ。やらせとけばいいよ」
誰が、何のために? 全く話が読めず、白夜は困惑し続ける以外にない。だが、看護師として一つ気になることがある。
「お酒を飲んでますか?」
「いや」
椋谷が、なぜか酩酊状態だ。
「何か飲みましたか?」
問いかけると、椋谷は少し黙って、そして言った。
「ジュースとか言って空き缶持たされて……それで最後だって言われて、仕方なく飲んだ」
白夜は足元に転がる空き缶から黒い液体が流れた跡に気付いた。灰皿代わりに使われているじゃないか。はっとして椋谷の口の中を覗く。椋谷の舌が黒く濁っているように見える。白夜は反射的に遮るようにして確認する。
「灰皿の液を飲んだんですね?」
白夜が指先を唇に触れさせて開けることを促すと、やはり――
「……んあー」
飲んだらしい。これはまずいと白夜は思った。灰皿代わりの空き缶に溜まっていた液体をジュースのように遊びで飲ませた――とんでもない話である。腐敗した生ごみよりもはるかに問題だ。いったい誰がどうしてこんなことをするんだという感情論はこの際脇に置いておくとして、
「吐けますか? 出してください今すぐ!」
白夜はそう急かした。タバコには天然アルカロイドの一種であるニコチンが含まれている。この毒性による中毒は、タバコそのものよりも浸出液の方がずっと起こりやすい。浸出液は濃度や量にもよるが十五分で急性ニコチン中毒になる危険性がある。
「胃の中が気持ち悪い……」
「すみません、ちょっと我慢してくださいね。吐かせますよ」
白夜は椋谷を俯せにさせ二本指を喉奥まで挿し込む。ぬめり気のある喉奥で指を曲げ、そこで嘔吐く椋谷の呼吸に合わせながら、咽頭反射で強制的に催吐を行った。その内容物は直視したくないものばかりだった。汚れていない方の手で救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出すと、
「救急車とか、は、いい、大事にしなくていい……。親戚連中もいるんだぞ……」
口を拭いながら弱々しく、椋谷が止めようとする。
「何言ってるんですか! だめですよ! 胃から吸収されてしまっているようです。今すぐ医者に診てもらって胃洗浄とか、必要な処置を受けた方がいいです」
「だめだ――はあ、はあ――。やめろ――」
そして、荒く呼吸を繰り返し始める。白夜は一瞬、吐瀉物が気管に入ってしまったかと疑ったが、催吐は成功した手応えがあった。これは過呼吸だ。よく見ると指先が痙攣までしている。中毒症状だ。
「やっぱりここじゃなんともなりません! 早く病院に!」
「ダメだ! 病院には連れて行くな! 幼児じゃねえんだから、なんでそんなモン飲んだんだってなるだろ――っ」
「そりゃそうですよ! でも、飲んじゃってるんですから! 手当てを受けないと! 死んだら元も子もないです!」
椋谷が抵抗するように上半身を起こそうとする。
「じ――、はあ、事件になるとっ、面倒なんだ!」
「事件?」
「一条家の内部の問題なんだ――。構わないでくれるか、なあ」
安静にするよう白夜は求めるが、椋谷は自分の部屋で寝ていれば良くなると言い出し、自力で行こうとする。
困った。
いや、一条家の問題? それならば解決できる医者が一人いる。白夜は発信先を変更する。
「灰皿の液のまされたぁ!? 救急車呼べ馬鹿野郎。こっちは精神科だ!」
盆の間にもこの辛辣声を聞かなければならないとは――。
「わかってます、でも本人の強い意志なんです! 一条家の担当医じゃないですか!」
針間精神科診療所、
「わがまま言うなって言っとけ! 切るぞ」
「あっ」
素気無く断られた……。
針間は相手が誰だろうとどんな状況だろうと無関係のときは容赦なく断る……それは白夜もわかっているつもりだったが。心のどこかで、ひょっとしたらという気持ちがないわけではなかったのかもしれない。いや、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
「やっぱり救急車を呼びます!」
判断を誤るな、と自分に言い聞かせる。
「だめだ!」
椋谷が血相変えてスマートフォンを叩き落とそうとしてくる。白夜は阻止するも、椋谷が苦しそうに呻くのを見て、「大丈夫ですか!?」と、たまらずスマートフォンを床に置いて様子を見る。苦しそうだ。スマートフォンをちらりと見る。防水機能はついていないので、濡れた床に接地させるのは若干心配だ。汚れるのはこの際仕方がない。
「白夜がやれるとこまでやってくれ。それでいいって」
何が彼をここまで拒ませるのだろう。
一条家の問題、ってなんだ。
「手の施しようがなかったら、俺はもうあきらめて受け入れるから。一条家の運命だ。俺はどうだっていいんだよ……」
椋谷は何かに怯え、そして何かに諦めたように、そう呟く。
だが、呆然と立ち尽くす勝己は、
「どうしよう……白夜くん、椋谷を助けてくれ……」
そう言って祈ってくる。
(ああもうみんな好き勝手なこと言って、俺はどうしたらいいんだ)
板挟み。
こういうとき、感情的になってはならない。
優先順位はなんだ? 決定権は誰が持っていると見るべきだ? 白夜は勝己に視線を向ける。
「勝己さん、椋谷さんは危険な状態です。処置をしないと命に係わる恐れがあります。救急車を呼べば、事情を隠すわけにはいきません。椋谷さんは灰皿の液を飲んだと僕は言います。理由は答えなくてもいいですが、事件になるかどうかは僕にはわかりません。事件になるとなにがまずいのか僕にはわかりませんし、一条家の方々がどこまで手を回せるのかも僕にはわかりません。ですので、あなたが決めてください。いかがしますか?」
優先順位も決定権も、白夜には一部しかない。後はこの人に任せるしかない。
「椋谷、俺……嫌だ、嫌だよ椋谷、死なないで」
「いや、あの人たちのやったことだ。勝己のせいじゃない」
「でも、このままじゃ危険なんだろう……それに、椋谷に対してこんな酷いこと、俺……どうしても許せない……もう、限界だ。耐えられない。もう耐えられない! 何が一条家だ! 椋谷が死んだらどうするんだ! 俺はどうやって生きていけばいいんだ!?」
勝己は縋りつくように、椋谷の手を握る。その手には吐瀉物が付着していたが、気にも留めない。
「白夜くん、救急車を呼んでくれ!」
勝己はそう結論づけたようだ。
「よくわかりませんんが、いいんですね?」
反対に、椋谷は絶望的な顔になっている。
「いいよ。もう、あの方々にも俺の体に入ってもらいたくない。いくら先代の霊魂だって言ったって、嫌なものは嫌だ。これは俺の体なんだ! 好きに使われて、たまったもんじゃないよ!!」
「ええと……?」
何をわけのわからないことを言っているのだろう。でもとりあえず今はまず救急車を呼んでからにしようと白夜は頭の中から意図的に排除する。椋谷はまだ抵抗していたが、勝己の決定には逆らえないのだろう、諦めたように、次第に動きが弱まっていく。白夜は緊急番号をコールした。
「待つ間に、事情を簡潔に僕に話していただくことはできないでしょうか」
その一条家の問題とやらを把握し、救急隊員の指示で適切に伝える必要も出てくるだろう。事件化を防ぐためにも必要だと説得すると、
「わかったよ。ここに住む白夜くんにはいずればれることだしね」
勝己はそう言って、話し始める。
「ちょっと信じてはもらえないかもしれないけど、一条家はいろいろあってね」
「はい」
「もうすぐお盆だろう」
「はい」
勝己はバツが悪いような渋った顔で何かを考え込むように腕を組む。だが、時間がないと気付いたのか、思い切るように口を開いた。
「盆には、歴代の主が頻繁に憑依するんだ。俺に」
一瞬、時が止まった。
さすがに呆気にとられた。
「どういうことですか?」
「俺にもわからないけど、昔からそうなんだ。そもそも日常的にね、霊が、俺の体に憑依することがあって……」
え、ええええ……?
「七月中旬から八月の盆を過ぎるまで一日に何度も憑りつかれる。八月が始まると、盆が終わるまで出たり入ったり。どうにかしたくて何人も祈祷師を呼んだけど駄目だった。なぜかすべて矛先は椋谷に向かうんだ。さっきのは三代目と、それから四代目。三代目は暴力を振るうし、四代目はわざと椋谷に汚いことをさせる」
話についていけない。
「五代目は――」
勝己がそこまで話した時だった。
「あたし呼んだ?」
女性のような声が聞こえた。少し濁りのあるハスキーな声。どこから? 白夜は周囲を見渡す。誰もそれらしい人は見当たらない。
「あたしは、あんたのこと可愛がってあげてるよねぇ?」
椋谷の肩に沿わせる色っぽい仕草の腕が見えて、目で辿ってぞっとした。それは、勝己が行っていた。白夜はあまりのことに、思わず勝己の腕を掴み、椋谷から離す。
「か、勝己様!? こんな時に、何してるんですか」
勝己のそんな姿を見てはならないと感じた。
「だーれあんた?」
いつもの朗らかな弦楽器のような男性声が変形して、しなをもって高く響く。
「誰って、白夜ですよ。どうしたんです、しっかりしてください!」
その様子は、はっきり言って異常だった。あまりの緊急事態に、勝己の気が動転しているのだろうか。
だが、白夜の心配をよそに、勝己はこの場に不釣り合いなほど落ち着き払って、妙に高音の声で言うのだ。
「あんたも混じってさ、さっきみたいに椋谷で面白い遊びしようよ。見ていてすごかったよ! 椋谷って、我慢強いんだねえ~」
「勝己……様?」
それ以上白夜は言葉が見つからなかった。すると、目を丸くしてきょとんとした顔で勝己は説明してくれた。
「あたしは勝己じゃないよ。一条
呆気にとられる白夜だったが、しかしこのやり取り自体はどこかで一度経験したような気がする。身に覚えがある。
「あっ、ちょっとやだ! なんで、あんたはさっきスポットに立ったじゃない!」
「愛唯」と名乗る勝己は急に両腕で自分の体を抱きかかえると、身をよじる。そしてしばらくいやいやをするように何かに抵抗していたかと思うと、急に視線を落としてぼーっと静まり返る。目を覚ますように視線を上げたと思うと、
「へえ。こいつが?」
今度、その声は重低音ボイスになっていた。
「愛唯……様?」
白夜は先ほど名乗られた名前で呼びかけてみる。すると、彼は首を横に振った。
「おれは愛唯じゃねえ、一条家三代目当主の一条武己だ。そうだ。お前に会うのは二度目だな」
そうだ。
「武己」という男と勝己を間違えた、あの時にやり取りした会話に似ていたのだ。
「武己」は勝己自身の髪をわしわしと掻き毟って、ライオンのように逆立てると、ぎょろっと目を見開いて、
「へー、男の看護婦だったんだな。時代も変わったなあ」
そう白夜を一笑する。白夜は尋ねた。
「椋谷さんに暴行したのは、あなたですか?」
「ああそうだよ。だが俺だけじゃねえ。他の連中もみんなそうして欲しいって思ってる。一条家も、その親戚も、矢取家も。俺はそれを代わりにやってやってるだけだ。感謝してほしいくれぇだよ」
これを憑依と呼んでいるというわけか。
なるほどそういうことか。
白夜はスマートフォンを拾い上げると、履歴を辿り再コール。滴るヘドロのような液も構わず耳にあてて叫ぶ。
「針間先生!! 精神科救急です! すぐ来てください!」
「はあ? 誤飲は?」
「それも診てほしかったですよそりゃ! でも、精神科も救急なんです!」
「統合失調症の一条瑠璃仁か?」
受話器の向こうからは、落ち着いた針間のいつもの声。白夜は、少し深呼吸して、言った。
「違います、患者は一条勝己様です」
「跡取り坊ちゃんがご乱心かあ?」
針間はケラケラと笑っているが、
「――解離性同一性障害かと思います」
それを聞いた途端、声色が変わる。
「っああ!? DIDだあ!?」
一瞬にして沸点を超え、同時に霧散するかのごとく。
「……いい加減にしやがれ、てめぇ、ふざけんじゃねぇ」
針間のドスの利いた声に、震え上がりそうになる。
「こっちも医者で、やることあんだ。冗談じゃすまねーぞ?」
「ふざけてなんかいません。来てみればわかります、本気です」
だがいくら確信を持っていても、それは医師に伝えるには勇気のいる病名だ。訪れる沈黙に、ぎりりと胃が痛む。
「……てめぇ、言い切るってことはそれだけの覚悟はあんだろな?」
ごくりと唾を飲む。だが、やましいことは何もない。
「看護師としての責任を持って言っています。針間先生を呼ぶための嘘では、ありません」
「……つくならもっとマシな嘘いくらでもあるしなぁ?」
冷ややかな嘲笑混じりの投げかけに、背筋が凍る。
そう、愚問である。
解離性同一性障害。
これは、誰もがよく知る病気であると同時に、誰もがよく知らないで口にする病気だ。
いわゆる、「多重人格」というヤツ、だ。
サイコ映画やら、漫画などフィクションに頻繁に登場する精神病である。だが、そんなものはファンタジーもいいところだ。実際の多重人格者など、現実にはほんの数名いるかどうか。
だが、白夜には、今までの看護人生、精神医療知識を総動員しても、それでもやはりこの状況はまさしく「当人」に遭遇したとしか思えない。もう、覚悟はできている。
「それから、急性ニコチン中毒の患者、一条椋谷さんはやはり救急車に乗ることを嫌がっています! 針間先生今すぐお願いできませんか!?」
この近くに開業して常駐している針間の方が救急車よりも早いだろう。
「……もういいすぐ行くからそこにいろ。それもやる」
白夜はまた緊急発信をし、近くのドクターが来てくれるということを伝えて丁重にお断りした。
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