ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(4/5)

 それからしばらくの間、瑠璃仁は文句を言わずに大人しく薬を受け取り、白夜の目の前できちんと飲んでいた。春馬を傍に置き、白夜のことは見ようともしなかったが、それでも言うことだけは聞く。そんな日々が続いた。手がかからず、問題も起きず、日常は過ぎていく。白夜は薬棚から瑠璃仁の手の中へ薬を運ぶというたったそれだけの仕事をしていればよかった。

(なんだかなー。これ……仕事になっているのか……?)

 瑠璃仁と春馬がなにやら親しげに密談しているのを、遠くから眺めながら、そんなことを思ったりもした。

(薬を飲ませるだけなんて、俺がやる意味あるのか? 瑠璃仁様が自分で棚から取って飲めばよくないか……?)

 瑠璃仁の手を、春馬が励ますように握っている。言葉も交わせぬ二人。それなのに二人にしかわからない言語を使って密に会話をしているようで。

 困惑、そして焦りと自己嫌悪感が、白夜の胸の内に広がる。俺はどうしてここにいるんだろう。

 瑠璃仁が視線を寄越し、それに添わせるようにして春馬もこちらを見やる。排他的な視線。二人からの無言のメッセージ。君はどうしてここにいるの?

 医学知識もなく、片方は思考回路も危ういのに、もう片方は言葉さえ不自由なのに、それでも、二人は勝手に結びついて、白夜だけが除け者になっている。

 自分はここに必要ない。

 自分の居場所もない。

「時間ですので、僕は失礼しますね」

 返事もない。

 白夜は一礼し、一条家を後にする。


 掴みどころのない一条家での業務のしんどさを、異邦の地を原住民に揉まれながらあてどなく彷徨うことに喩えるなら、針間精神科診療所で走り回って働く居心地の良さときたらまるで故郷の川辺を一人でジョギングするような清々しさに似ている。

「はい、待合室でお待ちくださいね~。では次の番号札、二十二番の方、診察室へどうぞ~」

 業務内容はすべて医療業務マニュアルを順守。時間も分刻みでかっちりと固定。

 頭を空っぽにしてひたすら目の前の仕事を終わらせていくだけで、職場の期待を上回る働きを提供できる。いっそ、ずっとここにいたいと思ってしまう自分が嫌になる。

 理想の「優しい看護師」の自分を手に入れようと意気揚々と出発したけれど、そんなもの欠片も見えず、無限に連なるような複雑怪奇な現実と見つめ合うだけの日々。

 今日も診察室では、効率よく手際よく患者が捌かれていく。時には厄介な患者が混じっていることもあるが、

「もう帰れ来んな健康オタク!!」

 そういった時には例外なく針間医師の怒号が轟く。

「ひどいな! ちゃんと聞いてくれ!! まだ話は終わってないんだー! 今月は残業も多くて!」

 絶対に病気になりたくないから何か精神的な病気がないか診てほしいと言ってひと月ごとに現状報告に来る患者になど、

「あなたは健康です。元気です。医療行為は不要なのでお帰りください」

 問答無用でしっしと追い返す。

「こっちはお金だって払ってるじゃないか!」

「いや、七割は健保払いだろ!! 税金使って医者の仕事増やしてんじゃねーっつのバーーカ」

 針間は患者とみなさない相手には、人間扱いさえしない。

(いや、それって人としてどうなんだろう……)

 こんな人がよりにもよって精神科医というのも不思議だ。

「治したいっていう意識の高い患者を、追い返すのかよ! これも医者の仕事だろ!」

「あ、そー。俺は意識レベルの高い人は診ねーわ。よそ行けよそ」

(さり気なくシャレで言い返しているし……)

 白夜は呆れつつ、「まあまあ」と両者を宥めようと間に入る。だが針間の勢いは止まらなかった。

「言っとくが医療費を自費で全額出されてもお前みたいなの診るつもりはない。こっちは忙しいんだよ。金と時間が余ってる健康オタクの自己満足に付き合うために医者になったわけでもないんでね。どうしてもってんなら健康食品の営業マンやらヨガやら気功師やらのセラピストどもにおてがみ書いてやるよ。あいつらはテメーの気が済むまで健康相談に乗ってくれるぞ、いやむしろ頼んでもなくても毎日でも連絡してくるだろうな、良いカモ見つけたってな。はい、次の方―!!!」

 あまりにも酷い言いざまである。

「ちょっと、先生――!」

 白夜から見ても医者に対し、「ちょっと言い過ぎでは……?」なんて、注意喚起してみたりして。

「知るか。病気なら普通並みにまでは治してやるが、日ごろのストレス発散だとか気分転換だとか勉強仕事のモチベーション維持だとかまで付き合ってやるほど精神科医は暇じゃねーよ」

(いやー……。少なくともこんな針間先生よりは、俺、優しいよなー?? 俺は瑠璃仁様のことを諦めて追い返したりしないし、春馬さんにだって業務外でもメール返すし……)

 針間のような鬼医者と比較して、安心しているようじゃ駄目なのだが。

「そんなに健康極めたいんならなァ、専属コーチでも雇えっつの。趣味の領域だぞ、趣味 」

 患者は悔しそうに歯噛みしている。

「別に止めはしない、ヨガでもアロマでもスピリチュアルでももう好きにやってろ、病院外でな!」

「そ、そんな金あるわけないだろー! もう! 帰る!」

「おー帰れ帰れ。おまえの心配はその程度だ。もう来んな」

 ひらひらと手を振る針間に背を向け、患者はドアを激しく閉めて出ていってしまった。健康志向が高いといっても、さすがに一般的なサラリーマンにそこまでの余裕はなさそうだ。針間の言う通り、そこまでの必要もないのだろう。もしどうしても必要ならば、藁にもすがる思いで金を払い、どこかを紹介してもらうはずである。

 白夜の胸に、何か引っかかるような痛みが走った。

 それなら自費で、白夜にプライベート訪問看護を依頼している瑠璃仁はどうなのか?


 診療所の業務を終えて屋敷に戻ると、白夜は瑠璃仁の部屋に向かった。自分もちゃんと瑠璃仁の役に立たなくてはいけない。このままでは駄目だ。気持ちを奮い立たせて、ノックを二回。

「白夜です。失礼致します」

 瑠璃仁は机に向かって何か書き物をしていた。手を宙に止めて、静かにこちらを眺めている。

「瑠璃仁様、おかげんはいかがですか?」

 白夜の問いかけに、瑠璃仁は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「お先真っ暗だね」

 ペンが落下する。広げたままのノートの上を転がって、床の上に落ちる。ノートには何かを塗りつぶしたように黒々とした渦が書かれていた。瑠璃仁はそのページを破くと、くしゃくしゃに丸めて投げつけてくる。

「瑠璃仁様……」

 思考がまとまらないのだろう。無理もないことだ。急性期を脱したことで消耗もしているし、薬の副作用もある。今は休むべき時なのに。

「もう……おやめください……瑠璃仁様……」

「僕はね、君には想像もつかないような大きな責任を、背負っているんだ。一刻も早く、実験に成功して治療法を確立させないといけないんだよ」

 瑠璃仁は焦っている。妄想も生じている。ならば、白夜は深く突っ込んで聞くこともできない。患者の病的な世界を広げてしまい、かつ病的な世界にとどまる時間を長くさせてしまったり、質疑応答を通じて妄想をより強固で確信的に体系づける危険性がある。たとえば、人を殺したかもしれないという加害妄想に苛まれている萩野に対しても、誰をどこで殺したのかなどといった質問はあえてしない。その質問の答えを考えているうちに、茶髪の人を殺したかもしれない、三年前だったかもしれない、と世界が具体的に広がっていき、それは訂正不可能な確信に至るのだ。

「回復のために消耗して、疲れているんです。研究は少しお休みになってはどうでしょう」

「そんなわけにいかないって言ってるだろう!」

 瑠璃仁はペンを自分で拾い上げ、迷惑そうに吐き捨てた。

「そんな忠告ならいらないんだよ! 聞きたくないんだ。僕のことが信じられないというのなら、せめて邪魔をしないよう黙っていてくれないか」

「す……すみません」

 だめだ、怒らせてしまった。

 どうしてわかってくれないんだろう。今は回復期で、精神を休ませるべき時期なのだと。風邪が治っても、しばらくの間は気怠さが残っているように、統合失調症から回復し、精神が元気を取り戻し始める時期なのだ。焦って無理をして、うまくいかず、負担をかけている。休むべきだという忠告をどうしたら受け入れてくれるのだろう。

 白夜は無力さを感じながら、すごすごと部屋を出た。そうするしかなかった。

 その直後だ。誰かに手を引かれた。

「え?」

 顔を上げると、そこにいたのは春馬だった。似合わない素早い動作で、優しい色合いの髪を振って後ろを見たり、どこか挙動不審だ。

「どうしました、春馬さん?」

 春馬は慌てたように白夜の口元を手で覆った。声を出すなということだろうか。白夜が黙ってこくりと頷くと、どこかへ案内される。

 階段を降り、連れていかれたのは医務室だった。一条家には、学校でいう保健室のような設備まである。春馬が先導し中へ入る。デスクの引き出しを開けると、中に見慣れぬ木箱があった。春馬はその箱を取り出すと、ドアが閉まっていることを確認した後、音も立てずそっと蓋を開けた。

 そこには、アイスピックのような器具が何本も並んで入っていた。なんだろう? と白夜は思ったが、声を出さないよう努める。歯科医師が使うような器具にも見える。春馬は腰紐に吊り下げた画板から、前に描いたあの謎の棒人間二人のイラストのページを開くと破いて、白夜に手渡す。そしてさっと木箱の蓋を閉じ、また周囲を警戒するように見渡すと、急ぎ足で去っていく。

(また、この絵か……)

 二人の棒人間と、足元に弧。二人のうちの一人の頭は、駐車禁止マークのようになっている。今度は色まで塗られていた。足元の弧の下は黄緑色のクーピーで塗られている。やはりこれは芝生だったらしい。人間は肌色で塗られている。駐車禁止マークも肌色だ。

(ってことはこれ、駐車禁止マークではないな)

 よく考えたら、記号的な表現ができないから言葉が操れず、イラストで表しているのだ。それならこれは、絵の通り、頭だろう。

(なんで、斜線になってるんだ……?)

 後を付けようかとも思ったが、ついてくるようには言われなかったし、ただこの箱の中身を見せたかっただけのような気がした。

 ……なぜ?

 春馬の不可解な行動、でも、おそらく何か意味がある。何かを伝えようとしている。

 さらにいえば白夜には、そのアイスピックのような器具をどこかで見たことがあるのだった。記憶を辿ると、昔、学生時代に見たような気がする。なぜ見たんだっけ? そんな歳で、お酒の氷も割らないのに?

(うーん……。歯科医の器具か? でも歯科は専門外だしな……。ってことは、違う科目? でも、試験には出なかったと思うんだけどなー。でも、教科書か資料集で見たような……)

 なんだか気になる。妙な胸騒ぎもあった。

 ふと、机の上に積み上げられている本が目に入る。タイトルは「精神外科」。

 冷や汗が伝った。

 白夜はようやく、このアイスピックをどこで見たのかを思い出した。

 精神科の歴史の教科書の中だ。黒歴史の一つ――精神。悪魔の手術とまで呼ばれる精神科最大の禁忌タブー、ロボトミー手術の項で見た。正式名称はロイコトーム。眼球と骨の間から入れて大脳前頭葉部分に到達させ、神経を切断する外科的手術で使用する。白夜ははやる気持ちで「精神外科」の本を手に取り、目を通す。

 脳という臓器は解明もされていない神経の集合体だ。それを執刀医の勘で切断してしまうという手術。 悲惨な例では術中に死亡。生還したとしても、人格変化、衝動化・無気力化などといった重大かつ不可逆的な副作用が起きてしまう。エビデンスもなく、人権的にも問題があるとしてロボトミー手術を行うことは、精神医学上禁忌とされている。

 まさか。

「瑠璃仁様は、こんなことをやろうとしているのか?」

 思い出すのは、あの日の事故だ。

 瑠璃仁が自作した薬を、人に飲ませた。そして、後遺症が生じた。

 彼は、言語能力を失ってしまったのだ。

 渡辺春馬が話せなくなったのは、瑠璃仁の人体実験に付き合ったからだ。

 あのイラストは、瑠璃仁と春馬だろう。春馬が目からロイコトームを挿れられ、脳を掻き回される手術を受ける図なのか。

 白夜は主治医である針間に事情を話すべく、その場で電話をかけた。

「もしもし、白夜です。夜分にすみません。ちょっと急いで報告したいことがありまして」

 だが事情を聞いた針間の返事は、素っ気ないものだった。

「勝手にやらせとけ。こっちは学会の準備で忙しいんだ、切るぞ」


 翌日の午後の診療は、特別休診だった。針間が学会に出席するためだ。有名な教授による発表があるらしく、ここ最近針間はそれに向けて準備をしていた。

「とっとと終わらせて行くからな!」

 患者を手早く捌くのが得意な白夜を午前の外来担当看護師として付け、気合十分。これまでにも、安定的でおしゃべりな患者が来るたびに、話を熱心に聞いているふりをしながら机の上に散らかしたままの参考書やら画面上に表示させている論文資料をちらちら盗み見ていたりと、学会の予習に余念がなかった。その学会に出るのは一体どんなご高名な教授先生なのだろう。白夜が昨日、瑠璃仁の行動について緊急の連絡をしても、取りつく島もないほど? 資料の中に教授の白黒写真があったので見たが、熊のような体格で真っ白のアフロが印象的な人だった。脳神経外科教授平賀ひらがりきとある。変な人――脳外科医は変わり者が多いと聞くが、教授ともなると奇妙さも極まるのかもしれない。針間はこの人の発表を聞くためにわざわざ飛行機に乗って熊本くんだりまで飛び立つのだという。

 そういうわけで、診療所は午前のみで閉め、針間は張り切って出発。医者志望の南もついていくことになり、白夜は昼下がりに一人、一条家に戻ることになった。

「あれ、白夜さん、お早いですね。今日って木曜日でしたっけ?」

 他の使用人達から、珍しい人を見るような目で、すれ違うたびに挨拶をされる中、白夜は瑠璃仁の部屋へと向かう。診療所の定休日でもないのに白夜がこの時間帯に一条家に帰ってくることはない。

「今日は特別休診なんです。針間先生の出張で」

 なんだか台風の日に学校が休みになったようなそわそわした心地のまま、白夜は瑠璃仁の部屋を訪ねようとして、

「瑠璃仁様なら、医務室ですよ。春馬さんと」

 階段を上っているとそう教えられ、踵を返す。

 ……医務室?

 そこで何をしているのか。

 ぞくりと嫌な予感が胸に広がる。

 医務室に到達し、すぐにノックもなしに白夜は戸を開けようとして、もし驚かせてしまうことで何か不測の事態にならないかを無意識に危惧し、わずかに隙間を開け中を覗き込む。丸椅子に座っているのは春馬。その横に瑠璃仁が立ち、正面奥に大柄の見慣れぬ人物がいる。使用人の一人である春馬が、主人の前で椅子に座ることなどない。何かが行われようとしている。だが、まだ話し込んでいるだけのようだ。白夜は戸に手をかけた。

「し、失礼します!」

 白夜の入室に驚いて、三人ともがこちらを振り向く。奥の椅子に座る大柄の人物は、白髪のパーマが印象的な、

「あなたは……脳外科の、平賀教授ですか?」

 針間のデスクの上の資料の中で見た、脳神経外科の平賀力教授だった。

「今日は学会のはずでは……?」

 手にはロイコトームを持っている。その姿があまりに様になっていて、

「春馬さんから離れてください!」

 思わず白夜は走って駆けつけ、彼の手から奪った。

「わ、私は帰るよ……すまないね、またにするよ」

 平賀教授は心底困惑したように立ち上がり、手荷物をまとめてそそくさと出ていこうとする。瑠璃仁がゆらりとこちらを向いた。

「僕が呼んだんだ。今日は、僕の調子が、すごくよかったんだよ。頭も冴え渡っている。やるなら今日しかないと思ってね」

 瑠璃仁が精神外科のロボトミー手術の論文を読み漁って、そこから影響を受けて行動したとしか考えられない。下手に地頭がいいと、妄想から何をし始めるかわからない。

 春馬が脳に障害を負ってしまったのは、以前瑠璃仁が春馬を誘導して自作の薬物を飲ませたことが原因だ。薬が抜ければ元に戻るかもしれないと思ったが、今のところその気配はない。だが、ロボトミー手術を施して、完全に脳が損傷されたら春馬の言語能力は、おそらく今後二度と戻ってはこなくなる。その非可逆性は、「失明」や「子宮摘出による不妊」の類と同じになる。

 白夜は平賀教授を追った。

「お待ちください」

 既に医務室を後にしていた教授の背に向かって、

「言っておきますが、春馬さんが失語症になったのは、瑠璃仁様が自作した薬を飲ませたからです。あなたはそれをわかっていて、瑠璃仁様からそんな依頼を受けたんですか?」

「そ、そうだったのか。それは知らなかったな」

 白夜を振り向く彼は、顔を引きつらせ、驚きの表情を作る。嘘だ、演技だ、と白夜は思った。

「ここで見たことは、言わないでおいてくれ。頼むよ。それじゃあ」

 瑠璃仁が過覚醒状態になって、何かを思いつき、金を積んで脳外科医の権威を呼びつけたのだろう。脳外科医の権威だ。瑠璃仁が妄想状態だとわかった上で、引き受けたのだ。滅多にない激レ アの経験ができるから。喜び勇んで学会も放り出して駆けつけた。もちろん、春馬に何かあっても、一条家が揉み消して守るに違いない。そもそも、従順な春馬がどこかに訴えることもないだろう。

 金持ちの考えることは恐ろしい。そして、学者の考えることというのも。これをマッドサイエンティストというのだろうか。


 翌日、針間は荒れに荒れていた。

「クソアフロ、学会欠席しやがって……何のために熊本まで行ったと思ってる……南とラーメン食うためじゃねぇぞぉ」

 楽しみにしていた平賀教授の研究発表が中止され、他の人達のつまらない発表を延々聞かされたということだった。白夜はもちろん驚きはしなかった。なぜならその教授は一条家に呼ばれていたのだから。

 昨日はなんとか阻止できたものの、今後瑠璃仁も平賀もどんな行動をするのかわからない。見張っているにも限界がある。白夜は進むべき道がまたわからなくなっていくのを感じた。

 業務終了し帰途につく白夜は、黙ったまま考え込んでいた。思い悩んでいた。一条家に帰りたくないような黒々とした混沌の気持ちを抑圧し、生産的な思考を進めようとしていた。雰囲気を察したように、南がどうでもいいようなことを話しかけてくるが、白夜は上の空で生返事を繰り返すばかりだ。ただ、

「瑠璃仁さんって、どんな人なんです?」

「んー、重度の統合失調症患者だよ。以前は言葉のサラダまで出ていたんだけど、でも、今はなんとか思路を正常に近づけていってる」

 瑠璃仁のことを尋ねられれば、自然と言葉が溢れた。

「それなのになあ。ずっと大人しくて調子もよかったのに、少し目を離した隙に、また暴走して法に触れかけていて……。はあ……。服薬を嫌がったり、人に危害を加えようとしたり……まあ、薬は飲ませてるけどね。でも足りないのかなあ。ベッドに抑制することも考えないといけないのはわかってるけど、でも拒絶もあるし、タイミングが難しいんだよなあ」

 すると、南は遮るようにして言った。

「あ、いえ、病状を聞いているのではなく、瑠璃仁さんのお人柄を知りたくて」

 白夜は思わず、言葉を忘れる。

「……え、っと、ああ、そうだな。どんな、人? うーん、普通の人じゃないよ、たしか。ええと、なんか、んー」

「普通の人じゃない?」

「ああ、いやまあ、精神を病んだって意味で普通じゃないってわけじゃなくて……」

「それはもちろん、わかっていますよ」

 そりゃそうだ。

「えーと、でもな、妄想や幻覚で、言ってること、いつもごちゃごちゃで、わかりにくいんだよなあ」

「でも白夜さんは看護師だから、言い方の中から本人の元の性格も見抜けるはずです。どんな、お人なんですか?」

 ふと、冷たいものが背筋を流れていく。

 そうだ、これは言い訳だ。

「どんな……どんな、人、だっけ」

「たとえば萩野さんは、正義感の塊みたいな人です」

 南は続ける。

「元は警察官だったって、お見舞いに来ていた奥さんが言ってました。なんだか、少しわかる気がしませんか?」

 たしかに、わかる気はする、と白夜も思った。ついていないはずの血痕が見えてしまうのは萩野が病気だからだが、元々正義感が強すぎるため、幻覚は「人を殺してしまったのではないだろうか?」と加害妄想に引き摺られている、のかもしれない。断定はできないけれど、影響はあるのかもしれない。

「萩野さん、職場に復帰したいと思っているそうですが、なかなか厳しいですね。最近では、警備員の仕事ができたらいいと思うようになってきたそうです。それも、かなり頑張ってリハビリをして、叶うかどうかといったところですけど……でも、僕は実現に向けて支えていきたいって思います。それが、萩野さんらしさなら」

 一条瑠璃仁から、病気の部分を取り除いたら、彼は元々どんな人間だった?

 鋭く視線が交差する。南は、白夜が自分の目標から目を逸らすのを許してはくれなかった。

「俺、瑠璃仁様の心なんて、考えてなかったかも……」

「そうですね」

 南の迷いない断定に、白夜は思わず言葉に詰まる。

「……そうか。反省だ」

 冷水を頭からかぶったように、目が覚めていく。

「俺が間違ってるな。そうだ。俺が間違ってた。習ってきた教科書と、それを実践できている自分しか、見ていなかった。瑠璃仁様のこと、見ていなかった」

 患者の心を守りたくて看護師になった。看護師として良い仕事をしようと、知識を身に付けた。一人で。そう一人で。自分一人だけの世界で戦っていては、完成しないのに。

 俺が、俺しか見ていなかった。俺が、瑠璃仁様を除け者にしていた。

 拒絶されていたんじゃない。拒絶していたのは、俺だ。

 その真実は、胸を抉られたように痛く、でも、あまりにもわかりやすく、ありがたく感じた。ようやく問題がわかった。そういうことだったのだ。それならばさっさと正面からぶつかって、さっさと解決してしまう方がいいに決まっている。自信を無くしている場合じゃない。動こう。

「行かなきゃ。もっと、瑠璃仁様のことを見なくちゃ。知らなくちゃ。瑠璃仁様のことを!」

 それが俺の仕事で、それが俺のなりたい俺だ。

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