3コマ目  憂色



 明くる日の放課後、今日も私は、律儀に地学室へと向かっていた。おそらくは、糸子いとこ先輩ひとりしか来ていないだろうそこへ。

 でも今日は、原稿を進めに行くのではない。私は何も持っていない。教科書等を入れた鞄は教室に置いたままで、原稿を持ち運ぶためのファイルケースは家にあるし、漫研の部室から画材を持ってくることもなかった。

 描く気になどなれない。少なくとも、そこに先輩がいる限りは。

 人とすれ違い、渡り廊下を行き、階段を上って、地学室が近づくほどに、胸の熱が確かなものとなり、痛む。心の随に巣くう疼きは、その領域を広げ、ほとんどを踏みにじる。冷気の漂う廊下にいるはずが、火照る感覚がまさっていく。

 怒りというのとは違う。これは何だろう。悲しい、というのが一番近いような気もする。でも、それでふさわしいとは思えない。半分も言い当てられてはいない。

 ドアを開け、地学室に入ると、案の定、糸子先輩だけが来ていた。私が現れたのを見て、嬉しいような、それでいてはっきりと怯えるような、そんな顔をする。似合わないなと、私は私の気持ちにそぐわないことを思う。

 糸子先輩は綺麗で、美しくて、私は、描けるものなら描きたいと思わされて、それは、微笑んでいる時が一番だと思うのに。ましてブレザーを着ている今なら、一層映えるだろう、と。

 でも、それを思ってどうしようというのか。私はこれから、少しだけ混じる喜びの表情さえ、きっと壊してしまうのに。

 私がそばまで歩み寄ると、先輩は椅子から立ち上がり、私たちは正面から向き合うことになった。無意識に机にてたのであろう先輩の指先が、はっきりと震えていた。そんなこと、気づきたくなかった。

「糸子先輩、私のこと、馬鹿にしてるんですか?」

 それが私の第一声だった。それ以外に、言えることはなかった。先輩は大きくうろたえたふうで、何かの間違いだと思うふうで、けれど私には、下手に繕おうとしているとしか、どうしたって見えない。

「そんな、馬鹿にだなんて、全然――」

「それ以外にどう思えっていうんですか。あの小説を読んで、それで」

 糸子先輩の指、そして手の震えは顕著になった。もったいないと、やはり思う。あんなに綺麗に動く指なのに。

 先輩は状況を掴めず、困惑に満ちた様子だった。

「読んでくれたんだよね。その、やっぱり、原作として、だめだったってことかな」

「三作品いただいて、二作目の途中までしか読めませんでした――」

 私はまだ何ら結論に触れていないのに、もう、糸子先輩の目には涙が滲んでいる。

「――でもそれは、原作としてだめだったからじゃないです。逆です」

 正直に言わせてもらえるなら、私のほうこそ泣きたかった。どうにかこらえて、先輩に悪意はなかったはずだと、自分に言い聞かせて、話を続けた。

「文豪が書いたものだって、本屋に平積みにされているものだって、あんなに見事な小説にはめったに出会えませんよ。繊細で、言葉に色気があって、話の筋もきめ細かくて――」

 なぜ、糸子先輩はこの部にいるのか。

 どうして文芸部ではないんだ? なぜ?

「――糸子先輩が小説で賞を取るんだって豪語しても、あれを読んだら誰も馬鹿にできないと思います。そして、本当に賞を取ると思います」

 だから、だからこそ、だ。

「出来はよかったってこと……? でも、だったらどうして……」

 そう言うのを聞けば、耐えきれなかった。

 自分の中で、せきが崩壊するのがわかる。瞬間のうちについえる。

 出来がよければ話を受けてもらえると、そう思っているのか?

「なんで私なんですか!」

 先輩から笑顔を奪うでは済まない、涙があふれることになるだろう。それを知りながら自分を止められない。

「漫画の原作とか言ってないで、さっさと小説の形で世に出してください! それがどうしても嫌なんだったら、せめて、私じゃない他の人に! もっとずっとうまく描ける人に頼んでください!」

 先輩から返る言葉はなく、それをいいことに、私は話を続けた。いつのまにか、私は視線を床に向けていた。今、糸子先輩がどんな顔でいるか、見たくなかった。

「どうしてですか。私なんかが、私の実力で! あれだけの作品を漫画に描けるわけないじゃないですか! 悪い冗談だと思う以外に、どうしろと言うんですか……」

 やはり、先輩からの言葉はない。嗚咽おえつを外に漏らすまいとするような、そんな息づかいだけが聞こえる。私の視線は床に据えられたままで、上げられない。もはやここで何をどうしようもなく、私は黙ってきびすを返した。

 廊下に出て、地学室のドアを閉めた後、室内から聞こえてきた泣き声が、私を痛めつけた。


 屋上に出てきて、どれくらい経ったか、私は所在なく、落日に背を向けて風を浴びている。

 泣くには至らないにせよ、私の顔もまた、憂色ゆうしょくに染まっているのだろう。手すり越しに景色を眺める気力もなく、ぽつんとひとり、気づけば身震いをしている。寒い。もう秋も深く、上着の一着もなく長居をする場所じゃない。

 私は自分に問う、糸子先輩を泣かせてしまったのはなぜか。

 泣くほどのことであったわけ、糸子先輩が私にこだわる理由はわからない。でも、明白なこともある。

 改めて問う、涙をこぼす契機は何であったか。

 私が糸子先輩を拒絶したからだ。

 では、なぜ拒絶した?

 糸子先輩の作品には、ささいなあらのひとつもなかった。何ら問題などなかった。

 ――知りたくなかった。

 どうして私は、こんな形でめなければならなかったのか。

 自分が何ものにもなり得ないということ。凡庸ぼんような才しか、持ち合わせがないということ。弟が言ったことは、何もかも正しかった。

 これから先、何をどのように描いてみても、糸子先輩が達している高みになんて、到底――

 それが今さらどうにもできないことだったとして、自分の全力を試すでもなく、不意打ちで向こうからやってくるみたいに、そうして思い知らされるなんて、誰が悪いのではなくとも、あまりにもひどいじゃないか。




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