No.35 オートクチュール・ポップコーン
――カラン、とグラスの氷が音を立てた。
「立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花、って言うけどさ」
平日昼下がりのカフェ。テラスに置かれた白いパラソルが、照りつける日差しを一身に浴びて、若い女性やカップル客に丸い日陰を落としている。
白く輝く水玉模様のうちの一つで、僕は先輩にアイスコーヒーを奢ってもらっていた。
先輩はフルーツたっぷりのパンケーキにベリーのソースを沢山かけて、ナイフとフォークで器用に切り分けたところで、不意にそう口を開いたのだった。
「綺麗な女性のこと、ですよね」
切り分けられたパンケーキを眺めつつ、僕は答えた。パンケーキはいつまでたっても口に運ばれず、無残にもフォークで弄り回されている。
「女性だけを花に例えるのは不公平じゃない?」
「花といえば、みんな女性を思い浮かべるものじゃないですか」
僕が答えると、んー、と先輩は口を尖らせしばらく考え、
「じゃあ、その花を実際に見たことは?」と質問を続けてきた。
「百合くらいなら」と僕が返すと、
「綺麗だった?」と先輩はまた聞き返す。
「きれい……なんだろうなー、と」
先輩は僕の答えに「ふーん」とだけ言うと、いじり倒していたパンケーキを口に放り込んだ。
「じゃあ、他の花は?」と先輩はパンケーキを頬張りながら続ける。
「牡丹は見たことあるかもしれないですけど、芍薬はどんな花か知らないです」
「綺麗だと思う?」
「その例えにもありますから、そうなんでしょうね」
「見たこともないのに、どうして綺麗だって思うの?」
「花だから……たぶんそうなんだろうなって」
「じゃあ、タンポポと芍薬ならどっちが綺麗だと思う?」
「……芍薬、でしょうか」
「綺麗なものの例えに使われているから?」
「そういうわけではないですけど……」
歯切れの悪い返事を続ける僕をよそに、先輩は最初に注文したデカフェのコーヒーを一口啜った。
「んまい」と呟く先輩についてだったら、僕は迷いなく綺麗だと言い切るだろう。
先輩のグラスを持つ手は白くて長くて、血色良く見える程度のネイルが控えめでとても良く似合っていた。
グラスに口付ける唇も艶やかで形良く、黒髪に隠れがちな大きくて真っ黒い瞳は吸い寄せられるかのようだった。
「芍薬も牡丹も百合も、どうして綺麗なんだと思う?」
「先輩はそう思わないんですか」
「いや、もちろん綺麗だと思うよ。でも、そこらへんに生えてるタンポポとかだって綺麗だよね。だけど、綺麗な女性には例えられない。どうして?」
「さぁ、僕は男ですし……」
「ちょっとは考えてよー」
そう言って少しむくれた先輩の仕草も、口調も、容姿も。
先輩は本当に、綺麗な女性に、見える。
「私はね、その花を見る人たちが綺麗であることに憧れているからだと思う」
「憧れ、ですか」
「うん、憧れ。……だから俺は、この格好をしてるの」
少しだけ口調を変えた一瞬だけ、そこには普段の先輩が座っていた。
「憧れに近づこうと実際に目で見て、嗅いで、触って、しっかり手入れして。その実感として、綺麗だって自分自身が感じることが大事だと思う」
「憧れに近づくため……」
「ま、どんなものに憧れを抱くかは人それぞれだろうけどね」
「そう、なんでしょうか」
「そうだと思うよ」
薄く微笑む先輩はもう、綺麗な女性に戻っていた。
「そんな感じで、緊張はほぐれた?」
「……なんとなく」
「じゃあ、そろそろ行ける?」
いつの間にか、皿の上のパンケーキはなくなっていた。
「……はい。大丈夫、です」
僕が立ち上がると「あ、でも飲まないの? アイスコーヒー」と先輩は少し笑いながら聞いてきた。
「いや、口紅が落ちちゃうかな、と思って……」
「ん。そういう意識があるのなら良し!」
カラカラと笑う先輩を見て、僕はまた少し恥ずかしくなる。
アイスコーヒーはすっかり氷が溶けきり、ぬるくなっていた。
パラソルから出ると、燦々とした日光に皮膚がジリジリと照りつけられる。
まだ初夏とはいえ日差しは強く、空にはくっきりとした輪郭を持つ大きな雲が浮かぶ。
そんな青と白で彩られた大海原の下、大勢の人たちが買い物を楽しんでいた。
先輩もまた、その中をスキップするように楽しそうに歩いた。
けれど僕は、先輩の隣を陰鬱な気持ちで俯きながら歩いていた。
雑踏の中、いつもよりやけに人の声が耳に入る。
――あそこおいし―――ねぇ知って―――お待たせ――『うわ』――でさ――バイトで――いらっしゃ――『ねぇ見てアレ』―――上司が―――あれかわいい―――『キモっ』―――『怖ー』―――『変なの』―――――
僕はだんだんと先輩の後ろにまわり、そしてついには立ち止まった。
「どうしたの?」
僕がついてこないことを、先を歩く先輩はすぐに気づいてくれた。
「……やっぱり、帰りませんか。僕には、出来ないです」
「出来てるじゃん」
「似合ってません」
「何を気にしてるのか知らないけど、たぶん気のせいだよ?」
「無理ですよ……すいません」
萎縮した僕を見て、先輩はハァーと大きめの溜め息をつく。
「すいません……」
そして、もう一度謝る僕には何も言わず、先輩は「はい!」と大声を出して両手をパンッと叩いた。
「な、なんですか」
「服買いに、お店入ってみよっか」
先輩は破顔してそんなことを言った。
「もちろん、可愛いのをね!」
「無理に決まってるじゃないですか!」
「えーどうして?」
「男だってバレちゃうからですよ! いや、先輩ならバレないんでしょうけど!」
「いやいや、分かるに決まってるじゃん。骨格も声もやっぱり男だもん」
当然のことに何か気にする様子すらない先輩に、僕が間違ったことを言っているような気がしてくる。
「でも、お店の迷惑になるかもしれないし」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと客として行けばね。それに……」
急に、先輩の声が小さくなった。
「はい?」
「恥ずかしいと思うのは自然だけど、後ろめたいと思いながらやってる訳じゃないから」
改めてそう言う先輩の目は真剣で、少しも笑っていなかった。
「……すいません」
先輩の目を見た僕は何も言えず、また謝ることしか出来なかった。
「はい! じゃあー、あそこ!」
切り替えるように、先輩は小綺麗なセレクトショップを指差した。
「い、いやぁ……やっぱり抵抗が」
「いいからいいから! ほら入って!」
渋る僕を尻目に先輩が先に店に入ると『いらっしゃいませー』と若い女性の声が聞こえてくる。明らかに強ばった僕を見て、先輩はニヤニヤと笑う。
「せっかくだから、いろんなものを見るべきだよ!」
それ以降、僕は言われるがまま、先輩との買い物に連れ回された。
何件目かの店を出ると、いつの間にか夕立が降り出していた。
「やまないねぇ」先輩が呟いた。
「まぁ、可愛いのたくさん買えたからいいよね……ちょっと、聞いてる?」
「た、高かった……全部高かった……」
「だよねぇ」
先輩はカラカラと笑い声をあげる。
「でも可愛いのたくさんあったでしょ」
「……えぇ、まぁ」
「ただねー、やっぱりサイズが微妙に合わなくて着れない服も多いんだよねーくやしー」
本当に悔しそうな先輩を横目に、僕は雨の中を行き交う人たちを見ていた。
それからしばらく、僕たちは曇天と雨粒を軒先で眺めていた。
「……先輩」
「なに」
「綺麗であることに憧れるから、先輩はその格好してるんですか」
「まー、そういう
「茶化さないでください」
「茶化してないよ、本当のこと。だって、可愛いじゃない?」
「可愛いから、ですか」
先輩からの返事に少しだけ、間が開く。
再び口を開いたとき、先輩は男としての先輩だった。
「……お前、ゲームはする?」
「しますよ」
「RPGとかアクションゲームは?」
「します」
「男と女どっち選ぶ?」
「女、かな」
「なんで?」
「可愛い装備が豊富だからですかね」
「だろ? それでさ、現実もそうじゃないかって俺は思ったんだ」
「現実ですか」
「化粧して、髪整えて、おしゃれして。なんていうか、選択肢がたくさんあるんだよ、女の子は。自分を表現できる方法がたくさんある」
再びの間。
「……最初の店に入る前、お前帰ろうとしたよな」
「はい」
「勝手な想像だけど、周りの声が気になったんだろ」
「……はい」
「当然だな。俺も最初はそうだった。周りからどういう風に見られているか、気になって仕方がなかった」
先輩はゆっくりと、服に雨粒が染み込むように語り、それを僕は耳で感じながら聞いていた。
「でも、自分がどう見られてるのか気にし続けるのが悔しくてさ。だったら俺も、周りのこと見まくってやるって思った」
「どういう意味ですか?」
「お前、今日1日で何か気づくことあったか?」
僕はしばらく考え、一番印象に残ったことを言う。
「……赤い靴はめっちゃ目立つ……ですかね」
それを聞くと先輩は大声で笑い出した。
「綺麗だと思ったか?」
「はい」
「それって男目線だとなかなか意識しないことだろ」
「そう、ですね」
「自分が着るかも、という視点で街を歩くとさ。今まで目につかなかったものが見えるんだよ。そうすると、今まで考えてもみなかったことがいきなり頭の中で弾ける。あの靴可愛いとか、あの色使い良いとか、あの髪型やってみたい、とかな」
「そうだった、と思います」
「別に、俺はお前に女装を勧めてるわけじゃないし、価値観を変えようとしてるわけでもない。ただ、たくさんの選択肢が目の前にあるってことを言いたかったんだ。それが見えてないだけでさ」
僕はもう一度、雨の中を歩く人たちを見た。
街中に溢れる色、形、文字、広告、映像、質感。雑踏、足音、衣擦れ、笑い声。
それらすべてが、鮮明に映っているような気がした。
「自分にとって綺麗と思えるものくらい、自分が何に憧れるかくらい、自分で決めたい。それだけの話だよ」
単なる偶然ではあったが、先輩がそう言った直後に、雨は上がった。
「はー、楽しかった!」
雨上がりのキラキラとした風景の中、先輩は満面の笑みで僕に言った。
「僕も、楽しかったです」
次は、赤い靴を履いて先輩の隣を歩こうと、そう思った。
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