No.36 女装をやめた日

『それじゃあ、話し足りないけど……もう遅いし、おやすみ!祐くん。荷造り頑張ってね!』

「うん、ありがとね。理香さんもおやすみなさい」


 プツ、と二時間にもわたる婚約者との通話を切って、端末をジーパンのポケットにしまい込んだ。時刻は十二時のてっぺんを少し回ったところで、おしゃべり好きな彼女には困ったものだなとかぶりを振る。

 座っていたベッドから立ち上がり周りを見回すと、通話の前に片付けようとしていた段ボールが十数個が積まれており、やれやれと目を瞑った。


 三つ年上の婚約者である渋谷理香にプロポーズしたのがつい先月。自分の住居よりも立派なマンションに住む彼女の家でしばらくは同棲することも同時に決まった。

 それから少しづつ荷造りしてはいたものの、いかんせん一人ではなかなか進まない。高校進学と同時に現在の住居に引っ越してから、十五年もの間住んでいたのだ。そう簡単に荷物の整理が終わるはずもなく、腰に手を当てて大きなため息をついてしまうのも致し方ないと思う。

 それでも残業を終えて急いで帰ってきてから懸命に荷造りを続けた結果、残すはいまだ手つかずのクローゼットのみとなっていた。

 そこは長い間開くことすらせず、普段使う衣服は別の場所にある衣装ケースにしまい込んで使用していた。


「……ついにここも片付けないといけなくなったかぁ……」


 はあぁぁ、と先ほどよりも深いため息が出る。このクローゼットが後回しになっていた事と長期間クローゼットとして使用していなかった事については、少し込み入った事情がある。とても精神的に辛くて、気の進まない、事情が。


 クローゼットの前に立ち、すぅ、はぁ、と深呼吸を一つ。

 そして。


「どりゃあぁ!!」


 掛け声を上げて一気にクローゼットの扉をあけ放つ。とたんに、劣化した柔軟剤の香りが押し寄せてきて、うっと顔をしかめた。しかし、目に映るものたちがさらにげんなりとした気持ちを萎えさせる。

 オフホワイト。ピンク。ラベンダー。サックスブルー。ワインレッド。

 色とりどりのワンピースやブラウスたち。

 リボン。レース。フリル。

 可愛さを詰め込んだヘッドドレスやソックス、アクセサリーたち。

 もう二度と触れはしないとクローゼットの中にしまいこんで封印していた、在りし日の自分の宝物が、少しも色褪せずにこちらに向かって輝きを放っていた。



 元々勉学の成績は良い方で、全国模試でも高水準をキープしていた自分は、ある目的のために、進学する高校に東京にある高偏差値の高校を両親に提案した。成績優秀、生活態度は品行方正、家も比較的裕福で一人っ子。男だというのもあって、上京したいという願いはすんなりと叶えられ、めでたく一人暮らしの生活を手に入れることになる。

 そして、その目的というのが。


「……久しぶりに女装用の服見たけど、こんなに集めてたんだな、俺……」


 しっかりしたベロアの記事が美しい漆黒のジャンパースカートや、繊細なレースと華やかなフリルのマリアージュが可愛らしいお袖留めの数々。

 奥の方には、これでもかと折り重なったパニエや、黒、赤、ピンクとさまざまな色のエナメルパンプスやブーツがしまわれている。

 クローゼットいっぱいに広がる甘くメルヘンな衣服と装飾品の数々。所狭しと収納されたそれら全てが、女装をするために購入し、収集したものだった。


 中学校の文化祭で男子と女子を入れ替えた模擬店をクラスでやることになって、無理矢理にウェイトレスの格好をさせられたというありきたりな出来事が、女装を始めるきっかけだった。

 ウェイトレスの服を着て、ほんの少しの化粧をした鏡の中の自分が、本当に自分と思えなくて、見た瞬間に俺は女装をした自分に恋をしてしまった。


 それからというもの、親や周囲の人間にひた隠しにしつつ、再び女装することばかり考えていた。



「ああ、このワンピース……懐かしいな。初めて買ったやつだったっけ」


 上京し自由を手に入れた自分は、あふれんばかりのその欲望を解き放ち、仕送りを限界まで切り詰めて女装用のワードローブを満たしていった。親を説得して飲食店のアルバイトも始めて、ひたすらに女装に没頭した。


「あっこれ、限定復刻のバッスルワンピース……はは、今はもう、入らないな」


 けれどその薔薇色の生活も長くは続かなかった。

 一八を過ぎても一向に伸びなかった身長が、二十を過ぎてから急に伸び始めた。

 華奢だった体格は女装なんててんで似合わない無骨な体に。脂肪も筋肉も付きにくく、男にしては白く柔らかだった体が筋肉質に。


「……最後にって買ったんだっけ。このミニドレス」


 最後の方はもう悪あがきだった。

 体格もサイズも変わればどんどん醜くなるのもわかっていたけど、体の変化があまりにも急で、整理がつかなかった。結局似合わなかったし、全然可愛くもなかった。

 そうして俺は、恋をした鏡の中の女装した自分には二度と会えなくなってしまったのだった。


 ありあまるほどの女装道具を分別して、あるいは分解して、「不用品」としてまとめ終わると、窓の外はすでに明るくなり始めていた。

 最後に一着だけ、初めて買ったワンピースがクローゼットにポツンと残っている。

 ひどくくたびれていて、俺の欲望だとか、熱情だとか、そういったものをはじめて全て受け入れてくれた、特別なワンピース。

 衝動的にそれをひったくって洗面台へと走る。鏡の前でワンピースを体に合わせてみれば、サイズの合わない乙女趣味の服を体に当てている、ただの冴えない自分自身がうつっているだけだった。

 体をわななかせ、溢れそうになる涙をぐっとこらえて。震える声で、鏡の中の自分に語りかけた。


「……さよなら、大好きだった、『私』」




 最後に残った恋心ごとゴミ袋に突っ込んで、袋の口を縛る。

 もう鳥のさえずりが聞こえてくる時間だった。もうそろそろ、目を覚まさなくてはいけないな。

 がらんとしたアパートが寂しいような、スッキリとしたような、不思議な感覚で。


「ふっ、く……う、うぅ……あぁあ、あぁーーっ!!」


 女装をやめた日の朝、俺はまるで赤ん坊のように泣いて、泣き喚いた。

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