No.9 地獄でなにが悪い
その気狂いは、聞けばさるやんごとないお方──どうせどこかの阿呆公家だろう──のおとしもの、御落胤ということだった。手をつけられた女中は可哀想に産後の肥立ちが悪かったとかなんとかでころりと逝ってしまったらしい。一人残されたあかんぼはそれはもう玉のように愛らしい女子だが、5つになるまで言葉も知らず、8つになるまで立ちもせず、日がな一日ぼうっと外を眺めるような知恵遅れだった。さて困ったのはこの屋敷の当主だ。残ったのは買い手のつかない阿呆だけである。よくある話で、この時代の気狂いたちのご多分にもれず、その阿呆は座敷牢に繋がれ、今は少ない使用人たちにあれこれの世話をされるだけの人形と化した。敷浪姫だか式波姫だか、そんな御大層な名前もとうに忘れ去られて、今はただシキナミと呼ばれていると、そんな始末である──
カン、カン、と煙管の灰を落として、水菊は顛末を語り終えた。使用人とはいえ当代よりも古参のこのお婆はそれなりに広い個部屋を与えられており、夜な夜な怪しげな話をすると言っては誰かしらが集まってくる。幸いにして本業の薬問屋は商売繁盛、ついでと始めた小間物屋も前途洋々のようで、この屋敷は使用人への俸禄も気前がいい。甘いものが卓上に上がることもしばしばで、カンナは話よりもそれ目当てによくここへ来るのだった。まだまだ四方山話よりも体が金平糖を欲するような年頃なのだ。それに、水菊は怖いけれど理不尽なことで怒ったりしないので、カンナはわりとこのお婆が好きだった。決してお菓子だけが目当てではないのだ、決して。
しかし、今日の話はあまり楽しいものではなかった。
「いいかい、カンナ。よくお聞きよ。あそこの座敷牢に行くときはあまり喋らないこと。膳の上げ下げは必ず四半刻以内に済ませる。それと」
「お召し換えは絶対に手伝わない。ですよね」
「よく分かってるじゃないか」
「そりゃ何十回も聞かされてますからね。耳にたこですよ」
シキナミとかいう気狂いの話を、なんべんも繰り返し聞かされていたからだった。
事の始まりは、カンナがいきなり蔵替えを命じられたことによる。今までは北側の飯炊きを手伝っていたのに、一週間前急に偉そうな人がやってきて、それが言うにはお前は南側の小屋にいらっしゃる御方をお世話せよだのなんだのとうるさかった。聞けば下男が1人暇を乞うたとかで人手が足りないらしい。
「たことはなんだ。まあいいさ。ああそうだ、カンナ」
「はい?」
「お前はできる女中さ。少々物事に執着しなさすぎるきらいがあるが、覚えは早いし、淡々と何でもこなすだろ。あのお方へのお仕えをちゃんと果たしたら、当代様の目にも止まろうて。頑張りよ」
しわしわの、笑うとくちゃくちゃになる目が、今は優しくカンナを見ていた。
カンナはなぜだか胸がほわほわして、ただ頷くことしかできなかった。
とうとうこの日がやってきた。カンナは重く溜息をついた。
水菊お婆の夜話から幾日か経ち、今日は初めてのお仕えの日だった。実はお仕えといっても大したことはなく、前と仕事内容だけを比べれば随分と楽である。ただ、寄ってたかって教えこまれた噂と先入観がカンナの指や足を強ばらせていた。
「こっちです」
先導役の下男(露路というらしい)の背を追い、その座敷牢の前に立つ。牢と言う割には重苦しくもなかったが、普通の小屋にしては頑丈な作りだった。
「シキナミ様。失礼します」
さあ、とうとうだ。気狂いの美姫と噂の顔を拝ませてもらおう──そんなカンナのちょっとした思い上がりは見事に吹っ飛ばされた。
年の頃は25か6だろうか。思ったよりも長身だ。いや、まず見開かれた瞳が違う。白目は螺鈿で黒目は射干玉、そして周りに張り詰める肌はいっそ青みがかって見えるほど白く透けて、それでいて豊かに広がる御髪は黒く波打ってつやつやと光る。
が、狂人特有の気だるげな雰囲気が、それらを台無しにしていた。いや、なまじ顔がいいからこそ、相対した時の顔を背けたくなるような忌々しさは背を焼くようだ。
「……カンナと申します。今日からお仕えさせていただきます」
声が震えているのを自覚しながら、カンナは挨拶をした。だが、シキナミはなお唖然として、
「ああ……」
と返すだけだった。露路を見やると彼は頷いた。
「シキナミ様。今度からはこの者が加わりますので、御用の際はなんなりと。では、半刻ほど後に昼の膳を運ばせますので」
「……そう」
しゃべった。
いや、着替えは1人でするのだし、簡単な応答は出来るのかもしれない。そう勝手に納得すると、カンナと露路はそそくさとその小屋を後にした。
「……意外と驚かないんですね、カンナさんは」
「え?いや、ああ、驚いてます。喋れるのかとか」
「いえ、そういうことでは。まあいいか」
露路はぼりぼりと頭を掻いて、これからよろしくおねがいしますね、と笑った。
その日からカンナの新しい仕事が始まった。とはいえ本当に大したことはない。もともと物覚えが悪い方ではないので、カンナは3日もすればすっかりなれてしまって、この奇妙な仕事をこなすようになった。もの言わぬ人形に仕えるような簡単な仕事である。終日動かないこともあるので、カンナはこの姫はもしかしたらほんとうに猫か人形かなのではないかと疑ったこともあった。
そうして幾日か経ち、カンナの15の誕生日まで5日を切った頃のことだった。
その日カンナは夜中に厠に立っていた。しんと冷える夜中である。襟を寄せて足音を立てずに歩いていると、なぜだか人の気配がする。母屋の方に歩いていく人影だ。しかもその姿は貴人のようにたおやかで、かつ怪しい色香を放っていた。
気になる、と思った。カンナの悪い癖だ。ふらりふらりと付いていく。ちゃっかり足音を消すのも忘れない。
付いていくと、やがて当代の寝室に行きついた。さすがに気がとがめて足を止めた。しかし、その貴人の横顔を見てカンナは息を飲んだ。
──シキナミだ。
見間違えるはずもなかった。歩く度に芙蓉が咲くのではないかと思わせるほどの、そんな鬼神も恐れるほどの美貌は、屋敷どころかこの国探したってシキナミしかいない。だがおかしいのは、座敷牢を出られないはずの彼女がこんな時間に出歩いているということだった。
夜は、痛いほどの静寂だった。シキナミが滑り込むように入った部屋から、身じろぎの気配がしたあと、やがてするすると衣擦れの音が聞こえてきた。
見てはいけない。
カンナはなにかある種の破滅的な予感を覚えた。だが、足を止めることができなかった。おあつらえ向きに空いている戸の隙間から湿っぽい匂いが流れてくる。息を殺して、顔を傾けて、なんとかその隙間を覗き込んだカンナの目には、
──火傷。
最初は火傷かと思った。上着を床に落とし、晒された裸体の背中に広がるそれが、余りにも激しい赤だったから。しかしそれは刺青だった。炎をまとってこの世の亡者を睨み続ける仏が、シキナミの白磁の肌に執拗なまでに描き込まれていた。それはこの世に存在を許されないほどの美しさだ。存在するとしたら、そんなものは、外法だ。畜生だ。修羅に落ちてしまうほど。
息をするのを忘れていた。目を背けることもしなかった。目の前では地獄絵図が描かれていた。が、カンナの脳裏には依然としてシキナミの白い肌とその上に現れた地獄が焼き付いていた。呆然としたその肩に、そっと手を置かれて、カンナはゆっくり振り返った。それは露路だった。
「見ましたね」
感情のわからない曖昧な目で微笑む。
「カンナさんならここまで露見してしまうだろうと思いました。貴方は頭がいいから……いえ、でも、すべてを教えてしまう必要は無いでしょう。貴方はまだ15にもならない子供なのだし。かいつまんでお話しましょう」
◇◆◇
シキナミ様は当代の奥方と当代の弟御との間に生まれました。さるお方の御落胤?違いますよ。不義の子です、有り体に言えば。
奥方は見ての通りあまり見た目は……失礼。あの美貌は弟御のものでしょうね。弟御。見たことはありませんか?ああ、そうですよね。シキナミ様が生まれた日に当代が斬って捨ててしまわれましたから。
奥方はそれはそれは気に病んで……褥婦とは思えないような気迫でしたよ、弟御の死を知ると一言、虚空を睨んで仰いました。
「呪います」と。
もともと当代と奥方は好きあってくっついた2人です。それがこのようになってしまって、当代もおかしくなってしまったのでしょう。それでもなんとか堪えていたものがその一言で決壊して、その狂気はシキナミ様に向かうこととなりました。
ところで、当代には2人子供がいらっしゃいますね。どちらも立派な男子、もうお世継ぎはいらないでしょう。結構なことです。それにもう何も生まれることはありません。
シキナミ様の唯一の幸運は、男に生まれたことでしょう。でなければこの屋敷はとうの昔にシキナミ様と当代の子供で溢れかえっていますよ。わかりませんか?いえ、わかるでしょう。当代はシキナミ様を夜伽の相手として選びました。シキナミ様に痴呆のような振る舞いをさせているのも、女の格好ばかりさせているのも、座敷牢に閉じ込めているのも、背中にあの見事な刺青を施させたのも、すべて当代のご意向です。
地獄でしょう。当代はシキナミ様しか抱きません。それが当代なりの復讐なのです。奥方への弟御への、ひいては自らの人生への。
ああ──随分と盛り上がっているようですね。少し離れましょうか。そう、もう少し、ええ、もう少し離れましょうか。戸に血がつかないように。
え?
いや、こんな話を聞かせた相手を生かしてはおけませんよ。
すいませんね。
◇◆◇
その日、カンナが15になる日、その屋敷は焼け落ちた。史書に述べられるほどの大火でもって灰になったその家は、多数の死者を出してその幕を閉じた。当代・奥方・跡取り全て焼死となればお家断絶も免れない。家のものだけではなく、逃げ遅れた、または年配の使用人も多くが死んだ。その中に水菊の名があるか、カンナは知らない。
そう──カンナは生きている。あの日カンナは露路の刃を逆手に取って、逆に彼の懐中深くそれを刺したのだった。なぜそんなことができたのか、彼女自身にもわからない。ただあの日からカンナの脳裏にはあの刺青がこびりついて離れなくなった。取り憑かれてしまったのだ。何をしてもものを食べても人を殺してもシキナミの真っ白な背中と焔を従える仏を忘れることが出来ない。
露路の死体を処理するのは思ったよりも簡単だった。が、ことは必ず露見するだろう。タガが外れて物狂いのようになってしまったとはいえ、カンナはただの小娘である。出来ることには限界があった。だから。
──燃やしてしまおうか。
そうしてシキナミだけ逃がしてやろうと思いついたのは、その翌翌朝。ただの小娘だったから、こんなに大きい屋敷ごと壊してしまえるのは火しかないと思った。ただの小娘だったのに、それを実行するのに一つの躊躇もなかった。
シキナミはぼんやりとカンナの隣に立っている。生まれてからこの方自らの世界の全てだった屋敷を、舐めるように見続けている。
カンナはそんなシキナミを見て、ああ、やはり赤が似合うのだなと思った。火の前に立っていると、本当にぞぞ気が立つほど色っぽい。
シキナミはぼんやりと考える──俺の人生は、俺の意思など関係ないままに、変態共が現れてぐちゃぐちゃにしていくのだな。あの男が、この小娘に、変わっただけだ。
こういうのを地獄というのかな? カンナはやっぱり、シキナミの背中から目を離すことが出来なかった。地獄というなら、やっぱりあの仏が脳裏に浮かぶのだった。そうしてそれから、すぐに思い直した。
──地獄だからなんだというのだ。地獄で何が悪い。だって、こんなに綺麗なのに。
やがてカンナがシキナミの手を握ると、シキナミはゆるくそれを握り返した。
放火は大罪だから早く逃げなければいけないのだけれど、そうしていると両方ともいたく落ち着いたので、二匹の人でなしはしばらくそうやって突っ立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます