No.6 旧図書室

 暗い闇の中、必死にその背中を追いかける。

 真っ直ぐ前を向いたまま振り向いてはくれない。

 姉さん、姉さん?

 どうして何も答えてくれないの?

 ねぇ、姉さん!

 手を伸ばしても、姉さんには届かなくて。

 どんどん距離が遠ざかる。

 ああ、姉さんが闇の中に消えて行ってしまう。

 嫌だ、行かないで。

 僕を、置いてかないで!


 必死に伸ばした声と手は、虚しく虚空に吸い込まれた。



「おはよう、アンジュ。ご飯出来てるわよ。」

 ベッドから飛び起きると、そこは私の部屋。

 ちょうど呼びに来た母さんが笑顔で部屋を覗く。

「あ、…支度したら、行くね…。」

 落ち着かない心臓を抑えて答えると、母さんはそうと一言だけ言ってリビングへと戻って行った。

 頭が痛い。目眩がする。

 けれど…着替えなきゃ。


 鏡の前で服を脱いで行く。

 布に隠されていた身体が露わになる。

 そこに膨らんだ胸、括れた腰は無く。

 あるのは細いだけの男の体。


 ため息をついて、学校の制服に袖を通した。



「ちょっと、ご飯食べてかないの?」

 部屋から真っ直ぐ玄関へと向かった事に気がついたのか、母さんが声をかけてくる。

「うん…あんましお腹すいてないんだ。今日、日直だから、もう行くね。」

「あら…気を付けてね。あなたは女の子なんだから」

 その優しい笑顔と言葉に、心臓が凍りつきそうになる。

「…そう、だね。うん、行ってきます。」

 ドアを開けて外に出ると、どっと疲れが出た。

 早くここから離れたくて逃げるように家を後にした。


 早く学校に着いても、特にやることは無く授業中以外のいつもの指定席。旧校舎の一階、元図書室。沢山の空の棚と貴重だからと処分は免れたものの、新校舎には置き場所がなくてここに保管されままの辞典や書物。

 定期的に図書委員が掃除をするから汚れてはいないが、やっぱりどこか埃っぽい。

 そろそろ他の生徒が登校してくる時間になるだろう。

 窓から外を見ると、雲が流れているのが見えた。ここは、新校舎に重ならない場所だからよく空が見えるし日差しが入る。そこもお気に入りの場所。


「お前、またここかよ」

 人が朝の優しいひと時を味わっているのに、邪魔をする無粋な声。

「チッ…お前かよ。」

 思わず舌打ちが出てしまったが、まぁこいつの前なら構わないだろう。窓から声のする方へと視線を移すと、予想通りのマヌケ顔がいた。

「おいおい、大天使のアンジュ様が舌打ちだなんて信者どもが泣くぞー?」

「はっ、知った事か。」

 あからさまな不機嫌そうな顔であしらえば、途端にゴロニャンと言わんばかりの媚びた声で話しかけられる。

「ねぇーんそんなに怒んないでよぉー、アーンテールームーっ。」

 最後にちゃん、とでもつきそうな言い方に低い声で釘を刺す。

「その名前を遊びで使うな。」

「わりーわりー、っと。」

 絶対思ってないだろ、と言いかけてやめた。こいつにはいくら言ったところで聞かないだろうという事くらい長年の付き合いでよくわかっている。

 ああ、また頭痛がして来た。こめかみに手を当てて深くため息をつく。

「おーい、また頭痛かぁ?あんまりため息つくと幸せが逃げちゃうぞー。」

「ジャック、とっくに幸せから猛スピードで逃げられた奴の前でよく言えるよなお前。」

 そう言って軽く睨んでやれば、何故か少しだけ悲しい顔をされた。

「あのなぁ…何でもかんでもそうやって諦めんのやめろよな。」

「…仕方ねぇだろ。そういう状況なんだ。」

「でも、もうちょっ」

 ジャックが何かを言い掛けたところで予鈴の鐘が鳴り響いた。

「残念、とりあえず戻ろうか。」

 隣を通りすぎて振り返りざまに見た顔は、僕の身を案じてくれている親友の顔をしていた。

 頭痛が増すのは誰でもない自分のせいである事もわかっていた。



 校舎に戻れば、本鈴まではまだ少しあるので、トイレに行ったり廊下から教室へ向かう人、遅刻寸前で急いでる人などで賑わっていた。

 一人の女生徒が私を見つけて挨拶をしてくれる。

「お、おはようございますアンジュ様!」

 すると、次から次へとあちこちから私への挨拶が響く。

 私は静かに軽く会釈をして手を振る。

「本当にお美しい。」

「可愛いよなぁ。」

「少しくらいお話してみたいもんだな……。」

 周りから聞こえた声にぎくり、として挨拶を切り上げ腕時計を確認し、あたかも時間だからという顔をして足早に教室へと向かう。

「ダメよ、アンジュ様は事故にあわれてからお声を失われてしまったのよ?忘れたの?」

「わかってるけど、やっぱりあの綺麗な声をまた聞きたくなるんだって。」

「けれど、誰よりお辛いのはアンジュ様本人なのよ…、」

 後ろから聞こえる声に後ろめたさと悲しさが募る。

 声に出せない想いを胸の奥にしまって、教室へと足を踏み入れた。



 授業は音読以外は基本参加出来る事が多いので、積極的に手を挙げては黒板へ解答を書いて過ごす。問題に集中する方が気が紛れた。

 ただ、運動の時間に関しては後遺症で行えないという事もあり教室で1人自主勉強するが、ほとんどの内容を既に解いてしまった現状する事がなく、退屈で考えなくてもいい事まで考えてしまう。

 窓からクラスメートが投げ合うボールを無意識に目で追い、その姿を見ながら思考はどんどん深い方へ落ちて行く。

 あの日の、事とか。


 姉さんは運動も勉強も大好きで、明るくて頼りがいがあり自慢の存在だった。

 それに対して僕は、大したことは何も出来ない。

 勉強は出来るけれど、それしか取得がない上に、産まれた時から病弱なものだから学校にも殆ど行けなくて姉からよく勉強や学校での出来事を聞いては、想像を膨らますだけだった。

 自分達の似てる箇所は容姿と学ぶ事が好きという事だけだったけど、姉さんは良く相手をしてくれた。

「私と同じ髪ね。柔らかくて細くて、太陽の光をたっぷり浴びた、オレンジの色。」

 僕の部屋の白くて広いベッドの上で、2人並んで座るのがいつもの光景。

「姉さん、僕そろそろ髪を切りたいんだけど。」

「あらダメよ。姉さんの楽しみを取らないで?それとも…この生命維持装置、切っちゃおうかしら?」

「……暴君。」

「冗談よ冗談、私の可愛い弟にそんなことするはずが無いでしょう?」

 クスクスと笑う姉さんは手際良く、僕の髪を結っていく。はい、完成という声がして、僕の前に手鏡が差し出される。

 怖々と見れば、三つ編みを器用に花の形に纏めた髪型で、そこに映るのはどう見ても姉さん。に、瓜二つの僕。

 そっとついた溜息を知ってか知らずか、

「ねっ?こうするとそっくりでしょう?」

 これが私の楽しみ。と続ける姉さんは嬉しそうにベッドから降りると、サイドテーブルの椅子へ乱雑に掛けてあった自分のクローゼットから持参したであろうドレスを僕に宛てがう。

「うーん、こっちのよりもこっちの方が合うかしら…。でもでもこっちも…」

 くるくると目まぐるしく動く姉さんに声をかけようとした時、僕の部屋のドアがノックされる。

「あら?母さんかしら?」

 ガチャリと開いた扉から入って来たのは母さんでは無かった。


「どーも、女帝アンジュと軟弱アンテルム!」

 部屋に響く大きな声に、2人して耳を塞いだ。

「うるさい馬鹿ジャック。」

「私が女帝ならあんたは奴隷にするわ。」

「おーおー、二人共大変元気で良かった良かった。」

 馬鹿にしてるの?という姉さんの笑顔での問いかけには答えずに、真っ直ぐ僕のベッドサイドへと寄るジャック。

 ドレスを掛けたままの椅子へ許可も取らずに腰掛けると、僕の手を取り真剣な眼差しで僕を見つめた。

「アンテルム……おめでとおおおおお!」

「だからうるさいわよ馬鹿ジャック!」

 姉さんにゲンコツを食らわされたジャックは、涙目で愚痴る。

「いやぁな?明日、心臓の手術決まったんだろ?で、もう居ても立っても居られず大親友へエールを送りに来たわけよ。」

「あんたねぇだからって来て早々叫ばないで頂戴。あくまでも、まだ決まっただけで終わったわけじゃ無いんだからね。まだ驚かしたりしちゃダメなのよ。」

 そう言いながらも椅子にかけていたドレスを僕のベッドの足元へ放り投げて、さりげなくジャックへ席を譲る。

「だーかーら、こうして大人しく会いに来たんだろ。本気で祝うならその窓のすぐ外で花火でもあげてるって。」

 確かにこいつならやりかねない。

「花火上げられ無くて良かったよ…まぁでも気持ちは有り難いな。ありがとうジャック。」

「手術終わったら、上げてやるから遠慮なく言えよな!」

「頼むから遠慮させてくれ。」

「ジャック、あんた出禁にするわよ?」

 そんな会話を交わして、ジャックは数分程で帰ってしまった。

「今度3人で飯でも行こうぜ!」と一言残して。


 その後は、翌日の為に昼から僕は先に病院スタッフに搬送用の車へと詰められ病室で家族を待った。優しく僕の頭を撫で、見送る姉さんの瞳。

 あの同じ碧色を、待っていたのがもう遠い過去の事みたいだ。

 まだ、何年も経ったわけじゃ無いのに。



「、…ュ!アーンジュ!!」

「っ、!?」

 クラスメートからの呼び掛けに思わず声が出そうになる。思わず立ち上がった姿を見て申し訳無さそうにもうすぐ次の授業だから、と隣の席の子が教えてくれた。

 そうか、もうそんな時間…驚きすぎて声が詰まって良かった…。

 軽く礼をして座り直すと、ある意味の窮地を乗り越えたことを安堵し胸に手を添える。


 問題なく動く心臓。姉さんがここにいるなら、どうしてこんなに寂しいのだろう…。


 あの日、病院に向かっている家の車が事故に遭い酷い有様だと聞いた僕は家族の無事を祈った。

 後から聞いた事故の原因は、急いでいた車による信号無視。赤信号を無視して交差点に侵入した車は、姉さんの座っていた後部座席に突っ込んだらしい。

 姉さんは車に挟まれ息絶えるまで僕の事を口にしていたと聞いた。

 父さんと姉さんの訃報、母さんの重体を知らされたショックに僕の心臓は耐えられず、そこから先は…人から聞いたことしかわからない。

 まだ移植用の臓器が届いていなかった事を知っていたのか、姉さんが生き絶えるまで伝えていたのは

「弟の、アンテルムの病院へ運んで」

「私の心臓ならきっと大丈夫」

 そう言っていたと。

 目が覚めて、重体だった母さんの記憶が混濁していると教えてくれたのはジャックだった。

 ジャックと僕の家族皆で撮った写真を部屋に飾ってくれていたらしく、中で微笑む姉さんがもういない事が信じられなかった。

 それでも時間は過ぎて、姉さんの心臓は定着し傷も治れば家に帰れる。

 リハビリに病室を出ると、母さんが待ってくれていた。

「母さ」

「ああアンジュ!可哀想に、なんて痛々しい姿!」

 久しぶりに見た母は、正気では無かった。

 いや…仕方ないのかも知れない。僕だって、前より健康なはずなのに悲しくて苦しくて。それでも、前を向かなきゃならない。

「母さん、僕だよ、アンテルムだよ!姉さんはあの事故で…僕に、心臓を託して…」

「…アンジュ?何を言っているの?大丈夫よ。」

 優しく僕の背中を撫でる母さんは、続けてこう言った

「アンテルムの事は本当に残念だけれど…私にはアンジュ、貴方がいれば大丈夫なのよ。」

「アンジュ…これからは2人で力を合わせて頑張りましょう…。」

 ああ違う…母さんの中ではもう、それなら姉さんである事が母さんの為…?


「姉さん…」

 呟いた言葉は誰にも聞かれる事なく消える。

 授業が終わり放課後、旧図書室で一人来訪者を待つ。尤も、一人しかいないのだが。

 ドアが開き、入ってきた人物は慣れた手つきで後ろ手に鍵をかける。

「お疲れ、アンテルム。」

「ジャックこそ。」

 自然に腕を広げるジャックに、当たり前のように身を委ねる。

「僕は、僕だよな?」

「ああ。お前はアンテルムだ。どんなにアンジュの姿をしてたって、アンテルムだ。」

「当たり前だな。」

 少し笑って返せば、優しく頭を撫でられる。

「何も、一人で背負い続ける事ぁ無いんだからな…。」


 ああ、姉さん。ジャックといると鼓動が早くなるのは、姉さんの感情なのかな。


 姉さんもお気に入りだったこの部屋は、僕達の秘密の部屋になりつつある。

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