武士の情け

 「昨日の夜へんな電話があったわよ」

 土曜日、アパートに寄った伊刈に大西が言った。

 「へんなって?」

 「伊刈さんは居ませんかって」

 「名前を言ってたか」

 「ツジさんて」

 「辻か、なるほど」

 「なんだか気味が悪いよ」

 「仕事の電話だよ。心配ない」

 「だってなんで私の電話番号知ってんのかな。それから伊刈さんがここに居るかもしれないってどうして知ってんのかな」

 「調べる方法はあるだろう」

 辻専務が県庁に日参して火消しに躍起になっていることは小糸から聞いて知っていた。許可取消しの権限がない環境事務所には最近顔を出していなかった。その辻がいきなり大西に電話をしてきた。伊刈にプレッシャーをかけようとしたことは明らかだった。あの紳士がこんな手まで使うのはそうとう追い詰められている証拠だ。社長から産廃事業の全権を任されている専務だが、いざとなればサラリーマンなのだから社長の一声で首が飛ぶ。辻がなりふりかまわぬ駆け引きに出ていることは明らかだった。日曜日の早朝、また電話が鳴った。大西はおそるおそる受話器を上げた。

 「はい、はいおりますけど」大西は伊刈を見た。

 「辻か」

 「うん」大西は小さく頷いた。

 「貸して」伊刈は受話器を受け取った。大西が伊刈の背中にガウンをかけた。

 「伊刈さんなんとかしてくださいよ。うちの会社潰れちゃいますよ」

 「どうして」

 「それは伊刈さんが一番ご存知でしょう」

 「それよりどうしてここがわかったんだ」

 「それはちょっと」

 「教えてくれないなら、こっちで調べますよ」

 「東総建設タイムスの記者から買ったんですよ。市でも県でも国でも頼めば誰の住所でも買えるんですよ」辻は渋々説明した。名簿屋が職員の住所を売っていることは噂に聞いていた。自分の住所が実際に売られたと聞いたのは初めてのことだった。しかも自宅ではなく居所である。尾行されたに違いなかった。

 「いくらで」

 「はっきりとは言えません。住所だけなら一本くらいですよ」一万円という意味のようだった。

 「買えるは自宅の住所だけだろう。実家の母にも電話したことは知ってる。だけどどうしてここに居るとわかったんだ」

 「それはその」

 「つけたのか」伊刈が大西と週末同棲していることは同僚にも知られていないはずだった。

 「それも買ったんですよ」

 「誰から」

 「勘弁してください。餅屋は餅屋わかるでしょう」

 「許可取消しの権限は県庁にあるんですよ。僕を脅迫したってムダです」

 「脅迫なんて滅相もない。県庁だって伊刈さんには一目置いています。ぜひご指導をたまわろうと思いまして」

 「それで日曜の朝に彼女のアパートに電話ですか。指導を仰ぐって態度じゃないですね」

 「すいません急いでたものですから」

 「とにかく電話はやめてもらえますか。明日出直してください」

 「わかりました。明日の朝一番にお伺いします」

 翌朝事務所で待っていると火消し役としてしゃしゃり出てきたのはまたしても右翼の大藪だった。

 「伊刈さんまた世話になるよ」

 「もしかして巽興業の辻専務の代理ですか」

 「そうだよ。いつも悪いねえ」

 「専務は来ないんですね」

 「伊刈さんがよっぽど怖いらしいよ」

 「うちに来てもムダですよ。県庁の許可ですからね」

 「知ってるよ。県庁にはもう何度も行ったよ」

 「そうですか」

 「なんとかなんないもんかね。あの会社を本気にさせるとまずいよ」

 「どういう意味ですか」

 「面子にこだわる会社だからね。許可取消しとなったら、伊刈さんあんたが危ないよ」

 「具体的に言ってください」

 「昨日専務が家に電話かけたんだってな」

 「家じゃないです」

 「わかってるよ」大藪は大西の様子をちらりと見た。「伊刈さん、あんたならわかるよな。いざとなったら俺にはどうもできんよ」

 「どうすればいいっていうんですか」

 「とにかく俺が根回しするから自重してくれないかね」

 「県庁の判断には従いますよ」

 「そうかいそれならいい。それを聞きたかったんだ」

 「技監にも挨拶していきますか。もうすぐ帰ってきます」

 「いやあの旦那は俺も苦手だ。よろしく伝えておいてくれ。俺はこれからまた県庁に行かないとな」

 「県庁の誰に会うんですか」

 「わかってんだろう。部長だよ」

 「課長じゃないんですね」

 「もうそういうレベルじゃねえよ。森村先生がかんかんなんだ。あの先生のバックは知ってるよな。部長の首なんかふっ飛ばすのは簡単だぞ。そうだ伝えたいことがあった。巽エンタープライズは解散することになった。もう法務局にも税務署にも廃業を届け出たよ」

 「手早いですね」

 「なくていい会社だからな。一原工場はもともと巽興業が建てたんだ。節税のために分社してただけなんだよ」

 「それくらいわかりますよ」

 「正直言うけど俺は伊刈さんを守りたいんだ」

 「どうしてですか」

 「俺がこんなこと言うのは変だけどよ、腐れ役人は大きれえなんだ。だけどあんたは腐ってねえよ。俺が保証する」

 「別にうれしくないですね」

 「そうか、まあそうだろうな。はっきり言ってくれるねえ。とにかく県庁と話をつけてくるから伊刈さんはもう手を引いてくれよ」大藪は言いたいことを言い終えると環境事務所を飛び出して行った。

 翌日、伊刈は県庁環境部の鎗田次長に直々に呼び出された。

 「悪いんだが巽興業の件は勘弁してもらえないか」鎗田は出先の班長に対する言葉とは思えない敬語を使った。

 「許可取消は県庁の判断ですから」伊刈は何度も説明したことをまた繰り返した。

 「知ってると思うけどあそこはまずいんだ」

 「それは存じていますが産廃業者がパチンコ屋でも別に珍しいことではないでしょう」

 「あそこは団体の中でも役員クラスなんだ。直接不法投棄をやったわけでもないのに許可取消しとなれば面倒なことになるんだ」

 「面倒とは」

 「私はむしろ君の身を案じているんだ。森村先生は君にやられたと思っているらしいからね」

 「僕は仙道技監の指示でやってるだけです」

 「それは内部的なことだ。君のように徹底的に帳簿を検査できる者はほかに居ないからね。会社のほうは君が居なければこんなことにはならなかったと思ってるに違いないよ。実際どうなんだね、そんなに悪い会社なのかい」

 「いいえ違いますね。客観的に見てあそこは優良業者ですよ」

 「なんだそうなのか。じゃどうして取消しなんだい」

 「粗をさがせばほとんどの業者は何かしら違反がありますから。取消そうと思って検査すればどこだって取消せますよ」

 「なるほど。じゃ勘弁してやってもいいてことかい」

 「勘弁とかじゃなく他とのバランスを考えると取消しが相当という判断は疑問だと思っています。でも市の仙道技監が今は僕の上司ですから」

 「あいつは頑固だからな。私は君自身の意見を聞きたいんだけど」

 「コーユーの廃棄物は撤去が終わっていますし、無許可子会社は節税のために設立したものなので解散することで税務署と協議中だそうです。改善が見られたという理由で処分は一等免じるのが妥当な判断です」

 「君がそういう考えなら安心した。それじゃ今回の市からの上申は差し戻しでいいね」

 「技監に話してみます」

 結果的に巽興業に対してけじめとして東部環境事務所長名で処分性のない指導文書を交付することで一件落着となった。仙道は最後まで憮然としていた。

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