ダイオキシン問題

 「犬咬が全国ワーストワンてどういうことなんだ? 俺には信じられん。二位が大阪だと?」仙道が朝刊を広げていらついていた。

 環境保護団体のダイオキシン問題全国フォーラムが全国の主要都市約千か所の大気中ダイオキシン濃度測定結果を集計して発表したという記事だった。犬咬が全国最高値になっていた。テレビのダイオキシン特集放送を追い風に焼却炉建設反対運動を進めてきた市民団体が勢いを増し、議員立法でダイオキシン対策特別措置法が成立したほか、廃棄物処理法の焼却炉規制値も強化された。その後の裁判で特集放送は誤報だったという判決が出た。しかし、いったん成立した法律が廃止されることはなく、ダイオキシンパニックはだらだらとおき火のように続き、市民団体も一度手に入れた錦の御旗を手放そうとはしなかった。所沢では焼却炉全廃運動に続いて産廃処理施設全廃運動が始まっていた。所沢は十字軍さながらの環境系市民団体にとって奪還すべきエルサレムになったのだ。

 「いったいどこで測定したんだ。まさか野焼きしてる煙を直接採取したんじゃないだろうな」仙道が聞こえよがしに言った。

 「大気の測定は場所と風向きに左右されますからね」環境保全班の大室室長も興味津々の様子だった。

 「それにしたってこの値は尋常じゃないぞ」

 「技監その記事のことでお電話です」喜多が電話を取り次いだ。

 「は? 市民からか? メディアからか?」

 「データを発表したフォーラムの代表の方だそうです。本課からこっちを紹介されたそうです」

 「なに? まさかマッチポンプじゃないんだろうな?」

 「どうしますか?」

 「出るよ、電話を回せ」憤懣やるかたなさそうに仙道は受話器を取った。

 「ああそうですよ、うちが現場のパトロールをしてるんです」仙道は面倒くさそうに言った。「ああそうですねえ、うちの管内にはまだまだ野焼きが多いのは事実です。法的には禁止されましたがね。えっ現場を見たい。まあ見せられないこともないですが、そんなに大勢はだめですよ。ああ、それでいいんならご案内しますよ。バスで乗りつけられちゃあ困りますからね」仙道はにやけた顔で受話器を置いた。さっきまでの憤怒はどこかえ消えていた。

 「どうしたんですか、フォーラムの代表が乗り込んで来るんですか?」伊刈が尋ねた。

 「それがな女なんだよ。なかなか透き通る声でいい感じだったんで、つい案内するって言っちゃったよ。誰か代表ってどんな女か調べてくれよ」

 「女だから承諾したんですか」

 「そうでもないんだけど、まあ女の恨みは怖いからな」

 「ダイ全フォ(ダイオキシン問題全国フォーラム)の代表なら有名な女性弁護士です」大室が言った。

 「なんだセンセか。どうりで話がうまいと思ったよ」

 「ただの弁護士じゃないですよ。たしか慶都大の教授だったと思います」

 「なるほど弁護士の上に学者なのか。しょうがねえな。それじゃ大サービスで早朝パトでもやってやるか」

 「夜じゃなく早朝ですか」伊刈が聞き返した。

 「野焼きの現場を見たいなら早朝しかねえよ。不法投棄は夜やるけど野焼きは朝なんだ。解体屋が出掛けに火を点けてくんだよ」

 「早朝って何時くらいですか」喜多が尋ねた。

 「五時か六時じゃねえか。役所が始まる頃には消えちまってるって寸法だわ」

 「なるほど考えましたね」喜多が拳で胸を打った。

 「センセに燃えてる現場を見せてやったら大喜びだろうなあ」

 「技監、ネットにセンセの写真が載ってますよ。ご覧になりますか」

 「おう気がきくな」仙道は大室のパソコン画面を覗き込んだ。フォーラムのホームページではなく、アメーバブログ「のりこののりのりらいふ」だった。料理やらペットやら日常的な記事がスナップ写真付きで載っている射端(いづま)範子個人のブログだ。タイトルどおりのタレント並みのノリである。

 「なかなか別嬪じゃねえか。こりゃあいよいよ早朝パトやるしかねえな。俺も出るから段取りしとけ」仙道はまんざらでもなさそうに言った。

 「大室さんダイオキシンについて教えてもらえますか」伊刈が珍しく自分から大室に声をかけた。大室は伊刈とほぼ同年代、市の環境技師としては草分け的な存在で、知識の点では仙道に劣らなかった。本来なら本課にいるべき人材なのだが国大や有名大の院卒ではなかったため労多く報少ない現業職に追いやられていた。もっとも大室は現場が好きなのでそれを気に病む様子はなかった。環境の現業は難しい。汚染を見つけてもいけないし見つけなくてもいけない。見つけたと言ってもいけないし言わなくてもいけない。つまり科学的というより政治的な判断が求められる仕事なのだ。

 「どの程度ご存知ですか」大室は真面目に応えた。すっかりメディアの寵児になってしまった伊刈に比べると地味な存在だった。そもそも技術職と事務職では住む世界が違っていると思っているのか、本課の宮越とは違って嫉妬は微塵もないようだった。

 「枯葉剤や除草剤の有効成分に似た構造の塩化物ですよね。木くず自体は塩素はほとんどないけど塩ビ系のクロスとか雨樋とか化粧板とかいろいろ混ざったまま低温で燃やすとできるんですよね。だから野焼き現場から出やすいんです。低濃度なら何も問題ないけど高濃度だと変異原性がある。煙突の煙が問題になっていますが、これまで煙に由来するダイオキシンによる健康被害の報告は国内にはなくて、水道水のトリハロメタンみたいに疫学的な危険性が指摘されているだけです」

 「それだけご存知ならもう何も教えることないじゃないですか」大室があきれたように笑った。「それ以上何が聞きたいんですか」

 「新聞に載った調査結果をどう思いますか」

 「ダイオキシンの測定は簡単じゃないし値段も安くないんです。全国千か所調査なんてダイ全フォが自前でやったとは思えません。一か所十万円としたら一億円じゃないですか。市民団体の年間予算なんて五十万円がせいぜいなんですよ」

 「じゃあ千か所調査っていうのは」

 「公文書公開請求とかでいろんな資料を寄せ集めただけでしょう。時期も測定方法もまちまちでしょうし、一つ一つの信頼性も検証していないんでしょうから学問的には使えるデータじゃありませんよ」

 「それじゃ犬咬のデータも市の測定したデータなんですか」

 「たぶんね。それに大気は調査の仕方でデータのばらつきが大きいですからね。精度の高い調査をしたばっかりに汚染地帯だとレッテルを貼られたりしてね。やればやるほどいいことないんですよ」

 「もしかして大室さんのデータですか」

 「いやたぶん仙道技監がやった調査かな。二年前にやった野焼き一斉パトのデータだと思いますよ。あの調査の中で一番高い値を使えばかなりのものです」

 「なるほどなあ」仙道がいらついていた理由がやっとわかった。

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