数理不法投棄モデル
住宅団体を皮切りに伊刈にセミナーの講師を求める動きは止まるところがなかった。ついには国立環境センターの松島準教授が伊刈の評判を聞きつけて環境省からの受託研究への参加を要請してきた。数理構造モデリングプログラムによって不法投棄の原因を究明するというユニークな研究には、既に東京、神奈川、栃木、茨城の第一線の担当者が呼び集められていた。いずれも本庁の担当者だった。栃木の金村、茨城の猿山、東京の石川、千葉の小池など、それぞれの自治体の不法投棄対策のエキスパートが揃っているドリームチームだった。そんな中で県職員とはいえ市に出向中でしかも部下がたった三人の出先の事務所の班長にすぎない伊刈の存在は異色だった。しかし、今や伊刈はビッグネームだった。だれもが会えるのを楽しみにしていた。
伊刈が向かった会場は霞ヶ関ビルにある大手ITコンサル、JTT-DATAの会議室だった。数理構造モデルといっても高尚そうで案外考え方は簡単だ。各都県の担当者が不法投棄の要因を思いつくままランダムに挙げ、それをカードに記して似たものを集めてカテゴリー化していく。これは一般的なブレーンストーミングである。たとえば「低料金」、「施設不足」、「アウトローとの結びつき」、「解体業の下請け構造」、「監視の甘さ」などである。こうしてカテゴリーが二十個抽出されたとしたら20×20=400のマトリクスをつくり、関係ありなら「1」、関係なしなら「0」に仕分けしていく。たとえば「低料金」と「下請構造」は関係がありそうなので「1」、「アウトロー」と「監視の甘さ」は関係がなさそうなので「0」になる。これで20行20列、値が「1」か「0」の関係行列ができあがる。あとはコンピュータプログラムに流し込むと関係の深いカテゴリーが線で結ばれた関係図がオートマチックに生成される。数理構造モデルの弱点は最初のカテゴリーの欠落を後の解析で補えないことである。伊刈が参加するまでに既に関係図が試作される段階まできていた。しかしカテゴリーの数が足らなかったのか、試作された関係図は直観的に有意な結果にならず研究は手詰まりになっていた。
「不法投棄現場に産廃を運ぶダンプは一発屋と言うんですよ」飛び入り参加の伊刈が現場の話を始めると金村と猿山の顔色が変わった。二人には現場勘があり伊刈が語る言葉に馴染みがあったのだ。
「そうそう一発屋って言うよね」猿山が弾けたようにはしゃいだ。
「それ聞いてなかったですねえ。どうして一発屋なんですか」真水にインクを落としたような変化に松島はかえって表情を曇らせた。
「たぶんね契約なしに一回かぎり運ぶからじゃないですか」
「いや一発当てようと始めるからじゃないかな」
「それなら一山じゃないの」
「ほかにそういう隠語みたいな言葉はないですか」
「まとめ屋はもう出てるの」伊刈が言った。
「いや出てないです」
「宇都宮の大久保とかそうだよね」
「ああ大久保ねえ。居た居た、あいつは悪いやつだわ」金村もおおはしゃぎだった。
「まとめ屋ってなんですか」松島が真顔で尋ねた。
「先生まあ要するにね、不法投棄のコーディネーターというかブローカーというかプランナーというかディレクターというか、まそういうまとめる仕事なんだな」猿山が伊刈の代わりに説明した。
「不法投棄のコーディネーターですか、それも聞いてなかったですよ」
「伊刈さん最高っすね」東京の石川も乗ってきた。
「ねえもしかして伊刈さん、匠の安座間知ってますか」猿山の目が耀いた。
「これですよね」伊刈が安座間のプロポーションを真似るジェスチャーをした。
「そうそうそれですよ」猿山はいよいよ高校生みたいに大喜びだった。
伊刈の参加でこれまで引き出せなかった具体的な不法投棄の要因やプレーヤーが次々と抽出された結果、数理構造モデルは見違えて直感に近いものになった。というより研究をまとめさせるために伊刈が関係図の足らないところを補うようにうまく新しいカテゴリーを誘導したのだ。
「これでやっと発表できる段階まできました。あとちょっと直感的な補正をすれば完成です」
所詮はコンピュータである。最後は人間の直感が優先するのだ。それならば最初から直感で作成したって同じことだ。伊刈のやらせとも知らず松島は研究に見通しが立ってご満悦だった。研究といっても腰が据わったものではなく単年度のパイロット的な事業だった。
伊刈は既に具体的なプレーヤーの名前の入ったシンジケート構造図を完成していた。数理的に作成した関係図はアルゴリズムによる再現性がある。伊刈の頭の中で作った関係図は伊刈にしか作れない。松島に言わせれば証明不可能な構造図は数学的には無意味だ。伊刈に言わせれば数理的な構造図は新しい情報を何も含んでいない。実際、伊刈が完成していたシンジケート図に比べれば、コンピュータが自動生成する関係図はエスパー(超能力者)が透視した暗箱の中の図形みたいに煮え切らないものだった。松島準教授の数理不法投棄構造モデルの研究に飛び入り参加したことで、伊刈は不法投棄問題の構造化をできるのは自分だけだという自信をいっそう深めた。
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