木くず火災

 新年度の初日、公共事業受注の挨拶回りの客で雑踏する部署もある一方で環境部の各課はいたって静かだった。まして環境事務所に挨拶にくる客などいなかった。唯一の変化は新所長の安垣を迎えたことだけだった。伊刈のチームにはなんの異動もなかったので通常のパトロールに出かけた。

 「焦げ臭くないですか」ゴルフ練習場裏の里見工業の現場に立ち入るなり喜多が言った。

 「農家の野焼きですかね」遠鐘が答えた。

 「いや捨て場のほうじゃないか。空が少しもやってるぞ」長嶋が指摘した。

 小さかった穴はパトロールの隙をついて日和見的な活動を続け、いつのまにか五万立方メートルを超える一人前の不法投棄現場になっていた。奥の谷津に向かってせり出した斜面の高さは十五メートルあった。四人が煙の方向に急行すると埋め立てられた廃棄物から出火し斜面の雑草に燃え移っていた。幸い丁寧に斜面が残土で固められていたのでゴミ山全体がすぐに大きく炎上する心配はなさそうだった。近くの谷津に類焼して山火事になってはいけないので消防に通報した。駆け付けた消防車が三十分ほど放水すると火の勢いは止り、斜面の草を焼き尽くしただけで済んだ。この火災は不吉な前触れだった。不法投棄ができなくなり管理者がいなくなった現場のゴミは冬の木枯らしでからからに乾き斜面にクラックが入っていた。そこに春先の西風が吹き込んだためにゴミの中で火種が広がっていたのだ。

 「銀杏建材興業で木くずチップが炎上しているという消防からの通報だぞ」仙道が伊刈の携帯に連絡してきた。

 「こっちを消したばかりなのに」伊刈が顔を曇らせた。「ひどいんですか」

 「わからんが国道が近いからな。先に大室を行かせたから合流してくれ」仙道は環境保全班にも現場調査を命じたようだった。

 「わかりました、すぐに向かいます」伊刈は三人を見た。「今度は銀杏建材興業の木くずが燃えてるらしい」連続火災の予感を感じて三人もしばし無言になった。

 国道からも黒煙が立ち上っているのが見えた。谷津を縫うように走る細い市道に折れて一キロほど進んだ下り坂の途中に銀杏建材興業の解体物置き場があった。沿道にはきれいな白い花を咲かせた山桜の大木が何本もあった。消防の封鎖線の手前で車を停めて騒然とする現場に徒歩で向かった。既に火勢を鎮圧したのか放水を終えて引き上げようとする消防車もあった。一酸化炭素を含む黒煙は水蒸気が主体の白煙に変わっていた。木くずチップの山全体は炎上を免れたようだった。真っ黒に焼けた場内からはゴムが焦げたような悪臭が漂ってきた。銀杏建材興業の山野社長が火事場の真ん中で茫然自失していた。

 「環境事務所です。話を聞かせてくれますか」伊刈が声をかけた。

 「ああ」山野社長は上の空だった。足元には柴犬がおびえたように座っていた。伊刈たちを見ても吼える様子はなかった。番犬が無事だったのはいくらか慰めになるようで、山野社長はしゃがみこんで犬の頭を撫でてからやっとの様子で立ち上がった。

 「出火原因はわかりましたか」

 「消防は焚き火かタバコの不始末じゃねえかって。だけど俺は放火だと思ってる。焚き火なんかしてねえしタバコは吸わねえんだ」

 「自然発火じゃないですか」

 「あれを見てくれよ。あそこから燃えてんだよ。それは消防も認めてんだ」山野社長は無残に焼けた自走式大型破砕機を指差した。ゴム製のベルトコンベヤとクローラ(キャタピラ)が火災の熱で溶けて垂れ下がり一部が燃えだした跡があった。もともとグリーンに塗装された破砕機は煤と放水で真っ黒になっていた。

 「五千万円で買ったばっかなんだよ。まだローンもほとんど払ってねえよ」

 「保険は」

 「ローン代だってやっとなのに保険代なんか払えっかよ。重機屋に聞いたらエンジンが無事だとしても修理代は一千万円以上だろうって。エンジンがだめならオシャカだとよ。そんな金ありゃしねえよ。もう俺はだめだ。仲間の保証人になったときから運が尽きたんだ。これは放火だと絶対思うよ」

 「心当たりがあるんですか」

 「やっかみだよ。仲間が首を括ったのに俺がいい機械を買ったからよ」山野はまたふぬけのようにしゃがみこんだ。

 「場内を測定させてもらっていいですか」先乗りしていた大室が声をかけた。

 「いまさら何を測んだよ」

 「木くずの温度とガス濃度です。また燃え上がるかどうか、それでわかると思います」

 「いっそ全部燃えてくれればよかったよ」

 「それじゃ大変なことになりますよ。これくらいでよかったじゃないですか」

 「これくらいだと。もう倒産するしかねえってのにか」

 「また炎上したら大変だから温度は測ってみましょうよ」伊刈が慰めるように声をかけた。

 「勝手にしろよ」山野社長は犬の頭をなでながら興味なさそうに答えた。

 「どんな様子かな」積み上げられた木くずチップの温度分布を測定し始めた大室に伊刈が声をかけた。

 「まずいですね。木くずの山の斜面にホットスポットがあって盛んに水蒸気が噴出しています。表面温度は八十度以上ですよ。それに一酸化炭素もかなり出てます。中でまだ燃焼してるんです。分噴口のガスを集めたら燃えますよ」

 「それじゃ原因は自然発火なのか」

 「それはわかりません。チップの温度が高い場所と今回出火した場所はかなり離れてます。出火場所が自然発火するにはちょっと高さが足りませんね」

 「高さが関係あるのか」

 「あのへんはせいぜい五メートルくらいですからね。自然発火するには倍くらいの高さが必要です。木くずの重さと断熱効果で発酵熱がこもって発火するんです。破砕機があるあたりが出火場所だとすると、その辺りは木くずの表面だけ燃えてますから消防が言ってたように失火の可能性が高いと思います。社長の言うとおり放火かもしれません。ですがこっちの山にも火種ができてしまっているのでいつ炎上するかわからない状況です」

 「まずいですね」

 「温度上昇が一時的なものか継続的なものか監視する必要があります」

 「わかった。毎日来て温度を測るよ」

 「お願いできますか」

 「ガスは危険じゃないのか」

 「一酸化炭素は危険な濃度ですが噴出ガスを直接吸わなければ拡散してしまいますよ。見たところガス溜まりができる地形でもないし」

 「危険てどの程度なの」

 「噴出口では千PPMを超えてるところがありましたから致死量です。でも噴出量は少ないですから大丈夫ですよ。塩化水素も低濃度ですが出ています。塩ビがチップに混ざってるんでしょうね。二酸化硫黄は検出できませんでした」

 「致死量なんて脅かすなよ」

 「一酸化炭素はタバコを吸う人は毎日吸ってるんです。命が危ないレベルなら僕が最初に退避しますよ」大室は真顔で言うと周辺の杉の葉の採取を始めた。

 「それは何やってるの」

 「念のため植物に付着したガスを検査に回してみますよ。枯れ枝が多いから塩化水素とかかなり出てたんじゃないかと思います。これも貴重なデータですから」大室は既に火災の危険より廃棄物から発生するガスによる植物への影響に興味が移った様子だった。

 伊刈率いる監視班は連日銀杏建材興業の木くずチップの温度測定を実施した。温度はなかなか下がらず、ホットスポットからは蒸気が上がり続けていた。

 「班長、消防車じゃないですか」サイレンの音を聞きつけた長嶋が車を路肩に寄せてサイドウィンドウを下げた。

 「やばいな。とうとう大火災か」

 「行ってみましょう」長嶋は銀杏建材興業に急行した。現場前に消防車はなかった。

 「もっと国道に近いほうです」喜多が南方の空を指差した。爆弾でも落ちたかと思うような黒い巨大な煙柱が立ち昇っていた。

 「すごい煙だ。本格的な火事ですよ」遠鐘が言った。

 「行こう」伊刈の号令で全員がXトレールに再び乗り込んだ。

 国道は大混乱だった。煙のせいで視界が数メートルしかなかった。既に警察と消防が交通整理にあたっていた。迂回路がないため煙の中で一台ずつ通行可能な車線に誘導していた。全面通行止めにしてもいい状況だった。

 「どこが燃えてるんだ?」

 「全然見えませんね」伊刈の問に喜多が応えた。

 「反対側に回りましょう」長嶋が言った。

 「回れるのか?」

 「野球場があるんです。その裏から回り込む路地があります」長嶋の運転で社会人野球チーム「カワコウ・ゴールデンリーブス」が練習に使っている野球場の裏を迂回した。

 「あれが燃えてるんだ」喜多が車内で叫んだ。炎上しているのは銀杏建材興業の何倍もある木くずの大山だった。積み上げたチップの高さは周辺の杉の梢より高く十五メートルは以上ありそうだった。

 「あれはどこ?」伊刈が誰に聞くともなく言った。

 「キング土木だと思います。国道から一本中に入った通りにあるんで国道を走っていると気付かないんです。国道までは五十メートルくらいです」遠鐘が応えた。

 「それで道路まであの煙か」

 「班長、どうします」長嶋が聞いた。

 「とにかく火の勢いが収まるのを待とうか」

 「そうっすね」

 二時間ほど消防が放水を続け、ようやく火勢が衰えて黒煙が白煙に変わった。裏手には規制線がなかったので慎重に現場に近付いてみた。現場周辺の砂利道は放水でどろどろだった。火事場見物の野次馬も引き上げかけており消防はホースの後始末をしていた。心配そうな顔で積み上げられた木くずの山を見上げている男がいた。四十歳くらいで固太りの体つきをしていた。

 「あれがキング土木の社長の王寺っすね」長嶋が言った。「今はまともな商売をやってますがもともと半端者っすよ」

 「ヤクザってこと?」

 「小さな組をやってました。今は解散したようっすね」

 「危ない男なの?」

 「大丈夫でしょう」

 伊刈は一人で王寺に近付いた。「環境事務所のパトロールです」

 「ああそおすか。ご苦労さんです。ごらんの通りやっちゃいましたよ。俺の現場だけは火が出ないと思ったんだけどねえ」王寺はしみじみした口調で言った。

 「王寺さんが積み上げたんですよね」

 「そうだよ」

 「破砕機がないみたいですけどどこかから運んできたんですか」

 「ううん違うんだ。もともと破砕機があったんだけどな、チップにしても買い手がないんでだんだん積みあがっちゃってね、もう満杯で置く場所もないんで破砕機は売ったんだよ。売っといてよかったっていうのかなあ。あれば燃えちまって銀杏んとこみてえに大損だったろうなあ」

 「銀杏建材工業をご存知なんですね」

 「あんまり仲いいってわけじゃねえけど山野はよく知ってますよ」

 「ここはいつからやってたんですか」

 「建設リサイクル法ってやっかいな法律ができたときにな、チップにすれば儲かるって聞いたんで破砕機を買ったんだけどよ、儲かるどころじゃねえよ。全部機械屋の儲けだ」

 「どこに売ろうとしたんですか」

 「北海道の農家に売れるって聞いたんだ。温室のボイラーで炊くんだって。船で苫小牧まで持っていく手はずだったんだけどね、なんだかんだといちゃもんを言われて運賃にもならないんだ。腐るのを待ってたんだけど腐らないんだよ。腐ればバーク堆肥になるんだけどねえ。なんもかも人の話ほどあてにならんもんはないね」

 「バーク堆肥っていうのは木の皮を腐朽菌で発酵させる堆肥ですよね」横から遠鐘が言った。「出火の原因は発酵熱ですね」

 「そうなのかい」王子が遠鐘を見た。

 「積みっ放しにしておくと温度が高くなりすぎますから低く積んでときどき切り返して温度を下げないといけないんです。積みっぱなしだと火事になりますよ」

 「それを知ってりゃあ下げたのになあ」

 「上に登ってみてもいいですか」伊刈が尋ねた。

 「いいよ、もう火は収まったからな」

 チップの山の頂上に立つと海側にも陸側にも遥かな眺望が開けた。チップ全体が熱々の状態で温度を測定するまでもないようだった。

 「また炎上するかな」

 「絶対しますね。中はまだ消えてないみたいですよ」遠鐘が確信ありげに応えた。

 キング土木の現場は数日するとまた炎上し消防が出動する事態になった。消防も警戒していたらしく対応は早かった。

 「いったん火勢が衰えてもまた炎上する。その繰り返しですよ。全部燃えてしまうまでダメですね」現場を見た環境保全班の大室が諦めたように言った。

 「確かにそんな感じだな」伊刈が真顔で大室の説明に応えた。

 「しかも見てください。下の方はチップじゃなく未破砕の木くずですよ。その上にチップを被せたんです。あれじゃ火格子に乗せてるみたいなものですから、いったん火がついたらたちまち燃え広がってしまう可能性が高いですね」

 「土砂を被せたら空気が遮断されて温度が下がるんじゃないですか」

 「土を被せられればの話ですね」

 「埼玉の現場でやったのテレビで見ましたよ」

 「同じようにうまく行きますかね。こっちは火の回りがずっと早そうですよ。いままで見た中でここは一番やばいなあ」

 「そこのところは運に任せるしかないですね」

 伊刈は改めて木くずチップの山をぐるりと一周してみた。最初に炎上したのは風が吹き込む西側斜面だったが、二度目の出火はやや南よりの斜面だった。つまり大室が言うようにチップの底から火が回っているのだ。まだ東側斜面からは炎上していなかった。しかし木くずの山全体に火が回るのは時間の問題かもしれなかった。

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