チョコよりメジナに愛をこめて8<如月>


 空が暗くなり始めている。夕日の残光がわずかに、海と空を分けていた。

「バレンタインなんて、なくてもいいのに」

 ボソっと、呟く。どこまでが義理範囲かという線引きも、胸が痛い。ついでにお財布も痛いし。

 聞いてないと思ったのに、コウくんが振り向いた。

「お前、バレンタインがなくなったら、全国のチョコレート菓子職人が泣くぞ」

「つっこむの、そこ?」

「いや、チョコ売っている小売店も、泣くな」

 糸田がさらにかぶせる。って、そう言う問題ではないと思うけど。

「いいか、ハル。バレンタインつーのは、日本のお菓子業界の期待をだなあ」

「……コウくんは、いつからお菓子業界の人間になったの?」

「なってないけど、ならないとも限らない」

「可能性は、ゼロではないな」

「そもそも、日本のバレンタインがチョコ業界とくっつきすぎなのよ」

「それはそうだが……テグスと針をバレンタインに贈る奴は、日本中でも数少ないだろうな」

 糸田が苦笑いを浮かべた。

 糸田に悪意はなかったとは思う。怒るほどのことは何もないのに。

 でも。なんとなく、カチンときてしまった。

「迷惑なら、もうやめる」

「遥?」

「お返しも大変だもんね。やめよ。そのほうがスッキリする」

「おい、ハル、落ち着け」

 コウくんが、慌てて、口をはさむ。

「ごめん、遥。俺の言い方が悪かった」

 糸田が、頭を下げた。なんとなく顔が青ざめているようにみえた。

「遥が俺の為に、きちんと選んで贈ってくれているのはわかっている。本当にごめん」

「……。」

 私は首を振った。

 すーっと頭に冷静さが戻ってきた。ブチ切れた理由は、糸田本人にはなくて。

 本当は、私自身の中にある。

「私もごめん。ここのところ、みんなにバレンタインがらみでいろいろ言われて、疲れちゃったの。気にしないで」

 最低だな、と思う。よりによって糸田にあたるなんて。

 本当にやめるなら、部活仲間への配給チョコのほうからやめるべきで。世話になっている糸田への贈り物を一番先にやめるのは、どう考えてもおかしい。

「――でも。コウくんみたいに、迷惑になるなら、そう言ってね」

「だーっ。なんでそこで迷惑とかゆー発想が」

「浩二、やめろ。俺が全面的に悪いから」

 糸田は、何か言いたげなコウくんを遮る。

「お前が言いたいことはわかる。それも含めて、俺が悪い」

 糸田の有無を言わさぬ謝罪っぷりに、罪悪感を感じてしまう。

 もともと、私が悪いのだ。たわいもない言葉にキレてしまうのも、糸田への自分の気持ちをはっきりさせる勇気がないから。進みたいのに、進みたくない、そんな矛盾した心がずっとせめぎあっているから。

「遥。頼むから、そんなふうに泣きそうな顔をするなよ……」

 困ったように糸田にそう言われて、私は慌てて笑顔を作る。

「やだな、そんなことないよ」

 糸田はいつだって優しくて、心配性だから。

「……意地っ張りめ」

 コウくんが私にだけ聞こえるように、そう呟いた。


 抜けるような青空だ。

 この前と違って、風もなく春の日差しのようだ。青い海原はどこまでも穏やかだ。

「ン――晴れたねえ」

 私は、大きく伸びをした。

「午後になると風が出てくるらしいから、午前中が勝負だな」

 にこやかに糸田が笑う。

 今日は、世間的にはバレンタインデー。

 正直、糸田は、私と釣りして大丈夫なのだろうかと疑問を抱きつつ、今日が「バレンタイン」という話題を避け、磯へとやってきた。

 メジナ釣りは潮読みから始まる。

 というのも、撒き餌によって寄せた魚をサシエ(針にさした餌)で釣るからだ。

 ウキフカセ釣りといわれるしかけは、小形のうきを使う。撒き餌には集魚用の餌とオキアミを混合し、針にはオキアミを付ける。

 前回は、波が荒れ過ぎていて、浮きの反応がほとんどわからなかったが、今日ならば大丈夫そうだ。

 思うところはいっぱいあるけど、今日はひとりじゃないから、少しは気がまぎれる。

 もっとも、悩みの根源である人物と一緒なのだから、それはそれで複雑ではあるけれど。

 なんにしろ、冬釣りで、気温が暖かいのは一番有難い。暑いのもしんどいけど、寒いのは本当に辛い。

 辛いが、この時期のメジナは、滅茶苦茶美味い。とにかく刺身にしても、焼いても煮ても美味しい。

「うん。来た!」

 実にあっけないほどのタイミングで、糸田にヒットがきた。

 引き上げられた魚は、黒みをおびた青色の魚。間違いなくメジナだ。

「あ、私も」

 ぐいっと浮きが沈む。あたりに合わせてひきあげた。糸田の型より小さいが、立派なメジナだった。

「やった!」

 先日はあれほどわかりにくかった当たりが、今日はよくわかる。

 なんといっても潮が良い。仕掛けがとても良く流れる。こんな日は釣果が期待できる。

 それに。

 糸田が日付を意識していないにしても、バレンタイン当日に、こうして二人で釣りが出来るというのが、嬉しかった。

 ほんの少しだけ、自分が糸田にとって特別な人間になれたような気持ちになれて。

 釣り上げたメジナを絞めて、クーラーボックスにいれると、ワクワクした気持ちでいっぱいになる。

「お刺身するなら、もうすこし大きいのが欲しいな」

 そんなことを呟きながら。潮目にあわせて、糸を垂らす。

「遥は、本当に、釣ると食うが直結だな」

「悪い?」

「いや――俺もそうだし」

 糸田が苦笑しながらそう言った。

「メジナなんて、釣り師じゃなけりゃ、めったに食えないからなあ」

「ふふふ。そうだね」

 私は、ご機嫌で浮きを眺める。こうやって、二人で竿を並べて、時々会話して。


 私、この時間が好きだ。


 クイッと引く竿の感覚に心躍らせながら、私は釣りを満喫した。




 お昼になって。

 糸田の言ったとおり、少し風が出てきた。

「お弁当、食べる?」

「うん。腹減った」

 私は、持ってきたお弁当を取り出す。

「あれ? 今日はサンドイッチか?」

 びっくりしたように、お弁当箱を覗く糸田。

「うん。ちょっとネタ切れしちゃって」

 私は苦笑を浮かべた。

「若さのないシブイ弁当ばっかりで、飽きたでしょ」

「遥の弁当は、毎日でも飽きねえよ」

「え?」

 あまりにもさらっと糸田の口から出た言葉に、ドキリとした。

 言った本人は、私の心臓にダメージを与えたことに気が付かず、サンドイッチに手を伸ばして、かぶりついた。

「うん。サンドイッチも美味いな」

「あ、ありがとう」

 私は少しためらいながら、水筒に手を伸ばす。

「ココア、持ってきたけど、飲む?」

「飲む」

 用意してきたコップに、湯気の立つ暖かなココアを注いで渡した。

「……珍しいな、ココアなんて」

 不思議そうに、糸田が茶色の液体を見つめる。

「サンドイッチだし。寒い時にココアって温まるでしょ?」

 私は、糸田と目を合わせないようにしながらそう言った。

「……確かに、温かいな」

 湯気を顎に当てながら、糸田が微笑む。

 糸田の大きな瞳に見つめられると、ドキドキしてしまい、慌てて自分も食べることに集中する。

「遥、あのさ……」

 糸田が切り出しにくそうに口を開く。

「今日、夕方、水族館に行かないか?」

「水族館?」

「ああ。今日は特別に、夕方から入れるらしいんだ。結構、面白いらしい」

「へぇ。面白そうだね。行きたい!」

 そう言ってから、気が付く。

 今日特別にって、完全にバレンタイン用のイベントで、カップル向けなんじゃないだろうか。

 急にドキドキしてきた。

「なんか、デートみたいだね」

 冗談めかして私がそう言うと。

「……みたいって、なんだよ」

 糸田が小さく呟いた。


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