コイの季節6<晩秋>
「それより、本当にいいのかよ」
「何が?」
なんとなく不機嫌に糸田が口を開く。
「剛に、名前で呼ばせて。ファンが怖いとか言ってただろ」
「うーん。まあ、なんとかなるんじゃない。冷静によく考えたら、私、文化祭で永沢に抱きしめられたのに、なーんも言われなかったから」
私が永沢の王子に刺されたあとの抱擁シーン。軽く手をまわすだけの予定だったのに、本番で永沢は本気で抱擁をしてきて、どうしようかと困ったのだ。
それにもかかわらず、私は別段、なにひとつ嫉妬による嫌がらせは受けていない。つまり私は永沢のファンから見たら、安全パイなのかもしれない。
「名前で呼ばれるの、嫌いじゃないし」
私がそういうと、糸田は無言で釣竿を上げ、寄せ用の餌を付け直す。
「俺がどうこう言う問題じゃないけど」
なんか滅茶苦茶、不機嫌。言葉と裏腹に、すごく怒っている。私が楽天的すぎるってこと?
「問題ないなら別にいいでしょ。ひょっとして、永沢君に妬いているんだったら、糸田だって名前を呼べば」
イラッとしていっきにまくし立てた。
「ようするに、女の子に見えないから、私をちゃん付けしたくないんでしょ」
言ってしまってから、後悔する。
「ごめん。……言い過ぎた」
私も釣竿を上げ、寄せ用の餌を付け直す。そして、そのまま無言で浮きを見つめた。水面はまだ静か。
風もなく、穏やかな晩秋の陽がさして暖かいのに、空気が重苦しい。
「俺、お前を女扱いしなかったこと、ないぞ」
ぼそり、と、糸田が呟く。
「本当にごめん。そうだね。わかってるよ」
私は思わず顔を赤らめた。糸田は不器用でわかりにくいところはあるが、フェミニストだ。困っていると必ず助けてくれる。先日だって、下着姿の私に上着をかけてくれ、背中も貸してくれた。
「自分が女らしくないのを、人のせいにしたかっただけ。忘れて」
私は、もう一度竿をあげる。餌を付け直しながら、自己嫌悪に陥る。永沢のことだって、本気で心配してくれているのに。どうして噛みつくようなことしか私は言えないのだろう。
「胸だって、しっかり見たし」
「は?」
突然、糸田はそう言って、私の胸元に視線を送ってきた。
「穴が開くほどおっぱい見られたのに、お前、気が付かなかったのか?」
自覚はある。ファスナーを手にした糸田が、胸の谷間を凝視していたのは知っている。けど。
「お前、ブラにナイフはさんでただろ。すげえ気になったんだよね、俺」
あの。ちょっと。嘘。糸田、キャラ、変わってない?
「パンツのレースが男心をくすぐった」
糸田のエロトークが止まらない。私は顔から火が出そうだ。
「やめてよ。もう……」
「言っとくけど、俺が剥いたわけじゃないから、スケベとか言うなよ」
「……そうだけど、でも」
確かに、女性として意識してほしいとは思ったが、そういう意味じゃないような……。
「俺だって、健康な男子だぞ」
糸田が私を見ているのがわかったけど、恥ずかしくてそちらを見れない。
「お前、もっと自分に自信を持て。あと、俺のことも少しは警戒しろよ」
糸田は、そう言って笑った。
「二人きりだったら、俺、たぶん押し倒したぞ」
何? その爆弾発言は。
「まあ、なんだ。今回は不可抗力だから仕方ないけど。少しは気を付けないと嫁に行けなくなるぞ」
糸田は優しく微笑む。どこまでが本気かわからない。
「あ、来た」
糸を垂らした水面が泡立つ。鯉がやってきたのだ。
糸田は竿を上げ、エサを練り直し、付け直す。「寄せ」から、本格的な「釣り」モードに変更するのだ。
「こっちもそろそろみたい」
私も、竿を上げる。
いろいろ気にしても仕方がない。それより、鯉釣りである。このために、私は来たのだ。
「鯉ってさあ、あまり食べないよね」
ぼそり、と呟く。私の場合、釣るは、イコール、食べるに、どうしてもつながってしまう。
「俺らは、磯の魚ばっかり釣っているし、スーパーではあまり見ないな」
糸田が言いながら、竿を上げる。
「あーあ。やられた。持ってかれた」
餌をとられたらしい。
「鯉こくは何度か食べたことあるけど、美味しくつくるの、難しいみたいだね」
「泥臭い魚だからな」
ぷかぷかと浮いている浮きが、ツンツンと鯉が来た予感を知らせている。
「来たっ!」
浮きがグィっと水中へと引き込まれた。私はあたりに合わせて、竿を上げる。
「重いっ」
かなりの大きさで、しかも抵抗している。張られた糸がピンと張りつめ、水面に線を描く。私は竿を鯉の動きと反対に倒し、糸を持っていかれないよう運動量がハンパない鯉と力勝負に挑む。リールがないので、糸を持っていかれたら、すぐに切れてしまう。
「デカイ!」
水面に魚影が見えた。四、五十センチあるかも。扱いを間違えると、竿も折れてしまう。
「コナクソっ!」
気合を入れて竿を上げ、糸を寄せた。
ずっしりと重い鯉を岸に寄せると、糸田がたもで引き寄せた鯉をすくってくれた。
「ご協力、感謝」
上げてもらった鯉は、身体をくねらせ、跳ねる。それをしっかり捕まえて、針を外した。
釣れた鯉はビクの中に入れて、水中を泳がせる。
「五十手前ってとこかな」
沼野先生の言った六十センチには及ばないものの、強い引きの感触が手に残っている。めちゃくちゃ楽しい。
「こっちも来た!」
糸田の浮きがグイグイ水中に引かれた。
「持っていかれる!」
糸田が竿を持つ手に力を込めたのが、見ていてわかる。張りつめた糸が描く水面の線が、速く大きい。魚影が見える。
「大きい!」
水面を走る魚影の大きさに、私は自分の竿を上げた。たもを手にして、アシストの準備をする。
「ヨシッ、来たぁ!」
糸田が鯉を引き上げた。大きい。たぶん、六十五は越えている。鯉は体をひねらせ、あがく。
「凄い! こんなのよく上げたねえ」
私は、針を外す糸田に尊敬の視線を送る。リールのない浮き釣りで、これだけの大物を釣り上げるにはテクニックがいる。
「まあね」
糸田は得意げだ。当たり前だ。得意になっていいところなのだから。
「糸田の言ったとおりだね。大物がいる」
「誘ったの、間違いじゃないだろ?」
糸田が笑いかける。先だっての私の質問への本当の答えだと気づく。なんだか、いろいろ見抜かれているなあ。
「うん。ありがとう」
もう一度、竿を入れながら、お礼をしないとね、と私は言った。
「礼は要らないぞ。もうお釣りを出さなきゃならんほど貰ったから」
「何のこと?」
糸田はニヤッと笑った。
「もう一度、エロい話、されたい?」
「バカっ」
私は、顔を真っ赤にして、胸元を隠した。
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