コイの季節3 <晩秋>
子供たちがパニックに陥っている。
水泳部の顧問の先生の言葉が、よみがえった。
『溺れている人間を見ても、むやみに飛び込んではいけない』
幸い、海や川と違い、流れはない。手にしたクーラーボックスの中にはペットボトルが入っている。「みんな、落ち着いて! 泳ごうとしてはだめ。顔を空に向けて、じっとするの!」
大声で子供たちに声をかける。
「由紀子ちゃん、消防に連絡。中野さんは、先生たちを!」
私は動転してしまっている、二人に指示を飛ばす。
「美紅は私と一緒に来て!」
私はクーラーボックスを抱えたまま、対岸へと走る。
「助けて! 泳げないっ!」
ボコボコと水音を立てる子供たち。
「力を抜いて! 人間は浮く! 必ず浮くんだから!」
「頑張って!」
私と美紅は声をかけながら、子供たちが乗っていた船がつけられていたと思われる桟橋にたどり着く。
子供たちは、やっと私たちの声が聞こえたのか、無理やり岸に向かおうとするのを止めたようだ。
至近距離の岸から、子供たちまで十メートルはある。手を伸ばして助けられる距離ではない。
ザバッと、私は手にしていたクーラーボックスをあけた。飲みかけのペットボトルが三本。封の切っていないものが一本転がり落ちる。
「美紅、コレ、子供に投げて!」
封の切ってないペットボトルの中身を捨てながら、私は飲みかけのペットボトルを美紅に渡した。
「取れたら、ラッコみたいにおなかに抱いて!」
私が子供たちに叫ぶのと同時に、美紅が正確にペットボトルを子供に投げていく。
「足が! わぷっ。ムリ! 助けて!」
大きな泡を水面に残しながら、一人の子供の姿が見えなくなった。
何かに足を取られたようだ。
マズイ。まだ、助けは来ない。
ひとは、必ず浮く、とは言ったが、ある一定条件で、人の身体は沈むのだ。 パニック状態の人間は、自然に浮くことは難しい。
「美紅、あと、お願い」
私は、ベストに入れてあった釣り用の折りたたみナイフを取り出し、ジャンパーとベスト、ズボンを脱ぎ捨てた。
「遥?」
美紅の怪訝な声に応えず、私は下着とTシャツだけの姿で、クーラーボックスを肩にかけて水に飛び込んだ。
どこだろう?
だいたいの位置は把握していたが、冷たい水のせいで、思ったより体が動かない。
着衣水泳、やっといて良かったと思う。
うちの水泳部は地区予選も勝てない弱小水泳部だ。開き直った顧問の小林先生は『強い選手じゃなくて、役に立つ水泳部員』というポリシーで、ライフセーバーのイロハを部員に叩き込んでいる。水泳部の練習時間に、着衣水泳がある高校は、そうはないだろう。
夏服であれば、私も着服のまま泳げる。本当は、ズボンも浮き具として使えるのだが、咄嗟にやり方がおもいだせなかった。
自分が溺れている場合は、服を脱いではいけないのだが、人を助けるために飛び込むときは、少しでも水の抵抗がない方が良い。
このあたりだわ。
クーラーボックスを浮かべたまま、私は潜水して目を凝らした。汚いわけではないが、子供が暴れて濁った沼の水は透明度が低い。
ヘラブナが泳いでいるのがちらりと見えたが、そんなことで喜んでもいられなかった。
見つけた。
ほんの数メートル先に、足を水草にからませた人影が見えた。意識がないのか、身体が動いていない。
私は一度、水面に出て息をつぐと、潜水して足元へと近づいた。長く伸びた水草がクルクルと見事に足に絡まっている。
切ったほうが速そう。
持ってきた折りたたみナイフを取り出し、水草を手でつかんでナイフでザックと切り取り、ナイフはたたんでブラにしまった。
ふわりと、子供の身体が自由になる。幸か不幸か、気を失っている。私は、こどもをあおむけになるように体をまわしながら、水面に出ると、放置してあったクーラーボックスを自分に手繰り寄せた。
「大磯っ!」
糸田の声が聞こえた。
気を失った子供を引くように、私はゆっくりと岸へと向かう。
みんなが他の子供たちに声をかけているのが聞こえた。
ダメだ。
走り込みが足らないのかも……。
体にだんだん力が入らなくなってくる。しかし、泳ぎ切れない人間は、飛び込んではいけないのだ。
桟橋までなんとかたどり着くと、子供の身体を前に押し出した。
「水を飲んでいる。早く!」
息を切らしながら、子供の引き上げに手を貸す。子供が引き上げられると、桟橋には糸田だけが残った。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
「大磯、お前も上がれ」
クーラーボックスにのしかかるようにして、私は息を整える。
「他の子は?」
「神山たちが、もう一艘の舟を捜しに行った。大丈夫だ。みんな落ち着いている」
「わかった。」
私は、身体を桟橋へと寄せる。糸田が私の手を掴んでくれた。
自力でのぼろうとしたがかなわず、腰を落としたまま、糸田が私をつりあげるように引きあげる。
引っ張り上げられた私は、そのまま、彼の胸に飛び込むような形になった。
「お前、その格好……」
糸田が焦った声を出したが、水から出ると、身体がずっしりと重くなり、急激に冷えを感じ、それどころではなかった。
秋の冷たい風が容赦なく吹きつけ、濡れたTシャツがべったりと張り付いて寒い。絞ればマシになるかもと、寒さと疲労で鈍った頭で結論づけた私は、Tシャツを脱いだ。
「バ、バカ! 何やってるんだ」
ん? 糸田は、何をあせっているんだろう。
ふわり、と、温かいものが肩に掛けられた。
「人が来る前に、早く着ろ」
それが糸田のダウンのジャンパーだと気が付いた時、私は、自分の格好に気が付いた。
「そうか、水着じゃなかった」
水泳部で着衣水泳をするとき、女子は下着はつけず、中にビキニの水着を着ている。それは、着衣水泳の訓練のひとつに、水中で着衣を脱ぐという工程があるからなのだが、すっかりそのつもりになっていた。
糸田は周りを気にしながら、顔を真っ赤に染めている。
後でこの時を振り返ると、穴に入りたいくらい恥ずかしいのだが、この時の私は疲れと寒さで、頭が空白だった。
糸田の温もりの残るジャンパーの袖に腕を通したが、袖が長すぎて手が思うように出てこない。なんとか、手を出したものの、かじかんだ指では、ファスナーが留められないし、震えで歯がカチカチ鳴った。
「ご、ごめん。……手伝って」
なんとかそう言うと、糸田が大きな手でファスナーを合わせ、そのまま首のあたりまで閉じてくれた。 途中、胸の谷間をしっかり見られたのがわかったけれど、糸田が私を明らかに異性として見ていることを不思議だと感じたくらいで、羞恥心はどこかに凍り付いていた。
「ズボン……この辺に脱いだ」
私がそういうと、糸田が桟橋の手前にあった私の服を取ってきた。
「上着はそのまま俺のを着てろ。消防の人たちが来た」
やってくる人の気配を感じながら、私は座ったままズボンに足を入れた。濡れた足をつっこんで、なんとか体裁を整える。
近くで歓声がおこった。目をやると、子供たちが舟に引き上げられているのが見えた。
「あの、大丈夫ですか?」
レスキュー隊のひとだろう。こちらへやってきて、声をかけてくれた。
「私は、平気です。溺れた子はどうなりました?」
「水を飲んでいましたが、意識が戻りましたよ。念のため、病院に搬送しますが、貴女はどうなさいますか?」
「大丈夫です。少し、寒いですけど」
「あとで詳細を伺うと思いますが、早く体を温めてください」
「はい。ありがとうございます」
心配そうなレスキュー隊員さんに、なんとか笑って答え、私はのろのろと立ち上がった。
「歩けるか?」
「らいじょーぶ。ふ、フアックション」
心配そうな糸田に応えようとして、せいだいにクシャミをする。いかん。寒い。関節が固いし、痛い。
ふらふらしながら、なんとか歩こうとする。
「無理するな。背中にのれよ」
「……い、いいよ。歩ける」
糸田が大きな背を私に向けてくれたが、さすがにそこまで甘えるのは悪い。
「大した距離じゃないし、平気…って?」
断ろうとした私を、糸田は突然抱き上げた。
「ちょっ、ちょっと」
何の予告もなく姫抱きにされ、凍り付いた羞恥心が、いっきに解凍された。
「背中が嫌なら、こうするだけだ」
糸田の大きい瞳が至近距離で、私を見つめている。有無を言わさぬ迫力。凍えた身体の中で、心臓だけが全速力で動き出した。
「ごめん、あの、でも……恥ずかしいから」
私がそういうと、糸田は首を振った。
「真昼間に、野外で下着姿になる女に言われたくない」
なんか、叱られてる気分になる。確かに褒められた行動じゃないけど。
いいじゃないか。水着だと思えば、たいしたことはない。
それに、糸田だって、しっかり見たじゃないか。私が文句を言われる筋はないと思う。
「どうしても嫌なら、救急車で病院へ行け」
「……わかった。じゃあ、おんぶして」
「ああ」と、頷き、糸田は私を降ろしてくれた。
「とりあえず、家に連れていくけど、着替えたら、医者に行けよ。熱が出かかっているみたいだ」
「……うん」
糸田の背中はとても広くて、温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます