波瀾万丈

 地元の公立中学校に進学し都立のトップ校の受験を決め、勉強し始めたのはに三年前。受験を決めた瞬間入塾し、日々懸命に勉強した。

璃彩の父、あつしは受験をする璃彩本人よりも熱心でどうしたらもっと自分の娘により良い勉強環境を提供できるか、より良い勉強法があるのかを自分なりに研究していた。三枝子もその淳の熱心な姿勢に動かされ両親共に璃彩をサポートした。徐々に受験校の過去問も解けるようになりA判定までのぼりつめた。受験まであと二ヶ月、全てが順風満帆に進んでいた。


 しかし不幸は突如訪れた。十一月の終盤に差し掛かったある朝璃彩と三枝子が普段通りに起床しリビングへ向かうといつも新聞を読んでいるはずの淳の姿はなかった。食卓には通常よりも少し大きめのサイズの付箋に「ありがとう」と五文字が綴られているだけだった。


淳は忽然と姿を消したのだった。


 顔を青ざめさせた三枝子は淳の部屋に駆け込んだきり出てこなかった。璃彩は心配し、恐る恐る部屋を覗くと唖然とした。ベット、書籍、ワークデスク以外は綺麗になくなっていた。

三枝子は部屋の真ん中にへたり込んでいた。


「家出よ......」


 三枝子は聞こえないような声で言った。

座り込んだまま振り向いた瞬間のその虚ろな目を今でも忘れたことはない。


「これから二人暮らしよ、りーちゃん。お母さんこれから頑張ってお仕事するから、りーちゃんも頑張ってお勉強して、絶対合格しようね」


 三枝子は覇気のない虚しい声で言った。


「うん」


 璃彩は淳の部屋に恐る恐る踏み入ると後ろからそっと三枝子に抱きついた。三枝子は声を上げて泣き始めた。

しかし璃彩は不思議と冷静を保っており、悲しいという感情がわかなかった。毎日笑顔しか見せなかった母が子の前で涙を流すのは初めてだった。温かい液体が三枝子の頬をつたり、璃彩の腕へ垂れた。璃彩はいつしか三枝子が涙は心が流した透明な血なんだよ、と教えてくれたことをふと思い出す。

 

 時間が重い鎖をひきずるようにして通過した。

室内に響く時計の秒針が不幸という名の悪魔の足音に聞こえ、璃彩の心を鷲掴みにする。その長い沈黙に堪えられなくなった少女は三枝子の身体から自分の身体を離すと淳のベッドに潜り込んだ。

 お父さんの匂いがする。身体を反転させ、壁側に向いた。淳との思い出が鮮明に璃彩の脳裏を駆け巡っていき、泡が弾けるように一つずつ消えていった。


 あれは確か自分がまだ10歳のときだったのだろうか。三枝子が勤め先の会議が長引き、帰りが遅くなった日があった。その日はたまたま璃彩と三枝子は夕食に手作りハンバーグを作る約束をしていた。時間になっても帰宅しない母に待ちくたびれた璃彩は不安と焦りで泣き出してしまった。

それを見つけた淳は璃彩から事情を聞くとすばやくキッチンに立ち、泣いている娘を呼び寄せた。


「じゃあ、お父さんと一緒にハンバーグ作ろうか。」


 笑顔で提案すると璃彩は泣き止みくしゃくしゃな笑顔で、「うん!」と元気よく返した。


 料理の腕はよろしくないが二人でレシピを見ながら一生懸命作った。

約三十分の格闘の末、決して美味しそうとは言えないげんこつハンバーグが三つ出来上がった。ハンバーグの裏表は所々焦げきっており、手で丸めた肉の形は見栄えの良い形には仕上がっていなかった。


「あんまり上手にできなかったね......」


「大丈夫。お父さんと璃彩の手作り特別ハンバーグだから美味しいよ、きっと」


「うん!」


 とびっきりの笑顔で頷くと璃彩は冷蔵庫からソースを取り出し食卓に並べた。ぎこちない形をしているハンバーグからはゆらゆらと湯気が立っていた。

 二人で声を揃えて、いただきますを言うとソースをかけハンバーグを切り、口に運んだ。焦げが原因で苦味が少々気になるが噛み砕くごとに肉の旨味がじゅわっと口内に広がる。


「美味しいね!!」

 璃彩は満面の笑みで淳に言った。淳も優しく微笑み返した。



 気づいたら泣いていた。

薄雲のような寂しさが心の一面に広がり始めた。璃彩は声をあげて泣いた。三枝子は璃彩を宥めるために淳のベッドの縁に腰を掛け頭を撫でた。



 突然淳が姿を消し、家が妙に静かになった。すっかり元気をなくした璃彩に勉強などやる気にならず、受験生の一番の勝負月といわれている12月と1月は全く受験勉強をしなかった。通っていた塾にも行かなくなった。

淳が家出をした次の日から毎日のように友達と出かけた。夜遊びも多くなり悪友が増えていった。補導される回数も多くなり、お酒やタバコにも手を出し始めた。

しかし三枝子は何も言わなかった。


 当然受験には落ち、渋々足立区一番の不良高校「足立第四工業校」に入学することになった。

確か入学式で校長先生は第一声にこんなことを言った。


「残念ながら、この学校の半数の生徒は同じ学年を二回繰り返しています」


 大変な所に来ちゃったなーと思いつつも周りを見回してみると誰一人として話を聞いている者はいなかった。

璃彩の隣のその隣の列では何人かの男子高生が薄い唇の間にタバコを加えながらヤンキー座りをしていた。とりあえずこの高校に入学したからにはやるっきゃないかとぼんやり考えていると後ろからツンツンと突かれた。

 振り向くとそこには真っ赤な口紅をした小柄な少女が立っていた。


「あたし平塚美涼。あんた名前なんていうの?」

「鳩山璃彩だよ、よろしく」


 今このタイミングで聞く事じゃないでしょ、と内心呟きながら短く返した。


 出席番号が前後ということもあり多くの時間を美涼と過ごすことになった。徐々に二人は意気投合し、今では大親友だ。

その後も同じクラスである恵里奈、玲奈、愛華と出会い最高の仲間に出会うことができた。


 だからちっとも後悔してない。環境は最悪だけど私には最高な友達がいる。


 ある意味淳が家出してくれて良かったのかもしれない......。


「あーこのチャイムまじ嫌いだわー」

 

 すっかり気を取り戻した愛華は普段のふてぶてしい態度に戻っていた。

お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り終わると彼女たちはダラダラと弁当を片付けベランダを去ったが、行き先は教室ではなかった。


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